取引できない人がもたらしたマスコミの動揺

テレビで岩崎隆一容疑者の話を延々としている。テレビ局は明らかに動揺しているようだ。




局によって対応の違いはあった。テレビ朝日は政治的正しさから抜けられないようでどっちつかずになっていたし、フジテレビ(実際にやっていたのは安藤優子さんだったが)は決めつけ報道を行いつつも「あれ、叩きがいがないな」と戸惑いを見せていた。

彼らは解決策を持っていないし解決するつもりもないが、報道というある種のお話の上に乗っているのだから解決策を提示するフリをしなければならない。そこでもがくわけだが、もがけばもがくほど沼にはまってしまう。ここに「何も要求しない人」の恐ろしさがある。日本型のムラは取引関係から抜け出せない閉鎖空間なので、何も要求しない人を処理できない。

社会は忘れ去られた人たちに何の関心も持ってこなかったし、これからも持たないだろう。さらにこうした人たちを抵抗してこない弱者と考えて侮ってきた。今回の件で恐怖を感じた人たちはなんらかの取引を求めるだろうが、その取引はもう叶わない。

彼らは戸惑いつつもなんとか枠を埋めていたのだが、関心は別のところに向かいつつある。ワイドショーの関心はすでに自分の知っている枠に引きこもり始めているのだ。

ちょうどDVを働くお嫁さんを息子が殺し母親が一緒に手伝って埋めたという事件が起こっている。まるでテレビドラマのような事件である。背景にはまるで無関心な父親の存在もある。裁判では当事者の発言が取れるので、叩く材料が継続的に手に入るのである。フジテレビはこちらにシフトし「母親が自分をかばうために嘘をついている」と決めたうえで「彼女をより重い罪にするにはどうしたらいいか」ということを延々と話し合っている。安藤優子の無駄遣いにも思えるし、もともとこういう人だったのかなとも思う。いずれにせよこの問題はワイドショーで扱える。この母親は裁判を通じて社会と取引しようとしているからである。

ワイドショーを見ていると日本人には二つの取引があるのがわかる。一つは恫喝系の取引で、これは「厳罰化」である。今回のもう一つの取引は「包摂系」である。この取引は「いい子にしていたら飴をあげる」か「悪い子にしたら叩く」である。自分で考えてどうすべきか決めなさいという考え方を日本人はしない。

「元エリート銀行員の弥谷鷹仁」の犯罪は「もっと罪を重くしろ」と叫ぶことで裁判をエンターティンメントとして利用している。道徳の遊戯化・娯楽化が見られる。つまり叩くというしつけのための行為を娯楽に利用しているということだ。よくDV加害者が「しつけのつもりで叩いた」ということがある。コーチも指導不足を隠すために運動部員に手をあげる。これと同じことが社会的にもごく日常的に起こるのである。

登戸の事件が「面白くない」のは厳罰化は何の役にも立たないからなのだろう。その人からうばえる最大のものは命だが、それはすでに差し出されてしまったし、何よりも社会参加もできていなかったわけだから社会的に抹殺すべきいわゆる生命もない。彼にはPCや携帯電話もなかったようで、こうなると暴ける内面もない。せいぜい卒業文集を見つけてきて叩くくらいしかできない。

では優しさを見せつけるというアプローチはどうだろうか。いわば包摂系取引なのだがこれはもっと惨めな結果に終わる。社会にそんな余裕がないからである。

日本には最低の生活すら維持できないような給料で働かされている人がたくさんいて、そういう人たちに依存しないと普通の暮らしが成り立たなくなっている。例えばAmazonのような配送に依存する小売形態もコンビニも搾取型労働なしでは成り立たない。つまり「今の経済活動から撤退する」動きを認めてしまうと、奴隷から見えない牢獄を取り払うことになってしまうのである。搾取構造は社会に完全に内包されてしまっていてその癒着を引き剥がすことはもうできそうにない。そんな中他人に優しくしましょうなど無理な話である。

それでも我々はまだ旧来のスキームから抜け出せない。「罰を与える」とか「認めてあげる」とか「社会が用意してあげる」という解決策しか出てこない。ぜんぶ「上から目線」なのである。さらに犯罪そのものにしても「防ぐ」という点ばかりが強調されている。これは「自分たちは変わるつもりはないが相手が変わることに期待する」ということだ。

取引はできないしそれも認められないのだから、やがてこの件は「なかったこと」になるのではないかと思う。

ただ、そのような国は日本だけではない。

安心安全のないアメリカでは、子供を一人にしないというのは法律で決められた親の義務である。アメリカ人はすでに「絶対的な安心安全などない」ということがわかっていて自分たちの行動を変えている。これはかなり窮屈な社会である。日本もそういう社会になってしまったのだと認めるのは辛いことかもしれないのだが、もうそういう前提で動くしかないのではないだろうか。

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無敵の人と取引不能の世界 – 岩崎隆一が変えてしまったもの

登戸の駅前で通り魔事件があった。将来のある聡明な小学校六年生の女の子と外務省に勤める有能な男性が亡くなった。カトリック系の学校ということで「神様って本当に理不尽なことをするものだな」と思った。




刺された子供達は何も悪いことをしたわけではない。にもかかわらずこんな目にあっていいはずはない。最初に感じるのは怒りだ。では、我々は何に怒るべきなのだろうか。

そう考えながら事件報道を見ていて、番組担当者たちが戸惑っているであろう様子が印象に残った。いつもの「あれ」が全く通じないのである。

事件報道に限らず実名報道は「国民の知る権利を担保するため」ということになっている。日本新聞協会の「実名と報道」というリーフレットによると、報道の自由は民主主義社会を健全に保つためにあるという。

だが、それがもはや単なる「お話」でしかないことを我々は知っている。少なくとも事件報道において、報道の自由は「悪いものを探して勝手に裁くため」にある。報道の自由は「正義の側にいる人たち」がその報酬として間違った人たちを「無制限に叩いく」権利を行使するために事件報道は奉仕しているのである。

報道が気にしたのは「学校に非難が向かないようにする」ということだったようだ。学校はやるべきことはやっていたと繰り返されている。まさにその通りだとは思うのだが、背景には「怒りの矛先が犯人に向かわないので、世論が学校を代理で叩きかねない」という懸念があったからだろう。彼らはそれくらい「怒り」を意識して番組を作っている。うまく使えれば商売のいい焚付けになるが、間違えると自分たちが焼かれかねない。

学校に非難が向きかねないのは、岩崎隆一容疑者が読者や視聴者に「叩きがいのある素材を提供」しなかったからだ。だからこの事件は恐ろしい。

「川崎市在住51歳の岩崎容疑者」は、社会との接点がほとんどなかったようである。職業も今の所わからないし、そもそも働いているかどうかもわからない。さらに家族(親戚だったようだが)彼には興味がない。つまり、住所と名前と年齢を報道することができてもそれ以外の「叩ける」情報がない。今唯一伝えられているのは「近所の家に怒鳴り込んだことがあるらしい」という情報だけであるが、それを叩いたところでインパクトに欠ける。

ではなぜ我々は容疑者や犯人を叩きたがるのか。それはカウンターの意見をみるとわかる。「包摂すれば良い」というものだ。これは全く異なるアプローチのように見えて実は同じことである。恫喝かあるいは懐柔かという取引なのだ。世間は何か問題を起こした人と様々な取引を試みる。そこに後付けで理由をつけるのだが、本質的には「理不尽さが怖いから」だろう。

原因追求をしたいというのは遺族にとっては切実な欲求だろう。ある日突然愛していた家族(娘や父親)を失ったのだ。それは人生で起こり得る最大限の理不尽であり、なんらかの理由付けがなければ受け入れるなど到底不可能である。

だが、それ以外の人々にとっては、原因解明は理不尽さの解消とは何の関係もないことである。包摂が大切だとわかったとしても、彼らは自分たちの隣人に優しくしたりしないだろう。

彼らが報道や裁判を通じて犯人や容疑者の言い分を知りたがるのは、それを否定することで犯人や容疑者を「裁く」ためであり、ある種の取引である。しかも、それを裁いただけでは飽き足らず、犯人や容疑者の社会的生命や生命を奪うことで「全能感」を味わう。

ところが、今回の場合「最初から奪えるものがない」。彼の人生には社会的にはほとんど見るところがなかったようだし、悲しむ家族もいなかった。自殺してしまったので死刑にもできない。なんらかの取引ができないと、我々は「どうしていいかわからない」という感覚を得るのだ。

いわゆる「無敵の人」の恐ろしさはそこにある。逆に「一人で死ぬべきだと発信すべきではない」という意見(藤田孝典)も取引の一種でしかない。残念なのだが「次の凶行を生まないためでもある。」という一文は取引そのものである。

社会が包摂的になるのはテロを防ぐためではない。優しい社会が誰に取っても住みやすいからだ。藤田さんはこれが社会に受け入れられないだろうことを予測してこの文章を書いているのだろう。そして、包摂によってこの種の事件がなくなるのかといえばそうではない。共生型の社会であれば競争に参加することすらなく切り離された人というのが少なく済むはずと思いたくなるが、共生型のノルウェーでも拡大自殺的なノルウェー連続テロ事件が起きている。だったら包摂なんか意味がないと考えるのなら、そもそもそれは包摂型社会ではない。単なる取引である。

岩崎隆一容疑者が提示した問題はそこにある。社会にいる「もはや何の取引も望んでいない人」が理論上の存在ではなく実在しているということだ。そして取引がない以上社会はそれに対処できないのである。

例えば、高齢者が運転する自動車でも同じような理不尽は毎日起きている。誰からの助けも求められない(あるいは求めたくない)人が車に乗って通行人に突進してゆくという社会現象である。こちらは技術的にはいくらでも対応が可能だが、それでもそれをやろうという人はおらず、高齢者や家族が非難されるばかりである。解決が可能な問題でも対処せず取引で済ませようとするのだから、そもそも取引ができない問題に対処することなどできないだろう。

社会はしばらくの間「かつてあった安心・安全が取り上げられた」ことに対して怒りをぶつけられるものを探してなんらかの取引を試みるだろう。だが、現実問題としてはもはや理不尽な危険に対処するしかない。社会は変わってしまったということを我々は受け入れるしかないのではないだろうか。

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PRODUCE X 101 と韓国の競争社会

PRODUCE X 101を見始めた。5月に始まり7月に終わる予定である。一本が2時間ある上に出てくる人が多いので予習復習に忙しく、ワイドショーを見る時間がなくなりつつある。




とはいえ、地上波を見ても小室圭とフォーダム大学のことしかわからないので、モニターを地上波にセットする時間が少なくなりMacMini専用になりつつある。

PRODUCE X 101と日本の地上波を比較してわかるのは、日本が長期停滞社会にあるということだ。

ワイドショーを見ていると誰かを追い落とすことに皆の関心が高まっている様子がわかる。社会の問題を誰かのせいにしたいのかもしれない。

例えば小室圭さん問題の基本は羨望と粗探しである。あれも気に入らない、これも嫌だと言って有資格者を落として行くのだ。皇族の数は減っていて数世代でいなくなってしまうかもしれないのだが、それでも「あれは嫌だ」「これは嫌だ」といい続けている。

過疎の村がますます衰退してゆくのに似ている。村は消えてゆくということがわかっていても新しい住民は受け入れられない。仮に受け入れたとしても「あれが気に入らない」「これが嫌だ」などと言って追い出してしまうというのが今の日本である。ワイドショーには長期停滞だけでなく、過疎化する国としての日本の姿が映し出されている。

さらにAKBグループはもっと悲惨なことになっているようだ。“不適切”動画投稿 NGT加藤美南 研究生へ降格処分 「裏アカ」も認めるという記事を読んだ。なぜかSNSの蔓延がいけないという話になっているが、管理が行き届かず選抜もいい加減なのだろう。もともとAKB48は実力が足りない子を集めてきてそこそこの商売をしようとしたというのが出発点なのでこうなっても何ら不思議はない。日本社会は「お前たちは大したことないんだからせめて愛嬌でも振りまいていろ」と自尊心を低く育てる。その結果が今になって出てきているのだろう。

もともと「そこそこビジネス」なので運営側の関心は人件費の抑制だろう。彼女たちがまともなレッスンを受けているとも思えないので、やがては荒んで行ってしまうのだ。日本は「実力を押さえつけられ集団で我慢する」ことを強いられた国になっている。NGT山口が暴行問題を指摘したことで組織にいられなくなったのはその最も端的な表れだ。そしてこのことがAKB離れにつながっている。隠蔽体質の組織に応援すべき価値はない。

一方、K-POPは輸出拡大が進んでいる高成長分野なので競争原理が働く。こちらは実力よりもやや高めを求められるという成長社会である。

見ていてわかるのは、韓国人がもともとかなりシャイだということだ。その意味では日本人とそれほど変わらない。だが「恥ずかしがっていて」は商品になれない。そこで殻を敗れた人だけがまずスタートラインに立てるということになっている。なので「殻を破」ったり「猛練習」ことがテーマの一つとして取り扱われる。

スタートラインに立ったからといって成功できるとは限らない。今回のプロジェクトではアイドルの出戻り組と数ヶ月しか経験のないほぼ素人が同じ階級にいる。中には一度他分野で成功したのに戻ってくるという人もいるようだ。再挑戦も大きなテーマだ。

少しづつ限界を上げててゆくこと、再挑戦すること、協力することなどが語られるショーになっているのが、日本の少しづつ抑制され、再挑戦がなく、足を引っ張り合うという日本の状況と対になっている。

ステージを見ていると素人から見ても「ああ、これはダメだな」ということがわかる人たちがいる。声が悪ければ歌では成功できないし、さらにルックスだけで上位に行ける人もいるというかなり不公平な社会だ。さらによく考えてみると、やっていることは「かなりチャラチャラした」アイドルというジャンルである。ものすごく無駄に思えることを一生懸命にやっているのだ。

問題も起きている。大手事務所は活動が制限されるPRODUCE X 101には人は出したくない。SM(の音楽部門)はオーディションへの参加者がいなかった。しかしYGは脱落組が参加しており却って「YGってこの程度なのか」という印象を与えた。JYPに至っては過去の素行問題が明らかになり番組から降板する事態になっている。

韓国経済は日本よりも単純な産業構造であり市場規模も大きくない。中国が伸びるとそれにつられて伸びるが中国経済が停滞すると真っ先に影響を受けるという運命にある。韓経:韓国の経済成長率、OECD22カ国中「最下位」という記事があった。このため財閥系企業や芸能界といった限られた分野に人が殺到する苛烈な競争社会になっているのだろう。

さらにリベラルな文在寅政権が最低賃金を上げてしまったことで低所得者が却って仕事をなくすという状況も生まれたようだ。なぜかスポーツソウルが韓国で「最悪」の経済格差が…“所得が低い人”ほど給料も働き口も失うのはなぜ?にまとめている。わずか100円最低賃金をあげただけで最低賃金層が失業してしまうような国なのだ。

日本のテレビがくだらないからと言って日本社会が全て悪いということにはならないのだが、それでもやはりお互いが否定しあい潰し合う様子を見るよりも、協力しながら成長して行く物語の方が見ていて面白い。

いずれにせよ韓国の番組を見ると日本社会のこともよくわかるようになると思うし、それ抜きで見てもショートして面白い。PRODUCE X 101はCS放送とインターネットテレビで視聴することができ、YouTubeの動画を合わせて立体的に楽しむこともできるようにもなっている。

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高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。

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道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。

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政治議論をすればするほど堕落してゆくという可能性について考える

ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。




ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。

農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。

いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。

しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。

東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。

今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。

いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。

日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。

Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。

多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。

実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。

このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。

「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。

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