園芸ショップに見る顕示消費の変化

近所に100円ショップ、中古品店、GUが並んでいるショッピングモールがある。はっきりいって「中流から落ちかけた人たち」が集まる場所という印象のところだ。ところが、そこにこじゃれた園芸店ができた。高価なインテリア植物が並び、庭先には聞いたことのないような花が並んでいる。サボテン専用の温室とカフェが併設されている。

なぜここが選ばれたのかは分からないのだが、駐車スペースが豊富なところとまとまった土地があったからではないかと思われる。建物はプレハブなのだろうが、周りの庭に見たこともないような樹が植えられており、温室も整備された。

そこに買い物に来る人たちは美男美女が多い印象がある。子連れの姿も多く見られる。特に男性が「こぎれいな」格好をしていて、平均身長も高いような気がする。高齢者の姿は全く見られない。

花の値段は「少し高い」程度だ。例えばオステオスペルマムは産地が経営するショップで100円、ホームセンターで150円というところだが、ここでは300円程度で売られている。特徴的なのは色かもしれない。一般的な赤、黄色、青といった色合いは少なく、淡い色合いの物が多い。クリーム色のペチュニアなどが売られている。こうした色合いは単体で見ると地味なのだが、寄せ植え材として群生させてそれなりの植木鉢に植えれば見栄えがする。人によっては「シック」とか「アンティーク」などと表現する色合いだ。

特徴的なのは葉ものだ。寄せ植えをグレードアップさせるためには、花よりも葉ものを充実させる必要がある。斑入り、淡い緑、ブロンズ、シルバーリーフなどを組み合わせるのが基本なのだ。ホームセンターにはこれほど豊富な品揃えはない。ホームセンターの顧客は花壇のスペースを埋める必要があり、葉っぱを入れたとしてもアイビーが入るくらいだからである。ホームセンターは花の割合が6、野菜3、葉が1という程度ではないだろうか。

園芸に何を求めるかは人によって違っている。きわめて乱暴に一般化すると、戦前・戦中生まれの高齢者は野菜や果樹が好きだ。「役に立つもの」で埋めたがる。ところが主婦になると今度は庭先や玄関に「必要最低限の飾り付け」をする必要が出てくる。園芸はその意味では贅沢品ではなく、一般消費財に近い。いわば「必要経費」なのだ。ホームセンターでは、大量に同じような花を栽培する必要があるのだ。インテリアとしての観葉植物が100円ショップでも売られているのはそのためだろう。

ところが、人よりちょっとセンスアップしたくなると、とたんに「単体では全く役に立たない葉っぱ」が重要になってくる。葉ものがあるとないとでは見栄えが全く異なる。このような園芸に注目が集まるのは「ナチュラル好き」な人が増えているからだろう。オーガニックや有機栽培などの野菜にこだわり、チアシードやエルダーフラワーといった聞いたこともない「美容によい成分」を探す。そして日曜には見栄えのよい夫と子供をつれて園芸店に繰り出すわけである。時間と資金に余裕がないとそんな生活はできないわけだが、余裕がある人たちが大勢いることが分かる。

そういう人たちを惹き付けるのが「SNSジェニック(インスタグラム映えするというような意味だ)」なお店だ。そこで「すてきでナチュラルな料理」や「珍しい樹のある庭園」などが重要な役割を果たす。

こうした人たちはブランド品を身につけているわけではなさそうだが、まとまったこぎれいな格好をしている。かつてはブランド品のロゴマークを買うことが「顕示消費」だったわけだが、顕示消費の内容は、ブランドという記号を離れ、「ライフスタイルの誇示」とか「ちょっとした幸せ」の演出に移っているのかもしれない。

価格と期待値

昨日は「消費者があまり期待しない市場」での価格形成について観察した。市場が決定する最低価格帯に価格が収斂する。まれにそこから外れる値段がつくものもあるが、それは例外的である。例えばヤフオクでは、ひと世代かふた世代前のMacにこうした動きが見られる。一方、最新型の機種ではこうした傾向は見られない。新品よりもいくらか割安な値段で取引されるし、値段にもばらつきがあるようだ。

両者を分けている価値は曖昧だが、強いて言えば「ライフスタイル」だ。スペック(速度)にはそれほど大きな違いはないのだが、やはり「スタバでどや顔」したい人たちはライフスタイルの選択肢として最新のMacを選んでいるのだ。最新型のマックには「ブランド価値がある」ということになる。

ユニクロは「あまり期待しない」人たちから脱却し、ブランド価値への移行を指向していたようだ。しかし、それを諦めて価格志向に回帰しょうとしている。週末だけ安い価格で売るのもやめるらしい。ユニクロは「品質」と「価格」を両立させる方針だという。

これが正しい選択なのかはよくわからない。価格重視の人たちは「価値にはあまり期待をしない」からだ。最低限着られればよいのである。こうした顧客たちが商品知識を持っていないとはいいきれない。商品について熟知したからこそ、あまりこだわらなくなった可能性もある。だから、消費者を教育するのも徒労に終わるかもしれない。

IMG_0133では、価格重視の人たち向けにオペレーションを省力化するのがよいのだろうか。その典型的な例がマクドナルドだ。

マクドナルドは近視眼的にコスト管理をするとどうなるかという壮大な社会実験になっている。

この写真は最近食べたマクドナルドだ。200円で買える。包みを開くと具とパンがバラバラになっていた。レストランというよりは給餌場の様相だ。話には聞いていたが、実際に見るとかなりショッキングである。日本人が持っている食堂に対する期待値を大きく損なう。

だが、これを目にすると「ああ、やっぱり」くらいの感想しか持たない。そもそも300円(税込)でコーヒー(これもまともに抽出したものかどうかは怪しいものだが)とわずかな休息さえ得られればよいのである。

マクドナルドは主婦を雇って「子供にも優しい」品質をアピールしようとしていたが、業績は回復しなかった。従業員も顧客もマクドナルドには過剰な期待はしていない。だから、高いものを食べたりはしないだろう。それくらいの価格帯で食べられるおいしい(そして期待を裏切らない)ものはいくらでもあるからである。

低価格路線を取ると品質にはあまりコストをかけられなくなる。それでも「品質」と「価格」を両立しますと言い続けなければ、マクドナルドのようになってしまうというわけだ。

このように価格は需要と供給の単純な交点ではなさそうだ。同じ品質のものでも価値観によって大きく変動してしまうのだ。

1971年にマクドナルドが日本に入ってきたとき、それは「あこがれのアメリカ」というライフスタイル商品だった。日本は40年ちょっとであこがれを消費し尽くしてしまったことになる。

Amazon PrimeのCMとコンテクスト文化

クリスマスシーズンを前にAmazon PrimeがCMを流している。配送業者らしい見知らぬ男性が何かを唱っている。多分、本国のCMを流用したものではないかと思うが、全く訴求効果がなさそうだ。それはなぜなのかを考えてみた。

アメリカ人は「説明」が大切だと考える。新しいサービスの内容を説明し、その「ベネフィット」を感じてもらおうと思うのだ。そのため、アメリカのCMはベネフィット訴求型が多い。そこで、いきなり女性が出てきてシャンプーの効果について説明を始めるというようなコマーシャルが好まれる。

ところが日本人はベネフィットにあまり関心を寄せない。見知らぬ小太りの男性が何かを唱っていても、それが自分に関係があることだとは認識しないのだ。

日本人はむしろ、周囲にいる自分と同じような人たちがサービスを受け入れているかどうかを気にする。見知らぬサービスを使っていると自分まで「不正解だ」ということになりかねないからだ。こうした周辺情報のことを「コンテクスト(文脈)」と呼ぶ。コンテクストの方がベネフィットより大切なのだ。

このため、日本人では「自分と同じ属性を持っている」人か「自分の恋愛対象になる」人と商品やサービスを関連づけるようなコマーシャルが好まれる。もしくは誰もが憧れる芸能人が使っているところを見せて「あの人のようになれるかもしれない」というような憧れを抱かせる手法もよく取られる。

このため、日本のコマーシャルではよく顔の知られた芸能人が重用される。そのような芸能人は「数字を持っている」とされるので、広告代理店が芸能人にランクをつける。バラエティ番組でもお笑いタレントが実際に大型量販店やファストフード店に行き実際に商品を試してみるような内容が好まれる。お笑いタレントは自分たちと同じだと考えられているので、彼らが使うサービスは「正解」になる可能性が高い。

一方で、アメリカのコマーシャルで芸能人が出てくるのはむしろ例外的かもしれない。「コンテクスト」は商品の本質(ベネフィット)とはあまり関係がないからだ。コンテクストが重要視されるのは高級アパレルや香水などの商品に限られるのではないだろうか。訴求すべきベネフィットが抽象的だからだ。

ハリウッド俳優は「映画の中身」を語りたがる。限られた時間の中で「本質」を語らなければならないと感じるからだろう。一方で、日本人のレポータは、その俳優がどんな人であり、受け取ったプレゼントにどんな反応をするかを知りたがる。周辺情報の方に需要があるのだ。日本人は映画でどのような内容が語られているかということにはあまり関心がなく、どのような人が作っているのかを気にするのだということになる。

こうした違いが思わぬ誤解を生むことがある。よく安倍首相は海外のプレスにちぐはぐな回答をしている。プレスの人たちは物事の本質(政治家の場合は問題の解決策を示すのが本質だと考えられる)を聞きたがっているのだが、安倍首相はコンテクスト(周囲の状況や自分がいかに信頼に足る人物かということ)を語ろうとする。これがちぐはぐさを生み出している。答えを聞いた海外プレスは不満を募らせているかもしれない。少なくとも首相の発言がニュース記事になる事はないだろう。

こうしたちぐはぐさが生まれる原因が政治家にあるというわけではない。日本の有権者がコンテクストを知りたがるからだ。選挙の時期に「支持者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行くとよく分かる。彼らは問題の本質(なぜ、それが起きて、どう解決すべきか)についてはよく知らないし興味もない。にも関わらず「今回のマニフェストがなぜ正解なのか」というコンテクストを語りたがる。

よく、安倍首相は「矢(手段)」と「目標(的)」の違いを理解していないと言われている。しかし、日本型のリーダーの役割はコンテクストと正解を提示することにあると考えられるので、物事の論理的な整合性が取れなくても構わないのだろう。正解さえ決まってしまえば、回りにいる人たちはその正解を自分が好きなように解釈し好きなように取りはからうことができる。

2009年の選挙では逆の現象が見られた。問題の本質は分析されず「政権交代が正義なのだ」というような主張がまかり通っていた。政権交代がなぜ必要で、それがどのような解決策を提示するかということはあまり重要ではなかったのだ。

こうしたコンテクストは「空気」と呼ばれることがある。

このように考えると「日本人は物事を解決できないではないか」と思えてくる。それほど問題解決に重きを置かないのかもしれない。それよりもむしろ問題を文脈に当てはめて「解決した」と見なすのではないかと考えられる。そう考えると東アジア各国の「歴史認識問題」が起きている理由がほの見えてくる。扮装をどう防ぐかということよりも、その事件がどのような意味を持っているのかというコンテクストが重要視されるのだろう。

ただ、ジーンズを探したいのだが、ファッション雑誌は僕に優しくないのだった

毎日同じジーンズを穿いているうちに、ついに股がすり切れてしまった。素直にユニクロにでも行って「普通の(スリムストレートとでも言うのだろうか)」を買えばよいのだろうが「今、どんなものが流行っているのだろうか」と思い、いろいろ調べてみた。

試しに、ファッション雑誌を立ち読みしてみたのだが、いくつか問題がある。情報が脈絡無く並んでいる上に「生き方」を雑誌に合わせなければならないらしい。なぜ雑誌に生き方を強制されなければならないのか。

次にメーカーのウェブサイトをいくつか回ってみたのだが、知っているウェブサイトはどれもとても重い。しばらく待って表示されるのは馬鹿でかいイメージ画像で、どれもなんだかぴんと来ない。さらに、ファッション系サイトというのは、どれもイベントやキャンペーンの情報ばかりが並んでいる。あれは製品を売出そうとしているのではなく、マーケターが日々の仕事や知っている人たち(いわゆるセレブ)を自慢しているに過ぎないのではないかと思う。

では、全く参考になる素材が転がっていないのか、といわれるとそうでもない。例えば、Pinterestにはユーザーが選んだ素材が多くアップロードされている。気に入った素材を検索すれば、多くの情報を手に入れることができる。日本にもWEARのようなサービスがあり、多くのコーディネートを研究することができるのだ。

素材探しは楽しいのだが、結局何を探しているのだろうか、と考えた。全体を支配する法則のようなものを見つけ出して、効率よく「すっきり見える」形を探したいのだった。

20151024-001ジーンズというのは全体を形作る部品になっている。いわゆるシルエットというものだ。昔の服装は製造工程の都合に従って直線的な形をしていた。今でも規制服の標準的なものを選ぶと、箱形のシルエットが作られるだろう。

20151024-002ところが人間の体系はどちらかというと曲線を持った楕円のような形をしている。その楕円の重心をどこに置くかによってシルエットが決まる。この何年かのシルエットはこの重心を操作することによって「新しさ」を演出しているし、きれいな楕円が作れると全体的に「すっきり」した印象が作られるようだ。太さの違うジーンズというのは、こうした全体を作る為に利用されるのだ。

20151024-003モデル体型から外れた普通の人は「細長い」すっきりとした体型を作る必要があるのだが、体型は変えられない。安い服を着るとシルエットは直線的になるので、視覚効果に頼ることになる。そこで利用されるのが「ヘルムホルツ」「ミューラーリヤー」「フィック」といった視覚効果だ。これはシルエットとは違っているが、効率よくまとめるためにはとても重要な情報だろう。

20151024-004さらに体型が整っていれば、上半身の逆三角形を強調するために、セーターやTシャツの模様などを調整することもできるだろう。これも視覚効果の一つだろうと思われる。

こうした「シルエット至上主義」はイタリアのハイブランドが腰骨ぎりぎりのジーンズを売出したころには最先端だっが、若干揺り戻してから一般化した。普通だったジーンズの丈は流行遅れだということになってしまった。最近では「ノームコア」と呼ばれるミニマムなスタイルが「流行」し(脱ファッションの流れが流行するというのは奇妙なことだが)色や装飾がなくなったぶん、洗練されたシルエットの役割がとても大きくなった。

ファッション雑誌もこうしたシルエットごとに情報をソートしてくれればいいのにとは思うのだが、いくつかの点から実施は難しそうだ。第一に、ファッション雑誌は新しい製品を売りださければならないので、シルエットやディテールを絶えず操作する必要がある。さらに、整理された情報は「整然と」しているぶんだけ、退屈に見えるだろう。雑多さが活気を現すというのはよくあることだし、読者は同じお金を出すのだったら。さまざまな情報が欲しいと思うものなのかもしれない。最後に、そもそも雑誌は情報のソートができない。

さて、このように「全体を決めるシルエットさえ見つければよいのだ」という結論になったのだが、移り変わるのがファッションというものだ。同じようなものばかり作らされているデザイナーの間には、それを打破したいと考える人も多いのではないかと思う。実際に、最近のコレクションを見ていると体型を見せないシルエットなどがぼつぼつと登場しつつあるようだ。最初は試行錯誤かもしれないが、徐々に一般に受け入れられるシルエットが登場するのかもしれない。

ネットでの情報伝達を観察する

昨日無党派層に関する記事を書いた。あまり一般受けする話題ではないのだが、意外な程流入が多かった。ソーシャルメディアを通じて広がる。どのように広がるのか、またソーシャルメディアによって違いがあるのかを調べてみた。

広がった原因は分かっている。テレビに取り上げられた話題で田崎史郎さんという人名が入っているからだ。過去の投稿でも「山本太郎」とか「麻生くん」のような人名での検索が多いことが分かっている。呼び込み文で使った文面を読むと「SEALDsの若者に狼狽する田崎史郎さん」というように読める。テレビ番組名(みんなのニュース)と「奥田愛基」という名前は入っていない。

毎回のお約束としてFacebookとTwitterで呼び込みをすることに決めている。最初に流入したのはTwitterではなくYahooだった。Twitterの投稿がそのままYahooで表示されるらしい。あとで見るとほとんどがモバイルユーザーだった。年齢層は比較的若年に偏っているが、全てが若年層というわけではない。わざわざ「田崎史郎」で検索しているらしい。どうやらYahooユーザーは時間単位で情報を追っているようだ。1時間程でピークはおさまった。

最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。
最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。

しばらく時間を置いて今度はFacebookユーザーが流入し始めた。比較的緩やかなのだが、Yahooに比べると長時間続くので全体で75%を占めるまでになった。Facebookは少し工夫がいる。通常の呼び込みは60名程度に流れるだけなのだ。ハッシュタグ(#付きの単語)をクリックすると関連したニュースを閲覧することができる。そこで関連する記事が目にとまるのだ。今回はSEALDsにハッシュタグを付けたので、この人たちはSEALDsに興味があるのだろう。この流入は日付を越えても続いた。パソコン経由の閲覧が多いので、眠れずにパソコンで情報収集している人が多いのかもしれない。

全体のモバイル比率は55%だった。このうちの半数がiPhoneだ。また、男性が75%、女性25%だった。細かな数字は下記の通り。年齢層は意外と高い。

  • Facebook (PC) 45%
  • Facebook (Moblie) 18%
  • Twitter 5% (PCが70%)
  • Yahoo 25%
  • 18-24 6%
  • 25-34 20%
  • 35-44 31%
  • 45-54 27%
  • 55-64 16%

この流入者が、田崎さんを応援しているのか、SEALDsを応援しているのかは分からない。なお、本文はどちらかを味方する形式にはなっていないので、その後シェアされることはなかった。平均滞在時間は1分30秒ほどもある(ただし、1ページのみで退出した人がどれくらいの時間滞在したかどうかは仕組み上分からない)のが意外だった。

どちらかに乗るとバイラルで広がる可能性は広がっただろうと思われる。安保法制を巡る議論は二極化が進んでいるのだが、少しでも閲覧数を多くしたい全てのメディアが二極化に加担したくなる気持ちがよく分かった。特に人名を入れると人々の関心が高まるのだから、広まりやすい文章は自ずから誰かに味方し、誰かを悪者にして罵倒することになるだろう。

出先(まさか職場では見ていないと思うのだが)でモバイルフォンを見ながら、じっくりと考察できるとは思えない。時間単位で情報ハンティングを行っているのだから、1分程度で分かる「エレベータートーク」でなければ、アイディアは伝わらないだろうし、容易に誤解されるだろう。

ノームコアとは

Wikipedia、ニューヨークマガジンの記事などから抜粋。

ノームコアはトレンド予測を手がけるK-Holeが提唱したユニセックスのファッショントレンド。気取らず平均的な衣装が特徴。用語は「普通」と「ハードコア」を組み合わせ。K-HOLEによると、ノームコアの特徴は以下の通り。

  • 条件に応じた
  • 決めつけない
  • 適応する
  • オーセンティシティに関心が無い
  • 他人に対する共感
  • 向上心を越えた態度

ニューヨークマガジンのコラムは、ファッショントレンドへの異議申し立ての意味が含まれるとしている。

自分たちを洋服で差別化したいと望まない人たちがノームコアのスタイルを支持している。手元にある服を何となく着ているわけではなく、意図的に服によって目立たないように服装を選ぶ。ファッションのトレンドがめまぐるしく変わりファッショントレンドが飽和してしまった結果に対する反応だと考える人もいる。2013年の秋から、お洒落な人とそうでない人の区別がつかなくなりつつある。ニューヨーカーのスタイルはお上りさんの服装と区別が付かなくなった。

ノームコアなアイテムはTシャツ、パーカー、半袖のシャツ、ジーンズ、チノパンツなどだ。逆にネクタイやブラウスなどはノームコアではない。こうした格好は男女共通で、結果的にノームコアはユニセックスのスタイルになる。

もともとはK-HOLEが提唱したアイディアだが、彼らはファッショントレンドとしてノームコアを提唱しているわけではない。差違やオーセンティシティに重きを置かない新しい態度だ。

K-HOLEのエミリーセガルはノームコアはシンプルなファッションを意味するのではなく、個性が消失することにより人々がつながりやすくなること意味していると説明する。

めまぐるしく変わるファッションから人々を解放するのがノームコアだと主張する人もいるが、ファッションに煩わされることなく、何か新しいことに挑戦する時間を作りたいと考えるのがK-HOLEのノームコアだといえる。

インターネットとグローバリゼーションは、個性化という神話に挑戦している。お互いにつながる事は簡単になった。ノームコアというスタイルを取り入れると何も書かれていない黒板のようなまっさらな状態で他人とつながることができるようになるのだ。

普通が一番という価値観

マイルドヤンキー(36%)

博報堂が「うちらの世界」である都市近郊や地方などに住む人たちに支持される価値観を調査し、おおよそ若者の1/3程度がヤンキーのような価値観を持っていると結論づけた。

こうした人々が可視化される背景にはショッピングモールの充実がある。

提唱者は、今までマーケティングは東京で発案され、必ずしも地方の実情を把握していないと考えている。マイルドヤンキーは、トレンド情報にはあまり関心を持たず「うちら」の保守的な価値観を大切にしている。

セグメントは外向・内向軸とITツールの利用頻度で4つに別れている。流行に敏感な(すなわち外向的な)人たちが30%を占める。つまり、マジョリティに当たる人たちのうち、ITツールを使わない(すなわちリアルでの結びつきを深め、トレンドに対してはやや保守的な人たち)が「マイルトヤンキー」にあたるものと推定できる。

Normcore(ノームコア)

Normal +Hardcore = 筋金入りの普通。アメリカのトレンド予測機関 K-HOLEが提案。トレンドがめまぐるしく変わる中、「あえて」普通を指向する価値観。

背景にはネットの登場がある。かつてはコミュニティが先にありそこでどのように目立つかということが課題だった。現在はバラバラの個人がいてコミュニティを見つけなければならない。趣味でコミュニティを細分化すると、究極的にはお互いの意思疎通は不可能になる。このソリューションとして提唱されたのが、Normcoreだと考えられる。

いわば「脱トレンド」というよりは「脱差別化」なのだが、ファッション業界ではこれを単純化して「トレンドの終焉」と理解しているようだ。K-HOLEの資料によると、定番指向とNormcoreは別の概念のようだが、実際に日本に流れてくることまでには、単純化された概念に変わるのかもしれない。2014年のトレンドは「ノームコアだ」やダサイのが格好いいという見方さえも広がっている。

ホットケーキとパンケーキは違うのか

フライパンを使って焼くケーキのことをパンケーキと呼ぶ。パンケーキには、ホットケーキやフラップジャックなどという別名がある。国によってはベーキングパウダーなどの膨張剤が入っていることもあるがこの違いは本質的なものではないらしい。膨張剤が入らないものもあるということは、小麦粉でできたクレープも基本的にはパンケーキの一種だということになる。ガレットは「ソバ粉を使ったフランス風のパンケーキなのだ」という言い方ができる。

とにかく、英語のホットケーキとパンケーキは概ね同じ事を意味するらしい。この英語の記事は「パンケーキとホットケーキは全く同じものを意味している」という前提で始まっており、「にも関わらず、日本では違うものだと認識されている」と言っている。

ホットケーキは「昭和の味」と呼べるようなものだ。厚くて甘い。それは「おやつ」や「子どものお昼ご飯」だとみなされている。格安だがボリュームがある。一方、「平成の味」であるパンケーキは薄い。生地自体にはあまり味がついていない。そして、甘いジャムやクリームなどの他に、サラダなどを乗せて食べることもある。つまり、食事としての要素が入っているのがパンケーキだと見なされているようだ。

いろいろなネットの生地を調べてみると、ホットケーキという言葉が一般的になったのは、森永製菓が出している「ホットケーキミックス」の影響が大きいらしい。発売は昭和32年だ。「粉もの」系は本格的な食事だとは見なされず、お菓子扱いされる事が多い。なぜ、森永がパンケーキを「ホットケーキ」と呼んだのかは不明であるが、東京のデパートの食堂で提供されていたからという情報がある。フライパンのパンと食パンのパンが混同されるのを避けたのかもしれない。もともとホットケーキミックスは「無糖」だったが、砂糖入りのものが出てから普及したというエピソードからも、食事としてではなくお菓子として認知された状況が分かる。

現在森永製菓は砂糖の入っていないパンケーキには、朝食としての価値もあるというマーケティグを行っているらしい。このため「お菓子として食べるのがホットケーキで、朝飯として食べるのがパンケーキだ」という認識もうまれているようだ。

ここから伺えるのは、日本人が持っている「新しいもの好き」という側面と「保守的な」側面であるといえる。東京のデパートでしか食べられない「ハイカラな」食べ物をありがたがる一方、食事には極めて保守的な障壁が存在する。そこで「ポジション」をお菓子にすると無事に導入できる。しかし、今度は「ホットケーキはお菓子」という強い印象が付いてしまった。海外からの「食事系」のパンケーキが受け入れられたのは小麦粉食が当たり前になった世代だ。今度は「食事系のパンケーキ」というマーケティングがなされるのだが、ホットケーキとパンケーキは違うものなのだという印象がうまれるのである。

ホットケーキミックスは小麦粉をさらさらに加工し、そこに膨らみやすい成分と油(多分、さくさくとした感じが出せるのであろう)を加えたものである。だから、実際にはワッフルやドーナツなどの他のお菓子にも応用できる。しかし「ホットケーキの粉」という印象があるために、ドーナツを作ってもらうためには別のマーケティングが必要になる。

「朝飯の保守的なバリア」と言っても、無理矢理に防御しているというわけではないだろう。朝飯というものは自動的に決められるので、わざわざ別のものを試そうという気持ちにはならないのではないかと思われる。一人暮らしでない限り、何かを「変革しよう」と試みても、家族を説得しなければならない。

そこで強いメッセージを使って新しい製品を導入しようという試みがなされる。メッセージが強ければ「そういうことになっている」と言えるので、家族を説得しなくてもすむ。ところがメッセージが強過ぎると却ってそこから脱却するのが難しくなるだろう。しかし、いったん脱却が進むとそこには「未開の可能性」が広がっている。結果的には、マーケティングには大きなチャンスなのだが、なかなか一筋縄ではゆかない。

100x100食べ物の好みが形成されるのは、かなり幼いうちだろう。例えばメープルシロップも「ホットケーキにかけるもの」という認識が残っており、それ以外のもの(例えばヨーグルトの甘味料)などに利用しようとは思えない。干した果物も「レーズン」が一般的だが、干したオレンジなどはなかなか広まらない。レーズンはお菓子の部類に入っているが、実際にはサラダに入れてもおいしい。しかし、サラダは塩味で食べるものという認識があるために、甘いレーズンをサラダに入れると、家族の中に拒否する人が出てくる可能性もある。

このバリアも崩れつつあるようで、パンケーキの流行の次はグラノーラだと言われているそうだ。甘いドライフルーツを朝から食べるという行為も戦後長い時間をかけてようやくバリアを乗り越えつつあることになる。

説得するためには何が必要か

日経サイエンスの別冊に、ケヴィン・ダットンの説得についての短いエッセイが掲載されていた。『瞬間説得』というタイトルで本にもなっているのだそうだ。ダットンによれば、説得には「意外性」や「共感」などの欠かせない5つの要素があるのだという。これを「ジーンズを売るため」に活用してみたい。手のこんだジーンズには価値があるのだと説得するためにはどうしたらよいのだろうか。

現在、ジーンズ産業は不況なのだという、かつてジーンズを作るためには、よい生地屋や染色屋とのネットワークを確保する必要があった。ところが、こうしたネットワークが一般に知られるようになると、価格競争が一般化した。2012年の矢野経済研究所の調査によると、2011年の全体の市場規模は急激には縮小してはいない。ところが、ジーンズ専業の会社の業績は急激に落ち込みつつあるらしい。

こんな中で面白い動きを見つけた。美大出身の俳優が「再生」をキーワードにした活動を展開している。在庫になっているジーンズ生地を見つけ出して、これに新しいデザインを加えるというものだ。最近の朝日新聞で見つけたのだが、2010年にこのプロジェクトを紹介した記事も見つかった。俳優の一時の気まぐれではなく、継続性のある取り組みだ。

朝日新聞によれば、成功したプロジェクトらしいのだが、このプロジェクトのおかげで、このジーンズブランドが復活したという話は聞かない。何が良くて、何が悪かったのかを考えてみたい。

再生をキーワードにしたのは良かった。社会に対して彼らなりの理解があり、それを実際の形にしているという点だ。これは、社会に対して同じような理解を持っている人たちに対して共感を呼ぶだろう。あの有名人が…という点にも意外性がある。意外性が重要なのは、これによって普段振り向いてくれない人が振り向いてくれるということだ。また、ラベルには馬を蘇生させるというアイコンが使われているらしい。ユーモアのような感情も重要な要素だろう。

ここに不足している要素は – あくまでもケビン・ダットンの説によればだが – ユーザーにとっての利益だろう。つまり、意外性に基づいて振り返っても、ユーザーが自分にとって利益があると感じなければ、その関係性は長続きしないのである。

確かに環境問題は重要な問題なのだが、現代の消費者たちがこうした問題に継続的な共感を寄せているとは思えない。やはり、このブランドが有名でさりげなく自慢できるとか、価格的に手頃であるとか、簡単に理解できるベネフィットが必要だ。また環境に関心を寄せるために、消費者を教育することもできる。

このプロジェクトで気になるのは、いろいろな人たちが「作り手の夢」を乗せてしまうところだ。朝日新聞は近頃の若いモノの中には気骨があって環境に関心がある人がいると思いたいのだろうし、ジーンズメーカーも起死回生の策として期待を寄せてしまうところがあるだろう。朝日新聞の場合には企業活動に対する潜在的な不信みたいなものも読み取れる。

消費者にとっての一番のベネフィットは、自分の価値観に合致するメーカーがいつまでも存続することではないかと思う。つまりなんらかの協調関係を築く事ができれば、そのブランドは存続しやすくなるはずだ。

ここから見えてくるのは、消費者と企業の間にある冷めた関係性だ。消費者は企業に絡めとられることを望んでいない。価格だけをコミュニケーションの媒介とした、その場限りの契約を好むようになった。例えば同じ価格で缶コーヒーを買うなら、話をしなければならない個人商店より、自動販売機の方が気楽だ。コンビニで店員と話をするのすらなんだか面倒だ。

また、高いだけのジーンズを買うということは、その間に中間搾取をしている人が多いということだと理解されている。で、なければこのジーンズプロジェクトで見たように不効率な在庫管理のツケを払わされているのだ。消費者はその1本のジーンズだけでなく、裏にある失敗作も買わされていることになる。

悲観的なことはいくらでも書けるのだが、「企業や経済活動そのものに対する不信」に陥っている産業程、差別化は簡単にできるのだと読み取る事もできる。プロセスを見直して価格を見直し、なおかつ対象となっている消費者への提案ときちんと向き合う体制さえ作ればよいのである。

厳しい経済環境の中「そんな簡単なことで企業再生ができるならみんなやっているよ」という声が聞こえそうだ。

と、すると次の疑問は「説得すべき相手の顔が具体的に見えているか」という点だ。このあたり、不振におちいっている業界の方はどのように考えているのだろうか。