ある信仰告白

リベラルとか左翼とかいろいろな呼び方があるのだが、あの界隈の人たちの運動が一つの転換期を迎えたと思った。#生活苦しいヤツは声あげろ というTwitterのタグだ。

これまでの左翼運動は「戦争」や「原発」などの穢れに対しての反対運動だった。根底には何らかの別の不満や不安があるのだが、あくまでも穢れが外部からやってくることに対する反対運動の形をとっていた。自分たちの問題だと考えたくなかったのだと思われる。

確かに「普通」を抜けることには抵抗がある。通常、それは脱落を意味するように思われるからだ。だが、そうした運動はクローゼットのなかから叫び声を挙げるようなもので、たいしたインパクトを与えない。自分の問題として認識してはじめて運動体として前進しはじめるのだ。

この動きを考えだしたのが誰だかは分からないが、現状への意義の申し立てだと考えることができる。

キリスト教社会では、こうした「異議の申し立て」を信仰告白という。もともとキリスト教は異端の宗教だったので、信者間以外で信仰告白がされることはなかった。後に信仰告白はローマ教会に対しての異議申し立てという意味合いを帯び、公然となされるようになった。信仰告白は宗教改革期に多く見られ、最終的に国際的な戦争に発展する。プロテスタント運動以前には信仰告白はなかったものと考えられる。「自分が信仰を選び取った」という認識がなかったわけだ。

イスラム教では「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」というのが信仰告白になっている。証人2名の前で宣誓すると、共同体に迎え入れられるそうだ。キリスト教のような異議申し立てのという意味合いはなく、共同体のメンバーシップが強調される。

ともに、自分が特定の心情を持っているということを世間に向けて発表することを信仰告白と呼んでいる。それは心情なので厳密なファクト(事実)である必要はない。いずれにせよ「自分が選択したから信仰がある」という意識があることが重要だ。#生活苦しい……は何を告白しているのかというと「自分たちの暮らしはもっとよくなりうる」ということだろう。

そもそもこの運動がすぐさま教義を持ち得るかというのはかなり疑問だし、安倍政権が「生活を苦しくした」原因だとも思えない。だから過剰な意味付けはしたくないしかし、安倍政権が支持されているのは「日本人の生活が全体的に苦しくなりつつある」ということを否定したい人が多いからだと思われる。

しかし安倍政権を支持する人たちが信仰しているのは「私たちのくらしはこれ以上良くなりようがないし、我々には豊かになる資格はない」という世界観だ。異議申し立ては「良くする手段はあるはずだし、幸せになりたい」という宣言だということが言える。

21世紀の左翼運動は「現在の政権がうまく行っていない」ということを証明しようと長い時間を浪費した。世間に不調を認めさせてコンセンサスにしようとしたのだが、その度に「自己責任だ」と考える人たちに阻まれてきた。だが、そんなことは必要がなかった。「自分たちはそう考えている」というだけで十分だったのだ。

日本人はバブルが崩壊してから長い間、国として衰えて行くことは認めても、一人ひとりの暮らしが先細って行くことは認めてこなかった。現状認識を改めるのに一世代もかかったのだ。

対価を払わない客 – 日本人のフリーライダー気質

先日来、セブンイレブン「事件」について考えている。セブンイレブン事件とは個人的に体験した問題でネットを騒がせたものではない。この事件を処理するなかでいろいろな人と話をした。共通するのは、異常を見て見ぬ振りをしたいという感情だ。何かの間違いであればよいのだが、10000万に1つくらいは本当にまずい案件が含まれているかもしれない。いったんそれが露見すると、マクドナルドのケースのようにかなり取り返しのつかない問題が起るのだろう。

中の人たちはなぜ異常を見て見ぬ振りをするのだろうか。アルバイトの人たちにはそもそも権限がないし、責任を取る筋合いもない。社員たちの管理が行き届かないので、シフトリーダーが実質的に店を仕切る「無責任体制」で店を回していることが多いようだ。

しかし、社員側はもっと複雑だ。1時間ほど店にいたのだが、お客というものがこんなに横柄だとは思わなかった。一方で近所の顔なじみの客というのもいるようだ。「営業さん」の飯塚さんはこういっている。

経営相談員の仕事はお客とお店側の調整なのですが、たいていの店のクレームは店に処理してもらっています。それはたいていの場合店のオーナーのポリシーによるものだからです。

クレームの内容についてはよくわからないのだが、お客の要求に対して店が応じられないということがよくあるのだろう。安心・安全に関わる問題ばかりではなく「店の態度が気に入らない」とか「ちょっとしたサービスに応じてくれなかった」というクレームが始終寄せられているのではないかと想像した。

中にはアルバイトの人たちがちょっと目配りしていればよかったということもあるのだろうが、権限がないのでそうしたことはできない。しかし、かつてあった万屋のような近所との台頭な付き合いもないので対等に話もできない。「客だったらこれくらいやってもらって当たり前」という人が多いのだろう。

セブンイレブンは商品ラインナップしか決められないが、クレームの多くはサービスに関するものなのかもしれない。こうした「解決するはずのない」問題に振り回されるうちに「もう、どうでもよくなってしまう」のではないかと考えることができる。

消費者は「サービスは無料で提供されるもの」という意識を根強く持っている。それにうんざりしていた企業側がPCデポのような「サービスを有料にして提供する」という姿勢に共感したものと思われる。しかし、それは日本人が持っているような「誠心誠意尽くしてお客様に喜んで頂く」というような類いのものではなかった。やはり、堕落した社員とあまりやる気のないアルバイトによって運営される詐欺まがいの行為に堕してしまったわけである。

しかし、PCデポが人件費(彼らが勤務している空き時間の人件費を含む)を賄うためには「ショートカットを3つつくって3,000円」というような価格でなければ維持できないのも確かだ。PCデポの客はできるだけ安いお金でパソコンを買いたい人たちなので、そもそも成り立たない商売だったのだろう。アップルのように「最新のサービスにはお金を惜しまないし数年で新しいものに買い替える」という人たち向けの並のプレミアムサービスをプレハブだてでやっているのだ。

このように考えてくると、背景には、日本人の複雑な貸し借りと助け合いに基づいた地域共同体が「サービス産業」によって代替されつつあるという姿が見える。しかし、サービスと支出のバランスがとても悪い。同じような問題は福祉政策でも起っている。地域や家族が支えてきた介護や保育が「サービス産業化」することによって様々な問題が出て来た。

国はなんとかして地域や家族をサービスの担い手として使いたい方針なのだが、これは2つの理由でうまくいっていない。1つは全産業が人を使い倒す方向(いわゆるブラック化だ)に動いており、かつての担い手にボランティアの余力がないこと。もう1つはかつての無料の労働が当たり前すぎて、その構造を誰も研究していないということである。知らない物は復活させることができないのだ。

で、あれば「サービスとその対価」のバランスを取って行くしかないと思える。それは多くの日本人にとっては苦手な分野ではないかと考えられる。

西日本新聞の倒錯した感覚

悲しい記事を読んだ。子園の応援を優先させて、吹奏楽コンテストの上位大会への出場ができなくなってしまったという話だ。美談と捉える人たちもいるのだが、それはおかしいのではないかと考える人もいて、ちょっとした議論になった。バズフィードの追加取材では校長の恫喝もあったらしい。

だが、西日本新聞は明らかに美談として捉えている。同調圧力をかけるのにマスコミが加担したのだ。

 「県予選で全力を出し切り吹っ切れた」。部員の田畑史也さん(16)は16日、スタンドでドラムを打ち鳴らした。樋口さんは「最高に気持ちが良い。僕たちも全力で戦います」。頂点を目指すナインとともに「熱い夏」を過ごすつもりだ。

三年生は涙ながらにコンクールを諦めたようだし、先生たちも参加させたかったようだ。「諦めさせられた」という側面があるのではないかと考えられる。そう言わざるを得なかったのだろうし、諦めてしまったという気持ちを正当化するためにはそう言わざるを得ない。日本人の同調圧力の恐ろしさをまざまざと見せつけられるし、「言わせている新聞」の無言の圧力には暴力性さえも感じられる。三年生にとっては一生に一度の夏だったのだ。

高校野球は、暑い中に生徒を走らせるいわば虐待のようなものである。日本人は他人が苦しむのを見るのが大好きだ。甲子園では丸坊主の学生が苦しむのを見て倒錯的な喜びを得るし、正月に学生を峠道で走らせるのを見るのも好きである。

オリンピックにもいえるのだが、日本人は「4年間みんなに感動を与えるために歯を食いしばり、人生を犠牲にしてがんばった」という図式が好きなのかもしれない。他人が犠牲になっているのを見るとどこかほっとするのだろう。ローマ人が奴隷を戦わせて熱狂するというのと似た心情がある。

それでも野球選手はマゾヒスティックな倒錯に浸って好きにやれば良いと思うのだが、それに他人を巻き込むのは受け入れがたい。「吹奏楽は高校野球の花」などと言っている記事もあるが、高校野球に来る人たちが、音楽を尊重しているとはとても思えない。球場の音響環境は劣悪で、木管楽器は響かない。聞こえるのはせいぜいトランペット・チューバ・大太鼓くらいだ。それも絶叫調の音楽でなければならない。甲子園でおなじみの曲はコンクールの曲だったりするのだが、一本調子に改変されている。太陽に晒される劣悪な環境は楽器にもダメージを与える。ひどい場合には水が飛んできたり雨が降ったりする。楽器は湿気には弱いのだが、お構いなしである。

夏になると悲しい気分になる。例えて言えば、コンサートに出場する歌手を真夏の平原に立たせてマイクなしで一日中叫ばせているのと同じことが行われている。それをお客が「音楽」として聞いているとは言えない。あれは本来なら音楽になり得たものを騒音としてまき散らしているのである。

例として有名なアフリカンシンフォニーを置いておく。最初が音楽としてのアフリカンシンフォニーだ。

次がブツ切れになったアフリカンシンフォニーである。有名な曲なので一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

ノイズでいいのだから、巨大なスピーカーで音楽を流しておけばいいのだ。一本調子の曲が数曲あればいいのだから、楽隊などを置く必要は全くない。

にも関わらず、吹奏楽部員は「コンクールを優先させたい」とは言えない。日本人は野球に異常な関心がある。サッカーですら応援がつかないことがあるが、野球だけは全校挙げてやらなければならないと思い込んでいる。そこで同調圧力が働くのだろうと思われる。本当は自分たちの活動を優先させたいと思っているのに、涙ながらに違うことを言わされることになる。自発的に参加するという形を取らされ、魂を殺されるのだ。

差別される側とする側の落差を考える場合「普門館(今あるのかはわからないが)」のために甲子園をあきらめるかというのに置き換えるとわかりやすい。そんなことはありえないだろう。

同調圧力のおぞましさみたいなものはあるのだが、賞を取らなければならないのかというのもある。今回問題になったのは南九州大会に出場が決まっていたからだ。もし、優秀な成績を取らなければ「当然野球だろう」ということになったのだろう。「金メダルを取らなければ意味がない」というのと同じような、へんな成果主義を感じる。

この件がネットで反発されたのは「同調圧力で嫌々ながらやりたいことを諦めさせられた」という人が多いからではないかと考えられる。予め不合理な形で序列が作られており、それに従わないと責めを負うという窮屈な社会である。

西日本新聞はそれを読み解けず「汗と涙と感動のためにやりたいことを諦めたからあれは美談だ」と持ち上げた。安っぽい感動を得るために生徒の気持ちを踏みにじり商品として利用した。同調圧力どころか先生が圧力をかけていたことも取材しなかった。マスコミとして恥ずべき行為だ。

このような人たちがいるから、日本がどんどんダメになって行くのである。自由意志を同調圧力で曲げるというのは、極論すれば「特攻隊はお国のために進んで死んでいったのだのは、あれは美談だ」というのを同じ構造の話なのだ。第二の戦前はもう始まっているのかもしれない。

セブンイレブン – 問題を悪化させる構造

今回は、セブンイレブンで経験した個人的な問題から、組織がなぜ問題を解決できないかを考える。いろいろな要素があり整理ができないのだが、一週間程度経って思ったのは「持たれ合いになった集団では問題は悪化するのだなあ」ということだった。誰も最終的な責任を追わないという姿勢があるので、最終的には炎上させないと問題が解決しないのだ。

たいていの問題はローカルで燃えるだけなのだが、たまにネット全体を巻き込んだ炎上につながる。対応がなされるが、既に多くの人をうんざりさせている程度の解決策に過ぎないので「では燃やしてしまえ」ということになってしまうのだろう。

  • 非正規雇用を中心とした現場の知識不足とミス。
  • 忙しすぎる現場マネージャーの隠蔽。
  • 解決されない問題になれてしまって当事者意識を失ったカスタマーセンター。
  • 当然フィードバックが得られないので同じ失敗が繰り返される。問題を防ぐためのIT投資もされない。
  • 短い間にも伝言ゲームが起きている。

セブンイレブンで買い物をして91円をデビットカードで支払った。普段ならすぐにオンラインバンキングで買い物の記録がつくはずなのだが、今回はつかなかった。まあ、そういうこともあるだろうと考えて放置していた。

こちら側のミスは売り上げ伝票(レシート)を捨ててしまったことだった。買い物をした日付が曖昧になってしまった。

だが、しばらく待っても記録がつかなかった。この時点で「海外の場合には時間がかかることがある」が「追跡調査はできるのでご安心ください」となっていれば、問題にはしなかっただろうと思う。

サポートはないが、忙しい現場

そこで、15日にセブンイレブンジャパンに連絡をした。するとアルバイトらしいオペレータが「私どもでは分かりません」という。さらに店舗にも連絡してみたが「忙しいから記録は調べられない」という。漠然とした日付をもとにしてレジの記録をチェックする仕組みがないのだという。後になって分かったことだが、問題がおこるとわざわざレジに出かけていって伝票を手作業でチェックするしかないそうだ。

それでは困るので8月16日に銀行に連絡をした。どうやら「与信」はされたが、買い物の記録がつかなかったという。伝票の日付は8月11日だという。

「分からない」では困るのでセブンイレブンのカスタマーセンターで「上の人」を呼んでもらった。コールセンターのアルバイトの人はクレジットカードがどのような仕組みで決済されているのかを考えたことがないようだった。英語では「インクワイヤリー」と呼ぶのだが inquiry was made but not processed の意味(これを日本語に訳して言った)が分からないようだった。だが、アルバイトの人は自分から上司に電話を変わってくれとは言えない仕組みになっている。そこで、形式上客がクレームしてエスカレーションせざるをえなかったという形を作らなければならないのだ。

スキルによってエスカレーションする仕組みにはなっていないのだ。清水さんという担当者が出て来た。

隠蔽しようとする下部マネージメント

「上の人」が社員なのかコールセンターの従業員かは分からないのだが、とりあえず「inquiry (与信)」と「実際のプロセス」の違いは分かっているようだった。しかし、話を聞いているうちに、この人が「エラーがなく通常に処理された」という形を作りたがっているのがわかった。するとケースをクローズできるのだ。なかったことにして「91円をオゴる」という形にしてもよいような口ぶりだった。そこで「それでは問題は解決しない」旨を伝えた。清水さん的には「ケースがクローズできない」ということを意味する。コールセンターの目的は顧客に満足してもらうことでない。ケースをできるだけ早くクローズすることなのだ。

そもそもの問題はレジにありそうだと思った。何らかのオペレーションエラーがあったのだろう。建前上はお店は独立していることになっているので、調査するかしないかというのは店側の判断になるようだ。最終的にどのような処理をするのか(つまり客からの回収をしないのか)というのも店側の責任になるようだ。本部はリスク(つまり責任)を追わない仕組みになっているらしい。

ポイントになったのは、クレジットカードのインフラを誰が請け負っているかという点だった。「お店側は仕組みを理解して問題解決できますか」と聞いたら、清水さんは黙り込んでしまった。

レジはアルバイトなので当然間違いは起こりうる。店側は忙しすぎてイレギュラーケースついて判断したり、エラーを処理したりする余裕はないだろうと思った。店と本部をつなぐ経営相談員という人がいる。ネットでは「指導員たちの役割は店側を搾り取ったり無理に仕入れをさせる」ことだなどと書いてあるが、名目上は経営相談員だ。お店の人は「営業さん」と呼んでいるらしい。

IT投資が生産性向上に寄与しない

今回は、100円に満たない金額だが、こうした間違いは頻発しているのではないかと思われる。合わない勘定を普段どう処理しているのかということが気になった。もしかしたら、店長が補填するということが行われているのではないだろうか。

これを防ぐためには記録システムを作って、イレギュラーな処理にアラートを入れるようにすればよい。多分、コンビニは発注システムではシステムを作っているのではないかと思う。「品切れ・欠品」は本部の売り上げに影響を与えるからである。しかし、金銭的なインセンティブが働かないとIT投資をしないことになっているのだろう。

海外ATMカードの不正引き出しにも対応しきれていないらしいので、セブンイレブンはこの点では遅れているのだろうことが想像された。

お店で聞いたところ分かったことは2つある。現金の間違いはしょっちゅう起きていて、店長かバイトが補填しているそうだ。銀行のように1円まで探し出すということは行われていないらしい。シフトリーダーさんが前に努めていたスーパー(もしくはデパート)では500円を上限として、それ以上では従業員が補填していたということだ。

問題はなかったことになる

一日の終わりに問題が解決しなかったようで担当者から「今日はできなかった」「明日は私は休みである」という連絡が入った。休みならしょうがないなと思った。

だが、次の日に銀行口座をチェックすると、伝票が発行されていた。日付は8月15日になっていた。遅れて処理したのかもしれないし、ミスに気がついて何かをしたのかもしれない。もし、先日の買い物データが処理されていれば伝票の日付は8月11日になっているはずである。アメリカ西海岸時間の8月15日は日本時間の8月16日だなどとの疑問を持った。ただ、問題そのものは解決された。この時点で気は楽になった。

結局、報告はなかった

3日経っても連絡がなかったので、本部に問い合わせたところ「店が対応することになった」と言われた。16日中に連絡するということだったようだ。しかし、連絡はなかった。本部で責任を持って対応してほしいと依頼した。カスタマーサポートの担当清水氏は状況を把握していなかったらしく、店側に確認を入れたらしい。これは店に聞いてわかった。

思い立って店に行ってみたのだ。そこで、シフトリーダーと呼ばれるパートの人からいろいろな話を聞けた。

  • 店側はカードをスワイプしてレシートが出た時点で作業が完了するのでエラーは起りようがないようだ。お店側のオペレーションエラーを疑っていたがそれはなかったらしい。
  • 店側としては何も聞いていないという。
  • 人繰りがつかないので店長は夜通し勤務をしている。今頃は疲れて寝ており、連絡が取れない。

「店長さんは大変ですね」というと「コンビニはブラック企業ですよ」と笑っていた。

オーナーと連絡が取れたのだが「本部が責任を持って対応する」と言われたらしい。再びカスタマーサポートと話が食い違っている。そこでカスタマーサポートに連絡したところ、営業指導員が対応することになっているという。今朝と言っていることが違う。

伝言ゲーム

結局経営相談員のところにボールが飛んできたらしい。シフトリーダーは「顧客とのやり取りを聞いて報告しろ」と言われたというので、少しカッとなった。カスタマーセンターでは16日中に連絡しろと言っているのに、営業相談員が放置した上に「何があったかオレに報告しろ」と言っているように思えたからである。そこで「客が怒っているから今すぐ電話を寄越せと言ってくれ」とお願いした。

実際には営業指導員飯塚氏の言い分は異なっていた。経営相談員の飯塚氏は直接伝票を確認しなければならないが、今朝になってはじめて確認ができたというのである。で、あれば清水氏の「今日は休みだが責任を持って明後日には報告する」は何だったんだという話になってしまうという。その場で言い繕ったのだろう。

飯塚氏によると、11日に伝票は見つからなかったという。炭酸水とデビットカードだという情報は渡っているのだが、伝票を調べるためには全てのレコードを見て行かなければならないらしい。しかも、データはオーナーと社員(唯一店長だけ)しか分からないそうだ。あとは営業相談員がサポートすることができる。

面白いのは伝言ゲームが分かったことだっただった。飯塚氏は「11日には8時から9時に炭酸水が出た」と言ったらしいのだが、シフトリーダーさんは「11日の8時から9時のデータだけを調べた」と言ったのだ。つまり、短い間にも伝言ゲームが起きている。これが積み重なって状況が悪化していたらしい。飯塚氏は本部に対して「今朝やっと確認ができた」と言う報告をしたらしいが、サポートセンターはそれを記録に残していなかった。清水氏は「あとは店に丸投げ」と思っているので、忘れてしまっていた訳だ。

責任を取るのは誰なのか

経営相談員によると本来は客との折衝は店側の仕事なのだそうだ。しかし、お店側はクレジットカードシステムは理解していない。その上、店長は忙しすぎて昼間は寝ており、飯塚氏によるとオーナーも体調を崩しているのだそうだ。そこで結局、本部の人が出てきてやり取りを引き取り調査もせざるを得なくなったようだ。笑顔のコンビニ業界の裏にはこのような事情もあるのだなあと思った。

カスタマーサポートの清水氏によれば、カスタマーサポートには指導員を指導する権限はなく、プロジェクトをドライブするという部署でもないということだ。あくまでも「他人ごと」というスタンスなのである。それを会社の代表だと思っていると嫌な思いをするわけだ。話をしていて「ああ、この人は実際は死んでいるのだな」と思った。すでに処理しきれない問題を複数か買えているのだろう。

事故につながりそうだが……

こうした体制では小さな事故は無数に起りそうだが、直ちに大きな事故にはつながらないのだろう。ただ、一度重大な事件が起れば、それを防ぐのは難しいだろうなあと思う。たいていは、本部は状況を正しく把握しているのだから、現場を教育するという対策が取られるのだろうが、実際の現場は「本部は何も分かっていない」と感じるのではないだろうか。

問題の本質には搾取構造がある。本社はあらゆるリスクを店側に押し付けて安定した収入が得られるようにしている。だが、実際には店側にはリスクに対応するリソースは与えられていない。問題の解決能力もないし、意欲も余裕もない。黙っていてもお客さんが来るので、客を喜ばせようという気分もない。

だが、実際のブランドイメージは現場のオペレーションに依存している。これが破壊されてしまうと、リスクを現場に押し付けていた本部には解決手段がなくなるということになる。

結局問題は解決しなかった

飯塚さんがどこまで調べたかは分からないが(調べていない可能性もあるわけだが)買い物をした記録が見つからないと言っている。実際に買ったのがなかったことになっているのだ。セブンイレブンは誰が何を買ったかという記録を取っていないので、トラブルを避けるためにはクレジットカードのレシートを取っておくか、セブンイレブンを使わないに限るということになる。

PCデポの炎上

PCデポという会社がある。パソコンの販売だけでなくアフターフォローに力を注いでいる。日経新聞では高齢化社会の成長産業として賞賛されているのだが、Twitterでは悪徳企業として炎上しかかっている。出火元はこちら。

一人暮らしの80歳の男性が10台のデバイスをカバーする契約を結ばされており、解約しようとしたところ、20万円を請求されたというのだ。通常では考えられない「解約手数料」なのだが、実際にはいろいろと付帯契約を結ばされていたらしい。いわゆる「押し売り」をされていたようだ。既にYahooファイナンスで問題になっており、広報のコメントにもともとの告発者が反論したりしている。

法的にはセーフなのだろう。一応、お客さんの同意を取ったようなので、契約としても成り立っている。しかし、これを見た人たちはどう思うだろうかとか、株価にどのような影響を与えるだろうかという視点が欠けているように思える。

今度は、お客のクレジットカード情報を含んだ個人情報をクラウドにアップしているという件がネットで発見された。こうなると、上場企業のコンプライアンスが疑われる。またやはり「騙されていたのか」という人たちも続々現れている。さらに1テラバイトのハードディスクに4テラバイトのクラウドを付けて5テラバイトとして売っているという案件も発見された。つまり、どんどん延焼しているのだ。

最終的には日経新聞に記事が載った。ちょっとした書き込みをきっかけに、株価が18%も下がったそうだ。

いわゆるIT企業というものが堕ちて行く様をまざまざと見せられているようで哀しい気分になった。企業にはいろいろな「収益の上げ方」があるわけだが、結局、お金を溜め込んでいる高齢者を騙して不必要なサービスを提供するようなやり方をしないと儲けることができないのだ。IT業界がオーバースペックに落ち込んでいるということが分かる。

確かに、高齢者とパソコンの関係には問題が多い。

パソコンはとても複雑な機械で、ある日突然動かなくなる可能性がある。また、高齢者のパソコンの使い方を見ていると、設計者が想像もできないようなとんでもない癖を身につけていることが多い。さらに、高齢ユーザーは「定期的にバックアップすべきだ」などという基本的な知恵がない。馴れている人ならバックアップを取ったりしてそうしたトラブルが起らないように様々な方策を取るのだが、それもまだパソコンが趣味だった時代にトラブルに遭遇して身につけた知恵だったりする。

にもかかわらず、日本の高齢者はパソコン信仰は強い。タブレットを見せても「何か本格的じゃない」という理由で使いたがらなかったりする。タブレットやスマホは女子供のものであって、自分はパソコンを使うのだという意識が強いのかもしれない。

パソコンを知っている人は通信販売で価格を比較して買い物をする。そもそもスマホで最低限の支出しかしない。価格で競合できないメーカーや量販店はあまりPCが得意でないユーザーにサービスを売らざるを得なくなる。こうした人たちに親切に対応すると疲弊する。結局、おとなしい人たちを騙して余計なものを買わせるようなサービスだけが生き残るのだ。

オペレーション上にも問題がありそうだ。社内では知識によって序列ができている。社員が偉いというわけではなく、バイトでも知識を持っている人の方が「実質的に偉い」ということが起る。2ちゃんねるを見ると教育制度は整備されていないらしいので、もともとアルバイトや社員が持っている知識を前提に成り立っているのだろう。

すると、皮肉なことに「パソコンを知らない人」つまりお客の序列が一番低くなってしまうのだ。会社からは予算(PCデポはノルマがないが、予算設定はあるそうだ)を与えられているので、当然「騙される客が悪いのだから」という意識が芽生えることになるのだろう。会社は「まじめにやっている」人と「お客を騙して不必要なものを売りつけている人」を区別することはできない。

荒れ果てたマーケットで、モラルを保つのは難しい。アップルが高い意識を保てるのは、高い金を支払うリテラシーの高いユーザーに支えられているからだ。

この問題を考えていて、一企業を責めてみても、あまり問題の解決に役に立たないことに気がついた。どうして、高齢者社会の日本では、高齢者が間違えずメンテナンスも難しくないないシステムがつくれないのだろうかと思った。バックアップが簡単でメンテナンスフリーというのはすでにiPadなどで実装されている。技術的にUIを限定するのは簡単だろう。

問題は2つあるように思える。1つは日本のメーカーに開発力がないということ。もう1つはマーケティングの問題だろう。「らくらくスマホ」と呼ばれる製品があるが、あのようなマーケティングをされると「おじいちゃん扱いするな」という気持ちになるのだろうなあと思う。

 

「独島」という悲劇

韓国の国会議員が終戦記念日に竹島に上陸した。これを重大な挑発行為だと考える向きもあると思うのだが、今日は終戦記念日だ。すこし違った角度から見てみたい。

日本は民主的な過程で第二次世界大戦に突入した。少なくとも戦争が始まった時点では国民は軍部を支持していた。そしてかなりはっきりとした敗戦を迎えた。国力の差は明確で「うまく行けば勝てるかもしれない」というようなレベルの違いではなかった。日本人は自由意志で戦争に参加し、はっきり「負けたのだ」と考えることができた。

ところが韓国は自らの意思で戦争に参加したわけではなかった。中国はかろうじて戦勝国としての地位を与えられたが、朝鮮人はその列に加わることもできなかった。日本は半島を解放したが、米ソから自治能力がないと見なされ、戦後も植民地扱いを受けた。その後、外国を巻き込んだ内戦が始まり、国土が破壊された。つまり、8月15日は韓国人に何ももたらさなかったのである。

韓国は、列強と見なされないばかりか、主権があるとさえ思われなかった。つまり自由意志がなかったのだ。このことは、韓国人の自意識に大きな傷を残した。

その後も韓国は戦勝国のステータスを求め続け「対馬が欲しい」などと主張して戦勝国側に無視されている。南千島はソ連にとってトロフィーみたいなものだが、韓国も同じようなものを欲しがった。しかし、韓国には与えられなかった。

もともと朝鮮半島は文化的に進んだ地域だったのだが、中華秩序に安住しているうちに社会の進展が妨げられ、明治維新期までに取り返しがつかないほどの差がついていた。同じ東洋圏の日本は世界屈指の列強国となって行くのだが、朝鮮半島は滅びつつある清のそのまた属国という社会的地位に甘んじなければならなかった。

その惨めな韓国が唯一武力で外国から勝ち取ったもの、それが竹島なのだ。イスンマン大統領が一方的に漁業管轄権を主張し、漁民に発砲したりした。つまり、竹島を見せびらかすことで「戦勝国気分」を味わうことができる。逆に言えば、韓国はそれ以外の手段で戦争に勝つことがどんなことなのかが体験できない国なのだ。

終戦の日には他者にたいして寛容でありたいと思う。と、考えると韓国国会議員団の行動がとても哀しい意図を持っていることがわかる。竹島でどんなに力強く太極旗を降ったところで、韓国が日本に占領されていた歴史は変えられない。北朝鮮との間でどんなに経済的に優位に立っても、自分たちの歴史が誇れないのだ。

と、同時に日本にとっての竹島は靖国神社なのだということが分かる。外国が反対すればするほど靖国神社に行くことが「負けていないこと」に思えてくるのだ。しかし、靖国神社に参拝したからといって戦争に勝ったことにはならない。外国から冷めた目で見ると、それは単に自分を騙そうとしているようにしか見えないのではないだろうか。

終戦の日に考える – 戦争はいけないことなのか

今日は終戦の日だ。この季節になると、あの戦争は間違っていたというテレビ番組が流される。「軍部の暴走」で始まった戦争は個人の力では止められず、原爆のような非人道的な兵器が使用さえれ、多くの無辜の民が巻き込まれたというストーリーになっている。

きつい言い方になるが、そうした言葉を鵜呑みにする人たちは、自民党を応援してリベラルな人たちを罵倒する人たちとたいして違いがないと思う。大勢が信じることを言っていれば、絶対に賛同してもらえると信じているのだろう。

実は、戦争には経済的な効能がある。平等に生産施設を破壊されるので、格差が是正される効果があるのだ。現在、経済成長が鈍化しているのは先進国で需要が満たされてしまっているからなのだが、戦争は数年に渡る破壊活動は人々の「満たされたい」という気持ちを高める。この結果、大規模な経済成長が生まれ、新しいイノベーションの温床になるのだ。

同じように長年の対立も格差の解消に一役買っている。資本主義経済が比較的うまくいっていたのは、共産主義の脅威に対峙していたからだった。共産主義に触発された叛乱を防ぐために政治家は自国の労働者に分配せざるを得なかった。例えば、日本は共産国に囲まれていたために、社会主義的な分配機能が働いた。詳細に見ると、共産主義に影響された政治勢力があり、そこに票を奪われないために政権政党が分配政策を取っていたのだ。東西冷戦が終わると政権政党には分配のインセンティブがなくなったので「格差社会」が作られることになった。

つまり、現在の低成長や格差は、大規模な戦争や対立を通じて解消しうるのだ。

なぜ戦争を反対する立場から、戦争の効能を考えなければならないのだろうか。私たちは戦争の効能に変わりうる手段を発明していないからだ。資本主義は破壊を前提になりたっている。それが抑止されてしまったことで資本主義の一部が崩れてしまったのである。

では、戦争を代替しうる手段とはどんなものだろうか。

戦争には人を団結させる力がある。この争いを模式化したのがスポーツだ。国家間のスポーツ合戦が今行われているオリンピックである。オリンピックを見ていると世界各地でたくさんの戦争が開発されていることが分かる。なかにはレスリングや柔道のように似たような物もある。英語のWikipediaには操競技のあん馬の起源は兵士が馬の乗り降りの訓練がもとになっているという説が掲載されている。アーチェリーや射撃のような軍事訓練も競技として取り入れられている。

オリンピックは4年に一度、国家が巨大な需要を作り出すプロジェクトになった。オリンピックの要点はそれが途方もない無駄遣いであるということになる。

終戦の日には犠牲になった人々のことを考える日にしたいというのはもちろんなのだが、それだけで終わるのは少しもったいない気がする。戦争はなぜ必要だったのかを考えることにより、新しい発見があるかもしれない。結果的にはそれが新しい戦争を防ぐ知恵になるだろう。

 

SMAP解散に寄せて

昨晩はSMAPが解散するということで大騒ぎだったようだ。NHKは速報まで流したのだという。もともとはサイゾーが流した話だったが、一夜にして事務所発表ということになってしまった。時期を選んでオリンピックシーズンにぶつけたというわけではないかもしれない。

SMAPの経済効果を調べたところ、ファンクラブ(98万人が4000円の会費を払っているそうだ)収入とコンサート収入をあわせて100億円以上あるという。解散によってこれが消えてしまうことになる。

また、最近視聴率の低下に悩むフジテレビも看板番組を失う。12月まで活動するということだが、冷えきっていることが分かっているグループの番組を見たいと思う人は減るだろう。さらに、所属レコード会社であるビクター・エンターティンメントも稼ぎ頭の一組を失う。ビクター・エンターティンメントには他にサザンオールスターズなどがいるのだが、往時に比べると勢いは衰えているようだ。

SMAPが解散に至った直接の原因は、大きくなったプロダクトの一部を壊してしまったことにある。ジャニーズ側としてはマネージメントの飯島氏からプロダクトを分離して、自分たちのコントロール下に置きたいという思惑があったのだろう。しかし、現実には飯島氏はSMAPの一部であって「一緒にグループを育ててきた」という意識が強かったようだ。それを見誤った会社側は少なくとも100億円を瞬時に失うことになってしまった。

事務所側は危機管理に失敗した。関係者を巻き込んで「マネージャーが暴走した」という物語を作ってファンを納得させようとした。ジャニーズのタレントと良好な関係を保ちたいスポーツ新聞各社はあたかもこれが客観的事実のように報道したが、女性週刊誌はジャニーズの報道におつきあいしつつ、たびたび「香取慎吾が仲間内で脱退の話をしている」などと報じてきた。

しかしながら、最大の失敗はプロダクトを発展的に次の段階に持って行けなかったことだろう。アイドルグループは、コンサートで唄わせて、テレビ番組で仲がいいところを見せるという図式しか描けなかった。しかし、フジテレビが27時間テレビで「疲れるまで踊らせる」という企画を組んだ時点でSMAPは「アイドルのパロディー」になっていた。フジテレビやビクター・エンターティンメントという老舗企業がSMAPに依存しており、解散ができなかった。と、同時に新しい活躍の形を示すことができなかった。

SMAPの末路は、嵐などにも通じるのだろうか。その参考になるのがSMAPの前にいた2つのグループだ。

シブがき隊は解散したあと、メンバーの一人である本木雅弘が表現力のある俳優としてブレイクした。このようにグループ時代の知名度を活かして活躍する道がある。一方で、少年隊は未だに存続しているが、グループとしての活動は行われていない。大きく少年隊に依存する企業がなかったために、活動を段階的に縮小することができたものと思われる。東山紀之はテレビ番組のナビゲータや刑事ドラマの主役として認知されている。

 

 

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。

真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。

それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。

しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。

どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。

しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。

だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。

だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。

上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。

プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、

デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。

こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。

ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。

つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。

「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。

若者のなんとか離れを嘆く前に考える事

デジタル一眼レフを買った。中古ショップで5000円以下の品物は1つしかなかったので迷うことはなかった。できることとできないことは予め決まっている。とはいえ当初の目的は達成できたので満足だ。そこから、カメラはレンズとセンサーによってできることが変わるということも学んだ。その上、ソフトウェアもダウンロードすることができた。ソフトウエアを使うと、画像を編集したり、パソコンと接続して写真を撮影することができる。

つまり、ユーザーは品物を買うと、品物に対する体系と何ができるかということ(経験)を学ぶのだと一般化できる。逆にいうと「手に取るまで、そうした知識を身につける事ができない」ということになる。

これが迷いなくできたのは、皮肉なことに選択肢が多くなかったからだ。一般的に人間は選択肢が多すぎると選択そのものができなくなってしまうとされている。選択肢の多さが参入障壁になっているのだ。

試しに量販店に行ってみた。売り場には各社のカメラが並んでいる。いろいろなスペックが氾濫しているのだが、機能や価格は各社横並びである。同じ「写真を撮影する」という目的のために30,000円のカメラがあり、20万円のカメラもある。30000円のカメラを買って後悔するのは嫌だし、かといって20万円で失敗したら目も当てられない。売り場には各社から派遣された店員がいるのだが(大抵は契約になっているはずだ)妙な意識を働かせる。自社の製品だけをお薦めしていると思われるのが嫌なのだ。そこで「どの製品を選ぶかはお客様次第ですね」というのだ。

一度、何かのカメラを買っている人は、ここから「(自分にとって)正しい選択」ができるかもしれない。しかし、新規のユーザーは多分多すぎる選択肢の中から適当なものを選ぶ事はできないだろう。各社とも有名な俳優を使ってコマーシャルを作っているが、カメラを買うまで、誰が何を薦めているのかさっぱり分からなかった。小栗旬、平井堅、綾瀬はるか、向井理がカメラを持っていることは分かっても、どこのカメラのどのような機能を宣伝しているかは伝わらないのだ。

エントリーレベルの製品というのは各社出しているので「買わせる」ことはできるはずなのだが、エントリーレベルもプロ仕様も一律に置かれているので、却って分かりにくくなってしまうのだろう。

よく考えてみると、知識体系と経験を作る為の方策はいくつもある。

一つは学校を作る事だ。学校といっても本格的なものである必要はない。母と子のワークショップとか、そういう類いのものでも十分だ。題材もソーシャルネットワーク向きにきれいな食べ物の写真を撮影するというくらいで十分だ。重要なのは、ターゲット向けにプログラムが組まれていることだろう。

次の方策はソフトウェアを使った継続性だ。コンパクトデジカメにも本格的なソフトウェアを付ける。その品質に満足できたユーザーの中には、新しくカメラを買う時に同じ社の製品を選ぶだろう。ソフトウェアを拡張してゆくと、オンラインで写真をシェアしたり、店頭で簡単に写真を印刷できたりとさまざまな「経験」を提案することができる。こちらは若干設計が異なる。ターゲット向けに細分化してはいけないのである。

こうした総合的な経験を提供できる会社にパナソニックやソニーがある。スマホを作っていて、総合的な経験を構築しうる立場にある会社だ。しかし、日本人は縦割り意識が強く、カメラ事業(例えばソニーはコニカミノルタからカメラ事業を買っている)とスマホ事業で経験を統合するということができないようである。アップルには「独裁者」がいて、経験を統合した。ソフトウェアをプラットフォームとコンテンツに分離したのだ。

キャノンはプロフェッショナル向けの経験作りに成功しているのだが、写真に特化したことで機能を複雑化させずにすんだのかもしれない。結果的に、プロのワークフローをアマチュアユーザーにテイキョウする事に成功している。

実際のデジカメ市場ではネットワークの原理が働いているようだ。「カメラに詳しい」人がいるのだが、たいていキャノンの作った経験に沿って仕事をしているようだ。キャノンはスタジオ撮影を円滑に進める為に必要な経験をソフトウェアとして提供しているからだ。これが「デファクトスタンダード」になっているわけだ。カメラを欲しい人は、プライベートのネットワークを通じて、カメラの知識を獲得する。すると、フォロワーのカメラもキャノンということになってしまうのである。

日本の家電店は経験の拡大をやっていた。電子レンジを売る為に料理教室と提携するというのがその一例だ。しかし、家電がありふれたものになり、価格中心になるとこうした機能が失われた。結果、個人の家電店は消え、徐々に家電量販店が台頭した。皮肉なことに家電量販店はその地位をアマゾンなどの通販に取って代わられた。役割はショップというよりショーケースのようなものに代わりつつある。ショーケースに特化するなら、家電店は料理教室やカメラ教室などを運営すべきということになる。