クラウドがあるじゃないか

クラウドって便利だなと感じていたのだが、別に書くほどのことはないなあと思っていたのだが、とあるツイートを見てやぱりクラウドって便利だなあとしみじみと思った。

ある人がパソコンを買って後悔しているらしい。スタイリッシュなパソコンを買ったのだが意外と壊れやすそうで、バルキーだが壊れにくいノートパソコンの方がよかったのではないかというのだ。

バルキーなパソコンにはいくつもメリットがある。ぞんざいに扱っても壊れにくい上に、電池の持ちもいい。ハードディスクを交換するのも簡単だ。スタイリッシュなパソコンはどうしても電源が犠牲になってしまうし、画面の開閉を繰り返すと画面がちらついたりもする。いろいろ設計上の犠牲があるのだろう。華奢なACアダプタが突然死したという話も聞く。だから、Macintoshユーザーは「かっこいいけど扱いにくい」という悩みを昔から抱えている。「スタバでドヤ顔」にはそれなりのコストがかかるのだ。

ソリューションは簡単だ。パソコンをコモデティ(日用品)と捉え、安いパソコンも含めて複数台手元に置いておくのだ。スタバや職場でドヤ顔するのが1台と、寝転がってぞんざいに扱うのを持てばいい。どちらかを古いOSにしておけば「Windows10であれが動かなくなった」などと大騒ぎすることもなくなる。

さて、複数台のパソコンを持っていると、ファイルがどこにあるか分からないということになりがちだ。ファイルや環境の移行などという問題もある。メールもとっ散らかり、ブラウザのブックマークも分からなくなる。

だが、最近ではそんなこともなくなってしまった。メールはIMAPにする。ブラウザはFirefoxかChromeを使うと自動的にブックマークなどが同期される。住所録はGoogleの連絡先かiCloudを使うのがいい。メールの統合などを考えるとGoogleの方がメリットが大きいかもしれない。するとスマホ含めてすべての情報が完全に同期される。「完璧に」だ。

最後の難関は仕事の資料や執筆した原稿などだが、これもクラウド上に上げておくとよい。例えば、Google Driveに上げておけば複数パソコンで同期ができる。本当に同期される。ファイル名を変えても同期される。一体何がどうなっているのだろうか、化かされているのではないかと思うくらいだ。

仕事のドキュメントだけなどと大げさに捉える必要もない。例えば家電のマニュアル(最近はほとんどPDF化されている)をクラウドに上げておけは、台所にあるタブレットから閲覧することができる。濡れた手でも操作できて意外と便利だ。マニュアルを調べるのは意外と面倒なものだが、もっと面倒なのはマニュアルがどこに行ったかを探す作業なのだ。

古いパソコンを温存するとウィルスやセキュリティが心配という人もいるかもしれない。確かに金融機関用に一台最新のパソコン(安いものでもよいので)を持っていると便利なのは確かだろう。だが、これもいくつか対策がありそうだ。

ウイルス対策という点ではMacintoshは優れている。Time machineを使えば、汚染されいない状態へのロールバックが簡単にできる。最初に初期状態を作っておいていつでも戻せるようにしておけばよい。「データが消えてしまう」のが悩みになるわけだが、それは心配ない。データはすべてクラウド上にあるからだ。

それでも心配なら現役を退いたパソコンを「ネットにつながない」と決めて古い写真などのデータを退避させておいてもよいかもしれない。コンセントにつないで定期的に起動しておけば「内蔵電池が切れて起動しなくなった」ということもないだろう。それすらも面倒だというのなら、単純に外付けのハードディスクなどを買えばいい。

このように考えると、パソコンにお金をかけるよりも通信環境にお金を使った方がよいのかもしれない。通信回線が細くて不安定だとクラウドを快適に使えないからである。Googleクラウドの保存領域は15ギガバイトだが写真やビデオを大量に保存しない限り使い切るのは難しいのではないだろうか。もっともプロの写真家などはお金を払ってでも領域を確保しておいた方がいい。クラウドはバックアップを自動でやってくれているはずだ。100%完璧ということはないにしても、自分で保存するより確実かもしれない。家にあるハードディスクドライブだっていつかは壊れるからである。

秋葉原は昔とあまり変わっていなかった

古いマックを漁っていて「これだけネットが発達すると秋葉原は大変なんだろうなあ」と思った。と同時に、秋葉原に行けば「もっと良いもの」が手に入るのではないかとも考えた。Amazonでなんでも手に入るようになったわけだから、わざわざ秋葉原になど行かなくてもよいはずなのだが、どうしても昔の感覚が残っている。いったいどっちが正しいのだろう。

結論からいうと秋葉原の中古PC市場はそれほど変わっていなかった、昔からやっている店が結構残っている。違いはといえば、外国人と(アニメの聖地になっているらしい)とメイドさんが増えたことだが、ハードだけでなくコンテンツも揃うというのは実は昔からの姿だ。

パソコンの量も変わっていた。昔はそこそこ高級品だったパソコンだが、古いノートパソコンがプラスティックのかごに入れられて「無保証」で売られていた。値段も1000円とか2000円だ。これを探して、適当なACアダプタを見つけるらしい。日本人の姿も見られるが、外国からきた人たちも多い。発展途上国に持っていって売るのではないかと思う。秋葉原は国際市場に組み込まれているのだ。インド系が集まっている店があり、インドっぽい香りがしていた。お香でも焚いているのだろう。アジアとダイレクトにつながっていると感じられるのは面白いと思った。

Macintoshに限ると、Macbook(2006年から2009年頃までに売られていたもの)や古いMacminiなどは置いていなかった。代わりにあるのはMacbook Proなどやや高めの値段帯のものだ。ヤフオクなどと秋葉原の店頭は棲み分けができているらしい。古いMacは店頭に出すほどの利益は得られないのだろう。WindowsPCなどは種類が多すぎてよくわからない。メモリなどは種類が多すぎて安いのか高いのかよくわからない。安いといっても千円以下の違いなので、家で検索して買った方がいいのかもしれない。

秋葉原の魅力は「ああ、こういうものが手に入るんだ」ということがわかることかもしれない。ただ「ごちゃごちゃ置いておくんで、適当に探してください」という方式だから、ある程度の知識と並々ならぬ体力がないとつらい。個人的にはIDEのハードディスクが大量に売られていて安心できた。古いパソコンを使っていると「このハードディスクが壊れたら後がないかもなあ」などと思ってしまうのだ。ただ、これもAmazonと比べて1000円程度の違いだ。

東芝製の16GBのUSBメモリが360円で売られていた。お土産に買ってかえろうかなあと思ったが、使い道が思いつかない。NASに付けてWindowsとMacで両方使えるファイルサーバーにするか、UNIXを入れてWindowsPCを再活用するなどできそうだが、別にないと困るというほどでもない。SSDはいうほどは安くなかった。

昔は秋葉原に行かないと買えないものが多かった。Macintoshなどもその一つだ。しかし、最近では新しいMacを探すために行く場所は銀座や表参道になった。かといって秋葉原の魅力が損なわれているというわけではないらしい。昔からの店は依然多く見つかるし、アニメファンや商売人など多くの外国人を引きつけている。

 

サポートを親切にするのは良い事なのか

Twitterで面白い呟きを見つけた。スマホを普及させるためにはサポートを充実させるしかないのではないかという。

実際には日本の企業の中にも親切なサポートを提供する会社は数多くある。スマホだとNTT Docomoが親切だ。パソコンでは東芝のサポートが充実している。「Webが見れない」「迷惑メールが来るからなんとかしろ」などと言った基本的な操作方法でも無料で教えてくれるのだ。明らかに高齢者を対象にしている。

さて、これはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。例えば、この時期のNTT Docomoは週末で3時間待ちになる。電話もつながらない。入学式シーズンでスマホを買い求める客が多いせいなのだろうが、理由はそれだけではなさそうだ。あまりスマホが分からない人たちが親切さをもとめてNTT Docomoに押しかけるからではないかと思う。すると結果的に、親切さがサポートを必要としているかもしれない人たちを排除してしまうのだ。

東芝のサポートは、電話だけでは分からないからと画面に赤い丸や矢印を手書きで表示してくれる。遠隔操作するのだそうだが、あたかも付ききりでパソコンの使い方を教えてくれる孫のようなものだ。だが、問題がある。必ずInternet Exploreを使えというので「なぜか」と聞いたところ、手順を決めているのだそうだ。「お客は何も知らない」ことを前提にしてオペレーションが組み立てられているらしい。だが、その手順に従うと設定が初期化されてしまう。こちらが「障害を切り分けたいので何か知見があるか知りたいだけだ」と言うと、ほっとした表情でいろいろと教えてくれた。だが、杓子定規なオペレータだとどうなっただろうか。「とにかく言う通りにしろ」となった可能性はある。そもそも初心者向けのマニュアル仕事ばかりしているわけだから「本当の障害」に対する知見は蓄積しないだろう。本当に困っている人は、排除されてしまう可能性が高い。

「スマホやパソコン」が分からない人は、頭が悪いわけではない。パソコンには基本の知識体系(認知体系ともいう)というものがあるのだが、それが身についていないのだ。認知体系が身についていない人と接する場合、面倒なことは聞けない(聞くとますます混乱する)のでなんでも初期化してしまうしかないのだろう。

もっとも企業努力で「初心者に優しく」かつ「適切でムダのない」サービスを提供することはできる。Appleは音楽などのコンテンツを売っているので、初心者にも間違いのないサポートをしてくれる。しかし、パソコンの操作についてはあまり詳しく教えてくれない。Appleのパソコン購入者は初心者ではないからだ。このようにしてメリハリをつけることで、リソースの有効利用を図っているのだ。そのためには少なくともトップの人が自社社員であり、一貫して自社製品についての知識を持っている必要がある。さらに、末端のオペレータも自分の判断で硬軟切り分けられるように権限委譲されていなければならない。

日本のコールセンターは外部委託かつパート・アルバイトなので、製品に対する愛着もなければ会社に対する関心もない。たとえ仕事に愛着を持ったとしても「そんなことは期待されていない」のだ。一人だけ特別なことをしようとすれば社員とぶつかるかもしれない。だから、Appleのような体制をとるためには、雇用体系と企業文化を変えなければならない。

このように、初心者に手厚いサポートを提供すると、今度は中級者以上を排除してしまうことになる。「どちらも同時に」というわけには行かないのだ。すると、お金を払ってくれそうな中級者たちは他の会社に流れることになる。サポートのコストは製品に乗る。自力で解決できる人は、より安い(あるいは適正な)価格の製品を求めるだろう。このようにして、コストばかりがかさんで、利益の薄い商売になってしまうのだ。日本の家電メーカーが次々とコンシューママーケットから退出するのにはいろいろな事情もあるのだろうが「サポートを手厚くしなければ、これ以上普及率を上げられないのではないか」という観測もその理由のひとつになっているのではないかと思う。

自転車と回復

2年ほど雨ざらしにしていた自転車のチェーンに油を注した。チェーンに塗るのではなく、一つひとつのチェーンに油を入れてゆくのだそうだ。正しくメンテナンスしたら動かないと思っていたギヤが動き出した。もう動かないから捨てようと思っていたのだが、捨てなくてよかった。雨の中で放置していた自転車には悪いことをした。調べると自転車カバーは100円ショップにも売っているそうだ。もっと早く調べればよかった、と後悔した。

なんでもないことなのだが、ちょっとした幸せのようなものを感じた。人から見ると、あるいは笑われるくらい小さな幸せなのかもしれない。自転車に気が向くということは「どこかに行ってみたい」と思うようになったことだ。人生には何があるか分からない。あるいは、もう立ち直れないと思うこともある。だが、その日々も永遠には続かないのだ。

人はすべて回復する力を持っている。その力は不思議なものだ。一日いちにちを過ごしているときには気がつかないが、回復は少しづつ進む。あるいは、回復とは元通りになることではないのかもしれないが、それは必ずしも「前より悪くなった」ということを意味しない。

今苦境にある人にはこの言葉は届かないだろう。闇の中にあるとき人には他人の言葉は聞こえないしそんな余裕もない。だが、それでも言いたいと思う。どんな人も回復する力を持っている。神様という存在があるのかどうかは分からないが、それは神様が与えた恵みではないかとすら思う。決して自らが努力して得たものではない。

世の中には様々な情報があふれている。本当もあれば嘘もあるかもしれない。しかし、人には回復する力があるということだけは確かなことである。私は今それを知っている。他人と比べればほんのささやかな知恵かもしれないのだが、私は今それを持っていて、誰かに伝えたいと思っている。

日本の原発議論は人類がいかに愚かかという見本市

最近、原発事故に絡んで、ある経済学者が「日本人はリスクを知らない」と主張している。「みんな馬鹿だからリスクが合理的に判断できないのだろう」というのだ。驚くべきことにこれに同調する輩までいる。「ドライに割り切る精神が大切」なのだという。勉強ばかりしているとアホになるらしい。では、何がアホなのか。

日本語の「危険・危機」にはいくつかの種類がある。それが「リスク」と「カタストロフ」だ。リスクは将来的に起こりうる危険のことだが、カタストロフは今起こっている危機である。どうやら、日本人はリスクは過大に評価するくせに、カタストロフは「あれは例外なのだ」といって過少に評価する悪い癖があるらしい。

福島の事故は住めなくなった地域の人たちにとっては、原発はリスクではなくカタストロフだ。実際には二号機のベントができずに放射性物質を関東地方を含む東日本一帯に撒き散らす恐れもあったのだという。幸い爆発が起きなかったのは格納容器の密閉度が今ひとつだったからだそうだ。つまりあの事故は関東地方の人間にとってもカタストロフになる可能性のある事故であり、そうならなかったのは「たまたま」である。さらに福島の廃炉も現在進行中のカタストロフだ。海域に放射性物質の混じった地下水を撒き散らす恐れは今も消えていないし、今後数十年も消えないのである。

ところが事故から5年経って、多くの日本人は(当事者も含め)「あの事故は例外だったのだ」と思い込もうとしている。福島はたまたま運が悪かったのだということだ。原発廃炉作業も日常となり、ある意味慣れてしまった。

もちろん日本全体の経済合理性だけを考えると「住めなくなった人たちにお金を払って納得してもらおう」と主張することも可能だ。だが、仮に東日本全体が居住困難になっていたら、同じことが言えただろうか。大阪に住んでいる人が東京から来た子供に「お前は汚染されているから、一緒に遊んじゃだめだって」というような世界である。

これは正義の問題に置き換えることができるだろう。つまり、誰かの幸福のために別の人の生活をめちゃくちゃにすることが経済合理性の名の下で許されるかということだ。科学ではなく倫理の領域だ。他人の人生を根本レベルで破壊することは、経済的自由に含まれるべきなのだろうか。

自分は科学的で合理的であるとうぬぼれる人は倫理的な問題を見逃しがちである。感覚が麻痺してしまうのだ。かつてアメリカでMBAが流行したときにも同じような「賢い」人間が増殖した。その行き着いた先がエンロンなどの経済事件だった。「cooking book」といって会計を操作することで、業績を過大に見せる手口が横行したのである。悪評が広がるのを恐れたMBA提供校は倫理教育をカリキュラムに組み込むことになった。つまり経済合理性は人々の心を暴走させかねないのだ。

「経済合理性があるから原発は優れている」と主張する人は「いざとなったら、お金を払ってめちゃくちゃになった人の人生を買い取ればいい」と言っている。挙句「福島の事故で死んだ奴はいない」とまで言い放つ。

この論理を許してしまうと、原発の提供会社は「過大な設備を作らなくても平気だ」と考えるようになるだろう。「事故を起こしてめちゃくちゃになった人の人生を買い取る」のは事業者ではなく国だからだ。つまり、利得は手に入れつつ損出は外部化してしまえるわけである。これは電力会社にとってみれば「経済的合理性」のある(つまり最善の)答えである。

「経済合理主義」を唄う「自称賢い人たち」はこれにどのように応えるのだろうか。

ヤフオク

古いマックをメイン機として使っているのだが、最近どうも様子が怪しい。スリープしたら電源が切れて時計がリセットされていた。それから怖くてスリープされられない。電池で起動したところ10分で反応がなくなった。だからノートなのに動かせない。常時機動させていたらハードディスクにも悪いだろうなあと思う。この手の機種は内蔵電気がイカれると機動すらできなくなるのだ。

古いソフトを起動するには古いPPCのデスクトップ型が良いのではないかと思った。今はどうか知らないが昔のマックはよく働く。何せ1999年に買ったデスクトップ機をまだ使っているのだが、これがちゃんと動くのだ。

中古屋で10,000円のG5を見つけたのだが、ハードディスクがない上に持って帰るのも面倒だ。小さいのないかなあと思って探し当てたのがヤフオクだ。1円とかごろごろある。もし1円で落札しちゃったら、送料で大変なことになるんじゃないかとも思った。

あまりにも世間知らずだった。

価格がつりあがり始めたのは終わり二時間ほどになってから。見ているうちにどんどん値段が上がる。最近の機種はあっという間に10000円を超えて手の届かないことになった。つられて値段を上げてゆくわけだが、ふと冷静になった。いくつかはジャンクなのだ。つまり動かないのである。ハードディスクは入っているのだが、?マーク(昔はサッドマックとか言ったのだが、今のは何ていうのだろうか)が出ているのがある。多分壊れているっぽい。動作確認済みとか書いてあるが、iMacの最近のやつはハードディスクはずすのめちゃくちゃ大変だよ、知ってるの、というものまで値段が上がってゆくのだ。結局動かないノートが3000円くらいになった。後から考えるとばかげているが2000円くらいまでは入札していたのだ。

古いパソコンなんか誰も見向きもしないだろうと思ったのだが、ライバルが現れた。この人がどんどん値段を吊り上げてゆく。4000円くらいで誰も入札していない同機種があるので、だいたい3000円くらいが相場なんだと思う。2台あるうちの一台は2500円で競り落とされた。最初はわざわざ吊り上げているのかと思ったのだが2台とも欲しいらしい。一台目は2000円で降りたたのだが、こうなると不思議なもので「最後の一台」が欲しくなる。完全に誤認だ。来週にも同じようなものが出るのだろうから。結局、3000円で落札した。値ごろなのかはよくわからない。

いつのまにか時間は深夜1時になっていた。多分、ヤフオク的にはピークタイムなのではないかと思う。いくつもの商品が日曜の深夜(つまり月曜の朝)が締め切りになるように設定されている。そのまま心臓がどきどきして眠れず、結局、朝まで眠れなくなった。

同じことをもう一度繰り返したいかといわれると、微妙なところだ。夜眠れなくなるのは嫌だからだ。だが、この「競る間隔」には麻薬的なところがある。闘争心って快楽物質を放出するんだなあと思った。ヤフオクで散在する人、結構多いのではないだろうか。

そもそも、本当に使い物になる機種が来るのだろうか。今は別の意味でどきどきしている。もしかしたら全く使い物にならないものを買ってしまったかもしれないし、最悪届かないかもしれないのだ。

リスク・安心安全・日本人

池田信夫氏の観察が面白かった。経済学ではリスクを確率的な問題だと考える。だが、実際に日本人はリスクを確率の問題だとは考えていない。これは実感的に確からしい。だが、なぜそうなるのかを説明するのはなかなか難しい。

考えの過程はちょっと冗長だが、一言で要約すると日本人は合理的にリスクを管理できるが、その提供範囲はきわめて限定されるということになるのではないかと思った。

原子力発電の危険が確率の問題だという認識が成り立つためには、その運用の意思決定に参加できることが前提になる。原子力発電の問題ではこの原則が崩れているのではないかと思われる。そこで日本人には公共空間という概念がないという仮説が考えられる。日本人は意思決定ができる空間と意思決定はできないが影響を受ける空間を厳密に分けているのではないかということだ。そして、意思決定はできないが影響を受ける空間では「どんなリスクも許容しない」のである。

これはきわめて感覚的な問題だ。自分たちの手元にある音楽プレイヤーから流れる音は心地よい音だが、自分で音量や曲が選択できない音は騒音だという例えが浮かんだ。

原発を確率的なリスクの問題にするためには、国民の政治参加を容易にして、政治のもとで原発をコントロールすればよいことになる。だが、これは成り立ちそうにない。

日本人は和を嫌う。自分たちの意思決定圏に他人が入ってくるのを嫌がるのだ。自分の意思決定権が希釈されてしまうからだろう。その対になっているのは、そもそも意思決定できないところには関与したがらないという性質だ。だから日本人は民主的政治プロセスには参加したがらない。それよりも自分が関与できること(例えばアイドル、マンガ、ファッション、おいしい食べ物、最新の電子ガジェット)に時間を使いたいと考えるのである。

その意味では左翼の反原子力発電運動は決して収まらないだろう。彼らはそれを他人がスピーカーで流す大音量の音楽のように感じている。たとえそれがモーツアルトであろうと、単なる騒音に過ぎないのだ。

公共というものを「関与できる」「関与できない」に分けるといろいろなことが説明できる。

5年前の東日本大震災では人々は整然と行動した。日本人は整然としていてすばらしいということになっているのだが、実際には下手に動けば他人から大バッシングを受けることを日本人が承知していたからだろう。意思決定できないが、影響を受けるものの代表が「空気」だが、日本では空気を乱すと周囲から圧殺されてしまうのだ。

若者の「なんとか」離れは、すべて意思決定圏にない事象からの離脱だ。自分でコントロールできないものには近づかないのだ。これを他人が説得しようとしてもムダである。これを実感するのは簡単だ、LINEばかりしている若者にFACEBOOKのアカウントを作れといってみればよい。若者はおじさんコミュニティの意思決定に関与はできないが、影響は受ける。そこでコミュニティを切り離したいと考えるのだろう。

会社員のおじさんが本社に残りたがるのも、意思決定が重要だからだ。いったんここから外れた会社員は「コースを外れた」として明確に区別される。多分、地方に「飛ばされた」官庁からはやる気が失われるだろう。テレワークはできるかもしれないが、非公式のコミュニケーション(居酒屋で飲むこと)の方が意思決定には重要だからだ。意思決定は非公式なものなのだ。非正規の社員たちはもともとここから除外されているので、会社のためにやる気を出すことはないだろう。意思決定件は稀少な既得権益なのだ。

原子力村も他人の関与を嫌がる。5年前の原発事故ではここに混乱がおきた。実質的に意思決定してきたのは専門知識が分かる人たちだが、ここに知識のない首相が乗り込んだことで大混乱がおきた。専門家は「平易な言葉で説明しなければならない」などとは思わず薄ら笑いを浮かべながら「政治家は馬鹿だなあ」と思っていたようだ。軍事的にも同じ問題が起きているのではないかと思われる。自衛隊は専門用語が通じる米軍にはシンパシーを感じているだろうが、政治家が軍事に関与することに嫌悪感を持っているのではないかと思われる。法律がコントロールできるのは公式の意思決定だけなので、いくら法律を作っても問題が解決しないのは当たり前だ。

ここから得られる結論は簡単だ。リスクを合理的に管理したなら、それを専門家だけで解決して、周囲にはゼロリスクだと説明することだ。そして決して失敗しないことである。安倍政権は日米同盟の深化には何のリスクもないと説明した。有事が起きない限りこの説明は合理的ではないが、有効なのだろう。そのためにはすべての軍事情報を隠蔽することが必要だということになる。音さえ聞こえなければ、自分たちに関係ないから誰も反対しないのだ。また、意思決定圏にない事柄を合理的に理解しようとする人もいない。

もうひとつの解決作は、公式の(つまり表立った)意思決定を徹底させ、異議があれば納得ができるまで議論する姿勢を育てることである。現状では全く不可能に思えるが、今から教育を始めれば2~3世代のうちには定着するかもしれない。

日本人は意思決定を集団で行いそこには非公式なルートで時間をかけて蓄積された知識の集積が大きな役割を果たしているようだ。ここに合理性を持ち込むのはなかなか大変そうだ。

保育園の義務化について

保育園を義務教育にすれば、現在の待機児童問題はすべて解決すると言っている人をちらほら見かけるようになった。出元もなんとなく分かったが、あまりにも不愉快なので書きたくない。どうせ実現しないことが分かっているから人をたきつけるのだろう。大変悪質な手口だ。

ちょっと考えればそれが嘘だということはすぐ分かる。小学生はオムツも取れているし、自分で席に着くこともできる。だから数十名を一人の先生が見ることができるのだ。だが、0歳児は違う。おなかがすけば泣くし、静かにしなさいといっても理解できない。とても数十人を一人で見ることはできないだろう。0歳児は泣かせておけばいいかもしれないが、子供はすぐに歩けるようになる。どんな危険があるか分からないが「触るな」とか「歩き回るな」とか言って聞かせることはできない。

もっとも、子供に綱をつけてつないで置くことはできるだろう。犬や猫みたいに扱うわけである。泣いても相手をしない。そのうち子供は泣いてもムダだということを悟るだろう。実現するのは、親が子育てに関与することを許されない社会だ。生活とポジションを維持するためには働かざるを得ない。だから子供を綱につないで、国や地方自治体に管理してもらうのだ。

最近「絆」というのは家畜をつないでおく綱のことであるという説が出回っている。両親は会社につなぎとめられ、子供を綱につないで運命を悟らせる。そういう社会を「絆社会」というのかもしれない。

どうして誰も「そんなのはおかしいのではないか」と異議を唱える人がいないのはなぜなのだろうか。

デマというのがデマなのか、それともただのデマなのか

東日本大震災から5年が経った。みんなすっかり忘れているみたいだが、関東も被災地だった。Twitterに千葉の製油所の火災の写真が流れてきた。遠くからも煙が見えたし、火災は21日まで鎮火しなかったそうだ。

遠くの煙を目にして、ご近所で「今に有害物質が黒い雨になって降ってくる」という話が飛び交っていたことをよく覚えている。「家にいたほうがよい」と言われたのだが「あれはデマだから落ち着いた方がよい」と言ったが、確証はなかった。誰だって目の前で工場が燃えているのを見れば、何か悪いことが起こるのではないかと不安になるだろう。100%安心かと言われれば「わからない」としかいいようがない。

後になって政府も「あれはデマだ」と発表した。ということで、この件は公式に「デマ認定」されている。

だが、これがデマではなかったと信じている人も多いようだ。隣にある工場に劣化ウランが貯蔵されており、ここにも延焼したのだという。火はすぐに消し止められ政府も「劣化ウランが漏れ出すことはなかった」と発表しているのだが、信頼しない人がいるのだ。

冷静に考えると、やはりあれはデマだったのではないかと思う。当時のデマは「製油所が燃えているので気をつけろ」というものだった。放射性物質については何一つ触れられていない。加えて「~によると」という部分がころころと変わっている。さらに「雨が降っていなかったし、降りそうもなかった」こともある。劣化ウランの件は後付けなのだろう。

実際にTwitterでのデマの拡散過程を確かめた人がいる。不確かな情報が最初にあり、それが統合する過程で断定口調に変わってゆく。Twitterをやっていない人がいるからと善意で携帯メールで拡散した人もいるらしい。

だが、人々が不信感を持つのも当然かもしれない。政府の中枢は福島対応で大混乱になっていたようだし、もともと放射線への抵抗感が強い人にちょっとでも「放射性物質が漏れる可能性がある」などとほのめかそうものなら大規模な製油所反対運動に発展していただろう。

今ではすっかり中国の手下と見なされている民主党だが、政権当時の対応から分かるようにやはり親米政権だ。民主党がすでに政治化している原子力運動の運動家たちを刺激したくなかったという気持ちはよくわかる。

何かあっても本当のことなど教えてもらえないのではないのかという不信感を払拭するのは不可能なのではないかと思える。だから、こうした話が出たときは隠蔽したり無理に否定したりせずに、そのまま鎮火するのを待つ方がよいのだという。

 

 

学生の野球を禁止すべきなのではないか

読売巨人軍の野球選手が賭博容疑で記者会見を開いていた。これを見て、学生の野球を禁止すべきなのではないかと思った。

会見を見て、この野球選手の語彙や世界認識は中学生レベルに見えた。自分で善悪の判断ができないのだろう。多分、子供の時から野球漬けで他のことを覚える必要もなかったのだろうし、周囲も覚えさせてくれなかったのではないだろうか。野球にだけ集中していればよい待遇を得られるからだ。

さらに、先輩への服従心も感じられた。もともと賭博に関与していたのは先輩選手らしいのだが、上下関係の厳しい世界では先輩に逆らうことなど考えられなかったのだろう。悪いことであっても先輩が「やれ」といえばやらなければならなかったのである。

清原元選手の件を見てもわかるように、選手たちは常に不安に苛まれている。その結果が痛み止めであり、その延長にあった薬物だった。「悪い」という意識もさほどなく、周りから勧められたら安易に手を出してしまうのではないか。法律で悪いと決まっているから悪いわけではない。その人の人生がぼろぼろになり、健康も損なうから悪いことなのだ。

会見で泣きじゃくっていた選手は野球界を追われるだろう。だが「君には迷惑をかけないから」といっていた人たちは選手の人生には責任を取ってくれない。もともと規範意識の低い人であり、他人を操った結果人生をめちゃくちゃにしても罪悪感など感じない人なのだ。

周囲からそそのかされ、カモにされた代償として選手生命を失った選手たちはこの先大変な苦労を強いられるだろう。学歴も世間知もないのだ。これが野球の明確な教育効果だ。だから、こんな教育はもうやめるべきなのである。人生そのものが賭けの対象になるという意味では競馬やパチンコなどと同じ類のものなのだ。競馬に教育効果があるなど主張する人はいない。

こうした「何の疑問もなく集団のルールに従う」人たちは危険因子ですらある。社会システムが機能不全を起こしても、こうした人たちは、リーダーや社会規範に従う。たいていの場合、弱者を攻撃したり、リーダーが「悪」と断じる人たちを攻撃することになる。「戦争に負けたけど日本は悪くない」とか「社会矛盾はすべてやる気のない弱者のせいだ」と断じるのはこうした「体育会脳」の人たちだ。これは社会にとって大変有害なことである。

日本にネトウヨ的な言論がはびこるのもこうした体育会脳のせいだろう。個別に話をしているといい人たちで人権を抑圧している意識などもなさそうだ。しかし集団になるととんでもないことを言い始める。多分、彼らにとって「中国や韓国が悪い」というのは「ボールを打ったら一塁の方向に走る」のと同じことなのだ。

特に中学生レベルで倫理判断が止まっている人たちが「自分の頭で考え出した」りするのも危険である。教習所に通わないでいきなり路上に出るようなものだ。他人を操ろうとしている悪い人は大勢いる。そうした人たちの格好の獲物になってしまう。学校で自分なりの判断能力を身につけるべきだったなどといっても、もう学生時代は戻ってこないのだ。

さて、こうした体育会系脳がうまく機能していたのは、マネジメントがそこそこしっかりしていたからなのだろう。司令塔さえしっかりしていれば、構成員が善悪を判断する必要はない。だが、読売巨人軍が賭博選手を輩出したところを見るとマネジメントは硬直化して内部から腐り始めているのだろう。嘆かわしいことではあるが、日本のオリンピック関係者がマネジメント能力を失っているところを見ると、共通した劣化要因があるのではないかと思われる。両者に共通するのはとてつもなく無能だが、周りから奉られているトップが君臨しているという点だろう。日本相撲協会の数々の不祥事も合わせると、日本の体育会系組織には重大な欠陥があるのだ。

読売巨人軍は責任を取って、失格になった元選手を職員として雇うべきだ。野球しか知らないのだから、最低限社会人としてのマナーと基本的社会スキル(実際には学校で学ぶべきだった)を教える義務がある。読売巨人軍のプロパガンダがこうした若者を大量に生産していたのだから当然だ。『巨人の星』には最終回があるが読者は星飛雄馬の人生の最終回はずっと先なのだ。

この選手は一人で記者会見させられたようだ。マネジメントの「私たちは知らなかった」という姿勢は容認されるべきではないだろう。また弁護する側の「捜査権がないので調査には限界がある」などという言質を許してはいけない。華やかな部分にだけフリーライドしておいて、問題を発見したから放逐して「自浄作用を発揮しました」などと言い放つ姿勢は容認されるべきではない。