災害伝言板の使い方を確認しておきましょう

鳥取県で地震が起きた。「ああ、大変だなあ、日本は地震が多い国なんだなあ」と思ってからふと我にかえった。家族がたまたま鳥取を旅行しているのだ。そもそも鳥取なのか島根なのかよく分からなかったし、テレビで出てくる地名がどこを指しているのかということも分からない。

どうやら火災が起きたり土砂崩れが起きるなどの甚大なことは起こっていないようなのだか、それでも心配になる。連絡が取れればよいだろうと考えて携帯電話に連絡を入れてしまったわけだが、そのあとで災害時には電話しちゃいけないんだっけなどと思った。留守電につながったのだが、その場で取れなかっただけなのか、つながらないのかがよく分からない。

そこでauに「電話がつながりにくくなっているのか」という問い合わせをした。問い合わせセンターは新潟県にあるらしく、センターのバイトのお姉さんは「私言われたことだけやっています」という感じだった。そこで上位の人に出てもらったのだが、まったく要領を得ない。「鳥取市中心でつながりにくくなっているという情報はあります」という。

※クレームがこないとも限らないので、お断りしておくと「このオペレータは責任感がないバイトだろう」と思ったのは私の主観です。実際にはスクリプトの問題なのですが、これを書くと長くなりそう。

後で分かったのだが、地震の中心は倉吉市あたりで鳥取市とはずれている。次に災害伝言板という言葉を思い出したので、それを聞いてみたのだが、オペレータは「言われた質問には答えるが一切提案はしない」という姿勢を崩さないのでよくわからない。

このブログで何回も書いているが、分からないのは「概念のフレームワーク」ができていないからなのだが、ロボットのオペレータはそれを理解しないのだ。多分、お客の心理的なステータスがどうなっていて何を知らないのかということを考えないとクレームが増えるだろうなあとは思うのだが、バイト感覚で責任感に乏しいオペレータは知ったこっちゃないのだろう。

そうこうしているうちに留守電を聞いた家族から連絡が入ったので、オペレータの方はガチャ切りした。罪悪感はあった。ひどい災害の場合、こういう問い合わせは増えるだろうし、オペレータを占有しているという気持ちもある。だが、どうしていいか分からないのだ。キャリアはこうした混乱が起こらないように、紋切り型でもよいから標準スクリプトみたいなものを準備しておく必要があると思う。

慌てた理由はいくつかある。家族は「災害時には伝言板を使おう」と考えるほどのITリテラシはない。だから電話がつながるかつながらないかということはかなり大きなことなのだ。

また、オペレータはしきりに「auは伝言板を準備していてauの携帯電話から聞ける」と繰り返すのだが、これがNTTやインターネットとつながるかということは分からない。それでもオペレータは自分の会社が準備しているサービスについて案内しようとする。「操作方法をお教えしましょうか」などというわけだが、連絡を取りたい家族が登録方法を知ってどうするのだろうか。

今日改めてauのページを見てみたのだが、やはり世界中のすべての人たちがauを使っている前提で説明をしている。世の中にスマホを使わない人がいたり、パソコンからチェックする人がいるということは想像していないようである。Docomoは少しマシだったがやはり不親切だ。この分かりにくさが緊急時に余計なトラフィックが増える要因なのだ。

実際に操作してわかったのだが(現在は各社とも伝言板を開設している)各社ともデータベースを相互開放しているようだ。だから、ユーザーはキャリアを意識せずに自分がアクセスできるインターフェイスを使えばよい。

Docomoの場合はiMenuのトップに「災害伝言板が提供されている」という案内が出る。iMenuはとても見にくいのだが、災害伝言板は簡単なインターフェイスだ。そこに選択肢がいくつかあり簡単なメモが10件登録できるようになっている。

一度登録したら、各社が提供しているインターネットインターフェイスに行く。試しにauの準備するURLに行ってみた。そこでDocomoの番号を入力するとデータを引き当てる。詳細はNTTが準備するインターネットインターフェイスから閲覧する仕組みである。もちろん携帯電話からも確認は可能だ。

ごちゃごちゃと書いたが、結論としてはユーザーはキャリアを意識する必要はないということだけ知っておけば安心だ。あとは自分の携帯電話からの登録方法が分かればよいということになる。

いざというときに慌てないようにするためには、一度システムを使ってみると良いと思う。だが、実際に怖い思いをしないとなかなかやる気になれないということがよく分かった。だが、システム自体は単純なものなので、いったん使えば簡単にマスターできるだろう。

立ち方に関する覚え書き

全身写真を撮影すると姿勢が崩れているらしい。だがやっかいなことにどう崩れているのかがわからない。背伸びをして写真を撮影すると少しはマシになるが安定はしない。基礎ができていないのに無理矢理背を伸ばしている感じだ。ということで、基本の立ち方について調べてみた。

基本の立ち方

pause1

実は背中が尻よりも後ろに来るのが正しい姿勢らしい。背中(A)を湾曲させるのだが、だらっとした姿勢を続けているとすぐに湾曲を作るのは難しい。感覚としては反り返っているような感じになってしまう。そもそも背中の筋肉が弱いということだから、背筋のトレーニングをやっておくと正しい姿勢を作るのに役立つ。

この湾曲がきれいに作れると首(B)が斜めになる。このとき重心はかかとあたりに乗ることになる。一度つま先立ちしてみて足をおろすと正しい重心になるとされている。

さらに肩を開いて背中の上部に力を入れる。肩を後ろに引くのが正しい姿勢である。

次いに腹筋に力を入れる。へそが一番前に出るのだからそのままではおなかを突き出すことになる。ちょっとへこませるような感じだ。

次は脚だ。まず肩幅で立つのだが、そもそも何が肩幅なのかがわからない。骨盤の部分(C)から大腿骨が伸びている。これが膝に向かってまっすぐに伸びたのが「正しい」立ち方である。外腿に力を入れる感覚で立つときれいなパンツのシルエットを作ることができるのだが、人によっては外腿で支える「がに股」の人がいるということだ。

前から見た場合にはこれでまっすぐな脚が作れるんのだが、実は足がまっすぐになっているかはわからない。つま先が上がらなければ膝が伸びていない。膝を後ろに引くような感覚にして横からみるとそれが「まっすぐ」だったりするようだ。

横から見ると踵→膝→腰→胸→首とまっすぐになっていないことが分かる。実は少しずつS字に傾きながら重力を支えているようである。

モデルのポージングを実践する

pause2基本的にここまでができると次に進める。次にポージングを実習する。

この姿勢、傾きが多いようだが、実はまっすぐに立っている。ポイントになるのは上半身だ。傾いているように見えても肩を引いているだけということがあり、体幹はまっすぐになっている。ただ、これだと退屈なので脚の重心をやや動かしたりする。基本的に膝は引き気味になっていて、足をあげている側の膝を前に出すようにするとよい。

実は大きく肩を引いて手を動かしながら歩くのと同じ構図になっている。実際のポージングを観察すると基本の立ち方を保ったままで、重心を微妙に変えている。基本の立ち方が崩れているとどこかに無理がきてバランスが崩れる。

 

歩く

いきなりきっちりした姿勢をとることはできないし、ポージングの練習ばかりはしていられないので歩き方を練習するとよさそうだ。まず背中の湾曲を作る。次におなかを引っ込める。さらに大腿骨上部の骨頭から膝にかけて大きく脚を使うように意識するとよいらしい。このような歩き方は脚を長く見せる効果があるとされる。

 

洋服が売れないのは選択肢がたくさんありすぎるから

ということで、近所にあるアウトレットモールに行ってきた。そもそも太ってしまい洋服が似合わなくなったことから始まった「プロジェクト」も終わりである。今回の一応の結論は「豊富すぎるから買わなくなるんじゃないだろうか」というものなのだが、急がずにだらだらと行きたい。

もともと洋服が似合わなくなり古着屋で買った280円のパンツなどを使っていたのだが、さすがにそれはまずいだろうということになり、いろいろ洋服を探し始めた。ユニクロ、GU、古着屋、ヤフオクの四択だ。DIESELのストレートジーンズとGUの980円ジーンズを手に入れた。

それでもひどい感じだったのだが、どうやら体型が崩れているのが理由のようだった。腹筋運動をしたり、姿勢を改善したりしてこれを少しだけマシな状態に戻した。要するに再び鏡を見たわけだ。

さらにネットや雑誌で情報を仕入れて、中古屋でトップスを探した。テーマになったのはできるだけ「シンプルな格好」だ。ジーンズに手が加えてあるので、トップスはあまり凝ったものでないほうがよいと考えたわけだ。

最初はファストファッションのものばかり探していたのだが、途中からブランド物のコーナーも探すようになった。そこでArmani Exchangeの服を見つけて、やはりぜんぜん違うなあなどと思ったわけである。つまり、知らないうちにファストファッション慣れしている。

ファストファッション慣れが起こる原因にはべつのものもありそうだ。例えばPARCOに入っている店の品揃えはかなりひどいものだった。アクリルのセーターと古着しか置いていないようなWEGOに多くの若者が集まっている。これはつぶれるのも当然だと思った。

「アパレルって荒れているなあ」などと思ったわけだが、この印象は大きく崩れた。BEAMSにしろSHIPSにBanana Republicにしろ、良い素材で優れたデザインのものがいくらでも売られている。しかも価格は定価の30%(つまり7割引だ)だったりするのだ。大げさに言うと世界で作られた名品がお手ごろ価格で手に入ってしまうということになる。

しかし、あまりにも選択肢が多すぎる。古着屋さんが良かったのは価格が安いからではないことが分かる。定番商品があまり多くないので、限られた選択肢の中でどうにかして着こなしてやろうなどと考えるわけである。つまりセレクトショップのような存在になっているのだ。

考えてみると、「自分だけに似合う特別な一品」というものがあるわけではない。ジーンズの場合は自分で「育てる」し、いろいろと研究して征服してゆくのが当たり前だ。つまり、ある程度の品質さえ確保されていれば、キーになるアイテムについては福袋でもかまわないのである。

後は気合である。

だが、いろいろなものが置かれていると、そもそも何がキーになるのかが分からなくなる。もちろんこれは、受け手の問題なのだが、すべての商品が並列でおかれている(ようにみえる)ために起きる状況だ。

スーパーマーケットの場合は、入るとまず野菜売り場があり、魚から肉に進んでゆく。あるいは検索にたとえてみてもよいかもしれない。ある人は値引率で検索するだろうし、別の人はキーアイテムとの組み合わせで検索するかもしれない。

かつては雑誌が情報を限定する役割を果たしてくれていたのだろうが、今ではネットでコーディネートが次から次へと飛び込んでくる。すると「また今度でいいや」みたいなことになる。それに加えて毎日のようにメールによるお勧めが流れてくる。正直これを見ているだけで混乱する。いったい自分が何を探しているのかがわからなくなってしまうからだ。

入手可能な情報が多くなるに従って人々の情報検索範囲は狭まってゆく。多分、高級セレクトショップの価格が「投売り」状態になっていることに気が付かない若い消費者も多いのではないだろうか。質のいいものが世界中から送られてきて並べられているのだ。なんだかもったいない話だなあと思った。

アパレルについて観察しているとどんどん科学的な知見からはずれてくる。似合っているアイテムというものがあるわけではなく、与えられたものを「気合」で着こなすと思ったほうが良い結果を得られそうだ。もう一つ思ったのは洋服屋に出入りする人も働いている人もあまり楽しそうに見えなかったという点である。毎日働いているわけだから慣れているのは当たり前のような気もするが、たいていの店員さんたちは服を制服のように着ていた。これ、もうちょっとなんとかならないんだろうか。

他人の遺書を捻じ曲げて自分の主張を正当化しようとしていると言われた

瀬戸内寂聴さんが「殺したがるばか者」という発言を謝罪した件をご記憶だろうか。今回、自分宛に届いたコメントを読んでそんなことを思い出した。

瀬戸内さんの政治的主張は置いておいて、死刑が「いけない」のは仏教的に<間違っている>からである。家族が殺されたときにそれに報復感情を持つのは当たり前のことなのだが、これは新たな因果を生む。そして因果は苦しみを招く。殺すことが罪なのではない。殺したがる感情そのもの苦なのである。

瀬戸内さんはそのことを朝日新聞の謝罪文の文末にほのめかすように書いてあるが、本当のところは瀬戸内さんにしかわからないのだし、そもそもこの件で「こだわり」を持つことをやめたのだろう。他人が代わって憶測することには意味がない。

前に書いたエントリーについてコメントをもらった。題材は中学校の生徒が自殺した問題だ。なぜこの子は死んだのだろうということを考えていて「正しい」とか「正しくない」というのは人を殺しかねないのだなと思った記憶がある。

これはちょっとショックだった。文章は読みようによっては「自殺した生徒にも落ち度があったのでは」というような内容になっている。故に「いじめた側は悪くない」というように取れるわけである。だが、実際に言いたかったことは「そもそも誰が正しい」ということが軋轢を生むということである。

この事件はすでに「正しい」「正しくない」というような波紋を作りつつある。いじめた生徒が悪いから探し出して晒せという声もある。逆に自殺した生徒の名前を探索する人も大勢現れた。家族は「単に匿名のいじめの被害者」ではなく、唯一の輝く命を持っていた存在としての娘を社会に認知させたかったようである。

コメントには「遺書にない「わざわざ」という言葉を加えることで、自分の考えた主張に誘導しようとしていると書かれていた。つまり「正しいか・正しくないかを追求することは苦しみにつながる」という文章を書いているのに、ある特定の人に味方する<主張>になっていると考える人がいたということだ。そういう意図はないと言うことはできるが、受け手にとっては理解した内容が真実なのだ。

その人はそれに腹を立て抗議のコメントを送るに至った。そしてそれを読んだ人(つまり私)は意図したのと違う<間違った>解釈をされたと腹を立てたのである。つまりは青森県で起きたいじめが新しい苦を生み出していることになる。これが因果が持っている力なのだ。

これは他人を傷つけかねない。この境目はどこにあるのだろうかと考えたのだが、結局のところ、前に考えたように外に向かうのか、内に向かうのかの違いだということになった。つまり、どちらかを罰する方向に向かえば、それは新たな因果を生み出していることになる。逆に私にとってこの事件が何を意味しているのかということを考えることは、そうした因果を超えてゆくための一つのプロセスになるだろう。

「正解は苦を生み出すのではないか」というようなことを書いておきながら、やはり正しく理解されなかったと考えてしまうことから、自分が正解にとらわれていることはわかる。これが苦を生み出しているわけで、そこから一人で抜けるのは難しい。であれば一緒にそこから抜け出す道を見つけようという意識が生まれたときに、そこに何らかの意味が生じるのだろう。

と同時に書いただけではそのことに気が付くことはできない。やはり外からのレスポンスというものがあって始めて気が付くわけだ。まったく同じ単語の羅列でもまったく違った結論が得られる。苦しみが苦しみを再生産することもあるし、それを打ち消す力にもなりえるのだ。

仏教の用語はよくわからないが、これを功徳というのかもしれない。苦しみから逃れるという作業はきわめて個人的なものなのだが、それを助け合えるという点につながりが持つ意味があるように思える。

というより、単にそう思いたいのだけなのかもしれないのだが。

東京大学卒エリート「なのに」過労死したのではない

今日の話はいささか屈折している。少しショッキングな構図を作ったほうが異常性が伝わりそうに思える。しかし、読み終えても異常さに気がつかない人も多いかもしれない。

電通の新卒社員高橋まつりさんが自殺し「一生懸命勉強したのにかわいそうだ」とか「東大まで出たのにブラック企業で働かざるを得ないとはかわいそうだ」という論評が出ている。

このためネットでは「日本でも労働規制を」という署名活動まで起きた。直感的に何か違うのではと思ったのだが、それが何なのかよくわからない。

そもそもなぜ労働時間は週に40時間程度ということになったのか調べてみた。それは1日の労働時間を8時間程度にしようというムーブメントが起きたからだ。ではなぜそうなったのか。いくつかの理由があるようだ。

労働時間が40時間程度になったのは第二次世界大戦後のことなのだそうだ。それまではヨーロッパでも労働時間はもっと長かった。だがなぜそんな動きが出たのかを書いた記事は見つけられなかった。第二次世界大戦後「人権」という概念が一般化し徐々に広まったなどと書いてあるばかりである。つまり、それは当たり前のことだとされているのだ。

まったく別のアプローチから週の労働時間を削った会社がある。それがフォードだ。フォードは自分たちの製品が「余暇」によって支えれていることを知っていた。つまり消費者がいて余暇や生活を楽しむために自動車が必要だというビジョンを持っていたのだ。そのために労働者を厚遇して余剰所得を作りなおかつ余暇の時間を作ったのである。つまり、生産者が消費者でもあるということを認識していたからこそ労働時間を削ったのである。

労働時間を規制すると人生の質が上がる。すると余暇が増えて企業も潤う。労働時間は短縮されるので時間当たりの生産性を上げてアウトプットの質を落とさないようにした。これがヨーロッパを中心に起こったことである。

また、格差縮小という動機もあったようだ。オランダは失業率を改善するためにワークシェアリングを導入して平均の労働時間を下げた。労働市場からのアウトサイダーを減らすためだと説明されている。オランダではガス田が開発され製造業が傾いた。企業の投資が資源・エネルギーセクターに流れたからなのだろう。ではなぜアウトサイダーを減らす必要があったのか。それはアウトサイダーが社会の負担になるからだ。

いずれにせよ、欧米で労働時間が削減されるのは、より快適で人間らしい生活が送りたいという欲求があったからだということがわかる。逆を言うと国民の間から「人間らしい生活を送りたい」という要望が出なければ、労働改革は進まないのである。

非民主主義国ではこれが成り立たない。例えば北朝鮮には強制労働の習慣があり、多くの国民が長時間労働で搾取されている。中には食事を与えられない人もいるそうで、仲間の死体でねずみを集めるなどというようなショッキングな話すら出回っている。このほかに海外に出稼ぎにゆかされて7割を国に搾取される人たちもいるということである。

さて、日本の事例を見てみよう。実は平均の労働時間は減少しつつある。高齢者が引退の時期を迎えて非正規に置き換わっているからである。企業は正社員を育成したがらないので、正規雇用は減りつつある。日本とアメリカを比べるとアメリカの方が平均労働時間は長い。日本人が働きすぎというのは、平均値で見ると嘘なのである。

だが、これは平均の話である。非正規が増えると管理コストは増す。それを補うために正規雇用の最下層の人たちに圧力がかかる。

ブラック企業で働かされている人は2種類いる。学生なのに飲食店などで非正規雇用に従事していて学校に行けないような人たちと、名ばかり店長のように名目上は管理職なのだが実際には末端の正社員に過ぎないような人たちだ。後者は正社員ピラミッドの最下層に位置づけられている。悪条件でパートが集まらないとこの人たちが搾取されるようになる。また「非正規への転落」を恐れて長時間労働から抜け出せない人たちもいる。

北朝鮮では長時間労働は「無理やり働かされる」ことであり強制労働とほぼ同じことなのだが、日本ではやっと正社員になれた人たちが自分から進んで入る場所だという違いがある。日本では(もし生き残れれば)賃金をもらえるという違いもある。だが、24時間働くような環境ではお金を使うことはできないわけで、ほぼ同じことなのだ。

つまり「東大を出たのに強制労働まがいの職場しかない」わけではなく、東大を出たからこそそのような職場に入ったということがいえるのだ。故に日本では強制労働所入りが特権だとみなされていることになる。

日本人はかなり倒錯した感覚を持っているのだが、日本にいるとそのことには気がつきにくい。それどころか長時間労働を自慢する人さえいる始末である。

労働時間の議論は環境問題に似ている。よい空気の下で過ごしたいのは健康で人間的な暮らしがしたいからである。ではなぜ健康で人間的な生活がしたいのか。そこには理由はない。日本では当たり前の議論なのだが、中国ような国ではこれは当たり前ではない。

しかし、日本人は中国人を笑えない。かつて日本では喘息が起きるような地域に住むことが特権だった時代がある。製鉄所の煙は「七色の煙」と言われて繁栄のシンボルだとされていたのだ。

日本人が労働時間短縮に踏み切れないのは結局のところ、人間は労働だけでなく豊かな生活を楽しむべきだという認識が持てないからなのだ。国の政策もそれを後押ししている。

自民党が推進している労働改革には二種類ある。一つはパート労働者から社会保険料の免責特権を剥奪してパート労働者を調達しやすくしつつ社会保険料の担い手を増やそううとする<改革>で、もう一つは正社員の残業支払いを免除しようという<改革>だ。双方とも労働賃金の抑制を狙っている。

これは安部政権が企業を自分たちのスポンサーだと考えているからなのだが、実際には国と企業の利益は背反する。企業が賃金や社会保険料を支払いを抑制すると、社会が生活保障を賄わなければならないからである。これはオランダの議論を見ればわかることだ。しかし、日本ではこのような議論にはならずに場当たり的な対策が議論されるばかりだ。

しかし、日本の有権者は企業の側に立った政策を支持してしまう。労働者も個人の選択として強制労働のような状態を選好している。つまり、日本人は進んで死にたがっているという結論になってしまうのである。

たとえて言えば、日本には食べ物はないが空気がきれいな田舎でおなかをすかせて死んでゆくか、公害の中で息ができなくなって死んでゆく2つの選択肢しかないことになる。

なぜ電通は犯罪者集団になってしまったのか

慶応大学の広告研究サークルでレイプ事件が起きたらしい。その影響で有名なミスコンが中止になりちょっとした騒ぎになった。同じころ電通では女性新入社員の自殺事件の裁判の結果が出た。過労が原因であったと認定され、労働局と労働基準監督署が強制捜査に入る騒ぎになった。

この2つは女性搾取と隠蔽という共通する要素がある。広告研究サークルは「性行為はあったが合意の上だった」と言っていたようだ。だが、実際には無理やりであり、女性はひどいトラウマを抱えて学校に行けなくなってしまったらしい。電通でも当初は、クリスマスに自殺したのだから失恋で死んだに決まっていると言っていたそうである。女が死ぬのは色恋沙汰に決まっている。単なる補助労働力なのだから仕事で死ぬはずはないだろうという気持ちがあるのだろう。

どちらも、組織防衛のために他人の人権を著しく軽視している。

この2つの事件を無理やり重ね合わせて「だから広告というのは胡散臭いのだ」という非難の記事を書きたくなったが、あまりにも無理やりなので一度は思いとどまった。

しかし、やはり広告業界にはこういう「業」がありそうだ。広告はもともとなんでもないものに社会的な価値をつける機能を持っている。うまく活用すれば、需要を生み出して、技術革新のドライバーになるかもしれない。と、同時にそれはある種の扇動行為でもある。あるラベルを作って感情を喚起する。例えば「中国は怖い国だ」というメッセージを繰り返し与えれば、それが真実になる。

真実は作れるという認識は「自由意志」に対する感覚をゆがめるだろう。人間は情報操作できる存在であり、自由意志などありえないという感覚だ。私たちはテレビを見て新聞を読んだだけで「だまされて」生活している。

だが、他人の感情を操作しつつ自分たちだけはそこから超越するということはできないらしい。しかも最終的には弱い立場の人たちを搾取し組織で隠蔽するという卑怯な行為に結びついてしまう。内部でモラル崩壊すると、それを自立的に立て直す方法がないことがわかる。人間の規範意識はとても脆い。

もちろん、それぞれの組織を突き動かしてきた動機は異なっている。慶応大学のサークルは性欲だったが、電通は営利を追及しようとした。個人でいる分にはおとなしくしている人たちが、集団で欲望をむき出しにした。普段押さえつけている分、一度暴走すると歯止めが利かなくなってしまうのだろう。

例えば、慶応大学に入り、ミスコンイベントを主催するようになった瞬間に「俺はもてるようになった」と感じた学生もいただろうし、電通で管理職として子会社を使っているうちに「自分はとてつもなく偉いのだ」と考えるようになっても不思議ではない。トランプ候補も「テレビに出るようになってから女はやらせてくれるようになった」と語ったそうである。

どちらむ犠牲になった人やその家族がおり、とても痛ましい事件だ。しかし、それをどう防げばよいのか、よい策が浮かばない。広告業だけ規制を厳しくするわけにもいかないし、免許制にすれば表現の自由を侵害することになる。自主規制しかないわけだが、彼らに高い規範意識は期待できない。

すると残る選択肢は一つだけだ。広告は賎業であるという認識を社会が共有すればよいのだ。女性が広告代理店に就職したいと言えば親族で泣いて止め、嫁に行きたいといえば「その結婚はろくなものにならない」といって縁を切るという具合だ。これはかつて日本の芸能界が持たれていたイメージに近い。

コミュニケーション障害は死ななきゃ直らないのか

先日、いきなり「ブログを削除しろ」といわれた話を書いた。話を聞いてみたがまったく要領を得ない。結局、引用部分だけを削除した。

「忙しいので後でまとめて書く」ということだったので待ってみたのだが、自分と相手のトラブルを壊れたレコードのように繰り返すだけで、ブログ記事の何が悪かったのかは書かれていなかった。多分、こちらが何の説明を要求しているのかよくわからなかったらしい。

これは「コミュニケーション障害だな」と思った。相手がどのような要求を持っているのかがまったくわかっていないらしいからだ。だからこそ、他人との間でトラブルが発生するのだろう。最終的に「ネットで発言するのはやめたほうがいいですよ」と書いて送った。また事故を起こすことは目に見えている。だが、それが伝わるとは思えない。

ただ、この障害がどのようにして引き起こされているのかはよくわからない。第一に執拗な攻撃にさらされることでパニックになっている可能性がある。なぜか、この人(ちなみに実名Twitterをやっていて2ちゃんねるでは職業も晒されているらしい)を攻撃するためだけのTwitterアカウントまでできている。

次に相手の言い分というものにまったく興味がないのかもしれない。つまり「話を聞かない」人なのだ。もしそうなら何を言っても無駄だろう。ただこの場合は、怒っている振りをすれば状況は解決するかもしれない。

しかし、最後の可能性が排除できない。もともと、相手が何を考えているのかが認知できない人がいるのだ。こうした人たちは一般的には「コミュニケーション障害」と言われているのだが、実際には認知に問題があるようだ。

認知障害の内容はさまざまだ。ある人は物事の感情的価値というものが理解できない。また別の人たちは相手の立場が想像できない。

例えば「合理的に考えると正しいが、感情的に受け入れがたい」という話がある。これが理解できない人がいる。他人の感情の動きが認知できないのだ。この人が感情的にならないということはない。どうやら自分の心情を中心に物事を理解しているようではあるが、他人にも同じような感情の動きがあることが理解できないようだ。

また別の人たちは他人の立場や知識が推論できない。これについては有名な実験がある。2人の女の子がいる。1人が離れている間に別の子がおやつを動かしてしまう。女の子が帰ってきたとき「帰ってきた子はどこにお菓子を探しに行くか」を聞いてみるのだ。すると認知に問題がある人は「動かした後」の場所を指差す。

この問題を解くにはかなり複雑な認知が必要だ。物事を俯瞰してみている人(読み手)と、お菓子を隠した人、隠された人の間には情報の差がある。そこで、各々がどのような情報を持っているかを理解しなければ問題が正しく解けない。「普通の人」はこれを半自動的に行っているのだが、これができない人がいるわけである。これは認知の問題なので、「他人への思いやり」を持っても解決はできない。つまり、道徳的には解決できないのだ。

ところが共感認知の問題は表面化しにくい。かつて理系がもてはやされていた時代には研究室から直接就職するような経路があった。そのために他人に共感ができなくても出世して経済的に成功することがあった。この人たちが壁にぶち当たるのは、出世して総合管理職になったときだ。営業職のように自分たちで価値が作り出せない人たちが嫉妬から「企業にとって」合理的でない行動に出るのが理解できないわけだ。管理職になってはじめて「共感する能力」が要求されるが、誰もそれを教えてくれない。最近でアスペルガー障害が表面化するようになったのは多分理系が普通の就職経路をとるようになったからだろう。

一方で「当然共感すべき」だと考えられている人たちは別の苦労がある。例えば保母や母親といった「ケアする人」は「この人には思いやる気持ちがないのではないか」と非難されやすい。

複雑な問題には対処できないので、人間関係から孤立するのだが、何がおきているのかがそもそもわからない。表面的な言葉をそのまま解釈する傾向がある。その人の本当の気持ちはカーテンの向こうにあって表出しないからだ。

こういう人たちにとってソーシャルメディアは極めて扱いにくい。まったく会ったことがない不特定多数の人たちがどのような情報を持っているかということを想像しなければ正しく使いこなすことができない。

では普通の人たちはどうやってLINE、Twitter、Facebookなどを使いこなすのだろうか。全知全能の神でない限り、相手の気持ちを類推することは不可能なのだが、少なくとも自分の経験から他人の経験を推論することは可能なはずだ。つまり自分の心情や過去の他人の言動から鏡像を作って、相手の気持ちを類推する。

さらに他人がどのような印象を持つかを想像しながら自己像を演出するということまで行われる。これも自己の経験を他人に移した上でかなり複雑な情報操作を行っていることになる。

逆に、自己の内部に鏡像が形成されないと、ソーシャルメディアが使えないということになる。情報は取れているのだが、それを正しく処理できていないことになる。

日本の社会でこうした問題が表ざたにならないのは「相手の心を読みあうこと」が当然だとみなされているからだ。気持ちの問題だと考えられており、能力の問題だとは思われていない。

さらに空気を読んでもらうのが当たり前だと考えられているので、空気が読めない人たちに対して「要求をはっきり伝える」という技術が発達しない。そこで教科書的には「アサーティブになること」が要求されるわけだが、自分の要求を伝えても、そもそもそれが認識されないことがあるのだなあと思った。

そういう人たちが気軽に政策批判ができるようになった結果、ソーシャルメディアの混乱につながっている。さらにそれに絡む人が出てきて(この人たちも共感に問題を抱えている可能性が高いのではないだろうか)事態はさらに複雑なものになっているのかもしれない。

さらに別の問題も引き起こされている。経験を共有している人たちの間では優れた調整能力を発揮していた政治家や役人たちが、ソーシャルメディアに圧迫されて「説明責任」を果たそうとしてぼろぼろになることがある。これを見るとネイティブな共感能力が乏しいが、後天的に学習したのかもしれないと思う。「説明責任」を果たすためには、不特定多数が何を期待しているのかを限られた発言から読み解く必要があるわけだが、それができないので、頓珍漢な発言を繰り返してしまうのだろう。

コミュニケーション障害は認知機能の問題だと思うのだが、これが後天的な訓練でバックアップできるのかがわからない。経験的には、後天的に訓練するよりも物事の単純化によって解決しようとしているように見える。

あんたが前に書いたブログを削除しろという要請が来た

いきなりTwitterのダイレクトメッセージで「記事を削除しろ」と言われた。削除しろといわれた記事はこちら。まあ、書いていればいろいろあるだろうなあとは思ったのだが、いきなり削除しろといわれると「何言ってるんだアンタ」という気にはなる。

まず「評価したブログを削除しろ」と来た。書いたブログは削除できるが評価したブログは削除できない。そこで?となった。そもそもどのブログ記事なのか書いていなかったので、何をやっていいのかすらわからない。

理由は「自分が嫌がらせを受けているから」なのだという。なぜ、他人が嫌がらせを受けたら自分が記事を削除しなければならないのだろうか。

そこで問いただしてみたところ、記事は特定されたのだが、その理由付けは「上西議員について言及したところ嫌がらせを受けるようになった」と書いてあった。その話は前に聞いたと思ったのだが、それも記事を削除する理由にはならない。そこで理由を聞いたところ「片方では感じがよくない」という。意味がまったく通らない。「一方的で感じ悪い」という意味なのかなあと類推したのだが、それでもよくわからない。インプットがあれば対話式にしたりすることはできる。

続けて「この前提示したURL(これは2ちゃんねるなのだが)に誹謗中傷を書き込まれている」というメッセージがきた。「この前」というのは8月のことだ。大体このあたりでなんとなく意思疎通ができない理由はわかった。

第一にこの人は「なぜ」と「だから」という言葉の使い方を理解していないようだ。次に自分の頭の中にある知識を相手がそのまま持っているという思い込みがあるのだろう。

一方、こちら側が期待するのは次のような文章だ。

私は~であり、あなたの書いた文章は~である。それが[具体的な問題]を引き起こしているから[特定の対応]をして欲しい。

最終的にかなり汚い言葉で「怒っている」と伝えたところ、前回の記事で「相手をほめるような部分もありそれが苦痛だった」と書いてきた。どちらかというと双方のやり取りに呆れているのだが、自分に味方してくれない=敵を評価しているという理解になっているらしい。

別のところで考えてもよいのだが、どうやらコミュニケーションに問題があっても、党派対立には鋭い感性を示す場合が多い。これがネットが炎上する直接の原因になっているものと思われる。だが、この心情がよくわからない。問題があった場合、どちらか一方が悪いということはありえないと思うからだ。

これがこの人特有の問題なのかという点はよくわからない。割と日本人一般に見られる問題なのかもしれないと思う。日本人のコミュニケーションは経験を共有していることが前提になっているので、ネット越しで会ったこともない「他者」との会話ができない。そもそも「~だから~である」という形式で説明することに慣れていない。

そこで突然「わかってくれない」と怒りだすことがあるのだが、これが「こどもっぽい」という評価にはつながらないことも多い。意外と偉い人が「説明責任」という概念を理解できない場合もある。「わかってくれない」ことは受け手側の罪になってしまうのだ。そして周りの人たちは「騒ぎが起きた」ことを問題にする。

説明をするという基礎技術が身につかないので、さまざまな議論は「敵味方」という極端な構図になりがちだ。最近では、憲法改正を唄っていた民進党が護憲派ということになり、TPPは日本を滅ぼすといっていた稲田朋美(現大臣)がTPPを推進するというようなことが起きている。立場と文脈に従って議論のプロセスも結論もすべて変わってしまう。当然、これを前提にしたTwitterの議論も人格攻撃に終止することになる。何の問題を解決したかったのかということはあまり省みられていないようだ。

冷静に考えてみて、当該のエントリーを削除しても何の影響もないなあとは思った。誰も読んでいないからだ。読み直してみたところ、特定のTweetが引用されていたのでそれは削除した。世間に迷惑をかけているとしたら、推敲されておらず文章がめちゃくちゃだったことだろう。例示のために出した文章から話が流れてしまっている。

一応、このブログのテーマは「なぜ伝わらないのか」というものなのでプロセスは残したい。なんとなく「文脈を共有しないことが問題」というアタリはあるものの具体的な問題が何なのかよくわからない。

「忙しいから後で書く」ということなのだが、書いても因果関係がよく把握できない文章が来るんじゃないかなあという気はする。相手はスマホで書いているようなのだが、まとまった文章を書くのには向いていないのでないだろうか。そもそも朝の忙しいときに「あの文章を削除してもらおう」と思ったことになる。

今回の出来事で、長い文章を書いたところで相手に論理的構成が伝わっているとは限らないんだなあという感想を持った。そうした人たちは文章というものをどのように理解しており、どれくらいの読み手がそうなのかというのはとても気になるところだ。

来年の種籾を食べる日本人

先日来、電通の過労死問題について調べている。本来ならば将来の変革の種になる人材を1年で使い潰してしまった愚かな会社の話である。つまり電通は種籾を食べているということになる。

同じような話はいくらでもある。例えば国は基礎研究の予算を絞って応用にばかり力を入れる。子育てには予算を付けずに今お金になりそうな箱物の建設を急ぐ。どれも、将来の種を今食べ尽くす類の話なのだが、不思議と国民の間も政府にもさほどの危機感はないようだ。

日本が農業国なので「種籾を食べてはいけない」というような教訓があってもよさそうだ。だが「来年の種籾を食べてはいけない」という意味のことわざや教訓はこの国にはない。

一方、飢饉の際に「種籾を食べてしまった」という話は多く伝わっているようだ。伊勢神宮には種籾石というものがあり、奉納するときに飢饉があり種籾まで食べてしまったという話が伝わってい。それ以上の説明がなく「飢饉になるほどなのに信仰心があって偉い」ということなのか、それとも別の意味があるのかはよくわからない。

それとは別に藩全体が飢饉に陥り無収入になった結果として、農民たちが籾まで食べてしまったという話がある。悪天候や虫の害などが影響しているようだ。日本には米と麦の他に代替作物がないので種籾まで食べ尽くすという事態が起こるわけだ。ネットで義農と呼ばれる人が「自分は餓死したが籾を守った」という話を読んだ。社会的なセーフティネットはなく、個人のモラルに頼ってしまうということになるようだ。その時藩主は農民に米を与えず、吉宗から罰せられたそうだ。

二宮金次郎の「報徳思想」の中には倹約してためた余剰を社会に還元する推譲という考え方が出てくるが、それ以上の体系にはなっていない。少なくとも統治やマネジメントのレベルでは「将来のために還元せよ」というような思想はない。武士階級には倹約という考え方はなく、将来取れる年貢を担保にして無制限に借金するというような財政がまかり通っていた。農民は余剰分を搾取されてしまうので、江戸後期になって生産性の向上はみられなくなった。

ここから見えるのは「自己責任」と「モノカルチャー」という伝統である。社会全体で助け合うという気持ちがないうえに、みなが一斉に同じ行動をとるので、困窮が社会全体に広がってしまうのである。

社会的なバックアップガないのに、なぜ日本人は滅びなかったのだろうという疑問が湧く。悪天候というものが5年続くことはないわけで、社会的な教訓を得る前になんとか天候が回復し、農業生産が再び回復したという経緯があるのかもしれない。ある地域で種籾を食べつくしてもよその地域が生き残ったということもあるのだろう。裏を返せば、今年の分を食べても来年また生えてくるという恵まれた自然環境の結果なのだ。

これが砂漠で生きていて十分の一税を発明せざるをえなかった西洋の人たちとは違っているのかもしれない。

現在日本は種籾を食べ始めているのだが、政治的リーダーたちは以外と「どうにかなる」と考えているフシがある。中にはオリンピックや万博などを誘致し続ければ景気は回復すると考えていそうな人たちもいる。日本の衰退は構造的なものであって、シクリカルな変化ではなさそうなのだが、そう思えないのも、反省しなくてもなんとかなった過去の経験があるからなのかもしれない。

 

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。