流行と売れ筋は違う

「安倍首相の支持率が高いのはおかしい」という人がいる。トランプが大統領になれるはずはないという人も多かった。しかし、実際には安倍首相の支持率は高く、トランプは大統領になった。これは「アンケート」や「マーケティングリサーチ」がいかにあてにならないかの事例になっている。これを構造的に解説するのは難しいのだが「何が何だか分からない」というわけではないので、全く異なる事例からいろいろ観察して行きたい。

ファッションには流行がある。色々な人が色々なことを言っている。

WEAR

ここのところWEARというファッションSNSに投稿を続けている。なぜか「だらしない格好」を投稿すると評判が良い。最初はからかわれていると思ったのだが、どうやら「ゆる」ブームが来ているようだ。具体的にはワイドパンツやライズの高いジーンズなどが「来ている」ようだ。これはMen’s NON-NOなどがユルブームを牽引しているからだ。面白いことにMen’s NON-NOはしばらく前からこれを押しているのだが火がつくまでに数年かかった。雑誌が単独で押しているわけではなくドメスティック系のファッションコミュニティの意向があるのだろう。

ところが実際に閲覧されているのはウルトラライトダウンなのだ。つまり、ファッションコミュニティで評判がいい服と、実際に見られている(つまり購買の候補になっている)服は全く異なっているということがわかる。

Men’s NON-NOは売れていない

本屋に行ってきた。今一番売れている男性向け雑誌はSAFARIでMen’s NON-NO次ぐらいに来るのではないだろうか。確かにSAFARIは平積みされているのだが、Men’s NON-NOは1冊置かれているだけという店がある。代わりに置かれているのが、地方の若者(周回遅れで流行が来る)向けの雑誌だ。BITTERなどが置かれている。この一昔前の世代にはMen’s Eggを読んでいたのではないだろうか。

日本の男性服の流行には二軸ある。ファッション知能指数(そんなものがあるのかどうかはわからないが)高めの人たちとそうでない人たちの流行だ。そうでない人たちが「キレイめ」にキャッチアップしたころにはファッション上級者は飽きているのである。そして、ファッション上級者は今「古着」を見ている。過去の流行がアーカイブされていることがあるからだ。だが、これも都市の流行なのではないかと思う。

実際に街に出てみた

実際に街でどの程度「ゆる」服が流行っているのかを見てみた。面白いことに日曜日のお父さんが来そうなロードサイドのモールでは「ユニクロ系」の服を小綺麗に着ている人が多い。子供連れなので変な格好はできないだろうし、子供は走り回るから動きやすい方がいいに決まっている。

街(一応県庁所在地だ)の駅前を流してみたのだが大学生が一番よく着ているのはトレーニングウェアの下(つまりスエットパンツみたいなやつ)のようだった。実際にはちょうどよいサイズのジーンズをきっちり着ているだけでオシャレに見える。「普通の大学生っぽい服」が多い。「ゆる服」なんか誰もいないじゃないかと思ったその時にガウチョパンツみたいなものを着ている男性をみつけた。東京に遊びに行くのかもしれないなあと思った。まあ、100人に一人といったところだ。そういう配合なのだ。

ファッションの御大はなんと言っているか

小島健輔というコンサルタント(アパログに連載を持っているので御大なのだろう)は次のように言っている。

‘ノームコア’が終わってデザインと装飾、ボディフィットが復活するのに加え、キレイ目シフトで製品洗いなど汚め加工が疎まれると予測される。

実際に若者向けのファッションコミュニティとは真逆なことを言っている。ノームコアをゆるい着こなしと言っているのだが、かなり文脈がずれてしまっている。いっけん普通に見えるので「だらしなくファッショナブルではない」と思っているのだろう。これがファッションコンサルタントの予想なのだが「文脈は俺が作る」という意識もあるのかもしれない。立ち位置としては読売新聞の記者みたいなものだ。ノームコアはシンプルさが持ち味なのだが、この人にとっては「単にゆるくて汚い格好」に過ぎなかったのだろう。洋服はかくあるべきという持論があるのだと思われる。

こういう人が売り場を作るので若者は古着に傾倒してしまうのだろうが「現場をよく知っている」という矜持があり、ファッションコミュニティとの差異には気がつかないのではないだろうか。

中堅どころはこういう

南充浩という中堅どころのファッションジャーナリスト(なかなか味のある文章を書く人だ)は中年はビックシルエットを避けるべきと主張する。似合わないからなのだそうだ。しかし実際にファッションコミュニティに受け入れられようとすると、ビックシルエットになる。最初は「あれ、これ変だな」と思うのだが、そういう流行になっている。ここでいう流行とは逸脱が許容される狭い窓なので、つまりおじさんが「変だなあ」と思っていてもそれが変でなくなってしまう。中年だけが似合わないわけではなさそうで、つまり変な格好が流行っているのである。

南さんが若い頃どんな格好をしていたのかはわからないので、本当は変な格好をしていてある日まともになったのか、最初からそういう流行とは無縁だったのかはわからない。

まとめるとこうなる

これを無理矢理にまとめるとこうなる。

  • 表:最先端は誰からも理解されないが存在する。多分最初は業界だけの流行だろう。これがブームになることもあるがコミュニティができるまでには数年時間がかかる上に限定的である。
  • 裏:これを追随しているコミュニティがある。この人たちが食いつくころには最先端の人たちは離反している。
  • 中核:業界を動かしている人とたちはこの動きにはついて行けないし、自分たちの方が宇宙の中心だと信じている。彼らにはトレンドは単に奇異に見える。
  • 普通:マジョリティは業界の動きにも、権威の動きにも興味はなく、別の動機で動いている。

これは政治問題にも応用できる。ここから考察を重ねても良いのだが長くなりそうなので止めておく。政治にも「表と裏」があるのだが、一番の違いは裏が表を叩いているということだ。これは「社会のコンセンサス」が影響しているのではないかと思う。ファッションは好き勝手な格好をしていればいいのだが、社会は「正解」を求めることがある。つまり、ワイドパンツとキレイめのどちらかを選べということだ。そこで闘争が起きてしまうのではないだろうか。

Twitterは街に一つしかないユニクロでMen’s Eggの客がMen’s NON-NOの客を罵倒しているみたいなところだということになる。

流行はどこからくるのか – その4つの起源

日本のファッションカラー100 ―流行色とファッショントレンド 1945-2013を読みながらファッショントレンドについて考えている。この本は日本の戦後のファッショントレンドを100集めているのだが、「よく覚えているなあ」というものばかりだ。特に終息がいつだったかは意識していないと収集できないのではないだろうか。

この本はいろいろなトレンドを扱っているのだが、そのソースは4つに分類できるようだ。

  • モード界由来
  • 憧れの対象由来
  • 不良グループ由来
  • 余暇由来

これにプロダクトデザインを加えるとほぼ全てのトレンドを網羅できそうだ。それぞれを詳しく見てみよう。

モード界

モードが流行の源泉になったケースはそれほど多くない。戦争が終わって「女性は女性らしく」という流れがあり、Aライン、Hライン、Yラインなどが提唱された。このラインを破壊したのが日本人で、洋服を脱構築して黒で洋服を再構成した。明らかに着物のような「巻きつける」系統の伝統がバックボーンにある。

政治に関心を持つデザイナーは少なくないがストリートの動きや反戦運動に形を与えるということの方が多いようである。意外とデザイナーが主導してデパートが広めるというような動きは少ないらしい。

憧れの対象

憧れは流行の大きな源泉になっている。日本人が最初に憧れたのはGHQで、流行をもたらしたのはパンパンと呼ばれるGHQに群がる女性たちだった。その後、映画が憧れの対象になった。最初は洋画が憧れの対象だった(サブリナパンツなどが流行った)が、太陽族という余裕のある学生も映画から憧れの対象となった。余裕のある学生が憧れの対象になるという流れはその後も続き「余暇を楽しむ学生」はファッション流行の源泉になる。人々は加山雄三に憧れ、バブル直前の原田知世・織田裕二ごろまで余暇を楽しむ学生は憧れの対象だった。

さらにアメリカの学生(有名大学の学生やそこに行くための予備校生)のスタイルが輸入された。最初はアイビーと呼ばれ、のちにプレッピースタイルになった。もちろん、こうした動きは日本だけのものではない。イタリアファッションも映画の中の衣装に起源がある。

日本ではよく見られる「アメカジ」だが、当然アメリカにはない言葉だ。面白いことにバブル期までロスアンゼルスに古着を買い付けに来る日本人は現地の人たちから嫌われていた。質の良いものを買いあさるので値段が高騰してしまうのだ。こういう買い付け人たちが再構築したのが「アメカジ」だったわけで、当然日本人が作ったある意味どこにもいないアメリカ人に憧れていたことになる。

不良グループ

逸脱も流行のソースになる。ロカビリーがブームになり、モッズが流行した。モッズはテレビに乗って派手になってゆく。これがビートルズやGSなどの流行につながる。GSはモッズだけではなく様々な流行を取り入れて派手になってゆく。

そのうち竹の子族という美的感覚に欠落がありそうな人たちが独自の流行を作った。裕福な若者がトラディショナルファッションに身を包んでいたのと同じ時期に竹の子族もいるといるという状態いだ。黒人のだらしない格好も音楽を媒介にして日本に伝わった。渋谷できっちりした格好が流行している一方でダボダボのパンツを履いている人もいるというのが流行の特徴だ。つまり、流行は二本立てになっていたことになる。

これとは少し違っている流れもある。厭世観の中でLSDに逃避する若者が作ったのが「サイケ」であり、そのあと、ベトナム戦争反戦の為に街で軍服を着ようというミリタリーブームがあったそうだ。

スポーツ

最初の流行はスキーだったようだ。そのあとマリンファッションが流行して「日焼けがかっこいい」という時代が長く続いた。それと並行して、レオタードなどのトレーニングウエアもファッションアイテム化される。余暇を楽しむ学生が憧れの対象になるわけではなく、余暇のスタイルが街にも持ち込まれるのである。いわゆる「陸サーファー」が典型だ。

スキーブームはかなり長く継続し、バブル時期の「私をスキーに連れてって [DVD](1987年)」の頃まではスキーが主流だった。「私をスキーに……」のスキー場は、志賀高原と万座温泉だそうだ。

ワークウェアがファッション化したように、スポーツアパレルもストリートに接近した。しかし、これが効きすぎたのか最終的には街でナイキのシューズを狩るという「エアマックス狩り」にまで発展した。エアマックスは1987年に発売された単なる運動靴なのだが、マーケティングの結果プレミアムがつき、暴力団の資金元になるほど価格が高騰したのだ。このようにしてファッションそのものが壊れていったのがポストバブル期だ。

流行そのものが崩壊したポストバブル期

バブルが弾けてもしばらくの間は「いつかは回復するだろう」という見込みがあった。しかし、ファッションは確実に崩壊していった。「健康」の象徴だった日焼けすら過剰になり最後は「ヤマンバ」と称されるようになった。つまり化物になってしまったのである。

裕福さの象徴だったイタリアファッションも水商売の男性の制服になった。最終的には日焼けした男性がベルサーチなどを着るようになり、穴の開いたジーンズを買うようになると、ファッションが「下流の人たちのもの」ということになってしまった。つまり、洋服にお金をかけるのはドロップアウトの証拠だと見なされてしまったわけである。

一方で比較的余裕のある人たちは「無駄な出費をせずユニクロで倹約するのが正しい」ということになった。ジーンズの裾が広がったり、パンツが細くなったりという変化はあるものの、流行そのものが崩壊してしまった感じがある。ファッションを追求すると世の中から脱落してしまうのである。

アパレル産業はいろいろな施策を打って流行を動かそうとしているのだが、ファッションアイテムだけに注目しても誰もなびかない。それを育てるコミュニティが重要なのだ。

流行を作るのはコミュニティ

日本の流行を見てゆくと、銀座、六本木、渋谷、原宿、裏原宿、表参道、横浜、神戸、湘南、苗場などといった場所に集うコミュニティが源泉になっていることがわかる。流行が消えた裏には集まって余暇を過ごす余裕がなくなっているということを意味しているのかもしれない。

Yahoo!知恵袋には「このアイテムを着るのは正解か」とか「これは今着ていても大丈夫か」という質問が多く見られる。本来ならリファレンスになっていたコミュニティが消えてしまったので、誰もが不安になっているというところだろう。もう20年近くも「減点型椅子取りゲーム社会」が続いているわけでファッションは仲間作る記号ではなく、外れている人を排除する記号として作用しているのかもしれない。

この典型がリクルートスーツだ。「服装自由」と言っておきながら、少しでも外れていると排除されてしまう。かといって、みんな同じ格好をしていると「個性がなくつまらない」と言われてしまう。かといって、誰も正解を知らない。

とはいえ、嘆いていても仕方がないわけで、現実はこれに即した動きになっている。

  • 40歳代から上はかつての流行を知っているので従来型のファッション雑誌が売れている。
  • バブル崩壊期に育った人たちに向けては、シンプルで飽きのこないスタイルが推奨される。かつてのセレクトショップが「ファミリー向け」のラインを出している。
  • それより下の世代には教科書型のファッション雑誌が売れるが発行総数は多くない。

 

 

Twitterで正義に溺れる

今回は次の情報、提案、意見を含んでいる。

  • ソーシャルメディアにはアルコールと同じような依存性がある。
  • 依存に陥らないためには複数の発信チャンネルを持つべきかもしれない。
  • アートには多分存在意義がある。

ここ数日、かなりの数の閲覧があった。豊洲市場の記事を書いたのだが、これが移転反対派の人に見つかってしまったのだ。現在テレビで活躍している人でフォロワーと思われる人が殺到した。さらに悪いことに「日本人論」の類型に沿って書いたため「わかった!」と思う人が続出したようだ。だいたいこのようなサージは3日くらいで落ち着く。騒ぎは沈静化しつつあり、いつものまったりとした閲覧数が戻りつつある。

閲覧者が増えても誰もコメントを寄せない。これは誰も反論がなかったということになるのだが、これは記事そのものを読んでいるひとがいないからだろう。日ごろから思っていることがあり、それに合致する読み物を好むのではないか。考えるに、ソーシャルメディア上の文章には2つの効用がある。

一つ目は、認知的不協和の解消である。人は思っていることと実際に起こっていることの間に齟齬があることを嫌う。これが解消されるような文章を読むと「わかった」という気分が得られて気持ちが良くなる。実際には内容は読んでおらず、自分が解釈したいように解釈しているだけなのだがそれは気にならないのは、文章を読むことが認知不協和を解消する正当化要因として働くからだろう。自分が言ったというより、他人から聞いたと思いたいのだ。

次の効用は一体感である。誰かと同じ意見を持っていると感じると社会的な認知が得られる。これが快楽をもたらすのは間違いがないようだが、その仕組みはあまりよくわかっていない。参考に読んだWIredの記事によると単に気持ちが良いというだけでなく、脳内に化学物質が放出されるようである。

文章にはコメントはなかった。しかし、自分の個人情報を晒した上で「あなたは世界で一番論理的な文章を書く人だ」というメッセージを送ってくる人がいた。合理的な分析能力を一時的に喪失した状態になっており、かつ自分の境遇を話したいという人なのだろうと思った。社会的認知にどれほどの快楽性と中毒性があるかがわかる。事実は重要ではなく、つながりが重要なのである。

ただし、強い快楽には依存性がある。つまり、認知的不協和の解消と一体感の維持を求める気持ちはエスカレートしてゆく可能性が高い。今回はサージは豊洲問題について追求している人のエンドースメントがきっかけになっているのだが、かなり長い時間Twitterに張り付いている人のようだ。中にはかなり陶酔したつぶやきも見られる。軽い依存状態が起きているのだろう。

よく、取り憑かれたようにどちらかの政治的ポジションからリツイートしている人がいるが、本来であればこれはやめたほうがいい。それは依存だからだ。正義ではなくアルコールやギャンブルと同じなのである。しかし、依存に陥っている人に「それは止めたほうがいいよ」とは言えないし、取り上げると暴れ出す可能性すらあるだろう。

この陶酔は個人のレベルでは終わらない。社会的な絆というのはそれほど強い麻薬性を持っている。Wiredの別の記事によるとの集団になると倫理性が失われてゆくという研究もある。こちらも細かい仕組みはわかっていないようだ。

さて、ここまでなんとなく分析的に書いているが、アクセスが多くなると社会的に承認されたという気分になってしまう。するとさらに同じような線でさらに刺激の強い文章を書きたくなるのだ。するとやがて「真実などどうでも良くなる」可能性が高い。

これは依存なので、解消するためにはその対象物から離れるしかない。つまり情報発信すると決めたなら、離れることができる場所を持っている必要があるということである。だから、情報発信するなら複数のチャンネルを持っていたほうがよく、コミュニティも分けたほうが良いと思う。これはたまたま一つのチャンネルが受けただけで、人格そのものが受け入れられたのではないということがわかるからだ。普段から「課題の人格と分離」などと書いているが、結構難しいことなのだ。

と、ここまでは昨夜書いたことを書き直したものなのだが、今朝起きて「対象に飲み込まれないようにして自己表現するのが芸術なんだよな」と思った。アートがなぜ表現の安定装置として働くのはかわからないのだが、多分表現にある程度の技量が必要になるからだろう。

ファッション雑誌の解体・カテゴリ・タグなどに関する散漫とした考察

ファッション雑誌を解体している。実際にはスキャンしてコーディネートに分けた上でウェブにアップする。著作権上の問題があり本来は違法なのだと思うが、パスワードでプロテクションをかけて不特定多数の閲覧を防いでいる。データベースに問い合わせを行い、合致した人の端末だけにセッション情報を渡す仕組みである。

なぜファッション雑誌を解体したかったのか。それはファッション雑誌がランダムに並んでいて、ルールがわからないように見えたからである。ファッション雑誌を読んでおしゃれになる人もいるのだから、一種の学習障害と言えるかもしれない。

それでも繰り返し少ない写真を見ているとコーディネートを覚えることができる。つまり、再編集することで情報を捨てているのだ。

記憶の限界と暗黙知化

人が短期的に記憶できるのは7±2と言われている。これはワーキングメモリと呼ばれる。実際にはいくつかのルール群があり、それを重層的に駆使することで複雑なコーディネートを作っているものと思われる。その作り方は明示的ではなく暗黙知化しているのだろう。いわゆる「センス」と言われるものだ。暗黙知は他人に伝わりにくいという欠点がある。長い年月をかけてルールが複雑化すると、周辺にいる人たちは「わからないからいいや」ということになってしまう。端的にいうと「ユニクロでいいや」ということになる。専門家の中には東京のファッションコミュニティは浮世離れしているという人もいる。ルールができたらそれを操作してゆくのが仕事だからだ。

ただし、ルールの操作が悪いというわけではない。もしルールに飽きることがなければ、擦り切れるまで新しい服が売れないということになる。

メタデータの付加 – カテゴリーとタグ

解体した写真はそのままでは使えないので、なんらかの分類が必要になる。付加されたデータは「メタデータ」と呼ばれる。メタデータには二種類がある。

最初のデータは「ユニークキー」+「カテゴリ」データだ。写真ごとに1つのカテゴリーが割り当てられる。カテゴリー化は「抜けなく漏れなく(MECE)」が必要だ。ファッションの場合はシェイプでMECE分類が可能である。トップスとボトムの太さでシェイプが規定できる。このほかに縦のラインが作れるのでこれだけでMECEなカテゴリが完成する。

ファッションには出自があり、クラッシック、ストリート、ミリタリー、スポーツというような分類もできるのだが、これはカテゴリーにはならない。ミックスという分類があるからである。

しかし、実際にやってみると、別の分類もやりたくなる。例えば、新しくバルマンカーンコートを買うと参考になる写真が集めたくなるのだ。つまり、カテゴリー付けのルールは柔軟であったほうが、実運用上は扱いやすい。目的はカテゴリーを作ることではなく、一覧表を作成することだからだ。

さらにカテゴリー作りそのものがトレーニングになっていることがわかる。分類ができるということは通底するルールがわかっているということである。

次のやり方はタグ付けするという方法だ。タグは最初のメタデータとは別に準備できる。「キー」+「タグ」という方法になる。ミリタリーテイストのOシェイプでは二種類のタグが一つのキー(この場合はコーディネート写真のURL)に対してアサインできる。それとは別のアプローチも可能だ。着ている服に使ったアイテムを記録して、そのアイテムに「これはワイドパンツだ」とか「ミリタリーだ」というメタデータを付加してゆくのである。これはカテゴリーの重層化だが、カテゴリ同士の関係はない。「ユニークキー」+「カテゴリー1」+「カテゴリー2」である。

実運用上のカテゴリーの数と実装

実際にはいくつくらいのカテゴリーが制御可能なのだろうか。パソコン画面で試したところ20くらいは扱えそうである。写真の実装では24ある。カテゴリー+サブカテゴリーに分けるとやりやすいのだが、実装上では単階層にしたほうが簡単だった。

これがファッション雑誌の特集の1ページということになる。それぞれ7つ程度(実際に自分で試したものと参考資料)が並べられる。

カテゴリーは単純な数字にして名前を後から変更できるほうが、簡単に実装できた。しかし、このやり方だと後で新しい分類を思いついた時に並べ替えられないということが起こる。これはカテゴリーが単基準で並んでいない(つまりMECEでない)ことから起こる弊害だ。それを解決するためにはソートキーをつければ良いわけだが、キーが2つになるというのはデータベース設計上はあまり美しくない上に予期しないバグの原因になるようだ。

構造化されていないタグの弊害

例えば、ある写真に対して、ミリタリーでYシェイプのものを集めたいとする。しかしタグはこうした構造を持っていない。SQLでデータを構造化するためにはビューでは対応できないようで、Group Contactという仕組みで情報を集めてくる必要がある。これをクライアント上で再編成するか、新しいテーブル(キー+カテゴリーA+カテゴリーB)を再編成する必要がある。例えば二次元の表を作りたい場合タグよりカテゴリーのほうが実装はしやすいが、カテゴリー設計している時には表のことまでは考えていられない。

左の例は毎日のコーディネートにアイテムを付加したもの。だがアイテムがパンツなのかジャケットなのかは記述されていないので、テーブルを再編成する必要があった。

著作権だけ守っていては解体が先行する

ファッション雑誌を切り抜いて再構築するという動きには「著作権条の懸念がある」ということは先に述べた。しかし、Pinterestのような「まとめサイト」が先行しており、キュレータによる情報の再編が行われている。Pinterestでは任意に選ばれたもう何年も昔のファッション写真が出回っているのだが、いくつかはネットワークの中心になっており、情報発信者の意図とは全く異なるデザインが「良いデザイン」としてフィーチャーされてしまう危険性が高い。どの写真が宇宙の中心になるかはランダムに決まるのだが、いったん中心になったデータは中心であり続けるという性質がある。すると、時間をかけて撮影されたプロによる仕事がうもれてしまうことになる。

ファッション雑誌では今でも「グリッドデザインが」などと言っている人たちがデジタルの専門家として君臨していると思うのだが、実際にはすでに解体が進んでいるということは知っておいたほうがよいのではないだろうか。

 

成長の限界を唄う朝日新聞の限界

Twitterで、朝日新聞の「成長の限界」がひどいという話を聞いたので読んでみた。ちょっと驚いたのは朝日新聞の読者は金を払ってあんなブログ並みのエッセイを読まされるのかという驚きだった。思索がまとまらない様はこのブログに似ていて親近感を覚えたほどだ。

あのエッセイにはどんな問題があるだろうか。

第一に、原真人さんが成長に限界を感じるのは無理からぬことである。成長の反対は安定だ。経済的には生産構造が安定していることを意味する。職人は一度覚えた技能に一生依存することができ、地域の米の収量は決まっているので税収も安定しているという世界だ。つまり、それは封建制だということになる。

朝日新聞社は既得権がある。政府からの情報を一番に取ることができる地位を有しており、編集委員の原さんはその頂点に立っている。情弱な読者を相手にするために政府に反対するようなことを言っているが、それは単なるポーズだということを知っている人も多くいる。政府が「けしからんこと」をやってくれるおかげで朝日新聞は毎月庶民からお金をむしり取ることができる。そして、それを届けるのは多分一生結婚できないくらいの低賃金で働く人たちだ。

そもそも、そんな原さんが成長を志向する理由はない。

成長を志向するのは既得権からは利益を得られない人たちである。成長は破壊を伴うので既得権を持っていない人にもチャンスがある。こうした破壊行為は「創造的破壊」と呼ばれている。今持っていない人たちが頑張ることで、より効率的な製品やサービスが作られるのが「成長」である。

これは朝日新聞にとって良いことではない。無料で情報が取れてそれをユーザーが並べ替えたりできる時代に、新聞配達員の低賃金に依存する情報伝達方式は、手紙があるのに狼煙で情報を伝えるようなものである。つまり新聞はネットニュースにさっさと取って代わられるべきなのだ。それが起こらないのは、国民が政府発信の情報を信用しているからだ。

ここまで考えてくるとあの出来の悪いエッセイのもう一つの問題が見えてくる。ちょっと読むと、成長を「GDPが膨らむこと」だとしている。そこからGDPの歴史に話が及んでおり、中央銀行がどうしたとか戦費調達がどうとかいう話に結びつき迷走する。

既得権がある人が考えると「俺がいい思いをしているのに破壊してまで成長しなければならないのはなぜなのだろうか」ということになりがちだ。さらに政府は「成長ってGDPをあげることなんでしょ?え、違うの」というような脆弱な経済感を持っており、それを聞きかじって右から左に流す新聞社もそれを間に受けている。

現在の経済の問題は、成長=お金の流通量が増えることという認識の元に実際のモノやサービスの交換を伴わない金融ばかりが膨らんでゆくという点にある。費用の調達にはコストがあるはずなのだが、それが無効化したために、実体経済の成長なしに金融世界だけが膨らんでゆくのだ。GDPは金融によって生み出される価値を含んでいるので、そもそも「豊かさ」を図る指標ではなくなりつつある。

しかし、それは割と明確なことであり、今さらドヤ顔で語るような筋の話ではない。本来のクオリティペーパーは、明確ではあるが仮説に過ぎない仮説を問題意識を持ちつつ粘り強く検証するべきなのだが、政府から情報を調達してきて情弱な読者を騙すことで日銭が稼げてしまうと、そういう意欲もなくなってしまうのだろう。

ユニクロと女性が活躍できない社会

ユニクロが新しいコマーシャルを始めた。人はなぜ服を着るのかを消費者に尋ねている。ああ終わっているなあと思った。消費者に聞いても提案が得られるわけではないからだ。

多分、ユニクロは「人がなぜ洋服を着るのか」という根本的なところが分からなくなっているのだろう。売り場からはデザインが消えていた。チェックやボーダー柄すら少数派になり、ジーンズのダメージがデザインとして残るくらいだ。カラーバリエーションも消えていた。人気のない色がいつも売れ残っていたのだから当たり前といえば当たり前だ。代わりにユニクロが売り出しているのはストレッチとヒートテックである。つまり、ユニクロはついにデザインというものを放棄してしまったのだ。

人が洋服に機能以外のものを求める理由はいくつかある。例えば差別化やクラスの明示という機能があるが、ユニクロのような大衆服のジャンルには当てはまらない。残るのは「居心地のよさ」の価値だ。デザインというのはこの「居心地のよさ」を作るための一つの要素だと考えられる。ユニクロは「居心地のよさ」がよく分からなかったのだろう。

とはいえ、消費者の側も居心地のよさがよく分かっているとはいえない。消費者の側にあるのは「同調」と「流行」だ。他人と同じ格好をするべきでそれは毎年古びてしまうという強迫観念である。

「日本人はデザインを理解できなかった」などと書きたくなるのだが、これは必ずしも正しくなさそうだ。戦後の日本人は手作りのデザインに目覚め、その中からパリで活躍するデザイナーを輩出した。つまり、日本人が美的に優れていないということはいえないように思える。

ユニクロからデザインが消えた背景にあるのは「効率的・機能的」という価値観と「居心地のよさ」という価値観の対立だろう。前者は男性的な価値観と考えられ、後者は女性的な価値観だと考えられる。

バブルが崩壊して日本人は経済縮小を選択するようになった。ここで切り捨ててきたのが「居心地のよさ」なのだろう。快適に暮らすことを捨て、子育てや教育のように次世代を育てるための予算を切り捨ててきた。

ジェンダーギャップが大きくなっているということが話題になっているのだが、女性的な価値観は今の日本ではハンディでしかない。

だから、女性が男性の中で活躍するためには「女性らしさ」を捨てて見せなければならない。そのロールモデルになっているのが高市早苗や稲田朋美といった人たちである。つまり女性は「政治化に向いていない」という疑念があり、それを捨てるためには敢えて乱暴なことを言わなければならないので。ある。稲田朋美に至っては「これを言っておけば安心だろう」という過去の放言を蒸し返され、国会答弁で泣き出す始末だ。信条の問題というよりは、単にオウムのような存在だったのだろう。

実業でも女性は男性的な働きが求められる。電通の高橋まつりさんの件があれほど注目を集めたのは、人生をすべて企業にささげるべきだという風潮が蔓延しているからだろう。自殺したことで電通の幹部たちは「だから女は使えない」と思ったのではないだろうか。

このような社会で女性が男性並みに活躍し始めたら大変なことになる。次世代を育む役割が放棄され社会が縮小するからだ。

さて、この文章では「次世代を育てる」という役割を女性に押し付けているという反論が出てくるのをひそかに期待している。もちろん、男性が女性的価値観を身につけることは大切だ。これの反証になっているのが女性の男性化である。

女性が「私らしくいたい」のは当たり前のことなのだが、これが持ち物や夫の地位をめぐるマウンティングになることが珍しくない。つまり「居心地のよさ」の競争が行われているわけだ。共感を元にみんなが居心地よく暮らすというのが本来の女性的な価値観なのだから、これは男性的に変質しているということになる。

つまり、女性だからといって女性的な価値観を身に着けているとは限らない。日本はそれほど競争的な価値観が支配する社会なのだということが言えるだろう。

面白いことにアパレル業界はこれを男性的に乗り切ろうとしている。つまり、一生懸命大量生産してコストを削減しようとしている。その結果、売れ残りが増えているそうだ。

立ち方に関する覚え書き

全身写真を撮影すると姿勢が崩れているらしい。だがやっかいなことにどう崩れているのかがわからない。背伸びをして写真を撮影すると少しはマシになるが安定はしない。基礎ができていないのに無理矢理背を伸ばしている感じだ。ということで、基本の立ち方について調べてみた。

基本の立ち方

pause1

実は背中が尻よりも後ろに来るのが正しい姿勢らしい。背中(A)を湾曲させるのだが、だらっとした姿勢を続けているとすぐに湾曲を作るのは難しい。感覚としては反り返っているような感じになってしまう。そもそも背中の筋肉が弱いということだから、背筋のトレーニングをやっておくと正しい姿勢を作るのに役立つ。

この湾曲がきれいに作れると首(B)が斜めになる。このとき重心はかかとあたりに乗ることになる。一度つま先立ちしてみて足をおろすと正しい重心になるとされている。

さらに肩を開いて背中の上部に力を入れる。肩を後ろに引くのが正しい姿勢である。

次いに腹筋に力を入れる。へそが一番前に出るのだからそのままではおなかを突き出すことになる。ちょっとへこませるような感じだ。

次は脚だ。まず肩幅で立つのだが、そもそも何が肩幅なのかがわからない。骨盤の部分(C)から大腿骨が伸びている。これが膝に向かってまっすぐに伸びたのが「正しい」立ち方である。外腿に力を入れる感覚で立つときれいなパンツのシルエットを作ることができるのだが、人によっては外腿で支える「がに股」の人がいるということだ。

前から見た場合にはこれでまっすぐな脚が作れるんのだが、実は足がまっすぐになっているかはわからない。つま先が上がらなければ膝が伸びていない。膝を後ろに引くような感覚にして横からみるとそれが「まっすぐ」だったりするようだ。

横から見ると踵→膝→腰→胸→首とまっすぐになっていないことが分かる。実は少しずつS字に傾きながら重力を支えているようである。

モデルのポージングを実践する

pause2基本的にここまでができると次に進める。次にポージングを実習する。

この姿勢、傾きが多いようだが、実はまっすぐに立っている。ポイントになるのは上半身だ。傾いているように見えても肩を引いているだけということがあり、体幹はまっすぐになっている。ただ、これだと退屈なので脚の重心をやや動かしたりする。基本的に膝は引き気味になっていて、足をあげている側の膝を前に出すようにするとよい。

実は大きく肩を引いて手を動かしながら歩くのと同じ構図になっている。実際のポージングを観察すると基本の立ち方を保ったままで、重心を微妙に変えている。基本の立ち方が崩れているとどこかに無理がきてバランスが崩れる。

 

歩く

いきなりきっちりした姿勢をとることはできないし、ポージングの練習ばかりはしていられないので歩き方を練習するとよさそうだ。まず背中の湾曲を作る。次におなかを引っ込める。さらに大腿骨上部の骨頭から膝にかけて大きく脚を使うように意識するとよいらしい。このような歩き方は脚を長く見せる効果があるとされる。

 

洋服が売れないのは選択肢がたくさんありすぎるから

ということで、近所にあるアウトレットモールに行ってきた。そもそも太ってしまい洋服が似合わなくなったことから始まった「プロジェクト」も終わりである。今回の一応の結論は「豊富すぎるから買わなくなるんじゃないだろうか」というものなのだが、急がずにだらだらと行きたい。

もともと洋服が似合わなくなり古着屋で買った280円のパンツなどを使っていたのだが、さすがにそれはまずいだろうということになり、いろいろ洋服を探し始めた。ユニクロ、GU、古着屋、ヤフオクの四択だ。DIESELのストレートジーンズとGUの980円ジーンズを手に入れた。

それでもひどい感じだったのだが、どうやら体型が崩れているのが理由のようだった。腹筋運動をしたり、姿勢を改善したりしてこれを少しだけマシな状態に戻した。要するに再び鏡を見たわけだ。

さらにネットや雑誌で情報を仕入れて、中古屋でトップスを探した。テーマになったのはできるだけ「シンプルな格好」だ。ジーンズに手が加えてあるので、トップスはあまり凝ったものでないほうがよいと考えたわけだ。

最初はファストファッションのものばかり探していたのだが、途中からブランド物のコーナーも探すようになった。そこでArmani Exchangeの服を見つけて、やはりぜんぜん違うなあなどと思ったわけである。つまり、知らないうちにファストファッション慣れしている。

ファストファッション慣れが起こる原因にはべつのものもありそうだ。例えばPARCOに入っている店の品揃えはかなりひどいものだった。アクリルのセーターと古着しか置いていないようなWEGOに多くの若者が集まっている。これはつぶれるのも当然だと思った。

「アパレルって荒れているなあ」などと思ったわけだが、この印象は大きく崩れた。BEAMSにしろSHIPSにBanana Republicにしろ、良い素材で優れたデザインのものがいくらでも売られている。しかも価格は定価の30%(つまり7割引だ)だったりするのだ。大げさに言うと世界で作られた名品がお手ごろ価格で手に入ってしまうということになる。

しかし、あまりにも選択肢が多すぎる。古着屋さんが良かったのは価格が安いからではないことが分かる。定番商品があまり多くないので、限られた選択肢の中でどうにかして着こなしてやろうなどと考えるわけである。つまりセレクトショップのような存在になっているのだ。

考えてみると、「自分だけに似合う特別な一品」というものがあるわけではない。ジーンズの場合は自分で「育てる」し、いろいろと研究して征服してゆくのが当たり前だ。つまり、ある程度の品質さえ確保されていれば、キーになるアイテムについては福袋でもかまわないのである。

後は気合である。

だが、いろいろなものが置かれていると、そもそも何がキーになるのかが分からなくなる。もちろんこれは、受け手の問題なのだが、すべての商品が並列でおかれている(ようにみえる)ために起きる状況だ。

スーパーマーケットの場合は、入るとまず野菜売り場があり、魚から肉に進んでゆく。あるいは検索にたとえてみてもよいかもしれない。ある人は値引率で検索するだろうし、別の人はキーアイテムとの組み合わせで検索するかもしれない。

かつては雑誌が情報を限定する役割を果たしてくれていたのだろうが、今ではネットでコーディネートが次から次へと飛び込んでくる。すると「また今度でいいや」みたいなことになる。それに加えて毎日のようにメールによるお勧めが流れてくる。正直これを見ているだけで混乱する。いったい自分が何を探しているのかがわからなくなってしまうからだ。

入手可能な情報が多くなるに従って人々の情報検索範囲は狭まってゆく。多分、高級セレクトショップの価格が「投売り」状態になっていることに気が付かない若い消費者も多いのではないだろうか。質のいいものが世界中から送られてきて並べられているのだ。なんだかもったいない話だなあと思った。

アパレルについて観察しているとどんどん科学的な知見からはずれてくる。似合っているアイテムというものがあるわけではなく、与えられたものを「気合」で着こなすと思ったほうが良い結果を得られそうだ。もう一つ思ったのは洋服屋に出入りする人も働いている人もあまり楽しそうに見えなかったという点である。毎日働いているわけだから慣れているのは当たり前のような気もするが、たいていの店員さんたちは服を制服のように着ていた。これ、もうちょっとなんとかならないんだろうか。

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

デフレが進行したのはIT技術の発達が原因かもしれない

前回はパルコがなくなるのを見て「日本のファッションは砂漠化している」などと嘆いてみたのだが、実際にはもっと大きな変化が起きているようだ。いくつか見てみたいポイントはあるのだが、一番注目すべき点は、日本の流通が実は大胆に合理化されているというちょっと意外な事実である。

一般に、日本のサービス産業や流通はIT化が遅れており生産性の向上も進んでいないと考えられている。確かに産業という側面から分析するとそうなるのだが、消費者を加えると全く異なった実態が見える。

日本のアパレル産業の市場消化率は50%弱なのだそうだ。残業して一生懸命作った服の50%は売れ残ることになる。売れ残った服は中古市場に流れる。ほどいて毛布などの原料にする、機会を拭くウェスとして利用する、東南アジアに輸出するというのが主な処理方法になるそうで、これを専門に取り扱う業者もある。燃やされているものもあるはずだが統計には出てこない。

一方、急速に中古市場が立ち上がりつある。実際に中古ショップを見てみると「未使用品」が売られていたりする。寂れたファッションビルが「売れ筋」と考えられる画一的な商品に高い値札を付けている一方で、ユースドショップに豊富なデザインが色柄が安い価格で売られていることも珍しくない。

だが、新古品の出先はリユースショップだけではないようだ。アプリを使ったオークションサイトなどが複数立ち上がっている。総合通販サイトも中古品を扱っている。さらにファッション通販サイトも中高品を扱うようになった。

同じような状態は中古車市場にも見られる。軽自動車が過剰生産され新古品市場が発達しつつある。実質的な値下がりが起きているのである。

つまり、アパレル専業の会社や自動車業界が市場を読まずに産業ゴミを量産する一方で、消費者はIT技術を駆使して自分が欲しいものを探しているという実態が見えてくる。

これが顕在化しないのは政府統計が古い概念のもとで組み立てられているからではないかと考えられる。いろいろな人が推計を出しているが「どれくらい中古化」が進んでいるかということはよくわかっていないようである。「もはやデフレではない」という統計も新品だけを対象にしているはずだ。小売物価統計調査の概要の説明には次のようになっている。

調査店舗で実際に販売する平常の価格を調査する。ただし,特売期間が7日以内の安 売り価格,月賦販売などの価格及び中古品などの価格は調査しない。 

一方、産業界には「新品が売れなくなった」という認識はあるようで、日経新聞までが中古市場に関する記事を書いている。

アパレル業がいびつになってしまった原因はいくつかありそうだ。アパレルは中小業者が多い。さらに、毎年流行が入れ替わり去年の服は今年は着られないという刷り込みがある。さらに、情報産業(ファッション雑誌など)が盛んに消費者を教育するので、ファッション好きの消費者は豊富な知識を持っている。彼らはITに対するスキルも業者より多く持っている。

女性に対して調査したところクローゼットの7割は着ない服だったという統計もある。ほとんどの人は着なくなった服を単に捨ててしまうのだそうだ。アパレル商品の半数が売れないという統計も考え合わせると、日本で作られた洋服のほとんどが捨てられており、実際に使われるのは定番の商品のみということになる。定番品だけしか売れなくなるのもよく分かる。結局、それ以外はゴミになってしまうのだから、最初から買う必要はないのだ。

一方で、生産性の低下についてはあまり嘆く必要がないという気もしてきた。供給側が過剰生産に陥っている原因は、ITへの支出を怠り、市場で何が起こっているかを知る手段がないからだ。政府も統計を取っていないので、何が起きているのか把握している人は誰もいない。

だが、消費者は豊富な商品知識とITスキルを持っているので、それなりに楽しく自分にあう洋服を選ぶことができる。消費者がバリューチェーンの一環をなしているというのが新しい視点かもしれない。

ただし、供給側からはアービトラージの機会が失われ、今までの仕事の一部が無償化(ユーザーが流通に参加しても給与は発生しない)するのでデフレが進行するのはやむをえないのかもしれない。