「初めての楽天モバイル」の印象は顔は劇画だが体は幼稚園児の落書きのようだった

楽天モバイルが1年間無料を実質上延長するプランを出した。4月1にからは1GB以下であれば引き続き無料で使えるという。Rakuten Miniという1円で利用できる端末もあるので申し込んで見た。結果的に「タダより高いものはない」と思い知らされることになった。と同時に三木谷さんという人は経営者には向いていないんだろうなと痛感した。

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渡部建の謝罪とテレビの中の身分制度

アンジャッシュの渡部建さんが謝罪会見をしたそうだ。正直興味が持てなかった。一応ワイドショーの後追いを見たのだが特に何かを感じさせる要素はなかった。結局のところは夫婦の問題に過ぎないので今になって考えてみればなぜあんなに叩かれたのかよくわからない。ただ、「テレビの時代」が終わったことはよくわかる。

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守屋光治

本日はライトユーザーについて考えるのだがなぜかタイトルは人名である。守屋光治という人がいる。Men’s Non-Noの専属モデルをやっているそうだ。先日この人のYouTubeチャンネルを見つけた。正確にはMen’s NON-NOのウェブ担当のようである。Men’s NON-NOのモデル中でも特に洋服に詳しく大学で服飾の勉強をしたという。今ではエディターとしてもページを持っているそうだ。モデル兼エディターという華やかな経歴である。

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Via Borgonuovo21, Milano

古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。

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「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。

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東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。

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早いうちから囲い込みを始める日本人にはアップルもディズニーランドも作れない

最近iPhoneを買った。そのうちFOMAが停波になるという話を聞いたからである。そこでSIMを探したのだが結局諦めてしまった。今回観察したいのは「恐れ」が作る停滞である。大げさに言えば社会と協力体制が構築できないことで成長から取り残されているという現象だ。




まず問題なのか選択肢の多さである。そして一旦選択すると抜けられないようになっている。「この業界はある程度儲かる」となると過当競争が起きる。そして業界が大きくならないうちに囲い込み合戦を始めてしまうのである。

顧客獲得競争が激化すると顧客獲得コストが膨大になる。会社は一旦つかんだ金蔓からその原資をしぼり取らなければならない。こうなると顧客は気軽にお試しができなくなる。するとお客は逃げてしまうのである。だから日本の産業は成長できないのだ。

格安SIMは「半額キャンペーン」が横行している。だがそれは一年間半額とか半年間半額である。逆に言えば「将来確実に二倍に値上がりするものを買ってくれ」ということである。将来劇的に値上がりするものを買う人などいないということを誰も認識できない。日本の通信事業者はそれくらい遅れている。

さらに店はお客が選択できないように情報を撹乱する。キャンペーンの内容がコロコロ変わる上に、選択基準がバラバラで比較できないからそのうちに選択に疲れてしまう。ところが疲弊しているのは実はお客ではない。

ある店員は「SIMフリーにしないとどこの格安スマホも使えない」という。そこでNTT DoCoMoに電話するとSIMロック解除をしているかどうかは契約していない端末についてはわからないという。ところが、実際にはSIMロック解除をしなくてもキャリアが揃っていれば使えるというところが多い。このようなことが延々と続く。みんなが不確なことを言っていてその真偽を確かめているうちに疲れて選択そのものを諦めてしまう。だがそこで気がついたのは「この業界の人たちは誰も全容がつかめなくなっているのだ」という事実である。つまり彼らは手探りで延々と彷徨っている。多分賃金もそれなりにしか支払われていないだろう。

日本人は政治的な変化を求めないということを非難しながら書いてきたのだが、実際に変化が起きている現場は確かにもっと悲惨だ。日本人はお互いに協力できず小さな村を作って競い合う。変化にさらされた現場は大混乱し、それが定着してしまうのである。

こうした混乱の結果諦めの境地に達した人は多い。いろいろ質問をするとそのうちにお店の人の頭が飽和してゆくのがわかる。最終的に彼らはフリーズする。多分、同じような体験を何度もしているのだろう。迷いだした客に適切な対応ができないのである。お店の人は「アアマタカ」と思いながら手元にある電卓を意味なくカチャカチャとさせ始める。

顧客が慎重になるのは顧客もまた先の見通しが立たないからである。つまり半年後に面倒になれば解約できるようにしておかないと安心できないのだ。背景には終身雇用の崩壊という問題がある。でも余裕ができれば新しいサービスを探す。その芽があらかじめ摘まれてしまえばそれが回り回って社会の成長につながることはない。

ちょうどSIMを探していた時に停電の話を書いていた。いつもは動いているものが動かなくなっても「自分には何もできないし誰かが調整してくれるのを待とう」という姿勢が蔓延している。と同時に、政治嫌いも進行している。政治嫌いとは「公共への不信感」と「無力感」が合わさった状態だ。つまり、私一人が何かしても何も変わらないから目を背けようということである。

多分、全体がなんとなく機能しないことはわかっているが、自分一人ではどうしようもないという諦めはいろいろなところにあるのではないかと思う。

いろいろ観察してみるとエントリーレベルでは数百円のものが出ている。月々千円台なので実は気軽に始めさせてみれば案外使ってくれる人は多いのだと思う。フレキシブルにすれば二台持ちをしてもいいという人だって出てきてもいい。だが、日本の事業者は規模が小さすぎてそれができない。

そんなことを考えているとAppleが新しいサブスクリプションサービス(Apple TV+)を月額600円で出すという話を聞いた。大手は「とりあえず安い価格で使ってもらう」ことで顧客を大量に引き抜くという作戦に出るらしい。考えてみればこれはディズニーランド方式だ。定額制で全部使えますよということにして優位性を作り、プレミアムサービスや付加価値をつけて行くというやり方である。

日本の会社にはそのようなことはもうできない。生き残ってアップルになる前にお互いに足を引っ張りあって潰れてしまうからである。多分通信も黒船がやってくるまで同じような膠着状態が続くだろう。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

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