AIを使った表情の表示について

Twitterで「日本人という括りでなく主語を世界レベルに」というつぶやきを見た。ちょうど「内心がいきなり集団の正義に触れて暴走する」というネタを書いたあとだったので、主語が拡大するのはよくない傾向だなと思い「主語が私じゃダメなんだ」とRetweetしたら「批判は勝手にすればいい」というつぶやきが返ってきた。完全な攻撃モードだ。




その前に、スーパーの前でイライラした女の子が携帯電話で約束時間に来ない相手を責めているのを見たばかりだったので「この人もきっとそういうモードなんだろうな」と思った。人はストレスにさらされると認知が歪みすべてのインプットを攻撃と捉えるようになる。つまり、約束時間にこない相手のせいで世界が終わりを迎えたり、ちょっと触れられただけで「私は批判されている!」と爆発することになるのだろう。だが、本人はそれに気がつかないのだから、触れずに立ち去るのが一番である。

攻撃モードに入った人は「逃げるか攻撃するか」というモードに入っているはずだ。だが、今の日本ではいったん逃走してしまうと戻れる場所がないことが多い。ほぼすべての人たちが「ここにしがみついていなければ終わってしまう」という恐怖感を持っている。そこで他者攻撃が増えるのだろう。これは今まで密閉されていた内心が何の調教もないまま空気に触れてガソリンのように爆発するのに似ている。

ただ、触れるべきではないものに触れてしまったのだから「多分俺も気分が悪かったんだろうな」と思った。つまり、相手のことはなんとなくわかっても、自分が不機嫌であるということには気がつきにくいというのは「お互い様」なのである。そのあと、Quoraで思い込み自己陶酔型の結論を振りかざす質問を見たので「この前もとんちんかんな質問をしていたけど、最初から勉強し直したほうがいいのでは?」と(表現はもう少し抑えたが)書き込んでしまった。

これを書き込んでいよいよ「ああ機嫌が悪いらしい」と思った。こういう場合にできることはSNSを離れることだけである。スマホを持っていないので外に出ればSNSとか変わらずに済む。

そこで「今はSNSに書き込まない方がいいですよ」という表示が出ればいいのにと思った。つまり、メンタルヘルスバロメータが作れないかということである。

今はやりのAIを使えばこうしたことはわかるようになる。実験室に人を入れて表情を観察しつつその閲覧履歴などを大量に蓄積しそれを分析すればよさそうだ。例えばYouTubeで何を見ているとか、どんなニュース記事を見たとか、動物の画像を眺める時間がいつもよりどうだったとか、どんなつぶやきをしたかなどを集めれば「表情」が作れるようになるかもしれない。それをエモティコンとかムードメーターにすればネットはもっと精神衛生上好ましい場所になるだろう。

これは、感情を自己分析にも役立つのではないかと思った。機嫌の悪いときにはネガティブなニュースばかりを追いかけているはずだが、そのときには気がついていない可能性が強い。そこで「怒っている」表情が表示されれば認知が進み感情の整理ができるかもしれない。もっともさらに怒っていれば「ムードメーターに八つ当たり」することもなくはないのだが……

人間の感情を理解して表示してくれればそれを元にヒーリング音楽などを流すこともできるわけだし、リモートの職場でもよりスムーズなコミュニケーションができるようになるだろう。あるいは職場でもメールの内容から「しばらく休暇をとっていないですね」みたいなアドバイスができるようになるのかもしれない。誰か本当にこういうAIを作ってくれないだろうか。

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正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。

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改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか

今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。




もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。

前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。

まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。

ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。

非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。

しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。

文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。

  • 議論そのものを楽しみたいタイプ
  • 理解し合うために交流したいタイプ
  • 問題解決のために交流したいタイプ

聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。

だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。

この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。

MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。

正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。

では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。

生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。

実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。

多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。

答えがわからないと人々は混乱して感情的な議論を始める

Quoraで面白い体験をした。女性がパスタをスプーンで食べるのはなぜかという問題にいい加減な回答をしたところ怒られたのである。答えは意外に簡単だったのだが、これがわからないままで適当に書いたのでちょっと面倒なことになった。




最初は「情報が曖昧なのにこれが正解だとか違っているなどと騒がないほうがいいのでは?」と書き、それなりに高評価がついた。つまりどう食べようが自由だと書いき、それが支持されたのである。他人からとやかく言われたくない人が多いのだろう。だが、イタリアを知っている人から「いやそれは違います」というコメントがついた。本場の事情を粗末に扱うなというのである。この辺りから話がややこしくなった。

こちらも答えを知らないのでいろいろな例を出した。英語圏の人も寿司の食べ方や箸の使い方について気にする人が多い。しかし、寿司は好きに食べればいいし、日本人の全て正しい知識を知っているわけではない。にもかかわらず日本人には「寿司ポリス(日本の正しい寿司についてあれこれ語りアボカドやサーモンなどを認めない人)」が多い。同じように日本人がイタリア人に成り代わって「パスタポリスになっても仕方ないのでは」と反論した。

だが、イタリアを知っている人にとってみれば「イタリア人はスプーンを使わない」のは明白なのだから、日本人が取り澄ましてスプーンを使っているというのはとても滑稽に見えるのだろう。反論したがっているようだ。こうなるとできることは二つしかない。無視するか調べるかである。

検索したところGoogleは知っていた。どうやらこれは渋谷で生まれた日本の文化らしいのだ。つまり、和風スパゲティのおしゃれがあたかも正式のマナーのように広がったというのが正解のようなのだ。日本航空で読める機内誌の編集をしている人のブログが見つかった。

もう1つびっくりしたことがある。パスタにスプーンを添えるのは日本だけといわれているけれど、これも同店が始めたことだったのだ。もちろん、ちゃんと理由がある。たらこスパゲッティは、器にほぐしたたらこ、バター、塩胡椒、隠し味の昆布粉をあらかじめ入れておき、そこに茹で上げスパゲッティを投入し、スプーンとフォークでザザザッと和えて作る。そのスプーンとフォークを、そのままお皿の縁に添えた、というものだったのだ。

パスタにスプーンを添える理由とは。JAL『SKYWARD』10月号和パスタ特集

諸説あるそうだが、多分正解なのは「もともと和風パスタの演出として始まったものがいつのまにかイタリアではそうなのだという誤解になって広がった」というものである。つまり、渋谷で中途半端に見聞きした人が「これが正解でございます」と語ったのがマナー担ったということになる。いかにも正解にこだわる日本人らしい。が、実際にイタリア人はそんなことをしていないので、今度はイタリアに行った人たちが「いやそんなことはない」と言いだしたということになる。これも正解にこだわる日本人らしい。寿司ポリスどころかパスタポリスまで誕生したということになる。

面白いのはその過程である。そもそも壁の穴のパスタはパスタを日本流にアレンジしたものである。が、おしゃれな渋谷に憧れた日本の若者たちは「ああ、これが本場のやり方なのだ」と思って、それを各地に広めたのではないかと思われる。つまり、イタリア人に成り代わって「正解」を伝えたのだ。「単なる演出に過ぎない」ものが正解ということになってしまい、それを紹介する雑誌などが増えた。しかし海外良好に行く人が増え「いやおかしいぞ」となるのだが、そこで正当化が起きた。

2004年の記事に「いやこれはアメリカのマナーなのだ」と紹介している記事を見つけた。イタリアでそのようなことをやっていないのは知っていて書いているにもかかわらずどこかに正解を見出そうとしたのだろう。英語で情報を探してみたところ、確かにアメリカではスプーンが用いられることがあるらしく「イタリア人からみると変だ」という話し合いがあった。なので諸説の中には「イタリアでなければアメリカだ」と言っているものもある。しかし、日本のスプーンが壁の穴起源だったとするとこれは本筋とは関係がなさそうだ。

この話が面白いなと思った点は二つある。政治や経済のネタについては厳密に調べるのだが、文化の話題は適当に流してしまうことがある。だが、人々は却って文化的なネタの方に強く反応することがあるという点である。次に、原典を示してきっちり解明せずに曖昧なまま議論が進むと「断片的な正解」を持った人たちが喧々諤々と議論を始めることがある。わからないからこそ声を大きくする人もいて、それに納得できないからという理由でさらにその声が大きくなることもあるのだ。

今回の場合は正解がなんとなくあったのでからあまりややこしい話にはならなかったのだが、政治経済の問題は問題も正解も自分たちで作らなければならない。そこに正解にこだわる文化があると「一緒に正解を探しましょう」ということにはならず、正解の押し付け合いみたいなことが生まれてしまう。さらに議論をずらす人がいて状況はますます混乱する。

そもそも正解がないところに感情的な議論が始まると、まともな人々は疲れ果てて政治議論そのものを止めてしまうだろう。こういう時こそ全体像を調べ直してみる必要があるのではないかと改めて思った。

かつては図書館に行ってあれこれ調べなければならなかったのだが、最近は検索するだけで概要はつかめる。大切なのは一次情報なのだが、それがどう変容して「その時なり」の正解になったのかを掴むのも、正解にこだわる文化では重要に思える。

いずれにせよ、全体がわかってから議論を眺めると自分も含めて無駄な回り道をしていたなと思った。わかってしまえばなんということはない話だったわけだ。

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高齢化に揺れる「社会インフラ」としてのコンビニ

フジテレビで朝からセブンイレブンの話を繰り返し流していた。奥さんが死んで店が回らなくなったセブンイレブンのフランチャイズが24時間営業をやめたところ1700万円の違約金を請求されたというのだ。確かにひどい話なのだがテレビが急にこういう話題を取り上げると「何か裏があるのでは?」と思う癖がついてしまった。夕方になってTBSでもやっていたので、まあ政府の陰謀とかではないんだろうななどと「安心」した。




ダイヤモンドオンラインもこの問題を取り上げているので、セブンイレブン側もなんらかの対策を取らないと社会的批判にさらされかねない。フジテレビの<報道>からはそうした企業側の苦悩も伺える。

セブンイレブン側は、コンビニは社会インフラだから24時間営業ではなければならず、24時間体制が維持できるようにサポートすると主張している。そして、テレビ局はスマホ決済すればレジが楽になりますよなどという「解決策」を伝えていた。しかし社会インフラを維持するなら過労死させるまで働かせてもいいなどという理屈が通るはずもなく、スマホ決済とセルフレジくらいで仕事が楽になるのなら最初からやっていればいい話なのだから弥縫策にしかなっていない。

特に気になったのは働き盛りのエリートたちが東京のオフィスで考える市場環境など足元にはもうないという点である。彼らエリートはこの店主の「革命」に怯えているだろう。もし、契約変更が可能ということになってしまえば全国の予備軍たちが一斉に契約変更を求めるようになり、それは自分たちの成績の悪化につながる。

現に人手不足から24時間営業を止めたいと思っているオーナーは多いようだ。だが、限界を感じているのはコンビニだけではない。戦況は現在の青年将校たちには圧倒的に不利である。

NIKKEI STYLEよると春から値上げラッシュが始まるらしい。今回の値上げの要因は様々なようだがやはり運賃と人件費の高騰が大きいようだ。日経ビジネスはステルス値上げが限界に来ていると伝えている。

コスト削減には集約化が効果的なのだから、小口商店や宅配に頼っている今の経済にはそもそも無理がある。その上に若者が考える「効率化・高収益化」に足元は付いて行っていない。

アベノミクスは「どうせ物価など上がらないだろう」という前提のもと大掛かりな金融緩和策を行っていた。こうすると円安誘導ができるので輸出製造業者には有利だからである。だが、どういうわけか日本の物価は上がらず通貨だけが切り下げられるという状態が続いていた。どうやらその経済は「最低賃金あたりで張り付いていた非正規労働と個人事業主」と「無理を重ねるフランチャイズ経営者」に頼ったものだったようだ。政府統計はぐちゃぐちゃなので本当のことがわかる人は誰もいないだろうが、ある程度の資産を蓄積した人たちが年金の足しにと働きに出ておりこれに頼ったものだったのである可能性がある。が、こういう人たちに効率化を押し付けても「もうしんどいから好きにやらせてもらうわ」となるだけだろう。若者のように過労死レベルで無理をして現状を支えるなどやりたくてもできないのだから。

停滞という名前の安定の時代も終わりつつある。元号が切り替わるタイミングとシンクロしているのは偶然なのだろうが、平成が始まってすぐバブル経済が崩壊したので「停滞という名の安定期」と平成がそのまま重なるのかもしれない。昭和を成長期だったとすると平成は疲れた中年の時代だった。もう若くはないが中年になった自分を認めたくないという時代である。すると次の時代はどんな時代になるのだろうといささか不安な気持ちになる。が、それほど悪いものにはならないかもしれない。老いを認めてしまえばいいのだ。

近所のコンビニエンスストアー「ミニストップ」ではフードコートがいつも賑わっている。しかし座っているのは客ではない。制服を着た従業員がときどき自分の携帯電話を取り出して誰かと何か話しているのである。でも、高齢者ゆえに誰も咎めないしそれほど悪い印象もない。若い人たちが同じことをしていれば咎め立てされるだろうが、高齢の人に無理をさせる人はいないのである。セブンイレブンもオーナーによって対応が全く異なっているようで、高齢の人ばかりの店もあれば若い人しか雇っていない店もある。だが、高齢者ばかりになってしまえばそれはそれで店は回る。若者に引け目を感じる必要もないし、高齢者は自分たちのネットワークで働き手を連れてくるだろう。彼らは最新のATMやややこしいスマホクーポンなどの仕組みは全くわからないが、そもそもそれを気にしている様子はない。

改革するつもりもなく働かなければならないのなら「まったりと」楽しく働けばいい。スーパーやレジでもまごつきつつ財布から小銭を探すお年寄りと、ゆったりとレジを打つ高齢のアルバイトというような風景が日常化するかもしれない。だが、もうそれでいいんじゃないだろうかと思う。

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アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。

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首相のコラ画像が逮捕案件になるまで – 集団思考で独裁化が進む

著作権法が変わるそうだ。朝日新聞によると文化審議会で答申がでてこれから国会審議が始まる。これについて「そのうち首相のコラ画像を作ったら別件逮捕されてしまうかも」とつぶやいたら反応があったので、考えるところを書いてみたい。




まず、津田大介の一連のつぶやきからご紹介する。例外から始まって厳罰化が進む過程がよくまとまっている。

津田によると、もともとは音楽・映画の要請から始まったようである。実はこの業界は著作権の管理が一番進んでいる業界だ。特に音楽はJASRACが著作権をほぼ独占的に管理してきた。インターネットが出る前は、レコード会社にきっちりと報告をしてもらい、流しっぱなしの放送と一括契約を結び、あとはカラオケ店や結婚式場を見回って「著作権警察」をしていれば音楽の著作権料などが管理ができた。だから音楽業界はインターネットが出てきたときにはそれを否定し、自分たちが時代から取り残されているぞと気がついた時、それを規制したいと願ったのである。配信業者が規制できないということがわかったので、今度はユーザーを罰したいと言っている。

元々が自己否認から始まっているので実効性がなく、そのためにどんどん厳罰化だけが進んで行くのである。

AKB48ができたのが2005年だそうだ。CDが売れないという時代があり、音楽の楽しみ方が配信とイベントになってきていたという時代である。AKB48は投票権というイベント参加券がメインでCDがサブになったというエポックメイキングな出来事だった。パッケージからイベントへ、つまりモノからコトへという流れは今でも続いている。日本も確実にサービス産業が先導する経済に変わりつつあるのである。

CDが売れないなどと言われているが、音楽の楽しみ方は多様化している。日経スタイルによると実は東方神起は年間で128万人もの人たちを動員している。不況だと言われているのだが、実は2000万人以上がコンサートを楽しんでいるそうだ。モノからコトへの移行が進んでいることがわかる。

セールスとは対照的に成長を続けるコンサート市場。18年上半期の動員数は約2084万人と、前年同期と比べて約5%の伸びを見せている(コンサートプロモーターズ協会調べ)。日経エンタテインメント!では、既に18年に行われたコンサートと、年末までのスケジュールが発表済みのもの(10月上旬時点)の会場収容人数を合計し、各アーティストの「年間コンサート動員力」を算出、ランキングにした(詳しい調査基準は文末の囲みを参照)。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO38332660Z21C18A1000000?channel=DF010320183446

インターネットの爆発的な普及によって、モノはコトへの導入としての役割を持つようになった。さらに、モノに依存しないで売り上げを伸ばすことも可能になりつつある。YouTubeで無料配信し知名度の普及を図ったK-POPは大成功し、日本のチャートにも韓国語の歌がそのまま流れるまでになっている。彼らは日本のみならず海外にでかけてゆき大規模なイベントを行う。そして、事務所単位で興行を行いイベントと物販で資金を回収するのである。

ネットで遅れていたジャニーズでさえも滝沢秀明を筆頭にネットとイベントを中心とした新しいビジネスを始めるようだ。新しい会社であるジャニーズアイランドは、ジャニーズがイベントを行う時のブランド名のようだ。ジュニア名義のYouTubeチャンネルも更新が盛んになっている。ジャニー喜多川は今までのビジネスを旧世代に任せ、新しい時代に適応できる若い後継者を選んで新規ビジネスに参入している。

日本人は「自分たちのものは自分たちで囲い込みたい」という意識がとても強いのだが、新しい世代に経営を任せれば十分に克服は可能だ。問題なのは古い世代の人たちがいつまでも昔のビジネス形態を懐かしんでいるという点である。彼らはネットを憎んでいる。テレビは買い占めらるが、ネットは買い占められないからである。そして、自分たちができないことをやろと政府に泣きつくのだ。

こうした違いを「オープン戦略」と「クローズ戦略」という。全てを囲い込むのがクローズ戦略だ。かつてはいかに囲い込むかが重要だ他のだが、最近の日本はこれで軒並み失敗している。一方でオープン化で成功しているのが中国や韓国だ。先日見たように中国家電はスマホと連携することで「コストの切り捨て」を図っているのだし、韓国は宣伝をインターネットのファンたちにアウトソースしていると言える。コントロールできないなら協力すればいいのだ。

本が売れない、音楽が売れないとなった時、「自分たちが時代についてこれていない」とか「高齢化している日本市場にだけ頼るのは限界があるのでは」と考えるのは難しい。それよりも「無断でスクリーンショットを撮影する人が悪い」と逆恨みしたほうがラクなのである。そして、時代について行けていない人ほど政府に頼って「国の力でなんとかしてほしい」などというものなのだ。書籍・出版・新聞・テレビ・レコード会社という旧体制の人たちが新しく飛躍しようとしている人たちの足を引っ張り「自分たちを置いて行くなら罰してやる」と言っているのが今の日本である。

多分、違法ダウンロードを禁止したりスクリーンショットを規制しても、本やパッケージソフトが売れるようにはならないだろうし、新聞の購読者も戻ってこないだろう。だが、彼らはそれを認めないし認めたくない。

さらに日本の著作権管理はかなりいい加減であり文書ではなく口頭で著作権のやりとりをしているケースが多くある。樹木希林さんはマネージャーがおらず、権利処理が面倒なので「二次使用もファンの撮影も好きにして」と留守電に吹き込んでいたというのは有名な話だ。こうした口約束の世界を非親告罪化してしまうと、そもそも権利処理が確認できないというケースが続発するはずである。音楽の世界の常識がテレビで通じないということがあり、さらにこれに漫画やフィギュアの二次創作(宣伝のために著作者が黙認したりしている)などの「さらにいい加減(あるいは柔軟)な」人たちが入ると、話はぐちゃぐちゃになってしまうだろう。

こうして国に厳罰化を頼む人が増えるほど、お互いを縛りあうようになり、さらに萎縮が進む。有料配信の新聞記事は読まれなくなり無料のものが引用されるだろう。テレビの歌番組がなくなりつつありYouTubeに音楽コンテンツが溢れる今となっては、日本の歌そのものが忘れられてしまうかもしれない。

もちろん厳罰化を要求された政府が初めから人々を支配したがっているとは思えない。だが、自分たちの失敗を隠蔽するために独裁傾向を強めることはありそうだ。

最近、菅官房長官が東京新聞の望月衣塑子記者を念頭に「あんな質問をさせるな」と記者クラブにねじ込んで問題になった。確かに望月さんにも問題はあるのだろうが、国会でこれを質されて半ばキレ気味に自分の主張を述べていたのをみて「こんな気の小さいおじさんが官房長官なんだ」と思った。調整できないから政府でなんとかしてほしいと言い続けて、政府に強すぎる権限を移譲しても、実際に対応するのは交渉もろくにできない首相と気の小さい官房長官である。日本人は全体的に調整ができなくなり国になんとかしてくれと求めるわけだが、国は国で現業が何をしているのかわからないのでこのようなことが起こるのだろう。

安倍首相は菅官房長官を弁護するつもりなのか「内閣の一員がわざわざマスコミ対応してやっている」と言っていたが、そもそも権力者が記者たちに「情報を教えてあげる」という意識そのものが危険なのであり、コミュニケーションのプロである広報官を立てる方が理にかなっている。だが、そんなことを安倍首相に言っても彼は全く理解できないだろう。

恒例の経営者たちが経済から取り残されてしまうとジリ貧になった人たちが権力になきつき、それが結果的に独裁を生んでしまうかもしれないというのはなんだか情けない図式である。が、リーダーが責任を取りたがらない日本ではこうした集団思考による情けない形で独裁が進行するのかもしれない。気がついたら何もものが言えなくなっていたという時代になっている可能性があるということになる。

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意外と侮れない中国家電

今回はAmazonのアフィリエイトつき。つまり、宣伝込みである。内容は中国家電は侮れなくなっており、必ずしも安かろう悪かろうではなくなっているというものである。




HOMIEE 体重計 体組成計 体脂肪計 スマートスケールBluetooth アプリで健康管理 赤ちゃんの体重測定可能というのを買った。中国製品って意外と侮れないなと思った。

きっかけは何かのモノブログかTwitterの宣伝アカウントだった。タイムセールで安くなっているという。ダイエットをしているので体重計を探していたのだが、なかなかいいのが見つからない。

今持っているのはタニタの体脂肪計なのだが、体脂肪だけしか測れずスマホとも連携しない。家電量販店に見に行ったりしたのだが、やはり3000円を切る物は売られていないし、低い価格帯のものはスマホ連携ができない。それが2300円で手に入るというわけで、思い切って買ってみることにした。

だが、問題もあった。中国製なのだ。なんとなく中国製というとすぐ壊れるし低品質というような印象がある。Amazonのちょっと変な日本語も不安を感じさせる。Amazonでの評判も悪くないがやらせもあるのではなどと疑った。

セール品のせいなのかすぐに発送され翌日には受け取ることができたのだが、まだ疑っていて「何か絶対に不具合があるはずである」と考えた。なにせ、がっかりしたくないので「たかが2300円だから捨てたと思えばいい」などと思っていた。

アプリをダウンロードし、ブルートゥースでつなぎ、体重計に乗って連携させた。なにも問題はなかったのであれ?と思った。おかしい、中国製のくせに問題がない。スマホのアプリにもあまり問題がなく(強いて言えばちょっとローカライズに変なところがある)、Appleのヘルスケアという体の情報を集約するアプリに情報を引き渡すこともできる。タニタの今までのやつとあまり数値が違わないので、体重と体脂肪は正確に測れているようだ。その他にもいろいろと数値があるがこれが正確かどうかはよくわからない。

と、ここで足りないことに気がついた。この体重計にはスイッチがない。つまり体重しか表示されない。だからスマホがないと情報がなにもわからないのである。ということで、体重を測るときにいつでもスマホを横に置いておかなければならないというのが難点なのである。

が、裏返しにすると「スマホを持っている人にはいらない機能」が多かったという意味になる。この辺りを割り切ったのが中国企業の強みなんだろうと思う。日本製品はここが切れないのだ。

例えばパナソニックはパナソニック 体重・体組成計 スマホ対応 ブラック EW-FA43-Kという製品を出している。Amazonでは6,000円ちょっとで売られているのだが、自前で体重計とデータを管理する仕組みを作り、アンドロイドにも対応させたという製品だ。日本人は全て自前で作りたがるところがあり、他の会社の仕組みには乗りたがらない。そのため当然アプリ対応が追加機能になりその分コストがかさむ。しかもアンドロイドにしか対応していない。多分、自前でiOSアプリの開発者を探せなかったのだろう。

日本人は車輪から全部車を作りたがるが、中国人は車輪の再発明はしない。だから結果的に安くできる。加えてスマホが使えないお年寄りからクレームがきますよなどということは考えない。パナソニックのようなナショナルブランドには「誰かを切り捨てるような」商品は作れないだろう。

最近「海外からの労働者に頼らなければ日本の工場はやって行けない」というような問題を取り上げたことがある。日本人は全部自分たちでコントロールしたがるのだが、いったんコントロール下に入ったら囲い込んで「賃金をあまり与えない」傾向がある。結局、これが首を絞めている。

中国企業は「今あるものをわざわざ自分たちで作り直す必要はない」と考えて、それを知っているエンジニアを雇うのだろう。2004年の記事では「世界第三位の高い給料をもらっていた」という日本のエンジニアの給与は2018年には中国に抜かれているそうだ。

その他にも新しい企業は店舗を持たないとか宣伝をしないとかいろいろな合理化策が取れる。日本はこれまでの何かを削って合理化をしなければならない。例えばパナソニックの新製品が「宣伝をしない」とか「Amazonでしか売らない」などと言えばきっと落ち目だと言われるだろう。中国の新興企業は最初からそういうものを持たなければ良いので思い切ったコスト設定ができるのだ。皮肉なことに過去の成功が今を縛っているということになる。

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多様なものに囲まれると居心地の悪さを感じる「頭の悪い」人たち

最近、多様性について考えた。「社会は多様性を受け入れるべきである」というと賛成する人は多いと思うのだが、果たしてそれが実践できるのかという問題である。これについて考えていて「保守派の人は頭が悪い」という結論にたどり着いた。




だが、この保守は頭が悪いというフレーズをコピペしてRetweetする前に以下の文章を読んでいただきたい。もし、これがわからなければあなたも保守脳の持ち主である。

ここでは、多様性の受容とは「すなわち自分が理解できない他者をそのまま受け入れる」ということを意味するとする。ここに危機意識を感じる人がいるのではないかと思った。

例えば、全く理解できない外国語を話している人たちが大挙して隣の席に座った時「この人たちが襲ってくるのではないか」と考えることがある。外国語の中には和やかに聞こえないものもある上に、そもそも理解できない言葉には警戒心を持つのは当たり前のことだ。外国人が安全に思えるのは言葉の意味そのものが理解できないにせよ、ああこれは韓国語なのだとか、中国人が声をはりあげるのは普通のことなのだという予備知識があるからである。わかると警戒心は薄まる。わからないと心の中のアラームは鳴り続ける。

外国語は複雑さの例だが、実際にはいろいろな複雑さがある。例えば同性婚もそうだし、外資系企業の企業文化もそうかもしれない。複雑さが認知できないと、恐れが憎しみに変わるのではと考えたのである。

そこで調べてみたところ非常に短い文章が見つかった。多様性を許容するリベラルな人は他人への理解度が高く、保守の人ほど恐怖に関する領域が強く働いているという傾向が見られるというのだ。つまり、複雑さが理解できるというパラメータと恐怖心を持つというパラメータは別だということだ。ここでは保守とリベラルという二つの傾向を抽出しているのだが、実際には4つの異なる人たちがいる可能性があるということになるのかもしれない。

脳の特性で「決めつける」ような研究には一定の危険性があると思う。「これまで、一定の心理的特性でその人の政治的志向を予測できることは知られていた。政治的志向を脳活動と関連付けた研究はあったが、脳の構造と結びつけた研究は今回が初めて」とも書かれているので、心理性をそのまま脳の特性と決めつけるのはよくないが、今回はそうした傾向が見られたということになる。

これとは別に、リベラル脳は複雑性への対応能力が進化の結果であるという研究結果もある。こちらでははっきりと「あたまがいい」人が「複雑な状況に対応した結果」がリベラルさだと言っている。

つまり、保守的な人というのは「複雑さに対応できない頭が悪い人だ」ということになる。頭が悪いので複雑な状況の処理ができないというわけだ。そこで情報を刈り込んで陰謀論に近いようなストーリーを組み立てたり、物事を白黒で判断したがるのではないかと思いたくなる。

ただ政治的指向性と知能を関連づける研究には批判も多いようだ。このリンクではIQテストとカナザワ氏が考える「頭の良さ」は必ずしも相関性がないのではないかという批判が紹介されている。

この二つの論文の紹介からわかるのは、どうやら複雑さの理解ができないことが保守的な傾向に関係していることは確かなようだが、それがなにに由来するのかということはよくわかっていないということになる。そして「複雑さに対処できない」ことを「頭が悪い」と規定すれば、保守派は頭が悪いということになるのだが、必ずしも入試で良い点を取れないというような意味ではないということにもなる。

いずれにせよ、保守と呼ばれる人たちの単純な思考の組み立てを見ていると、複雑さの処理に困難を覚えている人や自分のもっている概念を更新することに著しい困難さを覚える人が多いということはよくわかる。安倍首相の政治概念への理解度の低さや対人能力の低さなどを見ると、彼が複雑さに対応できていないことは明白だ。彼は民主主義の仕組みについてもよくわかっていないし、米・中・露・韓・朝鮮の変化にもついて行けていない。

だが、彼は同時に複雑さが見えないので、物事を単純化する能力を持っているともいえる。複雑さに対応できる人は複雑さをそのまま扱うので情報を刈り込むことなく他者に伝える。いわゆるリベラル勢力の主張が広がって行かないのはこのためだろう。彼の言っていることの方がよくわかると感じる人が多いのだ。

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崩壊に向かう日米同盟と憲法第9条改憲のシナリオ

北朝鮮が核兵器保有国になるかもしれない。トランプ大統領が国内政治を優先して北朝鮮に妥協してしまう可能性があるからだ。




この一連の流れはかなり劇的に動いており一瞬先も見えない。原因になっているのはアメリカ・韓国・朝鮮の指導者の交代である。日本は全くこの動きについて来ておらず、憲法第9条の改正議論自体が全く無効になってしまう可能性が高い。憲法第9条の改正議論は東アジア唯一の自由主義社会のスターの日本がアメリカの威光を背にしてアジアに君臨するという前提で組み立てられているからだ。日本の憲法改正議論は、東アジアのヒーローになりたいというあまりにも非現実的な願望と、ありもしない戦争に引きずり込まれる被害者意識を軸に動いている。

先日、トランプ大統領はこうツイートした。私は仕事をよくやっていると言いたいらしい。彼の大統領人生はすなわち永遠の選挙キャンペーンであり、これは国内有権者に向けたアピールだろう。北朝鮮はこの中に組み入れられている。安倍首相が民主党政権はめちゃくちゃだったといって自分の政治の不具合を隠そうとするのと同じようなことが行われており、そのメニューの中に北朝鮮も入っている。メキシコの壁が移民を防げるように、金正恩と取引することで戦争の脅威がなくなると吹聴しているのだ。

現に、私が大統領になった時国はめちゃくちゃだった。予算が足りなくなった軍隊、終わらない戦争、北朝鮮との戦争の可能性、退役軍人(V.A.)問題、高い税金、多すぎる規制、国境、移民、健康保険の問題、などなど。私は長い時間働かざるをえなかった。つまり、オバマ大統領の元で国はめちゃくちゃになっていたが自分が正しい方向に導いたと言っている。

これについて、日本の従米派の人たちが騒ぎ出している。北朝鮮と中国の脅威を前提にお金儲けしていた人たちはアメリカが北朝鮮と結んでしまうと共産主義脅威論が語れなくなってしまう上に、日本は完全に東アジア情勢から排除されてしまう。対露の恥辱的な敗北は「もともと返ってくる見込みがない」ものが返ってこないというだけの話だったが、こちらは東アジアの安全保障に直結している。国際情勢を読み間違えて日本を孤立に追い込むことになる安倍政権無策ぶりは後世の歴史の中で大きな汚点の一つと考えられるようになるだろう。

その先に考えられる最悪のシナリオは韓国と北朝鮮が一体化して核保有国になってしまうというものだ。そんなことはありそうにないがKOREXITと呼ばれており一部では可能性が議論されているという。こうなってしまえば、自由主義対社会主義独裁という図式は全く崩れてしまう。だが、日本はそれに対応できるだけの準備を全くしてきていない。

韓国と北朝鮮が一体化し核保有国になると、日本は核保有国に囲まれることになる。加えてアメリカの支援はあまり期待できなくなるだろう。アメリカは統一朝鮮がアメリカにミサイルを飛ばさないという確約さえ取れれば東アジアの安全保障にお金を出さなくなるはずだ。

加えてトランプ大統領は安倍首相とではなく金正恩と「親密な関係」を築きつつあるようだ。日米同盟が首脳同士の個人的な信頼関係で成り立っているというのは安倍首相の願望でしかないのは誰の目にも明らかなのである。

金正恩のリーダーシップのもとで北朝鮮は力強い「経済発電所」になるだろう。彼に驚く人もいるだろうが、彼の才能を完全に知る機会があった私は驚かない。北朝鮮は経済という違うロケットになるだろう!

こうなってくると今の憲法改正議論は全く意味を失う。日本の政権は自衛隊を軍隊に格上げする意思はあるがアメリカの同盟から出る意思は全くない。さらに、アメリカが日本に基地を置いているのは韓国保護と共産主義の拡散予告のためなので、経済関係が良好になれば設置の根拠が失われてしまう。形式的な同盟関係は残るかもしれないが同盟関係の根拠は失われるだろう。基地を置いておくのは構わない。お金は日本が出してくれるからだ。沖縄は兵士のリゾートであり米国本土ではできない危険な訓練の演習地として使えばいい。しかし戦争は別である。大統領の個人的な信頼など紙切れほどの重みしかない。アメリカ議会は自国の利益にならない戦争にお金は出さないからだ。

こうした想定外の状況に対応するためには、左右ともに一丸となって解決策を考える必要があるのだが、多分そうしたことにはならないのではないかと思われる。日本人はその他の政治問題と同じようにこれまでの正解にしがみつき続けるだろう。

例えば今地方は衰退に向かっている。少子化対策をせず排他的な雰囲気を変えなかったことが原因だが、当事者たちは考えていないようだ。予算審議の最初に岸田さんが安倍政権につきつけた要求リストを見ると「地方にもっと援助をするためにこれからも消費税を増税せよ」という宣言から始まりおねだりリストが延々と続いていた。税収が滞っているのは「そちら(官邸)の事情」なので、それはそっちでどうにかして今まで通り仕送りをしろというのである。これが今の日本の有権者の本音なのだろう。彼らは安倍首相の夢物語である「なんとか5.0」など信じていない。彼らが信じられるのは補助金とコンクリートだけである。

同じように、日本の保守はアメリカのソリッドな同盟が首脳同士の緊密な連携によって維持されているという嘘を信じているフリをして、何かが起こるまできっと何もしないだろう。安倍首相の嘘を信じてリベラルをいじめていれば彼らはなんとなく自分たちが立派だったと思い続けることができる。これもまた嘘の政治の代償の一つなのである。

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