「花燃ゆ」はいよいよ明治時代の群馬県に舞台を移した。群馬県県令の楫取素彦とその義妹美和が群馬の子女教育に奔走するというようなストーリーだった。見ているぶんには良かったのだが、ちょっと考えてみると「なんだか分からない話だなあ」と思った。さらによく考えてみると「ひどい話だなあ」と感じられた。
物語の前半は、国を変える為に長州(山口県)の有志が勉学に励むというストーリーだった。「変革の為に勉強する」というのは日本人が好みそうな話だ。「自分も何か変革できる」というような気分に浸れるからかもしれない。中盤では変革の意思に燃えた仲間が革命の犠牲になって死んで行く。
現在のストーリーはその流れを引き継いでいる。変革意識に富み時代の趨勢を見据えていた山口県民が無知蒙昧で目先の利益しか考えない群馬県民(江守徹が代表者として描かれる)を教化するという話になっている。群馬県で炎上騒ぎが起きないのはなぜなのだろうかと思うのだが、NHKは安倍晋三におもねろうと必死で、そこまで気が回らないらしい。
訳が分からなくなるのは、美和と女工たちの件だ。「女性に教養が必要なのはなぜ」なのだろうか。
女工の一人が文字が読めないせいで借金取りに騙されそうになる。そこに美和が登場して教育の大切さを説く。ここまではなんとなく分かる。しかし、その動機付けが奇妙だ。「自分の好きなように生きて行ける」世の中が作りたいのだという。今風に言い換えれば「私らしく生きる」ということだろう。
第一にこれは差別的だ。男性は「国家を変革するため」に教養を磨く。一方女性は「私らしく生きる」という名目で私的なセクターに縛られるのである。この違いはほとんど無意識に描かれるため、実はとても害のあるメッセージを広めている。
さらにこの「私らしく生きる」という考え方は、最近多くの女性を苦しめている。実際には多くの女性が「産むか働くか」という二者択一を迫られている。女性の「私らしく生きる」というのは、選択肢が複数あるということを意味するのではない。「どちらかを諦めて、それを自己責任として認める」ということを意味するのだ。しかも、その選択にはリファレンスやガイドになるものはない。加えて言うならば、男性もこうした「選択に対する自己責任」を押しつけられている。これが平成時代の特徴だ。にも関わらず、NHKにはこうした配慮は見られない。
皮肉なことに、搾取から逃れるために文字を覚え始めた女工たちは後に「搾取される存在」になる。「女工哀史」や「あゝ野麦峠」で知られる有名なストーリーにつながる。もっとも「あゝ野麦峠」は長野県の話なので「群馬県にはそんな悲惨なことはなかった」という主張なのかもしれない。日本の近代化は女性たちの犠牲の上に成り立っているのだが、そうした不都合な点は全くスルーされている。「花燃ゆ」だけを見ると、日本の女性労働者たちは明治政府(と開明的な山口県民)のおかげで教育が受けられるようになり「私らしく」生きる事ができるようになったのだなあという印象が残ってしまう。
物語が作られた時代の背景を映し出すというのは、ある程度仕方のないことだ。「あゝ野麦峠」は当時(1968年)の労働者たちの状況と心情を代弁していたのかもしれない。しかし、NHKの映し出す「女性が自立して私らしく生きる」というのは「機会均等法」時代の思想だ。バブル前の話である。もしかしたら、NHKの人たちは昭和を生きているのかもしれない。
楫取素彦は寡黙で周囲を説得する事なく学校教育普及のために奔走する。何も言わないので、これがどういった動機に基づくものなのかも、実はよく分からない。吉田松陰や高杉晋作を遺志を受け継いでいるのかもなあと想像できる程度だ。松下村塾の遺志とは何だったのだろう。
楫取素彦や当時の日本政府が日本の教育をどのように考えていたのかというのは、現在重要なテーマのはずである。当時の武士階層が持っていた教養主義を国民に広めようとしたのか、それとも単に国家競争力を増す為に実学教育を被支配層に押しつけたのかという点だ。
なぜ、これが重要なのだろうか。今の日本の教育界は大変なことになっている。
文科省は「国立大学から文系学部をなくせ」という通達を出して、一部で炎上騒ぎを起した。裏には「日本の競争力強化のためには文系学部や教養は必要ない」という思想が透けて見える。さらに、財務省は子供が減るのだから先生の数を減らすと言っている。「国立大学の学費を2倍にする」という話も出ている。既に大学生の半数は奨学金という名前の学生ローンを借りなければ大学に行けなくなっているにも関わらず、政府は学生に対する支援を減らそうとしているのだ。背景にはこの国の運営をしている人たちの「貧乏人は難しい事を考えず、黙って下働きをしろ」というようなメッセージと「国家競争力の強化につながることだけだけやってればいいのだ」という主張があるように思える。
物語の前半の吉田松陰と松下村塾の件で、吉田松陰は「西洋列強に肩を並べるためには、実学だけを勉強すべきだ」というようなことは言わなかったはずである。教育の層が厚くなればそれだけ社会の豊かさが増すという思想があったのではないかと思われる。多分、日本にも(少なくとも当時の武士階層には)教養主義のようなものがあったのではないか。
もっとも、現在の日本に「高等教育や教養が必要なのか」というのは議論の別れるところだろう。大学全入時代と言われる時代だが、30%程度は非正規労働者だ。日本社会は成長と前進を前提としていないので、読み書きパソコンくらいができれば十分に仕事ができるし「下手に教養を身につけたせいで、諦める辛さを実感するだけでなく借金すら背負うことになる」かもしれない社会なのだ。
そこに「一億総活躍」という終戦間際の「国家総動員」のような思想がでてきたせいで、ますます話がややこしくなった。余り何も考えずに作ったのだろうなと思えるスローガンだ。大学や大学院を出た人たちを持て余し「イノベーションがでてこない」と嘆きつつ、パートやアルバイトに貼り付けるという社会が、国民を総動員して一体どこに向かおうとしているのだろうか。
NHKの人たちがこのドラマを作った動機はよく分かる。「開明的な山口県」を持ち上げることで時の権力者におもねりつつ、「女でも分かる分かりやすい物語を伝えよう」としているのだろう。この作戦は失敗しているようにしか思えない。現在の状況をあまり真剣には考えてなさそうだということはよく伝わってくる。
こうした自動化された思想がいくつも積み重なり「女も教養さえ身につければ自分らしく生きられるはず」というメッセージだけが亡霊のように立ち上がり、視聴者を苦しませているように思える。