なぜ匿名の人を晒そうとするのか

青森の浪岡中学校の生徒が自殺したことに関する記事を書いた。そのときは匿名になっていたのだが、そのあと写真コンテストの件で名前と顔が公開された。この生徒にも人生があったんだなあと思うと、見える景色がまったく違ってしまう。正直、最初から名前が出ていたらああいう記事は書かなかったかもしれない。周辺情報に引っ張られるからだ。

それとは別に沖縄に派遣された警官が現地の人を「土人」呼ばわりしたというニュースに関する記事を書いた。その後TBSのニュースでビデオが放送された。そこに映っていたのは「ある警官」ではなく、無学そうな若い警官だった。まったく印象が変わった。あまり良識というものは期待できそうになく、ある程度躾けないといけないのではないかと思った。同情心はなくなった。役割に陶酔しているような印象を受けたからである。

高橋まつりさんの件は最初から名前が出ていたのでSNSのパーソナルなつぶやきとともに同情が集まった。対する電通は匿名の集団なので、心情としては高橋さんに同情が集まるのだろう。このように実名には強い感情を呼び覚ます効果があるようだ。

このように実名か匿名かということはその後のニュースがどのように流通するかということにある程度影響があるようだ。だが、それがどう働くかということは予想ができない。

この匿名実名が大きな意味を持つこともある。浪岡中学校の件では「被害者+名前」とか「加害者+名前」での検索流入が相次いだ。結構なトラフィックになる。ニュースが流れるたびに「暴いてやりたい」という気持ちが働くようだ。日本人にとっては実名を晒すというのは罰であるという側面があるようだ。加害者にはリンチ感情が働くのだろうことは想像に難くない。被害者の名前を知ってどうするのかというのはよく分からない。画されているから暴きたいという本能的な動機もあるのかもしれない。

しかし別の場所で考察したように、目の前にいる他人を叩く場合には対象物化したほうが都合がよいはずだ。対象物化とは目の前にいる他人を固有の名前を持たない一般名詞として扱うということで、匿名化してしまうということである。この場合は叩く人たちは集団として行動している。で、あればどうしていったん実名化したがるのか。

この2つの状況を見てしばらく混乱していたのだが、いったん匿名の人を実名化することによって、それをさらに一般化しなおすということが罰になっているという結論に至った。浪岡中学校の件で説明すると、加害者の名前を暴き出したあとで、再び「加害者」というレッテルを貼ることによって一般化するわけである。そこで意思決定に関するすべての権利を剥奪することを罰だと考えているのではないだろうか。

加害者が匿名だとその罰を下すことができないので実名化が必要なわけである。

逆に言うと叩かれていた人に別の属性があったのだということを知らしめることで、対象物化を防ぐこともできるということになるのかもしれない。

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