フィンランド人とエストニア人 – 民族とは何か

エストニアでIT化が発展したのは民族が他国から侵略されても民族が存続するためだという話を読んだ。いい話なのだが疑問が残った。調べてみたがよくわからない。

ご存知のようにフィンランド人とエストニア人の言葉はお互いに通じる。つまりエストニア人というのがなくなっても困らないということになる。たとえていえば九州がなくなっても日本人がなくならないというのと同じような話である。

だが、話はそれほど単純でもなさそうだ。そもそも、エストニア人とはどういう人たちかという点がよくわからない。もともとエストニア人という概念は無かったようだ。この地域の支配民族はドイツ人で、バルトドイツというのだそうだ。その地域が、デンマーク、スウェーデン、ロシアなどに占領されてゆく。フィンランド地域も状況は似ている。違いはドイツ人が北上しなかったという点だけだろう。フィンランド人という民族集団は意識されず、カレリア人とかスオミとか呼ばれる人たちがいただけだった。これがスウェーデンに占領されて逆にローカル意識が生まれたという経緯のようだ。今でもスウェーデン語はフィンランドの公用語の1つだという。

この集団はアジア系の言語を話すコーカソイドの人たちだ。都市ではなく農村に住んでいて被支配層として認識されていた。つまり「山の人たち」だったわけである。ところがそのうちに「民族性」というものを身につけていった。

国と民族というのは別の概念だったのだが、そのうちに民族国家という概念ができて、話がややこしくなった。例えばドイツとロシアが領土を分割した際に、ドイツ語を話す人たちをドイツ圏に移住させるということが起こった。そのうちにドイツのアイデンティティを持つ人たちはもっと西の方に移動することになる。ヒトラーがドイツを東方に拡張するという野望を抱き、それの揺り戻しが起きたからだ。

いずれにせよ、これらの民族性がどのように作られているかということを考えてゆくと「土地に住んでいるドイツ語を話せない人」というのがエストニア人だということになってしまう。つまり、他者によって規定されているということだ。

とはいえこれだけで規定されているわけでもない。北に住んでいる人はフィン人と自認しており、ロシア圏に入っている人たちはカレリア人というアイデンティティを持っている。さらにフィンランドに住んでいるカレリア人やエストニアに住んでいるフィン人などもいる。

いっけん、国がなくなっても民族がなくならないようにという説明は正しいように見えるのだが、実際には民族というものが複雑に規定されていて、一筋縄で生成されたりなくなったりするというものでもないのではないかと思われる。

ヨーロッパの状況を見ると自明に見える民族という概念だが、日本に当てはめるとよくわからない点もある。日本地域は中国との関わりから2つに分かれている。早くに中華圏から独立した九州・四国・本州地域と、中華圏に止まった琉球地域だ。しかし、本土と呼ばれる地域には猿田彦信仰が残り、大陸から来た人たちを先導したことになっている。しかしネイティブの言語を持っている人たちは残存せず、かといって先住民族を惨殺したという歴史も残っていない。

言語を見ると明らかに半島との連続性が見られるのだが、語彙は全く異なっている点から、徐々に別の言語が混交したような形跡がある。ヨーロッパでいうと、ウラル系の言語とゲルマン系の言語がいつのまにか新しい言語を形成していましたというような話である。

なぜヨーロッパでは言語の統合が起こらず古い民族集団が温存されたのか、なぜ日本ではこうした違いが溶解してしまったのかというのは、なかなか説明しづらいのではないだろうか。ポイントになりそうなのが、リーダーを作らないという点だ。バルト世界のように、ドイツ人という支配層ができなかったことで、被支配層も形成されなかったのではないだろうかと想像してみた。だが、本当のところはよくわからない。大陸のような他者を持たなかった日本人は、日本人だという意識をあまり持たなかったのだ。

 

 

 

ロードサイド店の荒廃

Macbookが発表された。キーボードに若干変更が見られるだけで目新しさがなかったところから、失望の声も大きかったようだ。「Surfaceの方が感動した」という声があり、逆にSurfaceってそんなにすごいのかと思った。よく分からなかったので、近所のロードサイド店に見に行った。

SurfaceそのものはiPadみたいなものだった。こういうのがいいという人がいるのかと思った。Macはお金持ちの道具なので、タブレットはタブレットで買って、そのほかに3年ごとにパソコンを買い換えてねというような発想で作られている。一方マイクロソフトは、パソコンもタブレットも1台でというコンセプトのようだ。どちらがいいのかは正直分からない。

ここで驚いたのはパソコン売り場の荒廃ぶりだった。売り場には店員があふれているのだが、みんなソフトバンクなどから派遣されているようでインターネット回線を売っている。

一方、店員たちは少ない人員でいろいろなことをやらされているらしく、このぶらぶらしている回線販売員が店員を呼び出す仕組みになっているらしい。だが、店員は呼び出されたことに明らかに腹を立てていた。Surfaceなんかたいしたことはないと言い放ち「では何が売れているのか」と聞くとパソコンなんか売れないという。もはや売る気がないわけだ。最新機種はこんなところに来ませんよ、とのことだ。「パソコンを買う人はアキバに行きます」というのだ。何か売りたいものがあるのかなあと思ったが、とにかくふて腐れていて早く開放されたいようだった。

この姿勢は理解できる点がある。パソコンを電気店で買う人はいないのだろう。Amazonか直販で買うのではないだろうか。店頭に来る客は冷やかしばかりなのだろう。いわゆる「ショーウィンドウ化」だ。

そこで、店側は人員を削減して、インターネット回線を売りつける人たちに貸すことにしたようだ。不動産業態になっているわけである。最近トレンドになっているようだ。松坂屋は銀座から撤退し専門店に店を貸すことにしたというニュースを目にした。「小売はリスクがある」ということで少ないスタッフで定期収入があるほうがよいのだろう。リスクとはすなわち販売員を抱えることを意味する。労働者はリスクなのだろう。

インターネット回線はそんなに売れるのかと思ったのだが、係りの人に聞いてみると、NTTから回線を借りているので違いはないという。あとは値段とサービスなのだが、サービスにもそれほど差がないし、値段もある点に収束している。つまり、基本的に売ることができないわけだ。そこでビンゴ大会をやっていたが、あとできる努力と言えば年寄りをだますことくらいだろう。だますというより必要のない人に光回線を押し付けて、あわよくば付帯サービスも買ってもらうというのが彼らの「努力」になるのだろう。

アパレル店をいくつか見て「ああ、荒れているな」と思った。アウトレット店はまだマシなのだがデパートはかなり荒廃しているようだ。荒廃ぶりが分かるのは立ち姿とおしゃべりだ。

電気はそれ以上に荒廃しているようである。そんな中で店員は「どうせ売れない」と考えており、いやいや土日を潰しているわけだ。

メーカーはそれなりに「おお、これはすごい」といえるものを出しているはずなのだが、それはもはや伝わらない。多分、Macのようにメーカーの発表をインターネットで見るような人でもなければ新製品の良さを発見することはないだろう。つまり、それだけものが売れなくなるということになる。

今回訪れたケーズデンキはそれでもまだましな方だ。ヤマダは本業をあきらめて住宅販売に力を入れている。売り場が荒廃してしまったために誰も寄り付かず、余った売り場に生活雑貨や食品を扱うようになった。多分そのうちにロードサイド店は淘汰されてゆくんだろうなあと思った。

残念だが廃止せざるをえない日本レコード大賞

文春が、Exile系の事務所が一億円を支払ってレコード大賞を買っていたというニュースを伝えている。これを聞いた一部のファンが「三代目は実力でレコード大賞をとった」と抗議する騒ぎになった。このニュースを聞いてTBSは放送をやめるべきだなと思った。次に賞を取るアーティストはいくらで買ったのだろうと噂されることは間違いがないからだ。

レコード大賞が実力でないということはほとんど周知の事実になっている。配信数やCDの売り上げと全くリンクしていないからだ。売り上げにリンクした賞としてはゴールドディスク大賞というものがあるがあまり有名ではないかもしれない。他に音楽性を讃えるということが考えられるがスポーツ新聞社に音楽性が評価できるかは微妙なところだ。

レコード大賞が評価するのは「何が売れたか」ということだ。日本ではすなわちテレビに出たかということが売れたということなので、その指標として意味があるのだろう。

そもそもなぜ領収書の費目がプロモーション費用だったのだろう。LDHから委託されたプロダクションはいろいろな手を使って関係者に働きかけていたということになる。関係者に飲み食いさせても何ら違法性はない。プライベートな賞だからだ。これを営業活動と見なせばLDHの支払いも違法とはいえないし、請け負ったプロダクションも違法とは言えない。

そこでプロモーションの方法が問題になる。どうやらこのプロダクションは反社会勢力との関係が囁かれているようだ。スキャンダルを起こしたタレントを脅かしてプロダクション優位の版権契約を結ばせて復帰させたりしているということもあるということである。

マスコミがプロダクションのドンの名前を決して口に出さないのは、この人に暗い噂が多くあり関わると面倒だからである。ハリーポッターで言うところのボルデモートのようになっている。名前を口に出せない「あの人」扱いされているのだ。

問題なのはLDHではない。そもそも主観的に決まる賞なので、プロモーション費用が介在する余地があるからだ。いわゆるビジネスに箔をつけるための営業費用なわけで、どんな営業をしようとも発注したところは売れればいいことになる。マスコミ各社が加担している以上、このプロモーションが何だったかということは表沙汰にならないだろう。

だが、この一連の「プロモーション」が反社会勢力の資金源になっている可能性は残る。例えていえば、金融機関が反社会勢力を雇って高齢者を騙していた場合に、金融機関はどのような責任を負うかという話になるだろう。

このような可能性が排除できない以上、テレビ局としては利権の温床になっている賞を放置するのは得策ではないだろう。

さらに異常さは文学と比べてみるとよくわかる。芥川賞も純文学作家に箔をつけるというプロモーションのための賞だが、その選考結果はある程度公開されている。主観的なので出版社の買収合戦に発展する可能性もあるのだが、そんなことをしてしまえば文学そのものの価値が急落することは目に見えている。文学を愛しているからこそ苛烈な買収合戦には発展しないのだ。

裏返すと、芸能界は歌というものが持っている芸術性を尊重しようという気持ちはサラサラないことがわかる。ファンの気持ちはお金と露出でなんとでもなると考えていないようだ。

この件がまずいのは誰も騒がないことだろう。視聴率も13%と低く、番組自体が過去の歌謡界を回顧するような内容になっている。賞自体が忘れ去られており、今回の件で今後の受賞者は好奇の対象にしかならないだろう。

ユニクロと女性が活躍できない社会

ユニクロが新しいコマーシャルを始めた。人はなぜ服を着るのかを消費者に尋ねている。ああ終わっているなあと思った。消費者に聞いても提案が得られるわけではないからだ。

多分、ユニクロは「人がなぜ洋服を着るのか」という根本的なところが分からなくなっているのだろう。売り場からはデザインが消えていた。チェックやボーダー柄すら少数派になり、ジーンズのダメージがデザインとして残るくらいだ。カラーバリエーションも消えていた。人気のない色がいつも売れ残っていたのだから当たり前といえば当たり前だ。代わりにユニクロが売り出しているのはストレッチとヒートテックである。つまり、ユニクロはついにデザインというものを放棄してしまったのだ。

人が洋服に機能以外のものを求める理由はいくつかある。例えば差別化やクラスの明示という機能があるが、ユニクロのような大衆服のジャンルには当てはまらない。残るのは「居心地のよさ」の価値だ。デザインというのはこの「居心地のよさ」を作るための一つの要素だと考えられる。ユニクロは「居心地のよさ」がよく分からなかったのだろう。

とはいえ、消費者の側も居心地のよさがよく分かっているとはいえない。消費者の側にあるのは「同調」と「流行」だ。他人と同じ格好をするべきでそれは毎年古びてしまうという強迫観念である。

「日本人はデザインを理解できなかった」などと書きたくなるのだが、これは必ずしも正しくなさそうだ。戦後の日本人は手作りのデザインに目覚め、その中からパリで活躍するデザイナーを輩出した。つまり、日本人が美的に優れていないということはいえないように思える。

ユニクロからデザインが消えた背景にあるのは「効率的・機能的」という価値観と「居心地のよさ」という価値観の対立だろう。前者は男性的な価値観と考えられ、後者は女性的な価値観だと考えられる。

バブルが崩壊して日本人は経済縮小を選択するようになった。ここで切り捨ててきたのが「居心地のよさ」なのだろう。快適に暮らすことを捨て、子育てや教育のように次世代を育てるための予算を切り捨ててきた。

ジェンダーギャップが大きくなっているということが話題になっているのだが、女性的な価値観は今の日本ではハンディでしかない。

だから、女性が男性の中で活躍するためには「女性らしさ」を捨てて見せなければならない。そのロールモデルになっているのが高市早苗や稲田朋美といった人たちである。つまり女性は「政治化に向いていない」という疑念があり、それを捨てるためには敢えて乱暴なことを言わなければならないので。ある。稲田朋美に至っては「これを言っておけば安心だろう」という過去の放言を蒸し返され、国会答弁で泣き出す始末だ。信条の問題というよりは、単にオウムのような存在だったのだろう。

実業でも女性は男性的な働きが求められる。電通の高橋まつりさんの件があれほど注目を集めたのは、人生をすべて企業にささげるべきだという風潮が蔓延しているからだろう。自殺したことで電通の幹部たちは「だから女は使えない」と思ったのではないだろうか。

このような社会で女性が男性並みに活躍し始めたら大変なことになる。次世代を育む役割が放棄され社会が縮小するからだ。

さて、この文章では「次世代を育てる」という役割を女性に押し付けているという反論が出てくるのをひそかに期待している。もちろん、男性が女性的価値観を身につけることは大切だ。これの反証になっているのが女性の男性化である。

女性が「私らしくいたい」のは当たり前のことなのだが、これが持ち物や夫の地位をめぐるマウンティングになることが珍しくない。つまり「居心地のよさ」の競争が行われているわけだ。共感を元にみんなが居心地よく暮らすというのが本来の女性的な価値観なのだから、これは男性的に変質しているということになる。

つまり、女性だからといって女性的な価値観を身に着けているとは限らない。日本はそれほど競争的な価値観が支配する社会なのだということが言えるだろう。

面白いことにアパレル業界はこれを男性的に乗り切ろうとしている。つまり、一生懸命大量生産してコストを削減しようとしている。その結果、売れ残りが増えているそうだ。

私が死にたいといったら…

このところ、匿名と実名ということを考えている。その関連で殺人事件や自殺について調べているうちに、精神疾患にかかると家族が崩壊しかねないということを知った。社会的にも偏見が多く、国や自治体からのサポートもほとんどない。

医療的なことも調べたのだが、誤診だった(アスペルガーと統合失調症の区別が付きにくいという話さえあった)としても、治療法は同じようなものだったりするそうである。つまり、よく分からないけどなんとなく効きそうな薬が投薬されているということだ。で、治癒するかしないかは運次第である。

残された家族は「特に悪いことをしたわけではないのに、突然不幸に見舞われた」という状態に陥るだけでなく、何が正しいのか良く分からない上に何をしていいのか誰も教えてくれないという状態になる。

ここにさまざまな「アドバイス」が入る。怪しげでお金目的の宗教もあるだろうし、まじめだが間違ったアドバイスもある。何が原因なのかよく分からないからさまざまな知識が飛び交うのである。

そこで考えたのだが、もしそういう状態に陥ったら家族に迷惑をかけたくない。すると自殺するのが一番いいことになる。だが、心神耗弱状態に陥っているわけだから計画的な自殺は難しそうである。

となると誰かに殺してもらうという方法が残る。自分の命は自分のものだと仮定すると「勝手に処分してもいい」ことになる。それを誰かに委託するわけだ。

法的な枠組みがないという点は置いておいて、テクニカルな難しさはいくつか残る。

生きたいという本能は残るので激しく抵抗することだろう。そもそも不安神経症(ラベルは何でもいいのだが)などの場合には「生きたい」という本能があるからこそ、脅威に対して敏感になるのだろう。基本的には安楽死と同じなのだが「活発に動き回る」という点が違っている。

次に「死にたい」という意思が正常な判断力に基づくかという証明が難しい。精神科医の証明が必要なのだろうが、そもそもそのようなことを考えるということは不調を意識しているということだから、すでに正常な判断ができなくなっている可能性もあるということになる。

さらに誰を<下手人>にするかという問題がある。家族に頼むとすると心理的なプレッシャーは計り知れないものになるだろう。しかし、最終的には迷惑をこうむるのは家族だから、犯罪者にしないためにもいざとなったときには「殺してもいいよ」という許可を与えておくことには意味もあるような気がする。これがないと家族が「殺人者」になるかもしれない。もてあました結果自ら手をかけるということが無きにしも非ずだからだ。

医師に委託するとしたらお金を払って治療行為の一環として殺してもらうということになる。すると、医師は医師免許を取った時点で合法的な殺人者という役割を担うことになるだろう。これは医師の社会的な地位に関わる。実際には高齢者を「治療しない」という選択を通じて医師の役割の範疇に入りつつある。

これが最後の問題だなあと思うのは「それでも生きていたい」という生の執着を捨てられないことだろう。やはり誰かに殺されるなどということは考えたくもない。そう考えるとどんな状態になっても、家族や社会の迷惑になっても生きていたいなあと思ってしまうのである。ひょっとしたらほんの短い瞬間でも生きてさえいたらいいことがあるのではないかという希望を捨てきれないのだ。

死にたいという言葉の裏には、できれば安寧に生きていたいという切なる願いがあるということが実感される。

日本では安楽死は認められていない。普段は自己責任だといわれるわけだが、命というのは本人の持ち物ではないという考えがどこかにあるのだということになる。

ただ、自殺はいけないことだという表向きの認識の裏で、自殺は犯罪扱いされず、命を使って社会的主張をすることは社会的に容認されている。だから「自爆テロ」型の自殺も起こる。経済的な問題を解決するために自分の命を処分することも行われている。たいてい自殺者の苦悩には無関心で「他人を巻き込んだ」ことだけが非難の対象になる。やはり日本は自己責任社会である。

「自分の命を処理すること」が法律的にどのような位置づけになっているのかを知りたいところではある。意外とあまり整理されていないのかもしれない。

高齢化社会に入ると、いやおうなしにこの問題に巻き込まれる人は増えて行くだろう。「かわいそう」だけでは済まされないのではないだろうか。

<キチガイ>と殺人事件報道

匿名、実名問題について考えている。「一般化」は人権問題だという視点だ。

宇都宮で自衛官が自爆テロ事件を起こした。テレビ局の報道を見ていたが、そもそもの原因が娘さんの統合失調症にあるということを伝えた局は皆無だった。NHKだけがかろうじて精神障害との関係をほのめかしていたが、多分あれだけではよく分からなかったのではないだろうか。

SNSが本人のものかどうか分からないというのが当初の「伝えない理由」だったのだが、その後なし崩し的に報道が始まったので「本人認定」はされたのだろう。だが、それでもこの件が話題にならなかったのは、精神障害が面倒なテーマだからではないだろうか。

加害者側が精神障害を抱えていても同じような問題が起こりえる。船橋と千葉で連続通り魔事件が起きたのを記憶している人も多いだろうが、その後さっぱり取り上げられなくなった。容疑者が知的障害者の療育手帳を保持していたからなのではないだろうか。

門真市でも24歳の高校生が知らない人の家に入り込んで人を殺した。小林裕真容疑者は精神疾患を患っていたとされる。こちらも母親の書いていたブログから、疾患が統合失調症だということが特定されているようだ。

殺人事件の報道の目的は他罰感情を刺激することだと考えられる。つまり「悪いやつ」を置くことでテレビを見ている人たちが善人の側にいられるわけである。しかし、そこに精神障害が介在すると話がややこしくなる。責任能力という問題があるので、視聴者の他罰感情が満たせなくなってしまうのである。

精神障害を伝えてしまうと「差別を助長しかねない」という問題がある。精神障害を抱えていると人殺しをしかねないという誤解が生まれるという懸念だ。だが、これは精神障害者をすべて一つの枠で括っている。「正常」な人が、障害者を一般化する行為なので、今回考えている「差別」の構造があることになる。結局、伝える側に差別感情があるのだ。

実はこれが障害者とその関係者を苦しめることになる。普段の社会では自分が差別主義者だと思われないように、精神障害者を括弧で括って見ないようにしている。さらに、精神障害者は何をしでかすか分からないという漠然とした印象もある。

一人ひとり違った顔があるはずなのだが、一般名詞化して閉じ込めてしまう。そして伝えないことでこの印象が更新されてしまう。

またメディアリテラシのない人たちの情報が野放しになる。小林容疑者の場合は、精神疾患の息子を残して水商売にうつつを抜かしていた冷酷な母親という像が一人歩きしたりしている。多分、身内に障害者が出たらひっそりと社会の片隅で国の保護に頼りながらひっそりと暮らせという認識があるのだろう。

しかし「括弧で括って社会から隠してしまう」という方法は取れなくなりつつある。精神障害の範疇が広がりつつあるからだ。

うつ病は治療薬ができてマーケティングが行われる前はこれほどポピュラーな病気ではなかった。中には重度の人もいるだろうし、本来薬が必要のない人が診断されているケースもあるだろう。このように「箱」を作ってとりあえず薬の飲ませるようなことは精神医療の世界では一般的に行われている。

うつ病が安易に診断されるようになった影響で、それに当てはまらない人たちにも箱ができた。それが統合失調症や不安神経症という病気である。

アメリカではACHDという枠ができた結果、10人に1人の若者が当てはまるのではという統計があるそうだ。これを精神障害に加えるかという点には議論があるが、社会的な不適合に名前をつけてとりあえず薬を与えるという点では同じ範疇だろう。結局のところ脳で何が起きているのかは分からないわけだから、誤診も多いはずだ。

ある日突然家族が何らかの精神障害を抱える。しかし、それはタブーとされているので、家族には知識が得られない。そこで知識を求めて役所に行ったり、互助グループを紹介されたりすることになる。だが、それがうまく機能しているとはいえないのだろう。医師すらよく分からないので「とりあえず名前をつけて薬を飲ませている」のが実情なのである。

宇都宮の自衛官の場合、互助組織を紹介されたものの運営方式について異見の相違があったとのことなのだが、これは会社人を経験してきた人にはよくあることではないだろうか。自治会や互助組織などの運営は、会社員経験者からみると「ゆるく」見えてしまうので、男性の方が孤立しやすい。

この家族の場合、父親は互助組織から孤立し、母親は新興宗教に頼って孤立した結果、適切なサポートが得られなかったという事情があるようだ。結果家族で殺意を向け合うという状態にまでなったが、周囲からサポートが得られず、家庭崩壊が起きた。最終的に裁判に発展した結果、裁判官に恨みを抱き、爆破事件を起こすに至ったわけである。

確かに精神障害を一括して扱うことは差別につながるので慎まなければならない。しかし、まったく伝えないことも孤立を生む。問題は「正解の枠からはみ出さないでやってきたのに、それでもうまく行かなくなってしまう」ことだ。

なおそれでも自分には関係がないと考えている人が大多数なのではないかと思う。だが高齢化社会に入り誰でも認知症のリスクを抱えるようになった。私たちが立っている地面は意外と揺れるものなのだ。

生前退位という言葉はどうして生まれたのか考えてみた

皇后陛下が「生前退位」と言う言葉に違和感を持たれたという新聞記事を読んだ。陛下自身は譲位という言葉を使っていたのだそうだ。だとすると生前退位という言葉は周りの人が作ったことになる。NHKは「生前退位のお気持ちが滲む」などというあいまいな言い方をしていたが、いかにも役所的な言い回しので、どのように発表するのかということを綿密に政府内で話し合ったのだろう。

生前という言葉は死後に対応している。使われる場面は生前相続、生前贈与、生前葬と限られる。法律的には財産を生前に譲るということが想起されたのだろう。だからつい役人的な発想で生前退位とやってしまったのかもしれない。土地などの財産と天皇の地位が一緒になっていることになり、かなり畏れ多い感じではある。

もう一つ、天皇陛下ご本人と回りにいる<愛国者>のみなさんの間にあるずれを考えてみた。ずれの正体は天皇の地位に関する意識の違いにあるように思えた。天皇ご本人は日本の歴史に例のない「象徴天皇」として即位された。その地位を作りために行為を通じて実践を積み重ねてこられた。つまり行為こそが天皇を作るのであって動けなくなってしまうとその意味づけが損なわれるということである。

一方、回りにいる<愛国者>の人たちの意識は違っている。天皇はそこにいればいいだけなのであって、行為でなく存在なのだ。だからこそ摂政を置いて代行させればよいということになる。極端な話、10年ベッドで寝たきりになっても、息さえしていればいいのである。

話がかみ合わないのはこの違いが意識されていないことから来るのだろう。と、同時に最初から「天皇は利用する存在」であり、その地位にいる人たちは自分たちを邪魔しないように何か毒にも薬にもならない行為(ボランティア的な作業と役に立ちそうもない学問)だけをしておいてもらえればいいやなどと思っているのだろう。<愛国者>ほど信頼できない人たちはいないと思う。そもそも、被災地にいる人たちに寄り添うなどという行為は<愛国者>にとってはどうでもいいことなのである。それは国民が<愛国者>をたたえるための対象物に過ぎないからである。

一般国民にいたっては天皇の地位は「時計」でしかないようだ。天皇が退位を望んでいるというニュースを聞いた平成生まれの人たちの感想は「ええ、平成が終わっちゃうの」という感想しか持たなかった。

本来なら天皇陛下が築いてこられた、国民の安寧の象徴としての国という意思を広げることでご負担を軽減しようという議論が出てきてもよさそうなのだが、そのような声は一切出てこない。代わりに出てくるのは政治的日程との兼ね合いとかテクニカルな憲法の議論などの話ばかりである。嘆かわしいとしかいいようがない。

宇都宮市の元自衛官自殺事件 - 抗議の自殺

前回から「匿名・実名」について考えている。匿名・実名の裏にあるのは社会的な発言力の争奪戦という側面があるらしい。実名になると社会的発言力は賭けの対象になるので、人々はできるだけ匿名で相手の発言力を奪いたがる。一度実名を暴き立てた上で一般名詞化することで相手を罰するのだ。

このような複雑な体裁をとるのは自分の社会的価値を担保したいからだ。ということでそれを最初から賭けてしまえば恐れるものはなくなる。

つまり、何かを訴えたい場合、死んでしまえばよいことになる。賭けの対象にする人生はなくなってしまうわけで、後に残るのは自分の主張だけだからだ。浪岡中学校の自殺事件のエントリーで言いたかったのはそのことだった。つまり「死」というのが意味を持っていしまうので、自殺が正当化されてしまうわけだ。それを防ぐためには自殺者を匿名として扱うしかない。

そんなことを考えていたとき、宇都宮市で元自衛官が爆死した。名前を栗原敏勝さんというそうだ。ネットの情報によると同姓同名で宇都宮市に住んでいる人物のブログが発見されたという。これによると、三女が精神疾患を発症したのだが、妻が新興宗教にはまり退職金を使い込んだ。それをなんとかしようとしたが裁判に負けて家も失いそうなのだという。

「炎上を狙っている」というのだが、文章力が拙すぎて何を言っているのかよく分からない。炎上にはそれなりのメカニズムがあり決して個人を助けるためには動かない。炎上が起こるのは民衆の他罰感情が対象物に転移するからだ。

特に気になるのは主語の倒置と視点だ。遺書には「(私は)命をもって償う」と書いているそうなのだが、ブログの内容を見ると「栗原さんの命をもって誰かに償わせる」という行動になっている。この「償わせる」人が裁判所だったのか、新興宗教にはまった妻なのか、精神疾患にかかってしまった娘なのかは分からない。

さらに文章は第三者が客観的に栗原敏勝さんのことを書いたような書き方になっている。「私は娘に殺害されなかった」というのではなく「惨殺からまぬかれ、生き延びた栗原敏勝である」と書いている。このような視点がどのような心理を示しているのかはよくわからない。

日本語は主語がなくても文章がかけてしまうので、こうした倒置がよく起こる。しかし倒置をとかない限り、本当の感情が分からず、従って何をすればよいのかも分からない。

足りないのは内省だ。それは自己反省しろという意味ではなく、自分に起こったことと気持ちを整理して徐々に受け入れてゆくという作業である。これをやらないで社会正義について考え出してしまったために、混乱が起きているわけだ。

多くの人は「けしからん他人」のニュースを見たり、Twitterで炎上に参加したりして他罰感情を満足させる。これは内省能力がつたないからだろう。日本人は内省する訓練を受けていないのだ。しかし、この人に起こったことはキャパを超えていて、娯楽的な他罰行為では処理できなかったようだ。

かといって自分の考えを理路整然と伝えることもできなかった。裁判で負けてしまったのもその影響があるのかもしれない。そもそも裁判が起こるのは正義と正義がぶつかるからなので、戦略的に自分の気持ちを相手に訴えるスキルが必要になってくる。

これを整理するためには普段から何かを書いて気持ちを確認するという作業が必要なのだが、それはなかなか難しい。ただ、爆発物を作るスキルは持っていたようだ。そこで自分で文字通り炎上してしまったわけだ。

ただし、テレビの扱いは慎重だ。多分精神疾患が絡んでおり「面倒くさい」事件だからだろう。単に他人に迷惑をかけた事件で「ネットではいろいろ言われている」ということを紹介して終わりになってしまった。

自分の主張を通すために他人を巻き込むことを「テロ」というとすればこれはテロなのだ。日本では問題を解決するためには他人を巻き込んで死ぬか、匿名のまま炎上させるかの二択しかないという結論になる。

自己主張する技術を教えるのがどれだけ大切なのかということが良く分かる。

なぜ匿名の人を晒そうとするのか

青森の浪岡中学校の生徒が自殺したことに関する記事を書いた。そのときは匿名になっていたのだが、そのあと写真コンテストの件で名前と顔が公開された。この生徒にも人生があったんだなあと思うと、見える景色がまったく違ってしまう。正直、最初から名前が出ていたらああいう記事は書かなかったかもしれない。周辺情報に引っ張られるからだ。

それとは別に沖縄に派遣された警官が現地の人を「土人」呼ばわりしたというニュースに関する記事を書いた。その後TBSのニュースでビデオが放送された。そこに映っていたのは「ある警官」ではなく、無学そうな若い警官だった。まったく印象が変わった。あまり良識というものは期待できそうになく、ある程度躾けないといけないのではないかと思った。同情心はなくなった。役割に陶酔しているような印象を受けたからである。

高橋まつりさんの件は最初から名前が出ていたのでSNSのパーソナルなつぶやきとともに同情が集まった。対する電通は匿名の集団なので、心情としては高橋さんに同情が集まるのだろう。このように実名には強い感情を呼び覚ます効果があるようだ。

このように実名か匿名かということはその後のニュースがどのように流通するかということにある程度影響があるようだ。だが、それがどう働くかということは予想ができない。

この匿名実名が大きな意味を持つこともある。浪岡中学校の件では「被害者+名前」とか「加害者+名前」での検索流入が相次いだ。結構なトラフィックになる。ニュースが流れるたびに「暴いてやりたい」という気持ちが働くようだ。日本人にとっては実名を晒すというのは罰であるという側面があるようだ。加害者にはリンチ感情が働くのだろうことは想像に難くない。被害者の名前を知ってどうするのかというのはよく分からない。画されているから暴きたいという本能的な動機もあるのかもしれない。

しかし別の場所で考察したように、目の前にいる他人を叩く場合には対象物化したほうが都合がよいはずだ。対象物化とは目の前にいる他人を固有の名前を持たない一般名詞として扱うということで、匿名化してしまうということである。この場合は叩く人たちは集団として行動している。で、あればどうしていったん実名化したがるのか。

この2つの状況を見てしばらく混乱していたのだが、いったん匿名の人を実名化することによって、それをさらに一般化しなおすということが罰になっているという結論に至った。浪岡中学校の件で説明すると、加害者の名前を暴き出したあとで、再び「加害者」というレッテルを貼ることによって一般化するわけである。そこで意思決定に関するすべての権利を剥奪することを罰だと考えているのではないだろうか。

加害者が匿名だとその罰を下すことができないので実名化が必要なわけである。

逆に言うと叩かれていた人に別の属性があったのだということを知らしめることで、対象物化を防ぐこともできるということになるのかもしれない。

土人問題はなぜ批判されるべきなのか

沖縄に大阪から派遣されている警察官が反対運動を展開する人たちに「土人」と発言し訓戒処分を受けたそうだ。土人呼ばわりされた人が芥川賞作家だったので問題になったのだが、もし一般人が言われても問題にはならなかったかもしれない。

これについて「警察官は悪くない」という声がある。しかし、やはり大きな問題があると思う。いったい何が問題なのだろうか。

土人というのは現地の人を対象物化する言葉だ。外国人であっても同胞であっても人は特定の個人として扱われる。ところが特定の個人として扱われない人たちがいる。「そこの女」とか「障害者」などである。このように「一般名詞化」されることを、対象物化と呼びたい。

なぜ対象物化が起こるだろうか。普段のあなたは人を殴らない。人を殴ると罪悪感を覚えるだろう。ではそれが人ではなく何か一般名詞だったとしたらどうだろうか。それほど罪悪感を覚えないだろう。例えば「イヌ」を叩いても罪悪感は覚えないが、自分が買っているポチは叩きたくない。イヌは一般名詞だが、ポチは固有名詞だ。

あの人はチョーセンジンだからというのは差別なのだが、それはやられて見ないとわからないかもしれない。ある人は病気で「ショーガイシャ」になるかもしれないし、日本人も外国に出れば「ジャップ」と呼ばれることもある。中には自分を一般名詞化してしまう場合もある。人は他者を差別するだけではなく、自分の中にある差別にも苦しむのである。

だからこれは人権問題であり、鶴保大臣や松井知事は明確に間違っている。鶴保さんは沖縄の振興策を担っているのだからすぐさま辞任すべきだろう。多分鶴保さんは沖縄を対象物化しており、そのことに気が付いてすらいない。

この警官は「シナ」とか「土人」に屈辱の意味があるとは思わなかったと言っているのだが、本人の意識はあまり問題ではなさそうだ。

もともとシナとか土人という言葉は日本の植民地政策から出てきた言葉である。日本人は最初に白人に接触し劣等感を覚えた。その劣等感を裏返しにして「自分たちはあいつらよりマシなのだ」という意識を覚えるようになる。自分たちは白人にはなれないが、そのように振舞うことはできると思ったのである。

「上を見るな。下見て暮らせ。」という言葉がある。

この言葉が再び注目を浴びるようになったのはいつなのだろうか。それは民主党が政権をとったころからだ。そこで楽園を追われた自民党の人たちは右翼系雑誌で勇ましい発言を繰り返すようになった。そのころ作られたのが自民党の憲法草案だ。

自民党が政権から転落したのは統治の失敗によるものなのだが、それが認められなかったので「日本は中国から狙われており、民主党はその手先である」という物語に依存するようになった。一方で「間違った判断をした国民には人権など認めるべきではない」という意識も生まれた。今でも自民党の一部には国民の人権を認めず、党が憲法で国民を善導すべきだという歪んだ意識が残っている。

強烈な支配感情の裏にあるのは圧倒的な無力感だ。庶民感情は未来に発展のチャンスもないという状態には耐えられない。そこで「被支配者ではなく支配者なのだ」という幻想に頼ることになる。

これを積極的に利用しているのが現在の安部政権だ。安部政権は共産党勢力や民進党などを「被差別層の反乱」という幻想を植え付けることによって、人々の不満を逸らしている。閉鎖されて経済成長もなかった江戸幕府が被差別層を差別することで農民を支配していたのに似ている。だから鶴保大臣は土人発言を非難できなかったのである。

このように考えをめぐらせると「大阪の警官」が「土人」発言をしたことには意味がある。実は警官は支配者(例えば松井知事のような)からみると単なるコマに過ぎない。この人は大阪の地元では近所に尊敬される「おまわりさん」だったかもしれないし、もしかしたら「鈴木さん」や「田中さん」と認識されていたかもしれない。だが、沖縄では単なる対象物であり、権力の道具に過ぎない。

つまり、実は対象物化されているのは土人発言をした方なのである。何の意義も感じられず地元民を蹂躙する。そこで罪悪感が生まれるのでその人たちを対象物化して凌ぐわけである。

民族紛争は対象物化によっておきている。例えばユーゴスラビアのイスラム教徒とキリスト教徒は共存していた。しかし、いったん、一般名詞化するともはやお互いには一緒の場所に住めなくなった。ルワンダはさらに悲惨だ。もともとなかった民族がでっち上げられ、ラジオで扇動された人たちが100万人単位で殺し合いを行った。民族をでっち上げたのは支配層の白人である。

いったん沖縄が対象物化されると、日本は沖縄に基地をおく正当性を失う。植民地は現在の世界では許容されていないし、日本でない場所に基地をおいて日本の安全保障を担保するわけにはいかない。この意味で対立構造を作ることは「得策ではない」だろう。

警官を主語にすると、土人発言がいけないのは、警官自身が対象物化されているからだということになる。実際には多くの日本人が対象物化されてしまっている。だからこそネトウヨと呼ばれる意識の人たちが増えるわけである。自分たちが単なる一般名詞だとは思いたくないので、別の一般名詞を捏造するのだ。

しかし、これは問題のほんのいったんに過ぎない。実は放置している側の方に大きな問題がある。政治家は統治の道具として国民を対象物化している。積極的に利用していることを知っているからこそ「人権問題だ」といわないのだ。

しかし、もし彼らが統治者として国民を搾取しようという気概や覚悟があれば表向きはこのような発言を許さなかったはずである。差別は決してないことにしなければならない。つまり、鶴保大臣や松井知事に代表される統治者の人たちにはそこまでの覚悟も意識もないということになる。

そもそも人権問題であり、沖縄と日本を分断する発言であるということが問題なのだが、その裏には対象物化という問題がありそうだ。さらにその奥には統治の失敗がある。かといってそれをカバーして統治を磐石にしようという気概も覚悟もない。単に差別意識にフリーライドしているだけだ。

どのレベルでこの発言とその処理がいけないものだったのかという判断をするのかは読み手のみなさんにお任せしたい。