社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。