日本人とお得感

正月に面白い話を聞いた。近所にスーパーマーケットが2つある。西友と国内系である。西友はアメックスのクレジットカードを作っており3%の割引が受けられる。Everyday Low Price戦略を取っており「いつ行っても安い価格で買え、加えて3%の割引が受けられる」という条件だ。一方国内系はレシートデーというものが決まっておりその日に買い物をしてレシートをためると20000円で1000円の金券が返ってくる。

「どちらが人気高いのか」という話である。結果的に選好されているのは国内系だ。いくつかの理由がある。

最初の理由がそれが「割引」ではなく金券のキャッシュバックだという点にある。苦労してその日に買い物しなければならないので「働いた感」が得られる。日本人は「苦労して稼いだ」という感覚が大好きなのだ。このブログでは「わざわざ列に並ぶのはなぜなのだろうか」とか「残業して死にそうになるのはどうしてなのか」などということを考えてきたのだが、苦労して稼いだ感が得られるからなのだろうと考えると納得できる。日本人は一億層マゾヒストなのである。

次に「この日にしか安く買えない」というのが行動のインセンティブになっているようだ。これはファッション業界のセールなどでも一般的だったのだが「節約志向」が一般化するに従って、もっとも強い購買のインセンティブになってしまった。つまり、セールでなければ売れないのだ。Everyday Low Priceにはこのような動機付けはなく魅力が損なわれるようである。アメリカはこうした格安店がカテゴリーキラーとなったが、日本はみんなが一様に貧しくなったために、カテゴリーキラーだらけになってしまったことになる。

さらに「専業主婦」という事情もある。クレジットカードが夫の口座に紐づけられていると3%は夫の管理になってしまう。すると何に使うかについて夫が厳しく干渉する可能性がある。しかし金券はへそくり感覚となり「好きなものが買える」という感覚が得られる。アメリカ人は個人のカードでお買い物をするのでこうした感覚がわからないのではないだろうか。苦労して特定の日付にでかけるという仕事の対価として5%の割引が得られるということになってしまうのである。

日本人はよく管理されているので、好ましい行動を取った時に褒めてあげるという手段がよく作用することがわかる。「いい子にしていると飴玉がもらえる」ということだ。飴玉とは自分だけの利権である。集団の目を盗んで個人に利得を与えることが動機になるのである。

日本人の勤勉さは美徳と考えられるのだが、これには裏面がある。Amazonのように会費をとって「明日届きます」というような施策を取ると、確かに利用頻度は増えるかもしれないのだが、配送が1日遅れただけで腹を立てて運送会社を罵倒したり、逆切れした配送会社が荷物を叩きつけたりすることが起こる。「当然の権利」をお金で買っているという感覚にしてしまうと、主人であるという感覚が過剰に働くのだろう。

よく飼い慣らされているという感覚は裏返すと「主人であれば何をしてもよい」という感情と表裏一体になっている。これは、臣民型の国民に「主人」という感覚を与えてしまうと傍若無人に振舞うというのと同じようなことなのだろう。

 

iKonって誰?

一億円の「裏金」で揺れたレコード大賞を興味本位で途中まで見た。新人賞の下りで知らない人たちが4組出てきて、結局日本語があまりうまくないiKonという韓国のグループが学芸会のようなラップ(いちおう日本語らしい)で最優秀新人賞をとった。検索してみるとエイベックスが韓国のプロダクションと組んで作ったレーベルの新人らしいことがわかった。韓流ブームはすでに去っており今更感が強いなあと思った。エイベックスは浜崎あゆみとExileが牽引してきたが、今は目立った稼ぎ頭がいなくなりつつある。そこで、新人に箔をつけようとして話題作りを狙ったのだろう。

さて、これだけだとブログにならないのでかなり無理矢理ではあるがいろいろ考えてみたい。今回のレコート大賞の特色は誰でも知っている曲が「企画」扱いされていたという点だ。PPAPとパーフェクトヒューマンである。

そもそもレコード大賞は優れた音楽や人気のある音楽を讃える賞ではない。レコード会社のプロモーションが上手くいった曲を讃えるという内輪の催事である。ところがPPAPのプロモーションにはレコード会社は関与していない。去年のクマムシの「暖かいんだから」にも片鱗が見られた。こちらはもともとはCMだが、流行はネット発であり、レコード会社の関与は後追いになっている。

レコード大賞というのは本来はアーティストが苦労して作り上げた芸術性の高いアルバムに対して贈られる賞だ。まずはティザー(焦らし)から始まり徐々に情報を解禁し、最終的にヒットに結びつけるのである。だから「ネットでたまたま当たった」ものは「単なる企画」に過ぎないということになる。

だが、実際には世間はレコードに大した関心は持っていない。幼稚園児から大学生くらいまで真似をするのは、パーフェクトヒューマンとか、恋ダンスとか、PPAPなどの企画ものだ。企画の特徴は「短くて覚えやすく、真似がしやすい」という点にある。

同じようなことはゲームでも起きていた。隙間でできる「ライトゲーム」が流行の兆しをみせていたアメリカと違い、日本のターゲットはゲームオタクであり「こなしがい」があるゲームが良いのだとされていた。これは観測していた人たちがゲーム雑誌関連の人たちだったからだ。業界のお友達が作った流行が核になっていたわけだ。

しかし、実際に起こったのはゲームオタク層の凋落だった。彼らは特殊で暗い人たちだと考えられるようになり、ライトゲームが市場を席巻することになる。「アルバム」にあたるコンシューマーゲームは開発費が高騰した(高速のCPUで高い解像度のモデルを回すためである)結果、スタジオが閉鎖された。代わりに出てきたのは一回あたりの開発費が低いが、だらだらと開発が続くケータイ型のゲーム開発方式だったのである。

いずれにせよ、レコード会社と世間は乖離している。ゲームレベールがなくなることはなかったが、規模はかなり縮小した。同じようにレコード会社が今の規模に止まることはなく、YouTubeのプロモート会社やプロダクションのようなところが台頭してくる可能性があるのではないかと思われる。

テレビは流行の発信地から、ネットでできた流行をキャッチして広げるという役割に変わりつつあるのではないかと考えられる。同じことは政治の世界でも起きている。現在は政府の言い分を伝えるのがNHKの役割だということになっている。NHKはそのために全国にくまなくネットワークを張る。これを支えるための資金をどう捻出するのかということが問題になっており、テレビだけでなくパソコンやスマホにも課金しようというような話が真剣に語られている。

これをレコード会社に当てはめると、AKB48の人気を保つために、国民にアルバムの購入を義務付けるというような話だ。だが、国民はAKB48を好きになる義務はないわけだ。つまり、国民を洗脳して一つの曲を聞かせ続けるということは少なくとも自由経済社会では不可能なのだ。

いったんドミナントな地位についた会社はなかなかその地位を降りられない。資金力が豊富にあるのでいろいろな策を講じてしまうからだ。そこで1億円払って音楽に箔をつけるというようなことが行われるわけだが、結果「それよく知らないんだけど」ということになってしまう。

レコード大賞の凋落は間接的にレコード会社が影響力を失いつつあることを暗示している。と、同時にNHKの情報発信者としての地位が凋落しつあることが、受信料の話を聞いているとよく分かる。「騒いでいる人たち」が問題なのではなく、騒がなくなった人たちが問題なのだ。

プレミアムフライデーの憂鬱

プレミアムフライデーという試みが始まるそうだ。無能な経営者に役所が加わるとなんだかめちゃくちゃなことになるんだなあと思った。

プレミアムフライデーのニュースをみたのはNHKが「毎月末の金曜日に午後三時退社を推進する」と伝えていたからだ。これをみて「早く帰っても使う金がなければどうしようもないのではないか」とテレビにツッコんだ人は多かったのではないだろうか。だが、新聞を読むと少し印象が変わる。

ブラックフライデーという言葉がある。アメリカは感謝祭からホリデームードが高まり、家族と過ごす一ヶ月がクリスマスまで続く。クリスマスが終わると通常シーズンで日本のように正月が盛り上がることはない。ブラックフライデーは感謝祭後の月曜日を指すそうで、感謝祭ギフトの売り残し処分とホリデーシーズンギフトの売り出しを兼ねているのである。アメリカの小売はホリデーシーズンに25%近くを稼ぐという統計もあるそうである。

プレミアムフライデーはつまりホリデーシーズン前提にしているので、小売業界が「毎月正月が来たらエエのになあ」と夢想ことから始まっているようだ。

これに早期退社が加わったのは何故なのかはよくわからない。安倍首相が働き方改革を進めているので、そこから連想されたものではないかと考えられる。安部側近の世耕さんの頭の中は「どうやったら首相に気に入ってもらえるのか」ということで一杯いっぱいなのだろう。それを自動的に忖度するNHKが伝えることで、なんだか支離滅裂なメッセージが生まれてしまったわけだ。

給与者の所得は減り続けている。つまり使う金がないわけで、年に12回正月が来ても使う金はない。自民党政権になってやや上向いているものの、トレンドを解消するまでには至っていない。単にリーマンショックで過剰に落ち込んだ分が戻っている程度のことだ。

加えて、小売には智恵がないので、小売シーンを盛り上げるということになれば安売りに走ることは間違いがない。セールを企画する手間は省けるだろうが、単にそれだけに終わりそうである。

この2つが加わることで「いかに安く手に入れるか」ということはゲーム化しているように思える。例えば通販サイトは定期的に「値段を下げた」品物に関する情報が送られてくることがある。これは価格情報だけが行動のトリガーになっているからだ。

最近、近所のパルコが閉店した。多くのお客が閉店セールに通っていたのでさぞかし盛況なのだろうなあと思ったのだが、出口で袋を見るとABCマートとGUの袋を下げている人が多かった。そのうち主婦たちがワゴンに群がるようになる。つまり、一部のカテゴリーキラーとワゴンだけが盛り上がっているという状況だった。「安さがプレミアム」という状態が痛感できる。

給与所得が上がらない中でテレビが盛んに生活防衛術を喧伝したためにすっかり消費者行動として根付いてしまったのだろう。

もし、プレミアムフライデーを定着させたいなら、非正規雇用の給料を大幅に引き上げて(非正規転換が進んでいるので正社員の給与をあげても給与総額は変わらないだろう)金曜日に休めるようにしなければならない。仮に正社員が金曜日に退社するようになると、非正規の人たちは金曜日に休めなくなる。増加するお客に対応しなければならないからだ。さらに、毎月正月が来ればいいのだとすれば、平日に3日くらい休みがあれば良いのではないかと思う。

しかし、そんなことをしなくても昔は「花金」という言葉があり大いに消費していた。花金だけでは飽き足らず花木(はなもく)という言葉さえあった。週休二日制度が定着しゆっくり休めるようになったことで、金曜日に遊ぶようになったのだ。プレミアムフライデーにはその頃の記憶があるのではないかと考えらえる。

プレミアムフライデーは、過去の成功体験と海外のイベントに極端に弱い今のおじさん世代の痛々しさが感じられる企画である。

マーケティングとは何かという夢の話

マーケティングとは何かを考える夢をみた。物語としてはわりと記憶しやすい夢だったがそれでも十分に混乱している。

マーケティングとは何かというシンボルマークを決めなければならないことになった。いろいろ考えた結論はピラミッドに入った一つの目だった。だが、意味がわからない。実態を見に行こうという事で隣のビルに行くと大勢の人たちが夜学に集まっていた。コピーライターを目指しているそうだが、大抵はエリートと呼ばれる人たちが発表の場を独占しており、後ろの方で立っている人たちには出番がないそうだ。うまく行けば電通に非正規で雇ってもらえるそうである。

一人のエリートでない女性がサババッテンについてアイディアを出しているのだが、長くて回りくどかった。サババッテンの歴史や栄養学的考察を一つの文章にまとめようとしている。同行していた人が「これだからアマチュアは困る」と困惑した表情を浮かべた。

彼のアイディアは簡単で、可愛いアイドルにサババッテンダンスを躍らせるというものだった。大衆は難しい事はわからないのだからサババッテンという言葉を連呼した方がよいのだという。みんなでつぶやいてみたらなんだか興奮した。

そもそもサババッテンという言葉が何を意味するのか同行していた人たちは知らないらしい。多分、長崎あたりのサバを使った料理なのだが、きっと醤油と生姜が入っているのだろうという。それではインパクトがないから、刺激を与えるためにカレー粉をたくさん入れないと売れないなという話になった。それをサババッテンというのかはわからないのだが、そんなことはマーケティングにとってはどうでもよいことなのだそうである。

注1:Wikipediaによると、三角の中に入った一つの目は「プロビデンスの目」と呼ばれるそうだ。全知全能を示し、日本ではフリーメイソンの陰謀論と合わせて語られる事も多い。太陽、月、金星の三位一体の姿とされるが、安定した状態では存在しえないという説があるそうだ。

注2:ばってんはよく考えると長崎の方言ではないように思える。熊本が本場である。ちなみにそんな料理はない。

「フィーチャーフォンがなくなる」問題

先日、ガラケーがなくなるというようなニュースを耳にした。スマホに変えるつもりはないのでちょっと慌てたのが情報がなく自分の使っているサービスがどうなるのかよくわからない。

結論からいうとすぐに何かをする必要はないのだが、日本人が他人に情報を伝えるのがいかに下手なのかがよくわかるので、詳しく書くことにした。コミュニケーションが混乱する原因は用語の混乱にある。短く言うと「ドコモはバカ」なのだ。ではどのようにバカなのだろうか。

きっかけはこのリリースだ。

ドコモ ケータイ(iモード)出荷終了について

2016年11月2日

平素は、弊社商品・サービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。

  • ドコモ ケータイ(iモード)は2016年11月~12月を目途に出荷終了し、在庫限りで販売終了いたします。ドコモ ケータイをお求めのお客様にはドコモ ケータイ(spモード)をご用意しております。
  • ドコモ らくらくホン(iモード)については当面出荷継続いたします。
  • iモードサービスは今までと変わらず引き続きご利用いただけます。

弊社は今後もお客様への一層のサービス向上に取り組んでまいりますので、何卒ご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

これ、意味がわからなかった。わかったのはiモードはすぐにはなくならないので、情報はスルーしてもよいということだけだった。

情報が混乱する直接の原因はこのほかにいくつかの定義が曖昧な言葉があるからだ。それは「ガラケー」「二つ折り電話」「フィーチャーフォン」という言葉だ。

  • FOMA – 電波の名前(古い)。
  • Xi – 電波の名前(新しい)。
  • iモード – FOMAに乗るネットサービスの名前。
  • spモード – Xiに乗るネットサービスの名前。
  • ドコモスマホ – パソコンのように使える新しいタイプの電話機でXIとspモードで使う。iPhoneを含む。実際には明確な定義はなく、アンドロイドとiOSを基幹ソフトとして使っている電話機の総称である。
  • ドコモケータイ – スマホではない電話機をケータイと言っている。一般にはスマホもケータイなので混乱する。フィーチャーフォンとかガラケーなどと呼ばれることが多いのだが、実はspモードが使える二つ折りの電話を含んでいる。また、旧来型のドコモケータイもXIが使えるものがある。スマホに定義がないので、ドコモケータイにも定義がない。
  • ガラケー – 国産電話のうちOSも自前のものを使った機種を示す俗称。ゆえにドコモケータイとらくらくフォンを含むものと思われる。ガラケーのなかにもspモード対応(もしくは専用)のものがある。
  • ドコモらくらくフォン – 高齢者や障害者向けに作られたスマホに似た電話機なのだが、spモードとiモードを含む。

つまり、ドコモケータイ=ガラケーではないわけで、ガラケーには明確な定義がない。二つ折りの中にもガラケーでないものがあるのだが、ドコモのURLはfeaturephoneという名前になっている。この中には、iモードでないものも含まれている。リリースの第一項でわざわざドコモケータイ(spモード)と書かれているのはそのためなのだが、知らないと読み飛ばしてしまうだろう。

わかっている人(ドコモの広報、オペレータ、マスメディア)はこの言葉の定義がなんとなく分かっている(だが説明はできない)ので、違いをなんとなく感じながら使い分けている。しかし、それを知らない一般の人と話をするとなんだかわけがわからなくなってしまう。オペレータになんども「それはどこに書いてあるのか」と聞いたが、誰も答えられなかった。

わからないのだが「バカにもわかりやすく話してやろう」という気持ちがあるようだ。そこで「二つ折り電話がなくなる」という新たな定義をぶち込んできて話を複雑にしていた。スマホは二つに折れないのでわかりやすいと思ったのだろう。実際には二つ折り電話の中にもなくならないものがあるし、そもそも二つ折りという概念は形態による区分けだ。概念がわからない人に別の区分けをぶつけるから喧嘩になるのだ。

日本人はすべての人が同じコンテクストを共有しているという前提で話をする。多様性を前提としていないので、コミュニティの外の人とは基本的に会話ができないし、相手がどのような概念マップを持っているのかということが想像できない。そしてコンテクストを共有しない人を「バカ」だと思う。だが、顧客のほとんどは彼らからすると「バカ」ということになるので、顧客をバカにする奴は「バカ」ということになる。

さて、混乱の原因は実はNTTの広報の情報操作の結果のようだ。日経新聞の記事を読んでみよう。

「iモード」ガラケー出荷終了へ NTTドコモ

 NTTドコモは2日、ネット接続サービス「iモード」の機能を搭載した従来型携帯電話(ガラケー)の出荷を年内で終えると発表した。対応機の部材の調達が難しくなってきたため、在庫がなくなり次第、販売を終える。iモードは一世を風靡したが、スマートフォン(スマホ)の普及に押されて利用者が最盛期の3分の1に減っていた。今後のガラケーはスマホ向けのネット接続サービス「spモード」に対応した機種に統一する。

 iモードのサービス提供は続ける。高齢者向けの「らくらくホン」や法人向けの一部機種はiモード搭載機の出荷を当面は維持する。

 iモードはドコモが1999年に始めた。携帯電話で銀行の振り込みや飛行機の座席予約など様々なサービスを手軽に使える利便性が受け、2010年3月には契約者が4899万に達した。

 しかしスマホの普及でここ数年は利用者が減少。9月末時点で1742万契約に減っていた。

この記事を「正しく読んだ」人は、ガラケーのうちiモードを使ったものがなくなるということが理解できるのだろうが、「iモード」がガラケーのあだ名であるという理解もあり得るということを想定していない。またガラケーはスマホの対立概念だと考える人も多いのはずなのだが「ガラケーはスマホ向けの」という記述が出てきた時点でわけが分からなくなる。らくらくフォンが継続するというのは結局iモード対応機種はなくなりませんよという意味なのだが補足情報になっているので関係性がよくわからない。

わけのわからない情報はスルーされる。

多分、NTTの広報は「スマホだけになる」という印象をつけたかったがクレームも怖いのでいろいろ補足情報を入れたのだろう。それを忖度した日経の記者もその筋で記事を書いたものと思われる。そのためiモードは時代遅れというニュアンスを含んだものになっている。だが、実際にはiモード対応機種はなくならないので、単なる印象操作にすぎないのだ。

混乱の原因はドコモの広報が、業務上のお知らせをプロパガンダに利用しようとしたことに起因しているらしい。かといってスマホしにろとも言い切れないので、結果的にわけのわからないことになったのだろう。

オペレータと話をして思ったのは、ドコモはしばらくiモードを止められないだろうなあということだった。らくらくフォンは障害者対策という意味合いがあるようで、これをなくすと困る人が出てきそうだからだ。そもそも、ガラケーユーザーは情報にさほど関心がないわけで、このような広報の職人芸的なニュアンスが理解できるとも思えない。多分、iモードがなくなるとか安い通話サービスい対応する電話がないと聞いたときにはじめて騒ぎだすのではないだろうか。

ロードサイド店の荒廃

Macbookが発表された。キーボードに若干変更が見られるだけで目新しさがなかったところから、失望の声も大きかったようだ。「Surfaceの方が感動した」という声があり、逆にSurfaceってそんなにすごいのかと思った。よく分からなかったので、近所のロードサイド店に見に行った。

SurfaceそのものはiPadみたいなものだった。こういうのがいいという人がいるのかと思った。Macはお金持ちの道具なので、タブレットはタブレットで買って、そのほかに3年ごとにパソコンを買い換えてねというような発想で作られている。一方マイクロソフトは、パソコンもタブレットも1台でというコンセプトのようだ。どちらがいいのかは正直分からない。

ここで驚いたのはパソコン売り場の荒廃ぶりだった。売り場には店員があふれているのだが、みんなソフトバンクなどから派遣されているようでインターネット回線を売っている。

一方、店員たちは少ない人員でいろいろなことをやらされているらしく、このぶらぶらしている回線販売員が店員を呼び出す仕組みになっているらしい。だが、店員は呼び出されたことに明らかに腹を立てていた。Surfaceなんかたいしたことはないと言い放ち「では何が売れているのか」と聞くとパソコンなんか売れないという。もはや売る気がないわけだ。最新機種はこんなところに来ませんよ、とのことだ。「パソコンを買う人はアキバに行きます」というのだ。何か売りたいものがあるのかなあと思ったが、とにかくふて腐れていて早く開放されたいようだった。

この姿勢は理解できる点がある。パソコンを電気店で買う人はいないのだろう。Amazonか直販で買うのではないだろうか。店頭に来る客は冷やかしばかりなのだろう。いわゆる「ショーウィンドウ化」だ。

そこで、店側は人員を削減して、インターネット回線を売りつける人たちに貸すことにしたようだ。不動産業態になっているわけである。最近トレンドになっているようだ。松坂屋は銀座から撤退し専門店に店を貸すことにしたというニュースを目にした。「小売はリスクがある」ということで少ないスタッフで定期収入があるほうがよいのだろう。リスクとはすなわち販売員を抱えることを意味する。労働者はリスクなのだろう。

インターネット回線はそんなに売れるのかと思ったのだが、係りの人に聞いてみると、NTTから回線を借りているので違いはないという。あとは値段とサービスなのだが、サービスにもそれほど差がないし、値段もある点に収束している。つまり、基本的に売ることができないわけだ。そこでビンゴ大会をやっていたが、あとできる努力と言えば年寄りをだますことくらいだろう。だますというより必要のない人に光回線を押し付けて、あわよくば付帯サービスも買ってもらうというのが彼らの「努力」になるのだろう。

アパレル店をいくつか見て「ああ、荒れているな」と思った。アウトレット店はまだマシなのだがデパートはかなり荒廃しているようだ。荒廃ぶりが分かるのは立ち姿とおしゃべりだ。

電気はそれ以上に荒廃しているようである。そんな中で店員は「どうせ売れない」と考えており、いやいや土日を潰しているわけだ。

メーカーはそれなりに「おお、これはすごい」といえるものを出しているはずなのだが、それはもはや伝わらない。多分、Macのようにメーカーの発表をインターネットで見るような人でもなければ新製品の良さを発見することはないだろう。つまり、それだけものが売れなくなるということになる。

今回訪れたケーズデンキはそれでもまだましな方だ。ヤマダは本業をあきらめて住宅販売に力を入れている。売り場が荒廃してしまったために誰も寄り付かず、余った売り場に生活雑貨や食品を扱うようになった。多分そのうちにロードサイド店は淘汰されてゆくんだろうなあと思った。

PCデポの炎上

PCデポという会社がある。パソコンの販売だけでなくアフターフォローに力を注いでいる。日経新聞では高齢化社会の成長産業として賞賛されているのだが、Twitterでは悪徳企業として炎上しかかっている。出火元はこちら。

一人暮らしの80歳の男性が10台のデバイスをカバーする契約を結ばされており、解約しようとしたところ、20万円を請求されたというのだ。通常では考えられない「解約手数料」なのだが、実際にはいろいろと付帯契約を結ばされていたらしい。いわゆる「押し売り」をされていたようだ。既にYahooファイナンスで問題になっており、広報のコメントにもともとの告発者が反論したりしている。

法的にはセーフなのだろう。一応、お客さんの同意を取ったようなので、契約としても成り立っている。しかし、これを見た人たちはどう思うだろうかとか、株価にどのような影響を与えるだろうかという視点が欠けているように思える。

今度は、お客のクレジットカード情報を含んだ個人情報をクラウドにアップしているという件がネットで発見された。こうなると、上場企業のコンプライアンスが疑われる。またやはり「騙されていたのか」という人たちも続々現れている。さらに1テラバイトのハードディスクに4テラバイトのクラウドを付けて5テラバイトとして売っているという案件も発見された。つまり、どんどん延焼しているのだ。

最終的には日経新聞に記事が載った。ちょっとした書き込みをきっかけに、株価が18%も下がったそうだ。

いわゆるIT企業というものが堕ちて行く様をまざまざと見せられているようで哀しい気分になった。企業にはいろいろな「収益の上げ方」があるわけだが、結局、お金を溜め込んでいる高齢者を騙して不必要なサービスを提供するようなやり方をしないと儲けることができないのだ。IT業界がオーバースペックに落ち込んでいるということが分かる。

確かに、高齢者とパソコンの関係には問題が多い。

パソコンはとても複雑な機械で、ある日突然動かなくなる可能性がある。また、高齢者のパソコンの使い方を見ていると、設計者が想像もできないようなとんでもない癖を身につけていることが多い。さらに、高齢ユーザーは「定期的にバックアップすべきだ」などという基本的な知恵がない。馴れている人ならバックアップを取ったりしてそうしたトラブルが起らないように様々な方策を取るのだが、それもまだパソコンが趣味だった時代にトラブルに遭遇して身につけた知恵だったりする。

にもかかわらず、日本の高齢者はパソコン信仰は強い。タブレットを見せても「何か本格的じゃない」という理由で使いたがらなかったりする。タブレットやスマホは女子供のものであって、自分はパソコンを使うのだという意識が強いのかもしれない。

パソコンを知っている人は通信販売で価格を比較して買い物をする。そもそもスマホで最低限の支出しかしない。価格で競合できないメーカーや量販店はあまりPCが得意でないユーザーにサービスを売らざるを得なくなる。こうした人たちに親切に対応すると疲弊する。結局、おとなしい人たちを騙して余計なものを買わせるようなサービスだけが生き残るのだ。

オペレーション上にも問題がありそうだ。社内では知識によって序列ができている。社員が偉いというわけではなく、バイトでも知識を持っている人の方が「実質的に偉い」ということが起る。2ちゃんねるを見ると教育制度は整備されていないらしいので、もともとアルバイトや社員が持っている知識を前提に成り立っているのだろう。

すると、皮肉なことに「パソコンを知らない人」つまりお客の序列が一番低くなってしまうのだ。会社からは予算(PCデポはノルマがないが、予算設定はあるそうだ)を与えられているので、当然「騙される客が悪いのだから」という意識が芽生えることになるのだろう。会社は「まじめにやっている」人と「お客を騙して不必要なものを売りつけている人」を区別することはできない。

荒れ果てたマーケットで、モラルを保つのは難しい。アップルが高い意識を保てるのは、高い金を支払うリテラシーの高いユーザーに支えられているからだ。

この問題を考えていて、一企業を責めてみても、あまり問題の解決に役に立たないことに気がついた。どうして、高齢者社会の日本では、高齢者が間違えずメンテナンスも難しくないないシステムがつくれないのだろうかと思った。バックアップが簡単でメンテナンスフリーというのはすでにiPadなどで実装されている。技術的にUIを限定するのは簡単だろう。

問題は2つあるように思える。1つは日本のメーカーに開発力がないということ。もう1つはマーケティングの問題だろう。「らくらくスマホ」と呼ばれる製品があるが、あのようなマーケティングをされると「おじいちゃん扱いするな」という気持ちになるのだろうなあと思う。

 

若者のなんとか離れを嘆く前に考える事

デジタル一眼レフを買った。中古ショップで5000円以下の品物は1つしかなかったので迷うことはなかった。できることとできないことは予め決まっている。とはいえ当初の目的は達成できたので満足だ。そこから、カメラはレンズとセンサーによってできることが変わるということも学んだ。その上、ソフトウェアもダウンロードすることができた。ソフトウエアを使うと、画像を編集したり、パソコンと接続して写真を撮影することができる。

つまり、ユーザーは品物を買うと、品物に対する体系と何ができるかということ(経験)を学ぶのだと一般化できる。逆にいうと「手に取るまで、そうした知識を身につける事ができない」ということになる。

これが迷いなくできたのは、皮肉なことに選択肢が多くなかったからだ。一般的に人間は選択肢が多すぎると選択そのものができなくなってしまうとされている。選択肢の多さが参入障壁になっているのだ。

試しに量販店に行ってみた。売り場には各社のカメラが並んでいる。いろいろなスペックが氾濫しているのだが、機能や価格は各社横並びである。同じ「写真を撮影する」という目的のために30,000円のカメラがあり、20万円のカメラもある。30000円のカメラを買って後悔するのは嫌だし、かといって20万円で失敗したら目も当てられない。売り場には各社から派遣された店員がいるのだが(大抵は契約になっているはずだ)妙な意識を働かせる。自社の製品だけをお薦めしていると思われるのが嫌なのだ。そこで「どの製品を選ぶかはお客様次第ですね」というのだ。

一度、何かのカメラを買っている人は、ここから「(自分にとって)正しい選択」ができるかもしれない。しかし、新規のユーザーは多分多すぎる選択肢の中から適当なものを選ぶ事はできないだろう。各社とも有名な俳優を使ってコマーシャルを作っているが、カメラを買うまで、誰が何を薦めているのかさっぱり分からなかった。小栗旬、平井堅、綾瀬はるか、向井理がカメラを持っていることは分かっても、どこのカメラのどのような機能を宣伝しているかは伝わらないのだ。

エントリーレベルの製品というのは各社出しているので「買わせる」ことはできるはずなのだが、エントリーレベルもプロ仕様も一律に置かれているので、却って分かりにくくなってしまうのだろう。

よく考えてみると、知識体系と経験を作る為の方策はいくつもある。

一つは学校を作る事だ。学校といっても本格的なものである必要はない。母と子のワークショップとか、そういう類いのものでも十分だ。題材もソーシャルネットワーク向きにきれいな食べ物の写真を撮影するというくらいで十分だ。重要なのは、ターゲット向けにプログラムが組まれていることだろう。

次の方策はソフトウェアを使った継続性だ。コンパクトデジカメにも本格的なソフトウェアを付ける。その品質に満足できたユーザーの中には、新しくカメラを買う時に同じ社の製品を選ぶだろう。ソフトウェアを拡張してゆくと、オンラインで写真をシェアしたり、店頭で簡単に写真を印刷できたりとさまざまな「経験」を提案することができる。こちらは若干設計が異なる。ターゲット向けに細分化してはいけないのである。

こうした総合的な経験を提供できる会社にパナソニックやソニーがある。スマホを作っていて、総合的な経験を構築しうる立場にある会社だ。しかし、日本人は縦割り意識が強く、カメラ事業(例えばソニーはコニカミノルタからカメラ事業を買っている)とスマホ事業で経験を統合するということができないようである。アップルには「独裁者」がいて、経験を統合した。ソフトウェアをプラットフォームとコンテンツに分離したのだ。

キャノンはプロフェッショナル向けの経験作りに成功しているのだが、写真に特化したことで機能を複雑化させずにすんだのかもしれない。結果的に、プロのワークフローをアマチュアユーザーにテイキョウする事に成功している。

実際のデジカメ市場ではネットワークの原理が働いているようだ。「カメラに詳しい」人がいるのだが、たいていキャノンの作った経験に沿って仕事をしているようだ。キャノンはスタジオ撮影を円滑に進める為に必要な経験をソフトウェアとして提供しているからだ。これが「デファクトスタンダード」になっているわけだ。カメラを欲しい人は、プライベートのネットワークを通じて、カメラの知識を獲得する。すると、フォロワーのカメラもキャノンということになってしまうのである。

日本の家電店は経験の拡大をやっていた。電子レンジを売る為に料理教室と提携するというのがその一例だ。しかし、家電がありふれたものになり、価格中心になるとこうした機能が失われた。結果、個人の家電店は消え、徐々に家電量販店が台頭した。皮肉なことに家電量販店はその地位をアマゾンなどの通販に取って代わられた。役割はショップというよりショーケースのようなものに代わりつつある。ショーケースに特化するなら、家電店は料理教室やカメラ教室などを運営すべきということになる。

新しい有権者としての奥田愛基

先日のエントリーでは、新しい顕示的消費という切り口から新しい消費者を眺めた。その延長線上にあったのは生産手段を持った消費者「プロシューマー」とその表現形のインフルエンサーだ。このような動きは様々なところで見られる。当然、政治も例外ではない。

去年の夏頃、学生たちがSEALDsという団体を立ち上げた。有権者の立場から政治運動に影響を与えようという行動だった。TwitterなどのSNSを使った運動と気軽に参加できるイベントが特徴だった。イベント消費は現代の顕示的消費の特徴の一つであり、奥田愛基氏はインフルエンサーと言える。

政治の世界は一般企業から大きく出遅れている。一般企業が消費者を囲い込もうとしていたのは1990年代の終わりから2000年代頃にかけてだと思われるが、政党は未だに「囲い込み」を行おうとしている。つまり、政党の支持者を作ろうとしているわけだ。

ところが有権者には囲い込まれようと言う気持ちはない。代わりに自分の持っている一票をどのように「消費するのが賢いのか」という選択を行おうとしているわけだ。当然、奥田氏側も「野党がしっかりしていればそもそも運動をする必要はなかった」としている。特に一つの政党に囲い込まれたわけではなさそうである。

ところが、旧来型の「囲い込み」にこだわっているとこの絵が見えにくくなる。一つの政策を指示することが、当然別の政党を敵視することだと考えてしまう訳である。マスコミは未だに「支持政党」を尋ねる設問を出し続け、有権者は「支持政党がありません」と答え続けている。そもそも、この絵が間違っているということに気がつくのはいつのことになるのだろうか。

もう一つ興味深いのが内発的動機への嫌悪感だ。奥田氏の運動に反発する人は「こんなに熱心に運動するということは、当然誰かからお金をもらっているのだろう」と考える。つまり、外的要因(お金や地位のこと)によってのみ人は動くという確固たる信念があるようだ。にも関わらず自分の持っている理想像を語らい、楽しげに集まる人たちというものが疎ましく思えるのだろう。

インスタグラムでリア充ぶりを発揮する人に憎悪の言葉をぶつければ「単に寂しい人」に見えるのだが、政治の世界では攻撃が許されている。中にはそれが「賢い」と誤認する人も多い。だが、よくよく考えれば、それは「信念がなくやりたいことも見つからないだけの」単なる寂しい人である。

政党マーケティングの世界は、今やメールマーケティングのような状態にある。一日に何通ものメールが送られるが、直にゴミ箱行きだ。人々が動くのは「お得情報」だけである。外的要因によってしか動かないことになる。ないしは「恐怖」だ。今動かないと大変なことになりますよというわけだが、たいていの場合それは詐欺メールだろう。だが、メールマーケティングが外的要因に依存するのは当たり前で、メールが受動的な手段だからだろう。ソーシャルネットワーキングは双方向性であり「内的動機付け」が重要になる。その人の自己認識とかどう見られたいかということが行動を作る訳だ。

企業がソーシャルネットワーキングに対応するまでには長い時間がかかった。マーケターが「ブランド・ロイヤリティ(ブランドへの忠誠)の醸成」にこだわり続けたからだ。今でもブランドは有効なのだがそれはラベルとして機能しているのであって、忠誠の対象ではない。

例えばAppleには忠誠心を持った顧客が多かったが、パソコンとしてはあまり広がらなかった。現在のAppleユーザーはiPhoneがカッコイイとか見栄えが良いと思うだろうが、決してAppleに忠誠心を持っている訳ではない。つまり、忠誠心を醸成すると広がりが失われてしまうのである。

このことから、野党側も奥田氏のような存在を有効に活用できたとも思えない。プロシューマ的人たちは「企業から独立している」ことが信用の源になっているのだから「付かず離れず」の距離を保っていた方が利得は大きかったはずだ。また、多くのインフルエンサーを集めるべきで、それを組織化してもあまり意味がないのではないかと思う。

顕示的消費の変遷

顕示的消費はヴェブレンが1890年代に出版した本で始めてコンセプトとして提示された。有閑階級(つまり働かなくても食べてゆける)人々が社会的な階級を誇示するために行う消費を顕示的消費と呼ぶ。社会階層意識がなくなるにつれて、顕示的消費は衰退するだろうというのが一般的な予想だ。

戦後の高度経済成長期の人々はこぞってよい車に乗りたがった。経済が豊かになるにつれ国民全体の社会的階層が上がってゆく実感があったからだだろう。最終的に、顕示的消費は一般の若者にも広がった。バブル時代の若者の間では、公園や劇場のようなまち渋谷を散策し、ブランドロゴが入った洋服を買うことが流行した。顕示的消費は「ブランド」と結びつくのが一般的だった。ところが低成長が続くとブランド品は売れなくなった。一般に余剰の所得が減少したからだと説明されている。こうして顕示的消費は消え、ユニクロだけが勝ち組になった。

ヴェブレンが観察したように、顕示的消費を支えていたのは社会階層だ。上流階級にあるファッションが流行る。それが映画などのメディアに乗って流され、デパートで展示される。庶民のうち比較的裕福な人が真似をし、広まる。するとファッションには顕示的効果がなくなるので、別の流行を探さざるを得なくなるというわけだ。だが、こうしたメカニズムは崩れつつある。誰が上流階級なのか、もはや判然としないからだ。

だが、顕示的な消費が消えたわけではなさそうだ。

例えば体面を保つための消費は残っている。友達の家を訪れる際に珍しいお菓子を持っていったり、玄関にフラワースタンドを飾るなどの消費は、社会的ステータスを保つために欠かせない。正月に手作りの(あるいは有名デパートの)お節を食べるというのも体面消費である。全体的に貧しくなったと言われていても、贈答品のお菓子の需要はそれほど減らないのだそうだ。顕示といってもクジャクのように見せびらかす物ではない。それは香水のようにほのめかすものなのである。

料理のように役割が移動するものもある。有閑階級は自分で料理などしなかった。料理は卑しいのだから顕示にはなり得ない。その後も料理は「主婦であればやって当たり前」のものであり顕示性はなかった。だが、現代では自分で作ったお弁当をインスタグラムにアップしたりすることがある。知識の量、手間、手先の器用さ、芸術的才能、流行を先取りするセンスといったものが必要だからだ。冷凍食品を買って済ますことができるからこそ、それが贅沢な物と見なされるのだ。

この料理をインスタグラムにアップするという形の顕示的消費にはいくつかの特徴がある。

弁当の作り手は消費者であり生産者でもある。トフラーが提唱し、もはや死語になった感すらある「プロシューマー」なのだ。プロシューマーという言葉は「商品開発に顧客の声を生かす」という形で企業に取り入れられたが、やがて衰退した。消費者が直接情報発信できるようになったからである。

次に顕示の内容が価格ではなくなりつつある。消費者は生産手段を持たなかったので価格しか顕示できなかった。しかし現代では顕示できる内容は多岐に渡り、複雑化している。現代の顕示的消費者が顕示しているものは「選択」である。

おたくは顕示的消費ではない。他者に向けて発信されるのが顕示的消費だからだ。相手に評価されなければ顕示的消費とは呼べない。一方でおたくは生産手段を持つことができ、情報そのものに価値があるのだから、顕示的消費ではないといっても、それが無意味で無価値ということではない。

つまり、情報が重要な役割を占めている。料理は単に食べるものではなく、情報として二次利用されてはじめて価値が生まれるのだ。

こうした情報を「生産」する人たちが現れた。それがユーチューバーだ。ユーチューバーが見せているのは、たいていの場合単なる消費に過ぎない。だが、その消費を紹介するだけで、月々の暮らしを成り立たせることができるのである。ユーチューバーは子供たちのあこがれの職業になりつつある。「面白おかしく毎日を消費して暮らしたい」と考える子供たちが増えているようだ。つまり、消費こそが生活なのだ。

マーケティングの世界では情報発信の主体は生産者から消費者に移りつつあるらしい。選択肢が複雑になるにつれて「キュレーター(集める人たち)」が重要だと言われ始めたが、玄人の集団であるキュレーターの時代は来なかった。代わりにバブルを迎えたのがインフルエンサーだ。影響力があり情報発信手段を持った消費者にこぞって高いマーケティングフィーを払う企業が増えており、バブルの様相を呈しているとのことである。

これにともなって「情報を統制する」ことが難しくなると同時に無意味になりつつある。物の価値はどう消費されるかによって決まるわけであり、その情報を生産者は持っていないのだ。いまや解禁日や製品コンセプトについてコントロールが完全に正当化されるのは、映画やテレビ番組の宣伝だけになった。これは情報を売っているのだから、当然と言えば当然の帰結だ。

とはいえ、ソーシャルネットワーキングだけに頼るわけにも行かない。ユーザーは紹介する素材を求めている。アーンドメディアだけでは成り立たず、それを補間する(あるいはネタを提供する)意味でもオウンドメディアが必要なのだ。

消費という経済活動はヴェブレンの時代から大きく様変わりしたように見えるのだが、基本的な構造は似ている。人々は誰かに影響を受けたがっている。ただし、社会的階層や裕福さはそのあこがれの対象にはならないようだ。何が憧れられるのかということはあまり解明が進んでいないのではないかと思われる。