日本語は本当に主語を持っているのか

Quoraに「日本語の特徴は何か」という質問があったので、以前考えたことを書いてみた。学校で習った「日本語に主語がある」というのは怪しい学説にすぎないと思っている。もちろん、共感してもらえるかどうかはわからないし、学者に挑戦しようなどという気持ちはないのだが、主語を立ててしまうと説明ができないことがある。

ここで問題にしたいのは日本語の機能ではなく、理性的な物語を作ることで何か本質的なものが見失われている可能性だ。これが見失われると自分のことを他者に説明できなくなる。

最近、Twitterである文章をみてびっくりした。

北朝鮮はアメリカのミサイルで日本が攻撃する

英語で話したりするのでこの違和感に違和感があるのだろうと思う。時々こうした違和感のある日本語にぶつかるのだが「国語が得意」という人には共感されないことが多い。とにかくこれを英語風に直すと、

日本がアメリカのミサイルで北朝鮮攻撃する

となるはずなのだが、何かが失われたと思う人も多いのではないかと感じる。だが、これが「主語のある文章」だ。冒頭の文章をみて違和感を感じる人はいないのだが、主語が二つあると混乱するという人もいない。俳句の夏井いつき先生の言う「読者を信用して情報を削る」という作業ができていない。

例えば、次のように直しても翻訳調で不自然な文章になる。

北朝鮮をアメリカのミサイルで日本が攻撃する

よく日本語が得意な人とぶつかるのがこの点なのだ。「何かバタ臭い」と言われるのだが、何が「バタ臭い」かはわからず、たいていの場合「私が直しておきますから」などと言われてしまう。そして、彼らが書いた文章は確かに「自然な日本語」になっていることが多い。

さて、冒頭の文章は、文法的には

北朝鮮アメリカのミサイルで日本は攻撃する

ということもできる。この場合は明確に北朝鮮が日本を攻撃することになるので明らかに話し手が最初から言おうとしていたこととは違う。いずれにせよ「は」と「が」は違う役割を持っているということがここで初めてわかる。「が」はいつも動作主を示すが「は」はそうとは限らないということである。

日本がアメリカのミサイルで北朝鮮は攻撃する

どうやら「が」は明確に主語を示すようなので、こう直してみる。言わんとしていることはわかるがやはり不自然だ。そもそも最初の文章が言おうとしていたこととは違う上に「北朝鮮は」攻撃するということは、攻撃しない別の国があるのだろうかと思えてしまうからだ。

例えば、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮は攻撃するがシリアは攻撃しないは文章としてかろうじて成り立つが、話し手はこう言いたかったわけではないだろう。

このことから、冒頭の文章が成り立つためには話し手と聞き手が共通のサークルにいる必要がある。つまり、暗黙の前提があり、その前提がある人とだけ話をしているのだ。この文章はTwitterで見つけたのが、多分発信者は「ネトウヨ」なのだろうと思う。政治的な主観を共有する人たちとだけ話が通じるのだが、Twitterにはサヨクの人もいるので、いつもぶつかってしまうのである。

いずれにせよ、日本とアメリカが同盟関係なので「北朝鮮のミサイルが日本を攻撃する」という可能性はあらかじめ排除されている。つまり話し手も聞き手も日本の立場から話していることが明確でありなおかつ日本とアメリカが同盟関係にあるということを知っている。さらに、これまでの<議論>の経緯も明確なので、自動的に攻撃合戦が始まることになる。

みんな日本人だから「北朝鮮は」というよその国が話題として提示されているということがわかる。つまり、日本語の話し手は相手が自分と親しいことを知っているので、取り立てて文法マーカーを使って明示的に構造を提示する必要がない。

他者との情報交換を目的とした言語では、相手が知らないことを前提にして文法マーカーや語順を使う。できるだけ正確な表現を心がけるないと誤解される可能性があるからだ。少なくとも英語にはこの傾向が強い。一方で、共感を前提とする日本語は文法構造の提示は曖昧でも構わないということになる。

この文章は「北朝鮮といえばさあ」と主題としての北朝鮮を提示する必要があり、だからこそ「北朝鮮」が冒頭に来るのではないか。主語はサブジェクトなので「想起しているもの」がサブジェクト(主題)になるのは構わないのだが、動作「攻撃する」のサブジェクトではない。あくまでも話し手の心象が何を意識しているのかということを提示している。つまり、日本語は動作をそれほど問題にせず、代わりに話し手と聞き手の心象を問題にしているようである。

優れた日本語の書き手は常に誰に話しかけていて、その人たちが何を知っているかということを理解している必要があり、逆にコンテクストが違っている人に何かを伝えることはできないのではないかとも思える。異質な人に話しかけるためにはその人たちが何を知らないかということを意識しなければならないからだ。

日本語はその成立過程で英語による文法解析を受け入れた。そのため「主語がなければならない」という英語の前提を受け入れたのではないかと思う。そして、日本語が成立したのは明治維新期である。そして、その過程で日本語は「主題提起言語だ」ということを少なくとも学術的には忘れられてしまったのではないかと思えてしまうのだ。

このことは日本語を話している状態ではわからない。実は主語を提示していないということを知るためには、いったん言語をコンセプトまで戻す必要があるだろう。こんなことをするのは、生得的ではなく(つまりネイティブなバイリンガルではなく)第二言語以降の言語を習得した人だけなのでこれが一般に意識されることはないのだろう。

よく「英語が話せない」という人がいる。「日本語でこれはどういうのかがわからない」というのである。だが、これは実は英語がわからないのではなく、日本語の真の構造が理解できていないのではないかと思える。

だが、いったん英語化した冒頭の文章はかなり複雑だ。コンテクストを共有することを前提に、かなりの情報が折りたたまれているのではないかと思う。

Speaking of North Korea, American missiles will beat it up. Japan does.

北朝鮮といえばアメリカのミサイルが叩き潰す。日本がやる。

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なぜ不安を他人と共有すべきなのか

昨日は安倍首相が社会との間で問題を共有できていないということを書いた。反安倍ネタというのは政治ブログの鉄板になっていて今でも多くのページビューを集める。新聞が反安倍と親安倍に別れる理由がよくわかる。多分、商業上の需要があるのだろう。

読んでもらえるためには有効な手段なのだが「これで良いのか」ということもよく考える。

最近、夜中に犬が鳴くことが増えた。昨年の1月に前庭障害という病気で倒れてしまっい、その後徐々に状況が悪くなっている。動けなくなってしまい、餌も満足に取れない。そこでどうして良いかわからずに鳴くのである。

犬は鳴くのだが人間ができることは少ない。何もしないと「苦しんでいるの煮詰めたすぎるのではないか」と思うのだが、かといって犬のそばにずっといればこちらが倒れてしまいかねない。正解は全くないのだが、なんとかして対処して行かなければならない。

もちろん獣医師に相談することはできるが、獣医師もできることは少ない上に、お金もかかる。どの飼い主さんも大いに悩まれるそうである。つまり、正解はないが、こういう問題で悩んでいる人はたくさんいる。犬の数だけ問題があるわけで、つまり正解がない上に実は割とありふれた問題であるということにも気がつく。

これは犬の話なので割と気軽に話をすることができる。もしこれが人間の話だったらと思ってしまう。例えば、一緒に住んでいる家族とそうでない家族の間に認識の差が出るだろう。一緒に住んでいない人は「もうちょっとちゃんとやれるのではないか」と同居している家族を非難するかもしれないし、逆に同居している方は「じゃあ、お前がやってみろよ」となる可能性もある。これもありふれた話なのだが、家族にとっては初めて直面する正解のない問題である。

最近はこうした問題にも社会が絡んでくる。医療費は税金で支えられているからである。医療がどの程度延命に関わるかという問題には正解がない。そして正解がなく誰でも悩むのだということは、多分その時にならないとわからないのだろう。

社会が大きな負担をする一方で、社会のあり方は変わってきている。かつては家庭や親戚に病気の高齢者がいたのではないかと思うのだが、核家族化が徐々に進行した。全くこうしたことを経験しないままで負担する側に回ることが増えてしまったのである。

だから、長谷川豊さんのように「透析患者は自己責任なのだから云々」という人も出てくる。長谷川さんの発言は暴論だと思う。かといって、管につないでいつまでも生かしておき、その間に医療費を支払い続けることが良いことなのかはわからない。社会の負担が増えるばかりでなく、支える人にも大きな負担になる。

犬の場合には「積極的な治療はしないで、衰弱させるのもあり得るのかな」などと言える。しかし、同じような問題であっても人間には同じことは言えない。いくつかの理由がある。

  • 人の命と人権という漠然とした意識があり問題が複雑になっている。単に費用対効果の問題として語ることが難しい。
  • 経験した人と経験していない人の間の認識に大きな違いがある。
  • 個人によって延命治療を受けたいか受けたくないかということに意見の相違がある上に、その場になってみないと本当のことはわからないという事情がある。
  • 自分の「不幸」を他人に話すべきではないという文化的な態度がある。弱みを見せたくないという気持ちがある人もいるだろうし、自分の問題で社会を煩わせるべきではないと考える人もいるのだろう。
  • 自分の優位性や存在感を示すためにわざと暴論を述べて社会を刺激する人がいる。
  • 個人の問題を語ると「それはお前の問題だから自分でなんとかしろ」と言われるおそれが強い。

そもそも、課題や悩みの共有が難しい上に政治家もシンパシーを持たないという意味では、我々はかなり難しい社会を生きている。その上別の技術的な問題もある。

実際にTwitterでフォローさせていただいている人の中には自分が病気を抱えていたり、病気の家族を抱えている人もいる。中にはベットから動けないがそれをあまり感じさせず趣味の話などをしている人もいるのだが、家族の問題をつぶやき続けている人もいるといった具合だ。家族の問題を共有することには社会的な価値があるのだが、技術的な問題から単なるエンドレスな愚痴にしか聞こえないということがあり得るのである。たいていの場合はそれを当人にとっては重大な問題だが実はありふれているという認識を持てていないことが理由になっているように思える。個人的な悲劇に浸っているように聞こえてしまうのである。

経験を共有する技術を磨くために最初からオリジナルのやり方でうまく情報発信ができるわけはない。だからなんらかのモデルを真似する必要があるだろう。

そこで、昔の人はどうやって共有していたのかなと思うのだが、よく考えてみるとモデルが思い浮かばない。学校がミッションスクールだったので割と日常的にこうした話は聞いていた。多分、キリスト教の教会などでは信者同士で経験と感情の共有しているのではないかと思う。

仏教の法事は家族単位なので他者と悩みを共有することはない。それでも、昔は親戚も多かったので遠い親戚とこうした悩みごとを相談することがあったのかもしれない。こうした行事に参加していれば、後継者問題や親子の不仲などの問題を全く抱えていない家族はいないということがわかる。だが、戦後すぐの世代は「子供達には迷惑をかけたくない」という気持ちが強いらしいく、却ってそれに続く世代が、悩みを共有する機会を奪っている。悩みを学習することを「負担」や「迷惑」と感じてしまうようだ。

このところ「政治の課題」についても考えている。その基礎にはすべての人は問題を抱えており、少なくともその経験を社会で共有すべきだという認識を持っておくべきだと思う。そうでなければ、硬直した物語で問題を糊塗することの問題点は見えてこない。物語は物語にしか過ぎないのだから、問題を解決することも課題を共有することもできないのだ。

いずれにせよ、自分の問題をできるだけ冷静に語るのは難しい。すぐにできるようにはならないと思うのだが、できるだけそうした技術も磨いてゆきたいと思う。

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大竹まことさんの発明と問いかけ

大竹まことさんの長女が大麻所持の疑いで逮捕されたという。こうした身内の不祥事が起きた場合、芸能人の親はたいていの場合には対応を「間違えて」しまい、結局仕事を休まざるをえなくなる。しかしながら、大竹さんの場合はちょっと違っていた。記者たちに「公人とは何か」を問いかけたのである。

この大竹さんの問いを分析すると、日本人が「個人」「責任を取る」「公人」という概念を全く理解していないということがわかる。この記者会見を見たりニュースを聞いたりして違和感を持った人にはわかりきったことなのだとは思うが、もう一度整理してみよう。

大竹さんはまず記者会見をして「自分は公人であるから」という理由で説明をする。しかしながら娘さんは芸能人ではない。そこで芸能リポーターに「本当に聞きたいですか」とか「必要ですか」確認をしていた。芸能リポーターは個人の資格として意思決定をしなければならないのだが、これに答えられる人はいなかった。また後で芸能ニュースを読んでも「非常に難しい問題だ」とお茶を濁すようなものが多かった。このことから、芸能ニュース全般が「不倫や不祥事ネタは売れる」ということはわかっても「何を伝えるべきなのか」という社会的な見識は持ち合わせていないことがわかる。

芸能レポーターは「裏方の人」として責任は取らない。これは意思決定者としては振舞わないということである。しかしながら「私は話してもいいが、最終的に決めるのはあなた方だ」と大竹さんが発言したことでレポーターはちょっとしたパニックに陥った。なぜならば突然個人として指名されて意思決定するように迫られたからである。「裏方の人」にとってはあってはならないことなのだ。

これまで「日本人は個人を徹底的に嫌う」と書いてきた。この場合レポーターは集団で一人の人間を囲んでいる。そうすることによって「みんなが聞いているから私も聞いている」という体裁を取れるからである。レポーターは裏方の人間であり個人として責任を取らなくてもよいと思い込んでいる。その裏にはプロデューサや編集長がおり、さらに向こうには視聴者や読者がいる。このように大勢の人が個人を囲んで吊るし上げるのである。芸能人がここから逃げられないのは、今後もこの村で生きて行かなければならないからなのだろう。

「個人として責任が取れますか」という問いかけは、例えば小室哲哉さんが音楽家廃業に追い込まれた時に彼の生活の面倒を見ることができますかという問いである。つまり、責任を取るためには権限とリソースを持っていなければならない。レポーターはテレビ局や新聞社などから言われてきているだけで何か起きた時の責任を取る権限がない。だから「あなたが決めてください」といわれるとひるむのだ。

この「責任には権限とリソースが必要」というのは実は非常に重要な概念である。「公人」というのはある種の権限を個人から委託された人のことである。国会議員には極めて大きな権限があるのだで、「法律なんて守らなくてもいいや」という人であってはならない。だから、政治家は公人として私生活を監視される。官僚や軍人などもこのような対象になる。執行権限と意思決定に大きな役割がありその権原は個人にある。つまり、個人がなければ権限委譲もなく従って公人もいないということになる。

大竹まことさんは表に出ている人ではあるが社会から権限を委譲されているわけではない。だから実際には公人ではない。にもかかわらず公人と言わなければならなかったのは実は日本人の中に公人について理解していない人が多いからなのだろう。レポーターが公人について理解できないのも当然のことだ。彼らは集団で個人を吊るし上げれば自分たちは透明な存在として結果についてなんら責任を問われることはないと信じている。そもそも公人が何かなどということには興味がないのだろう。

レポーターは会社に言われてきているだけであり、会社は見る人がいるからやっているだけであり、また見ている人は週刊誌が提供しただけだからたまたま手に取っただけであると言える。誰も責任を取らないのだから、大竹さん個人の問いかけがこの無責任な村落共同体を変えることはないだろう。例えばオリコンはわかったように次のように言っている。

 大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし、矢面に立つ一方で、長女については「一般人」とし、今後の生活も見据えて守った。二世が逮捕される度に話題となる“親の責任”はどこまでなのか。結論は難しい。

だが、オリコンがこのような「問い」に興味がないのは明白である。彼らは社会的非難が自分たちに向いた時のために予防線を張っているだけである。

しかし、無責任な村落共同体は現実の暴力として個人に襲いかかってくる。そればかりか「彼が喋らなかったから悪いのだ」と言って、自分たちが気にいる結論が得られるか新しいおもちゃが手に入るまで対象物を嬲(なぶ)り続けることになる。

そこで大竹さんが取った戦略は次の三点だった。これは大竹さんの発明だろう。

  • 個人を浮かび上がらせて相手に責任を委ねる。
  • 自分は相手との間に一切の感情的関わりを持たない。
  • 衆人環視の元で行う。

大竹さんが感情を見せなかったのは過去にビートたけしさんにかけてもらったアドバイスが影響しているのかもしれない。大竹さんは過去に死亡事故を起こしているのだが、この時に「素を見せてはいけない」と言われたそうだ。つまり、ここでの分析と大竹さんの対応の理由は違っている可能性が高い。しかし、大竹さんが意図しているかどうかは別にして効果的なやり方だと言える。

書いていて戦慄を禁じえないのだが、実はこれは家庭内暴力やいじめの被害者たちと同じ構図になっている。これは私たちがこうしたニュースを消費することで加害者になっているということを意味する。

例えばDVの加害者は自分を暴力的な人間だとは思っていない。自分は正義に満ちた思いやりに溢れる人だと信じている。だから彼らは「妻が口ごたえをした」などと言って妻を殴る。ここで妻が心理的なつながりを一切絶ってしまえば少なくとも夫には妻を殴る理由はなくなる。代わりに「あなた、私を叩きますか、私は逃げませんけどね」などと言えばどうなるだろうか。それでも夫は妻を「目つきが気に入らない」といって叩くかもしれない。では、これをみんなが見ている前で宣言したらどうなるか。

夫は「夫婦共同体の立派な指導者」ではなく、個人として暴力的な加害者であるという事実に直面せざるをえなくなるだろう。

大竹さんがどうやってこの「やり方」を思いついたのかはわからないが、これは集団暴力の被害者にとって、もしかすると唯一の選択肢なのかもしれない。

多分「人を叩く」ということには社会的報酬があると思う。ある意味では麻薬中毒に近い状態になっており止めるのは容易ではないのだろう。しかも日本人は集団の問題を偽装することによって個人として快感を得ようとしている。

悲しい話なのだが全ての人と分かり合えるとは限らない。いったん「あなたを叩いても構わない」とか「騙してもいい」考えるようになった人はもうあなたにとっては「交渉可能な人間ではない」と考えたほうが良いだろう。

交渉可能ではないのだから切り離すしかない。再び優しくなるかもしれないが、それは集団が成立しているということを確認した上で新しい麻薬を手に入れるための取引の試みでしかない。

それでも大竹さんはこの村で生きて行かなければならない。そこで「抵抗せず、感情も動かさない」ことにしたのではないだろうかと思える。これから家族の問題に直面しなければならないことを考えると苦渋の決断だったのではないだろうか。

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どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

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