女性が子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うことだ

NHKで保育士が足りないという話をやっていた。実際には資格を持った人は70万人も余っているのだという。にも関わらず、保育士として働いていない人が多い。平均給与が20万円程度しかないので、続けたくても続けられないのだという。気概に燃えて保育士を志しても、現場の課題な要求に燃え尽きてしまうひとも多いということだ。

いろいろ検討してみると、この状態で子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うということである、ということが分かる。

番組を見ているときには深く考えなかったのだが、後になって疑問に思ったことがある。50歳代の人を加えても給与が20万円しかないということは、この人たちが働いていた当初から、保育士の給与は低く抑えられてきたということだ。番組ではこの点には触れず「社会の関心を高めなければならない」というような論調で議論が進んでいた。しかし、社会の関心が高まっても保育士の給与が上がる訳ではない。

昔から平均給与が低かったということは、保育士というのは一生続ける仕事だとは認識されていなかったということになる。お嫁さんになる人の仕事だったのだろう。一般の企業でいうところのOLさんのような位置づけだ。確かに子供が好きそうだから、よいお嫁さんになれそうだ。もしくは、子育てが終ってから仕事に復職するということも考えられる。

こうした現象は統計的に確かめられている。OECDで統計をとると、日本の賃金格差は韓国と並んで高い部類にある。両国で共通するのは女性の就業者がM字カーブを描いているということだ。つまり、女性は補助労働力として位置づけられており、子供を産む時に一度キャリアを中断されるのだ。

この労働慣行が残っている中で、一生「女性向きの仕事」に就くということは、補助労働力に留まる事を意味する。と、同時に子供を産む事を諦めるということになってしまうのだ。男性がこの職に就くという事は世帯主になるのを諦めるということである。

問題の一端は、補助労働力ににも関わらず、かつての男性のように長時間職場に縛り付けられてしまうという点にある。企業や社会はこうして補助労働力に依存する構造になってしまったようだ。

企業は、制度の「いいとこどり」をしているつもりなのだろう。補助労働力に依存しつつ、その補助労働力に過大な負担を追わせている。学生が学業に専念できないという「ブラックバイト」と同根だ。

日本の社会は男性の正社員を、女性の補助労働力が支えるという構造になっている。このバランスが崩れたことが、保育師不足の直接の原因であると考えられる。故に、保育士の問題だけに注目しても、保育師不足は解消されない。

解決策は2つある。かつての終身雇用に戻るか、生産性を向上させて短時間労働の集積でも生産性が落ちないような工夫をするということだ。労働者には、短時間労働でも生活が成り立つような賃金を与えなければならない。

日本のサービス業の労働生産性は低い。これが低い賃金で長時間労働に貼付けられる原因になっている。しかし、日本は製造業依存の期間が長かったので「一生懸命働けばよいものを作れる」と考えるのが一般的だ。しかしながら、サービス産業では一生懸命働いて過剰なサービスをするほど、労働時間だけが伸びて賃金が上がらないことになる。これが日本のサービス産業の生産性を下げているのだ。がんばる方向が真逆なのである。

現在の状況で保育士になるということは、子供を持つ事を諦めるということだ。しかも、保育士の資格を取る為には学校に通って資格を取らなければならない。現在、学生の半数は奨学金(という名前の学生ローン)に頼っているので、借金をして、一生子供を持つ見込みのない仕事につくということになる。これは合理的な選択とはいえない。故に、保育士は減り続けるだろう。

つまり、女性が子供を産むということは、別の女性(つまり保育士)に子供を産ませないということを意味する。あるいは保育士の争奪競争に打ち勝つということで、それは別の母親が働けないということである。男性保育士を女性並に処遇するという事は男性に家庭を作らせないということであり、間接的に夫候補を減らすということだ。

問題の根源は企業文化にあるので、保育師不足は政府の責任ではない。しかしながら、昔風の企業慣行を放置しているという意味では、与党(企業よりの政策を実行)も野党(正社員労働組合に依存)も共同正犯と言えるだろう。

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