安倍首相はなぜ嘘をついてはいけないのか

東洋経済ONLINEを見ていたら中島義道という人が人は嘘をつくのになぜ政治家は嘘をついてはいけないのかというような疑問を提していた。有名な雑誌のWeb版なので有名な哲学者の方なのだと思うが、答案を書いてみる。

まず、民主主義を、話し合いによってできるだけ多くの人が幸せに暮らすことができる社会を作ることだと定義する。社会は一人ひとりの貢献によって成り立っているので、納得感が得られなければ社会そのものへの信頼がなくなる。信頼がなくなると人々は努力を出し惜しみすることになるはずだ。幸せという言葉が気に入らなければ「できるだけ嫌な思いをしない」と言い換えても良い。

そのためには、話し合ってみんなが納得するように物事を決めて行くことが必要だ。話し合うためには「今はどういう状況で」「こう決めたらどうなるか」ということをできるだけ正しく提示する必要がある。完全に読み切ることは難しいので「できるだけ正確に」ということになる。話し合いの過程を記録しておけばあとで見直せるので、間違えたとしても見直すことができる。

ところが、人は嘘をつくことができるし嘘もついている。ということで、判断を自分に都合の良いように誘導することも可能だろう。が、嘘をついて話し合いの過程を歪めてしまうと、人々はやがて「あ、これはおかしいぞ」と考えて、社会への関心を失ってしまうかもしれない。嘘をついて得する人は嘘をつくだろうし、得がない人たちは話し合いに参加しなくなる。さらに人には自分が納得して決めたことには従おうという特性がある。決めるのに参加しない人は、公然と逆らうと何かと面倒なのでこっそりと従わないことになるかもしれない。

つまり、嘘が横行すると、決めたことへの信頼性が失われ、結果としてみんながいろいろと大変な思いをする。が、現実としては嘘はつける。だから、信頼性を損なわないようにするために「嘘をつかない」というタテマエが必要だということになる。嘘をつけるのだが、嘘をつかないようにしようということである。嘘をつかないようにしようというのはキレイゴトなのである。

人は嘘がつけるから「嘘をつかない」としないと話し合いがうまく進まないというのは、スポーツのルールと同じようなものだ。ゴルフでは誰も見ていない時にボールを穴に入れてしまえば優勝することができるが、誰もそんなことをしない。そんなことを許せばゴルフではなくなってしまうからだ。

こうしたことが哲学の考察対象になるのは日本人の特性によるものと思われる。なお中島さんが本気で「嘘をついてはいけない」というのを考察の対象にしているのか、それともわざと言っているのかはこの東洋経済ONLINEの記事からはよくわからない。

年配の日本人は終戦を経験している。そもそも民主主義ではない時代を記憶していて、急に民主主義が入ってきた。またアメリカに上から頭を抑えられていて民主主義以外の選択肢がなかった。中島さんは1946年の生まれということで、物心ついた頃にはみんなが「なんだかよくわからないが民主主義はすごい」と言っていた時代の人なのだろう。自分たちで民主主義を獲得した国では「タテマエ」の大切さを理解しているのだが、民主主義が上から降ってきた日本では、その重要性が理解されなかったのかもしれない。例えばトランプ政権下のアメリカは場合によっては独裁体制になってもよいわけだから、その切実さにも違いがあるだろう。できるけどやらない、のだ。

次に日本人は個人の話し合いで物事を決めてこなかった。いろいろと裏で話し合いをした結果が全体に承認されるという形態を取る。一人ひとりの話し合いがあまり重要な意味を持たないから、表向きの議論で嘘をついても大した影響がなかったのかもしれない。だが、最近では裏での話し合いがうまくゆかないことが増えてきているので、嘘が影響を与えるようになってきているといえるのではないだろうか。

この論の一番の弱点は「そもそも話し合いなんか必要ないのではないか」というものである。完全な個人がすべてを間違いがないように決めてくれればそれでよいはずだ。だが、実際にはそうした試みはおおかた失敗している。完全独裁のままの国はそれほど多くないし「優秀な共産党がみんなの代わりに決めてあげる」という共産主義はほぼ絶滅した。

なぜ、話し合い型の社会の方がうまく行くのかはよくわからない。もともと類人猿として脆弱だったので助け合いが発達したという学説すらある。こんなことを科学で証明したいと考えるのは「話し合い」や「助け合い」の効用が自明ではないからだろう。

理論がわからないので過去の事例を参照するということもできる。

例えば北朝鮮と韓国は北朝鮮の方が進んだ工業国だったのだが、長い間に大きな差がついてしまった。西ドイツと東ドイツも同様だった。東ドイツは反逆者を押さえつけるの大掛かりな秘密警察を作ったがすべて徒労に終わった。長い間「気に入らなければ出て行っても良い」と言っていたのだが、ある時期多くの国民が「じゃあ、出て行きます」ということになった。どちらも同じ民族なので社会的には似通っているはずだから、体制の違いが結果に現れているとしかいいようがない。限られた人が決めるより、みんなで決めた方が成功する可能性が高い。

一方で、サウジアラビアのように独裁的な政権が比較的うまくいっている国もある。が、石油資源を抱えていて国民に不満が出ないように富が分配できるから成り立っている。ロシアも天然資源を抱えているので、ある程度反対勢力を懐柔することができる。こうした「何をすれば幸せになれるか」ということがわかっている国では、ある程度の独裁もうまく行くのかもしれない。

ということで、よくはわからないが話し合いや助け合いは大切らしいということがわかる。

だが、もう一つの欠点は少し答えを出すのが難しい。みんなで一生懸命に話し合ってもすべての人が納得できる答えなど見つからないという可能性があるのだ。この場合は「優しい嘘」をついて、決して満足できない人たちにかりそめの満足感を与えるか、犠牲にするほうがよいということになる。民主主義の発達した先進国は、実は周辺国から資源を安い価格で買い入れて高く売ることで成り立っていた。国境という区切りがなくなったので、今かなりの混乱が起きている。この問題は多分、政治学の世界では「グローバリズムをどの程度展開するのか」という問題になっているのだろう。そもそも「話し合いでみんな仲良く」というのが壮大な嘘だったという可能性はあることになる。

この可能性を考えると、実は政治家は嘘をつかざるをえなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。かつては見なくて済んだものを直視せざるをえなくなっているというわけだ。つまり「政治家は嘘をついて良いのか悪いのか」という疑問の立て方が間違っていて、なぜ嘘をつかざるをえなくなっているのかということを考えなければならないのかもしれない。

ダイエットについて真面目に考える

しばらく運動ができない時期があり67kgくらいあった体重がピーク時には84kgくらいいった。しばらく「もういいや」と思っていたのだが、写真を撮影するとあまりにもひどかったので、再びダイエットしてみることにした。

以前に食事を変えて(炭水化物を抜く)三ヶ月程度で10kgほど痩せたことがあった。炭水化物を抜いて1kmくらい歩くというのをしばらく続けたのだ。だが、今回は食事を変えたりということはできなかった。

やってみたこと

まずは体重計に乗ることから

太ってくるとそもそも体重計に乗るのが嫌になる。まずは現状の把握が重要だが、体重計に乗ろうと思うまでに数日かかったと思う。が、とりあえず乗ってみた。これまでの最高が80kgくらいだったのでそれを少しオーバーしている。ちょっと絶望する。

とりあえず最初の一歩を踏み出すことが大切

時間がないとか食事を自分でコントロールできないなど、制約がある人も多いと思うのだが、まず開始してみることが大切だと思う。とりあえず1時間くらい歩くことにした。ガラケーにある万歩計を使う。計測してみるとだいたい7000歩という値が出る。これでだいたい一ヶ月に1kgくらい減らすことができた。この状態が半年くらい続くと6kgくらい痩せることができる。

しかし、1kgくらい減っても体型にそれほどの変化は見られない。あまり成果を気にしないことにする。

内臓脂肪を減らすためにお酢を飲む

内臓脂肪を減らすという触れ込みのお酢を飲むことした。知っている人がお酢を飲んで胃を荒らしたという話を聞いていたので、りんごなどで調整されているものを買ってきた。だいたい一週間くらいで一本飲むのだが価格は近所のスーパーで265円(Amazonで買うとちょっと高い)である。体重は減っているものの、それほど劇的に変化がわかるわけではない。

もともと一番右側の穴で締めていたベルトが一番左の穴になった。半年でこれを左から3番目まで縮めたのだが、最後の1つが落ちなくなった。

よく見ると右の穴の隣に筋がついているが、無理して締めていて付いた筋だ。締められるけど、ちょっときついみたいな状態である。

どうも「内臓脂肪大作戦」はここで効果が落ちついてしまったわけだ。お酢を飲んで運動するというのに効果がないわけではないのだが、作戦を切り替えなければならない。

停滞してからやったこと

体重の減少そのものは76kg近辺で止まった。半年強で8kgくらい痩せたことになるが、まだ少し腹が出ているという状態だ。

筋トレする

ちょっと体が動くようになってきたので、筋トレを始めた。しかし、あまり張り切り過ぎると続かないことは容易に予測できるので、腕立て伏せ3回(胸の両側、上、下と部位が3つある)で10回づつ行うことにした。あと腹筋を3種類やる。普通の腹筋(足を上げることで腰を床につける)、足を上げ下げして下腹を刺激する、ひねるというものをやることにする。スクワットをやっていたが面倒なのでやめた。時間にして10分もかからないので、やっててもあまり意味がないのかなあと思う。

行ける人は時間を作ってジムに行ったほうが良いと思う。スウィッチが切り替わるのでまとまった運動ができるからだ。が、マシーントレーニングも考えものだなあと思った。とりあえず重りを動かしているだけだと「どの筋肉に効いているのか」をわざわざ考えない。

写真を撮影する

ダイエットというのはなかなか思うように効果が出ないので、写真を撮影することにした。ちょうどファッションに興味があったのでファッション投稿サイトで反応を見ながらやってみることにした。しかしやってみると、頭が大きく脚が短い。これを補正するために画角を調整する人もいるようだが、ポージングでなんとかやってみることにした。ファッション雑誌を真似てみるわけだ。

気がついたこと

世の中にあるダイエット本にはさまざまなアプローチがあるのだが、それぞれこうした要素について言及はしていても全体については書いていない。だから、あるダイエット法をやったからといって、それがすぐさま劇的な効果を生むということはないわけだ。最初はベルトの穴が減ったりして嬉しいわけだが、だんだん数字が動かなくなると「もうやめちゃおうかなあ」という気持ちになる。そこで数ヶ月でやめてしまうと「効果がなかった」ということになってしまうのだと思う。

だが、実際には8kgほど痩せている。これの効果を実感したのは4kgの荷物を背負った時だ。背中にずっしりくるわけだが、これの倍を身につけていたことになるわけで、かなり大きな負担だったことがわかる。だから、諦めずに続けることが重要だ。

体重が減ることとスタイルが改善することは実は似ているが違う

停滞を破ったのは実はあまり脂肪燃焼とは関係がない行動だった。ということである程度守備範囲を広げておくのは重要である。

写真撮影をしているうちに姿勢が気になりだした。脚が短く、頭が大きいからだ。日本人だしモデル体型でもないから仕方がないよなと思ったのだが、サイズなどを計測してみる。すると実はそれほどひどいものでもないのである。姿勢が悪いんだなあと思った。

そこで最初は脚と胸で姿勢を維持しようとした。すると腰に無理がかかったようで左腰を痛めた。痛くてしゃがめないほどである。左腰に負担をかけないようにして(というよりかけられない)姿勢を補正するためにはどうしたらいいかを考えた。

そこで上半身を持ち上げてみる。するとウエストが細くなる。さらに下腹部に力を入れて下腹部を引っ込めた。これで下腹が凹む。さらに年齢が行っても太っていない人の肩甲骨がTシャツ越しにわかることに気がついた。これを真似てみると胸をかなり反り返した感じになる。その状態で入らなかったパンツを履いてみたところすんなりと着ることができた。つまり知らず知らずの間に体が緩んでいたのである。

下腹部を出したり引っ込めたりすると腹式呼吸になるのだが、これをしばらくやるとさらに2kg弱痩せた。さらに最後の一穴が無理なく締められるようになった。

そういえばこれを利用したロングブレスというダイエットもあったなあと思った。ロングブレスダイエットは「息を吐き切る」という点に特徴があり、きつければきついほどいいという印象があったのだが、実はそれは本質ではなかったようである。下腹で呼吸するということがよくわかっていなかったのだ。そう考えると丹田呼吸という本も幾つか出ていて「いろいろつながっているんだなあ」などと思う。

体脂肪率が減ったわけではないので、排水がよくなっただけという可能性もあるが実際に体重が減ったし、ベルトも縮まった。これでいいんじゃないだろうか。

最初の行動が無駄になったわけでもなさそう

このように三段階でダイエットしてみた。最初にやっていたことが無駄になったのではと思える、しかし、第二段階以降を実行するためには、そもそもある程度内臓脂肪が減っている必要があり、なおかつ姿勢を保つための体力も必要である。体力がないにしても、少なくとも筋肉がどう動いているのかという意識を持たなければならない。つまり「無駄だなあ」と思ってやってきたことが実は効果があったということが後になってわかるのだ。

ジムで急激に体重を減らしてもやみくもにマシーンを引っ張っているだけでは「単に痩せた」だけで後には何も残らない。何をどう動かしているのかという意識付けが実は重要なようである。

例えば「お腹を引っ込めたい」と思っていても、実はお腹がどうなっているのかをよく知らない。実は腹筋は幾つかのブロックにわかれていて横にも広がっている。どこに何があるかわからないと力を入れることもできない。さらに腹部の上と下では効果的な運動すら違っている。このように筋トレはトレーニングそのものが目的なのではなく「そもそも筋肉ってどこについているの」かを確認するためにもできるわけだ。GQには次のような記述がある。

腹凹エクササイズは、腹直筋、内外腹斜筋、インナーマッスルである腹横筋をそれぞれターゲットごとに鍛えるメニュー。回数は各20回1~3セットを目標に、週2回からスタートしよう。まずは全メニューにトライを。続かない人は、各10回、週1回からでもいい。とにかく、挫折することは避けてほしい。

まとめると

  • 無理なく続けられることが重要。5分の筋トレだと特にやめる気にならない。歩くのも習慣にしてしまえば楽だ。これをライフスタイル化すると言ったりする。成果と結びつけてしまうと、
  • ダイエットにはいくつかのプロセスがある。停滞したらアプローチを変えてみるといいのだが、何をしていいのかよくわからない。しかし、体脂肪を減らすことから姿勢を正しくすることに変えてみるなどのやり方があるので、いろいろ手をつけることは重要なようだ。
  • すぐに効果がでない場合に備えて記録を取ってみる。体重計のように数字で測ってもいいが、ベルトの穴だったり、昔のスーツだったりといろいろな計測方法がある。複数の指標を持つことが重要なようだ。

有能感に苛まれる人たちと意味の盗人

江川紹子さんが池田信夫さんに反論しているのを見つけてかなり気分が悪くなった。池田さんは獣医師さんについて書いているのだが、これはいったい何のための議論なのだろう。ひどい言葉が並んでいるが、中でも衝撃を受けたのは「ペットは単なる愛玩品だ」という発言である。

池田さんはネットで挑みかかってくる人たちを論破して有能感に浸っているようだ。たしかに筋は通っているように思える。が、そこには実感がない。

個人的なことになるが、最近犬が倒れた。池田さんに言わせれば単なる愛玩品でお人形などと変わりはないのだろう。つまり捨てるか安楽死させてしまうのが「合理的」なのかもしれない。しかし、家族の悲嘆は大変なものだった。倒れて食事ができなくなった犬にスプーンで砕いた餌を与え、倒れるのは痛かろうと周りにカーペットを敷き詰めた。散歩に行けなくなると糞尿の世話もしなければならない。

好きで犬を飼ったわけだから自己責任だし、人間より寿命が短いのでやがてはこういうことになるのはわかっている。が、動物はやはり単なる愛玩品ではない。それが理屈で説明できるかと言われるとできないし、その検診や犠牲が何か合理的な役に立つかと言われればそれも疑問だ。例えば牛や豚は食べるのに犬は救いたいと思うのかと言われると合理的には対応できない。実際に餌は食べなかったが、牛の缶詰などは喜んで食べていた。食べるということで「動きたい」という意思が生まれ少しばかりよくなったりするのだが、やはり他の動物を犠牲にしているという見方はできるだろう。

さらに獣医師さんはお休みの日にも診察をしてくれた。「金をとっているから当然だろう」という考え方もできるわけだが、1日病気の犬に付き添ってくれたようで本来ならそれなりの対価を支払わなければならない。休診日にも見てもらったが、猫の薬を求めてくる別の人にも親切に対応していた。経営の能力は必要だと思うが、それだけではやって行けない仕事だと思った。動物が好きなんだろうなとも思うが、好きだけでも続かないだろう。

確かに、獣医の供給に関して利権があることは認めるし、それは「抵抗勢力」だということはわかる。獣医と言っても畜産関係が多く、ペットドクターが全てではないということも学んだ。だが、それは集団としての獣医学会と業界の構造的な問題であって、個人の問題ではない。つまり、獣医学会のあり方を批判するのは良いのだが、それを一人ひとりの獣医の否定に繋げるのはとても乱暴な考え方だ。

議論が複雑なのは命を扱っているからである。政治は単なる理論家のお遊びではなく、生活につながっており、人はそれを合理性だけで判断ことはできない。問題解決のために、努めて理性的になる必要はあるだろうが、人々の暮らしは理性の奴隷ではない。それは問題を解決するための手段に鹿すぎない。

多分池田さんの過激な発言の裏には2つの動機があるのだろう。1つは安倍政権の擁護である。政権を擁護することでさまざまな優遇が期待でき、ついでに自分の有能さをひけらかすことができる。そのためのポジションをとって議論を楽しんでいるのだろう。本来は倫理的に許されない行為だが、日本のトップリーダーが進んで意味を破壊しているのでこうした行為が可能になる。ものを盗めば犯罪だが、意味を盗んでも犯罪にはならない。

もう1つの動機は少し複雑だ。安倍首相を擁護する立場の人たちは単に利権を求めているわけではなく、言葉にできない感情のはけ口として安倍政権を支持しているようだ。例えば、動機の一つには女性蔑視があるようで、小池百合子都知事や蓮舫民進党代表などはかなり嫌われている。女が自分たちの両部を侵犯することに反発心を持っているが、それを主張する力がない。だから、池田さんが女性を蔑視しているというわけではなく、そういう満たされない人たちの代弁をすることに需要があるのではないだろうか。が、彼らのルサンチマンを満たしてやったところで、彼らの境遇が改善することはない。

結局、商売と利得のためにやっていてついでに有能感を満たしていることになる。コミュニティについて特に貢献しているわけではないし、他人の問題を一緒になって解決しようという気持ちもない。

これは、本来問題を解決し人々を救うはずだった議論の空間に入り込んで、盗みを繰り広げているようなものだ。法律と違って、問題を解決しようという人々の了解だけが空間を支えているので、いったんそれが崩れてしまうと元に戻すのは容易ではない。

こうした議論のための議論が行われる背景には安倍首相の抗弁がある。もはや問題を解決することには興味はなく、理屈を弄び、言葉の解釈を無効化して、議論の空間を無茶苦茶にしている。こういう政権は今すぐ消え去るべきだと思う。

安倍政権が破壊しているのは、人々が助け合って解決策を見出して行こうという人々の熱意と意思なのだ。

忖度という言葉は何をごまかしているのか

忖度という言葉が乱用されている。もともとは2017年3月に籠池理事長が会見で使ったのが流行の発端になっているようだが、2017年3月の初めに福山哲郎議員が安倍首相に「忖度があったのではないか」と聞いたのが一人歩きのきっかけのようだ。

が、この乱用はあまり好ましくないのではないかと思う。「勝手に意思を読み取った方が悪い」という含みがあるからだ。忖度せざるをえないのは「指示が曖昧」だからである。この責任を読み手にだけ負わせるのはあまりにも無責任だ。

安倍首相は様々な忖度を部下にさせていたことがわかっている。例えば加計学園の問題では自分と加計学園の関係をほのめかし「部下になんとかしろ」と言ったようだ。首相が直接的に指示すれば問題になることはわかっていたことをうかがわせる。山口敬之氏の問題では警察に「なんとか助けてやれ」というサインを出していたのだろう。これも首相が直接警察に介入したとなれば大騒ぎになる。

忖度を生む背景には曖昧な指示があり、曖昧な指示の背景には非合法な(あるいは不適切な)意図があることがわかる。忖度は指示の不全なので、指示について分析すれば、どんな場合に忖度が生じる得るかがわかる。指示には意図・方法・リソースが含まれる。

第一は冒頭で見たようにトップが責任を逃れて部下に「泥をかぶらせる」ための忖度である。部下も最後は上司がなんとか責任逃れをしてくれると思うので、結果的に集団思考の状態に陥るだろう。

次に上司が何をしていいかわからず、解決策を部下に求めることもある。どうにかして売り上げを伸ばすべきなのだがどうしていいかわからないので「とにかく頑張れ」と言ってしまうような場合が考えられる。とにかく頑張れと言われた人は、何か不正な手段に訴えたり、とにかく長時間働いてなんとかしようとするかもしれない。

最後に、指示は与えたがリソースが明らかに足りないことがある。例えば、人手が足りないのに「なんとかしろ」というと、部下は仕事を省いたり、他人に押し付けたりするかもしれない。必要なリソースがないのに成果を要求するとどこかで無理が生じる。

指示そのものを分析すると「どんなやり取りがあったのか」という後追い出来ない問題を棚上げにすることができる。どんなリソースが足りなかったのか、結果的に市場の効率がどう歪められたのかということは外から精査できるからだ。つまり、情報が隠蔽されている安倍政権を追及する手順は、例えば下記のようになるはずなのだ。

  1. そもそもあるべき姿とはどのようなものだったのか。
  2. そのあるべき姿が曖昧な指示によってどう歪められたのか。
  3. 歪められた原因は何にあるのか
    1. 目標達成までの道筋は明確に指示されていたか。あるいは途中で検証可能だったか。
    2. 目標を達成するためのリソースは十分に与えられていたのか。
    3. 法的な責任逃れなど、そもそもの指示の意図に問題はなかったか。あったとしたら、それは何が問題だったのか。
  4. 原因が特定できたらどうやってそれを改善するのか。

森友学園の問題が一番簡単に分析できる。森友学園は学校を作るのに必要な資金がなく、結果的にゴミをでっち上げて土地を格安に譲るという方法で利益供与が行われた。実はリソースが足りなかったのだ。

加計学園の場合は少し複雑だ。銚子市の学校の場合需要がなく資金もなかったので、結果的に銚子市の財政が破綻しかけている。が、今治市の獣医学部の場合には需給予測が曖昧らしく、需要と供給を満たすのかということがよくわからない。が、作ってから「実は需要がありませんでした」となると、被害を被るのは今治市ということになるだろう。

学校の問題は実はかつての公共事業のやり方に似ているのではないだろうか。公共事業は利権の温床になっていて需給シミュレーションを歪めて利権誘導していた。しかし民主党政権が「コンクリートから人へ」というスローガンで教育へシフトしたので、教育を新しい公共事業にしようという意識が生まれたのだろう。この延長が「教育の無償化」を言い訳にした改憲議論だ。高等教育も国の予算でやるとなれば巨大な利権が転がり込むことになる。実はつながっているのである。

いずれにせよ特区を作って学校を誘致するというには考えてみれば変な話だ。需要がないから獣医学部の空白地帯ができている可能性があるわけで、そこに学校を作ったからといって需要が生まれるわけではないからだ。獣医学部ができたら、そこに養鶏場が作られ、牧畜が盛んになるだろうか。忖度があったかなかったかという不毛な議論をしていると、こういう単純なことがわからなくなる。

山口氏の問題は別で、公平さが歪められたのが問題になっている。もし首相に伝がなければ逮捕状は執行されていただろう。法律がある人には適用されある人には適用されないということになると社会秩序はめちゃくちゃになり、結果的に人は法律そのものを信頼しなくなるに違いない。少なくとも「女性の意識を奪った上で欲望を満たす」のが「運が悪くて政権に伝がなければ捕まる」程度の犯罪になってしまえば、日本はもはや法治国家とは呼べない。

そう考えると、民進党の攻め方のまずさが浮かび上がってくる。間接的に曖昧な意思疎通があったということだけを問題にして大騒ぎしているのだが、これは照明が非常に難しい。政策立案能力がないので、そもそもあるべき姿を構築することができないのだろう。本来なら、曖昧な指示が行われた過程を検証し、どのようなルール設定をすればこうした問題がなくなるのかを国民に直接提示すべきだった。安倍政権に反省を求めても無駄だということはこの数年で痛いほど理解しているのではないだろうか。

野党4党はマスコミ受けを求めて攻め手を変えているので、マスコミは忖度という言葉を使うのをやめて「曖昧な指示が意思決定を歪めた」などという言い方をすべきだろう。まずはそこから始めてみてはいかがだろうか。

ディビッド・ケイ氏はマッカーサーではない

国連の報告者であるディビッド・ケイ氏が日本のマスコミについて注文をつけた。この過程で日本の記者たちからなぜか匿名での情報を提供があったそうだ。つまり記者たちは常々報道のあり方に疑問を感じているようなのだが、それを自分たちでなんとかしようという気持ちはないようである。「誰かがなんとかしてくれないかなあ」と考えていることになる。

ディビッド・ケイ氏の注文は主に政府の規制や新しい法律に関するものだが、マスコミのインサイダーたちの中には記者クラブ制度に強い不満を持っている人もいるようだ。が、本当に記者クラブ制度は問題なのだろうか。

最近の政局はそもそも場外乱闘の形で起こることが多い。主な発信源はNHKや朝日新聞社へのリークや、週刊誌への情報提供である。記者クラブはその後追いとして、政府の言い分を取材する役にしか立っておらず、すべての報道が記者クラブによってコントロールされているとはとても言えない状態だ。

にもにもかかわらず記者クラブ「だけ」が存在感を持って見えるのはどうしてだろうか。これは記者クラブがなかったらどうなるかを想像してみればわかる。記者たちは特定の記者クラブで雑巾掛けの修行を始める。もともとは文学部とか法学部などのジャーナリズム専攻でない学部を出た人たちで、OJTで取材の仕方を学ぶわけである。この人たちがマスコミ内部で名前を売り、生き残った現場志向の強い人たちがフリーとなり、ジャーナリスを名乗るようになるという構造になっている。

つまり、記者クラブは学校の役割を果たしており、記者クラブをなくしてしまうと「どうやって官公庁の取材をしていいのか」がわからない人ばかりになってしまうということを意味する。日本にはジャーナリズムを教える学校がないので、記者クラブがなくなってしまうと記者教育ができなくなってしまうのだ。

学校ができない理由は何だろうか。第一の理由は理論的な裏打ちの不在だろう。例えば、ジャーナリストは権力から一定の距離をおくべきだというような、倫理規定が日本にはない。こうした倫理規定ができるのは、裏にジャーナリズムは権力を監視し民主主義を健全なものにする役割があるという自己認識があるはずなので、日本人にはそうした意識がないことがわかる。

さらに、現場の記者たちは後進をマネジメントしたり仲間を育てることを嫌がる。現場志向が強いからだと考えられるのだが、それだけではなく「ライバルが増える」ことを嫌がっているのだろう。獣医学部も参入規制があるそうだが、ジャーナリズムは学校を作ることさえ嫌がるのだ。

もしフリーの記者たちが本当に記者クラブ制度はいけないと考えているなら、自分たちの仲間を増やす努力をするはずだ。SNS時代なので、こうした書き手は新聞社などに入ったことがない人たちで読み手を兼ねている可能性が高い。が、ジャーナリストの人たちは優位性を保ちたいので、こうした人たちを敵視してしまうことが多い。

共通の意識もなく競合者同士で協力もできないので、ジャーナリストはまとまれない。そこで外国から来た人に匿名で告げ口することになる。政府から弾圧されているから表立って行動できないという理解は必ずしも正しくないのではないだろうか。

さて、理論的な精緻化をはからず、仲間や後進を育てないということのほかに、ウェブメディアならではの問題も出てきている。TBSのジャーナリストにレイプされたという女性ジャーナリストに対して「枕営業をしかけたのではないか」というセンセーショナルな発言をした池田信夫氏を例に説明したい。

アゴラはもともと専門家の知見を活かしてウェブならではの提言をするという名目で設立されたのだと思うが、新田氏(この人も問題のある発言で知られる)を編集長に据えたあたりから、おかしなことになってきている。

もともと池田さんはNHKの出身なのだが、メインストリームでポジションを得られなかったことでウェブに新天地を求めたのだと思う。やがてネット上でプレゼンスを得てゆくのだが、編集長の新田氏のWikipediaに面白い記述があった。民進党の蓮舫代表を叩いたことでページビューが大きく伸びたのだそうだ。

2015年10月、アゴラ研究所所長の池田信夫のオファーを受け、池田主宰の言論サイト『アゴラ』の編集長に就任[5]2016年9月に行われた民進党の代表選挙に出馬した蓮舫の二重国籍問題を、八幡和郎と池田がいち早く追及した際には編集長としてバックアップし、就任1年で、月間ページビュー数を300万から1000万に押し上げた[6]

新田さんと池田さんが女性に対する差別主義者だという見方はできるのだが、もしかしたら「ビジネスマッチョ」なのかもしれない。気が弱く女性との競争に負けつつある「サイレントマジョリティ」の男性のニーズがあるのだ。普通の人たちが言えないルサンチマンを代わりに晴らしてやるとそれだけ支持を集めるという構造がある。女性に対するヘイトスピーチにはそれなりの商品価値があり、それが「女は枕営業だからレイプされても自業自得(ただし一般論ね)」というような言説がまかり通ってしまうのである。

同じことが反体制側にもいえる。Literaなどが代表例だが、岩上安身氏のようにかなり過激に安倍政権を批判する人たちもいる。彼らもジャーナリスト業界から流れてきた人たちなのだが、民主主義を健全に保つために権力から距離をおくべきだという行動規範はない。このことが結果的に民主主義を両側から不健全なものにしている。

よく、ウェブは掃き溜めだなどというのだが、実際に掃き溜めにしているのはこうしたマスコミ崩れの人たちだ。民主主義と言論の関係について理論的に学んだわけではなく、仲間同士で研究しているわけでもないので、特に言論に品位を持とうとか、是々非々の距離で付き合おうとは思わないのだろう。

現在の安倍政権は露骨なマスコミ干渉をしてくるので、「マスコミへの弾圧」のせいで密告が増えているという感想を持ちやすいが、実際にはまとまれないことの方がより深刻なのではないかと思う。デイビッド・ケイ氏はマッカーサーではない。結局のところ自分たちでなんとかすべきなのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。