ロンドンの高層アパート火災でBBCが伝えられなかったこと

ロンドンの高層マンションで火災があった。日本ではタワーマンションだと伝えられたりしたのだが、伝わらなかったこともある。実はこのマンションはスラム対策だったのだ。

BBCは公営とだけ伝えており、このマンションの社会的な問題については一切触れていない。普段はNHKのニュースのバックアップにBBCのニュースを使ったりしているのだが、今回は逆だ。つまり、どの国にも外国には伝えたくない問題があり、意図するかどうかは別にして「隠蔽」が起きてしまうのである。

Wikipediaにはランカスター・ウエスト・エステートについての項目がある。もともとは近隣スラム対策として1967年に構想されて1970年代に完成した。当初の問題はドラッグだったが、のちに拳銃事件が起こるようになったとのことである。さらに人種間の緊張も増していった。

最近になって階層が行われていたそうなのだが、これが却って状況を悪化させた可能性があるとのことである。だが、BBCは次のように伝えている。

建物を管理するケンジントン・チェルシー地区の行政事務所によると、タワー棟は24階建てで120戸が入っている。1974年竣工で、2年間にわたる予算1000万ポンドの大規模修繕を昨年終えたばかり。外装や全館共通の暖房システムを新しくしたという。

日本のタワーマンションでは一室に回った火が全体に燃え広がるということはないそうで、この大規模修繕も十分でなかったのは明白だろう。外装を変えたということだが、これが可燃性だったために全体に火が回ったということまではわかっている。

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なぜ安倍真理教の人は平気で嘘がつけるのか

面白いツイートを見つけた。こういうのは本当に調べ物の役に立つ。


実際に薬物を投与されている可能性もあるわけだが、人は脳内で薬物を利用している。それが脳内ホルモンである。そこで嘘つきとホルモンで検索をすると、イスラエルの学者らによる研究について言及している記事を少し見つけた。要約すると次のようになる。より詳細なまとめもある。

  • オキシトシンという親密さと関係しているホルモンがある。
  • このホルモンが多くあると、チームのために平気で嘘がつけるようになる。
  • が、個人の利益のために嘘をついているわけではない。

オキシトシンは愛着を感じると多く分泌されるが、外から投与することもできる。そこで、オキシトシンを投与してチームプレイのゲームをさせたところ、投与したグループの方が嘘が多かったということである。

つまり、安倍政権の人たちは組織のことを大切に思っていて仲間を守るのに必死になっている可能性があるということになる。伝統的な日本の価値観ではむしろいい人たちなのだろうということだ。若干問題なのは彼らが嘘をついているのが日本国民だということだけだ。彼らは「一般の人たち」を守るために嘘をついているのだが、安倍政権を攻撃する人たちは「敵」に見えるのだろう。が、身内を守ろうとすればするほど、敵が増えてしまい、結果的に何も言えなくなってしまうということになる。

いずれにせよ組織防衛のために嘘をつく人は、嘘についてそれほど罪悪感を感じていない可能性がある。それは仲間を守る良いことであって、決して悪いことをしているつもりはない。悪いのは、親密な関係を崩そうとしている敵であり、彼らにとっては朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは、もはや一般紙ではなくテロリストと同列の破壊者なのかもしれない。

このような事情を含んで共謀罪関係の話などを聞いていると、彼らの心理が少なからず見えてくる。今、共謀罪が「一般人」を対象にするかということが問題になっているが、彼らにとっては政策の批判者であったとしても敵なのだし、自分たちの仲間を大切にするために、国民の財産を処分することもよいことなのかもしれない。つまりもはやニュートラルな一般人というものはありえない。敵と味方なのだ。

逆にテストステロンを投与されると嘘をつかなくなるという研究もあるそうだ。こちらは男性的な競争に影響しているので、内部の同調性は少なくなるのだろう。

まあ、この研究が直接安倍政権の嘘と関連しているかどうかということはわからないわけだが、いずれにせよ「倫理」で政治を語らない方がよいのかもしれない。何が「善いか」というのは人によってこれだけ変わり得るからだ。

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ちょいワルジジと安倍政治に共通するグロテスクさとはなにか

「ちょいワルオヤジ」という言葉を作って一世を風靡した岸田一郎という人が「ちょいワルジジ」という言葉で炎上した。

特に悪質とされたのは、美術館でうんちくを行って女性を口説こうという提案である。美術館に対しての尊敬の念はなく、ちょこっとwikipediaで調べた知識があれば女性を感心させることができるという薄っぺらい洞察の裏には、人文科学に対する軽蔑心が見て取れる。芸術家が一生をかけて築き上げたものを単なる高級時計のようにしか捉えられないのだろう。

ちょいワルジジというコンセプトは実は安倍政治との共通点も多い。

安倍首相といえば、人文科学は不要という政策を掲げており大学の予算を削減している。「もっと役に立つことを教えるべきだ」というのだが、彼ら政治家の口から成熟して行く国で何が必要とされているかというビジョンが語られることはないだろう。せいぜい、軍隊を持って強い国になれば世界から尊敬されるだろうというような浅はかな見込みが語られるだけである。新しい獣医学部を作りたいなどというが、教育を第二の公共事業として利権をむさぼるための道具として利用しているだけだ。徹底的な智への反逆心が感じられる。「美術館くらいすぐに理解できる」というのと同じように「獣医学部なんて簡単に作れる」と感じているのだろう。

社会が成熟して行く過程で人々はより良い何かを追い求めるようになる。例えば単なる繊維産業だったファッションも、個性の発露や相互コミュニケーションのような役割を纏う。実は人は成長の過程で文化への欲求を持ち、それをうまく利用すると産業に価値を創出する。

しかし、岸田さんにとってファッションとは単なるお金もちを示す標識にしか過ぎないようだ。だからイタリアブランドの職人のこだわりなどを表面的に勉強しただけで、女の人たちを驚嘆させられるという単純な思考を何年も保持していられるのだろう。

もともと岸田さんが高齢者層に目を向けたのはマーケティング的な動機があるのだと思う。が何が彼らを動かすかわからないので、そのために女性を利用しようという魂胆が透けて見える。つまり、芸術家が真摯に新しい境地を獲得しようとした過程も単なる道具なら、女性も高齢者にお金を使わせるための道具なのである。

女性は欲望を対象であり、優れた知識を持っている自分たちを賞賛する存在でなければならない。つまり女性は男性の人生の添え物なのだ。かつては「効果的だった」と感じる人も多いのかもしれないが、それは男性優位の終身雇用制度に守られており、女性より経済的に優位に立てていたからである。女性は「ああ、そんなこと知っているよ」と思いつつも、黙って話を聞いていただけかもしれない。経済的な理由もあるだろうし、せっかく得意になって話しているのだからプライドを傷つけてはならないという気持ちもあるのではないだろうか。

すべての男性は女性を道具としてしか見ていないという視線は実は同世代の男性にも失礼だ。

ユングは人間が成長する過程をモデル化し、個性化という概念を創出した。人は成長の過程でさまざまな挫折を経験するのだが、それを乗り越えて、それまで使ってこなかった不得意な側面をも統合させ、その人なりの成熟を目指すようになる。個性化が誰にでも起こるかどうかはわからないが、一つのことを追求してきた人にはそれなりの蓄積があるはずだ。もし、他人に(女性だけでなく)尊敬されるとしたら、そうした成熟を社会に還元することなのではないだろうか。

日本人は真面目な民族なので、個性化に成功した人も多いのではないかと思われる。が、企業社会以外にそれを活かせる場がまだまだ少ないのが現実である。こうした場を提供することこそ、メディアや政治の役割なのだが、文化に興味がなく、他人を自分の欲望を満たすための道具としてしか見ない人たちから、そうした提案が語られることはないだろう。

さらに、高齢者がお金を使えないのは、将来に漠然とした不安を持っているからだろう、性的に刺激してやればお金を使うようになるだろうというのは考え違いも甚だしい。

他人は利用されて当然だという考え方はいろいろなところに受け継がれ社会に害をなしている。

例えば、山口敬之というジャーナリストは、こうした欲望の系統を受け継いでいるのだろう。山口氏は女性を欲望の対象としてしか見ておらず、女性がキャリアを築きたいという気持ちを弄び自分の欲望の道具として利用した。だが、山口氏は一人ではない。それをかばっている検察や警察の人たちも「女もいい思いをしたんだろう」とか「それなりの狙いがあって近づいたんだろう」などと考えてしまう。彼らもまた、他人を自分の欲望を満たす道具としてしか見ておらず、キャリアを追求している女性の真摯な思いを二度も三度もふみにじり、社会的に殺してしまったのだ。

先進国が成熟して行くためには、一人ひとりの心地よさに目を向けて、それを製品化したり政策化するというプロセスが必要である。その芽は一人ひとりの心の中にしかないので、誠意を持って育ててゆくことが必要だし、他人が持っている芽を大切にすることも必要だ。が、美術館は女を口説く場所でしかないと考えるような人たちが跋扈しているおかげで、それが阻害されている。

美術館で新しい洞察を得ようとする人たちは老人にしつこくつきまとわれ、キャリアを構築しようとした女性は酩酊状態にさせられた上で欲望のはけ口にされる。そして、大学を出て成長したいと考える若者たちを「教育無償化」で釣り上げて憲法改正を実現しようとする。共通するのは、人々の成長の欲求を自らの欲望を満たすために利用するという考え方だ。

 

「ちょいワルジジ」にはそうしたグロテスクさが隠れており、それは今の政治と共通しているのではないだろうか。

大麻と共謀罪

共謀罪は政権に悪用されるだろう、が

テレビでニュースを見た。共謀罪法案への反対を訴える学生っぽい女性が「このままでは日本はめちゃくちゃになる」と言っていた。顔が歪んでいたので本当に心配しているのだろう。政治家が一般の市民にここまでの不安を与えるというのはとても罪深いことだなと思った。と、同時に日本が共謀罪で無茶苦茶になることはないだろうとも思う。

日本人には独特の政治的姿勢を持っている。まず、理論や理屈などにはあまり関心を持たない。しかし、利益を独り占めすることだけは「絶対に許さない」ので「自分の利益を削っても相手を困らせよう」とする。もしかしたら(というよりかなり確実に)共謀罪法案は政権によって悪用されるだろうが、多分大方の日本人は法的安定性などというものはそれほど気にかけておらず、誰がが捕まったとしても「何か悪いことをしたに違いない」と思うだけだろう。

日本人はあまり論理を気にしないといわれても「自虐的だ」と思われるだけかもしれない。ここで極端な事例について考えてみたい。

絶対に吸ってはいけない大麻

田中聖という歌手が大麻取り締まり法違反容疑で捕まった。捕まった途端に「大麻は絶対にいけない」とテレビで連呼するいわゆる「識者」の人たちが多かった。しかし、のちに「あれは自分の車ではないから所持していたかどうかは証明できない」ということになり、無罪放免となり、拳を振り上げていた識者たちは「なんだかがっかりだ」というようなコメントを出した。一つだけ言えるのは、彼らは大麻がなぜ悪いかを知らずに、田中さんを叩いていたのだということである。

スポニチによると松本人志は次のように言っている。

松本は田中の逮捕について「警察の勇み足的な部分もあったのかな」と感想を述べたうえで、「このニュースで、大麻って吸っていいんだ!と思わせてしまった。変な暮らしの豆知識を与えてしまった」と指摘。「(極端に言えば)後輩とかマネジャーとか知り合いに大麻を持たせておいて、吸わせてもらったらいいわけでしょ?そんなことを教えてしまったなと。逆に、吸ってなくても自分の指紋なりが付いた袋から大麻が出てきたら、俺逮捕されちゃうんだ!っていう、何とでも落とし込めるのもちょっと怖い」と法律の抜け穴に首をひねり、「おかしい、矛盾してるわ」と納得いかない様子。「大麻はあかん!って言っていた我々がアホみたい」と釈然としない表情だった。

もともと日本では大麻は禁止されていなかった。これが禁止されたのはGHQの要請によるものと言われている。理由は単純で、アメリカでは大麻が禁止されていたからである。ではなぜアメリカで禁止されたのかということなのだが、タバコ産業のロビーイングの成果であるという説がある。さらに日本の輸出産業を壊滅させる目的だったと指摘する人さえいる。これらの説の真偽のほどはともかく、常習性のある薬物のうちで大麻だけが禁止されてしまった。

一方、同じ有害植物であるタバコは政治家に守られている。健康への被害が深刻だということはわかっていて、西欧先進国では軒並み厳しい規制がかかっている。ハフィントンポストのこの記事を読むと、自民党の及び腰や世界標準のズレがわかる。

内心の自由ならぬ「内肺の」自由

いずれにせよ、日本で大麻を吸っていいのは、日本では麻はありふれた植物だったからだ。つまり、どこにでも自生する可能性がある。ということでわざわざ吸う人はいないにしても、雑草として燃やした時に空気を吸い込んでしまうことがあり得るのだ。つまり大麻は吸っても罪にはならないことになっているのにはそれなりの理由がある。共謀罪風にいうと「普通の人が共謀罪の対象にならない」というのが嘘なら「普通の人が大麻を吸うことは絶対にない」というのも嘘なのだ。松本さんが「大麻って吸っていいんだ」という認識を持ったとしたら、それはとても正しい。大麻は誰の肺からも検出される可能性があるが、表沙汰にならないのは大麻の抜き打ち検査が行われることなどないからである。

大麻は自生している。北海道が90%を占めるそうで、もともとは国策によって広まったそうだ。国策だったのは、大麻が有効な輸出品だったからである。つまり、絹などと同じ位置付けだったのだ。アメリカはナイロンなどの化学繊維を生産していたので、日本から輸出される安い自然繊維を脅威と感じていたのは間違いがない。いずせにせよ、北海道には今でも大麻が自生しており、これを刈り取って捕まる人が時折いるという。

大麻、タバコ、酒のうちなにが一番罪が重いのか

大麻が健康に被害をもたらすことは間違いがない。が、これはお酒も同じである。もしお酒が禁止されていたとしたら、みんな隠れて飲むことになるだろう。当然質の悪い密造酒ばかりになるだろうし、密売ルートに関わるうちにもっと「ヤバいもの」に手を出す可能性も高い。さらに、中毒症状を起こしても医者にかかることはできず(かかると捕まるので)中毒症状は増して行くことになるに違いない。実際にアルコール中毒というのはかなり深刻な状態なのだが、禁止しろという人は誰もいない。管理したほうが、結果的には健康被害が抑えられることがわかっているからだ。

タバコ・酒・大麻の中でどれが一番罪が重いだろうか。大麻で健康が蝕まれるとしても(健康によいという主張をする人もいるようだが)それは自分だけの問題である。鎮静効果があるので「ダウンした」気分になるそうだ。お酒の場合には気分が高揚して相手に乱暴を働くことがある、家庭内暴力の多くにお酒が絡んでいるのはそのためだ。周りに迷惑をかけるという意味ではお酒の方が罪が重い。さらに、タバコも周囲を巻き込む。副流煙被害によって健康を害する人が出てくるのだ。ゆえに他人に迷惑をかけるという意味ではお酒やタバコの方が罪が重いと言える。

にもかかわらず、大麻がこれだけ厳しく規制され、タバコは年齢制限こそあるものの野放し状態になっている。論理的にはまったく説明ができないが、それを気にする人はいない。日本人は論理をそれほど重要視せず「法律違反だから悪いことだ」と考えてしまい、単純に「悪い人は排除しよう」と思ってしまうからである。

大麻の場合には警察のお仕事になっているので、これを解禁すると警察で仕事をなくす人がでてくる。だから、解禁できないのだという説さえまことしやかに囁かれている。一方で、タバコが野放しになっている理由も中小の飲食店がタバコを吸う場所を提供するということで成り立っているからだろう。結局、現状が誰かの利権につながっていて、それを変えることが難しいというだけの話なのだ。

政治について語ることが悪いことになる時代がやってくるかもしれない

共謀罪もこれと同じようなことになるだろう。警察にしょっ引かれたからあの人は何か悪いことをしたに違いないということになるだけで、一般の人たちはさほど関心を持たないはずである。なぜならば、そもそも政治に参加しようなどという気持ちはないからである。

多分、共謀罪の一番の問題は、内心に踏み込んでしまい法的体系をめちゃくちゃにしてしまうということだと思うのだが、多分国民にとって一番大きな問題は「政治について話すことは悪いことだ」という意識が定着することだと思う。それは大麻を吸うような場所に出入りするのは悪いというのと同じ話だ。タバコを吸う喫茶店に出入りしても社会的に抹殺されることはないが、大麻を吸う場所に出入りするのは「ヤバい」ことなのだ。と同じことが政治にも起こりかねない。

これはいっけん政権にとって都合がよさそうに思えるが、日本人は誰かが利権を独り占めすることだけは絶対に許さないので、誰も政治に関心を持たないが、バッシングだけはひどくなるという状態が生まれるのではないだろうか。誰も政治については表立って話さないが、バッシングの時だけは一致団結するというような社会になるのかもしれない。

 

Twitter民はなぜいつもイライラしているの?

ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。

面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。

日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。

普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。

一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。

ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。

さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。

次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。

Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。

これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。

そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。

だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。

やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。

マスコミは政治を二度殺す

「自公」ではなく「維公」で大阪が壊れる?〈AERA〉という記事を読んだ。大阪が維新によってめちゃくちゃにされ、それを公明党が支えているということが書かれている。これを読んでマスコミの罪について考えた。

大阪市と千葉市には共通点がある。自民党を中心にした翼賛政治を放置したおかげで財政的にかなり苦しい状況になった。違いはいくつかある。大阪市は過去に発展していた歴史があるので、収奪できる資産がある。一方、千葉市は東京の近郊として発展した歴史があり、農地を住宅地に変更する以外の財産を持っていなかった。

もう一つの違いがマスコミだ。大阪には在阪のマスコミがあるのだが、千葉にはそれほど顕著なマスコミがない。千葉日報と千葉テレビがあるのだが、大した存在感はない。千葉市民も千葉の動向にはたいして興味がないので、地元の政治ニュースというものが存在しないのだ。

大阪でマスコミが果たした役割は大きいはずだ。地元がうまくいっていないというニュースが広がり、それがマスコミによって拡大する。するとあまり政治に興味がなかった人が受動的に「大阪がうまくいっていない」というニュースを受け取る。しかし、中には判断能力がない人もいる。そこでインスタントソリューションに飛びつくことになる。例えば「民営化したら全てがよくなる」とか「大阪市職員が怠けているせいで大阪は発展しない」とか「非効率的な二重行政が問題だ」といった具合である。大抵は誰かを指差して非難するのだ。

一方、千葉にはマスコミがほとんどないので、こうした増幅は起こらなかった。結局市政を改善するためにやったことはとても細かい。例えばゴミをできるだけ減らすとか、今まで業者に委託していた事業を住民に委託するといった類のことである。つまり、うまくいっていない原因ではなく、何をやるのかに注目したのが千葉市と言える。こうした地味な取り組みはマスコミの注目を集めない。最近かろうじてニュースになったことといえば、中心部からデパートが消えたことと、ドローンを使った配送特区ができたことくらいだ。もう少ししたら駅ビルができたことがニュースになるだろう。

もちろん、全てが完璧によくなったわけではないのだが、職員の意識は少しづつ変わってきたと思う。財政はいくらかマシになり、住民の中には協力する人もでてきている。もちろん、興味がない人がほとんどなので、直近の市長選挙の投票率はあまり高くなかった。低い投票率があまり問題にならないのは(意地悪な味方かもしれないが)それほど潤沢な利権がないので「独り占め」のインセンティブが高くならないからだろう。つまり、今後市が財産を蓄積すると、それを利権化したい人たちがでてくるかもしれない。その時には注目度の低さは裏目にでるかもしれない。

一方、インスタントソリューションに飛びついた人たちは数年経って何も改善しないと文句を言い始める。しかし、それでも変わらないと「やっぱりダメだったんだ」ということになり、やがて関心を失ってしまうだろう。現在、国がそのような状態にあると言える。民主党政権のインスタントソリューションに飛びついた人たちがやがて離反し、安倍政権が放置されるようになった。今はめちゃくちゃな状態だが「もう何をやってもダメ」という気持ちが強いのではないだろうか。大阪市でも民営化が進んだおかげでかなりひどいことが起きているようである。それでも、自民党はダメだし、民進党は全く当てにならないと市民が考え続ければ、さほど政権担当能力のない維新が政権に居座り続けることになるかもしれず、それは衰退を一層加速させるだろう。

このように考えると、政治にはいろいろな関わり方があることがわかる。

  1. 政治に興味があり、政権を支える人たち。彼らはほっておいても政権を支持してくれるので特に何もする必要はない。これでうまくいっているのなら、特にいうことはないし、参加して社会をよくしてくれる分には特に問題もない。
  2. 政治に興味があり、政権に反発する人たち。何をやっても反発するだけなので、こちらも実はあまり気にする必要なはない。実際には社会を作るのに参加したりはしないからだ。
  3. 政治に興味はなかったが、積極的に参加する意欲を持った人たち。参加することによって、協力の面白さを知ることができるかもしれない。
  4. 政治に興味はなかったし、積極的に参加する意欲もないのだが、マスコミが提供するインスタントソリューションに飛びつき、効果がでないと離反してしまう人たち。大騒ぎして、反発する人たちを叩いたりする。社会参加には興味がなく、誰かを叩きたいだけなのだろう。

マスコミは第4カテゴリーの人たちを刺激し、間違った政策をチョイスさせた挙句、彼らを離反させることで、うまく行かない政権を放置することになるのではないかと考えられる。一方ソーシャルメディアは使いようによっては第3カテゴリーの人を刺激することができる。個人でも情報発信ができるので、市長なり政治家が一人で支持組織を作ることも可能だからである。

つまり、マスコミはまず極端なインスタントソリューションをあおることによって政治を殺し、次に失望によってもう一度殺す。そう考えると、あるいは政治報道から手を引くべきなのかもしれない。

日本語は特別に速い言語なのか

外国の人が日本語はなぜそんなに早いのかという質問をしていた。面白いなあと思って調べてみた。




倍速言語という考え方があって、それなりに引用されている。倍速言語の理屈は次のようなものである。

  1. 言語は、音節の複雑さと音節を送り出すスピードで、情報量が決まる。
  2. 音節が単純だと音節を送り出すスピードを早くする必要がある。日本語は子音と母音を1つづつしか使わないので、音節が単純と言える。
  3. 難しい音節があるとスピードが落ちるので音節はより単純化し、速度が最大化される。

この文章は「日本語は特殊である」という自己意識に基づいている。が、英語でDouble Speed Languageで調べてみても記事は検索できない。見つかったのはTIMEのこの記事だった。

データが圧縮されている(原文ではdense 濃い・密集しているとなっている)とスピードが遅くなる。

  • 英語の密度は0.91で一秒間に6.19音節が話される。
  • 中国語はもっと密度が高く0.94で一秒間あたりの音節数は5.18になる。
  • スペイン語は密度が0.63であり一秒間あたりに7.82音節を話す。
  • 日本語は密度が0.49しかなく、したがって一秒間に7.84音節が話される。

これを読むと、日本語が「速い言語」であることは間違いがなさそうだが、倍速というのは言い過ぎのような気もする。が、言語というのは、音節を複雑にするか、速度をあげるかで二極化されているのかもしれない。

だが、これは日本語話者の実感とは若干違っている。英語が苦手な人がよく「英語が早すぎて聞き取れない」というからである。しかし、この「英語は速い」というのは間違いで、実は英語の音節が複雑すぎてよくわからないということなのではないだろうか。英語に慣れるためには英語の音節を丁寧に聞き取ることが必要になってくるのだろう。

もともと複雑なものをカタカナに変換して聞き取ろうとしても「難しくてよくわからない」ということになるだろう。一つわからない音節が出てくるとそこでつまづいてしまい、そこから先がついて行けないという感覚になるだろう。

この記事によると日本語の情報伝達効率はそれほどよくないらしい。文中にグラフが出てくるが、英語が最も総体的な伝送速度が高く、日本語は伝送速度が低いということが示されている。

なお書き言葉については別の観測がある。日本語は漢字のおかげもあり、少ない文字数に多くの情報を詰め込むことができる。しかし、Twitterを分析したところあまり長いツイートは見られないようだ。情報量が多すぎると処理しきれなくなるのかもしれない。確かに、あまり長いツイートをみると疲れてしまうし、長々と書いたものより短くスパンと言い切った方が反応もいくらか良い。

ということで、どの言語でも処理できる情報量にはそれほどの差はないと言えるのかもしれないが、どのように効率をよくするのかというのは、言語によってそれぞれ工夫されていると言えるだろう。

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日本人を褒められますか?

最近、毎日のようにQUORAに投稿している。日本関係のことだとあまり調べ物をしなくても書ける。レコメンデーションシステムがあり、書き込んだのと同じトピックの質問が送られてくる仕組みになっているので、同じようなものを回答し続けることになる。Upvoteというシステムがあり「良い答えだ」とおもったらupvoteしてもらえるので、ちょっとした励みにもなる、また、英語でこれは何というのだろうということも調べられるので、ノンネイティブとしては英語の勉強にもなる。割といいことが多い。

外国人の日本についての質問には幾つかの特徴があるのだが、韓国人や中国人と比較して日本人はどう優れているかという質問が多い。どうやら三カ国がお互いに対抗意識を持っているということはうっすら知られているようだ。だが、外国人から見るとみんな同じに見えるので、対抗しているのが不思議に思えるのかもしれない。

日本の膠着しているシステムについて愚痴っている投稿などもあるが、わざわざ外国人に愚痴っても仕方がない。こうなると日本人を褒めたいわけだが、日本人を褒めるのはなかなか難しい。三ヶ国の違いがわからないと褒めたり貶したりということができないからだ。いろいろなやり方があるだろうが、日本人の特徴として次のような項目を利用している。

  • 人間関係が比較的フラットである。
  • 優しくて穏やかで相手の気持ちを思いやる。
  • ものの言い方が控えめである。

さて、これを使って日本人を褒めるわけだが、日本人を褒めて韓国人をけなすのは大人気(おとなげ)ないので「どちらもいいところがありますよね」などということになる。ポリティカル・コレクトな答えだが公共空間では無難な線だろうし、説得力が増す。

つまり、日本人は控えめな言い方をするが、韓国人は開けっぴろげで正直であると書くと受け入れてもらいやすいように思える。これは、日本人と韓国人には違いがあるがどちらが優れているというわけではありませんよということだ。つまり、どちらにもいいことがあるわけだが、同時に日本人の美点はよくない出方をすることがありますよということでもある。

日本人は直接的な言い方を好まず、あまり自分の本心も打ち明けない。これを控えめという言い方もできるが、友達になっても距離があるという言い方もある。これに悩んでいる外国人は多いらしい。つまり、日本生まれで日本人の血統を持っていないと「日本人扱いしてもらえない」と感じている人はかなり多いらしいのだ。アニメやその他の日本文化が好きで日本にやってきたのにいつまでもお客様扱いされているという不満を抱えている人もいるし、アジア人の中には外人扱いすらしてもらえないと嘆く人もいる。

いずれにしても、もし「日本素晴らしい!」と思うのだったら、外国語で日本について説明できるようにしておいたほうがよいだろうし、そのためにはある程度仕組みを理解する必要がある。そのためには、日本人は近隣諸国の人たちとどう違っているのかということを知らなければならない。

日本人の中で日本すごいと言っているうちは「四季がきれい」とか「民度が高い」とか言っていればいいのだが、例えば四季がある国は多いし、民度って一体何なんだということになる。民度が高いというのは結局「中国人がお行儀が悪い」と言っているにすぎないので、厳密にいうと日本人の利点ではない。

結局「美点」というのは比較で成り立っているので、日本が好きといいたい人たちは中国や韓国のいいところを学ぶべきなのだということになる。

なぜ政府批判は封じてはいけないのか

最近、政府の記者会見などでは記者がキーボードを打つカタカタという音だけが聞こえるのだそうだ。忙しい記者たちが仕事を早く片付けたいからだと思うのだが、多分自分たちが何をやっているのかという意味が見出せていないのではないだろうか。これは民主主義がじわじわと自殺しつつあるサインだと言える。

最近、政府と反政府の人たちの間の対立が激しくなり、政府批判は自民党の追い落としを意味するようになった。「安倍政権もうなんでもいいから消えろよ」というわけだ。この極端なゼロイチ思考は様々なところで見られる。最近では不倫疑惑を持たれたカップルのうち有名な方を晒し者にして社会的な死を求める運動も見られる。覚せい剤を使った息子を持った有名な俳優に仕事をやめさせるという圧力も働く。批判に慣れていない分、一度批判が噴出すると誰にも止められなくなる。そこで、社会的な死をもたらすまで晒し者にし続けるという悪い習慣ができた。

そもそも批判とは何だろうか。いろいろな考え方があるだろうが、ここではプログラミングのバグ取りだと考えてみよう。つまりより良いプロダクトを作るためにみんなで協力するという作業がジャーナリズムなのだ。

誰かが作ったプログラムにはミスが起こり得る。これを防ぐために何回も見直してから出すことは可能だが、時間がかかりすぎ効率的ではない上に、完全に問題を取り切ることはできないかもしれない。ちょっとしたミスが出る前提でβテスト版を出せれば、それが一番効率が良い。民主主義も同じで、人が作ったコードである以上間違いを含んでいる、だから、モニターしてチェックするわけである。

誰も間違いを犯さないという前提はなんとなく権力者には都合が良いように思えるわけだけれど、実は検証のコストが極めて高い。間違ってもその間違いを認められなくなる。だから、周りの人たちが間違いを指摘してくれた方が楽なのだ。

安倍政権の中の人たちは「俺たちは絶対に間違えない」という前提でいるようだが、これは自分たちの責任を軽視しており、何かあっても責任を取らないからなのだと思う。が、実はそれを批判する側も批判することの役割を放棄している。右から左に情報を流し、あからさまな間違いがあった時だけ大騒ぎした方が楽だからだ。

間違えるつもりがなくても間違えるということはある。例えば、地元の千葉市では財政再建が行われる過程で人件費の抑制が行われているようである。いろいろと無理が生じているらしいが、お互いの職域を侵犯しないという不文律があるようで、問題を是正したりお互いにカバーすることができない。評価に絡むことなので、市長に指摘して睨まれたら大変だと思っている人もいるようだ。このため、些細な問題が積み重なっている。

そこで通報制度を使って「どうなっているんですか」という問い合わせをすることがあるのだが、決まって担当者が「責められている」と感じるようである。直接電話がかかってきて「説明したい」という人もいる。公式ルートで上がると文書として記録が残る上、市長にも見られてしまうので、それを避けたいのかもしれない。

特に誰かが私服を肥やしたいと思っているわけではなくてもこうしたことは起こるのだ。それを放置することもできるのだが、結果的には恒常的な不満につながるか、大きな事故に発展することになると思う。が、普通市民が関わるのは選挙の時だけである。

これに対応していると、思い込みの強さを感じる。誰かに問題を指摘されると「その人の人格が否定された」という気分に陥るようだ。さらに、問題を対処する側も「誰が犯人なのかを特定して、その人にバッテンをつけて終わり」ということが多いらしい。組織が責められていると感じ、それを個人に転嫁したくなるのだろう。日本の社会に特有の「個人のせいにして終わりにする」という悪い癖が抜けないようなのだ。だから、問題は隠蔽されることになり、公の場に持ち出して改善して行こうという動きにつながらないのだろう。

さらに、関係者が問題を表に出して、検討しようという文化がそもそもないらしい。何人かの人に「この機会を利用して、みんなで話し合ってはいかがですか」と言ってみたが、全くピンときていないようだった。すべて個人の能力に帰結させてしまうのだ。昨日電話をかけてきた人は、自分は責められていると思い込み「直接会って説明したい」と言っていたが、責めているわけではなく、問題がどこにあるのかを探す機会にしていただきたいというと黙り込んでしまった。多分、何を言われたのかはよくわかっていないと思う。日本の組織にはそれくらい「自分たちで考えて、仲間同士で助け合う」という文化が欠落している。

民主主義にとって批判はバグ取りにすぎないと考えてみるのはとても大切だと思うのだが、現場の記者たちがその気になれないのは、受験勉強が個人競技であって、そのあと「絶対に間違えない(何も実行しないのだから当然だ)」マスコミに入ってしまったからかもしれない。QAのつもりで行動するという気持ちになれないのだろう。その上、日本の組織にもお互いに助け合うという文化はないので、それを他の組織にも応用してしまうわけだ。

菅官房長官の「批判は当たらない」は、プログラマーが「俺の作ったプログラムには絶対バグがないから、動作不良に見えてもそれは気のせいだ」と言っているのと同じだ。自動車に言い換えれば「俺の作った自動車は完璧にプログラミングされているから、事故を起こしたらすべてユーザーのせいである」というようなことになるだろう。誰も、そんな人の作った製品は買わなくなるだろう。にもかかわらず、それしか選択肢がないというのがこの国の抱えている不幸なのかもしれないのだが、実は政府の側だけでなく、それを見ている人たちにも問題はあるのだと思う。

 

表現の自由について説教する

百田尚樹さんという人が一橋大学の学園祭への出演をキャンセルされたようで、これについて局所的な議論が起こっているらしい。これを「表現の自由の圧殺」と言って擁護する人がいるとのことである。左翼の謀略だと騒いでいる人もいるらしい。

とても不毛な議論だが、なぜこれは不毛なのか整理してみたい。表現の自由が重要なのは。民主主義が一人ひとりの参加を前提にしているという前提が受け入れられているからである。特定の人だけしか意見が表明できないと、結果的に決まったことが歪んでしまう可能性があり、歪んだ決定は大抵なんらかの間違いを含んでいるのだろうというのが基本的な線である。

表現の自由を気にしない人は「俺の方が賢いから、相手の意見なんか聞かなくても正しい判断ができる」と考えている。しかし、安倍政権やトランプ政権を見ていると、その決定には穴がとても多い。トランプ政権は目の前にいる人にウケるために言ったことが、そこにいない人を怒らせている。本来なら他人の意見を入れて、その意思決定を間違いのないものにしなければならない。安倍首相に至っては批判や検証もすべて「印象操作」で片付けている。自分だけが正しくて相手は間違っているという確信があるのだろう。

ここで重要なのは、表現の自由が「言うこと」だけを指しているわけではないということである。つまり、聞くことも「表現の自由」に含まれているのだ。とにかく、表現の自由は「自分の言いたいことを一方的に捲(まく)したてる」ことではないということがわかる。

百田尚樹さんといえば、過去に特定の新聞社が潰れてしまえばいいといったことで知られている。自分が聞きたくないことは聞きたくないが、言いたいことは言いたいという人である。ということで、特定の人たちを集めて自分の考えを一方的に捲し立てても構わないわけだが、公の場に出てきて自分の表現の自由を主張してもあまり説得力がない。ということで、一橋大学の有志の判断は正しかったと言える。

さて、これについて百田さんを批判して終わりにすることもできるのだが、我々は何を学ばなければならないのだろうかについて考えてみたい。それは表現の自由を標榜する以上は「聞くための窓は開けておかなければならない」ということである。政治のような大きな問題に直面すると意見が固まってしまいがちだし、よく考えている問題ほど、自分の意見は変えにくくなる。が、時には努力して考えを変えることも必要なのではないだろうか。

表現の自由が大切なのは、多分我々は間違えることがあるからなのだ。つまり、自分が何を話すかというのは表現の自由のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

逆に表現の自由を否定するということは、自分の意見をより良いものにするチャンスを逃すということになる。自分の考えが機能しているかどうかを検証する機会を失ってしまうのは、実はとてももったいないことなのかもしれない。