日本とアメリカのヒーローは何が違うのか

QUORAに「アメリカのヒーローは最初から力を持っているのに、日本のヒーローは普通の人が道具によって強化されるのはなぜか」という疑問があった。これは日本の村落性を考える上で面白い質問だなと思った。QUORAには途中まで書いたのだが、こちらでは少しそのあとを補強したい。なおQUORA版には「日本人の匿名性について知りたい」というので追加したのだが、まじめに分析しだすと膨大な資料をもとに網羅的な研究が必要になりそうだ。


アメリカのヒーローが能力を持っているというのは正しいと思うのだが、日本の場合は少し見方が違うように思える。

日本では「いっけん普通の人」がヒーローになるというのは合意できるのだが、実は普通の人たちではない。例えば仮面ライダーは「ただ装具をつけたから変身できる」というわけではなく、仮面ライダーになれる人(適合者)とそうでない人がいる。例えば、初代のガンダムも適合者が能力を開発する話だった。また、戦隊もの前作のキュウレンジャーもキュウタマに選ばれなければならない。実は日本型のヒーローには「潜在的な能力があるが顕現していない」という特性がある。

こうした特性は少年ジャンプなどにも見られる人気の類型で、ジャンプはこれを「成長」と呼んでいる。ジャンプは戦いと成長の話がメインで「能力を持っているがそれが発揮できていない」という物語が人気なのだ。こうした埋もれた個人が社会的接触によって磨かれて最終的に勝利するという類型が多いのだといえる。

アメリカにも「成長」はあるが日本ほど類型的なわけではない。

例えば、スーパーマンは異星人の能力が必ずしも社会に受け入れられないというラインがある。これを受け入れさせるためには責任を引き受けなければならない。最初に能力がありこれを社会的に折り合いをつけて行くというコースは日本とは真逆である。これは移民国家というアメリカなりの建国の歴史が元型になっているのかもしれない。

バットマンにはそもそも能力がなく、表向きの「成功したビジネスマン」という像と裏の「悪を成敗したい」という欲求が分離している。ブルース・ウェインはこの異なる目標を折り合わせる必要がある。どちらかといえば内面的な統合がテーマになっている。

これが極端に表現されたのがスターウォーズだ。旧六部作は個人の成長物語に見えるが、実際には「良いものと悪いもの」という分離をどう統合させるかという話である。ユングの理論が元になっているとも言われる。

これらの物語の共通点は分離と統合だ。失われた「完全で統合された状態」があり、そこに回帰してゆくという物語は日本ではあまり見られない。しかし、これらの物語は日本でも人気があるのである程度の汎用性があるものと思われる。

日本の場合にはまず所与の村落がありそこに差別化されていない人たちがいる。この差別化されていない「普通の」個人が社会的な接触を経て能力を開発し、最終的に環境と社会を超克するというように話が展開する。これが戦いを通じた「勝利」という形で表現される。

一方、アメリカはいろいろな個性があり最初から社会から差別化されている。しかし社会的同化欲求があり、最終的には社会に自分なりの形での統合を目指す。この同化欲求が「失われてはいるがあるべき形」という形で認識されるのだろうと思う。スターウォーズの元になったとされるユングはドイツの心理学者なので、キリスト教の文化には統合欲求という日本とは逆の感覚があるのかもしれない。

ここから、日本とアメリカにはコミュニティ対する感覚の違いがあるのではないかと思う。日本は環境は所与のものだと考えており、そこからどう抜け出すかとうことが「成長」と見なされる。しかし、そのコミュニティは明確な形を持っているので、成長をしたからといってもともとのコミュニテイが失われるという不安はない。しかし、西洋は個人が最初から環境から分離しており、その不安とどう折り合ってゆくかということが重要なテーマとして語られるということになる。


この後、リクエストを受けて書いた話には「匿名性」という言葉が出てくる。実は最近の日本のヒーローものからは抜け落ちている観点だということが分かる。だが、経緯を研究しだすと話が複雑になるので分析するには手に余る。

この話をブログに転載しようと考えたのは、これがネトウヨ分析に使えそうだからだ。いわゆる左派リベラルは古びた日本からの脱却を目指すという意味では成長神話を生きている。これは裏返せば土台になっている日本という環境を知っていてなおかつそれが崩れないものだという確信があるということになる。

ところがネトウヨと言われる人たちにはこの確信がない。つまり日本が崩れそうだとい危機感があるということだ。だからこそ元いた場所に回帰しようとするのだが、その元いた場所を正確に記述できない。彼らが語る古き良き日本とは、日本書紀などの記述をもとに国家が国民を戦争に動員するためにでっち上げた神話か、恵方巻き程度の歴史しかないマーケティングによって作られた伝統である。

西洋人は成長のゴールを「まだ見たことはないが、かつてあったと知っていた統合された状態だ」と置いているのだが、ネトウヨの人たちはそれが何者かによって壊されたと感じている。正確に記述できないのに壊されたと感じているので、実はネトウヨの人たちは理想の形を作り上げることができない。だから「外国や反日分子が邪魔をしている」と騒ぎだすのだということになる。

だが、こうしたマインドセットを持っている人は増えているようだ。日本が分離型の成長を追い求めてきた結果、多くの人が戻るべき場所を見失い不安になっているということなのかもしれない。これはこれまで見てきた村落の崩壊とは少し様子が違っている。

例えば相撲協会は他の興行やスポーツと競争する過程で、出自に対する自己認識を変えてきたという歴史があった。もともとは神事を真似た興行だったのだが、公益性のある伝統行事だと言い続けていたために、それを信じ込む人が出てきたということになる。中には伝統的な神道ではなく新興宗教に傾倒する人もいるようだ。いずれにせよこれは経年劣化であると分析できる。道のりは苦しいかもしれないが、単なる経年劣化なのだから、現状に合わせて変わるか先祖帰りするかという二者択一ができる。

だがネトウヨの場合は、元の場所が何であったのかが分からなくなっているのだから、変わることもできなければ、元いた場所に戻ることもできない。その意味ではより深刻な状態にあると言える。日本はもともとアジアのどこにでもある優れた点もあれば劣った点もあった社会だったに違いない。だが、ネトウヨにとってそれは受け入れがたい自己認識なのではないだろうか。

その意味ではネトウヨの総本山である安倍首相は歴史を改竄したり資料を隠したりするという野蛮な行いに手を染めるべきではなかった。元いた場所が分からないから頭の中で仮説をでっち上げているのだろうが現実と合致しない。だから、現実の方をあわせようとしているということになる。しかし、そんなことを繰り返していても状況は悪くなるばかりだ。外から誰かが破綻させない限り政府はますますコントロールを失い漂流することになるだろう。

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なぜ携帯ゲーム会社は儲かり、自民党は若年層の支持を集め続けるのか

最近ジャンクのデジカメにはまっている。今手元にカメラが9つある。一眼レフカメラ2台、使えるデジカメ3台、使えるが多分使わないもの2台、使ええないデジカメが2台だ。カメラは1つあればよいのだが、それでもまだ探していて「あれ、これは病気なのかな」と思った。

最初に思ったのは買い物は楽しいということだ。楽しいのは買ってからではなく買うまでの過程である。あれとあれを組み合わせたらこんなこともできるのかななどと想像するのが楽しいのだ。これがジャンクカメラあさりにはまった理由になっているのだが、同じことはいろいろな買い物に当てはまると思う。組み合わせによって変化する洋服などはその一例だろう。

ジャンクカメラを趣味としてコレクションしているといえばよいという気持ちもあるのだが、どうにも後ろ暗さを感じる。明らかな浪費だからだ。フィギュアやカードなどのコレクションにはまったことはなかったのだが、この人たちの気持ちがちょっとわかる気がした。結婚してもやめられず家族に反対される人がいる。理性的に処理すればいいのになどと思っていたのだが、多分周りから指摘されている本人にも後ろ暗さがあり、捨てなさいなどといわれると反発してしまうのかもしれない。

もともと「デジカメが買えない」という状況があった。持っていたカメラの写真が徐々に白くなって行き「これはやばい」ということになっても新しいものを買う踏ん切りがつかない。ようやく一眼レフカメラを買ったのだが外に持ち出して壊してしまった。こうした一連の危機感が熱を生み出したというのが今回のカメラ熱のそもそもの始まりである。つまり、カメラがなくなるのに買えないという気持ちを数年間持っていたのだ。

ある日、ハードオフでジャンクセクションを見つけた。ここで探すと意外と使い物になるカメラが安く見つかる。例えば、500円でカメラを探してメディアをヤフオクで500円で落とすと1,000円で買えてしまう。「意外と安く買えるんだ」と気がついた。

ここで焦燥感がソリューションと結びついた。

しかしこれだけでは病気にならなかったと思う。ヤフオクにしろハードオフにしろ動作するカメラがそのまま売られているというのは稀で検索して充電池の形を調べたりしなければならない。実は無関係に見えるものが一組になっている。これが病気に火をつけたようだ。中毒性のキモは探索行動にあるのだ。

探索行動には「能動的」であり「時間がかかる」という特徴がある。つまり、積極的に調べ物をすることで消費行動に参加しているという意識が生まれる。これによってコミットメントが強まるのだろう。カメラのように組み合わせによる認識ではなくても、例えばフィギュアなどの場合、キャラクターの背景を調べるなかで「ああ楽しいな」という感覚が味わえるのかもしれない。

こうした探索はカメラ本来のものとは異なる。例えばカメラの歴史を調べるために古いカメラを網羅的に集めるというようなことではないし、目的に合わせてカメラを選ぶという合理的な行動でもない。人間はこのように合理的でない行動で「遊ぶ」という習性がある。この習性が何かの役に立っているのか、あるいはそうでないのかはわからない。

もう一つ思い当たることがある。最近ダイエットをしている。つねに飢餓状態にあるのだが、それに気がつかない。

ということでこの状態が「特異なんだな」と気がついたのは、前提が崩れたからである。

第一にダイエットがプラトー(これ以上体重が落ちない時期)に入ったので食事の制限をやめた。お腹がすかなくなって二つの変化があった。朝起きる時間が遅くなった。そして、カメラに対する病的な探索意欲が減退した。お腹が空くことでいつも覚醒状態にあり何かを探しているというモードに入るのだが、これが減退するのである。

さらに散策行動も無意味かもしれないと思う出来事があった。別のハードオフに出かけた時にジャンクのカゴに充電器とカメラがセットになっているものを見つけたのだ。別のハードオフに遠征に出かけるほど検索熱が上がっていたのだが、実際には別に検索しなくても大丈夫なんだと思った瞬間に熱がかなり冷めた。

最初にある危機感と飢餓があり、その危機感から潜在的に検索モードになっている。そこに正解が提示される。だが、その正解は積極的に問題を解かないとわからない仕組みになっている。すると人は一種の興奮を覚えて探索行動が中毒性を帯びるのだろうと思った。あるいは「お腹が空いている」とか「社会認知が欲しい」という行動が何か別のものに転移しているだけなのかもしれない。

探索行動を喚起するマーケティングは実は増えているのではないかと思う。こうしたマーケティングは「ティザー」広告として知られている。焦らし広告と訳されるようだが、映画の断片をチラ見せして本編を見たくなるように仕向けるというような使い方がされる。エンターティンメント業界では古くから行われている手法で、シリーズもののゲームなどでも時々見かける。ゲームは探索行動そのものが消費の対象になっているので、フランチャイズの古いものを解き終わると新しいものが欲しくなるのだろう。

携帯ゲームはこの特性をうまく利用している。お金もなく時間もない人に「スマホのなかだけでは自由にできますよ」という正解を提示して「これくらいだったら使えるかな」という料金を課金するのだ。これを理性的にストップさせるのは多分難しいのではないだろうか。

逆に「消費者のためにすべてを解決してあげますよ」といって情報量を増やすのはマーケティング上必ずしも好ましくないかもしれない。日用品のリピート買いでは役に立ちそうな手法ではあるが、危機感に根拠があるマーケティングの場合逆効果になってしまうだろう。

この飢餓感を最もうまく利用しているのは自民党かもしれない。

非正規に転落しそうな末端労働者が自民党を応援するのはなぜかということが問題になるのだが、これは「社会認知のなさ」が逆に危機感を煽っていると考えるとうまく説明できる。政権常に飢餓状態を作っておけば政権が盤石になる「正解」で、ある意味生かさず殺さずで農民を管理していた江戸幕府と同じような状態なのだろう。合理的な政策選択が歪められるという意味では社会のバグなのだが、意外と自民党が支持される理由はこんなところにあるのではないだろうか。

自分のデジカメ熱を考えると、こうした飢餓感を理性的に制御することはほぼ不可能だ。あれおかしいぞと思ってもおさまらず、客観的に「ああ、これはブログに書けるな」と考えてもおさまらず、さらに書いてみても明日ハードオフに行けばまたジャンクのカゴを漁ってしまうかもしれないと思う。その意味では若者の自民党支持も容易におさまらないのかもしれない。

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憲法とハードコーディング

どこにでも頭が悪い人というのはいるものだが、そういう人に「あなた頭が悪いですね」と言ってはいけない。なぜならば感情的になってあとにひかなくなってしまうからだ。

しかし、こと憲法の議論においては頭が悪い人が多いという印象がある。特に、安倍晋三という人は頭が悪いと思う。

ここでいう頭の悪さとはなにか。それは「あれ何か変だぞ」と気づく力のなさである。言語化するのに時間がかかるのは構わないのだが、そもそも、最初の「あれ」がないと途方もなく長い時間を無駄に過ごすことになる。

憲法の問題は頭が悪い人が始めたせいで、明後日の方向に向かっている。それは政治リソースを食い尽くし、その質を悪化させる。

もっともおかしな議論が自衛隊を憲法に明記するという提案である。もともと日本の憲法は成立時に軍隊をあり方が変化している。だから、自衛隊を明記しただけでは不具合はなくならない。根本のアルゴリズムが間違っているからである。一方で、下手なプログラマほどアルゴリズムを無視して目につく問題点をプログラムで直接操作したがる。こういう方法を「ハードコーディング」という。アルゴリズムが間違っている上に例外処理が書き込まれるので、場合によってはひどいバグを引き起こすことになる。

しかし、下手なプログラマに「ハードコーディングはダメ」というと感情的にキレられることがある。ハードコーディングがまずいということが直感的に理解できないのだ。そういう人ほどめちゃくちゃな議論で人を困らせてなんとか自説を押し通そうとする。

こういう頭の悪い人が議論の起点になっているので、反対する方もなんだかおかしなことをいっている。野党は憲法を「権力者を縛るものだ」と言っている。確かに気持ちはよいだろうが、それは必ずしも正しいものの見方とは言えない。権力者と国民を別のものとしておいているからだ。日本は民主主義国家なので「権力者」という階層の人はいない。もしいるとしたら、その人たちは「自分は決して権力者にはなれない」と思っていることになる。

民主国家における憲法は「国と国民の間の契約」と言った方が正確だ。全てを国民全体の話し合いで決めることができればよいのだが、それはできない。だから誰かに委託する。委託するときに「このような手続きでこれとこれを任せるからあとはよろしくね」というのである。権限を委託された人たちのことを権力者と言っている。そして契約に基づく権限なので説明責任が生じるし、結果責任も取らなくてはならない。憲法は契約書であると同時に手順も決めてる。だから、憲法はプログラミングにも似ているのである。手順や付与する権限に設計上の問題があると、運用者が苦労することになる。

今までも自衛隊の問題では政府は運用に苦労してきた。日本は軍事力を持たないという建前があり、かといってアメリカが全部面倒見切れないという現実もあった。またアメリカは同盟国だという建前になっているが実は日本が軍事的に暴発するのを抑える役割がある。このために憲法第9条には問題が多く、それを解釈で乗り切ってきた。しかし、昨今の議論を見ているとこれが限界だろう。あまりにも運用に頼りすぎてきたために正当なジャッジができないので司法は国防に関する諸問題を無視し続けている。

だから、不具合に対処しようというのが正しい姿勢なのだが、なかなかそうはいかない。なぜならば起点が間違っているからだ。安倍首相は「日本がアメリカの仲間になって戦える国にしたい」と考えているようだ。そうすれば「今度は戦争に勝てる」からである。こういう人に向かって「国際情勢が変化しているので柔軟に対応できるようにしましょう」などと言っても無駄である。物事の複雑さが扱えないので、単純化して理解してしまう。だから議論が成り立たない。

その意味では護憲派は安倍首相に感謝しなければならない。安倍晋三が首相をしている限り憲法第9条のまともな議論はできないだろう。しかし、それがよいことなのかもわからない。護憲派はいつまでも国際情勢を無視したままで思考停止していられる。だから彼らは「権力者を縛るものだから権力者は変える提案をしてはダメ」などと言って平気な顔をしていられるのだ。

では、安倍晋三が首相の座を降りれば憲法議論は前に進むのだろうか。とてもそうとは思えない。それは現在の国会議論が堕落しているからである。堕落というと批判しているように聞こえるかもしれない。確かに不愉快な現実だが、決してどちらか一方を批判しているわけではない。

例としてあげられるのが労働法制の議論である。日本の生産性は低いのでこれをなんとかしなければならないという問題意識は誰でも持っている。しかしながら「個人が努力したところでどうしようもない」という諦めもある。すると、自分が頑張ってもどうしようもないのだから、せめて得点を得ようという気分の人が出てくる。

現在の労働法制の議論は経団連と連合の代理戦争になっている。経団連は製品やサービスによって経済をリードすることができないということがわかっているので、人件費を下げて生き残ることしか考えられなくなった。そこで生まれたのが派遣社員、残業代がつかない正社員、福祉給付をしなくても構わない外国人労働者への欲求だ。経団連は昔からこれを繰り返し訴えている。一方で、連合の方も「経団連の要求を排除できたら自分たちの得点だ」というマインドセットがある。

政治はこの問題を打開できないので「飴と鞭」を使って取引をしようとしている。野党が目指すのは飴だけを取り上げて鞭を回避したい。これができれば野党の勝ちで、飴が手に入れられなくても鞭を取り上げることができなければまずまずと考えているのだろう。裁量労働制は鞭にあたる。だから8本の法案のうち裁量労働制だけを取り下げろと言っているのである。

この「取引マインド」は政治全体を支配しているようだ。もはや全体設計ができなくなった人たちは意欲を失い取引を求めるようになる。例えば、維新の党は「教育の無償化」という取引材料を求めている。しかし、財源が確保できそうにないので、自民とはこれを「努力目標」にしたいという。

もし、自民党の人たちが憲法は契約であるということを正しく理解していれば「努力目標」などという発想は生まれなかったはずだ。なぜならば相互契約において一方が努力目標になればもう一方も努力目標になってしまう。つまり、国民も普段は権力を国会議員に委託しているが嫌になったら必ずしも従わなくてもよいということになってしまうからである。これでは憲法どころか法律すら守る必要はなくなる。これを法律の専門家がどう評価するかはわからないが、直感的におかしなことになってしまうのである。

そもそも「とにかく憲法を変えたい」という人が始めた議論なので、議論の目的が極めて曖昧である。そこで「憲法は美しい国柄を規定する」とか「権力者を縛る」とか「努力目標」だとか「議席を得るためのバラマキの根拠だ」などといったさまざまな倒錯した議論が起こるのである。

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日本人論と反日は実は同じもの

先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。

驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。

日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。

昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。

これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。

日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。

  • 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
  • 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
  • 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国

しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。

しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。

いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。

しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。

安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。

安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。

彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。

自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。

さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。

一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。

戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。

日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。

恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。

では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。

これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。

つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。

振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。

この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。

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左右対立は実はイデオロギーの対立ではないかもしれない

本日は政治の左右対立について考える。この対立はイデオロギー対立のように見えるのだが、実は年代対立ではないかというお話である。

この文章は、最初に対立が年齢対立であるということを示した上で、なぜそうなったかを書き、最終的に日本人のものの見方について短く考える。全部で3000文字程度あるので、途中で読むのをやめても一向に構わない。

先日来「自衛隊を国軍にしてもよいのでは」という文章と「安倍首相がサンドバッグのように叩かれている」という記事を二日続けて書いた。するとアクセスする人たちの年齢構成に変化があった。前者を書いた時に18歳から34歳くらいまでの読者が顕著に増えた。ページごとの年齢構成まではわからない(多分ページビューが足りないのだと思う)のだが、多分「自衛隊を国軍に」という主張が右派的な主張に見えたのだろう。

いわゆる「ニュースジャンキー」と分類される人たちは自分の主張と合致した記事を次から次へと読みたがる。だから、この傾向はしばらく続くものと思われる。だが、次の日にはまた34歳より上の人たちが伸びていた。彼らは「安倍首相が叩かれている」という記事に反応したのだろう。それぞれの年齢で読みたがる記事が違うのだ。

このことから、いっけんイデオロギー対立に見えているのはたんにデモグラフィー上の対立なのだかもしれないと思った。普段、日本人はイデオロギーなどの対象物には興味を持たず、人間に興味を持つのではないかと書いているのだが、その仮説がまた補強されたことになる。

実際に若年層の政治動向について調べている人たちの間でも、若年ほど安倍政権の支持率が高いことが観測されているようだ。イミダスの「若年層の内閣支持率はなぜ高い?」は次のように分析する。

まず、年長世代とは違い、若年世代は安倍内閣という政治的光景が標準的なものになった、言い換えれば、他の政治状況を少なくとも経験的には知らない世代と見なすことができるということです。安倍首相は戦後の歴代首相の中でも、長期の政権維持を続けていることは紛れもない事実です。この層には、安倍政権こそが日常の光景であり、安倍内閣になれ親しんでいる世代であるということです。

東洋経済も「若者の自民党支持率が高くなってきた理由」という分析記事を書いている。この記事で特筆すべきなのは、それぞれの世代が最初に見た失敗を強烈に覚えていて、それだけで「あの政権はダメだ」と考えているということだ。自民党政権が不安定だった時のことを覚えている人と小沢一郎が民主党政権をかき回したことを覚えている人で政治に対する見方が全く違っており、日本人の減点主義をよく表している。日本では、一度失敗したものが再び浮かび上がることはない。

バブルの最終期に就職した人たちが子供の頃、日本をよく言う人はあまりいなかった。戦後第一世代の親を持っている世代で「日本式」というのはつまり脱却すべき戦時体制を意味したからである。親からそう聞かされいたという人もいたかもしれないが、テレビの子供向け番組でも旧弊で時代遅れの日本を脱して豊かで進んだ西洋流の個人主義を受け入れるべきだというようなメッセージが流れていた。

面白いことに当時の日本人は外国人からダメ出しされることをとても喜んでいた。「イザヤ・ベダサン」という自称ユダヤ人の書いた「日本人とユダヤ人」という本が300万部を超えるベストセラーになったこともある。この筆名をよく読むといささか下品な日本語になっている。著者は著名な日本人の評論家だった。

いずれにせよ、多くの人は「日本人」はだめな存在だと信じてるのに、自分たちはそのだめな日本人に含まれるとは考えていなかった。つまり日本人というのは自己像ならぬ他己像だったのだ。

なぜ、中高齢者にとっての日本人が他己像なのかというのは興味深いテーマだ。個人で追求したい理想と集団での現実が乖離しているせいなのかもしれないと思う。実際にバブル期に入社した人たちは、内心では個人主義に憧れを持っていても、どちらかというと個人を抑圧する側に回っているのではないだろうか。一方で若年層では集団そのものが壊れていて、いざ帰属集団を求めると日本人という漠然とした集団しか思い浮かばないのだろう。

政治状況は日を追うごとに劣化している。確かに昔の政治家が全て立派だったとは言わないが、今の安倍政権ほどひどくはなかった。先に引用したイミダスのコラムでは「若い人には安倍政権はデフォルト」と書かれているのだが、高齢の世代にとってはかなり劣化した政権であることは間違いがない。しかし、若年世代にとっては先行きが見えないのに内紛が続く民主党政権こそ不安の象徴なのだ。

このように、ポストバブル期のあとの就職氷河期世代とゆとり世代は全く異なった世界観を持っている。若年層といっても自民党末期のゴタゴタと民主党末期のゴタゴタを覚えている人たちの差は数年しかない。こうして細かい違いが積みかさなっている上に他世代への反発もあり、政治的な意見が形成されているのだろう。だから、政治的な諸課題について相手を説得しようとしても無駄なのだ。

戦後生まれた「日本を脱却して西洋基準に従おう」という運動は屈折した形で「ダメな日本を攻撃する人たち」という民主党政権に行き着く。民主党は「ダメな日本人」という他己像を自民党に重ねてテレビで宣伝することで支持された政党である。いったんはこれが受け入れられたものの民主とは統治に失敗する。あくまでも他己像なので詳細に日本人性を分析せず、同じ罠にはまってしまったのであろう。そしてそれを今度は次の世代が攻撃する。言語化してみるととても不毛な論争だ。

さて、このくらいの文字数で若年層は脱落しているのではないかと思う。あくまでも統計的にみればだが、「国軍化」の滞留時間は2分程度であり「反安倍」の人たちの滞留時間は4分だった。じっくりと長い文章が読めていた時代の人たちと比べると、若い人たちはもはや長くて複雑な文章は読めない。これは能力差というより環境の差ではないだろうか。かつては図書館にこもってじっくり本を読んだ人が多かったが、現在ではスマホがあり注意力は普段から分散している。

安倍政権は短いフレーズを連発しヘッドライン作りを得意としている。一方で立憲民主党の主張は文章を読まなければわからない。政治的経験だけでなくリテラシの問題も両者の乖離を大きなものにしている。いずれにせよ、中堅の域に入った人は若い人に何かを伝えたければ1分以内に読める文章を箇条書きで書くくらいでないと伝わらないと考えた方が良さそうだ。「説明すればわかってもらえる」などと考えてはいけないのだろう。

そもそも世代間対立なのでトピックはそれほど重要ではない上に情報処理の仕方も違っているのだから、両者が折り合うことはなさそうだ。

日本人がかつて語っていた日本人論は「自己像」ではなく他己像なのではないかと書いた。これが揺り戻しを受けているのが過剰な日本擁護なのだが、これも自分たちのことではなく、実は上の世代への反発を投影したものにすぎないということになる。

こうした対立に魅せられてしまうと、そこから「利点と欠点」を洗い出して冷静に見ることができない。我々のような一般の庶民もそうだが、分泌を生業にしている人たちの中にも対立に溺れている人たちが少なくない。自転車操業的に思索を繰り返しているうちに対立に取り込まれてしまうのだろう。

ここまでで3100文字程度なのだが、ここまで読むことができた人たちは、こうした心地の良い不毛な対立構造から抜け出して行く努力をし、できればそれを自分の周りに伝えて行くべきなのではないかと思う。

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素敵マーケティングと豊洲新市場という悪夢の組み合わせ

久しぶりに昔の友人にあったような出来事があった。

豊洲移転反対派の識者がいつものように豊洲新市場移転について異議申し立てをしていた。今回は、小池さんがブロガーたちを雇って広報戦術を繰り広げようとしているというのだ。彼らはこれを「刺身ブロガー」と呼んでいる。お刺身を振舞われて提灯記事を書くのかというのだ。

しかし、実際に刺身ブロガーが書いたものは彼らには理解ができなかったようだ。それはまるで金星人と火星人の会話のようになっている。

このディスコミニケーションはなぜ起こるのかということを考えていて、かつてあった生産性の低い「ウェブのおしごと」を思い出した。あの生産性の低い「ウェブのおしごと」がインスタグラムの時代に入るとこういうことになるのかと思ったのだ。

そこにあるのは、女性たちが考える「私らしい素敵さ」のなかにぽっかりと浮かび上がった異質で無味乾燥なイベント告知である。「私らしさ」を追求してゆくと「私が消えてゆく」という、日本の村落特有の矛盾もある。この議論を進めてゆくと日本の生成が低くなり、モノが売れなくなったもう一つの理由がわかるように思えた。今回は国会で繰り広げられている労働時間の問題も絡めて考えてみたいと思っている。

アメリカでインターネット業界が立ち上がった時、建築のメタファーで広まった。一級建築士のような人が全体を設計し、インテリアデザイナーのような人たちと協力しながら作って行くのがウェブだという世界観がある。構造設計をやる人はいまでも「アーキテクト」と呼ばれているはずである。また、ウェブの情報のまとまりのことを「ウェブサイト」という。

だが、日本人はなぜかこれが理解できなかった。日本でウェブデザインに入った人たちはもともと広告業でチラシを作っていた人たちだった。そもそも日本の広告には全体のプロジェクト設計という概念はないようだ。広告はマスを使った広告かダイレクトマーケティングである。後者を代表するのがチラシである。

村落構造を考えるときに、日本人は環境の構造そのものに興味を抱かないと考察してきた。このため、マーケティングでもウェブでも全体構造に関心を持つ人はいない。今ある代わり映えのしない所与のものを小手先の目新しさで売るのが日本人にとってのマーケティングであり、そのためにチラシを作るのがウェブのおしごとなのである。

こうした環境で最終的に残るのは「インプレッション」という概念だ。チラシの要点はとにかく郵便物や電話を送りつけて反応を稼ぐことだ。古くから顧客接点(チラシ制作とコールセンター)は契約社員やフリーランスが支えている。炎上でもしない限り彼らの声が開発担当者にフィードバックされることはない。例えて言えば底引き網のようなもので、とにかく魚群を見つけてそこに網を入れるのがマーケターのおしごとである。

だが、ここで問題が起こる。マーケターは流行に敏感でセンスに定評のある人たちだ。だから「誰が作っても代わり映えのしない」ものでは満足ができなくなる。そこで彼女らは「私らしさ」を追求しようとし始める。しかし、全体設計には関われない(そもそもそんなものはないかもしれない)ので、それはどうしても細部へのこだわりになる。いわゆる「わたしらしいセンス」を実製作者に押し付けるのである。

要件定義がなく「発注者の私らしいこだわり」を満足させるために間際のないやり直しが繰り返される。欧米系はエージェンシーがクリエイティブブリーフを作りそれにサインをさせてから次に進むというやり方をとっているので欧米系のデザイン事務所はデザイナーも仕事の量をコントロールして休ませることができる。一方で、日本の代理店はこうしたブリーフを作らずに感覚的におしごとを始め、残業を強いて「私が納得行くまで」やり直しをさせる。だから日本の下請けデザイナーは休めない。

さらに「わたしらしい」こだわりは角があるので市場で受け入れられることはない。そこで私らしさは社会的に受けがよい無個性なものに変わってゆく。

すると代わり映えのしないどこかで見たようなものが量産されることになる。フックもないので効果も上がらない。効果測定しないから「どれくらいの時間をかけたらどれくらい価値があるものが生まれるか」というノウハウがたまらない。だから下請けの賃金は安く抑えられることになる。また、作らされる方もいつまでたってもノウハウはたまらない。意味がわからないまま「クリエーター」たちのわがままに付き合わされるからだ。ただし、締め切りがくるとリリースされるのでデザイナーはなんとかごまかしながら嵐が過ぎるのを待つしかない。実際に締め切りがくると次の嵐が車で風はおさまる。

しかし、こうした仕事をする彼女たち(顧客に近い感性を持っているというのが前提なのでたいていは女性なのだ)が優秀でないというわけでもない。ある程度の品質でポイントを抑えた文章やイラストが量産できるようになる。だんだん個性が削られて行き「意味がないということに気がつくことができず」に「どこにでもあるようなひっかかりのない」ものが作れるようになるのがプロなのである。

この点は男性の方が実は厄介だ。仕事にこだわりと面子を持ち込みたがる上に、時間をかけて働く俺に陶酔したりする。こういう広告代理店のクリエイティブディレクターに絡まれると大変である。もしかしたら徹夜で修正を頼まれ、それをのらりくらりかわしていると事務所に現れて「意思疎通が足りないから一緒に徹夜しよう」などと言われる。

日本の広告のプロはどこにでもあるありふれた作者不詳のものを最低限の労力で量産できる能力が求められる。今回の豊洲市場移転のインスタグラムにある文章はまるでPRの人が書いたようなソツのない文章だったのはそういう流れがあるからだろう。外注するのもお金がかかるから「刺身でも食べさせて安くPRさせて10%の管理料だけ取ろう」ということになったのかもしれない。結婚してノウハウはあるが企業を離れた素敵女子がインスタ世界にはたくさん生息しているのではないだろうか。

しかし、この環境はますますものを売りにくくしている。第一の問題はすでに述べたように顧客接点から情報が入ってこないということである。しかし、それだけではなさそうだ。

そつのなくひっかかりのない文章を書くようになって「東京のすてきなおしごと」を引退した彼女たちは、やがて結婚して「誰もが羨むそつのない暮らし」を手に入れる。それをフォローする人は「いつかは私もこんな素敵な暮らしを手に入れたい」と考えるようになる。素敵暮らしはこうして日本中に広まる。それはイオンモールのような無個性な「素敵さ」かもしれないが、その中身は多分我々が想像しているよりもずっと複雑なディテールの細分化が起こっているに違いない。嘘だと思うなら流行のパンケーキについて官女たちと論争してみればよい。単なる小麦粉と卵の組み合わせのはずのパンケーキについての会話にすら、きっとついて行けないはずだ。

彼女たちの背景にあるのは、全体構造に対する徹底的な無関心と過剰な細部へのこだわりである。こうした人たちが政治や環境に関心を持つとも思えないので、豊洲がガス工場の跡地に作られようとそれほど気にしないはずである。彼女たちが気にするのはそれが「素敵」かどうかなのだが、ではいったい何が素敵なのかに答えられる人はいないだろう。それは「彼女たちが理解可能」でなおかつ「みんなが素敵だと言っていること」である。誰かが決めているようで誰も決められない。ある意味日本の村落の究極的な形である。にもかかわらず何が「素敵」なのかみんなが知っているというような世界である。

もはやこうなると、東京のおじさんたちには理解ができない。だから彼女たちが買うものは作れない。景気が悪くなり「正解以外のものを追いかける余裕」もなくなった彼女たちは「無個性な私らしさ」を追求できるものにはお金は使うだろうが、それ以外のものはいくら「品質が良い」とか「便利だ」などと訴えても買ってくれないだろう。

だから、そもそも彼女たたちが魚市場に関心をもつとも思えない。動いていて頭のある「おさかな」は気持ちが悪いと思うのではないだろうか。彼女たちが考える「おさかな」はお皿に盛られたお刺身か、パックに入ったサケ・マグロ・イカ・貝などだろう。イカなど日本人には関係ないと思うかもしれないが、冷凍シーフードの一部としてインスタ映えのする洋風料理に使われている。

そうなると築地市場は汚らしいだけで、立派な外観の清潔そうな豊洲市場が、たとえそれがガス工場の跡地に作られていようが素敵に見えるのかもしれないと思った。現にイオンモールが素敵なショッピングモールに見えているのだから、それに似た外観の豊洲が立派に見えてもそれほど不思議ではないのではないだろうか。だが、彼女たちはおさかなにはさほど興味を持たないだろう。それはインスタ画面のほんの一部分を構成しているだけの脇役にすぎないからである。

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これは何かおかしいぞと思うことの大切さ

このところ、日本の村落構造と不安社会について考えることが多くなった。数年前に危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)という本を読んだ時には、これからは市民レベルでリスク対応がくるなどと思っていたのだが、日本の場合どちらかというと「よくわからない漠然とした不安」に苛まれているのではないかと思える。人間はいつまでも不安な状態でいることはできないのだから、これを解消する方法を探さなければならない。

不安の原因はどこにあるのだろうか。いろいろなニュースを見ていて思うのは「あれ、何かおかしいぞ」とは思うものの、それが言語化できないことが多いという事実である。すぐに解決策が見つかるというわけでもないのだが、こうした言語化できない問題をあれこれと転がしているうちに、なんとなくいとぐちが見つかるケースも多い。

泰明小学校問題の場合には「地域にとって小学校とは何なのか」ということを考えると良いいうことがわかった。コミュニティは現在の繁栄だけを問題にすべきではない。未来に向けて投資しなければやがて縮小していってしまうからだ。この縮小の予感は不安の原因になる。泰明小学校を抱える銀座は次世代に対する寛容性を失っており、背景は銀座の社会的没落も関係しているようだ。これまでの繁栄の理由がわからないので、銀座の価値が「ブランド物のお店が多いこと」になり、高価な服装を子供に着せれば銀座っぽくなるという狂ったソリューションが出てくるのである。

佐賀のヘリコプター墜落事故は、本来国を守るはずの自衛隊が住民の財産を壊しているという問題である。一人の住民の財産が守れないのに国全体が守れるはずはないので、何かおかしいということがわかる。その背景には「機材の老朽化」という問題があり、そのまた背景には防衛省の人たちがまともに器材選定ができていないという事情があった。そしてこの構造は在沖縄アメリカ軍の問題とも共通している。アメリカ軍もまた予算の縮小と士気の低下に悩んでいるのである。

この二つの事例からわかるのは「本来の目的」に着目すれば、答えは見つからないかもしれないが、問題そのものはある程度分析できるということだ。問題が見つかればあとは解決して行けば良いだけである。これを裏返しに展開すると「本来の目的がわからなければ、問題が分析できない」ということを意味している。こうした事件・事故・騒ぎの報道を目にして「なんだかおかしそうだ」とは思いつつも、なんとなく「よくわからない」と感じるのは「本来の目的」がわからなくなっているからなのかもしれない。

もちろん相撲協会のように「本来の目的がわからない」問題もある。相撲はスポーツなのか神事なのか興行なのかがわからなくなっており、それに伴った混乱が見られるようだ。しかし、その背景を見てゆくと、相撲が興行として成り立たなくなるにつれて、いろいろな目的を「でっち上げて」きたことがわかる。もともと相撲はラジオの勃興とともにメジャーになったようなのだが、他のエンターティンメントやスポーツとの競争に勝てなくなり経済的に行き詰まった。しかしそこで相撲を面白くする努力ではなく「公益法人化」を目指すようになり、後からガバナンスの問題が出てきているということになる。

組織は経年劣化する過程で本来の目的を見失う。すると組織や社会は暴走する。この本来の目的を「本分」などと言ったりする。泰明小学校の本分は地域に向けて開かれた教育を提供してコミュニティの維持発展に寄与することであって、おしゃれな小学生を集めて街の飾り物にすることではない。自衛隊の本分は地域を守るということであって他国を威圧して尊大な気分に浸るものであってはならない。また相撲の本分は伝統神事を模した真剣勝負を見せることによって観客を楽しませてお金をもらうということであるはずなのだ。

しかしながらニュースを受け取っている人も「何が本分」なのかがわからなくなっていることが多いようだ。そのために議論が迷走することがある。相撲の場合は特に顕著でテレビに相撲ファンと称する人たちが出てきてそれぞれの質問に自分たちが満足できる答えを出してゆく。しかしそれはその場その場の反応でしかないので、全体として像を結ばない。テレビのワイドショーはCMを売るためにこれを延々と流している。

自衛隊の問題ではこれは部族間闘争に発展している。自衛隊は「地域を守る」という本分を持っているのだが、自衛隊そのものが自己目的化すると「大義を守るためには一人くらい犠牲になっても構わない」などと考える人が出てくる。実際に家を破壊された人は心ない中傷にさらされているとも聞く。このニュースに関心を持つ人の多くは、特に日本の防衛には興味がない。単に左翼・右翼の部族に別れて相手を叩きのめすことが目的になっている。当事者同士の闘争なら「勝手にやってくれ」と言えるのだが、「辺野古を二度蹂躙するな」で書いたように、当事者になった人たちは彼らの抗争に巻き込まれて二次被害を被る。辺野古もそうだったし、今回家を焼かれた人もそうなりつつある。

こうした現状を見ていると暗澹たる気持ちになるのだが、救いもある。本分がわからなくなったことからくるニュースを見て「なんだかわからないけれどもおかしいぞ」と考える人は多いようだ。こうした人たちが検索をしてニュースについて考えることが増えている。「あれ、おかしいぞ」という洞察や直感は最初のレベルでは正しいことが多いのではないだろうか。もちろん、そのあとでいろいろな物語を「まとう」ことでおかしくなったりもするし、抗争に参加することでいったい何を話あっていたのかがわからなくなる場合もあるのだろうが、少なくとも最初の洞察というものは信頼しても良いのではないかと思う。

「あれ、これは何かおかしいぞ」という気持ちを持つことは社会にとって意外と重要度が高い。不安を解消するための第一歩はこの「あれ?」という違和感を大切にすることなのだろう。

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日本型村落の暴走はなぜ起こるのか

泰明小学校の狂気について考えた。最初は校長先生が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやら銀座とその公立小学校の校長がいっしょになって狂気に蝕まれているらしかった。持続可能なコミュニティには再生産機能があるのだが、銀座ではそれが失われている。しかしながら過剰な選民意識とプライドのせいでそれに気がつかないばかりか、外から見ると狂っているとしか思えない思いつきを実行に移そうとするというのがその筋書きだった。子供というのはある程度騒ぐものだが、高齢化して活気を失いつつある街はそれを「品格がない」と抑圧する。

ここに見られるのは「社会の寛容性が失われてゆく」という過程である。社会の寛容性が失われると優秀な人たちが遠ざかるというようなアメリカ型の考察(クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める)も成り立つのだが、銀座では子供は騒ぐことも許されずアルマーニの服をきておとなしくしていなければならないのである。こんな街でゆっくり子育てができるはずはない。街はすでに中国人観光客頼みになっており、新住民も引き付けられないとしたら衰退してゆく他に道はなさそうだ。

なぜこのようになったのだろうかと考えた。どうやらコミュニティが持っているべき機能は何なのかというアイディアを日本人が持てなくなっていることに原因がありそうだ。そこで、もともとはGHQに原因があるのではないかと思った。GHQは日本人が狂った戦争に突入する理由をヨーロッパと同じように全体主義に求めた。しかしながら核となる首謀者がいないことに戸惑う。それはあまりにも謎めいていたのでカルト宗教的な怪しさを感じ、国家神道が悪いのだろうという結論にいたる。そこで、国家神道を中心とした集団主義を破壊する中で、日本の伝統的村落が持っていた再生産機能が破壊されたという筋書きだ。

こうした村落の斬り崩しは40歳代から50歳代の親の世代から始まった。団地に住む核家族がもてはやされて、料理などの伝統は全てテレビで覚えるというのが、今の70歳代の人たちが始めたライフスタイルである。例えば我々が伝統だと思っているおせち料理もデパートのマーケティングがテレビによって流布したもので、恵方巻きとあまり変わらない程度のありがたみしかない。これが行き着いたのが「土日には私鉄に乗って公園のようにデザインされた街に出かけ、ショッピングを楽しむ」というようなライフスタイルだ。私たちはこうして「一人ひとりが自由に幸せの形を見つけるのだ」という信仰を獲得してゆく。

日本型村落について考え始めた頃は、日本型村落をかなりネガティブものだと捉えていた。これも個人主義信仰と関係がある。バブル期ごろまでに成長した人たちは多かれ少なかれ「日本型の村落と集団主義には欠陥がある」と信じており「アメリカ流の個人主義こそがかっこいい」という刷り込みを持っている。考えを進めるうちに、むしろ村落的共同体に戻るのも処方箋としてはありなのかなと思えるようになるのだが、「日本は集団主義的であり近代に目覚めるためには個人が大切」という思い込みはかなり強い。

後ろに戻るにしても前に進むにしても、私たちが本当に持っていた共同体について理解した上で、それが今後も成り立ちうるのかということを考えなければならないように思える。

さて、ここまではGHQが悪いという前提で論を進めてきたのだが、必ずしもそうとばかりは言い切れないなと思った。昔、CS放送で「腰の曲がる話」というミニ映画を見たことがある。1949年に農林省が作った映画だ。もともと医療を呪い師に頼っていた村で女の人たちが立ち上がり共同診療所を作るという話なのだが、実は農業協同組合の設立を女性に訴えるために作られた映画である。旧弊な男性たちは当初は女が仕事を放り出して住民自治に立ち上がるのはけしからんなどと考えているのだが、やがて考えを改めざるをえなくなるという筋になっている。

このことからわかるのは、GHQは国家神道体制が悪いとは考えていても、集団主義が悪いとは考えていなかったということである。むしろ、住民自治を強めて自治に参加させた方が国家に騙されることはなくなるだろうという見込みがあったように思える。そしてそれに協力した国も「個人の考えをすり合わせて」などという面倒なことはいわず、みんなが協力して力や智恵やお金を出し合えば、もっといい暮らしができますよと言っていた。

そうなると、GHQを責めるのはお門違いだなと思える。つまり、我々の祖先は村落は当たり前にあるものなのでそれがなくなるとは考えていなかった可能性が強い。都市に出かけてゆく人たちというのは例外だと考えていたか企業が新しい村落になり得ると信じたのかもしれない。そう考えると共産党と公明党がイデオロギーによる共同体を作ったことも納得ができる。彼らは大企業に守られる立場にはなく、自分たちで共同体を再創造する必要があった。そのために選んだのが日蓮やマルクスといった彼らにとっての神々なのであろう。

その一方で、自治組織として作られた集団はどれも男性中心の既得権益獲得手段に変わってしまった。女性と再生産機能が否定され「戦いと規律」によって暴走してゆくのである。このことからいくつかのことがわかる。

  • 一概に、集団主義が悪いというわけではない。
  • 集団の中には男性的機能と女性的機能があるのだが、集団が暴走する過程で女性的機能が抑圧されてゆく傾向がある。(ジェンダー論として「女性」に再生産機能を割り当てることについては異論があるかもしれない)
  • これはGHQのような外からの圧力の結果として生じているのではなく、我々の社会に内蔵されているようだ。
  • こうした、コミュニティに対するある種の欠落はいわゆる左翼と呼ばれる人たちには顕著に見られる。「個人が大切」と考えるあまり、いつまでたっても考えがまとまらず、自民党に変わり得る勢力が作れない。

この欠落は保守の人たちの中に顕著に見られる。彼らは口では個は集団に尽くすべきと言っているが、実は搾取のために集団を利用しているに過ぎない。日本型村落に戻ろうと考えた時一番障害になるのが集団への回帰を求める保守の人たちだ。彼らのなかには、過剰な自己防衛本能と他人への懐疑心に苛まれた「自裁信仰」の持ち主か、安倍首相のように自分の家族の利益のためには他人を利用しても構わないという利己主義者しかいない。そもそも我々がどのようなコミュティを形成していたのかということには興味がなく、戦時下ででっち上げられた国民を戦争に動員するためのカルト的な物語を持ち出して「これが伝統である」と騒ぎ立てるばかりである。

当初このブログを始めた時には「社会が再び成長するためにはどうしたらいいのか」ということを考えるはずだった。しかし気がついてみると我々の社会は成長どころか現状維持すら怪しい状態いあるようだ。ここから抜け出すためには、私たちがどのような集団を形成していて、どこに向かいつつあるのかということをもう一度冷静に考えなければならないのではないかと思う。日本人が「居心地の良い空間で次世代をはぐくみ育てること」をこんなに軽視する理由がわからないからである。

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泰明小学校の狂気

この件について冷静に問題を分析するのは良いと思うのですが、子供に被害が出ているようです。辺野古の話のところでも書いたのですが、どうして弱い人のところに攻撃が向かうんでしょうかね。


泰明小学校が炎上している。アルマーニの制服を標準服に採用したがそれが高級すぎるというのである。最初の印象は「アルマーニってもうこういうことでしか評判にならないんだ」という絶望感だった。アルマーニは歴史的に男性服を「あるお約束事」から解放することで、男性性に新しい意味合いを持たせたブランドなのだが、日本ではついに「ブランドの高いお洋服」としてしか理解しなかったということである。

だが、このニュースを考えているうちに狂気は別のところにあると感じた。当事者である校長が社会を成立させるために必要な「あること」を忘れており、社会もそのことを指摘できないという狂気だ。そして、それは文字通り「社会の衰弱死」に直結している。

そもそも教育の目的とは何なのだろうか。「社会」どんなものであっても構成員を養ってゆくだけでは不十分だ。社会が存続するためには次世代を産んで育てて行かなければならない。これが実現できるのであれば教育はどんな制度でも構わないし、この機能がなければ社会を維持することはできない。

これまで日本の村落のデメリットにばかり注目してきたのだが、もちろん日本の村落は次世代を育てるためにそれなりのしくみを持っていた。家を中心とした「なりわい」という事業体が子供を産み育て訓練を施して次世代の担い手を作っていた。なりわいは主に血族集団から成り立つのだがある時は思い切ってよそからの血も取り入れたという特徴がある。

このニュースを読んで、まず特認校という制度に疑問を感じた。公立小学校は誰でも義務教育にアクセスできるように設けられているわけだから経済的な理由で排除される人がでてきてはならない。そもそも特認校など作ってしまっては地元の子供が教育を受ける権利が奪われてしまう。これは憲法違反ではないかと思ったのだ。

このニュースの反応を見ていると銀座というブランドに人が群がっていることもわかる。つまり中央区はブランドを生かして選民だけを教育する場所を作ろうとしているのではないかと思った。ハフィントンポストの和田校長のインタビューを読んでその印象は確信へと変わる。校長の説明はだいたいこんな感じである。そこにあるのは選民性と排除の理論だ。

  1. 泰明小学校は銀座にある特別な学校である。
  2. 生徒の中にはその特別さがわかっていない人がいるので、生徒たちに自覚を持たせなければならない。
  3. だからブランドで服を作ることにした。

もちろん、説明が全て嘘であるという可能性はあると思う。つまり松屋やアルマーニと和田校長が結んでいる可能性があるからだ。アルマーニはブランドとしては日本では忘れ去られかけている。斜陽産業であるデパートも含めて制服事業に乗り出したいと考えても不思議ではない。ランドセルのように「子供のためならいくらでもお金を出す」親は多いだろう。

特別さがわかっていない生徒に高級ブランドの服を買わせると選民意識が生まれると考える時点で何かしらの社会常識の欠落が感じられる。アルマーニといえばバブルの印象が強い。経済的に選ばれた人たちの服を使って、そうでない人たちを排除しようとしているのではないかと思えてくる。

ここまでを読むと「特認校制度」というのは学校のブランド化を進めるための中央区の狂気に満ちた制度なのだなと思える。つまり中央区と校長は結託して、金儲け主義に走ったブランドと組んでいるという図式である。中央区は銀座を抱えているのでそこに住んでいる人たちも足立区や北区とは違うという鼻持ちならない自己意識を持っているのだろうなどと思うわけだ。

ところが、この「選民意識」という前提は必ずしも正しくないようだ。

中央区の特認校について調べてみると、実際にはドーナツ化が進んだ都心部の学校に生徒を割り当てるための制度であるということがわかる。該当するのは日本橋、銀座、東京駅の4学校である。そもそも「銀座の子は特別」というような制度ではなく過疎対策なのだ。

特認校制度とは、この通学区域を前提としながらも、施設に余裕のある学校を「特認校」として指定し、その特認校には通学区域に関係なく、希望により就学できる制度です。平成30年度は4校を指定しています。(全16校から自由に選択できるものではありません。)

この地域は見かけ上は繁栄しているのだが、実は滅びかけている。なぜならば銀座で個人が店を構えることはできないからである。なりわいが成立しないので、地域で子供を産み育てることなどできないのだ。そもそも特認校は地域の子供達を受け入れて「余裕があれば」よその地域から子供を受け入れるという制度なので、すべての子どもが「銀座の特別の子」になる必要などない。

だが、これは校長の問題だけでもなさそうだ。ハフィントンポストの別の記事を読むとなりわいを維持できなくなり高齢化したコミュニティはそれでもプライドを持っており、それをよそから来た普通の子供に押し付けている様子がうかがえる。

「先生の表情もどこか少しずつ険しくなっていきました。最近は子供たちよりも周囲の関係者にどう思われるか、という事ばかりに目がいっていたように感じていました。『登下校時に街中を走るな』とか『校外でも泰明小の児童らしく振る舞え』とか、学校からは、そればかりが話に上るようになりました」

いずれにせよ校長の説明は全部間違っているのである。

経済的な癒着があればある種の合理性は感じられるのでむしろ安心ができる。なんらかの理由で「僕は特別な学校のえらい校長先生になるんだ」などと思い込んでいるとしたらこれは狂気である。優秀なお金持ちの生徒を通じて「えらいぼくになる」ということだからだ。

そもそも教育は、その教育母体や人が持っている「何か特別なもの」を受け継いでもらいつつ、生徒の中にある特別なもの(これを個性という)を掛け合わせることで、その人らしい生き方を追求する基礎を作ることである。

このニュースを見ていても先生の教育観は感じられないのだが、この図式はもう見慣れたものとなった。いわゆるネトウヨ性というのは自分の中にないものを壮大な物語や他者を通じて見つけようとする無謀な試みだからである。自分の中にないからこそ物語は際限なく膨らみ、やがて暴走する。今回はそれが9万円の制服だったのである。

この校長が感じたのは「銀座にはブランドのお店がたくさんあってなんだか誇らしいな」というような幼稚な特別感だけである。これをイオンモールに置き換えるとわかりやすい。村にイオンモールができてなんだか誇らしかったのでその学校の校長が「うちの生徒はイオンモールが似合う子供にならなければならない」などと言い出したらどうなるだろうか。その校長先生は頭が変になったと思われるだろうし、村の人たちは村にはイオンモール以外にもいいところがたくさんあると呆れるだろう。

そもそも「自分たちは特別である」という万能感が狂気なのだが、その万能感を持たせるための道具立てが「高級なブランドのお洋服」でしかなかったという点である。さらに付け加えるとしたらアルマーニの思想についても理解しておらず「どこでもよかったけど、あそこだけ話を聞いてくれた」と説明していることからもその薄っぺらさがよくわかる。

これをまとめると次のようになる。自分の中になんら尊敬できる個性を見つけられなかった先生が、生業が消滅してコミュニティの内部で次世代を育てられなくなった集落に赴任する。そんな中で目にした外国のきらびやかなお洋服に魅せられて、意味はわからないもののこれを着せれば自分たちは特別になれると信じるようになる。だがそれは笑われるどころか、東京中にいる同じように思い込んだ人たちをひきつけ最終的に九万円ができあがった。よくはわからないが高いから良いというわけだ。だが、もともと公立の特認校というのはそのような制度ではないので、制服とも呼べず標準服と言っている。

この問題は地域コミュニティがその基本である次世代の再生産という機能を果たせなくなったことが出発点になっている。これが問題にならないのは日本人が自分たちを産み育てたコミュニティについてさして関心をもたなかったからなのだろう。少子高齢化、地方大学の衰退、次世代技術者や研究者の育成制度の不具合など、あらゆるところで再生産に絡む問題が起きている。成長するどころかコミュニティを維持することすらできないのだから、この問題を単にブランドもののお洋服の話にしかできないようではやがて日本は本当に滅びてしまうだろう。

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家庭内暴力と取り引きをする人

特性を持っている人は家庭内に暴力を持ち込む。被害者たちは「自分がどこかまちがえているのではないか」と考えるかもしれない。しかし、結論から言ってしまうと被害者は悪くない。暴力を振るう人に問題があるだけである。では何が問題なのだろうか。そして暴力を振るう人は「悪意のあるいけない人間」なのだろうか。

暴力を振るう人には二種類ある。実際に腕力を振るう人もいるだろうし、言葉で相手を責め立てたり無言のプレッシャーをかけたりする人もいるだろう。こういう人たちをみると何か名前をつけてやりたくなる。すなわち「〜人格障害」などと呼べばその病理が明らかになるだろう。しかし、レッテル貼りは大して役に立たない。私たちは精神科医ではないし、そもそも精神科の医者のつけるレッテルもその場しのぎのものである可能性が高いからである。

こうした閉塞状態を考えるためのキーワードは「取り引き」である。ある種の人たちは人間関係を取引と考えており、そこから逃れることはできない。かといって、治療の対象になる人格障害でもないので、一生治ることはないし、そもそも自覚もできない場合も多いだろう。

この「取引」が理解できれば対処法もわかる。取り引きなのだから、そこから撤退してしまえばよいわけである。しかし、これも突き詰めて考えて行くと「取引関係を受忍する」ということになる。ここが少し厄介なところでもある。

こうした取引関係に巻き込まれたら逃げるのが一番なのだが、逃げ切れない場合には「取り引き」に応じてしまうという手もあるということだ。つまり、感情的に切り離して応じられないことは応じないようにすればよいのだ。物理的に撤退するわけではなく心理的に撤退すると言い換えても良い。

家庭内暴力や虐待を行う人というと、その暴力性だけが問題になる。しかし、実際に問題になるのは取り引き全体だ。例えば「家庭内暴力を振るう人が実はそのあと優しくなる」ことがある。これを通常の神経を持った人がみると「実は優しいのだ」とか「実は反省しているのだ」と思えるかもしれないし、実際にそれは当たっている。

これが普通の人と違っているのは実はこれも取り引きの一部になっているうということだ。つまり「優しいのも厳しいのもある一つの現象の両極端の現象だ」と言えるだろう。だから「その人の優しい局面」を当てにしてはいけない。

また別の人は泣いてみせることになる。これを無視したりすると「自分は優しくない人間なのではないか」と思えてくる。しかし、これもある種の演技である。よく観察していると泣いたあとで何もなかったかのように別の行動に移ることがある。

これらの関係に共通するのは「ありとあらゆる手段を使って人間関係をコントロールしたがる」という点だ。つまりこれが取引の正体なのである。だが、なぜ人間関係をコントロールしなければならないと考えるのかがわからない。

家庭内暴力と無縁な家庭に育ったとしても、実は娘が大人になってから「母親が共依存的な関係を求めていた」ということに気がつくケースがある。あるいは結婚して「正常な」家庭を得て初めてそのことに気がつくこともあるだろう。夫型の母親をみて「普通の親子関係」を初めて目撃するからである。そこで初めて「母親が重い娘だった」ということに気がつくのだ。その背景にあるのはある種の見捨てられ不安である。つまり、母娘が別の人格であるのだから見捨てられてしまう可能性があるということだ。そうした不安を持った母親はいつまでも娘を自分の一部として縛ろうとする。これが取り引きの一番わかり安い事例だ。同じように暴力的な夫は妻を従属物と考えているが、同時に見捨てられる不安も抱えている。だからこそ人間関係が取り引きになってしまうということになる。

こうした人たちと「マキャベリスト」が同一視されることがあるかもしれない。しかしマキャベリストとは相手から良い条件を引き出すために理性的に演技をする。今回の取り引きをする人とが異なるのは、その局面局面では「真剣である」という点だ。だが、それらを総合してみるとちぐはぐになっており「本当のその人」が見えてこない。

だから、暴力を振るう人も、そのあと優しく接する人も、泣きわめいたあとで何事もなかったかのように別の用事を始める人も、全て本当のその人のその場その場の姿である。つまり、核になる人格がないのだから「本当に分かり合う」ことはできない。

そこで「条件を作って、それ以上踏み込ませない」という作戦が有効になってくる。本当の自分を持っている人であればこんなことをすれば怒りだすだろうが、取引をする人はこれをすんなりと受け入れる。

暴力を振るう夫がいつまでも暴力と優しさの間を揺れ動くのは、相手が取り引きを理解しないからである。つまりどうすれば自分が支配できるかの「正解」がわからないために暴れるのである。そこで条件を提示すれば相手には正解が見えるという理屈になる。

被害者になる人が受け入れられないのは相手に「本当の私がない」という点だろう。例えば家庭内暴力の被害者は「自分がちゃんとわかってあげていないから暴力を振るうのだが、本当にわかりあえれば問題は解決するかも」などと思いがちだ。しかし、本当の自分がないわけだからこうした相互理解はできない。もし、その関係が切れないのなら本当に相手を理解してやる必要がある。それは感情を全て排除して「単なるお取り引き先」として接することなのである。

しかし、これはなかなか難しい。例えば日本には「思いやりのある優しい母親」という規範があり、そこから外れた親子関係は欠損のあるものだという思い込みがある。また男性の場合は「無口で不器用」な父親が賞賛されることがあり、例え理不尽な暴力や言動で苦しめたとしても「理解しない周囲が悪い」などと思われることがあるからだ。こうした規範意識が被害者を苦しめる。

これに加えて「自己責任論」も根強い。レイプされた女性ですら「隙があったのではないか」とか「実は何か期待していたのでは」などと責められることがある。レイプは第三者が客観的に観察できる事実を含んでいるが、言葉による暴力などは第三者がみてもよくわからないことが多い。そこで「真摯に向き合って話し合いを重ねては」などというアドバイスをする人がいる。だが、それは被害者を苦しめることになるだけかもしれない。

これを「人格障害だ」と考える人もいるだろう。確かになんらかの欠落があるように思える。問題になっているのは共感能力だろうと思われる。人間には相手を内面化して社会的な絆を作る能力がある。この社会性構築能力にはかなり高次の能力が絡んでいるのではないだろうか。この絆が結べない人はそもそも「分かり合った他人同士が社会を作る」ということが理解できず、全ての人間関係がその場その場の取り引きになる。時間をかけた人間関係に生じる絆が見えないのだからその基盤が不安定になるのは当たり前である。

だが、そもそも時間をかけて生じる親密さはその人の人生には最初から存在しないのだからそれを「かわいそうだ」などと思う必要はないのかもしれない。

家族のように親密であるべきとされる空間で「同じようにものをみることができない」し「時間をかけても親密さが生まれない」というのは意外と苦しいものだし、閉鎖された空間の場合には深刻な問題が引き起こされる可能性もある。特に子供が取り引きをする人のいる家庭で育つと、他にリファレンスがないのだから「自分のせいで家族がおかしくなったのでは」と思うこともあるだろう。また、家族関係を取り引きで片付けると周囲から「冷たい人」と思われるリスクもある。

しかし、だからといって被害者がいつまでも被害者のままでいてよいはずはない。家庭内暴力を含めた取引関係を持ち込もうとする人も悪意があってやっているわけではないかもしれない。しかし、それが深刻な問題を引き起こしかねないのであればそれを受け入れて適切な人間関係を再構築する必要があるのではないだろうか。

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