生前退位という言葉はどうして生まれたのか考えてみた

皇后陛下が「生前退位」と言う言葉に違和感を持たれたという新聞記事を読んだ。陛下自身は譲位という言葉を使っていたのだそうだ。だとすると生前退位という言葉は周りの人が作ったことになる。NHKは「生前退位のお気持ちが滲む」などというあいまいな言い方をしていたが、いかにも役所的な言い回しので、どのように発表するのかということを綿密に政府内で話し合ったのだろう。

生前という言葉は死後に対応している。使われる場面は生前相続、生前贈与、生前葬と限られる。法律的には財産を生前に譲るということが想起されたのだろう。だからつい役人的な発想で生前退位とやってしまったのかもしれない。土地などの財産と天皇の地位が一緒になっていることになり、かなり畏れ多い感じではある。

もう一つ、天皇陛下ご本人と回りにいる<愛国者>のみなさんの間にあるずれを考えてみた。ずれの正体は天皇の地位に関する意識の違いにあるように思えた。天皇ご本人は日本の歴史に例のない「象徴天皇」として即位された。その地位を作りために行為を通じて実践を積み重ねてこられた。つまり行為こそが天皇を作るのであって動けなくなってしまうとその意味づけが損なわれるということである。

一方、回りにいる<愛国者>の人たちの意識は違っている。天皇はそこにいればいいだけなのであって、行為でなく存在なのだ。だからこそ摂政を置いて代行させればよいということになる。極端な話、10年ベッドで寝たきりになっても、息さえしていればいいのである。

話がかみ合わないのはこの違いが意識されていないことから来るのだろう。と、同時に最初から「天皇は利用する存在」であり、その地位にいる人たちは自分たちを邪魔しないように何か毒にも薬にもならない行為(ボランティア的な作業と役に立ちそうもない学問)だけをしておいてもらえればいいやなどと思っているのだろう。<愛国者>ほど信頼できない人たちはいないと思う。そもそも、被災地にいる人たちに寄り添うなどという行為は<愛国者>にとってはどうでもいいことなのである。それは国民が<愛国者>をたたえるための対象物に過ぎないからである。

一般国民にいたっては天皇の地位は「時計」でしかないようだ。天皇が退位を望んでいるというニュースを聞いた平成生まれの人たちの感想は「ええ、平成が終わっちゃうの」という感想しか持たなかった。

本来なら天皇陛下が築いてこられた、国民の安寧の象徴としての国という意思を広げることでご負担を軽減しようという議論が出てきてもよさそうなのだが、そのような声は一切出てこない。代わりに出てくるのは政治的日程との兼ね合いとかテクニカルな憲法の議論などの話ばかりである。嘆かわしいとしかいいようがない。

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