「保守」のこころね

今日は面白いTweeetの紹介から。

帰化とは「心を入れ替えること」だと主張している。これは日本人の心情をよくあらわしている。では心を入れ替えるとはどういうことだろうか。具体的には集団に尽くすことを意味しているものと思われる。会社でいう「雑巾掛け」だ。つまり意思決定の下位にのランクに入り「俺たちに尽くせ」と言っているのである。カラオケで「俺の歌を聞け」と言っているようなものだ。

こうした心情は村落共同体に暮らす人ならだれでも持っている。日本人は新しく入ってくる村人が自分たちの既得権益を脅かすことを恐れる。世話をかけず自力で生活し、なおかつ自分たちを助けてくれたり、何かおすそ分けしてくれることを期待する。何かくれるからといって威張ってはならない。そのため、村人は飛び抜けて優秀でもないが世話をかけすぎることもない中庸な人たちを求めるのである。

一方で「日本人でも日本人らしくない人」がいると言っているのだが、これは「俺に尽くさない人が多い」ということを意味しているのではないかと思える。「誰も俺の言うことを聞かない」という不満の表明である。俺は長い間雑巾掛け(自己主張せず他人に尽くす)をしてきたのだから、そろそろ後輩ができてもよいころだと考えるわけである。いつまでも部活の一年生状態は嫌なのだ。

最後の文章はゲストステータスを示す。これも日本の移民政策上のキーになっている。短期滞在のステータスでいるかぎりは「ゲストとして扱って」美しい日本というものを見せてやろうという表現だ。日本人は客人を大切にするという自己認識があり、それを発露したがっている。しかし、長期的に滞在すれば、いつかは自分たちのコンペティターになるかもしれないし、世話をしてやらなければならないかもしれない。それは困るわけだ。保守の人たちは外国籍の生活保護を極端に嫌がる。

ということで、この文章は日本の保守と呼ばれる人たちのこころねをよく表しているように思う。言い分はわからなくもない。だがこの心情が日本の国際競争力を削いでいる。村落は加入の要件が厳しすぎて窮屈な上にメリットがない。だから若者は都市に出て行く。

都市近郊にはこうしたしがらみを嫌った「かつての青年」たちが住んでいる。彼らは高齢化してもご近所付き合いを嫌う。かつての窮屈さを体験しているからかもしれない。おすそ分けですら「もらったらすぐに返礼しなければならない」と考えて「面倒だからやめてくれ」ということも珍しくない。しかし、その帰結は都市での孤立だ。

実は日本の保守層が感じている。俺は雑巾掛けをしてきたのに誰も俺のために雑巾掛けをしなくなったという不満は、人々が長い間の貸し借りから逃げ出しているということの裏返しなのだろう。会社の場合「俺が10年尽くしても会社は存続していないかもしれない」という懸念がある。非正規だからそもそも会社には期待しないという人もいるかもしれない。この雑巾掛け理論を社会保障に組み入れたのが年金制度だが「どうせもらえないかもしれない」という不安がある。まずは雑巾掛けをして後から受け取るというスキームはいろいろなところで崩れているのだ。

このような問題が国際レベルでも起きている。優秀な人たちは、どこで働くかを選べる。だから、わざわざ窮屈な国を選んだりはしない。たいていは英語が通じて、余暇があり、面白く生活できる国に移住するだろう。一方で、選択の余地がない人たちは日本に来るかもしれない。しかし、現在の日本の移民政策では数年で祖国に追い返されてしまう。すると限られた年限で(仮にそれが違法であっても)稼げるだけ稼ぐ。しかし、それもできないとなると噂はすぐに広まり移住先の選択肢からは排除されてしまう。海外の労働者は保守層に尽くすために生きているわけではなく、自分たちの豊かな生活を求めているからだ。

このように考えてみると、保守というのはあまり難しい概念ではないように思える。長期的な構造が定まればいつかは自分が敬ってもらえるという見込みを持った人たちが保守なのだろう。「他人を敬って尽くしたい」という人は誰もおらず、敬って欲しがっている人たちだけが残ったのが現在の保守なのかもしれない。

このように書いてくると「勝手に他人を分析するな」とか「俺が敬ってほしいから言っているのではない」などという感情的な反論が予想される。「俺を尊敬しろ」とは言えないので「世界に類を見ない日本の歴史のために、日本人は我が身を投げ出すべきだ」というインダイレクトな主張をする。そればかりか基本的人権を憲法で制限しろなどという人さえいる。それも政治的な主張としてはあり得るかもしれない。

しかし、そのように苛立ってみても基底にある不安は解消しないし、憲法を改正しても誰も「あなた」を敬うことにはならない。長期的な構造が崩れたのは終身雇用という体制が崩壊し「雑巾掛け」の意義が薄れているからだ。ここを脱却しない限り、不安は解消されないだろう。

と、ここまで書いて終わっていたのだが、ニューズウィークにAlt-Rightと呼ばれる人たちについての記事が載っていた。排他的な意見を持った人たちらしいのだが、かつてはリベラルだと思われていたシリコンバレー系の人にも思想として広がっているのだそうだ。2007年ごろには「優秀な移民はアメリカの国力を増す」という人たちが多数派であり、Alt-Rightな思想は異端に過ぎなかった。しかし、様相は変わってきているようである。

民主主義の本場アメリカでも民主主義疲れする人が増えているわけで、洋の東西を問わず、中流層に漠然とした不安が広がっているのかもしれない。日本でヘイトスピーチに加担する人たちも、世間では穏健で仕事ができる人なのかもしれない。

豊洲移転問題 – 山本一郎氏に反論する

山本さんが新しいコラムを執筆された様子です。詳しくはこちら。要約すると「専門家委員も政治家も報告書を読んでなかったのに今更騒ぐの?」という話。それはその通りですね。

で、以下は「魚市場は単なる流通拠点だからさっさと移転すれば」という話に関する考察です。


築地市場の豊洲移転問題に新しい進展があった。山本一郎氏が「潰れかけている店が騒いでいるだけなのだからさっさと豊洲に移転すべきだ」と言っている。

確かに山本氏の言い分は正しいと思う。築地の問題は実は大規模流通業者と中小仲卸の対立になっている。中小業者は移転で発生する設備の更新に対応できない。家賃も実質的な値上げになる。加えて築地のコマ数は限られているので、新規参入も難しいし、加入権が高値で売買されたりする。だから中小は移転に反対(ないしは積極的に推進したくない)立場なのだ。

では、すぐさま豊洲に移転しても構わないかと言われればそれもまた違うように思える。東京の職人気質の食文化は中小業者が支えている。この生態系は十分に調査されておらず、中小業者がどのような役割を持っているかがよくわからない。大量消費を前提にしていないので、数年後には東京から美味しい寿司屋が消えていたということもありえる。

もし東京が数年後の「おもてなし」を重要視するなら、築地の移転を取りやめて、どうしたら東京の食文化を守ることができるかを調査すべきだ。大規模業者は移転すればよいと思うが、中小の一部は築地に残るべきかもしれない。実は同じ魚市場でも機能が異なっている。

つまり、反論は「東京は世界有数の食のみやこであり、築地は観光資源だ」という点に論拠がある。すでに産業論ではなく、観光や伝統工芸をどう保護するかという問題だということだ。だから、その前提に対する反論はあるだろう。

まず、寿司屋は大量消費を前提するように変わりつつあるかもしれない。小さい子供にとって寿司屋といえば回転寿司を意味する。大量に魚を買い付けて全国で均一的に提供するというシステムだ。もし、これを是とするなら築地は必要がないし、細かな客のニーズに応える中小の仲卸も必要はない。設備投資にお金をかけられないなら淘汰されてもやむをえないだろう。

次に地方にも独特の魚文化がある。しかし、高級魚は都市の方が高く売れるので、東京に流れてしまう。例えば房総半島で獲れた魚の多くは地元を素通りして築地に流れている。仮に築地に伝統的な仲卸がいなくなれば、寿司ツーリズムのようなものが生まれるかもしれない。やはり地元で食べた方が美味しいからだ。福岡や仙台のような拠点では築地のような問題は起こっていないのだから、おいしい寿司はやはり福岡でというのも手だろう。福岡の人は佐賀の呼子までイカを食べにゆくこともあるし、塩釜にはおいしい寿司屋がたくさんある。地方ではこれが本来の姿だ。

一方、実は地方の魚流通や消費が未整備で東京に依存している可能性もある。だから、地方で高級魚を獲っていた漁師や伊勢志摩の海女さんがが壊滅するということもありえなくはない。実際どうなのかは誰にもわからない。

最近「日本は素晴らしい」というテレビ番組が横行している。確かに魚食文化は日本の優れた伝統なのだが、いつまでも続く保証はない。足元では「魚離れ」が進んでおり寿司さえ全国チェーンに押されている。そんななかで伝統を守るという視点を持つ人が少ないのは誠に残念だ。

実は築地の問題は保守の論客が論ずべき問題なのかもしれない。その意味ではガス会社から土地を買ってあとは役人と民間に丸投げするような知事は保守とはいえない。自称保守という人たちは軍隊を持ったり、天皇についてあれこれ言及したり、他人の人権を制限するのは好きだが、足元の暮らしを守ろうという気概は感じられない。そんなものはほっておいても存続すると思っているのかもしれないが、そういうものの中にこそ伝統というものは存在するのではないだろうか。

働き方改革が失敗するわけ

今日の日曜討論は安倍政権の働き方改革の宣伝をしていた。政府は「ちゃんとやっていますよ」というアピールだったのだろう。「これは失敗するな」と思ったのだが、聞き流しているときには理論的に説明できそうになかった。数時間経ってなんとなく説明できそうな気がしたので、試してみる。

現在の働き方改革の基礎にあるのは「政府による長時間労働の制限」に対する期待らしい。直感的には政府による制限はタリフに似ているように思える。タリフは国内産業を保護するが、その費用を払うのは消費者だということになっている。例えば日本人は高い米を食べているのだが、それは関税が高いせいである。同じように働き方改革という名前の保護政策は労働者に負担を強いることになるだろう。だが、枠組みは分かってもそれを理論的には説明できそうにない。

それではなぜ「政府によって長時間労働を制限」しなければならないのだろうか。どうやらA社が24時間労働をやめると、B社がそのオポチュニティを奪ってしまうという構造ができてしまっているからのようだ。これはコンビニだけではなく、様々な産業で起っているらしい。休んでいてもメールで指示が飛んでくるということもあるそうだ。ここからこぼれ落ちた人たちは非正規というステータスに落ち込んで行く。非正規は強い労働意欲を持てないので、全体的な活気がなくなり成長力が阻害されるということである。

例えて言えば、常に顧客を盗まれる危険性があるので、常時監視していなければならないのだ。顧客も短絡的になっていて「今手に入れられなければ別のところに行く」という癖がついてしまっている。だが、この監視のせいで子供も作れないし人間らしい生活が送れないという実にばかばかしいことになっているらしい。これを当事者間でやめることができないので、政府に監視してほしいと言っていることになる。お互いに縛り合っているうちにどうしようもなくなってしまったのだ。

政府は「監視しましょうか」と約束しようとしているのだが、パネラーの1人が「罰則が必要」と言っていた。

さて、ここからが問題だ。考えるべき要素は2つある。1つは監視がうまく行くかということだ。監視には費用がかかるのだが、労働基準監督署が強制力を持つような法整備はテクニカルには可能だが、労働警察を作って企業を24時間監視するには莫大な費用がかかる。誰がその費用を負担するのかといえば、実は労働者(=納税者)だ。

このような監視網が作られると脱法することのインセンティブが生まれる。法律の目をかいくぐったり労働警察の目をすり抜けたりすることにインセンティブが生まれることになる。罰則覚悟でもシェアを伸ばしさえすれば市場が独占できるわけだ。経済的利益があるところには必ず人は集まる。物が高いところから低いところに落ちて行くのを政府は制御できないのだ。

このように考えてくると、非常に単純な一つの疑問が浮かんでくる。「なぜ、監視し合わなければならないのか」という点だ。日本の産業の多くがサチュレーションを起こしていて、新規事業がないからではないだろうか。例えば、運輸業・保険業・携帯電話産業・電機・飲料・流通(デパート、スーパー)など成長が止まってパイの奪い合いになっている産業ばかりだ。こうした産業が顧客を奪われないようにするためには、24時間365日客を監視していなければならないのである。

つまり、この問題も日本に成長産業がなくなったことが原因になっているということになる。古い経営からリソースを解放しないかぎり、日本の労働条件は良くならないだろう。パネラーたちの要望が加藤大臣に聞き入れられても、脱法的な収奪行為が増えるだけなのだろう。

教育コミュニティと社会的報酬

最近、中古のMacintoshを手に入れた。最新OSが乗る物を1つは置いておきたかったのだ。セットアップすると分からないことが多く、いろいろなディスカッションボードで質問をすることになる。そこで「コミュニティと社会的報酬」についていろいろ考えた。

Appleのディスカッションボードはかなり紳士的だ。実名・匿名が入り交じっているのだが、回答者の知識は豊富で実践的な提案もある。最近はiPhoneユーザーが増えて「シロウトっぽい」質問も多いのだが、それにもできるだけ丁寧に答えている。

Appleのディスカッションボードが荒れないのは、ランク分けによる社会的報酬が与えられているからである。回答がよいと「役に立った」とか「問題が解決した」という評価が与えられ、バッジが上昇する。また、ランクが上がるとリアルのイベントに招待される仕組みもあるようだ。このリアルとつながっているというのはとても重要らしい。

一方で荒れているコミュニティもある。Yahoo!知恵袋で「デジカメ一眼レフのおすすめ機種を教えて」などと言えば「素人は何を買っても同じ」とか「自分が撮るべき写真がわかってから質問しろ」などという辛辣な回答が並ぶ。いわゆる「自己責任論」も横行している。上から目線でデタラメな回答(本人は正しいつもりなのだと思うが)を羅列する人も多いし、自分が知らないことを隠蔽するために自己責任論をひりかざす人もいる。「あなたがトラブルに巻き込まれたのは、あなたの不注意のせいだ」と言い、質問には直接答えないのだ。

荒れるコミュニティにはいくつかの要素が絡まっていそうだ。第一に「知識を持っている人は偉い」という序列意識がありそうだが、それだけは全てを説明できない。もし「くだらない質問だ」と思うなら答えなければいいだけなのに、なぜわざわざ長い時間をかけて他人を罵倒するのだろうかという点には疑問が残るのだ。

素人の質問に不快な思いをしているのだろうと思われるのだが、ではなぜ「不快な気持ち」にさせられるのだろうか。

多分、書いている本人が何らかの不満を抱えているのではないかと思われる。自分はこんなに知識があるのに、なぜ他人は理解してくれないのかという気持ちだ。それを他人にぶつけているのだろう。結局のところ「社会的報酬が得られない(平たい言葉でいうと評価されていない)」という不満を他人にぶつけているのではないかと考えられる。

こうした情景はYahoo!知恵袋だけでなく、様々なコミュニィで見られる。放置されていて社会的報酬が与えられないと、不確実な知識が増え、自己責任論が横行し、言葉遣いが荒くなる。ディスカッションボードはまだ「ソリューションオリエンテッド」だが2ちゃんねるはさらに荒れていてほとんど妄想に近いような解決策が話し合われている。

リアルでもこうしたことは珍しくない。現場が顧みられず、知識が評価されない企業でも似たようなことを目にする。たいていは教育に問題が起こっており、知識伝達が機能しない。一方で知識に対して社会的報酬があると知的満足が充足し、事故解決能力の高い組織が作られる。

本来ならボランティアワークで奉仕の精神が求められるはずの教育なのだが、実際には人は社会的報酬なしでは紳士的に行動できない。そこで費用を出してでも社会的評価をする必要があるのだ。

個人が炎上したら……

先日来「一般人同士が議論することは難しい」ということについて考えている。これについて考えるようになったにはあるTwitterの@ツイートがきっかけだ。どうやら「言葉の使い方が間違っている」という指摘をされた人が逆上し、ことあるごとに指摘した人につっかかるようになったということらしい。その突っかかり方は尋常ではなく、2ちゃんねる(もしくはそれに似た掲示板)では職業が特定された上で「障碍者枠で採用された知的障害者」ということになっていた。攻撃されたTwitterアカウントは実名で、攻撃した人のアカウントは凍結されていた。

Twitterで他人と話すときには街で話すのと同じようにしたほうがよいとは思う。街で通りすがりの人に「あなた間違っている」というようなことは言わない。かといって通りすがりの人と会話を交わしていると仲良くなったりもするわけだから、そうやって関係をつめてゆくのがよさそうだ。

しかし、だからといって炎上が防げるわけではない。その2ちゃんねるはもともと反政府系の主張をする人をこき下ろす場だったのだが、それが拡大して対象になった有名人に絡んだ人たちを巻き込んでいったらしい。2ちゃんねるは一般に認知されるわけではない。吹きだまり化が進展し、発言がどんどん過激になり、最終的には妄想に似た決めつけになっている。こうした書き込みでは社会的報酬は得られないので、書き込みがどんどんと過激化するのだろう。多分社会的報酬が得られないことにも腹を立てているのではないか。

一般人が「住所や職業などを特定される」と生活の脅威を感じかねない。刑事事件として取り上げてもらうようにスクリーンショットを取って警察に訴えるという手があるらしいのだが、警察は特定の要件が整わないと取り合ってくれないそうだ。例えば「あいつは殺人犯だ」とか「あいつを殺してやる」などといった書き込みであれば警察は動くが「女とみれば見境なしだ」などといった程度では事件化できないのだという。親告罪なので告訴する意思が必要である。

警察が取り上げてくれないと民事事件にして弁護士に頼むという手があるようなのだ。これには数十万円の費用がかかる。いくつか弁護士事務所のページを見つけたので、お金を払ってでもやめさせたいという人が多いのかもしれない。それだけ中傷が多いということである。有名人や企業の場合、書き込みは商品価値に直結するので、お金を出してでもやめさせるということになる。ただしIPの開示請求に応じる必要はなく、技術的には「ログが削除された」と言われればそこでストップだ。

となると「悪口を言われる実害は何だろうか」と考えるのが一つの手かもしれない。2ちゃんねるは社会的な影響力のない中高年の集まりなので、実害は少ない物と思われる。言葉は過激かもしれないが、行動に出る人は少ないのだ。ただし、その書き込みをみて誰かが襲撃をかけてきたり、あるいは悪い風評で経済的な実害が出れば、それは犯罪行為ということになる。それまでは放置するべきなのかもしれない。逆に普段から「書き込みを監視すべきだ」という意見を持ちたくなるが、却って政府の監視が強まる結果になるだろう。

最近では大分県で野党系の事務所の敷地に無断で監視カメラを設置したとして警察官が書類送検された。大分は民進党や社民党が強い地域なので、警察が暴走したものと思われる。多分、ネットの監視ができるようになれば違法なアクセスは増えるのではないだろうか。

2ちゃんねる(あるいはそれに類する掲示板)に書き込んでいるのは、多分40歳代から50歳代の人たちだろう。中身の傾向を分析しようかなあと思った。一応データマイニングみたいなことはできるわけだが、読んでいてあまりにも気分が悪くなったので途中までしか読めなかった。普段の生活で理路整然と考える習慣がないまま大人になるとこんなにもグロテスクな思想を溜め込むのかという意味ではかなりの驚きがある。

少なくとも高校の過程で、自分の考えを短い文章で述べさせるという教育をしたほうがよいと思う。現在は体制側がこうした人たちを抱き込んでいるのだが、多分過激思想にも簡単にはまってしまうだろう。まさか「国語教育は国の安全保障に直結する」などという結論に至るとは思っていなかった。

小池都知事の帯の位置

今回は保守とはなにかについて考えたい。今回はかなり差別的な発言が並ぶ。

小池都知事がリオオリンピックの閉会式に登場した。これを見ていて「女性が大股で旗を振りかざすのはおかしい」と思った。あと思ったのは「あの着物濡れたら高そうだな」というのと「帯の位置がヘン」というものだった。

「帯の位置が変だ」というのに理屈はない。多分、地方の法事かなにかに出かけてゆけば「あなたおかしいわよ」と言われそうな感じだが、なぜおかしいのかという理由は「昔からそう決まっているから」しかない。男性でもやせていると「着物が似合わなくて可哀想だなあ」と思う。これも理屈はない。ある程度大人になると恰幅がよくなる(単に太るということだが)のがスタンダードだと見なされているというのが唯一の理由だろう。スタイルを保っている人が着物を着ると差別されるのだ。

同じようなことはいろいろとある。最近「天皇を楽にしてあげたい」という人が増殖した。いわゆる「保守」を名乗る人たちだが、NHKのアナウンサー(か、解説員)が同じようなことを言っていて唖然とした。目上に「〜してあげてたい」などとは言わない。言葉が適切でないというわけではなく、そもそも「目下が目上に何かしてやれる」と考える時点で不遜なのだ。

本来「保守的」というのはこのくらい融通が利かない。さらに厄介なことにクラス意識が背景がある。着物を見慣れているとか、階級意識の中で生活するというのは、自分のクラスを肯定的に捉えていて、そうでない人を見下す態度なのだ。生まれ育ちは変えられないからである。同じように「日本語がへん」な人を見下したりするのも同じようなことだ。

しかしながら、園差敬語を知らない人が表立ってその間違いを指摘されることはない。心の中で「あの人の言葉は変だから、生まれが粗野なのだろう」と思う訳だ。同じように「小池百合子都知事が女なのに旗を踏ん張ってみっともない」などとは表立っては言わない。それは「男性」の特権を振りかざす行為だと考えられているからである。だが、厳然として「表に経つような仕事は男の物なのだ」という意識はある。生まれも性別も変えられないのだから、これは差別意識である。しかし、自分の属性や出自を誇るということは裏返しの差別感情を抱えているものなのだ。

少し本題から離れて「差別は何故いけないのか」ということを考えてみたい。一つの経験は海外での生活だ。英語ができない人や非白人に対する差別というものは厳然として存在する。厄介なことに教育やスキルのような能力と関連するので、その差別意識は根深い。こういう「自分の力ではどうしようもない」ことを体験すると、人にされて嫌なことはやめようという気になる。日本でヘイトスピーチがなくならないのは、当事者たちが外にでて差別を体感しないからだろうと思う。

また、日本人男性は「女性を蔑視して従わせる」というようなステレオタイプがあるので、ことさらその種類の発言には気を使うことになる。インドのようなアレンジメント・マリッジ(見合いのこと)があり、渋谷でジョシコーセイを買うのが日本人男性だと思われている。SAYURIという映画では忍従するゲイシャ・ガールの女性を中国人のチャン・ツィイーが演じた。日本人は女性を寒村から買ってくる人身売買が行われているとい考えられている。これはアメリカで白人が「レイシスト」でないとことさらに強調するのと同じ緊張を与える。

最後の要素は自分が差別されかねない状態に陥ったときに生じる感情だ。その境遇を認められないのは他人ではなく自分自身なのだが、意外と自分が苦しむのだ。逆に一生安泰なのは、何もしなかった人だけだが、それでも人は老いて行く訳で、いずれは何らかの差別意識に遭遇することになる。一番ひどい経験は、銀行などで老眼鏡をお願いしただけで「鼻で笑われる」ということだ。多分老眼鏡というのは70歳以上の人がかけるものという意識があるのだと思う。意外と誰でも経験することなのだ。

さて、いわゆる「ネトウヨ」とそれに連なる人たちを見ていると、伝統から切り離されている感じがある。過激なイスラム原理主義の人たちがヨーロッパに多いのは、彼らが本来の伝統から切り離されているからである。本来の保守は差別的だが、ラディカルな思想を排除するメカニズムがある。いわゆる「原理主義」というのは伝統から切り離されたところで生じる暴走なので、差別的な意識が役に立つのだ。本来の伝統から切り離されている「くせ」に弱者を差別して保守を気取る人に「お前は何も知らないだろう」と攻撃するのにも一定の機能はあるかもしれないと思う。

逆に保守を気取る人たちは「自分たちが伝統から切り離されて見当違いなことを言っている」可能性を考えた方がよいとは思うのだが、それに気がつかないからこそ、あのようにラディカルなことが言えるのかなとも思える。

本来保守思想というのは分かりにくいものだ。同じコンテクストを共有した人以上に広がらないからである。現在「保守」とか「ネトウヨ」と呼ばれる人が増えているのは、その大元にいる安倍首相を支える「右翼雑誌系右翼」が劣化したからだろう。劣化したおかげで却って大衆が「ああ、分かる」というようところにおりて来たからではないだろうか。保守が持っていた「階層を保存する」という要素が抜けて、その差別意識だけが生き残ったのかもしれない。

例えて言えば「武士」がなくなったら、農民が刀の代わりに竹刀を振りかざして弱い人たちをいじめはじめたみたいな図式が見える。

東浩紀さんの思い出と日本の言論界

さきほどのエントリーで「日本人が発言すること」について考えた。一般人は発言するべきではないという認識があり、意思決定に関わる発言は特権と考えられるのではないかというのが結論だ。しかし、日本が脱開発途上国化する上で、一般人が自分の意見を形成するのは大切だと思う。モデルのない先進世界には正解はなく、模索が必要とされるからだ。しかし、意見形成するために考えをまとめるのはなかなか難しい。

これについて考えていて東浩紀さんの名前を思い出した。過去に投瓶通信という記事を書いたことがあるのだが、Twitterでご本人から「くだらない」という呟きを頂いた。それにつれてページビューが伸びた。たくさんのフォロワーがいるのだろう。なぜくだらないと言われたのかはよくわからない。

「投瓶通信」は浅田彰さんというバブル期に流行った方について述べている。浅田さんと言えば、学生時代に流行した(多分ちょっと前に流行していた)「ニューアカ」の騎手だが、全く読んだことはなかった。その界隈の人たちを怒らせる内容を含んでいるのかもしれないが、読んだことがないのでよく分からない。ただ、大人になっても「デリダ」や「吉本隆明」などを引き合いに出す人は結構いたので、当時流行っていたのは間違いないだろう。

東さんの呟きにはいっさい理由付けがなかった。ただ「素人は黙っていろ」という上からの呟きだった。当時Twitterは今ほど流行っていなかったので、多分ソーシャルメディアでシロウトがうかうかと論評するというのが耐えられなかったのではないかと思った。論評というのは限られた人たちができる特権だという意識は一般庶民だけではなく言論人の間にもあるのだろうと思う。

言論マスターにならないと意見を発表できないのだが、他人の目に触れないで、なぜマスターになれるのだろうか。よく分からない。

日本の言論界は長い間意思決定からは排除されていた。意思決定は言論ではなく複雑なグループダイナミズムで決められ、「そのコンテクストにいる」ということが重要だったからだ。そこで言論界は「プロレス」的な状況に活路を見いだした。

子供の時代に北杜夫、遠藤周作、筒井康隆などを読んだが、そこには文壇バー(銀座にあるらしい)の様子が書かれている。「野坂昭如が暴れている場所」みたいな感じだ。私小説を脱却した日本の出版界では、文壇バーで夜な夜な作家同士が殴り合うことでコンテンツを作っていた。野坂昭如がテレビカメラの前で大島渚監督を殴る(あるいは逆だったかもしれない)というのがニュースになったりした。

北杜夫のように躁鬱病を煩っている人がその様子を面白おかしく書いたりする読み物もあった。最近相模原で障害者施設が教われる事件があったが、政治家に手紙を書いて主張を伝えたりするのは北杜夫の本を読んでいるようだった。あれで「ピンと来た」人も多かったのではないかと思う。後の分析で津久井の容疑者も「双極性障害なのではないか」という見立てをする人が表れたりしている。北杜夫はマンボウ・マブゼ共和国を設立し、借金して家族を困らせていた。そのように日常生活に収まらない騒ぎを起こすことが作家として重要な資質だと思われていたわけである。

これをテレビ的に仕立てたのが田原総一郎だ。言論空間で殴り合いをやらせたのが「朝まで生テレビ!」である。この後の世代に「ケンカをしかけて見せる」行為が言論なのだという印象を与えることになったのではないかと思う。

ショーマンはけんかしてなんぼという姿勢は今でも残っている。SMAPは解散騒動についてケンカしろという人がいるが、これも「言葉は嘘をつけるがケンカには嘘がない」という認識があるからだろう。ただし、ケンカは感情を発散させる効果はあるが、問題解決には役に立たない。

「朝まで生テレビ!」が残した悪いレガシーは、言論が合意を形成し、問題解決のためには時には妥協するという文化を阻害した点にあると思う。ここから出て来た政治家が「TVタックル」などで自民党を叩いたことが民主党躍進の原動力になった。「コンクリートから人へ」というスローガンが破綻することは最初から分かっていた。藤井元財務大臣が「財源が出なければ謝れば良い」と言っていたことからも明らかだろう。

「相手をなぐって聴衆の耳目を集める」というのは日本の言論界の習い性になっていると考えないと東さんが全く無名である人のブログに背景についての説明を省いたまま「くだらない」などというコメントを寄せる理由が分からない。

前回のエントリーでは「先生と生徒型」の言論空間ができると、生徒に属する人たちが意見表明ができず、合意形成が成り立たないという予測を立てた。これが人民裁判的な状況を生み出している。まとまった意見が形成できないから、さらに乱暴な形で発散されるのだ。さらに「一般人は黙っておけ」という圧力が働くことも予想される。「仕事でくたくたになって帰ってきた人が、堂々と意見を述べる他人」を疎ましく思うという姿勢だ。

一方でそのような空気を抜け出した人の中にも特権意識があったようだ。Twitterが普及した現在ではこういう特権意識はなくなったように見えるが「プロによる論評のみを載せた」とか「識者だけを集めた」というネット言論空間が生きている。なんとなく、江戸時代の水利関係や共有地を巡る論争が未だに生きているのではないかと感じられる。しかし、よく見てみると紙媒体やテレビから排除された人だったり、政治の意思決定から離脱した人だったりする。なかなか屈折した思いがあるのかもしれない。そういう人たちは「上」を叩きつつ、後続が出ないように「下」も排除するのだ。

 

なぜオタクはTwitterでドヤ顔をするのか

2016/10/14: 記事全体を削除しろという要請がありましたが、引用していたTweetのみを削除して全体を遂行しなおしました。


今日の問題はこのツイートから考えたい。

オタクはどうして毎日ツイッターしてるだけの自分の意見が正しいと思えるのだろうか。

このツイートには面白い問題がいくつも隠れていると思う。

日本人は「普通の人」は意見をいうべきではないと考えている。例えば、生徒は教師のいうことを黙って聞くべきだ。

次に意見表明に「正しい」という言葉が使われている。英語でRightという言葉を多用すると、皮肉まじりの反応が返ってくることがある。多様性が前提にあるので「何が正しいか」は受け手が最終的に判断するという意識が強いからではないかと思われる。だが、日本ではそもそも何かを言うということは特権であり言われたことは拝聴しなければならないという強い意識が働く。つまり発言権があるということは正解を決める権利があるということと同じ意味なのだ。

するとこのツイートが持っている意識が分析できる。ピア(同僚)か目下(このツイートでは毎日ツイッターしているだけのヒマなおたくという言葉が使われている)が意見表明するなどということはあってはならないという意識があるのではないだろうか。

なぜ、それはあってはならないことなのだろうか。例えば、表明された意見が空気のように場を支配するからという仮説は立てられる。だから誰かが何かをいうのを牽制しなければならないという意識が働くのかもしれない。

居酒屋談義には「物を言わない」階層の人たちが集まる。上司の愚痴を言っても「プレゼンして社長に掛け合おう」というような結論にはならない。毎日集まって「他のメンバーがなにも言わない」ように監視し合っているという見方もできる。意見表明せずに相手を探りながら空気を醸成しようとするところに要点があるのかもしれない。リーダーシップは重荷なので、半匿名で発言するのだ。

なぜ日本人が「リーダーシップ」を嫌うのか。「決める政治家」には必ずアンチが現れる。安倍晋三、橋下徹、舛添要一郎などが思い浮かぶ。一方強いリーダーに見えても利権を調整しているだけの石原元都知事はそれほど嫌われなかった。そしてアンチの考える「責任」は「視界からいなくなる」ことを指している。日本人は巧みに個人による意思決定を避けているのだ。

一方で、最初のツイートの「普段の仕事に埋没すべきで、意見表明はするな」というのは、明らかな同調圧力だ。意見表明と意思決定は特権のある人たちだけの特別な行為であり、市井の人間は黙っ手だけ動かすべきという意識がありそうだ。だが、それはピアだけでなくリーダーにも及ぶ。そもそも特権的なリーダーは許容されないのかもしれない。

相手に意見を伝えて尊重されたいというのは間違った感情ではないが、自分がまとまった考えを主張できないからといって相手の口を封じるのは間違っている。先日ツイッターで野口悠紀雄が口述筆記を紹介していた。歩いているときにスマホに話かけると文章になって残るという技術があるそうだ。自分の考えをまとめて伝えることができるようになれば、とにかく相手の口を封じてやろうという風潮はなくなるのかもしれない。

ここで「日本人」という言葉が多用されているので反発心を持った人もいるかもしれないが、「先生が一人でしゃべる」という方式はアメリカでは見られない。もちろん教壇は尊重されるのだが、ディスカッション形式の授業も多い。他の国はどうかはわからないが、蓮舫氏を見ていると中華圏でも自分の主張をはっきり伝えるという教育が浸透しているのではないかと思える。学校は一貫して青山学院なのだそうだが、台湾のエリート層には意見形成の教育があるのかもしれない。

先生が一括して教えるというやり方には「正解を効率よく教えることができる」という捨てがたいメリットがある。かつての寺子屋には職業別の手習い本がありその職業に必要な知識と漢字だけを教わるというシステムがあったそうである。このために江戸時代の識字率は高かったそうだ。

日本は世界に類を見ない高齢化社会になったのだから「正解はない」ということ自覚して、社会全体で正解を探る方法を学ぶのはとても重要なのではないだろうか。

PCデポ問題 – 隠れた焦点

PCデポの件は大炎上している。株価が下げ止まらないようで、数百億円が吹き飛んだという話を読んだ。さて、この件に関しての経緯を読んだのだが、ちょっと衝撃を受けたことがあった。騙されたという父親は実は認知症だったようだ。

この件について語る人は少ない。認知症は関わると面倒だと思われているのだろう。多分、テレビでも話題に上らないのではないだろうか。

しかし、この件はかなり深刻な問題を抱えていると思う。この経緯から分かるのは認知症になってもPCデポに出かけて行きパソコンを使うための契約ができてしまうということだ。つまり、行動力は衰えないということなのだ。

PCデポの件が「人民裁判」によってのみ裁かれてしまうと、認知症が疑われる人には物を売るなということになりかねない。高齢者と契約するときに「あなたの精神が正常かどうかを証明してくれ」というような話になりかねないのだ。PCデポはこれから「70歳以上は相手にするな」ということになるだろう。無料解約に応じなければならなくなるからである。企業文化からして「丁寧に対応しろ」ということにはならないように思える。

認知症だという診断は得られるが、そうでないという診断をしてくれる病院はない。しかし、下手に認知症の人に物を売ってしまうと、契約が無効になるばかりか、株価に重大な影響がでかねないとなると「コンプライアンス」の名前のもとに極端な商慣習が広がりかねない。これは高齢者の人権を著しく侵害するだろう。

一方で、家族は二十四時間認知症患者を見ておけないのも事実だ。その間も出かけていって何らかの契約を結びかねない。どうやら、認知症程度であっても、本人が結んだ契約を無効にするのはそれほど簡単なことではないらしい。裁判を起こして、不当な契約だったということを証明しなければならないようだ。そもそも「誰に相談するのか」ということもよく分からない。弁護士の知り合いがいるという人は多くないのではないだろうか。禁治産状態にするということもできるのだろうが、いっさいの契約が結べなくなるということだから、同居が前提になるはずだ。また、本人にそれを了承させるのも極めて難しいだろう。

ある日突然認知症になって何も分からなくなるということではなく、症状は徐々に進む。本人はもちろん分からないし、家族も気づくのが遅れることが多いようだ。どこまで契約が有効で、どこから無効になるのかというのは、多分誰にも分からないはずだ。

PCデポのような「どう考えてもひどい」というようなケースですら、企業との交渉にはかなりの労力がかかる。これからこういうことが増えて行くのだ。

これが10年前ならまだ企業に余裕があり「年寄りを騙してでも成功してやろう」などと考える企業は多くなかった。30年前なら地域に時間に余裕がある人も多く見守りのようなことができたはずである。しかし、現在ではみな忙しく、心理的な余裕もない。

このケースを「政治がなんとかしなければならない」とか「痴呆症患者は高齢化が進むと増える傾向になる。社会の対応が急がれる」と結ぶことは簡単だ。しかし、それよりも「こういう事案に遭遇したら、個人的にどうすべきなのか」ということを考えるのが重要なのではないかと思う。意外とどうしてよいか分からないと思う人が多いのではないだろうか。

ジャニーズ事務所と五社協定

あるTweetへの返信。

ジャニーズ事務所が退団した人たちを競演NGで潰しているというような引用ツィートがあった。それを暴いてほしいというような意味合いだと思う。実際にそういうことは、ジャニーズ事務所でなくてもよく行われているし、逆に抱き合わせで競演させるということもある。だから、あまり新鮮な驚きはない。10年ほど前だったら業界に入って間もない人たちがドヤ顔で「芸能界って汚いところなんだぜ」などと知識を披瀝していたものだが、最近はバーター(束)という言葉が一般にまで認知されるようになった。ネットのおかげなんだろうと思う。

さて、この慣行だが、過去にも事例があった。映画会社は専属システムを取っており、自社の俳優が他社の映画に出ることを禁止していた。だから、映画会社を辞めたことで干された人も多かったのだ。これを五社協定システムという。

ところがこのシステムは面白い形で潰れることになる。映画会社を干された人たちがテレビに流れるようになったのだ。テレビ局は制作会社も持たないので、中小のプロダクションを使わざるを得なくなった。だが、かつての銀幕のスターがテレビに出るようになると、視聴者はテレビを差別しなくなった。それどころか「映画館に行かなくても、無料で楽しめる娯楽」ということになり、映画館への集客が激減した。これがもとに戻ったのはテレビドラマの続編を映画でやるようになってからだ。その間、映画会社はテレビの下請けに転落した。

それは遠い将来の話のように思えるかもしれないのだが、私たちは既に同じような潮流を目の当たりにしている。小林幸子が「芸能界を干された」時に頼ったのがニコ生だった。そこでメガ幸子が生まれ、ボーカロイドの曲を歌い、ついには紅白歌合戦に復帰した。NHKはニコ生を見るような人たちにも紅白歌合戦を見てほしかったのだ。

オリエンタルラジオはインスタグラムやTwtterでかなり入念に仕込んでパーフェクトヒューマンを流行らせ、ネットの人気にあやかりたいテレビ局はこぞって追随した。いつもならテレビ局のやる気なく仕込んだいじめまがいのバラエティー番組のひな壇に甘んじている人たちでも、自分たちの好きなことができるということを証明したのだ。

つまり、ジャニーズを干された人たちは、ジャニーズを出てネットに出ればいいということになる。一人では大した潮流にはならないかもしれないのだが、ネットの番組は「好きなときに見られる」というオンデマンド性があり、テレビよりは優れている。テレビは家族でみなければならないが、ネットはスマホでも見ることができる。家族と一緒に過ごしたくない人たちは、多分スマホの方を好むだろう。

ジャニーズ事務所はグループを囲い込もうとして、グループそのものを破壊してしまった。経済損出は数百億という話だ。スターの発掘をジャニー喜多川氏に依存しているので、後継者がいなければ、事務所は衰退してしまうだろう。実際にはグループを外に出して過去の権利とネーミングライツなどを徴収すべきだったのだが、そのような知恵は働かなかったらしい。しかし、それは時代の趨勢なので「どうでもいい」話だ。

一番危険なのは、未だに事務所とテレビ局に頼りたい木村拓哉さんだろう。かつてのようなお客はテレビを見ていないのだが、その枠組みから離れられない。テレビが映画のように衰退してゆくとは思えないのだが、それでも数あるメディアの一つになるだろう。

映画が衰退すると、かつて「往年の銀幕スター」と呼ばれていた人たちはある時期から化石扱いされるようになった。内村光良がパロディーにするような(キャラの名前は忘れたが)大御所と呼ばれる人たちだ。彼らは一時代を築きはしたが、やがて中身のない笑われるだけの存在になってしまったのである。残念ながら、木村さんがたどりつつあるのはそういう道なのだ。