なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

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バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

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なぜ日本人はインフルエンザの予防にマスクが必要だと信じているのか

面白い質問を見つけた。なぜ日本人はあんなにマスクをするのだろうかというのだ。海外ではマスクは病気を連想させるので嫌われることがあるのだが、日本では多用されている。中には特に理由もないのに外出するときはマスクと決めている人もいるのではないだろうか。

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Don’t take it personally. 批判と人格攻撃は違う

最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。

が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。

こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。

しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。

このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。

もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。

例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。

「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。

何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。

ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。

感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。

このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。

この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。

例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。

だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。

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教室でのインシュリン注射を禁止した先生は説明責任を果たすべき

朝日新聞デジタルに教室でインシュリン注射を打つことを禁止した先生の話題が出てきており話題になっている。先生は、教育という事業を保護者から委託されているエージェントであり、そのために必要な権限を保護者から委任されている。「教室で注射を打つな」というのはその権限の行使であると考えられる。つまり、先生の行為には説明責任が生じる。教育現場であることも考えあわせると自主的に説明責任を果たすべきだろう。

この先生の判断は「インシュリン注射は危ない」という事実誤認に基づいているように思える。保健室で打たせるというのは、清潔で安全な場所で打てという意味合いで、まだわからなくもない。しかし、あまり清潔でないトイレでの注射を指示したということは「自分の視界から消えてくれ」という意味合いが強かったものと思われる。

他人が注射をしているところを見ると自分も痛いような感覚に襲われることがある。これは人間に共感能力が備わっているからだ。こうした感覚的なものは、当人も十分自覚していない可能性があるので、じっくり話を聞く必要があるだろう。

さらに、先生が「インシュリン注射は危ないのでは」と考えた時、周囲のサポートや情報があれば間違った判断をしなくて済んだかもしれない。だが、日本人には協力し合う文化がないので、間違った思い込みがそのまま温存されてしまったのだろう。つまり、何か問題があった時に周囲と話し合いをするという文化を学校が醸成することも実は大切なことなのだろう。

なぜ、隠れて注射させることがいけないのだろうか。それは、隠すことによってインシュリン注射が異常で恥ずかしいことのような印象を与えてしまうからだ。本人はインシュリン注射さえあれば普段通りの生活が送れるのだからできるだけ平常に過ごさせるべきだ。これはメガネは遺伝的な欠陥であり恥ずかしいものだから、人前では装着しないようにと指導するのに似ている。

記事の中で生徒は「将来このような無理解から注射する場所が確保されなくなるのではないかと不安を感じている」と考えていることが紹介されている。先生が与えた心理的プレッシャーは実はとても大きい。

さらに生徒は「インシュリン注射は安全である」と説明している。生徒は自分の健康状態に自分で責任を追っているだけで、その行為をとやかく言われる必要はない。にもかかわらず、先生は他人の行動を制限し、なおかつ話すら聞かなかったのである。

さて、このブログでは日本には説明責任という言葉がないと考えてきた。これは先生に説明責任を理解させるのが難しいということだけを意味するのではないようだ。学校側も単に「世間を騒がせて新聞ネタになってしまい申し訳ない」というようなことを考えている可能性もある。また受け止めたTwitterの反応も「実名を晒して社会的に制裁せよ」という声が大きい。

説明責任のような外来概念は理解されないのだが「和を乱したから制裁せよ」というような問題解決はそれよりも理解度が高いものと考えることができるだろう。村人が掟を破った人を制裁するのに似ている。村の場合は関わり合いをなくして、社会的に制裁するのだが、Twitterでは実名を晒して石を投げるのが制裁になっている。

社会的な制裁が説明責任に優先されれば、学校側は萎縮してしまい、インシュリン注射に対する正しい理解は進まないだろう。一方で、エピペンを禁止すると社会的に制裁されると考えた人たちがそれについて何も言わなくなる可能性はある。

このようにして、社会的制裁を通じて問題解決をするというのが日本人のやり方なのだろうから、それなりに尊重されるべきなのかもしれないのだが、いったんここから開き直って「問題そのものが存在しない」という、菅官房長官語法を使われると、問題があったことの証明に話が入り込み、社会を苛立たせるだけに終わってしまうといえるのではないだろうか。

こうした問題には意外と本質的な怒りが含まれている。

  • 組織が周囲と協力しつつ新しい知識を取り入れることができないため、社会的な偏見がいつまでたってもなくならならず、間違った知識が温存される。
  • 力や立場が弱い人が一方的に我慢させられる。
  • 責任の追求を恐れて問題そのものがなかったことになってしまう。

こうした不毛な議論をなくすためにも、教育現場なので、より正確な知識に基づいて、個人が説明責任を果たせるようにするべきなのではないかと考えられる。多分、一番深刻なのは知識を更新する役割を担った学校が偏見を温存して改める気がないという点なのだろう。

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須藤凜々花に説明責任がないわけ

AKB48の須藤凜々花が総選挙で結婚宣言をした。今回はこの行動に説明責任があるのかを考えてみたい。

前回、説明責任について考えた。説明責任とはエージェントの手がける事業について投資者に説明をすることだと定義した。その行動の裏にはなんらかの契約があるはずなので、契約について考えればよい。

では須藤さんの契約とは何なのだろうか。実は、恋愛禁止というのは暗黙のルールであって、契約ではない。そもそも契約はないので、果たすべき責任もなく、ゆえに説明責任もないことになる。この話は以上で終わりになる。つまり須藤さんには説明責任はない。果たすべきか、果たさなくてもよいかということではなく、そもそも責任がないので説明責任が追求できないのだ。

この件について須藤本人は「オタクは夢に投資しているから見返りがないからといって誰かを非難すべきではない」と言っている。つまりオタクが勝手にやったことであり、契約はないと言っている。ゆえに説明責任は生じないのだ。

では、恋愛禁止とは一体何なのだろうか。それは「原子力発電所が事故を起こさない」というのと同じような取り決めだと考えられる。原子力発電所が事故を起こすかもしれないという前提をおくと様々な責任が生じ、対応策を取らなければならなくなる。しかし「そもそも事故は起こらないのだ」ということにしてしまえば、対策は取らなくてもよいし、誰も責任を問われることはなくなる。かといって、事故は起こらないとみんなで思い込んでも事故はなくならない。

AKB48グループは取り立てて歌がうまいわけでも、踊りが上手なわけでもない女性の集まりである。売り物は疑似恋愛だ。そのことは売り手側も狙っているだろうが、実はファンもなんとなく了解している。そこで「恋愛はないことにしよう」と取り決めている。こう取り決めることで恋愛があった時のことは考えずに済むので丸く収まるのだと考えられる。

しかし、これを実際に契約にしてしまうと、複雑な問題が生まれる。一番厄介なのは憲法や各種労働法制上の問題だろう。なので、雇用者であるプロダクションやプロデューサーたちもこれをルールですよとは言わない。なんとなくほのめかしている。

この問題の面白いところは、誰も契約を定めていないのだから、誰も法的な執行を行わないということだ。つまり「エンフォースメント」に当たる概念がないことになる。そのため、実質的には野放しになっていて、ばれなければ恋愛をしてもよいということになっているのではないだろうか。ファンの中には純粋に「恋愛は禁止されている」と考えているものもいるだろうが、一方で「それなりのことはしているだろうなあ」と想像している人もいるだろう。

にもかかわらず、この取り決めが「全く存在しない」とはいえない。実際にメンバーは「AKB48は恋愛禁止です」と言っているし、この取り決めを破ったという理由で制裁されたメンバーもいる。峯岸みなみは、丸坊主になりAKB48から降格させられた。指原莉乃は博多のグループに左遷させられた。単なる機体なのだが、その期待が裏切られればそれなりの怒りが生まれるので、その怒りがグループ全体に及ばないように、自己責任という名目で私刑にしてしまうのだ。これはファンへのメッセージになっているだけではなく、同時にメンバーへの見せしめになっており、誰も責任を取らない約束を守らせる動機として機能している。

だが、須藤さんのようにいったん脱退することを決めてしまうと、特にこのルールの有効性は失われる。もともと法的な根拠など何もないのだから「ごめんなさい」で済んでしまうのだ。面白いのはAKB48の少女たちがこれをきちんと理解しているという点である。総選挙のスピーチを聞くと、彼女たちはまともな知的能力を持っているとは思えないのだが、それでも自分の処遇となると正しい判断ができるのだ。これは空気による暗黙の強制が日本人の行動にかなり早いうちから備わっていることを意味する。

空気は個人の我慢によってなりたっており、集団社会で生きてゆく上ではとても大切な取り決めである。芸能人だけが空気に縛られている話ではなく、会社勤めをする大人や官僚も空気に支配されている。そもそも我慢をしないで輪を乱したという理由だけで左遷したり降格したりするというのは、サラリーマン社会が原型になった一種のパロディーになっている。

空気による制限と私刑は日本人の行動様式に最初から備わっているので、すべての用語が日本語で片付く。空気、みせしめ、まるくおさまる、わ、我慢というのはすべて大和言葉か漢語である。我慢のように本来とは全く異なる使い方をされる用語もある。一方でアカウンタビリティに関係する言葉はすべて英語であって政治家のような人たちですら理解ができない。

須藤さんが掟破りをしたのを起こったのはファンだけではなかった。実際には恋愛禁止のルールを押し付けられた側の人たちの方が強い拒絶反応を持ったようだ。中にはインスタグラムを通じて無言の圧力を送った元メンバーもいた。これも我慢を強いる空気が相互監視的な圧力を強めて行くのに似ている。一番苛烈な例は第二次世界大戦下の日本だろう。息子を兵隊にとられて殺されたような一番の被害者が「あの人は浮かれている」などと言って、普通の市民を告発したりしたのである。

なお、この話は週刊文春に須藤さんの恋愛話が乗ることを予測したスタッフが「だったら結婚話にして話題を提供すればよいだろう」と演出した可能性があるという話が飛び交っており、秋元康が仕組んだに違いないなどと尾ひれまでついている。

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くそリプを処理する

このような引用Tweetをいただいた。あまりカラまれたことがない(それだけ取るに足らないことしか書いていないのだろう)のでちょっと有名人になった気分で嬉しかった。お前は考えに自信がないのだろうと書かれているが、それはその通りだ。決め込んで間違えるとろくなことはないので、考察や再考の機会は残しておくべきだと考えている。

ということで元ツイートを吟味して行こう。


維新の足立議員という方が「豊洲市場は選択と集中をしろ」と言っている。もともと選択と集中という言葉は大企業問題を扱うための理論だ。企業が大きくなるといろいろな周辺事業に手を出してしまい、企業効率が悪くなる。そこでコアコンピタンスを見直して、それが実現できる分野に経営資源を集中しろという使われ方をする。

維新の党は民営化を推進する立場なので、らしいといえばらしいなと思う。確かに、都は色々な事業に手を出しているので、例えば市場の観光的な側面などは民営化した方がいいのかもしれない。

考えるべき点はいくつかある。

最初の論点は「東京都のコアコンピタンスって何だろうか」ということではないだろうか。企業はいろいろなコアコンピタンスを持っているので、すべてのことに得意である必要はない。が、東京都は公益事業体なので、市場にない機能を補完する必要がある、かならずしも得意なことばかりをやっていればいいということにはならないはずだ。

得意なことばかりやっているのは危険ではないのかという視点もある。コアコンピタンス経営は1990年代にもてはやされた<理論>なのだが、その後批判にさらされることになる。学習を通じて新しいスキルを身につけて「変化に対応すべきではないのか」という批判や、自分でコンピタンスを得られないなら外部からM&Aなどを通じて獲得すべきではないのかという批判が出てきた。1990年代よりも企業環境の変化が早まってしまったからだ。

これは面白い視点だ。つまり都庁という官僚組織も学習機能を持って、現代にあった能力を身につけるべきではないかという批判が考えられる。例えば持っていた土地を活用する能力や有毒物質をコントロールする能力、さらに複雑化する技術にキャッチアップして見積もりを評価する能力などを身につけて行かなければならないのではないかということになるだろう。

さらに企業のコンピタンスとは切り離してとにかく儲かるものだけをやればいいという考え方もあるだろう。つまり、選択と集中をコンピタンス経営とは分けて考えるわけだ。実際にこうした経営は色々なところで行われていて、大抵は惨敗している。得意なことをやるから他の企業より安くて良いサービスが提供できるわけで、そうでなければ割高で質の悪いサービスを後発で出すことにしかならないからである。

維新の党のいう「民営化」は、中央政府の成功体験をトレースしたものであると考えられる。具体的にはJRと郵政民営化あたりが念頭にあるのだろう。民営化するとまとまったお金が入る。これで傷んだ会計を癒すことができる。が、その効果は一時的なものにしかすぎないのではないだろうか。確かに、企業が育てた事業をキャッシュにして次の事業に投資するということはあり得るだろうが、同じことをそのまま公共事業体に当てはめるというのはいささか乱暴な議論であるように思える。

豊洲の場合、集中と選択をすると「みんな魚なんか食べないから肉と野菜の流通だけして、あとはパックのマグロとサーモンだけ流通させればいいよね」という話になるだろうが、これが受け入れられるとは思えない。が、論題としては面白い、元になっている理論を紐解くことによって様々な視点を得ることはできるからである。

が、Twitterの<議論>はこうした背景理論を無視して党派性だけで繰り広げられることが多い。今回いただいたくそリプも「わかりやすい表現」だと言っている。これは集中と選択というのが一般的な単語なので、わかりやすいと考えたのではないかと思うし、多分コアコンピタンス経営というような元の考え方に興味があるとも思えない。さらに言えば豊洲にもさほどの興味はないのではないだろうか。

今回のリプ(厳密には引用ツイートだが)に興味を惹かれたのは、明らかに利益集団の一員ではない人が、特定の政党にこれほどまでにアタッチされるのはなぜなのだろうかということがわからなかったからだ。政党と個人の契約としては明らかに何かが欠損しているのだが、それが何かということがよくわからない。

ある議員に個人的に惹きつけられたのか、誰か仮想的な敵を想定しているのかもわからないが、周囲にこうした人がいないので、どうもよくわからない。その上、喧嘩をしたとしても経済的なベネフィットが得られるとは思えないし、心理的な承認欲求が満たされるとも考えられない。

アカウントを見ると色々な人に喧嘩を売っているようである。テストステロンの過剰な分泌によるものなのかななどと仮説を考えてみたが、本人から言語化された説明は見込めないだろうから、よくわからないままだろう。

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安倍政権と相対敬語社会

外国人がある質問を投稿していた。「お久しぶり」とお客さんに挨拶するのは失礼なのかというのだ。言われてみれば、ご無沙汰していますというのが正しい気がする。が、お久しぶりとご無沙汰していますとは何が違うのか、説明するのは難しそうだ。

お久しぶりは単に長い間会っていないということを意味する。だから関係は対等である。だが、ご無沙汰していますには長い間連絡しなくてすみませんという意味合いが含まれる。つまり、本来はこちらに連絡する義務があると言っていることになり、対等でないという気持ちを表現することができる、というのが一応の説明になるだろう。

が、よく考えてみると、関係が対等でないということは、相手に決定権があることになる。これは相手に運命を委ねていることになり、西洋的には危険な考え方だ。だから、西洋世界ではビジネスは契約関係なので、相手との間に上下をつけない。お客さんに会社の命運を握られるなどということはあってはならないからだ。

では日本人がへりくだることによって、運命を相手に一方的に委ねているのだろうか。そうではないだろう。つまり、いっけん上下関係に見える人間関係も実は単純な命令系統ではないということがわかる。

特に意思決定は「稟議書方式」と言って、下の人たちが提案したことを上の人たちが承認することになっている。逆に上の人たちが一方的にトップダウンで物事を決めることは嫌われるし「下の人たちがついてこない」ということになるだろう。数の上では下のほうが多いし、上の人たちは自分たちでは何もできないからだ。

つまり、表面上の上下関係の裏には相互のもたれ合いがあり、それを「甘え」と言っている。「甘えている」というとあまりよく聞こえないが、相互にもたれ合うことによって、不要な争いを避けつつ、アイディアを流通させているのだと考えることもできる。甘えは血液のようにアイディアを組織内に循環させるのである。

日本の敬語は相対敬語と言われる。社長のほうが平社員より偉いのだが、お客さんに対して社長の説明をするのに謙譲表現を使ったりする。これは韓国のような絶対敬語社会と違っている。韓国は儒教社会なので「誰が誰に従うか」ということを敬語を通じて表現する。これは異民族と接していたことと中華社会という階層構造にあったことに関係しているのではないかと考えることもできる。

いずれにせよ、西洋の人が日本を封建的で従属的な社会だと感じるのは、この絶対敬語社会と相対敬語社会の区別がつかないからだろう。甘え合いの構造は外からは見えないから、理解するのに苦労するわけである。

さて、ここまで敬語と社会構造についてくどくどと書いてきたのだが、最近の安倍政権を見ていると国家の中枢にいる60歳代の人たちが必ずしもこの相対敬語社会を理解していないのではないかと思えることがある。安倍政権は序列によって成り立っているのだが、次のような構造があり、敵味方を識別する中華思想に似ている。

  • トランプ大統領やプーチン大統領のように安倍首相が憧れていて近づきたい人たち(中華)
  • 加計学園の理事長、安倍昭恵夫人のような身内(小中華)
  • 萩生田議員や稲田防衛大臣のような安倍首相の下僕に当たる人たち及び菅官房長官のような下僕頭のような人たち(両班)
  • 文部科学省の官僚のように「外様」に当たる人たち(奴婢)
  • 蓮舫民進党代表や福島瑞穂社民党副党首のような非差別層の人たちや野党のような人たち(敵)

絶対封建的な社会では従から主への意思伝達はありえないし、ましてや敵や「生意気な女」たちが安倍首相に意見するということはありえない。意見の交流はなく、いずれ視野狭窄が起こる。

このように、安倍首相の頭の中には自分の価値観に基づいた序列のようなものがあり、周りにいる人にその序列を押し付けている。これが、この人に特有のものなのか、年代によるものなのかはわからない。問題はこうした単純化された序列関係を「日本社会に特有なものだ」と錯誤する人が若年層を中心に増えてしまうのではないかということだ。

いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの頭の中には、アメリカという中華に親しい自民党が偉くその次に自分たちが偉く、さらに女性や韓国人・中国人は自分たちに従属するのだという絶対的な序列の中に生きてるように見える。野党は従って「売国勢力だ」ということになる。

しかし、考えてみると、日本人は主に企業で相対的敬語社会を学ぶ。正規と非正規社員の間にコミュニケーションの断絶があり、簡単に正社員になれないという状態が続くと「相互のもたれ合い」ということが学べなくなってしまう可能性がある。そもそも、電話で知らない人と話すのが苦痛で会社を辞めてしまうという人が一定数存在するというくらいなので、友達、俺よりえらい人、俺のほうがえらい人、知らないからどうしていいかわからない人くらいの違いしかわからなくなっている可能性がある。

安倍首相が相対敬語社会を学べなかったことは、政治に深刻な影響を与えようとしているように思えるが、なぜ彼が相対敬語社会を学べなかったのかという理由はよくわからない。首相に親しい人たちが「天賦人権論を日本人から奪い取れ」と主張するのをみると、こうした人たちは少なからずいるようだ。

だが、実はこれは日本の伝統的な姿ではない。

文部科学省は下僕ではないので、一方的に従わせていると「実は納得していなかった」とあと出して反旗を翻されてしまう可能性がある。官僚社会のみならず、日本の社会はもたれ合いによる契約社会なので、それが切れてしまうと「実は納得していなかった」と言われる可能性があるのだが、日本人は「実は納得していなかった」ということに特に違和感を感じず、支持してしまうのである。これは日本人が絶対敬語的な序列の社会に実は強い忌避感情と警戒感を持っているからだと考えられる。

いずれにせよ、日本人は対等な個人が民主的に自分の意見を相手に説明して理解してもらうという社会には住んでいないし、かといって一方的に従属することに耐え忍ぶほど従順でもない。が、安倍首相やネトウヨを観察してわかるように相対的敬語概念は天賦的に身についているわけではなく、社会的に(多分非明示的なルートで)学習されるものなのだろう。

安倍首相の釈明記者会見は、首相が余り物を言わない有権者の相対敬語社会性をあまり理解していないのだなということをうかがわせるのだが「強いリーダーシップ」をあまり強調しなくなった。これは、理論的には理解していないが、日本では強いリーダーは嫌われる可能性があるということをわかっている人が背後にいることをうかがわせる。おそらく、態度が変わればこのまま支持率が下落しつづけるということはないのではないだろうか。

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AKB総選挙と埋没してゆく個人

少しだけAKB総選挙を見てちょっとした戦慄を覚えた。スピーチが支離滅裂だったからだ。一人の少女は名古屋で家が買えるくらいの売上があったが、ファンの人は家を買えないだろうから、私があなたたちの家になると言っていた。多分搾取しているということには気がついているのだろうが、個人の競争のためにはやむをえないので折り合いをつけようとして失敗したのだろう。言語的なストックの少なさがそれを「なんか言葉にできないけど不安」という状態にしているのではないかと思った。

意もう一人はさらに混乱していた。いつもはバックダンサーとして支える側なので個人の意見は言えないのだが、総選挙は一人ひとりの競争なので……と言いかけて迷走していた。本来は自己実現のために仕事をしたいのだが、個人を埋没させて仕事をするということに折り合いがついていないのだろう。これは自己実現に罪悪感を抱えるのではないかと感じた。

彼女たちの中には価値体系が作られておらず、与えたられたものを正当化して生きてゆかなければならない。その中で成果主義的な競争にさらされて、相当なストレスを感じているに違いないと思ったからだ。いわば組織として病みかけている状態になっているのだろうということを感じさせる。

ストレスを解消するためには成果を得るか、あるいは言語化した上でその意味を内在化させてゆかなければならない。言語化されないもやもやは不安として結実し個人の成長に影を落とすことになる。不安を内在化して消化するという機能を獲得することは極めて重要だし、それが与えられるのは当然の権利だ。だが、学校教育の中で「自分なりの価値体系を作ってそれを他人に説明する」という能力を発達させる機会を奪われているのだろう。

個人の成長と組織の存続の間にある緊張関係が大きな問題にならなかったのは、それなりに再配分がうまくいっていたからだろう。しかし、組織がすべての人に分配できなくなると、自己責任で生き残り、生き残ったあとはシステムを支えろと言われる。成長を搾取するか他人から搾取して生き残る仕組みになっているわけだ。これに折り合いをつけなければ生きて行けないという意味では、現代社会の極めて巧妙な写し鏡になっている。秋元康という人は本当に天才なのかもしれない。

三連覇した指原莉乃や上位7名のようになってしまうと、こうした競争に依存しなくても自分の名前が売る方法がわかるので、こうした矛盾した競争から離脱することができる。自分の価値観を追求したいひとは卒業すればいいし、指原のようにゴールが全く異なっている人(来年は総選挙のMCをやりたいということなので、雛壇からMCに上がるという中居正広のようなキャリアを狙っているのではないだろうか)は両立も可能になるだろう。

いずれにせよ指原や高橋みなみのような初期のメンバーのスピーチがそれほど支離滅裂ではなかったのは、自分たちでAKBを作ってきた体験があったからではないかと考えられる。自分たちでシステムを作った体験があると、学校で教わらなくても欲求を言語化する能力が身につくのだろうし、逆にそうでないメンバーは離脱してゆくということなのかもしれない。

さてここまでAKBについて書いたので、AKB批判になっていると感じる人もいるのではないかと思う。だが、実際にはこうした現象はいろいろなところで見られる。多分、国会でも同じようなことが起きている。

福島みずほ参議院議員が「共謀罪で逮捕するぞ」と恫喝されたという話があり、それはガセであるという話が後で流れてきた。だが、これはどうやら事実である可能性が高いらしい。本人がこう説明している。


この話が恐ろしいのは、この野次を飛ばした国会議員が自分たちの役割を完全に見失っているからだ。国会というのは、法律を作るところだが、同時に行政をチェックする機能を持っている。いわばハンドルとブレーキを持っている。だが野次を飛ばした議員は権力の側に立って野党議員を抑圧できると錯誤していることになる。こういう人たちが作る法律にチェック機能がないのは当たり前であり、いわば日本はブレーキが壊れた車のような状態になっていることがわかる。

確かに自民党にいる間は全能感を感じられるかもしれないのだが、下野してしまえば今度は押さえつけられることになる。がもっと恐ろしいのは権力の側にいて「相手を弾圧している間は仲間として認めてやるが、さもなければお前も弾圧されるのだぞ」と恫喝されるという可能性だ。

日本社会にはいい面もたくさんあるが、集団の空気が一人ひとりを抑圧するという場面がしばしば見られる。意思決定の仕組みが複雑で表からはわかりにくいからだろう。つまり「政敵を共謀罪で弾圧できる」というアイディアが生まれた瞬間に、一人歩きして誰も止められなくなる可能性があるのだ。

どうやら今の国会には根拠のない全能感が蔓延していて、選挙区を構築せず議員になったような人たちは選挙民という接点がないこともあって、自分の役割が何なのかということすらわからなくなっているようだ。いわばブレーキがない車に自らを閉じ込めていることになる。

と同時に、自分たちの役割を言語化して内面的に認識できない人が、ハンドル操作ができるとは思えない。結局、組織というのは一人ひとりの判断の積み重ねなので、こういう人たちが動かしている車は、ブレーキもハンドルもない可能性が高い。

AKBメンバーが自分たちの欲求を言語化できなくても、それは一人ひとりの成長とグループの存続という問題が生じるに過ぎないのだが、国会の場合は多くの国民を巻き込む可能性が極めて高い。が、どちらも根っこには「自分たちの存在を言語化して内面に定着させた上で、人にも説明する」という能力の欠如があるように思える。

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これからも民主主義社会に住みたい人のセールステクニック

前回「安倍政権を続けさせないためには、デモに参加するのではなく、自民党に働きかけよう」と書いた。一応背景にある考えについておさらいしておきたい。ここに出てくるのはマーケティングのテクニックというよりはセールステクニックだ。古いものだと第二次世界大戦前くらいのものすら含まれている。

人はバランスを取る

まずNHKの朝イチで見た話から始めたい。誰かが怒っているときにそれに輪をかけて怒ってみせる。すると、怒っていた人はバランスをとるために「いやそれほどでもないんじゃないか」と考えるようになるという。例えばクレームの電話を入れてきた人に「では訴えるか」などというと「いや、それほどでもない」と態度を変えるという具合だ。人は無意識のうちに対立が激化しないようにバランスをとってしまうのだ。「共感して同調する」ことが基調にあり、その上で敢えて強めの提案をするのである。

つまり、民進党の蓮舫代表のように首に青筋を立てて怒ってみせると「ああいう醜い顔にはなりたくない」と考えてかえって冷静になってしまう。山尾しおり議員も同じである。民進党のやり方は、実は支持者(あるいは安倍政権には反発するが選挙にはいかないような人たち)を満足させる効果はあるかもしれないが、真面目に心配している人には効果がなく、却って「なだめて」しまっている可能性があるということになる。

ではどうすればいいかということになるわけだが、上手だったのが小池百合子東京都知事だった。「私には支持基盤がないから緑色のものをもって集まれ」と言っていた。石原慎太郎氏が「厚化粧のババア」などと言った時も、石原慎太郎氏を罵しらず「私には痣がありコンプレックスなのだが」とアピールした。つまり、困っていると応援したくなるという特性がある。ヒーロー映画でただヒーローが悪をぶちのめすだけでは観客は感情移入できないし、かといって勝てないが口だけは達者なヒーロー映画など誰も見ないということになる。

声の変化も重要

声の大きさも重要なようだ。普段から声を荒らげていると「この人はこういう人なんだ」と思われてしまう。一方で、普段は冷静で温厚な人が、ここぞというときに声のトーンが早くなったりすると「ああ、怒っているのだ」と思える。そのまま終わってもだめで、最終的には落ち着いた声のトーンに戻さなければならない。つまり、人は変化に反応していることになる。

かといっていつも冷静というのもよくない。「あの人は中立を気取っているだけだ」などと思われかねない。時々感情を込めてみるのも重要である。

つまり、毎週デモをやっていても「ああ、またやっているな」ということになるわけだが、普段は温厚で建設的な人たちが、抗議をするのが、実は非常に効果的なのだと言える。デモをやってもかまわないのだが、普段は違う顔があることを見せなければならないということではないだろうか。

つまり、Twitterで政府批判ばかりしている学者は、普段の学会での活動を報告したり、実際に問題を解決している様子を見せるべきだということになる。それも無理なら3時のおやつを投稿しても構わないのではないかとすら思える。「プロ市民」ではなく、普通の人が危機感を持っているというのは、たとえそれが<演出>であっても重要だ。

誰が顧客なのか

自民党だけでなく、どの企業にも未顧客と既顧客と非顧客がいる。本来、マーケティングでは「未だ顧客になっていない非顧客」の獲得を目指さなければならないのだが、実際に新しい顧客を獲得できるなどということを信じている人は少ないのではないかと思う。

非顧客は顧客にならない人をさすのだが、保守的な人たちは政府に抗議する人たちは「どうせ話を聞いてくれない」といって最初から排除されているものと思われる。つまり、自民党や公明党を中から変えてくれる人が一番重要なのだということになる。

反安倍運動は「未顧客の顧客化」を目指してきた。つまり「政治に目覚めていない人」の関心を引こうとしてきたわけだ。もちろん、他人に興味を持たせるのが大切な訳だが、これはかなり難易度が高い。企業もあの手この手で未顧客の興味を引こうとするわけだが、それにはかなりのお金がかかっている。現在の消費者はこれに慣れてしまっていて、面白いCMで引きつけてもらわないと興味すら持たないし、情報を理解しようとすらしないという状況が生まれている。政治活動はこうしたレッドオーシャンで戦っていることになる。

緊急時には既顧客だけに絞らないと取り返しがつかないことになる。デモをやっても、政治に興味がない人にはノイズにしか聞こえないのだから、インサイダーになって(あるいはその振りをして)働きかけるのが一番よいのではないかということになる。未顧客を獲得できない人にとっては既存顧客の離反が一番怖いのである。

善意に働きかける

抗議ばかりしている人の声が届きにくいということは最初に説明した。と同時に反対されればされると人はそれに抵抗したくなるものだ。これは日本人がそうだというわけではなく、もっと普遍的なものだろう。戦前に書かれた「人を動かす 文庫版」という本には、どんなにがんばってもものが売れなかった人が、善意に訴えかけると人を動かすことができたという話がいくつか出てくる。人には「良い人に思われたい」という欲求があるからだそうだ。故に「自民党は終わった」とか「公明党は地獄に堕ちた」などと言っても彼らを動かすことはできないが、政治に熱意があるからこそ勇気を持って状況を変えるべきだと訴えた方が良いのだ。

デモには陶酔感があるのだが……

安倍政権はかなり危険な状態にあり、このままでは民主主義がめちゃくちゃになってしまう可能性が高い訳だが、デモをやってもあまり効果はないだろう。にも関わらず「安倍政権を許さない」というような看板を掲げてデモをやりたがるのは、かりそめの陶酔感のためだ。ここは何を成し遂げようとしているのかということをもう一度考えた上で戦略を練り直すべきではないかと思う。このような状態が続けば、デモもできなくなってしまうかもしれないのだから。

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