ボン・ジア!

リオオリンピックが始まってずっと気になっていたことがある。それがキャスターたちの「ボンジーア」だ。なんとなく挨拶であることは分かるのだが、発音が「ア」になるのはおかしいのではと思ったのだ。

これ日本人がまじめに発音するのはほぼ不可能らしい。ちなみに綴りは、Bom DIaである。発音記号はこのサイトで確認したこちらではポルトガル語との違いが書いてある。

まず、omだが実際にはoにティルダがついた発音になるようだ。日本語のンではなく母音の一種だ。母音なのにンと聞こえてしまうのだ。「鼻母音」としてフランス語の授業でやらされた人もいるかもしれない。東京外国語大学の説明は悪魔の教典のようである。サンパウロのンなど、ポルトガル語には、この音が多用されるという。音を聞いても、onと区別がつかない。中には表記に引きずられて「口を閉じるン」と解説している人もいた。ちなみに日本語ではサンマのンが「口を閉じるン」だ。が、ティルダのついた母音は口を閉じない。繰り返しになるが、悪魔の発音。

次にDiaだが、いろいろな説がある。ディと発音する地域とヂと発音する地域があるようだ。ポルトガルとブラジルで違うという人もいるし、サンパウロとリオデジャネイロで違っているという人もいた。Asiaのジと違って、破裂が伴うヂである。日本語には(一部弁別する地域があるそうだが)この区別はないのだが、英語圏なのでは全くの別物である。日本人のキャスターはほとんどがジと発音していると「思う」。日本語は区別しないので弁別ができない。だから、なかにはちゃんと発音している人もいるのかもしれない。

しかし、難物はこちらではなくaの音だった。ポルトガル語のaには二種類あるらしい。こちらは閉じたaと呼ばれるそうで、aをひっくり返した記号を使うようだ。Wikipediaは中舌狭めの広母音と呼んでいるようだが、聞いてもよく分からなかった。Wikipediaでは音声サンプルが聞けるのだが、少しくぐもった暗い印象がある。日本語のアより舌を奥に置くようだ。

ということで、ブラジル風に発音しようとすると、ヂで舌を微妙にならしてから舌を引っ込めてアを発音するとカリオカ気分が堪能できそうだ。

ということで、カタカナで書けそうなBom Diaなのだが、実際には正しく発音できたとしても、自分が正しく発音しているかどうかすらよく分からないだろうということになる。

ちなみにカタロニア語ではBon DIaと書くそうだが、oは開いたオの音らしい。nは日本語にもあるンの音だ。Diはディと発音し、aは普通のアである。

一橋大学の同性愛者自殺裁判

一橋大学のロースクールで同性愛者が自殺をしたというニュースがTwitterで話題になっている。クラスメイトの男性の告白をしたところ断られた上に、告白されたことを暴露されたらしい。結果、パニック障害になったのだが、大学側は適切な援助をせず「ちゃんと授業にでないと卒業できないよ」と逆にプレッシャーを与えたというのだ。

これを受けて多くの人が「大学の対応はけしからん」と言い、被告男性を責めた。大学側は性同一性障害と同性愛の区別すらついていなかったらしく「え、そこからですか?」という驚きはある。また、告白された側の男性が「人間のクズ」であることは間違いがない。

しかし、大学や被告を責め立てたとしても問題は解決しない。

同性愛者がマイノリティとして生きて行かなければならないというのは事実だ。マイノリティにはマジョリティ以上の「胆力」が求められる。ある程度強くなければ生きて行けないのだ。だが、同時にマイノリティはそれほど珍しい存在ではない。

例えば新宿二丁目に行けば同性愛の人が大勢いて、この手の「失恋話」は珍しいことではないだろう。「かわいそうねえ」と同情してもらえることもあるだろうし「そんなの当たり前じゃない」という人もいるにちがいない。同性愛だけがマイノリティではないことを考えると、以外とありふれた存在である。

そのように考えると、この大学の特殊性が浮かび上がってくる。一橋大学のようなエリート校のロースクールに入るためには、社会勉強をしている時間はなかったのかもしれない。その上、学校関係者もエスタブリッシュメントばかりを相手にしてきたのだろう。そういう「どマジョリティ」の人たちは、同性愛と性同一性障害の区別すらつかなかったのだ。

ロスアンジェルスでは男性同士がベッド一つの家に住んでいるというのは自慢したり悲観したりするほど珍しいことではない。その人たちがオネエ言葉で話すということもないし、スカートをはいて社会生活をしているわけではない。芸能界にはオネエ言葉の弁護士などがいて、良い稼ぎをしている。そういう人たちをみて顔色を変えることは政治的には正しくない態度だと考えられている。「あなた同性愛者なのか」と聞くこともない。さらに民族的なマイノリティエスタブリッシュメント(顕著なのはユダヤ人だが、その他にイラン人のコミュニティなどがある)層が住んでいる。このような多様性が都市の繁栄を支えている。

この多様性をふまえた上で日本社会を考えると、マイノリティ問題は実は深刻な問題を含んでいる。さらに、ここがロースクールだったことを考えると、その閉鎖性は致命的だ。法律家は人権問題を扱う訳だが、人権抑圧される人は何らかの意味で少数派だ。しかし、その当事者が少数派に対するまなざしを持っていない。それどころか「マジョリティ」を偽装しなければ生きて行けないほど均質な社会なのだ。そのような社会では少数性は「単なるスティグマであって、社会のお荷物だ」という意識を生み出すのかもしれない。

実は多様性は活力なのだが、そうした視線を持ち得ないのだ。

さらに少数性への対処も遅れている。例えば教会などだと「いじめられてかわいそうねえ」などと頭をなでられることはない。教会は常に問題に接しており(中には子供を失った親などという救いのないケースもある)「強く生きてゆかなければならない」などど諭されることが多い。しかし、エスタブリッシュメントばかりの大学は日の当たる側面しか見てこなかったのだろう。

少数性は誰でもが直面する問題だ。例えば、周囲に例のない健康問題を抱えればそれだけで「マイノリティ」である。

これを指摘するのは少々残酷だが、こうした均質な環境で、自殺した本人も本当の意味でマイノリティについて考えたことがなかったのではないかと考えられる。同性愛者だからといって、自動的に他の同性愛者を受け入れているとは限らない。どのような家庭環境なのかは分からないが、もしかしたら息子が「普通でない」ことを受け入れられなかった可能性はある。

社会人経験を持っていない人がいきなり法律家になるのも問題だ。適切な休学制度などがあれば本人は閉ざされた教室から解放されていただろうし、それなりに人生を考える時間や、社会について学ぶ機会が得られたはずである。新宿二丁目か海外に出れば「同性愛者」がどのように扱われているかを知るチャンスもあったはずだ。

一橋大学でロースクールに入ることができたほどの人が、外に出さえすれば、様々な経験ができたはずで、それは社会の多様性を促進する上で大きな助けになったはずである。

人がパニックを起こすほど孤立しても、その人に代わって孤立してやることはできないし、その人のことを100%理解してやるのは不可能だ。しかし、周りにいる人は「あなただけではない」と言ってやることができるはずである。

なぜあなたはハブられるのか

夏休みが始まってからしばらく経った。普段の教室から離れ、一学期にあったことを冷静に見ることができる時期かもしれない。

今回は「なぜあなたはハブられるのか」について考えてみたい。そして、どうしたらその状況から抜けられるのかもあわせて考えたい。ちなみに「ハブる」とは仲間はずれにするというような意味だ。

「なぜハブられるのか」を検索すると「あなたに落ち度があるのだから、一つづつ改善して行こう」というような文章が多数見つかる。だが、本当はそれは間違っていると思うし、ひどい誤解が含まれている。

本当に円満な社会は少ない。たいていの社会は緊張に満ちている。日本には「他人を平等に扱う」という伝統がなく、なんらかの序列構造を持っているのが一般的だ。例えば、誰が足が速いとか、勉強ができるとか、お金持ちかとか、序列の作り方はたくさんある。しかし、序列は曖昧で崩れやすい。そして、序列がないと不安を感じてしまう人たちがいる。

なぜ序列がないとダメなのだろうか。それは、社会が様々なことを決める枠組みだからである。これを意思決定という。社会は意思決定の枠組みなのだ。みんなの意見を聞くと、結局なにも決まらないので、序列を作って「強い人のいうことを聞く」ということにしている。誰の家で宿題をやるとか、どこに遊びに行くとか、どのテレビ番組(あるいはアプリ)について話し合うかなど、決めなければならないことはいくらでもある。誰も意思決定しないと何も決まらないから、当然何もできない。

日本社会では意思決定が集団構造になっているのが一般的だと言われている。つまり、何かを決めるリーダーグループがいて、その他大勢がそれに従うという構図である。日本社会では「納得がゆくまでみんなで行き先を話し合う」ということは行われない。日本人は徹底した話し合いを面倒だと思うのである。一方で、一人で全部の責任を引き受けるのも嫌だ。決めたことで何か悪いことが起ると(例えばイタリアレストランにいったのに、ことのほかまずかった)責任を取らされるからである。だから「なんとなく決まった」ことにしたいのだ。

しかしながら、このやり方だと「なぜこの人たちのいうことを聞かなければならないのか」と不満を漏らす人が出てくることがある。その不満を解消する方法はいくつかある。例えば、順番に誰かの言うことを聞く(この前はA君が行き先を決めたら次はB君だ)方法があるが、これはなかなか面倒だ。すると、代わりに「意思決定にも参加できないし、行動も一緒にしない」という人を作るのだ。

  1. 一緒に行動して、意思決定する人たち
  2. 一緒に行動するし、なんとなく影響を与えられるが、意思決定はできない人たち
  3. 一緒に行動できないし、もちろん意思決定できない人

では、なぜそのような人が必要なのだろうか。それは、もともとグループの構造が曖昧であり、なおかつ常に不安を抱えているからということになるだろう、この3カテゴリーの人たちが「ハブられる」人だ。

さて、そのように考えてくると、ハブられる原因は集団の側にあって、ハブられた人たちの問題ではないということが分かる。つまり、何か努力をしたからといって仲間に入れてもらえるということはないのである。逆にその集団から離れてしまうと「見せしめ」の効果が薄れるので、ターゲットが別に移る可能性もある。しかし、それも集団側の問題なので、あまり期待はできない。

あなたのせいではないのだから、「努力してなんとかしよう」とは思わないほうがいい。

厄介なことがいくつかある。第一のポイントは「ハブられる」ことには表面上の理由があるということである。実際は「見せしめにできるなら誰でもよかった」わけだが「あの時ああ言ったから仲間はずれになったのかも」とか「誘われたのに行かなかったから」などと思い当たる節がいくつか出てくる。すると、この表面上の理由をくよくよと考えてしまうのだ。

次のポイントは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みだ。そもそも「意思決定ができない」のにみんなでつるんでいるのは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みがあるからだろう。バラバラなのだったら、最初から自分だけで好きなことをすればいいのだ。特に女性は「仲良くしなさい」と言われることが多いので、このようなプレッシャーが強い。

しかし、よく考えてみると「どうやって仲良くするのか」ということを教えてもらった人はそれほど多くないのではないだろうか。また女性は「リーダーになってグループをまとめるような役割」は期待されないので「なんとなくみんなのいうことを聞きながら、全員一致で何かを決める」ということになりがちだ。しかし、それは無理難題である。だから、手っ取り早い方法に走るのだ。それが「仲間はずれ」を作って、まとまるという方法である。仲間はずれは道徳の破綻なのである。

いちばん厄介なのが「とにかく仲良くしなさい」という先生だ。数学が分からないのに「とにかく100点を目指せ」というのに似ている。先生はクラスで問題が起ると責任を取らされるので、何も問題を起こしたくない可能性が高い。この場合先生が「介入」するとさらに厄介になるだろう。

さて、ハブられた人は「自分だけが仲間はずれにされた」と思いがちである。中にはそれが嫌で自殺を考える人も出てくるくらい孤立することがある。しかし、実際にはこうしたことはよく行われている。大人になったら解決するということもない。

例えば政治の世界でも、同じようなことが日常行われている。何が決まったということよりも、誰が誰とお友達で、誰が仲間はずれにされたというようなことが記事の中心になっていたりする。

大臣が1年ごとに交代するのは「みんな平等に大臣にして上げなければならない」という思い込みがあるからだし「首相と仲良しだから早く大臣にしてもらえた」と書かれることも多い。

さらに「仲間に入れてもらえなかった」と恨みを募らせて大騒ぎする人たちもいる。外で仲間を募って復讐を果たす人もいるし、Twitterで相手の裏話を暴露する議員もいたりする。

また「全てあいつらが悪い」と思い込むことによって、うまく行っていない現実から目をそらすということもよく行われている。

こうした現実はあまり慰めにはならないかもしれないのだが、外から見ているととてもくだらないことに思える。重要なのは「政治は下らないなあ」と思うことではない。外から見ているとたいての人間関係のごたごたはくだらないことばかりなのだというのを知ることだ。つまり、クラスの人間関係だけが人生の全てではないのだ。

 

捏造される過去とフィルムカメラ

最近、カメラについての文章をいくつも読んでいる。Yahoo!知恵袋などを読むと、マーケットが何を求めているのかが意外に分かるのだ。一眼レフ分野では「初心者だが何を買っていいか分からない」という質問が多い。選択肢が多すぎるのだろうとは思うのだが、意外と「自分が何をやりたいのか」が分かっていない人が多いようだ。やりたいことにより必要なスペックが異なるのだ。

さて、フィルムカメラにも面白い質問があった。それは「どうやったらフィルムカメラみたいな古い写真が撮影できるのか」というものだ。これに対していらだちを募らせる人もいる。

実は15年ほど前には全く別の構図があった。デジタルカメラのセンサーが発達していなかったために「デジタルカメラ=おもちゃ」という図式があったのだ。プロがデジタルカメラを使うなどということは考えられなかったわけだ。

つまり、そこそこの一眼レフ・フィルムカメラを使えばそれなりの写真が撮れていたわけで、フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できるということではない。これは昭和生まれの人ならたいていは知っていることだ。

古びた写真は、昔の写真の経年劣化だ。退色具合は各色バラバラなので、あのような色あせた写真ができる。もう一つの原因は「ビネット」と呼ばれる四隅が暗くなった写真だ。これはレンズとフィルムスペースが合致しないことで起るのだそうで、スマホカメラではまず起らない現象だ。

この間違った印象に輪をかけたのがインスタグラムなどの写真アプリだ。古びた写真を撮影して「懐かしい感じ」を出すフィルターがいくつも作られており、芸能人発信で広がって行く。すると、カメラの歴史を知らない人たちが「フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できる」と勘違いしてしまうようだ。

このような思い込みが広がった状態で、古ぼけた写真を撮影しようとして普通のフィルムカメラに手を出す人がいる。そして「あれ、レトロの写真が撮影できないぞ」と言って、ラボなどに問い合わせする人がいるらしい。

一方で、デジタルカメラになって確実に変わったところもある。昔のカメラは自分で光の強さを計ってからカメラを設定する必要があった。しかし、最近のデジタルカメラは、センサーが光の具合を感知して設定を決めた上で、自分で絵作りをしてくれる。こうした機能は高級なデジタルカメラだけでなく、スマホカメラにも搭載されているありふれた機能だ。つまり、最近のカメラでは「失敗作」を撮影するのはほぼ不可能になっている。何でもきれいに撮影できてしまうので、失敗作が作れないのだ。