私が死にたいといったら…

このところ、匿名と実名ということを考えている。その関連で殺人事件や自殺について調べているうちに、精神疾患にかかると家族が崩壊しかねないということを知った。社会的にも偏見が多く、国や自治体からのサポートもほとんどない。

医療的なことも調べたのだが、誤診だった(アスペルガーと統合失調症の区別が付きにくいという話さえあった)としても、治療法は同じようなものだったりするそうである。つまり、よく分からないけどなんとなく効きそうな薬が投薬されているということだ。で、治癒するかしないかは運次第である。

残された家族は「特に悪いことをしたわけではないのに、突然不幸に見舞われた」という状態に陥るだけでなく、何が正しいのか良く分からない上に何をしていいのか誰も教えてくれないという状態になる。

ここにさまざまな「アドバイス」が入る。怪しげでお金目的の宗教もあるだろうし、まじめだが間違ったアドバイスもある。何が原因なのかよく分からないからさまざまな知識が飛び交うのである。

そこで考えたのだが、もしそういう状態に陥ったら家族に迷惑をかけたくない。すると自殺するのが一番いいことになる。だが、心神耗弱状態に陥っているわけだから計画的な自殺は難しそうである。

となると誰かに殺してもらうという方法が残る。自分の命は自分のものだと仮定すると「勝手に処分してもいい」ことになる。それを誰かに委託するわけだ。

法的な枠組みがないという点は置いておいて、テクニカルな難しさはいくつか残る。

生きたいという本能は残るので激しく抵抗することだろう。そもそも不安神経症(ラベルは何でもいいのだが)などの場合には「生きたい」という本能があるからこそ、脅威に対して敏感になるのだろう。基本的には安楽死と同じなのだが「活発に動き回る」という点が違っている。

次に「死にたい」という意思が正常な判断力に基づくかという証明が難しい。精神科医の証明が必要なのだろうが、そもそもそのようなことを考えるということは不調を意識しているということだから、すでに正常な判断ができなくなっている可能性もあるということになる。

さらに誰を<下手人>にするかという問題がある。家族に頼むとすると心理的なプレッシャーは計り知れないものになるだろう。しかし、最終的には迷惑をこうむるのは家族だから、犯罪者にしないためにもいざとなったときには「殺してもいいよ」という許可を与えておくことには意味もあるような気がする。これがないと家族が「殺人者」になるかもしれない。もてあました結果自ら手をかけるということが無きにしも非ずだからだ。

医師に委託するとしたらお金を払って治療行為の一環として殺してもらうということになる。すると、医師は医師免許を取った時点で合法的な殺人者という役割を担うことになるだろう。これは医師の社会的な地位に関わる。実際には高齢者を「治療しない」という選択を通じて医師の役割の範疇に入りつつある。

これが最後の問題だなあと思うのは「それでも生きていたい」という生の執着を捨てられないことだろう。やはり誰かに殺されるなどということは考えたくもない。そう考えるとどんな状態になっても、家族や社会の迷惑になっても生きていたいなあと思ってしまうのである。ひょっとしたらほんの短い瞬間でも生きてさえいたらいいことがあるのではないかという希望を捨てきれないのだ。

死にたいという言葉の裏には、できれば安寧に生きていたいという切なる願いがあるということが実感される。

日本では安楽死は認められていない。普段は自己責任だといわれるわけだが、命というのは本人の持ち物ではないという考えがどこかにあるのだということになる。

ただ、自殺はいけないことだという表向きの認識の裏で、自殺は犯罪扱いされず、命を使って社会的主張をすることは社会的に容認されている。だから「自爆テロ」型の自殺も起こる。経済的な問題を解決するために自分の命を処分することも行われている。たいてい自殺者の苦悩には無関心で「他人を巻き込んだ」ことだけが非難の対象になる。やはり日本は自己責任社会である。

「自分の命を処理すること」が法律的にどのような位置づけになっているのかを知りたいところではある。意外とあまり整理されていないのかもしれない。

高齢化社会に入ると、いやおうなしにこの問題に巻き込まれる人は増えて行くだろう。「かわいそう」だけでは済まされないのではないだろうか。

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