テレビジャーナリズムという幻想

古館伊知郎がニュースステーションを降板するといって大騒ぎになっている。権力を批判する人がテレビから消える。それでは安倍政権の思うツボだというのである。こうした言説には違和感を感じる。そもそも、古館伊知郎が「テレビジャーナリスト」扱いされるようになったのはなぜなのだろうか。

そもそも、テレビのニュースは退屈なものだった。最初にこれを変えたのはNHKだ。1970年代にニュース原稿を読むのをやめて「語りかけるように」したのだ。

バブル期の後半に、テレビ朝日が夜のテレビニュースを変えた。ニュースにワイドショーのような「分かりやすさ」を加えた。しかし、それは「ジャーナリズム」を指向したものではなかった。あくまでもニュースショーだった。NHKとの差別化を狙ったものと思われる。そこで起用されたのが、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」で人気だった久米宏だ。久米はニュースを読むアナウンサーではなかった。

その後、バブルが崩壊し、自民党政治への信頼が失われて行く。自民党の政治家は「金権政治化だ」とみなされるようになる。時代に沿うようにしていテレビニュースショーは「反権力化」していった。自民党を離党した「右派リベラル」の人たちが担いだのは熊本のお殿様の子孫である細川護煕だった。細川首相は近衛家の血も引いている。血筋の良さが重んじられるという点では、とてもアジア的な政権交代だった。

この頃の趨勢は「反自民」だった。しかし、非自民内閣が失敗したために、社会党を巻き込んだ「自社さ」政権ができ「自民党をぶっ壊す」と言った小泉政権へと続いて行く。有権者はこの間、一度も「左派」の政党を支持することはなかった。

ニュースステーションの枠を継いだのが古館伊知郎だ。久米は「ニュースステーションがなくなるのだから、次の司会者がいるはずはない」と主張したという。この人もジャーナリスト出身ではなかった。どちらかといえば、スポーツ中継(特にプロレス)などで活躍していた人である。つまり、テレビ朝日は依然としてニュースをショーだと考えていたのだ。「権力を監視し、提言する」のがジャーナリズムだとすると、ジャーナリズムのように見せるのが報道ステーションだった。

前者を格闘技だとすると、後者は格闘技をショーアップしたプロレスのようなものだ。報道ステーションは、格闘技ではなくプロレスなのだ。その悪役として選ばれたのが「権力」だったのである。

小泉政権が終ると自民党に対するバッシングは最高潮に達する。有権者は「自民でないなにか」を求めるようになった。そこで表れたのが民主党だが、3年間の民主党政治は無惨な結果に終った。東日本大震災のような天災もあり、有権者は民主党を「穢れたもの」として打ち捨てた。古代に疫病があると都を捨ててたようなものだ。民主党の後期ごろから人々は「改革」と口に出して言わなくなった。

「どうせ、変わらない」という空気が蔓延し、有権者は政治への興味を失った。今では一部の人たちが「安倍政権は許せない」と叫ぶ(あるいは呟く)だけである。反対が多いように見えるのに、自民党は支持され、憲法改正さえ伺う勢いである。「反権力」はもうトレンドではない。多分「権力側にいたい」というのが今の気分なのだ。

日本人は戦後一貫して「未来」を向いていた。現在よりも一年後の方がよくなると思っていたのだ。バブルが崩壊してもそれは変わらず「この状態はいつしか改善するはずだ」と考えていたように思う。明治以降「脱亜」の意識が強かったので「日本人は西洋に比べて劣っている」と考える人が多かった。実際は世界第二位の経済大国だったのだが「日本は小国である」と考えていた。

ところが、最近では「日本はここが優れている」という番組が多く見られるようになった。先進国最低レベルのGDPなのだが「日本はまだ西洋諸国と肩を並べている」と漠然と信じている人も多い。中国を中進国だと見下しているのだが、経済規模では遥かに及ばない。日本人は未来よりも過去の良かった時代を見る事に決めたのだろう。不安な未来を見つめるよりも、確実な過去を見て安心したいのだ。

だから「反権力」や「ジャーナリズム」はもう流行らない。商品価値がなくなったショーを続ける意味はない。だから、見ていて安心できるキャスターや、現状を肯定するニュースショーが求められるはずだ。多分「官邸から圧力をかけられたから反権力的な人たちが降ろされた」のではないのではないかと思う。

そもそも、現代のビジネスマンはスマホでYahoo!ニュースを見ているはずだ。これまでのように「権力批判」が売り物になるのは、高齢者相手のニュース番組だろう。TBSの時事放談やサンデーモーニングなど、今の政治の不出来を嘆くショーが生き残るのではないだろうか。

ローコンテクスト文化と是々非々文化

松田公太という参議院議員が、菅官房長官の「是々非々」発言に疑問を呈している。多分、松田さんは是々非々という言葉の意味が分からなかったのだろう。海外経験が多いことが影響しているのではないかと思われる。

菅官房長官は、おおさか維新の党を指して「是々非々を歓迎する」と言っている。これは「取引が可能だ」という意味合いを含んでいる。おおさか維新に大阪府市の改革をやらせる代わりに憲法改正への道筋を立てて欲しいと考えているのだろう。お互いの利権には踏み込まず、目標を達成する協力をしましょうということである。

一方で、ローコンテクスト文化圏の是々非々は「出された法案を検討し合理的な判断を下す」という意味合いだろうと思われる。例えば社民党や共産党のような万年野党が「とにかく政府の方針にはなんでも反対する」のと比べて合理的に聞こえる。

ハイコンテクストの人たちは「関係性」に注目する一方で、ローコンテクストの人たちは「対象物」に着目する。同じものを見ているつもりで、まったく別々のものを見ているのだ。

菅官邸にとって、おおさか維新は好ましい相手だ。自民党に近寄る議員たちは「あわよくば自民党に入れてもらいたい」と思っている人ばかりだ。いわば「フリーライダー候補」と言える。また「万年野党」とも利害圏が共通している。だから「万年野党」は何かにつけて反対するのだ。一方、おおさか維新は自前の支持者を持っていて自活している。中央と地方なので利権の棲み分けも完璧である。これがおおさか維新が好まれる原因だろう。

菅官邸は取引を持ちかけるのが好きだ。沖縄に対しては「遊園地を誘致してあげるから、基地に反対しないでね」と言っている。「あなたたちのことは分かってますよ。おいしい思いをしたいんですよね」というわけだ。それは「私達もおいしい思いをしたいんですよ。分かっているでしょ」というメッセージを含んでいる。これを仄めかすように伝えるのが日本式だ。

一方、菅官邸はこうした「是々非々」の取引ができない人たちが嫌いだ。原発を稼働に「とにかく反対」という人も嫌いだし、軍事費で儲けたいと思っているのに「とにかく戦争反対だ」と叫ぶ人たちも嫌いだ。「沖縄の誇り」を持ち出されると取引ができないので、これも嫌がる。そして、こうした人たちがいないように振る舞う。

菅官房長官や安倍首相はこうした人たちと対峙するときに、目を見ないで嫌な顔をすることが多い。特に女性(多分見下しているのだろう)などが相手の場合には露骨に嫌な顔をする。取引ができないとどうしていいか分からなくなってしまうのだ。

松田さんの党は(党でなくなったみたいだが)安保関連法案には賛成しているので「是々非々党」だと思われがちである。日本人の受け手(つまり有権者)もそのように受けとめている。「政権と取引したのだろう」という具合だ。しかし、実際には「国会で審議できるようにしよう」と言っている。官邸から見ると取引したいと考えている利権に踏み込もうとしているように見えるのだ。日本人は自分の縄張りに他人が入ってくるのを嫌がる。さらに、こうした取引をするのに言語的な交渉を行わない傾向がある。お互いに目をみて「分かっているでしょ」と非言語的なやり取りを行う。

このハイコンテクストな「是々非々文化」はかなりの弊害を生み出している。そもそもコンテクストを理解できない外国人もいる。アメリカのようなローコンテクスト文化圏の人だと「日本人は集団で私を排除しようとしているし、はっきりと要求を表に出さない」と思うかもしれない。もっとやっかいなのは女性だ。「女の人は建前だけ言って困る」というのは「是々非々の対応ができない」という意味である。だから、日本では地位が上がるほど女性の管理職が少ない。「女は面倒」なのだ。

こうしたハイコンテクストな文化が残っている企業には優秀な外国人や女性が近づかないだろう。多様性がないということは、こうした顧客のニーズが満たせないということである。ハイコンテクストな人たちとの間でのやりとりが好まれるので、ガラパゴス化してしまうのである。

最近ではオリンピックでこの是々非々文化が問題を起している。ザハ・ハディド氏は外国人であり女性でもある。組織委員会の人たちは「それとなく」要求を伝えた(あるいは仄めかした)はずである。それがうまく伝わらなかったのだろう。利益が確保できない事を怖れた建設会社が法外に高い見積もりを出して「自爆テロ」を演じたのではないだろうか。代わりに出てきたのが「話が分かる」日本人男性の建築家だ。

さらにはエンブレムでも「話がわかりそうな」広告代理店が「話のわかりそうな」アートディレクタを採用して形だけのコンペが実施された。日本人にとっては「利益を分配する」というのは自然な文化なのだ。

大きな公共事業には国際コンペが義務づけられている。TPPが発効すれば地方レベルの公共事業にも国際コンペが義務づけられそうだ。日本の「是々非々問題」は国際的な軋轢を生じさせそうである。この文化は、アメリカやアングロサクソン系の人たちからは「非関税障壁」と見なされているからである。

NHKの女性進出プロパガンダ

古館伊知郎が報道ステーションを降りるといって大騒ぎになっている。官邸の圧力だろうというもっぱらの評判だ。しかし、分かりやすいところにかける圧力は圧力とは呼べない。無知蒙昧な庶民を「教育してあげる」のが本物のプロパガンダだろう。もともとカトリックの宣伝のことを軽蔑的に呼んだのがはじまりだそうだ。

今年撃沈した大河ドラマ『花燃ゆ』の後半のテーマは「女と教育」だった。女は教育をつけて国の経済発展に尽力すべきだというメッセージである。「経済力を付けて自立すべきだ」という台詞が語られた。そうすると「私らしく輝ける」というのである。

今年後半の朝ドラ『あさが来る』のテーマも「女と社会進出」らしい。福沢諭吉(武田鉄矢が押し付けがましく演じている)が「女も教育をつけて経済的自立を果たし責任を負うべきだ」と主張した。ドラマ自体は楽しく見ているのだが、武田鉄矢には「うんざりぽん」だ。

この2つは偶然選ばれたのではないのだろう。女性進出を政治的スローガンとしている安倍政権の動き(ウーマノミクス)と重なるからだ。確かに女性の社会進出自体は悪い事ではない。

確かに女性は期待されている。企業で正社員を非正規で置き換える動きが進んでいるので、女性は貴重な労働力として期待されているのだ。政府によると、女性は働き手であるとともに、家事や育児をこなし、将来は介護労働にも携わるべきだ。

一方で女性が重要な役職に就く事は好まれない。政府は小泉政権の頃に掲げた女性公務員の管理職の割合を30%以上にするという目標を7%に引き下げた。政府は「女性を管理職にしたらカネを払う」と言っているのだが、申請した会社はほとんどない。

そこでNHKのメッセージだ。NHKの考え方によれば、女性の社会進出が遅れているのは、女性に教育と意志がないからである。だから、教育を付ければ自ずから女性は社会進出するであろうというのだ。実際には女性の教育は進んでいるが、女性が教育を付けたからといって男性並に稼げるわけではない。実際には補助労働力として期待されているだけだ。もちろん「学をつければ良い仕事に就ける」という期待を持てる男性も減っている。

もちろん、どのような作品を選び、どんなメッセージを乗せるかはNHKの自由だ。いやなら見なければよいだけだし、朝のドラマにそんなメッセージが込められているとは誰も思わないだろう。うっかり見逃してしまう人の方が多いのではないかと思う。

気になるのは「私らしく」という点だ。女性が意識を高めれば私らしく輝けるというメッセージには宗教的な響きがあるが、実際には取捨選択を迫られる上に自分の選択が正しかったのかについて確信が持てない。そこで周囲との比較が始まるのである。

この無責任なメッセージを政府がNHKに押しつけているとは思えない。おそらく政府の歓心を買う為に「自主的に」行っているのではないだろうか。明白に主張しているわけではないので、罪の意識も薄いかもしれない。しかし、こうした無責任なプロパガンダを流す前に、NHKは自らが雇っている高学歴で意識の高い女性が高い地位に就けるように努力すべきだろう。管理職の割合を50%程度まで引き上げるなら、NHKのメッセージを信じてもよいと思う。

女性が子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うことだ

NHKで保育士が足りないという話をやっていた。実際には資格を持った人は70万人も余っているのだという。にも関わらず、保育士として働いていない人が多い。平均給与が20万円程度しかないので、続けたくても続けられないのだという。気概に燃えて保育士を志しても、現場の課題な要求に燃え尽きてしまうひとも多いということだ。

いろいろ検討してみると、この状態で子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うということである、ということが分かる。

番組を見ているときには深く考えなかったのだが、後になって疑問に思ったことがある。50歳代の人を加えても給与が20万円しかないということは、この人たちが働いていた当初から、保育士の給与は低く抑えられてきたということだ。番組ではこの点には触れず「社会の関心を高めなければならない」というような論調で議論が進んでいた。しかし、社会の関心が高まっても保育士の給与が上がる訳ではない。

昔から平均給与が低かったということは、保育士というのは一生続ける仕事だとは認識されていなかったということになる。お嫁さんになる人の仕事だったのだろう。一般の企業でいうところのOLさんのような位置づけだ。確かに子供が好きそうだから、よいお嫁さんになれそうだ。もしくは、子育てが終ってから仕事に復職するということも考えられる。

こうした現象は統計的に確かめられている。OECDで統計をとると、日本の賃金格差は韓国と並んで高い部類にある。両国で共通するのは女性の就業者がM字カーブを描いているということだ。つまり、女性は補助労働力として位置づけられており、子供を産む時に一度キャリアを中断されるのだ。

この労働慣行が残っている中で、一生「女性向きの仕事」に就くということは、補助労働力に留まる事を意味する。と、同時に子供を産む事を諦めるということになってしまうのだ。男性がこの職に就くという事は世帯主になるのを諦めるということである。

問題の一端は、補助労働力ににも関わらず、かつての男性のように長時間職場に縛り付けられてしまうという点にある。企業や社会はこうして補助労働力に依存する構造になってしまったようだ。

企業は、制度の「いいとこどり」をしているつもりなのだろう。補助労働力に依存しつつ、その補助労働力に過大な負担を追わせている。学生が学業に専念できないという「ブラックバイト」と同根だ。

日本の社会は男性の正社員を、女性の補助労働力が支えるという構造になっている。このバランスが崩れたことが、保育師不足の直接の原因であると考えられる。故に、保育士の問題だけに注目しても、保育師不足は解消されない。

解決策は2つある。かつての終身雇用に戻るか、生産性を向上させて短時間労働の集積でも生産性が落ちないような工夫をするということだ。労働者には、短時間労働でも生活が成り立つような賃金を与えなければならない。

日本のサービス業の労働生産性は低い。これが低い賃金で長時間労働に貼付けられる原因になっている。しかし、日本は製造業依存の期間が長かったので「一生懸命働けばよいものを作れる」と考えるのが一般的だ。しかしながら、サービス産業では一生懸命働いて過剰なサービスをするほど、労働時間だけが伸びて賃金が上がらないことになる。これが日本のサービス産業の生産性を下げているのだ。がんばる方向が真逆なのである。

現在の状況で保育士になるということは、子供を持つ事を諦めるということだ。しかも、保育士の資格を取る為には学校に通って資格を取らなければならない。現在、学生の半数は奨学金(という名前の学生ローン)に頼っているので、借金をして、一生子供を持つ見込みのない仕事につくということになる。これは合理的な選択とはいえない。故に、保育士は減り続けるだろう。

つまり、女性が子供を産むということは、別の女性(つまり保育士)に子供を産ませないということを意味する。あるいは保育士の争奪競争に打ち勝つということで、それは別の母親が働けないということである。男性保育士を女性並に処遇するという事は男性に家庭を作らせないということであり、間接的に夫候補を減らすということだ。

問題の根源は企業文化にあるので、保育師不足は政府の責任ではない。しかしながら、昔風の企業慣行を放置しているという意味では、与党(企業よりの政策を実行)も野党(正社員労働組合に依存)も共同正犯と言えるだろう。

保守派が夫婦別姓を懇願する日

長い文章になってしまったので要約しておく。リベラル勢力が夫婦別姓を実現したければ、結婚制度そのものに依存しない方がよい。どちらかといえば非婚夫婦(同性を含む)に法的資格を与えるか、結婚のメリットを「差別だ」として糾弾した方がいい。一方で、保守勢力が家族の絆を強制すると、少子化が進み結婚制度が崩壊してしまうかもしれない。不思議なことに、どちらの勢力も自分たちの目的と反対の方向に努力していると言える。「結婚」という形に形にこだわりすぎているのだ。

結婚と家に関する議論は思ったよりも面白かった。今回のお話は、いつか保守派が夫婦別姓を懇願する日が来るかもしれないというものだ。

今回はまず議論の視点をちょっと変えて、ゲイのカップルはどうして同性婚を熱望するのかという視点から考えてみた。ゲイのカップルが結婚したがるのは、カップルというものは「人並みに」結婚すべきだと考えているからだ。愛し合っている2人が結婚できないのは「人並みではない」のだ。

では、先進国では結婚はどれくらい「人並み」なのだろうか。これに直接答える統計はない。事実婚は政府に登録しない結婚なので統計が取れないからだ。それに代わる統計が婚外子の割合だ。スウェーデンやフランスでは50%以上が婚外子で、アメリカも40%以上が婚外子なのだそうだ。こうした国々では「結婚する事」はもはや当たり前でもなんでもない。

フランスで婚外子が多いのは結婚制度が窮屈だったからだという説がある。カトリック国なので離婚が難しいという説があるが、これは疑わしい。スウェーデンはカトリック国ではないし、イタリアの婚外子率はそれほど高くない。

フランスで結婚に人気がないのは、結婚が難しいからだそうだ。いくつもの書類を揃え、最後には市長との面談が必要なのだ。離婚にも同じような煩雑さがある。かつては弁護士を立てて裁判をしないと離婚ができなかったそうだ。一方、アメリカで婚外子が多いのは、結婚が贅沢な行為になっているからだという。経済的に結婚生活が維持できない人たちがいるのだ。

つまり、結婚が難しくなると、結婚しないで子供を作る人が増えるのである。

フランスでは結婚できないゲイのカップル向けに契約制度を作った。最初はゲイカップルが利用するだけだったが、そのうち「結婚したくない」カップルが制度を利用するようになり、婚外子が増えていった。つまり結婚の枠外にある人向けに「その他」扱いした制度を作ったがために「その他」が一般化してしまったのである。

結婚しても姓を変えたくないという人は、事実上「結婚して新しい(同一の)家を創る」という制度を否定している人たちだ。法的には一つのまとまりとして認められたいが、別々の家に属したいと思っているということになる。こういう人たちは、結婚以外に法的な枠組みができれば、それを選択してもよいはずなのだ。つまり、婚姻と一つの家を作るということは全く別のことで、さらにいえば、事業体としての家、婚姻、家庭というのも別々の概念なのだ。

日本では婚外子の割合は極端に低いことから事実婚が多くないことが予想される。事実婚が多くないのは結婚や離婚が比較的に簡単だからだという人もいる。第二次世界大戦後、当時としてはリベラルな価値観(男女の合意だけで結婚できる)が持ち込まれたので、結果的に西洋のような結婚制度からの離脱が起こらなかったというわけだ。さらに、終身雇用が当たり前で、扶養家族としての妻を優遇した税制があったという理由を加えてもよいかもしれない。

いずれにせよ、結婚が難しくなると、結婚できない人が増える。結婚できなくても家庭はできるわけだから、社会がそれを追認せざるを得なくなる。と、同時に事実婚が増えて結婚に対する憧れが消えてしまう。すると、結婚という制度自体が相対的に意味をなくしてしまうのである。

そんなのは「お笑いぐさだ」と考える人もいるかもしれない。しかし、若い女性の中には「結婚はしたくないが、子供は欲しい」と考える女性が増えているという話もある。すでに父親のいない家庭というのを指向している人がいるということになる。

日本でも結婚のコストは高くなりつつある。特に、女性が負うコストは大きい。企業からはパート労働を担う安価な労働力として期待されているし、子供の面倒も母親が見るものだと考えられている。家庭では、無料の労働力として期待されており、家事や介護は妻の仕事だとされている。自民党はこうした無理難題を女性に押しつけて「社会進出」と呼んでいる。支払うコストが大きいのに得られるベネフィットは少なくなれば、結婚制度を選択する合理的な理由がなくなる。

つまり、結婚に対する縛りをきつくしてしまうと、結婚制度そのものが崩壊してしまう可能性がある。すぐにガラガラと崩れ去る事はないだろうか、数世代単位で消えてしまうかもしれない。

リベラルな人たちは自民党の諸政策に反対しない方がいいかもしれない。自民党が憲法や法律など様々な手段を駆使して、結婚や家庭の義務などを強化すると、人々は結婚制度から逃げ出すだろう。結婚したら離婚できないようにするのもよいかもしれない。多分、婚外子差別があるなかで結婚のしばりをきつくすれば出生率の低下が起こり、あるしきい値を越えた時点で、女性は結婚を選ばなくなるはずだ。皮肉なことに、保守派が自説を通せば通す程「リベラル」が狙っているとされる「家制度の崩壊」が起こりかねないのだ。自称保守派は、理想の家庭を追求するあまり、日本民族の転覆を狙う共産主義者の手先になってしまうのだ。

結婚制度が破壊されても女性は案外困らないかもしれない。妻と子供の姓だけが同じになり、父親がどの姓なのか分からない(つまり、父親が誰なのか分からない)という「家庭」が増える可能性もある。その時の保守派は「姓は同じでなくてもよいので、昔あった結婚という制度を使ってください」とお願いすることになるかもしれないのである。

夫婦別姓問題と家族制度の崩壊

夫婦別姓が許されないのは違憲か合憲かという裁判の決着が出た。違憲ではないというのが結論だったのだが、これに対するリアクションが興味深かった。

別姓推進派の中には「姓をなくすことはアイデンティティを失う事なのだ」と涙ながらに訴える人がいた。姓の問題というよりも、女性であるというだけで自身を否定された強烈な経験が投影されているのだと思う。

一方で別姓反対派は、別姓推進は共産主義者の陰謀だと思っているようだ。共産主義者は家族制度を解体を画策しているが、それは最終目標である国家の解体への第一歩だということだ。「なんと大げさな」と思うが、右派の中ではかなり浸透した見方らしい。悪の秘密結社が世界征服のために幼稚園バスを襲うのに似ている。

右派の見方で特に危険だと思ったのが、家族制度の神聖視だ。家族制度さえ再構築できれば、社会問題が一挙に解決するだろうと思っているフシさえある。ところが実際には家族の絆は密室を作り出す事がある。こんなニュースを思い出した。

年老いた父親が娘を殺した。娘には病的な暴力癖があった。家族にたびたび暴力を振るうので、一人暮らしをさせたが、問題は解決しなかった。次に、精神病院にかかったが「統合失調症」「解離性人格障害」などと病名は定まらない。福祉にも相談したが無駄だった。最終的に父親が首を絞めて「問題を解決」せざるを得なかったのだ。

確かに特殊な例だ。しかしながら、家族を介護していて共倒れになるという話は珍しくない。家族の問題は家族で解決しようという意識が強く、問題を表沙汰にするのは恥だという意識が強いかもしれない。その結果、日本の殺人事件の半数は家族間の殺し合いになっている。「嘘だ」と思うなら、統計を調べてみるとよいだろう。

現状でもかなり悲惨な状況にあるのに、「家族の問題だから社会は関与しない」と突き放してしまうとどういう事態に陥るのか想像するのは難しくない。だから、姓さえ統一すれば自ずから一体感が生まれ、問題が解決するというのは幻想に過ぎない。憲法を改正して家族保護条項を作ろうという話もあるが、同一線上にある議論だ。

こうした幻想が温存されるのは、議論の当事者たちが難しい家族の問題に直面してこなかったからだろう。思い込みだけで議論しているのだ。

しかし、危機感を感じる背景にはなにかがあるはずだ。それに対峙しないかぎり不安は消えないだろう。

もともと、日本の家族は「絆の共同体」などではなく、事業体としての色彩が強かった。例えば、子供のない家に養子に出すことも当たり前で、兄弟なのに姓が違うということも珍しくなかった。家は財産管理の単位で、それを「家督」と呼んだ。

こうした事業体としての家族を肩代わりしたのが企業だった。こうして、夫が稼いて妻が支えるという形式が作られた。一方で、家が事業の主体ではなくなったために、子供は家から切り離された。さらに終身雇用制度が崩壊したために、かろうじて「家のようなもの」を支えていた経済基盤が崩壊しつつある。地方では中小の商店、工場、農家などが「事業体」としての家を作っていたが、崩壊しつつある。大規模店舗ができたために個人商店が潰れたり、農業に魅力がなくなり子供に継がせることができないなど、事情は様々だ。

家が崩壊しつつあるのは、共産主義者の陰謀ではない。崩壊しつつあるのは日本型資本主義だ。姓を同一にしようが、別々にしようが家の崩壊には何の関係もない。また、戦前の家父長制度を復活させたからといって、かつての終身雇用型の社会が戻ってくる訳ではないのだ。

点字新聞と軽減税率

新聞が軽減税率を適用するという話を苦々しく聞いた。たかだか2%の「減税」は政治的なトロフィーとしての意味合いしかないのだが、この2%の為に「ジャーナリズム」が持っている権力監視という役割を放棄しかねないと思うからだ。

しばらくして、大切なことを忘れていたことに気がついた。それは「知る権利」の大切さだ。特に普通の手段では情報を得にくい人たちと情報の関係である。そこで思いついたのが、点字新聞だ。

日本では唯一、毎日新聞社が点字新聞を出しているらしい。日刊ではなく週刊のようだ。送料無料と書いてあるので、宅配ではないのではないかと思う。ということは、今回の軽減税率の対象からは外れてしまうことになる。

しかし「知る権利」という意味では、これほど重要な媒体もないはずだ。

確かに軽減税率にはトロフィーとしての役割しかないのかもしれないのだが「国民の知る権利」などと主張するのだったら、こうした福祉系の新聞への配慮を行うべきだろう。文字が読めない人にとっては紙媒体だけが新聞ではないのではないのかもしれない。例えば、音声媒体の新聞もあるだろう。

宅配で線引きするのは、「ジャーナリズム」と「イエロージャーナリズム」をわける意図があるのだと思う。有り体に言えば、駅売りの庶民ジャーナリズムへの差別感情だ。そこで、「高級な」新聞だけを切り分けようというつもりなのだろう。しかし、そうした区分は、切実に情報を必要とする人たちを排除することになりかねない。宅配新聞だけを有益だとして優遇するのは、多分単なる傲慢なのだ。

それにしても「知る権利」という言葉を軽々しく使いすぎているのだなあ、と自省した。多分、切実に情報を必要としている人というのも、思いが至らないだけで、数多く存在するのだろう。

「貧乏人は栄養について考えろよ」という厚生労働省のお達しについて

厚生労働省が「貧困層ほど栄養バランスが悪いから、栄養に関する知識を身につけましょう」と発言し、炎上した。ぎりぎりの食費でやりくりをしている層は、そもそも栄養バランスのよい食事ができないというのだ。日本人の食事環境はかなり追い込まれているようだが、現在の食の貧困化はまだマシなレベルにある。この先、さらなる砂漠化が進む可能性もある。

現在、スーパーの大型化が進んでいる。拠点を集約することで経費を削減しようという動きだ。大型スーパーには生鮮食料品も豊富に揃っているが、こうしたスーパーに行くには車が必要だ。

車を持たないお年寄り、単身世帯、母子家庭などは、大型スーパーマーケットには行けないので、近所にあるスーパーマーケットに通う。しかし、こうした地域拠点のスーパーマーケットは少ない人数で回せるように「ハードディスカウンター」に置き換わりつつある。従業員を細小限にして経費を削減するハードディスカウンターには生鮮食料品があまり売られていない。代わりに扱われているのは、管理が簡単な加工食品だ。つまり、貧乏で余裕のない人ほど、こうした加工食品に頼ることになる。こうしたハードディスカウンターが増えれば、食品会社は儲けを重視して加工食品をより多く取り扱うようになるだろう。

生鮮食料品は流通に手がかかる贅沢品になりつつあるのだ。

しかし、ハードディスカウンターで自炊する人はまだ恵まれているかもしれない。料理や食事という概念を持っているからである。

自炊する余裕すらない働く母親は、子供に菓子パンやインスタントラーメンを与えて育てるかもしれない。こうした食料は作る手間がかからず買い置きもできる。もしくは数百円を与えて「何か好きなものを買え」というだろう。もしかしたら、ポテトチップスを買ってきて夕食代わりにする子供もいるかもしれない。

すると子供には「食卓には野菜や肉があるべき」だという観念が身に付かない。そもそも食事とおやつの区別も付かないかもしれない。食事とおやつの概念がない人が、炭水化物とタンパク質などといった栄養素について学ぶ事はないだろう。「栄養の知識を身につけろ」というが「栄養」がどういうものだか分からなくなる可能性もあるのだ。

これが世代間で連鎖すれば「料理」や「食事」を最初から知らない世代が出てくる。こうした家庭環境にいる子供がインスタグラムに食事の光景でもアップしてくれれば表面化するかもしれないが、そのようなことは起こらない。菓子パン一つで子供を放置するのは、ある人たちから見れば虐待だが、別の人には日常になるのだ。テレビを見ながらポテトチップスを食べる子供は「夕食」という概念すら持たないだろう。

普通に食事をしている日本人にとっては想像が難しい食の貧困問題だが、アメリカの事例を見ると印象が変わるかもしれない。アメリカには冷凍ポテトを解凍し、お湯で溶いたマカロニチーズを皿に盛るのが料理だと思っている人たちが大勢いる。

そんなアメリカで、ミシェル・オバマの給食プログラム改革が大失敗した。ミシェル・オバマはジャンクフードに依存する習慣を改善しようと学校給食にヘルシーな食材を使おうとした。しかし、このプログラムは不評だった。薄味で量も少なかったからだ。学校給食を拒否する子供が続出し、一部の州ではボイコット運動にまで発展したそうだ。却って廃棄される食品が増えたという。

ファストフード(化学調味料で味付けされたハンバーガーや砂糖で一杯のコーラなど)に慣れた子供たちには薄味の食事は不評だったのだろう。ミシェル・オバマは学校にあった不健康な食事や飲料も追放したために、学校の自動販売機の売上げも激減した。

栄養のある生鮮食料品を食べさせようというプログラムだったが、ファストフードや冷凍食品に慣れきった業者はこうした食品を提供できなかった。その為に、単に量が減っただけの食事を出すところも多かったようだ。また、学校給食に囲い込んだ食品業界の反発もあったという。食品業界は、トマト・ペーストを塗ったピザを「野菜だ」と議会に認めさせたこともあったという。手間がかかる生鮮食料品よりも加工食品の方が食品業界の儲けが多いのだ。

発想は良かったが、実行力が伴わなかったせいで「オバマが学校給食を貧困化させて、教育行政に手を突っ込んでいるのだろう」というような陰謀論をささやく人すらいる。

日本の食育や給食制度はよくできている。そして、食の砂漠化を防ぐ防波堤のような役割を果たしているのだ。日本人の食事への関心が給食制度を支えているのだが、なくしてからやっとありがたみに気がつくのかもしれない。

その意味でも、単に「栄養に関する知識を身につけましょう」という厚生労働省のアドバイスはあまりにも軽すぎた。

「花燃ゆ」はなぜ惨敗したのか

花燃ゆが終った。視聴率は惨敗だったようだ。ツイッター上での評価も「史実と違っている」など散々だった。もともとNHKが安倍政権におもねる為に制作されたのだという噂があったので、仕方がないのかなという印象だ。

このドラマが惨敗したのは、視聴者のニーズに合っていなかったためと思われる。視聴者のニーズをまとめると次の3要素になる。「豪華なテレビゲーム」か「分かりやすいホームドラマ」が好まれる傾向にあるようだ。

  • 勝利の爽快感
  • 単純明快な分かりやすさ
  • きれいさや豪華さ

いろいろなカテゴリで視聴率の平均値を比較してみた。試しに男性が主役のものと女性が主役のものを比べたが、どちらも変わりはなかった。今回「女性を主人公したのが敗因」という批判があったが、これは当たらない。女性ものを細かく見ると、橋田ドラマが貢献しているのが分かる。男性ものと女性ものではメインターゲットが違っているようだ。

次に時代で分けてみた。人気があるのは戦国時代だ。続いて人気があるのが江戸時代。それ意外の時代の人気は平均以下だ。明治維新期などは人気がありそうだが、あまり支持されないらしい。平安以前のドラマはない。日本史として認識されてすらいないのだ。

さらに、主役の階層を見てみた。権力者(最終的に政権に就く)や武将(戦国時代)に人気がある。中間権力者も合格だ。一方で庶民を扱ったもの(宮本武蔵、坂本龍馬、忠臣蔵などの有名なものも含む)は人気がない。日本人は判官びいきで庶民目線だという説があるが、こと大河ドラマに関してはこの説は成り立たない。

これらを総合すると「戦国時代に権力者が最終的に勝ち上がる」物語が好まれることになる。信長、秀吉、家康の関係性はよく理解されており、筋が追いやすいからかもしれないし、成功者気分に浸りたい人が多いのだろう。しかし、同じ成功者でも平清盛は人気がなかった。筋や時代背景がよく分からないと不評のドラマだった。勝ち上がるドラマでも背景が分からなければ支持されないのだ。

大河ドラマの人気がピークだったのはバブル期の1980年代だ。この頃の大河ドラマの題材には「ねね(おんな太閤記)」「無名の医師(いのち)」「政宗」「信玄」「春日局」などがある。このうち「いのち」と「春日局」は「成功者目線」という条件を欠いている。この2作と「おんな太閤記」はシナリオが分かりやすいことで知られる橋田壽賀子原作だ。この分かりやすさがヒットのもう一つの条件なのかもしれない。特に「いのち」は時代劇ですらないので、勝ち上がる物語とはメインターゲットが違っていることが伺える。

バブル崩壊後、大河ドラマは冬の時代を迎える。多分、制作者側がマンネリを怖れたのだろう。「炎立つ」は藤原三代を扱い、「花の乱」は応仁の乱を扱った。さらに「琉球の風」は琉球王朝を描いている。日本の正史の外を扱ったものは、いずれも惨敗した。「花の乱」と「いのち」の主役は同じ三田佳子なので、俳優はあまり視聴率とは関係がないのではないかと思われる。今回も井上真央が悪いというわけではないのだろう。そして、視聴者は戦国や江戸時代以外の歴史にはあまり興味がないようだ。

大河ドラマの視聴者が求めているのは、歴史ドラマではないのだろう。代わりに、テレビゲームのような爽快感を求めているのではないかと思われる。自分が戦国武将のような気分になって「勝てる」ものがよい。清盛は「画面が汚い」と嫌われた一方で、派手な騎馬シーン(派手さを演出するために、日本にはいなかったはずのサラブレッドが使われたりする)のある戦国ものに人気が集るのだ。9時台のTBSのドラマにも同じような傾向が見られる。勧善懲悪で最後には正義の味方が勝つようなドラマが好まれている。

もしくは橋田壽賀子作品のように「見ていなくても分かる」くらいのレベルのものが好まれるのかもしれない。こちらを支持するのは姑世代のおばさんだろう。近年、姫ものが2作あった。お嫁さんにしたいタイプの「篤姫」(宮崎あおい)は成功し、あまりお嫁さんにしたくなさそうな江(上野樹里)は失敗している。

花燃ゆはいくつかの点でこの類型に沿っていない。まず、権力者が成功する作品ではなかった。むしろ、維新の立役者たちが次々と死んで行く話だ。大河ドラマの視聴者は失敗した人は嫌いなのだ。次に明治維新という時代背景がよく分からなかったのだろう。さらに、群像劇にするなら橋田壽賀子を呼んできて、タイプキャストばかりの分かりやすい劇に仕上げる必要があった。もし分かりやすければ「歴史と違っている」などということを気にする人はいなかったかもしれない。爽快感ときれいさだけを求めている視聴者にとって「明治の子女が教育をつけて自立してゆく」というのはどうでも良いテーマだったのだろう。

大河ドラマを確実にヒットさせたいなら、戦国武将の成功記に限って放送すべきだ。これをできるだけ豪華絢爛に作成するのだ。しかし、当てはまる題材は限られているので、数年でマンネリに陥るだろう。

で、あれば橋田壽賀子のような脚本家を発掘してきて、古き良き家庭(男に権威があるが、それをしっかり者の女性が支えている)を舞台に分かりやすい人物を描いた、2〜3話飛ばしても筋が分かるような話を作るとよいのかもしれない。

大河ドラマの制作費は年間で数十億円単位だという。そこで優秀なライターが集って、日本の歴史を新しい視点から切り取ってやろうと意気込むのだろう。しかし、実際に視聴者が求めているのは、水戸黄門を豪華にして絢爛な騎馬シーンを盛り込んだようなドラマか、サザエさん一家を歴史の荒波に立ち向かわせるようなドラマなのだ。

「日本人の安心安全を守る」という口上は口先だけの約束なのではないか

靖国神社を爆破しようとしたとして、全昶漢(チョン・チャンハン)容疑者が逮捕された。再入国しようとした羽田空港で火薬とタイマー(のようなもの)を持っているところを捕まったのだという。これを聞いて「火薬を持っていても飛行機に乗れるのか」と不安に思った人も多いのではないだろうか。

この人が怪しいということは誰もが知っていたようだ。週刊誌の記者がマークしていたということだから、当然警察も知っていたのだろう。当然、韓国政府もそのことを知っていたに違いない。にも、関わらずこの人は火薬を持ったまま飛行機に乗れてしまったわけである。

このことはつまり日韓の飛行機(どこの便かは分からないが、金浦-羽田間は日韓のコードシェアのようだ)は、警察にマークされるような人物が火薬を持って乗って来てもお咎めがないということを意味している。世界各国でテロが蔓延する現在、これはとても危険なことだ。誰もが「犯人が機内で火薬を爆発させたらどうするつもりだったのだろうか」と危惧を抱くだろう。そうなったら乗客は巻添えである。少なくとも日韓の飛行機には乗らない方がいい、ということになる。容易にテロリストの標的になりそうだからだ。

「荷物検査では見分けられなかった」という意見もあるようだが、ロシアの飛行機はジュース缶に仕掛けられた爆弾が原因になったという情報もある。日韓の警察当局が航空会社に連絡しなかったのだとしたら、責められるべきは日韓当局ということになる。日韓の公安当局は危険な男を野放しにした上に、穏便に逮捕さえできれば乗客は巻添えになっても仕方がないという「判断」をしたのかもしれない。

一方、この発表自体が嘘なのではないかという人もいる。容疑者が韓国から火薬を持ち込んだとすれば、単独犯だという印象が強まるからだ。このことは日本国内に協力者がいないということを意味する。もしこれが当局の偽装だとすれば、別の危険性がある。本当は国内にいるかもしれない協力者を隠蔽してしまうことになるからだ。韓国人の協力者だから当然韓国人だろうという予想が成り立つのだが、そうとばかりは言い切れない。政府に不満を持っている日本人も大勢いるのだ。

このニュース「韓国人はけしからん」という意味ではそこそこ話題になったが、日本の治安対策は大丈夫かというような声は聞かれなかった。また、航空機へのテロ対策を強化すべきだという声もなかった。これは新幹線で焼身自殺が起きたときの対応に似ている。ポリタンクが持ち込まれて起きたのだが「新幹線で手荷物検査をしろ」という人はほとんど出なかった。

セキュリティが強化されればそれだけ不便になることは容易に予測できる。そこで「致命的なことはほとんど起こらないだろう」という見込みが働くのだろう。いわゆる正常化バイアスが生じるのだ。マスコミが政府の圧力に屈したという見方もあるだろうが、「何も起こらないで欲しい」という意識も働いていてのではないかと思う。

この事件は間接的に日本人がテロの脅威を外国のものだと考えていることを伺わせる。「日本にいれば大丈夫だろう」という見込みを抱いているのだ。今のところ国内で深刻なテロは起きていないので、この見込みは正しいが、明日のことは分からない。

よく安保法制の議論で「戦争法案が通ったら日本はテロの標的になる」という人がいる。なかには、原発がテロに襲われると指摘した人もいた。しかし、実際にはこうした発言は単に相手を攻撃する意味合いしかないのだろう。と同時に、今回の件で積極的な発言をしなかった安倍首相も「日本人の生命を守る」ことにあまり関心がなさそうだ。「世界情勢は変わっている」などという発言をよく聞いたのだが、本心では「変わったのはアメリカの要望だ」ぐらいにしか思っていなかったのではないだろうか。