ミュージックステーションを見て「日本の歌謡界は焼け野原になったんだな」と思った

久しぶりにミュージックステーションを見た。KAT-TUN、松下洸平、韓国の2PM、milet、緑黄色社会などが出ていた。日本の歌番組ってずいぶん変わったなと思った。これは何なのだろうかと思ったのだが考えた結果思いついた答えは「焼け野原」だった。日本から歌謡曲ファンが消えてしまったのだ。原因は明らかだ。日本の音楽番組は会議室で作られている。これが歌謡曲ファンを焼き尽くしてしまったのだろう。

この日のテーマはドラマの主題歌特集だった。まずは思い出に残った主題歌ランキングというランキングから始まる。つまり最新の歌をまず聞かせてもらえないのである。ここから「修二と彰」から「亀梨くん推し」でKAT-TUNの曲に流れる構成が作られていた。YouTubeで活躍している「中丸くん」は「俺はジャにのちゃんねるだから関係ないや」という顔になっている。EUPHORIAが同じジャニーズ事務所の美少年が主演を務めるザ・ハイスクール・ヒーローズの主題歌になっているそうでテレビ局もドラマを推したいのだろうなと思った。

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浮気は芸の肥やし論・CM違約金問題・草彅剛が演じるブレヒトの異化効果

先日来、東出昌大のCM違約金問題について考えている。背景にあるのは真面目そうな俳優は私生活も真面目でありそのイメージを使って商品を売るという構造である。これに対比して「浮気は芸の肥やしだから大目に見るべき」という考え方がある。このどちらが正しいのだろうか。

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日本の高齢化をまざまざと見せつけられた韓国報道の過熱

週刊ポストが炎上した。「韓国はいらない」という見出しを打ったところ、執筆者たちが「もう小学館では書かない」と言い出し謝罪したのだった。ハフィントンポストが経緯を詳しく伝えている。「誤解が広がっている」というのはいつもの言い分だが、売れると思って打ったのだろう。見出しだけでなく中身もひどかったようだ。10人に一人が治療が必要なレベルと書いた記事もあったという。




ちなみに「これがなぜいけないのか」という問題を先に片付けてしまおう。日本は戦争を煽って新聞の購読数を伸ばした歴史がある。気がついたときには取り返しがつかなくなっており、戦後に朝日新聞などは盛んにこれを「反省」した。つまりビジネスヘイトは歯止めがきかなくなりやがて深刻な対立を引き起こす可能性がある。日本人は戦前の歴史をきれいに忘れてしまったらしい。

韓国人が火(ファ)病に侵されているというなら、日本人は群衆の病と忘却の病の持病を抱えていることになる。多分ジャーナリズムが細かな村にわかれており業界全体として検証作業や人材の育成をしてこなかったために、戦前の貴重な知見が蓄積されていないのだろう。

ところがこれを観察していて全く別のことに気がついてしまった。

サラリーマンが出勤前に見ているようなニュース情報番組はそれほど韓国について扱っているわけではない。彼らには生活があり従って様々な情報を必要としている。ところが中高年しか見ていない昼の情報番組は盛んに韓国を扱っている。つまりヘイトというより老化現象なのだろう。

このことは残酷な事実を私たちにつきつける。テレビは中高年に占拠されており、中高年は他人を叩くしか楽しみがないということだ。こういう番組をみんなで楽しく見ているとは思えないので少人数(一人かあるいは二人)が次から次へと「けしからん他人」を探しているのだろう。

ところがこれを見つめているうちに不都合なことが見えてくる。今回のチョ・グク法相候補はほぼ一人で11時間以上の会見をこなしたようだ。日本の政治家(正確にはチョ氏は政治家ではないのだが)にこんなことができる人はいないだろう。最終的には記者たちも視聴者たちも疲労困憊してしまったようだ。大谷昭宏さんなどはうっかりと「羨ましそうな」表情を見せていたし、辺真一氏も「少なくとも記憶にございませんとはいわなかった」とどこか誇らしげである。つまり韓国には自分の言葉で釈明が出来る政治家がいるが、日本にはそんな人はいないということが露見してしまった。民主主義が機能していないと笑っていたはずなのにいつのまにか「なんか羨ましいなあ」と思えてしまう。

しかし、この「かわいそうな老人のメディア」としてのテレビが見えてしまうと不都合な真実はどんどん襲ってくる。例えば最近のアニメは中年向きに作られている。2019年8月末のアニメの視聴率(関東)をビデオリサーチから抜き出してきたのだが、新しく作られたものはほとんどない。「MIX」は知らなかったがあだち充の作品のようである。目新しい幼児向け番組は「おしりたんてい(絵本は2012年から)」だけである。サザエさんなどは昭和の家庭を舞台にしている。我々が昔水戸黄門を見ていたようにサザエさんも昔のコンテンツと思われているに違いない。

タイトル視聴率(関東)
サザエさん9.0%
ドラえもん6.7%
クレヨンしんちゃん6.2%
MIX・ミックス5.8%
ちびまる子ちゃん5.8%
ワンピース4.6%
おしりたんてい4.3%
ゲゲゲの鬼太郎4.2%
アニメおさるのジョージ3.3%
スター・トゥインクルプリキュア3.1%

特にテレビ朝日は「ファミリー層を排除しようとしている」と攻撃の対象になってしまった。アニメを土曜日に動かしたのだそうだ。テレビ局も新しいコンテンツを作りたいのだろうが視聴率が取れない。最近の若い人は高齢者に占拠されたテレビを見ないのだろう。

アニメだけでなく音楽にも高齢化の波が押し寄せている。TBSは関東ローカルでPRODUCE 101 JAPANの放送を開始する。吉本興業が韓国のフォーマットをそのまま持ってきたようで、制服やショーの構成がそのままだ。ところがこれをみてショックを受けた。韓国版ではイ・ドンウクが練習生の兄貴(とはいえ三十代後半のようだが)として国民プロデュサーに就任していた。この視線で比較してしまうと日本版の国民プロデューサ(ナインティナイン)が老人に見えてしまう。ASAYANが放送されていたのは1995年だということで「昔の若者」が倉庫から出てきたような感じである。

ナインティナインが普段老人に見えないのは実は日本の芸能界がそのまま老化しているからなのだ。しかもこの番組も夜のいい時間には時間が確保できなかったようである。確かに老人が見てもよくわからないだろう。もはや歌番組は深夜帯のサブカル扱いなのである。

嫌韓本が広がる仕組みを見ていると、出版取次が「この本は売れるはずだから」という理由でランキングに基づく商品を押し付けてきているという事情があるようだ。高齢者であってもAmazonで本を買う時代に本屋に行くのは嫌韓本を求める人たちだけということなのだろう。テレビの動向を合わせて見ると、最終的に残るのは「昔は良かった」と「ヘイト」だけだろう。まさにメインストリームが黄昏化している。

幸せな生活を送っている人たちがヘイト本を見てヘイト番組を見て日中を過ごすとは思えない。結局見えてくるのは、高齢者が潜在的な不満と不安を募らせながら、他にやることもなくヘイト本を読みヘイト番組を見ているという姿である。つまりなんとか生活はできているが決して満足しているわけではない人たちがヘイトを募らせていることになる。

こうした人たちが韓国との間で戦争を引き起こすとは思えない。そんな元気はないだろう。多分、テレビに出ている人や雑誌で書いている人たちが心配するべきなのは民主主義の危機ではない。深刻な老化なのだ。

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人材に投資しなくなった日本は韓国に負けた

日本のエンターティンメントが韓国に負けているというエッセーを読んだ。人材に投資しなくなったことで負けてしまったのだ。日々嫌韓に勤しんでいる人には耳を塞ぎたくなるニュースかもしれないが、K-POPが日本で人気があるのは偶然ではない。日本のエンターティンメントが堕落してしまっているからである。以下、詳細を見て行こう。




AKB48の影響力が下火になっていて2019年は総選挙をやらないそうだ。きっかけになったのはAKB48グループからK-POPのオーディション番組であるプロデュース48に出場者を送り込んだことらしい。リアリティーショーでさらされることにより韓国と日本の育成システムの差がはっきりと現れてしまったのだ。国内リーグはメジャーに行けなかった人の溜まり場になってしまうのでコンテストをしても意味がないのである。面白いのはこのプロデュース48という番組が地上波ではやっていないという点である。にもかかわらずこのインパクトは相当なものだった。政治ニュースで「NHKが取り上げない」ことがよく問題になるが、実はこれは有権者が高齢化しているからなのだ。

記事によると、AKB凋落の直接の原因はビルボードチャートの導入だそうだ。筆者はビルボードチャートについて「CD販売数だけでなく、音源ダウンロードやストリーミングでの再生数、動画再生回数など7つの項目で楽曲をランキングしている」と書いている。このためCDの売り上げ=人気という偽装ができなくなってしまったのである。アベノミクスが既存統計をハックすることで好況を偽装してきたのと似ているが、こちらはもっと単純に「おまけをつけてCDを売ればいいのだ」というようなことをやっていた。このランキングを元にキャスティングが決まるのでテレビでの露出も増えるというようなからくりである。が、足元ではパッケージ離れとテレビ離れが起きていた。

ところが48グループの真の問題点はもっと深いところにあったことがプロデュース48で露呈してしまった。韓国では若い人たちに投資をして競争をさせる。だが、日本では「そこそこの人たち」を出してきてチャートに合わせて人気を演出しさっさと売り出してしまう。つまり、日本人は人材にお金を使わずシステムに依存してしまうのである。つまり日本人が劣っているわけではなく、日本社会がやる気のある人たちを生かしきれなかったことが今回の人材流出の背景にあるのだ。

これはMBAで海外の経営を学んできた人たちが日本でその知識を生かせなかったのに似ている。日本がまだ「Japan As Number1」とされていた時、企業はハーバード大学やウォートンビジネススクールなどに多くの人材を送り出した。彼らはMBAで多くのことを学んだがそれを生かすチャンスはなかった。派遣元の経営者たちが抜本的な改革を嫌がったからだ。結局MBAホルダーたちは日本で埋もれるかせっかくお金を出してくれた企業を「裏切って」外資系に転職するしかなかった。

同じようなことがこのエッセーには書かれている。高橋朱里という人のインタビューが引用されているのだが、これは多分高度経済成長期の終わりにMBAホルダーの人たちが持っていたのと同じ感覚なのではないかと思う。私は一生懸命やりたいがそれが認められる土壌がないから私は外国に行きますと言っている。そしてそこにはファンも含まれているのだ。ファンを見切ったというのは少し胸が痛くなる話だ。

そのつもりで私はやってます。だけど、全体のシステムを変えることは難しいと思うし、それを強要するのはファンのひとに対しても違うと思うんです。

松谷創一郎「高橋朱里が『PRODUCE 48』で痛感した『日本と韓国の違い』」 『現代ビジネス』2019年1月22日/講談社

これを読むと、日本はこの平成の30年の間「優秀で熱心な人たちを生かせず外に放出してしまう過疎の村」から脱却できなかったことがわかる。私たちは何も変えられなかったのかもしれない。

ここにきて48グループ商法は急速な劣化を見せている。一つはマネージメント能力の劣化である。秋元康に忖度して偉くなった人が多いのだろう。NGT48で山口真帆がファンから暴行を受けた問題では山口本人が釈明記者会見にリアルタイムで反論し会見は3時間に及んだそうである。(スポーツ報知

また、京都では外国人に向けて8,640円という値段をつけた公演がうまく行かず戦略の大幅な見直しを余儀なくされているそうだ。(京都新聞)こちらは秋元康が総合プロデュースをしているそうだが、日本では実力を偽装できても外国人には全く通じなかったことになる。週刊プレイボーイで中身が見られるが惨憺たる仕上がりだ。ただ日本のシステムに慣れきっていてインターネットを知らない秋元さんに総合プロデュースを任せるのは少し酷な話なのではないかと思う。

筆者が「48グループはランキングの仕組みをハックして自分たちの実力をより以上に見せていた」と書いていたのだが、同じことが政治の世界でも起こっている。現在の政権は統計をよく見せたり、株価を底上げすることで「経済はうまくいっているのだな」という印象操作に成功した。このことが「印象さえ操作できれば本質は変えなくてもいいのだ」という怠慢につながり、実際の経済が国際競争力を失うことにつながっているということに、もう多くの人が気がついている。そして優秀な官僚はその手腕を発揮することができなくなり日本のトップ人材を引きつけられなくなってゆくだろう。有権者に見切りをつけて優秀な人は海外を目指すのだ。

政治の世界が問題なのは、音楽のように「新しい要素を取り入れた統計を作ろう」という動きが全く出てこないところである。それができるのは、今政権の中にいない野党の人たちだけであろう。中には経済通の人やもともと日銀で働いていた人などがいる。つまり、やろうと思えばそれを作ることができる人たちがたくさんいるのである。にもかかわらずそういう人たちに光が当たっていないように思える。野党もまた人材を生かすトップリーダーがいないのだ。

日本のエンターティンメントはK-POPに負けつつあるが、ジャニーズのように現役出身の若手を起用してネット活用を模索し始めた会社もある。日本人はもともと優秀なのだからやり方さえ変えればきっと復活できるだろう。海外のアーティストにもアンテナを張っているファンがいるからこそ「これではまずい」という危機感を持つことができるのである。なので、政治や経済の分野でも同じことができないはずはないのだ。

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なぜ上沼恵美子騒動は日本のお笑いのある終焉を暗示しているのか?




本日は上沼恵美子とM-1の騒動が日本のお笑い界の行き詰まりを象徴しているということを書く。日本のテレビとお笑い界は相撲のような閉ざされた村になっている。こうしたトラブルは村が閉塞感に支配されていることを示している。ゆえに今後、ファン離れが起きテレビのお笑いは急速に過去のものなるだろう。

騒動は、一言でまとめるとM-1グランプリというお笑い番組の審査員だった上沼恵美子が「感情的な審査をしている」と批判されたというものだ。前回のチャンピオン他一人がYouTubeで酔っ払いながら「更年期障害」などと騒ぎ立てたので炎上した。上沼は「なんとも思っていない」と言っているが本当のところはわからない。特徴は周りの芸人たちが腫れ物に触るように上沼に接しているという点である。

M-1グランプリは比較的歴史の浅いテレビ局のコンテスト番組だ。ただテレビ局が主催している賞なので、M-1をとった人は「すごいお笑い芸人」と認められて自動的にブレイクすることになっている。つまり、スターを作り出すためにハクをつける賞なのである。その意味では出版社が作家にハクをつけるための芥川賞・直木賞に似ている。だから、賞は権威のある優れた目利きが選んだことになっていなければならない。そのため上沼ら審査員は「触れてはいけない」存在になるのである。そして、それをYouTubeというテレビの枠外から批判したというのが今回の構成である。つまり、テレビとネットという二重構造がなければこの問題は生まれなかったのである。

つまり、テレビ局や芸能事務所の「外」にそれなりの経済圏ができているということが背景にある「事件だ」ということがわかる。テレビ映画の人が銀幕のスターを批判するようなもので、映画から見ると「一段下」から上を批判するなどあってはいけないことである。テレビを専らとするお笑いの人たちにとってYouTubeは「アルバイト」か「テレビ番組の宣伝」の場所であって、決してテレビを脅かすような地位を占めてはいけない。だが、一方で誰が上かを決めるのは実は業界の人ではないということが忘れ去られている。

テレビを主戦場にし吉本興行の主催する劇場に立ち続けている博多大吉にとって、この主従関係が崩れてしまうことは世界の崩壊を意味する。松本人志にとってもそれは同じだ。だからとろサーモンは「やらかし」であって、それを認めるわけには行かない。一方ビートたけしはこれを外から見ているので「大変なことになっちゃったね」と言っている。

お笑いを内側から見ている人たちには言いたいことがたくさんあるのだろうが、外側から見ている我々にとっては正直ドウデモイイ問題ではある。映画はスターを囲うシステムで大成功したが、無料で見られるテレビに圧されて衰退する。映画のスターシステムにどっぷりつかっていた人たちは沈みゆく帝国から脱却できなかった。テレビは一段低いものとされてそこに行くしかなかった人たちが結果的に次世代のスターになってゆく。

今回批判を繰り広げたとろサーモンが謝罪に追い込まれたのは、彼らもM-1の優勝で地位を獲得したインサイダーだからである。テレビを捨て去ってYouTubeで一からやり直すくらいの覚悟がないとこの世界からは抜けられないのである。しかし、彼らの言っていることは当たっている。上沼だけでなくその他の人たちが「本当にまともに審査しているのか」という問題や「視聴者を代表できているのか」という問題には業界は全く答えられていない。よく考えてみると、師匠がいないから礼儀知らずなのよねという旧世代感覚の上沼がYouTube世代のことがわかっていてお笑いを審査しているとはとても思えない。

M-1はテレビ局にとっては極めて効率の良いスター育成システムなのだが、それはシステムによるシステムのための王様作りになりかねない。そして、視聴者はわざわざこの閉鎖的なシステムに異議を申し立てたりはしない。黙ってテレビを見なくなりYouTubeで流行を作り出すことになるだろう。だからYouTubeの人たちはわざわざM-1を批判しない。もはやどうでも良いオワコンの権威づけだからである。

上沼がお客と同じ気持ちで審査できているかは証明できない。多分それは次世代のお笑いを支持するお客が残っていないからだ。だから上沼だけでなく他の人たちも過去の基準で審査することになる。だがとろサーモン(正確にはとろサーモンの一人)もそれが説明できない。だから酔っ払って非難することしかできなかったのだ。彼は自分が何に支援されていたのかもよくわかっていなかったかもしれない。吉本の小屋にくる人たちがお笑いが好きなのか、テレビで見たあの芸が見たいのかは実はよくわからない。ここが、この事件の一番残酷な点である。

例えばビートたけしはお客には支持されたが正統派ではないということで浅草の芸人仲間から抑圧されたようだ。さらにNHKの新人コンクールでは最高賞を取れなかったそうである。仲間内が審査するようなところからは新しい芸能人は生まれてこない。にもかかわらずビートたけしが世の中に出ることができたのは、当時はテレビの全盛期でヒットが生まれる素地があったからだろう。つまり、ビートたけしは浅草からテレビへの移行期の芸人だと言える。さらに、ビートたけしのような人が「出て来てしまった」のは、浅草が人々から飽きられ始めていたからである。おそらく浅草に通うような人たちの高齢化が始まっていたのだろうと思われる。

上沼が老害なのかということが問題なわけでも、とろサーモンが生意気だということが問題なわけでもない。問題なのはテレビが高齢化にさらされており新しい流行が生み出せなくなっているところにある。だが、テレビに代わって新しいお笑いのブームを生み出せる場所ができればそれも取り立てて大きな問題ではない。浅草が消えてもテレビにお笑いは残った。問題はYouTubeのようなところで新しい笑いが生まれるかどうかだ。それがなくなれば、演芸が日本から消えてしまうことになる。

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ジャニーズはYouTube戦略を成功させるために何に取り組むべきなのか

最近ジャニーズの新しいYouTubeチャンネルを見つけた。SixTONESという名前のグループを滝沢秀明がプロデュースするようだ。SixTONESと書いてストーンズと読むようだが、これは英語圏では通用しないように思う。6人を宝石の原石に見立てて「磨けば光る」としたいのだろう。ジャニーズはオンライン戦略では遅れをとっているが、成功して日本のプレゼンスを高めてほしいと思う。

今回はこの滝沢プロデュースの新しいグループを観察しながら多様性について考える。例えば多様性を大切にする立憲民主党とこれまでの正解を守ろうとする国民民主党のどちらが未来に近いかというようなことがわかるだろう。

ジャニーズが遅まきながらオンライン戦略に取り組み始めた背景にはいろいろなきっかけがあるのだろう。第一にSMAPの分裂騒動をきっかけにしてオンラインで出遅れていることを発見したのではないかと思う。元SMAPの片割れの3人がオンラインに進出しそれなりの成功を収めていることからわかるように、ジャニーズはテレビ・ラジオは支配できてもオンラインでのプレゼンスがない。逆にいえばこの分野では伸びしろがあるということである。草彅剛のチャンネルの登録者は80万人を超えたそうだ。

今のジャニーズのマネジメントチームは高齢化しておりYouTubeの仕組みなどを理解するのは難しいだろう。滝沢秀明はまだ若いのでこの分野について学ぶことができる、また、YouTubeにも日本でのプレゼンスを増したいと考えがありジャニーズと組むのは悪い話ではないと考えているようだ。SixTONESは日本初のプロモーションキャラクタとして選定されたようだ。

SixTONEの曲調はK-POPを意識した作りになっており、ジャポニカスタイルというように日本風を唄っているところからK-POPの成功も意識しているものと思われる。海外進出に取り組んだところまでは評価できるのだが、「日本を輸出する」という点においては完全に読み違いをしている。彼らはK-POPが正解だと思っているのだろうがそれは単に表面上の問題に過ぎないのである。

日本のアーティストは「この壁」が超えられない。政府との結びつきが強すぎる秋元康はすでに右翼扱いされており海外には出られないだろう。これは秋元が政府の考える正解を正確に再現してしまったためであると考えられる。またEXILEも政府系イベントで通り一遍の日本らしさを演出するに止まっており先行きは難しいものと思われる。新潮45や産経新聞社のように、人権と民主主義に理解のない今の体制を擁護する側に回ってしまうとその他のマーケットを全て失ってしまう。「外見的な正解」は人を無能にしてしまうのである。

多分、彼らは「自分たちが何者であるのか」ということを考えたことがないまま日本を輸出しようとしているのではないかと思う。ゆえに改めて日本を演出しようとすると、ハリウッドが勘違いして誇張した日本コスプレのようなものを自ら演じることになってしまう。自民党の憲法草案の序文の薄っぺらさからも日本人が対して自分たちの国をよく理解していないことがわかる。

今回のMVを見るとわかるのだが、着物、富士山のような形の照明、日本風のセットなどがあり「俺たちはジャポニカスタイルでユニークだ」というような歌詞が歌われる。だが、いったい何がユニークなのかということが全く語られない。わびさび、華麗、儚さと唄っているのだが、多分歌詞を書いた人たちも、いったい何が日本風の価値観なのかということは説明できないだろう。彼らは「これが正解でしょ」と一生懸命なのだが、それが何一つ伝わらない。

日本のアニメが海外で成功したのは高度経済成長期からポストバブル期にかけて「なんとなく違和感があるがそれがはっきりとしない」という価値観を海外と共有したからではないかと思う。実写では表現できないから「絵に逃げた」とも言えるし、日本人は大人になってもアニメを見る習慣が抜けないので子供向けではないアニメ市場があったからとも考えられる。大人になってもアニメを見ている人たちは外向きでは立派な社会人を演じながらもどこか「そうでない選択肢もあったのになあ」と感じていたのではないかと思う。日本のアニメの担い手は正解の外にいたので海外に広がることができたと言える。

いわゆる大人向けのOVA作品と子供向けのアニメやヒーローものとは違うのではないかという人もいるだろうが、日本のアニメの作り手たちは単に子供向けのお話を作っておもちゃが売れればいいとは考えていなかった。商業主義的な限界はありつつもそこになんとか彼らが持っている違和感を入れ込もうとした。これは当時正解だった純文学に彼らの居場所がなかったからだ。彼らはのちに正解になることを求めてSF文壇のようなものを作ったがこちらは長続きしなかった。

アメリカ人は防弾少年団を見て「自分たちと同じような音楽を肌感覚で理解し」なおかつ「多様な世界での自己の受容」という基本的な価値観を共有しているということを感じたのだろう。同時に文化的な差異を「発見」してそこにエキゾチズムを見出す。つまり出発点は内心になっており、そのあとで外見に目をつけるという順番になっている。これは日本のアニメが受容されたのと同じ道筋だ。

ところが均質な世界に住んでおり周りに合わせたがる日本人はこうした意味での内心を持つ必要がない。共通点となる内心そのものがないので、今の欧米では共感を得るのは難しい。しかし、たまたま防弾少年団がそうだったのではないかと思う人もいるかもしれないので、別の例をあげたい。

日本のオンラインで成功している人に渡辺直美がいる。渡辺直美のインスタグラムは840万人のフォロワーを擁しているそうだ。彼女の提供している基本的な価値観は「太っているが自分らしく輝いている女性」という従来のファッションアイコンとは違ったキャラクターである。グッチのキャラクターにも「ただ可愛いだけじゃないモデル」として選定され、そのバッシングの過程もニュース(ITメディア)になるという具合だ。ただ、彼女は母親が台湾人のバイリンガルであり、その意味では「普通の日本人」とは違ったアイデンティティを持っている。これがいったん海外で受けて、その評判が日本でのファンを増やすという構造になっている。

実は日本のインスタグラムのフォロワー数の上位3名はいずれもマルチカルチャーなのである。2位はバングラディシュ人の父親を持つローラで、3位は在日韓国人の母とアメリカ人の父を持ち日本語環境で育った水原希子なのだそうだ。つまり、日本でもこうした多様性を持った人たちが受け入れられ始めているということがわかる。海外の評判がダイレクトに日本市場に伝わってくる土壌ができつつあるのだろう。

ここからわかるのはいわゆる内心が生まれるためにはアイデンティティの複雑さが必要ということである。「普通の」日本人はこうしたアイデンティティの揺らぎを感じないまま日本の公教育を受ける。集団と一体化してしまうのでアイデンティティクライシスを感じることはない。ここから除外されたと感じても「自分たちが正解である」と主張する。Twitterで行われているのはこの争いである。彼らは正解などない世界で正解を求めて闘っているのだ。

日本人が正解を求めて戦う一方で多様性の当事者たちは自分たちが多様性を代表しているなどとは言わない。一人ひとり違った成り立ちがありそれを受け入れてほしいと感じているだけである。だから「多様性」などとひとくくりにしてそれを正解と祭り上げているうちは多様性が理解できない。

バイリンガルはわかりやすいアイデンティティの揺れである。しかし、この他にも例えばフレディー・マーキュリーのように「普通とは違ったジェンダー意識」を持っている人たちもアイデンティティの揺れを感じやすい。したがって内心を育むチャンスに恵まれるということになる。

日本のアニメが受け入れられていた時代と比べると世界はより複雑化している。だから、こうした揺れと揺れに伴う価値観の提示がトレンドになりつつあるのだろう。

一方で均質な社会出身の人たちは別の工夫をしている。

以前JYPの国際戦略として、わざと外国人を混ぜるという戦略を観察した。チーム内にアイデンティの揺れを作ることで国際社会への展開の足がかりを作ろうとしているのである。ある7人組のチームにはタイ系アメリカ人と韓国系アメリカ人がおり、これを移民として渡った別のメンバーが橋渡しをするというような構成になっている。このようにアイデンティティの揺れは人工的にも作り出せる。韓国も比較的均質な国であり、海外移民を加えて揺れを出さないと国内組だけで固まってしまう可能性があるということを意味しているのだろう。

ジャニーズの取り組みは最初の一歩であり、道を間違えなければここから発展する可能性はあるのではないかと思う。

旧来のジャニーズはテレビでファンを開拓しそれを強度に組織化することで成功してきた。音楽レーベルに対してチャートの上位に常に入る「売り上げの見込みが立ちやすい」アーティストが効率的に供給できていた。ところがこれが今では裏目に出ている。最新のチャートを見ると上位に1組くらいはジャニーズのアーティストが入るが後が続かない。代わりにYouTubeで大量露出された韓国人アーティストが韓国語のままで複数チャートインするという状態になっている。

旧来のファンが組織化したまま高齢化していってしまうことから見ると、いったん出来上がってしまった組織に後から新規のファンが入るのは難しいのだろう。ここに捕まってしまうとそこから抜け出せなくなるという未来が容易に想像できる。滝沢の場合は国際戦略に合わせると「これは今までのジャニーズではない」と言われるだろう。

実はアンチというのは違和感の結果であり、今後成功できるかどうかの指標になっているのである。単に炎上を目的にアンチを生み出すのではなく、存在そのものに違和感を感じさせるようでなければ未来はないのだ。これは実はエンターティンメントだけではなく、政治にも言えることなのではないかとおもう。

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防弾少年団のミュージックステーション出演見送りの意味


防弾少年団がミュージックステーションへの参加の見送りを表明した。(スポーツ報知)一部でスポンサーへの抗議電話運動などが始まりつつあり、テレビ局側が巻き込まれるのを恐れたのではないかと思う。これを見て「日本のエンターティンメントはかなり特殊な状態に置かれている」と思った。と同時に日本では政治的課題が「かなり面倒なもの」と捉えられていることがわかる。日本人は政治的話題に踏み込むことをほぼ無意識に避けていると思う。そして苦手意識を持てば持つほど政治議論が「荒れ」て一般の人が遠ざかる。保守派は大満足かもしれないが、このことで却って日本の立場が世界に伝わりにくくなってしまうのである。

このエントリーでは「政治」をかなり乱雑に捉えている。アーティストにとって個人の価値体系を語ることは大切だがこれは政治課題とは地続きだ。個人の価値体系から政治的課題だけを取り出してそれを「語らない」ということは本質的にはできないはずなのである。一方、アイドルは受け手が「聞きたい」と思っていることをあたかも自分の発想のように演じられる人だ。これも今回は重要なテーマになっている。日本ではアイドルがより複雑な自己を演じなければならないような状況が生まれつつあると思う。

まず防弾少年団についておさらいしておく。2013年にデビューした7人組のボーイバンド(英語では楽器を演奏しなくてもアイドルグループというような意味で使われる)である。所属はBigHitエンターティンメントという中小の事務所だ。グループの動向はKSytleなどで知ることができる。最近、英語圏での活躍が目立っておりビルボードチャートで一位を獲得したり国連で演説したことなどが話題になった。国連演説では多様性のアイコンとして扱われた。自分らしくという言葉が出てくるのだが日本とは使われ方が異なっている。一方で防弾少年団と日本との関係はあまり良くない。日本に進出しようとして秋元康とのコラボを計画したが韓国のファンの反対で中止になったこともある。そして、今回メンバーのジミンが「原爆を肯定するかのようなデザインのTシャツ」を着用していたことが問題になり特定の人たちから反発されることとなり、テレビ出演がキャンセルされた。

この問題についてバンドや個人が下手に謝ってしまうと「日本に屈した」ということになってしまうだろうし、謝らないと「原爆という絶対悪」を肯定したことになってしまう。とても議論の別れる問題である。日本の識者の中に素直に謝ればいいのにと言っている人がいたが、日本人の自国中心主義の傲慢さがよく表れている。海外のメディアではABCとBBCが伝えるのを読んだが、日韓の関係性が悪化してゆく文脈の一部として捉えている様子がうかがえる。細かいことはわからないが「あの二国は仲が悪い」という理解なのだろう。

ボーイバンドが議論の別れることについて発言することに慣れていない日本のファンは「知らずにやってしまったのでは」と思いたくなるのだが、実はBTSはもともと議論の別れる問題について関わるのを厭わないグループであり、その意味では純粋なアイドルとはいえない。

韓国の芸能人ももともとあまり政治的に議論の別れる問題に関わらない。地上波放送にはまだ検閲も残っているようで、ケーブルテレビに視聴者が流れる一因にもなっているようだ。国営のKBSでは日本語の歌詞を含んだとされる曲が放送不適格になったこともあった。このため政治的発言に関する慎重さは日本より強いかもしれない。さらに炎上も多く「反韓感情があるとされるビートたけし」との関係を仄めかして炎上したアイドルもいる。(Kstyle)このため、アーティストよりアイドルの需要の高い国と言えるだろう。アイドルはソウルの言葉で話すことになっているというお約束もある。日本の芸能人がテレビでは訛りを出さないのと同じ感覚だろう。

しかしBigHitエンターティンメントのような中小事務所はアイドル候補生をみつけて自前でじっくり育ててからテレビに露出するという方針が取れない。そこで、アンダーグラウンド出身の人たちも視野に入れてバンドを組むことになったようだ。KStyleによるとアングラでは「即戦力」としての芸能人が発掘できるという。リーダーのRM(当初はラップモンスターと言っていた)は「大南朝鮮ヒップホップ協同組合」といういかにもアンダーグラウンド的な名前のグループで活動していた時代があるそうだ。朝鮮半島を韓半島と言い換える韓国ではかなり刺激的な名前である。そして政治的に議論が別れるLGBTQの問題についても発言していたようである。さらに、ソウル出身者はいないので普段から方言で話している。事務所はアイドルらしく売ろうとしたが彼らは言葉を直すのを嫌がったのである。つまり、彼らはもともとちょっと反体制の匂いのするグループで、東方神起やTWICEのようなアイドルグループとは違っている。

ローリングストーンのこの記事によるとこれが英語圏で支持される理由になっているものと思われる。意見を表明したことで自分の言葉で価値観が語れるという評価を得たのだろう。ローリングストーンの記事にはLGBTQへの抑圧が激しい韓国であえて問題提起をするのは勇気のいることであっただろうというようなことも書かれている。

英語圏で重要なのは自分の言葉で価値観を語れることである。だからアイドルが政治的課題について語るのは重要かと質問すると焦点の合わない答えが返ってくる。政治的ポジションを表明するかしないかは個人の自由に任されているというのだ。だが、個人の信条を理解してもらおうという態度は支持されるうえにアーティスト活動の本質であるともいえる。英語圏では個人の価値観と政治が地続きになっている。

一方日本人は政治的課題を語るのを避ける傾向がある。言い換えれば、日本人は議論が別れる問題を自力で解決したがらない。代わりに日本人は正解を知りたがる。そして自分たちがその正解の中にいることを確認したいと望むのである。群れで生きる日本人は群れから外れることを嫌がるのだとも言えるだろう。

今回、防弾少年団の問題でファンたちは「自分たちが日本でのアイドルの正解に当てはまらないグループ」を支持しているということを知ったはずだ。わかっていて防弾少年団が好きだった人たちもいるだろうし、そうではない人たちもいるだろう。今後防弾少年団が日本でどうなるのかというのは観察テーマとしては面白い。

だが、もっと重要なことがある。議論が別れる問題を避けるということは意見の違いを調整できないということを意味している。それどころかそこに議論が別れる問題があると認識することすら世界の破滅を意味するようだ。この怖れが何を意味するのかについて考えてみたい。

政治的な課題を扱っているはずの「朝生」ですら、右と左という枠組みができており、そこからはみ出す人はいない。移民に反対するはずの右の人たちですら表立っては安倍政権批判ができないし、改憲すべきだという人権主義者もそれが言えない。ある意味二極化という調和構造ができており、そこで「争ってみせる」のが日本の政治議論なのだ。それをちょっと「壊してみせる」のが田原総一郎の役割だ。

日本人が抱えるこの恐怖はミュージックステーションの公式サイトの文言からも見て取れる。今回の問題に間接的にしか言及していない上に、原爆とは書けないので「Tシャツのデザイン」としている。あれは単にデザインではなくメッセージである。政治的に議論が別れることに触ることに強い恐怖心を感じるのだろう。

出演者変更について
11月2日に予告しましたBTSの11月9日放送回でのご出演を今回は見送らせて頂くことになりました。以前にメンバーが着用されていたTシャツのデザインが波紋を呼んでいると一部で報道されており、番組としてその着用の意図をお尋ねするなど、所属レコード会社と協議を進めてまいりましたが、当社として総合的に判断した結果、残念ながら今回はご出演を見送ることとなりました。ご出演を楽しみにされていた視聴者の皆様に深くお詫び申し上げます。

この原爆Tシャツの問題が正面から日本のテレビで取り上げられることはなかった。日本では8月になると「原爆の犠牲者を悼みましょう」というような通り一遍の報道しかないが、アメリカでは原爆が「戦争を一発で終わらせたクールな技術」と捉えられることがあり、韓国では解放と結びつけられることもある。今回は韓国人デザイナーの「大した意味はなかった」という釈明が紹介されているのだが、ファッションの一部としてくらいの認識しかされていないということ(Wow Korea)も実は問題である。これを変えるためには日本は圧力ではなく説明を通じて理解者を増やして行かなければならないはずだ。そもそも原爆に対する認識が日本と世界で違っているということすら知らない日本人がそれ以上の行動を取ることはないだろう。前回ご協力いただいたアンケートで「日本側が説明すべき」とした回答は30名強いの参加があったうちのたった2つだった。

今回は津田大介が本島等元長崎市長の論考を取り上げている。実は当事者は「何も説明しなければ、問題の本質は伝わらない」と考えていて、実は日本人と当事者たちの感覚にもズレがある。

韓国の歌謡番組は今でも恋愛に関する歌を歌ってランキングを発表して終わりになってしまう。ゆえにアイドルが個人の価値観について語る必要はあまりない。一方、日本人はこの形式のショーに飽き始めており、アーティストに個人の意見を述べさせている。しかし、そこから政治課題をあたかも最初からなかったかのように除外する。日本人は正解しか語れないのだ。

Twitterでは毎日のように政治的分断を目にする。実は内心まで踏み込めば政治的意見に違いがあるのは当たり前のことだ。それでも、テレビの歌番組では調和が演出されている。これを念頭に今回のミュージックステーションをみると「アーティスト風味の歌い手たち」がどこかディズニーランドのキャラクターに見えてくる。

これは、実は日本人アーティストが海外に出て行く上での障壁にもなる。政治について考えた上で語らないならそれは選択肢として認められるだろうが、面倒なので考えたことがないとなるとまた話は別だろう。ディズニー映画のお姫様ですら自立性が要求されるアメリカでは単なるお人形にはアーティストとしての魅力はない。そもそもアンテナに引っかからないからだ。

だが、それよりも日本人が日本のポジションを海外に説明できるようにならないということの方が重要なのではないかと思う。

このため日本を世界に発信しようと考えると必ず富士山を入れてみたり日の丸をモチーフにしたような通り一遍でよそ行きのものになってしまう。ただありきたりの違いを示しただけで、根本の共通点は見せられないから共感は得られない。一遍の演出だけでは相手の心を掴むことはできないのだ。一方、文化や状況は違いながらも多様性を尊重するというイメージのついた防弾少年団は韓国語のままで英語圏の一位を獲得できる。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

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防弾少年団(BTS)ジミンと原爆Tシャツ

日本公演に合わせてBTSの事務所が日本公演に合わせて2018年11月13日に謝罪文を出した。原爆についての謝罪は十分とは言えないが、関係諸団体と連絡を取るとしている。この際に原爆被害者への理解を深めるべきだろうが、いずれにせよ当事者間の問題であり、周りが代弁者になってバッシングすべきではないだろう。





防弾少年団(BTS)のジミンが原爆Tシャツを着て日本を挑発したとして話題になっている。韓国人歌手の「反日活動」は珍しくないのかもしれないが、紅白歌合戦の歌手として選ばれるのではという観測があり、国連で演説をしたグループ(Courrier Japon)としても知られているので、よりやっかみも強まるのだろう。

この件について調べてみると、BTSがなぜアメリカで人気のグループになれたのかということがわかってくる。BTSは実は韓国の芸能人が守ってきたあるルールを破ることで人気になっているのである。

まず、この原爆Tシャツ騒ぎが本当にあったのかを調べてみた。Googleによると、原語で지민(ジミン) 원폭(原爆) T 셔츠(シャツ)となるそうだ。ニュースサイト(韓国経済)では次のように説明されている。翻訳はGoogle翻訳を使った。つまり、韓国では原爆は祖国解放のために役立ったものとして位置付けられているということがわかる。対日(對日)となっているのはGoogleの間違いではなく、ハングルに漢字の振りをつけているからだ。

Tシャツの説明では、「国を奪われ、日本の植民地支配を受けた日本植民地時代という長い闇の時間が経って国を取り戻し、明るい光を見つけた日がまさに「光復節」である。1945年7月26日、米英、中は「ポツダム宣言」で対日(對日)の処理方針を明示するとともに、無条件降伏を要求した。日本がこれを無視すると、米国は8月6日、広島では、9日長崎に原子爆弾を投下した長崎原爆投下6日後の8月15日、日本は連合軍に無条件降伏を宣言した。9月2日降伏文書に署名し、正式に太平洋戦争と第二次世界大戦が終わった。韓国の光復をTシャツに表現したルーズな感じの長袖Tシャツだ」という紹介がされていると伝えられた。

もちろんネトウヨ業界では韓国人が紅白歌合戦に出場するのはいけないことに決まっているのだから、BTSは「日本で商売しなくても結構」となるだろう。逆にBTSのファンやリベラル界隈はこのニュースをなかったことにしたいはずである。では、このうち「どちら」が正しい態度なのであろうかということになる。原爆は「議論の別れる問題」だが英語ではこれをcontroversialという。日本語には訳語がなく「物議をかもす」などと訳される。実は英語圏ではBTSはcontroversialな議論に勇気を持って立ち向かうというイメージがあるのだ。Rolling Stoneの記事を見つけた。

BTS, who just became the first K-pop act ever to top the Billboard 200 album sales chart, have become a record-setting success story in part because of their willingness to buck this convention. The seven young men who make up the group have been speaking their minds since their debut, openly discussing LGBTQ rights, mental health and the pressure to succeed – all taboo subjects in South Korea. Their stance is particularly bold given the Korean government’s history of keeping an eye on controversial themes in pop music. By straddling the line between maintaining a respectable image and writing critical lyrics, BTS have offered a refreshing change from what some critics and fans dislike about the K-Pop machine.

デビュー当時から彼らはLGBTの権利やメンタルヘルスについて語ってきたと説明されている。これらは韓国の芸能界ではタブーなのだそうだ。韓国政府は芸能人がこうしたcontroversialなテーマについて触れるのを監視してきたと書かれている。つまり、もともとギリギリのところを「攻略する」グループだったわけである。だからジミンが原爆を扱ったというのも偶然や気の迷いとは言い切れないのである。

原爆は戦争という極端な現実の会社の正解が必ずしも一つではないということを示すよい材料を与えてくれる。日本では原爆というと被害の側面しか強調されないのだが、世界の認識は必ずしもそうではない。例えばアメリカにはもっとひどい認識がある。日本が続けていた戦争を科学技術で「一気に解決」し、戦後のアメリカ主導の国際秩序を作るのに役だった「クールな発明品」という認識がある。科学技術の結びつきから放射能マークや原爆のキノコ雲をかっこいいという人もいる。日本人が感情的に反応すると、とても戸惑いを覚えるようなので、彼らは悪びれずにそう思っているのではないかと思う。

しかし、我々はアメリカを見て反日とは言わない。アメリカは日本より強くて上という意識があるからだろう。だから、オバマ大統領が広島を訪れた時に、反核運動の人たちはこれを過剰にありがたがり、謝罪をしなかったことを無視しようとした。だが、下に見ている韓国人が同じようなことをすると「反日」ということになる。また、日本のファンもBTSは応援できても、原爆に肯定的な見方をする人がいるなどとは思わない。だからもともと韓国を面白く思わなかった人も、BTSを応援していた人も同様に戸惑うことになる。

世界に通用するバンドを応援するということは実はとても大変なことなのだということがわかる。相手がどうしてそのような認識を持っているのかを学び、なおかつそれが許容できないなら真摯に伝えて行かなければならない。もちろん、芸能と政治は分けて欲しいという人もいるだろうが、そもそもBTSはそのようなバンドではない。相手が自分の思っている通りではなかったから嫌いになるという人もいるだろうが、それはそれだけの愛情だったということだ。だからといって、嫌われるのがいやで全てを受け入れるというのもまた愛とは言えない。愛を歌うことの多いK-POPの歌詞にはよく다가와다/다가가다という言葉が出てくる。近づいてゆく/近づいてくるという意味の言葉だが、このしんどさとその裏側にある尊さが試されているとも言えるだろう。

日本人なら誰でも原爆の被害について広く伝えて行きたいと思うはずだ。だからこそ、相手が持っている原爆の認識について受け止め、同時に広島や長崎で何が起きたのかということを伝えなければならないということになる。やはり我々の国は原爆に傷つけられたのだし、その影響は長い間消えなかった。一方で、日本の決断の遅さがあの惨状を招いたのもまた確かである。軍部は失敗を認めるのを嫌がり、インパール作戦で多くの兵士を見殺しにし、沖縄を捨ててもなお間違いを正せなかった。だが、誰の言っていることが正義で誰がそうでないかという線を引くことはおそらく誰にもできない。それが戦争である。

あの犠牲者たちの写真を見せられてもなお「原爆が戦争という矛盾を一気にきれいに解決した」と言える人はそう多くないはずだ。だが、あの写真も実は真実の一面であって、未だに世界では原爆を解放者のシンボルとして捉える人が多いという側面もある。私たちは戦争を起こした当事者ではもないのに、それを丸ごと受け入れなければならない。戦争はとても不当な過去からの贈り物である。

BTSのジミンが情報を得た上で確信犯的に「原爆はかっこいい」と思っているのか、単に被害の写真について見たことがないだけなのかは実はよくわからない。相手が説得できるかはわからないが、事実としての広島や長崎の惨状について粘り強く語ってゆくしかない。過去は変えられないが未来は変えることができるかもしれないからである。もちろんそんな義務を背負う必要は誰にもないが、それが分かり合うということである。

もし、ジミンの態度が変わらなかったとしても、チケットを買ってコンサートに行くような人がチケットを買う自由はあるし、誰かがそれを責めるべきではない。さらにけしからんからテレビ局を囲んで潰してやろうという行動は「相手にわかって欲しい」いうファンの切実な願いを踏みにじることになるだろう。

一方で、態度が変わらなかったのなら、紅白歌合戦には出るべきではないかもしれない。紅白歌合戦はK-POPファンのみならずいろいろな人が見る番組であり「広島や長崎でどんなひどいことが起こったとしてもそれでも原爆を支持する」という人が受け入れらる余地はやはり少ないだろう。亡くなってしまった人の他に、生涯差別を受けた人もいるし、原爆二世というだけで複雑な思いを抱えてきた人たちもいる。こうした人たちも紅白歌合戦を見るだろう。NHKがそれでも彼らを出すのなら、多分問題を整理したうえで全てを受け止める責任がある。

この「知らせた上で相手に選択肢を委ねる」ということはとても大切だと思うのだが、日本ではこうした発想が起こりにくい。個人の主張や選択をあまり信じない日本人は「相手もまた変わらないだろう」と思いがちだ。だが、こうした諦めを持っている限り、原爆や戦争というものが時に取り返しのつかない被害を与えるのかということは伝わらない。

戦争のような劇的な行為が深刻な価値観の分裂を後世に残すのは当たり前のことであり、それを後の人たちが変えることはできない。戦争で助かった人がいることも確かなのだろうが、かといって亡くなった人も帰ってこないからである。

だから、戦争はいけないことだということを再認識するためにも相手の認識を受け入れた上で、自分たちの感覚や感情も率直に語ってゆかなけばならないのではないかと思う。ファンとは辛いものだと思うのだが、日本のファンは組織的で粘り強い。真摯な気持ちを表明した上で相手を説得するという作業をやってできないことはないと思うのだが、いかがだろうか。

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「ジャニーズは踊りが下手」について考える

テレビ朝日のミュージックステーションを見た。普段はYouTubeで韓国のダンスグループばかりを見ているので、韓国人は踊りが上手だがジャニーズを中心とする日本のアイドルは踊りが下手なのだと思っていた。しかし、東山紀之率いるジャニーズJr.をみて印象がガラリと変わった。どうやらそれは間違いだったようだ。

ただ、これはレビュー舞台だから成立するのであってテレビでは無理なんだろうなとも思った。さらに少年隊の昔の映像が流れ、昔のジャニーズはちゃんとダンスを踊っていたということもわかった。つまり、ジャニーズの踊りが劣化しているわけではなく、今のテレビでは思い切りダンスが踊れなくなっているのだろうと思った。

原因は二つあると思う。一つ目の理由は箱の小ささである。お気に入りのタレントのアップを見たいと思う人は引きの映像で踊りを見せられても面白く無いだろうし、今回見たレビューのような一糸乱れぬダンスもテレビの箱の大きさには似合わない。もう一つは日本人の心境の変化だろう。韓国のダンスと比べると自己主張ができなくなっているように思える。これで使えないダンスが出てくるのだ。

韓国のダンスグループは歌番組では完璧なダンスを披露しバラエティ番組でギャップを見せるという構造になっている。また「揃える」という発想はあまりなく、一人ひとりが体型の良さを生かしたダンスを披露する。このため訴えかける圧力を感じる。歌詞も「私からあなたへ」訴えかけるものが多い。これは韓国人の性格にあっている。

ところが日本は状況が異なる。例えば日本人が好む俳句には読み手の情は出てこない。季語を使ってほのめかすのが「美風」とされる。気持ちを直接伝えられると押し付けられると不快に思う人も多いのではないだろうか。このため歌詞を見ても「その気持ちわかるよ」とか「みんなで一生懸命に未来を作って行こう」というようなものが多い。一人称が巧みに避けられているのである。AKB48の「フライングゲット」は一人称だが、相手のでてこないいわば幻想の世界である。これを恋愛対象になる女性に歌わせることで「訴えかける必要が無いのに望ましい状態が実現する」という世界を作っている。

さらに、アイドルはあまり上手にダンスを踊ってしまうと親しみが持てなくなるという計算があるのだろう。YouTubeで過去の動画などをチェックすると踊れる人もダンスを制限していることがわかる。このためテレビだけを見ていると「あまり踊れないように」見えてしまうのだ。

それでも、昔の少年隊などを見ているとバク転をしてみたり、足を思い切り伸ばして「大きく見せたり」という工夫をしているのがわかる。高度経済成長期には「訴えかける」圧力は許容されていたことになる。「草食化」が進むことで、これが徐々に押し付けがましいと感じられるようになったのだろう。

一方でLDH系のダンスはどうだろうか。以前に中途半端な考察をしたことがあるのだが、当時は違いがよくわからなかった。今回改めて調べたところHIROさんのコメントと称するものがいくつか扱われていた。雑誌での発言が引用されているのかもしれない。このコメントによると、ジャニーズはそれぞれのタレントが歌と踊りをやる。これは10代から訓練しなければできないそうだ。もう一つはジャンルが違うという主張である。HIROさんは「ニュージャックスウィングだ」と言っているようだ。

ではニュージャックスウィングとはどんな踊りなのだろうか。これについて調べてみるとグルーブ感という用語に行き当たる。もともと黒人音楽には土俗的な要素が入っている。この土俗的な要素をグルーブ感というらしい。YouTubeの解説映像が見つかった。全身の円運動を中心としてリズムを作り、これを徐々にずらしてゆくらしい。つまり、体全体を揺らし、さらに正規のリズムをずらすことで「人間的な」感覚を入れこんでゆくのがグルーブ感ということになるようだ。

例えば吹奏楽とジャズの違いを考えてみるとわかりやすい。典型的な甲子園の応援曲は吹奏楽的に演奏される。リズムがしっかりとしているので「かっとばせXX」というリズムが乗せられるのである。こうした統制されたリズムは機械的な印象を作る。

吹奏楽出身者はポピュラー音楽でも楽譜通りに吹いたり叩いたりする癖がつくので「面白みに欠ける」とか「音楽のライブ感を殺す」などと言われる。ダンスコンテストのダンスが体操競技のように見えるのは、個々の踊り手ではなくシンクロナイゼーションを重視しているからだろう。

ここからダンスには三種類があることがわかる。ジャニーズのような優美さを追求するダンス、個性を打ち出す黒人音楽的なダンス、そして日本人独特の集団体操的なダンスである。体操競技には芸術的な美しさはなく技巧が焦点になる。

ジャニーズのダンスは突き詰めてゆくとバレエになるのだろう。体つきを優美に美しくみせるユニゾンとソロダンスが特徴である。バレエダンサーは無駄な筋肉をつけない。筋肉がつくと人間らしく見えてしまうからだ。ジャニーズの踊り手たちも肉感をそいでお人形のようになってゆく。少年性を残しているほうが「お人形のように」美しく見えるのだろう。これは一つの芸術の形になっている。先ごろ滝沢秀明がジャニーズJr.を指導するために現役を引退するというニュースがあった。テレビから見ると「引退」だが、実際には活動場所が変わってしまうだけということになる。確かに、あのレビューをテレビでやるのはかなり難しそうだ。

一方で、LDH系の踊りはグルーブ感を乗せてゆくので「揺れていて」「重みがあった」ほうが迫力が出る。彼らはウェイトを使った筋トレをしていて踊りにもブレとズレがある。これが土俗的な美しさを演出するのだろう。

少なくともネットに出回っている記事によると、HIROさんはこれをジャンルの違いと捉えているようだが、実は「何を目指しているのか」が全く違っていることになる。ジャニーズは身体性と個性を消すことが最終的な目的になっており、LDHは身体性を打ち出すことが目的になる。

ただし、LDHのダンスを見ているとダンサーが技巧を示すために「速さ」にこだわっているのがわかる。本来はグルーブ感を出して訴えかけるダンスをすべきなのだが、ついつい技巧にこだわるようになるのだろう。どちらかといえば体操の概念に近い。より複雑に鉄棒を飛んだほうが「難しいことができてえらい」という価値観である。

ここまでくると他のダンスも見てみたくなる。まず盆踊りを見てみた。盆踊りは手足だけで踊る。実際に歩いてみるとわかるのだが、足を長く見せようと思うと足と骨盤が一体になっているように足を使う必要がある。ところが日本人は個人が大きく見えるようなやり方は好まずたくさんの人数で迫力を出すことを目指しているようだ。全員が狭いスペースで動くので前には動くが横への動きはそれほど多くない。

ヨサコイも同じである。手足だけで踊っている。ただしヨサコイには盆踊りにはない横のステップがある。盆踊りにもヨサコイにも手足を伸ばして自分を大きく見せる動作はないし、一度かがみこんで反動をつけて体を大きく伸ばすような動作もない。

このスペースの制限と体全体を使わないことが日本のダンスの特徴ということになるだろう。これが顕著に出たのがオタ芸だ。オタ芸は上半身はサイリウムを振り回しかなり忙しい動きをするのだが、足を伸ばしたままで下半身には動きがない。これはもともと狭い劇場で生まれた踊りだからではないかと思う。

日本人は制限された狭い場所に集まってみんなで一緒の動きをしたり機械的に掛け声をかけたりするのが好きなようだ。これは体操競技的に技を競い合うのとは違っているし、人形のような美しさも、ずらした動きで人間らしさを表現するダンスとも違っている第四のダンスと言えるだろう。

ダンスには集団への埋没、技巧の追求、人間性の脱却、人間性の追求という異なった目的があるということになる。

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