ドラマの消失と炎上

夜、寝られずにフジテレビのドラマ「キャリア」を見た。途中までは普通のドラマだったのだが、最後の最後で主役の玉木宏に不自然な光が当たった。どうやら問題を揉み消そうとする「巨悪」であるところの国会議員とその息子を成敗する金さんという図式が作りたかったらしい。

後日、自転車に乗っているときにふと「あれは痛快スカッとジャパンだったんだ」と思った。その時に考えたのは、フジテレビってもはやドラマを作れなくなってしまったんだなあということだった。その時に思いついたのが「内省」の消滅というワードだ。日本人は自らを振り返って変化する力を失いつつあるのではないかと思った。

「痛快スカッとジャパン」はドラマではない。ドラマを見ている人をみるという複雑な構成になっている。なぜ、普通にドラマをみることができないのだろうかといつも思っていた。それはドラマの主人公や悪役に自らを重ね合わせることができないからというのが一応の答えになる。つまり、ドラマを傍観者の視点で見ているわけだ。

ではなぜ傍観者の視点で見たがるのかという点が問題になる。当事者であることにストレスを感じているというとになるだろう。これがバラエティ番組の肝だ。日本のバラエティ番組の基本構造はいじめだ。強いものが弱いものを叩いたりいじったりするのを傍観者の視点で眺めるのがバラティである。なぜそれが楽しいのかというと、自分は背後にいて「外れていない」ことを確認できるからである。

「炎上」のところでも考察したのだが、日本人は自分の言動や態度について表立って責任を取ることを極端に嫌がり、あくまでも「コロス」の役割を好んでいる。逆に強いリーダーも作らずに「空気」を醸成する。「痛快スカッとジャパン」はその延長になっており、悪役であるイヤミ課長を「誰かが成敗してくれるのを見る」のが一番心地いい立ち位置なのだが、ドラマを見ただけではそれがどのような意味を持っているかということはわからない。そこで視聴者の代表が「評価」することが求められるのだ。

つまり「痛快スカッとジャパン」は徹底的に当事者意識を隠蔽しているのである。

ドラマの本来の機能は主人公に自分を重ね合わせることにある。例えば、NHKの朝ドラに人気があるのは、主人公の女の生き方が自分と重なる時期が必ず一回は訪れるからだし、真田丸が人気なのは「何もなしえなかった不遇な主人公」が最後に「命を燃やす意味」を見つけるからだ。主役に憧れたり、乗り越えられなかった苦難を体験することでカタルシスを得るというのがドラマの基本構造と言える。

内省は必ず変化を生み出す。つまり、内省は人が変わるきっかけを作る。

制作者の意図は不明だがもし「キャリア」が数字を求めてバラエティ化していると考えると、それはドラマの自殺だということになる。バアラエティ番組はドラマの機能そのものを破壊することによって成立しているので、どんなに「かっこいい主人公」を持ってきても全く意味がないからである。できるとしたら、北町署をメタドラマ化して外から楽しむ人を追加するということくらいだろう。

今回は「内省」を軸にいろいろなことが結びついているのだが、書くことは癒しになるのかという問題を考えたことも思い返した。池田信夫や長谷川豊が「他人を攻撃する」ことを選んだのは内省を失っているからである。逆に小林麻央さんのブログに人気があるのは「がん」という変えられない現実があり、自分が「がん患者なのか母親なのか」という内省を通じて現実が持つ意味合いを変えようとしているからなのだろう。つまり、内省が人を感動するという基本路線は失われていないが、需要は低下しているということになる。

炎上が増えているのは「内省」が失われているからだ。状況を変えるためには2つのルートがある。一つは自分を変えることであり、もう一つは他人を変えることだ。炎上は他人を変えるためのとても極端な手法である。「自分は変わらない」と考える人が増えているからこそ、手を汚さずに他人を変えたいという人が増えるのである。

ドラマが成立するためには、区切られた時間と空間が必要である。これが容易に得られないのだろうと思う。したがって自らを省みる時間を得られず、かといって当事者にもなりたくないので、ネットで他人を攻撃することを選ぶという図式があるのかもしれない。

長谷川秀夫氏はなぜ過労死を肯定するような発言ができたのか

前回の長谷川秀夫氏の記事は多くの人々に読まれた。ネットの反応を見ていると「今は時代が違うから老害は引っ込んでいろ」というようなトーンが目立つ。

この発言を理解するためには、この人がどのようなバックグラウンドを持っていたのかを知る必要がある。東芝の出身だそうだが、東芝の労働環境は悪く「東芝の労働事件」というwikipediaの専用ページまでができている。ページは次のような記述で始まる。

1960年社長となった土光敏夫は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」と宣言し、労働運動への締め付けを強めた。

土光敏夫氏はのちに行革に取り組み「質素な生活」で有名になった。土光さんといえばメザシで有名だ。だが「自分も頑張るから」という姿勢は後継者には受け継がれなかった。

東芝は長時間労働で知られていたことは間違いがない。土光氏が社長をしていた時には社員への還元があったのかもしれないが、Wikipediaにまとめられているような労働事件が2000年以降に頻発することになった。

東芝では長時間労働と弱い労働組合は「過去の成功事例」として捉えられていたようだ。経営転換に失敗した結果を労働者の長時間労働と会計操作で隠蔽するような会社になってしまったわけである。

このようなひどい会社は社会的に制裁されても当然のように思える。しかし、実際には東芝は淘汰されなかった。東芝は政府と国策に追随することで生き残りができたからだ。原子力発電事業や電力インフラ事業などが中核になっていた。

その結果起きたこともよく知られている。業績をあげるために無理なスケジュールが横行した。先には「同じ職場で2名の自殺者が出た」とあるが、スケジュールは改められなかった。さらに派閥同士で数字をよく見せる必要があり、会計操作までが行われるようになり、最終的に「特設注意銘柄」に指定されるまでになった。これは、上場廃止の一歩手前の状態だそうだ。しかし、責任を取ったのは経営者ではなく従業員だった。大規模なリストラが行われたのだ。

このように東芝は過去の成功事例から抜け出せずに徐々に倫理的な感覚を失っていった。ここから得られる教訓は「他人に生き血を啜(すす)られるなら啜る人になれ」ということだ。しかし、政府の庇護もありそれが修正されることはなかった。最終的に上場廃止寸前まで追い込まれた(もう少し規模の小さい会社であれば上場廃止されていただろう)のだ。

つまり、啜られる側の人間は最後まで啜られる側であり、一生懸命働く人が報われるというように<正義>が勝つことはないのだ。

これは失敗する組織の典型的なパターンを持っている。戦前のお陸軍は現場の突発的な判断から戦争に突入したが、明確な作戦を立てられず、派閥争いに発展する。そのために取った作戦は現場の兵士を捨石にして戦線を維持するというものだった。参謀本部には現場のことが見えていなかったわけである。かといって現場の兵士が報われることはなかった。栄誉といえばせいぜい、靖国神社に祀られるくらいのものだが、これも「参謀も現場の兵士もいっしょくたに祀られる」ことになってしまった。

東芝の事例は明らかな経営の失敗だが、当事者たちはそうは思っていないというのが今回の話の一番残酷なところである。こうした人たちが成功事例ということになり教育現場に入って「他人の生き血を啜る側の人間になれ」という人材を再生産しているのかもしれない。

「他人を搾取する側」だった長谷川氏としては、教え子と周囲の人に「100時間で死にやがって情けない」と漏らすのは自然なことだったのだろう。彼らにとって労働時間とは単なる数字であって、途中で脱落してはいけないのである。あるいは脱落を前提にして「歩留まり率(※ここでいう歩留まりとは職場の精神疾患や自殺者の数だ)」を<管理>するくらいのことは考えかねないのではないだろうか。

一人の人が大衆的な暴力で嬲(なぶ)られるというのは、非人道的に見える。しかし、そうでもしないと「これがいけないことだ」という認識が定着しないのだと考えると、とてもやりきれない気分になる。

 

 

 

長谷川秀夫氏に反論する

電通の新卒社員が過労死した問題で武蔵野大学の長谷川秀夫氏が次のように書いて炎上した。なんとなく社会圧力で発言を撤回させた形になっているが、何が間違っているかを説明できない人も多いのではないだろうか。

長谷川氏は「プロとして請け負った仕事を完遂させなくてどうする」といっている。だが、これは裁量という側面を無視している。

人が感じるストレスは裁量がどの程度あるかどうかによって変わってくる。裁量がある場合(特に顕著なのは自分で起業した場合などだ)に感じるストレスは、群れの最下層で意味合いを感じられない仕事をさせられるのと全く異なっている。これについては研究結果が出ている。

多くの公務員を数十年にわたって追跡した結果、40〜64歳の年齢層において、階層の最下段にいる公務員は、トップにいる人々と比べて死亡率が4倍にのぼることが明らかになった。

こうした研究が多いのはイギリスが階級社会だからかもしれない。だから、高橋さんが従事していた仕事に対してどの程度の納得感があったのかということが問題になる。その上、ツイートの分析からわかるのは、高橋さんが年次というピラミッドの最下層にいたという事実である。その上女性だったということも群れでの地位に影響していたようだ。裁量が全くない上に意味のわからない仕事をさせられており、逃げ場もなかったかもしれないことが問題になっている。

例えていえば人間ピラミッドを最下層で支えていたということになる。上にいる人たちより圧倒的にストレスが高いのだ。「電通の社員なのだから最下層とはいえないのでは」という反論が予想される。たしかにその通りで、このストレステストに合格した人たちは下請けの人たちをいじめる側に回る。同じことをさらに弱い人たちにするようになるのだ。

もう一つは高橋さんが置かれていた経済的な階層だ。あまり、言いたくはないが、同じ東京大学でもいくつかの階層があるはずだ。一つはお金に恵まれていて卒業時に借金を背負っていない階層の人である。次の階層は経済的な自由はないが借金を背負っていない人たちである。最後の階層は経済的な自由もなく、かつ謝金を背負っている人だ。もちろんここでいう借金とは奨学金のことだ。

確かに東大卒で電通出身ということであれば引く手数多だったかもしれないが、それは3年以上いてなんらかの実績をあげていることが前提になる。群れの最下層であるということは、実績も上げられないということであり、したがって電通から出ることはできなかったはずなのである。このようにして搾取される人は才能があっても努力し続けても搾取され続けることになる。

ということで、これは格差問題なのだということがわかる。あとはなぜ格差問題が悪いかということを議論すればよい。この格差の大半は「どの家庭にどの性で生まれたか」ということで生じているようだ。本来ならば生産性の高い分野に割り当てられるべき人たちがボロ雑巾のように使い捨てれていることが問題なのだ。

多くの人はまじめに努力したりしない。最低限の作業だけをこなし疲弊しないように体力を温存する。「国力」というものはこうして衰退してゆくものなのだろう。

これを見て高齢者は「最近の若者は覇気がない」と檄を飛ばす。そもそも若者に支えてもらえないと生きられない上に、自分たちはうまくやって勝ち抜けてきたという気分があるからではないかと考えられる。

変革の機会を失った電通と大学生の格差

電通の過労死問題で感じたのは東大の中にある格差だ。余裕のある家庭で育っていれば海外留学でもして、正当に評価してもらえる会社を探すこともできたかもしれない。外資に入った友達もいるはずで、どのように評価されるかわかるからだ。

報道によると高橋まつりさんは、一生懸命母を楽にさせてあげようと勉強して東大に入り、外の世界を知らないまま、使い捨てられてしまったことになる。最初から人的ネットワークが違っていたのだろう。この国が置かれている極めて残酷な事実だ。高橋さんが電通に入ったのはそれが「確実に親を楽にさせられる」企業だったからだろう。つまり、お金がなければ才能があってもブラック企業に使い捨てられてしまう運命から逃れることはできないのだ。

一方、電通の対応は見事だった。過労死問題ではTwitterを制限せず、ガス抜きをさせた。一方、テレビでは全く取り上げなかったので、騒ぎは1日で収まった。炎上が起こるのは初動でなんらかの対応をしてしまうからだ。

電通はネットでガス抜きさせてテレビ局に報道させないという作戦なのだなあとおもったのが、対応を間違えたようだ。フジテレビは高橋さんのTwitterを取り上げて「電通問題」を取り上げた。その後Twitterのアカウントが閉鎖させられていることが判明し「電通の圧力なのでは」と噂されることになった。

何もしなければ騒ぎは1日持たなかっただろうが、これによって騒ぎが大きくなるかもしれない。隠せば隠すほど広がってゆくのがネットだからである。

このことから電通は自己改革の意欲を持っていないことがわかる。この案件は世間で思われているような「人手が足りずに忙しすぎて起きた」事例ではなさすだ。成果が上がらない案件に優秀な人材を貼り付けた挙句に追い詰めて殺してしまったのだ。多分1日が36時間あれば、34時間程度働いていたはずである。同時期に数字を改ざんしてクライアントに報告するというようなことが起きており、電通のネット広告事業がインパール作戦化していたのは間違いがない。

しかし、ここで作戦をやめれば「負け」が確定してしまう。出口のない作戦なのだが、それを口にすることは許されない。そこで優秀な若者を犠牲にして乗り切ろうとした。戦前の陸軍と同じ構造である。

陸軍との一番の違いは敵がいないという点だ。日本陸軍の暴走を止めたのはアメリカだったが、電通を止めるGHQはいない。

今は消えてしまった高橋さんのツイートからわかるように、電通は多様性を排除している。年功性が幅を利かせていたようだが、多様なバックグラウンドを持った人は電通にはいつかないだろう。これは優秀な外国人だけでなく、留学経験のある学生などを含む。外資系では優秀な若者には破格の給料を支払う。移り変わりの激しいITマーケィングの業界に特攻志願する若者はいないだろう。

長年染み付いた慣行を中から崩すのは難しい。そこで外からの刺激が必要になる。だがそれは期待できそうにない。電通は人材には困らないが、犠牲になるのは多分、一生懸命勉強したが故に周りを見る機会がなかったような学生だろう。

電通過労死問題 – 何が問題なのか

電通に新卒で入った女性、高橋まつりさん(Twitterアカウントはこちら)が自殺した。東京大学卒業だったそうである。Twitterのアカウントが残っていて、徐々に追い詰められてゆく様子がわかる。世間の反応は概ね女性に同情的で、電通や残業100時間くらいで死ぬような労働者はいらないといった大学教授などへ避難の声があがっている。

電通の過労死事件は、一般的に人手不足による過労死問題と考えられているようだが、これは診立てが違っているのではないか。彼女のTwitterを見ると、仕事はなんらかの資料作りだったようだ。詳しい説明はないが、クライアントへの「ご説明資料」と次の打ち手対策ではないか。

ちょうどインターネット広告の成果をごまかして報告していた時期と部署がダブって見える。すると、成果が出ないキャンペーンについて「次こそなんとかなるように読める資料」を作らされていた可能性もある。

もちろん、成果が出る残業ならある程度は正当化も可能かもしれないが、最初からこれは「インパール作戦」だった疑いもある。作戦自体が無謀ではいくら時間をかけても「満足がゆく」アウトプットは作れない。目の前で崩れてゆく石塔を延々と積み上げるような作業になるだろう。

生産性の向上に寄与する優秀な人材を雇用して使い捨てていたというとになれば、特攻部員のような意味合いが出てくる。成功の見込みがない作戦に優秀なメンバーを使い捨て覚悟で「動員」する。撤退してしまえば敗戦だが、戦線を維持しているうちは失敗は問われない。

広告代理店の企業文化はさておき、クライアント企業の予算が先細る中、成果の出ない特攻作戦にリソースをつぎ込み続けるのは背任に近いのではないだろうか。対価を支払うのは結局消費者なのだ。

電通の基本モデルはテレビ局などの広告枠を買い占めてそれをナショナルブランドに売りさばくことだった。規模の経済で市場を独占していたわけだ。しかし、不況が長引き、企業は結果を求めるようになった。結果とは数字である。企業の広告の担当者は、上層部に責任を問われる。そこで資料が必要になるのだ。

電通はそのような資料を作らせるために東大生を使っていたことになる。東大生なので地頭(嫌な言葉だが)は悪くなかったはずだし、要領も悪くないだろう。その彼女が(もしくは彼女の陰にいる人たちも)解けない問題を解かされていたことになる。正解がないから上司も指導ができなかったのだろう。その結果が「土日や朝方までの」残業なのではないだろうか。

つまり、この残業は世間一般の人たちが考えるような「人手が足りないゆえの」残業ではなさそうだ。初めから無理なことをやらされているから、時間当たりの生産性が下がるわけである。しかも、それを極めて生産性の向上につながりそうな人材にやらせていたのだ。

インターネットにせよITにせよ生産性をあげるための道具だと考えられている。しかし、日本の企業は優秀な人を使っても生産性はあげられない。そればかりか、文字どおりに使い潰してしまった。つまり、日本の大企業は優秀な人材を使う能力を失っているということになる。

そればかりか周りには女性であることを理由に近寄っていた人もいたようだ。電通は新しい技術について行けないばかりではなく、人権感覚まで失っていたことになる。年次にもこだわっていたようだ。優秀な女性は外国人社員はこのような会社を就職先には選ばないだろう。このようにして日本の企業はガラパゴス化してゆく。

このことが示すメッセージは簡単だ。もし本当に優秀なら電通のような企業には行かないことだ。この過労死した新卒社員の専門が何だったのかはわからないが「クライアントの説得学」という生産性には何も関係がない学問であったとは考えにくいし、仮に生き残っていたとしても、全く使い物にならない技術を身につけるだけである。世界的な潮流からは取り残されてしまうだろう。

このことを考え合わせると、炎上しかけている長谷川某という教授の思慮のなさがわかる。分析すべきは企業の競争力の低下だ。例えば第二次世界大戦の戦況を分析するのに、兵站もないままで餓死しかけている現場の兵士に「もっと頑張るべきだ」といったところで、状況はなにも改善しない。

こういう人たちが寄ってたかって日本をダメにしているのである。

炎上を誘う心理学

日本人は公というものに関心を持たなかった。しかし自分の利益にかかわる集団には並々ならぬ関心を持っている。そこで自分の利得が揺るがないように社会を監視し、代わりに参加料を支払うというのが一般的だった。あからさまに強いリーダーがでることはなく、表向きは平等な社会を形成した。

しかし、社会が縮小を始めると、すべての人に利益を分配できなくなる。そこで本音と建前を分離して、利益から人を排除する動きが出てきた。ルールは一部の人たちにとって都合が良いように組み立てられた。しかし、表向きには誰もが反対できないルールが採用される。これが建前だ。

例えば安保法制は軍事費の削減をしたがっているアメリカの肩代わりをし、さらに軍事費を利権化したいという本音のもとに組み立てられている。しかし、建前として「石油を安心に運び、半透から逃れてくる日本人のお母さんと子供を守るため」という理屈が使われた。本音と建前の分離はあからさまだったが、それを押し通したのだっった。一方で野党側はなんとかして与党を否定したかった。そこで平和な国日本を守れという建前が使われた。

一方で子育てや介護のような事業には投資されない。それは政治家の懐を潤さないからだ。建前上は「介護離職をなくす」ということになっているが、本音は「お前らが頑張ってしのげよ」ということでしかない。未来に投資しないのは稲籾を食べているようなものなのだが「大衆に分けていると自分の分がなくなる」という危機感が本音としてあるのだろう。

政党助成金などの制度は、小規模政党を潰すために設計されたが、表向きは「お金のかからない選挙を実現すること」が目的になっている。実際には幾つもの穴があり、例えば金額の記載のない領収書も認められており「自由な会計操作」が可能だ。

この本音と建前の分離を突き崩すことは難しい。ほとんどの人がそれに依存しているからである。多くの人たちは意思決定から排除され、理不尽な建前に苦しめられることになる。誰もが「こうしればよくなるのに」とわかっていたとしても、そのようには動かない。日本社会は建前の奴隷になっている。

ところが、誰も自分が奴隷になっているとは考えたくない。一方で、多くの人が建前を利用すれば世の中は簡単に動くということを学習しつつある。近年ではインターネットを通じて匿名の人たちがリスクを冒すことなく世論を形成することができる。これを利用して人や会社を破壊するのが「炎上」である。

一方で炎上がなければ解決できない問題もある。炎上は個人では社会を動かせない人たちが羊として狩られないぞ、自分たちこそ主人だぞと主張する最後の手段になっている。

痴呆が進みつつある老人に過剰な保守契約を押し付けたPCデポの問題は道義的にはひどい話なのだが商業契約としては成立している。日経新聞などはこれを新世代の旗手としてもてはやしさえしていた。これが見過ごされてしまうと、PCデポは儲けることができるし、クライアントは泣き寝入りである。かといって政治は何もしてくれない。これが炎上しなければ、消費者は弱者として搾取されるだけの存在になっていただろう。

こうした問題が起きた時、政治がリーダーシップを発揮して商法を見直そうという機運はない。リーダーシップのなさのために炎上だけが抵抗の手段になっていると考えることができる。

一般的には何かを考えることと行動を起こすことの間には大きなギャップがある。しかしながら、いつも「何かが動かない」という苛立ちを持っていると、行動が後押しされる。社会正義の実現に参加したと考えられるからだろう。加えて「自分が動いただけでは大事にはならないだろう」という気分も動機付けになり得るかもしれない。さらに多くの人が公に興味がないにもかかわらず、社会問題に関心を持ち始めている。社会問題に関する情報が飛び交っているからだ。

皮肉なことに、Twitterを社会化したのは政治家だった。インターネット上での政治運動が盛んになり、政治家が参加するようになってから、一気に「堅苦しい」メディアになった。潜在的な不満が蓄積している上に、半匿名だったことで、気軽に社会問題が論じられるようになった。

炎上の「本音」は何かを破壊することだ。縮小する社会は椅子取りゲーム状態なので、誰かを沈めれば自分が沈められる可能性が低くなるように感じられるのである。しかし、あくまでも強調されるのは建前だ。法律に触れているとか、道徳的に如何なものかとかそのような理由付けがされる。

長谷川豊氏の追い落としに使われたのは「かわいそうな人を侮蔑すべきではない」という建前だったが、それがどれほど本質的な理由づけだったかは疑問だ。豊洲問題の動機は「利権を得た人を罰したい」という感情だろうが、表向きは「組織ガバナンスと安全・安心」の問題ということになっている。

もう一つの理由は創造にはリーダーシップが必要だからだろう。コアのない活動は破壊しかできないのだ。

この炎上の興味深い点は炎上が明確な中心やリーダーを持たないところである。日本人はどのような場合でも強いリーダーシップを嫌う。一方で、中心を持たない組織は暴徒化する。もともと日本人が中空の権力構造を発明したのはこのことを知っていたからだろう。リーダーは起きたくないが中心のない組織は暴走する。日本社会はそれを一から学び直ししつつあることになる。

集団の暴動は多くの先進国で見られるありふれた現象だが、日本が違っているのは表向きはおとなしい人がネットなどの匿名の世界で凶暴な素顔を見せるという点である。日本人は表向きには「社会問題にかかわるべきではない」という了解があるからだろう。これが市民が権力を担うという社会的合意のある共和制国家と違っている点だ。皮肉なことに「表立っては社会参加しない」ということが、無責任な炎上を助長している。

壊れた電話ボックス・社会正義の暴走・公共

家の近所で電話ボックスが壊れていた。この壊れた電話ボックスからいろいろなことを考えた。キーワードだけ拾うと、日本人と公共、自民党の憲法改正案、社会正義の暴走、そして衰退してゆく国の姿などだ。タイトルにするなら自民党の憲法改正案かなあと思う。本文を読まずに「いいね」してくる人がいるかもしれない。

家の近所で電話ボックスが壊れていた。ブルーシートがかかっており、ガラスが散乱したままで2週間ほど放置されていた。事故にあったようだ。危ないのでNTT に電話したところすぐに回収されたようだ。ところがガラス片は道路に散乱したままだった。

そこでNTTに再度電話した。しかし、このままでは解決しないなあと思ったので今度は「警察に行きます」と言ってみた。相手は慌てた様子だった。「警察沙汰」という言葉には無言のプレッシャーがある。加えて「安心・安全」というキーワードを織り交ぜてみた。最近よく聞く言葉で、自然に口から出たように思う。

結局、これを交番に引き取ってもらった。単に危ないとは言わなかった。「この手の人たち」にいうことを聞いてもらうためには、許認可責任とか、管理責任という言葉を使うとよい。単なる建前なのだが、公職の人たちにはこういう言葉が「効く」のだ。ちなみにテレビ局の人たちに「効く」のはスポンサーを脅かすことである。

「地域の安全・安心を損なっている上に、事故が起きてたら、知りながら放置したことになりますよね」と仄めかしてみた。女性の警察官はピンときていなかったようだが、男性警官は何を言っているのかわかったようだ。裏には「何かあったらあんたたちには責任取れないだろ」という恫喝めいた含みがある、割と暴力的な言葉なのだ。

自民党憲法草案の重大な問題

まず考えたのが「公共」についてだった。地域の人たちは(警官も含めて)地域の危険というものに対してそれほどの責任感を持っていないことがよく分かる。これは電話ボックスが大きな通りに設置してあるということが関係している。小さな通りであれば自治会が騒いでいたかもしれない。「自分たちの縄張り」にあるものには関心が向くのだ。

一方で「公共」にあるものは、お上がなんとかしてくれるだろうという意識を持つのが日本人なのである。日本人は公共に対して受動的な意識を持っている。クラスで先生の話を聞くようなもので、受動的に言われたことだけを儀礼的にこなすのが日本人としての正しい姿なのだ。

この「私に関係があるか」ということは集団主義の社会では割と明白に区別されている。

そこでいつも思うのは自民党の憲法草案である。憲法で国民に訓示を与えて、国というものを明確に意識させることになっている。「本来の正しい日本人は国に忠義を尽くす」というような説明がされるのだが、実際の日本人は国や地域というものに何の関心も持たない。自民党が国や家族というものにことさら関心を寄せ、国民に訓示を垂れたいと思うのは、実は日本人が公共に対して関心を寄せないことの裏返しなのであり、GHQの陰謀ではない。

そして、この手の人たちが国にことさらの関心を寄せるのは「国を私物化できる」という確信があるからだ。それは「公」とは対極にある国家観だ。

正義の暴走

さて、次の考えたのは「正義の暴走」についてだ。最初は自転車で走っていて「ああ、危ないなあ」と思っただけなのだが、きっちり処理されないということに腹が立ち交番に行った。つまり「なんで俺の言うことが聞けないんだ」という苛立ちがある。つまり「こうあるべきだ」という姿があり、それに従わないNTTに腹を立てていたことになる。時間を作って電話までしており、問題にコミットしてしまっている。すると問題が解決するまで「気になってしまう」のだ。

しかし、なんらかの理由でNTTは動かない。そこで出てくるのが「安全・安心」という最近よく聞くキーワードだ。安全はリスクを含んで計算される概念だが、安心は主観的で感情的な言葉だ。つまり、いくら危険が除去されたとしても、その人が「安心だ」と思わなければ、安心は実現できない。「安心・安全」が強調されるのは潜在的な危険をいつも感じているからだろう。そして「NTTは地域の安心を脅かしている」ということは、日本では重大な問題になり得るが、それを除去するコストは考慮されていない。一度脅威を感じてしまうと「それが気になって仕方がなくなる」からである。

ネットで様々な騒ぎの原因「正義の暴走」によるものである。今回の場合は交番で名前と電話番号を聞かれているので匿名というわけには行かなかった。それでも「モンスター化する気持ちもわかるなあ」という実感を持った。自分の主張が通って人が動くというのはそれなりの快感を伴う。しかも、ネットではこれが匿名できてしまうので、自分の考える正義を思う存分暴走させることができるわけだ。

正義はなぜ暴走するのか

正義が暴走するためには、動かない問題があるという前提がある。この場合はガラス片を放置していたNTTが悪ということになるだろう。逆に言えば「悪」がなければ正義の暴走はありえない。

もう一つの構成要素は「建前」の問題だ。この場合「管理責任」というタームだ。警察は危険を知っていながら放置してはいけない建前で、NTTは地域に貢献する会社であるべきだというのが建前になる。

正義の実現は難しいが、建前に沿って物事を動かすのは実は簡単だ。これがわかると物事がスムーズに動き、そこに快感が生まれてしまうということになる。

例えば、長谷川豊氏が仕事を失った時「企業に苦情を言えばよい」ということになった。目的は長谷川氏を困らせることだが、体裁としては「社会正義」を使ったのだ。みんな「組織は問題解決しないが建前の保持にはことさら気を使う」ということをみんなが知っているのだ。これが暴走を生み出すのである。

問題は一向に解決しないのに、フォーマットに乗ってしまうと社会は容易に動く。これが「暴走するネットの社会正義」を作るメカニズムである。豊洲の問題でも同じような構図が見られる。ここでは「安全・安心」が使われているが、実際には右往左往する人を見て楽しむという側面があることは間違いがない。つまり、コミュニティに対して影響を与えたいという社会的な動機があるのだ。

衰退する日本

さて、NTTが電話ボックスを放置したのは、人手が圧倒的に足りなかったからのようだ。つまり、放置せざるをえなかったのである。放置しているうちに「まあいいや」ということになってしまったのかもしれない。

誰が処理をしたのかはわからないが、受託業者だったのではないかと思う。言われたことさえできれば「あとはどうなっても関係がない」という人たちだ。逆にいうと無駄に気を遣ってもお金にならない。このせいで危険が放置されるのだ。

結局ガラスの後片付けをした人は、地域を担当する苦情処理係だったようだ。電話はまず複数県を管轄する故障窓口につながる。そこから地域の係に連絡が行くようだ。この人は盛んに謝っていたが「お客様から連絡がないと動きようがない」と言っていた。確かに故障の発見はできないと思うのだが、故障した電話ボックスがあることはわかっていたはずだ。しかし、状態を内部で把握している様子はなかった。中の人たちは情報を共有する仕組みがないようだ。

日本人は公共心を持たないが、チームで問題を解決するという気持ちもない。たいていの問題は逃げ遅れた個人が背負うことになる「自己責任責任社会」である。豊洲でも見られた「情報を共有しない」組織が、問題解決を難しくしている。かといって、その人に情報を分けてあげようという気持ちも働かないのだ。そもそも公共心がない上に、情報共有しても自分の得にならないからだ。

では、なぜNTTは公衆電話の保守をそれほどないがしろにするのだろうか。実は公衆電話事業は1995年以降赤字が続いているようだ。携帯電話が普及したせいなのだろう。それでもNTTが公衆電話を止められないのは法律で「一定間隔で電話を置くように」と決められているからだそうだ。赤字の原因は散らばって設置されている電話機の保守整備費用だ。

公衆電話は災害に強いという特性があるので「いざとなった時に困るかもしれない」と言われるとなんとなく廃止しづらい。「いざというときのため」にはお金をかける必要があるわけだが「それは公がなんとかしてくれるだろう」と考えているのかもしれない。しかし、実際には誰かがいやいやこなしている。

このような気持ちでいると「自分も社会正義のために誰かを動かしてみたい」という気持ちになるのかもしれない。これが結果的に次の社会正義の暴走を生むのだ。

デフレが進行したのはIT技術の発達が原因かもしれない

前回はパルコがなくなるのを見て「日本のファッションは砂漠化している」などと嘆いてみたのだが、実際にはもっと大きな変化が起きているようだ。いくつか見てみたいポイントはあるのだが、一番注目すべき点は、日本の流通が実は大胆に合理化されているというちょっと意外な事実である。

一般に、日本のサービス産業や流通はIT化が遅れており生産性の向上も進んでいないと考えられている。確かに産業という側面から分析するとそうなるのだが、消費者を加えると全く異なった実態が見える。

日本のアパレル産業の市場消化率は50%弱なのだそうだ。残業して一生懸命作った服の50%は売れ残ることになる。売れ残った服は中古市場に流れる。ほどいて毛布などの原料にする、機会を拭くウェスとして利用する、東南アジアに輸出するというのが主な処理方法になるそうで、これを専門に取り扱う業者もある。燃やされているものもあるはずだが統計には出てこない。

一方、急速に中古市場が立ち上がりつある。実際に中古ショップを見てみると「未使用品」が売られていたりする。寂れたファッションビルが「売れ筋」と考えられる画一的な商品に高い値札を付けている一方で、ユースドショップに豊富なデザインが色柄が安い価格で売られていることも珍しくない。

だが、新古品の出先はリユースショップだけではないようだ。アプリを使ったオークションサイトなどが複数立ち上がっている。総合通販サイトも中古品を扱っている。さらにファッション通販サイトも中高品を扱うようになった。

同じような状態は中古車市場にも見られる。軽自動車が過剰生産され新古品市場が発達しつつある。実質的な値下がりが起きているのである。

つまり、アパレル専業の会社や自動車業界が市場を読まずに産業ゴミを量産する一方で、消費者はIT技術を駆使して自分が欲しいものを探しているという実態が見えてくる。

これが顕在化しないのは政府統計が古い概念のもとで組み立てられているからではないかと考えられる。いろいろな人が推計を出しているが「どれくらい中古化」が進んでいるかということはよくわかっていないようである。「もはやデフレではない」という統計も新品だけを対象にしているはずだ。小売物価統計調査の概要の説明には次のようになっている。

調査店舗で実際に販売する平常の価格を調査する。ただし,特売期間が7日以内の安 売り価格,月賦販売などの価格及び中古品などの価格は調査しない。 

一方、産業界には「新品が売れなくなった」という認識はあるようで、日経新聞までが中古市場に関する記事を書いている。

アパレル業がいびつになってしまった原因はいくつかありそうだ。アパレルは中小業者が多い。さらに、毎年流行が入れ替わり去年の服は今年は着られないという刷り込みがある。さらに、情報産業(ファッション雑誌など)が盛んに消費者を教育するので、ファッション好きの消費者は豊富な知識を持っている。彼らはITに対するスキルも業者より多く持っている。

女性に対して調査したところクローゼットの7割は着ない服だったという統計もある。ほとんどの人は着なくなった服を単に捨ててしまうのだそうだ。アパレル商品の半数が売れないという統計も考え合わせると、日本で作られた洋服のほとんどが捨てられており、実際に使われるのは定番の商品のみということになる。定番品だけしか売れなくなるのもよく分かる。結局、それ以外はゴミになってしまうのだから、最初から買う必要はないのだ。

一方で、生産性の低下についてはあまり嘆く必要がないという気もしてきた。供給側が過剰生産に陥っている原因は、ITへの支出を怠り、市場で何が起こっているかを知る手段がないからだ。政府も統計を取っていないので、何が起きているのか把握している人は誰もいない。

だが、消費者は豊富な商品知識とITスキルを持っているので、それなりに楽しく自分にあう洋服を選ぶことができる。消費者がバリューチェーンの一環をなしているというのが新しい視点かもしれない。

ただし、供給側からはアービトラージの機会が失われ、今までの仕事の一部が無償化(ユーザーが流通に参加しても給与は発生しない)するのでデフレが進行するのはやむをえないのかもしれない。

長谷川豊氏はなぜ仕事を失ったのか

「透析患者は死ね」と書いた長谷川豊氏が大阪でのレギュラー番組を2つ失った。なぜ、彼は仕事を失うことになったのだろうか。そして、それは「良い」ことだったのか考えてみたい。

氏が指摘するように日本の医療福祉制度は崩壊しつつある。それは社会主義化が進んでいるからだ。政治家も有権者も制度の不具合に気がついていないか、知っていて見ない振りをしている。ということで何らかの形で医療に触れた人なら誰でも警鐘を鳴らしたくなる。しかし、普通の形で警鐘を鳴らしても誰も振り向いてくれないので、ショック療法に頼りたくなる気持ちもよくわかる。ある種のリーダーシップがそこにはある。

だが、実際に問題になっているのは、形式にさえ合致していればいくらでもお金を引っ張ってくることができる制度そのものにある。医師も食べて行かなければならないので、効果が出ようがそうでなかろうが、形式に合わせることを優先させる。最近の分析によれば、医師は「関東軍化」しているということになる。

ここでいう「関東軍」とは、専門性はあるが社会からは無視されている存在である。その場にあった最適解を模索するのだが、視野が狭いので全体解は持たないし、リソースがないので最適解があっても実現できない。かといって専門家がいないとオペレーションは成り立たない。故に専門家の暴走は全体のシステムを破綻させることになる。

医師の場合、診断をしないで、いくつかある累計の中に人を押し込めることがある。累計に合わせて申請書を書けば、補助金が貰えることもある。問診が客観的な数値に基づくもの(最近ではメタボリックシンドーロームなどが有名だ)であれば躊躇なく機械的に振り分けて薬を処方するし、主観的なものなら「例外」を無視して診断を下すことも珍しくない。また、チューブにつないでいつまでも延命させるということも行なわれている。これもガイドラインに沿った対応なのだろう。

「関東軍」の暴走の背景には2つの原因がある。

1つの問題はジェネラリストの消失だ。日本人は他人に興味がないので、最初から他人を作らない企業制度を作った。それが数年おきに専門を変えさせる「正社員」である。正社員が成り立つためには終身雇用がなければならない。終身雇用が崩壊したので、ジェネラリストがいなくなり、従って専門家が「暴走」するようになった。よく「就社ではなく就職」と言われるが、それは日本人をよく知らないからである。日本人はチームワークが嫌いなのだ。ジェネラリストがいなくなると急速に部分最適化が起こる。

また、日本陸軍のようにジェネラリストが「管理や作戦の専門家」になっってしまい暴走することもある。正社員が維持できなくなったということもあるが、非正規雇用が増えると正社員は「自分たちには関係ない」と考えるようになり、結果的に企業の崩壊を招くのだ。陸軍の場合は末端の兵士は徴兵される非正規雇用であり、最終的には無理な責任を負わされ食料を補給してもらえずに餓死することになった。

もう1つの問題はリーダーシップの不在だが、もともとリーダーを要請するという考え方がないので、専門家の問題として捉えることができる。責任者ではなく調整する専門の係になってしまうのである。

医療問題の解決が難しいのは、それが命の選択の問題に直結するからだ。例えば、これ以上全ての高齢者の延命治療ができないということはわかっているが、誰が選別するのかという問題が出てくる。ルールメーカー(国会議員)が手をつければ高齢者や家族に恨まれるし、医者もその責任を負いたくない。結局「制度が崩壊してからみんな騒ぐんでしょうね」ということになる。お金で判断するということもできるが、これも「金持ちだけが長生きするのか」という批判に晒されるだろう。

長谷川氏は自身のブログで「自分は問題を見たが、構造には気がつかなかった」ということを開陳してしまっている。医療が破綻する原因はわがままな生活を送っていた糖尿病患者にあると結論付けてしまった。それは当然「そういう人もいるがそうでない人もいる」ということになってしまうし、そもそも糖尿病患者を全て抹殺しても医療の構造的な問題は全く解決しない。

問題は解決しないのだから、警鐘は役に立たない。それは単なるノイズである。故に仕事を失っても何ら不思議はなかった。最初からキャスターとしては不適格だったのだ。もともと他人が書いた原稿を読むだけのアナウンサーだったわけだが、原稿の裏にある問題を意識しないで原稿を「ただ読んでいた」のだろう。それは必ずしも悪いことではなかったかもしれないのだが、ジャーナリストにはふさわしくない。

よく考えてみればこれも専門職の暴走である。長谷川さんの考えるアナウンサーの仕事は誰かが書いてきた原稿を面白おかしく騒ぎ立てることだったのだ。だから自分で全てを担うことになったときに「騒ぎを起こさなければ」と考えたのだろう。それが彼の勘違いだったのかどうかはわからない。テレビ局の役割は社会をよくすることではなく、騒いで視聴率をあげることだったということがありそうだからだ。

テレビ局は「世間を騒がせた」罪で長谷川氏を排除したわけだが、多分「うまく切ってくれれば問題はなかった」と考えているのではないだろうか。世間が騒ぐというのは単なるアウトプットの問題なのだが、テレビはそれが全てなのだろう。つまり日本では問題を騒ぐことをジャーナリズムだと考えていることになる。テレビは騒ぎが大きくなれば視聴率が稼げるという因果関係で「成果」を調整する。これは基本的には医師(全てのとまでは書かないが)が「レッテルを貼って薬を処方さえすればどこかからお金がもらえる」というのと同じ構造である。