ユニクロと女性が活躍できない社会

ユニクロが新しいコマーシャルを始めた。人はなぜ服を着るのかを消費者に尋ねている。ああ終わっているなあと思った。消費者に聞いても提案が得られるわけではないからだ。

多分、ユニクロは「人がなぜ洋服を着るのか」という根本的なところが分からなくなっているのだろう。売り場からはデザインが消えていた。チェックやボーダー柄すら少数派になり、ジーンズのダメージがデザインとして残るくらいだ。カラーバリエーションも消えていた。人気のない色がいつも売れ残っていたのだから当たり前といえば当たり前だ。代わりにユニクロが売り出しているのはストレッチとヒートテックである。つまり、ユニクロはついにデザインというものを放棄してしまったのだ。

人が洋服に機能以外のものを求める理由はいくつかある。例えば差別化やクラスの明示という機能があるが、ユニクロのような大衆服のジャンルには当てはまらない。残るのは「居心地のよさ」の価値だ。デザインというのはこの「居心地のよさ」を作るための一つの要素だと考えられる。ユニクロは「居心地のよさ」がよく分からなかったのだろう。

とはいえ、消費者の側も居心地のよさがよく分かっているとはいえない。消費者の側にあるのは「同調」と「流行」だ。他人と同じ格好をするべきでそれは毎年古びてしまうという強迫観念である。

「日本人はデザインを理解できなかった」などと書きたくなるのだが、これは必ずしも正しくなさそうだ。戦後の日本人は手作りのデザインに目覚め、その中からパリで活躍するデザイナーを輩出した。つまり、日本人が美的に優れていないということはいえないように思える。

ユニクロからデザインが消えた背景にあるのは「効率的・機能的」という価値観と「居心地のよさ」という価値観の対立だろう。前者は男性的な価値観と考えられ、後者は女性的な価値観だと考えられる。

バブルが崩壊して日本人は経済縮小を選択するようになった。ここで切り捨ててきたのが「居心地のよさ」なのだろう。快適に暮らすことを捨て、子育てや教育のように次世代を育てるための予算を切り捨ててきた。

ジェンダーギャップが大きくなっているということが話題になっているのだが、女性的な価値観は今の日本ではハンディでしかない。

だから、女性が男性の中で活躍するためには「女性らしさ」を捨てて見せなければならない。そのロールモデルになっているのが高市早苗や稲田朋美といった人たちである。つまり女性は「政治化に向いていない」という疑念があり、それを捨てるためには敢えて乱暴なことを言わなければならないので。ある。稲田朋美に至っては「これを言っておけば安心だろう」という過去の放言を蒸し返され、国会答弁で泣き出す始末だ。信条の問題というよりは、単にオウムのような存在だったのだろう。

実業でも女性は男性的な働きが求められる。電通の高橋まつりさんの件があれほど注目を集めたのは、人生をすべて企業にささげるべきだという風潮が蔓延しているからだろう。自殺したことで電通の幹部たちは「だから女は使えない」と思ったのではないだろうか。

このような社会で女性が男性並みに活躍し始めたら大変なことになる。次世代を育む役割が放棄され社会が縮小するからだ。

さて、この文章では「次世代を育てる」という役割を女性に押し付けているという反論が出てくるのをひそかに期待している。もちろん、男性が女性的価値観を身につけることは大切だ。これの反証になっているのが女性の男性化である。

女性が「私らしくいたい」のは当たり前のことなのだが、これが持ち物や夫の地位をめぐるマウンティングになることが珍しくない。つまり「居心地のよさ」の競争が行われているわけだ。共感を元にみんなが居心地よく暮らすというのが本来の女性的な価値観なのだから、これは男性的に変質しているということになる。

つまり、女性だからといって女性的な価値観を身に着けているとは限らない。日本はそれほど競争的な価値観が支配する社会なのだということが言えるだろう。

面白いことにアパレル業界はこれを男性的に乗り切ろうとしている。つまり、一生懸命大量生産してコストを削減しようとしている。その結果、売れ残りが増えているそうだ。

私が死にたいといったら…

このところ、匿名と実名ということを考えている。その関連で殺人事件や自殺について調べているうちに、精神疾患にかかると家族が崩壊しかねないということを知った。社会的にも偏見が多く、国や自治体からのサポートもほとんどない。

医療的なことも調べたのだが、誤診だった(アスペルガーと統合失調症の区別が付きにくいという話さえあった)としても、治療法は同じようなものだったりするそうである。つまり、よく分からないけどなんとなく効きそうな薬が投薬されているということだ。で、治癒するかしないかは運次第である。

残された家族は「特に悪いことをしたわけではないのに、突然不幸に見舞われた」という状態に陥るだけでなく、何が正しいのか良く分からない上に何をしていいのか誰も教えてくれないという状態になる。

ここにさまざまな「アドバイス」が入る。怪しげでお金目的の宗教もあるだろうし、まじめだが間違ったアドバイスもある。何が原因なのかよく分からないからさまざまな知識が飛び交うのである。

そこで考えたのだが、もしそういう状態に陥ったら家族に迷惑をかけたくない。すると自殺するのが一番いいことになる。だが、心神耗弱状態に陥っているわけだから計画的な自殺は難しそうである。

となると誰かに殺してもらうという方法が残る。自分の命は自分のものだと仮定すると「勝手に処分してもいい」ことになる。それを誰かに委託するわけだ。

法的な枠組みがないという点は置いておいて、テクニカルな難しさはいくつか残る。

生きたいという本能は残るので激しく抵抗することだろう。そもそも不安神経症(ラベルは何でもいいのだが)などの場合には「生きたい」という本能があるからこそ、脅威に対して敏感になるのだろう。基本的には安楽死と同じなのだが「活発に動き回る」という点が違っている。

次に「死にたい」という意思が正常な判断力に基づくかという証明が難しい。精神科医の証明が必要なのだろうが、そもそもそのようなことを考えるということは不調を意識しているということだから、すでに正常な判断ができなくなっている可能性もあるということになる。

さらに誰を<下手人>にするかという問題がある。家族に頼むとすると心理的なプレッシャーは計り知れないものになるだろう。しかし、最終的には迷惑をこうむるのは家族だから、犯罪者にしないためにもいざとなったときには「殺してもいいよ」という許可を与えておくことには意味もあるような気がする。これがないと家族が「殺人者」になるかもしれない。もてあました結果自ら手をかけるということが無きにしも非ずだからだ。

医師に委託するとしたらお金を払って治療行為の一環として殺してもらうということになる。すると、医師は医師免許を取った時点で合法的な殺人者という役割を担うことになるだろう。これは医師の社会的な地位に関わる。実際には高齢者を「治療しない」という選択を通じて医師の役割の範疇に入りつつある。

これが最後の問題だなあと思うのは「それでも生きていたい」という生の執着を捨てられないことだろう。やはり誰かに殺されるなどということは考えたくもない。そう考えるとどんな状態になっても、家族や社会の迷惑になっても生きていたいなあと思ってしまうのである。ひょっとしたらほんの短い瞬間でも生きてさえいたらいいことがあるのではないかという希望を捨てきれないのだ。

死にたいという言葉の裏には、できれば安寧に生きていたいという切なる願いがあるということが実感される。

日本では安楽死は認められていない。普段は自己責任だといわれるわけだが、命というのは本人の持ち物ではないという考えがどこかにあるのだということになる。

ただ、自殺はいけないことだという表向きの認識の裏で、自殺は犯罪扱いされず、命を使って社会的主張をすることは社会的に容認されている。だから「自爆テロ」型の自殺も起こる。経済的な問題を解決するために自分の命を処分することも行われている。たいてい自殺者の苦悩には無関心で「他人を巻き込んだ」ことだけが非難の対象になる。やはり日本は自己責任社会である。

「自分の命を処理すること」が法律的にどのような位置づけになっているのかを知りたいところではある。意外とあまり整理されていないのかもしれない。

高齢化社会に入ると、いやおうなしにこの問題に巻き込まれる人は増えて行くだろう。「かわいそう」だけでは済まされないのではないだろうか。

<キチガイ>と殺人事件報道

匿名、実名問題について考えている。「一般化」は人権問題だという視点だ。

宇都宮で自衛官が自爆テロ事件を起こした。テレビ局の報道を見ていたが、そもそもの原因が娘さんの統合失調症にあるということを伝えた局は皆無だった。NHKだけがかろうじて精神障害との関係をほのめかしていたが、多分あれだけではよく分からなかったのではないだろうか。

SNSが本人のものかどうか分からないというのが当初の「伝えない理由」だったのだが、その後なし崩し的に報道が始まったので「本人認定」はされたのだろう。だが、それでもこの件が話題にならなかったのは、精神障害が面倒なテーマだからではないだろうか。

加害者側が精神障害を抱えていても同じような問題が起こりえる。船橋と千葉で連続通り魔事件が起きたのを記憶している人も多いだろうが、その後さっぱり取り上げられなくなった。容疑者が知的障害者の療育手帳を保持していたからなのではないだろうか。

門真市でも24歳の高校生が知らない人の家に入り込んで人を殺した。小林裕真容疑者は精神疾患を患っていたとされる。こちらも母親の書いていたブログから、疾患が統合失調症だということが特定されているようだ。

殺人事件の報道の目的は他罰感情を刺激することだと考えられる。つまり「悪いやつ」を置くことでテレビを見ている人たちが善人の側にいられるわけである。しかし、そこに精神障害が介在すると話がややこしくなる。責任能力という問題があるので、視聴者の他罰感情が満たせなくなってしまうのである。

精神障害を伝えてしまうと「差別を助長しかねない」という問題がある。精神障害を抱えていると人殺しをしかねないという誤解が生まれるという懸念だ。だが、これは精神障害者をすべて一つの枠で括っている。「正常」な人が、障害者を一般化する行為なので、今回考えている「差別」の構造があることになる。結局、伝える側に差別感情があるのだ。

実はこれが障害者とその関係者を苦しめることになる。普段の社会では自分が差別主義者だと思われないように、精神障害者を括弧で括って見ないようにしている。さらに、精神障害者は何をしでかすか分からないという漠然とした印象もある。

一人ひとり違った顔があるはずなのだが、一般名詞化して閉じ込めてしまう。そして伝えないことでこの印象が更新されてしまう。

またメディアリテラシのない人たちの情報が野放しになる。小林容疑者の場合は、精神疾患の息子を残して水商売にうつつを抜かしていた冷酷な母親という像が一人歩きしたりしている。多分、身内に障害者が出たらひっそりと社会の片隅で国の保護に頼りながらひっそりと暮らせという認識があるのだろう。

しかし「括弧で括って社会から隠してしまう」という方法は取れなくなりつつある。精神障害の範疇が広がりつつあるからだ。

うつ病は治療薬ができてマーケティングが行われる前はこれほどポピュラーな病気ではなかった。中には重度の人もいるだろうし、本来薬が必要のない人が診断されているケースもあるだろう。このように「箱」を作ってとりあえず薬の飲ませるようなことは精神医療の世界では一般的に行われている。

うつ病が安易に診断されるようになった影響で、それに当てはまらない人たちにも箱ができた。それが統合失調症や不安神経症という病気である。

アメリカではACHDという枠ができた結果、10人に1人の若者が当てはまるのではという統計があるそうだ。これを精神障害に加えるかという点には議論があるが、社会的な不適合に名前をつけてとりあえず薬を与えるという点では同じ範疇だろう。結局のところ脳で何が起きているのかは分からないわけだから、誤診も多いはずだ。

ある日突然家族が何らかの精神障害を抱える。しかし、それはタブーとされているので、家族には知識が得られない。そこで知識を求めて役所に行ったり、互助グループを紹介されたりすることになる。だが、それがうまく機能しているとはいえないのだろう。医師すらよく分からないので「とりあえず名前をつけて薬を飲ませている」のが実情なのである。

宇都宮の自衛官の場合、互助組織を紹介されたものの運営方式について異見の相違があったとのことなのだが、これは会社人を経験してきた人にはよくあることではないだろうか。自治会や互助組織などの運営は、会社員経験者からみると「ゆるく」見えてしまうので、男性の方が孤立しやすい。

この家族の場合、父親は互助組織から孤立し、母親は新興宗教に頼って孤立した結果、適切なサポートが得られなかったという事情があるようだ。結果家族で殺意を向け合うという状態にまでなったが、周囲からサポートが得られず、家庭崩壊が起きた。最終的に裁判に発展した結果、裁判官に恨みを抱き、爆破事件を起こすに至ったわけである。

確かに精神障害を一括して扱うことは差別につながるので慎まなければならない。しかし、まったく伝えないことも孤立を生む。問題は「正解の枠からはみ出さないでやってきたのに、それでもうまく行かなくなってしまう」ことだ。

なおそれでも自分には関係がないと考えている人が大多数なのではないかと思う。だが高齢化社会に入り誰でも認知症のリスクを抱えるようになった。私たちが立っている地面は意外と揺れるものなのだ。

なぜ匿名の人を晒そうとするのか

青森の浪岡中学校の生徒が自殺したことに関する記事を書いた。そのときは匿名になっていたのだが、そのあと写真コンテストの件で名前と顔が公開された。この生徒にも人生があったんだなあと思うと、見える景色がまったく違ってしまう。正直、最初から名前が出ていたらああいう記事は書かなかったかもしれない。周辺情報に引っ張られるからだ。

それとは別に沖縄に派遣された警官が現地の人を「土人」呼ばわりしたというニュースに関する記事を書いた。その後TBSのニュースでビデオが放送された。そこに映っていたのは「ある警官」ではなく、無学そうな若い警官だった。まったく印象が変わった。あまり良識というものは期待できそうになく、ある程度躾けないといけないのではないかと思った。同情心はなくなった。役割に陶酔しているような印象を受けたからである。

高橋まつりさんの件は最初から名前が出ていたのでSNSのパーソナルなつぶやきとともに同情が集まった。対する電通は匿名の集団なので、心情としては高橋さんに同情が集まるのだろう。このように実名には強い感情を呼び覚ます効果があるようだ。

このように実名か匿名かということはその後のニュースがどのように流通するかということにある程度影響があるようだ。だが、それがどう働くかということは予想ができない。

この匿名実名が大きな意味を持つこともある。浪岡中学校の件では「被害者+名前」とか「加害者+名前」での検索流入が相次いだ。結構なトラフィックになる。ニュースが流れるたびに「暴いてやりたい」という気持ちが働くようだ。日本人にとっては実名を晒すというのは罰であるという側面があるようだ。加害者にはリンチ感情が働くのだろうことは想像に難くない。被害者の名前を知ってどうするのかというのはよく分からない。画されているから暴きたいという本能的な動機もあるのかもしれない。

しかし別の場所で考察したように、目の前にいる他人を叩く場合には対象物化したほうが都合がよいはずだ。対象物化とは目の前にいる他人を固有の名前を持たない一般名詞として扱うということで、匿名化してしまうということである。この場合は叩く人たちは集団として行動している。で、あればどうしていったん実名化したがるのか。

この2つの状況を見てしばらく混乱していたのだが、いったん匿名の人を実名化することによって、それをさらに一般化しなおすということが罰になっているという結論に至った。浪岡中学校の件で説明すると、加害者の名前を暴き出したあとで、再び「加害者」というレッテルを貼ることによって一般化するわけである。そこで意思決定に関するすべての権利を剥奪することを罰だと考えているのではないだろうか。

加害者が匿名だとその罰を下すことができないので実名化が必要なわけである。

逆に言うと叩かれていた人に別の属性があったのだということを知らしめることで、対象物化を防ぐこともできるということになるのかもしれない。

他人の遺書を捻じ曲げて自分の主張を正当化しようとしていると言われた

瀬戸内寂聴さんが「殺したがるばか者」という発言を謝罪した件をご記憶だろうか。今回、自分宛に届いたコメントを読んでそんなことを思い出した。

瀬戸内さんの政治的主張は置いておいて、死刑が「いけない」のは仏教的に<間違っている>からである。家族が殺されたときにそれに報復感情を持つのは当たり前のことなのだが、これは新たな因果を生む。そして因果は苦しみを招く。殺すことが罪なのではない。殺したがる感情そのもの苦なのである。

瀬戸内さんはそのことを朝日新聞の謝罪文の文末にほのめかすように書いてあるが、本当のところは瀬戸内さんにしかわからないのだし、そもそもこの件で「こだわり」を持つことをやめたのだろう。他人が代わって憶測することには意味がない。

前に書いたエントリーについてコメントをもらった。題材は中学校の生徒が自殺した問題だ。なぜこの子は死んだのだろうということを考えていて「正しい」とか「正しくない」というのは人を殺しかねないのだなと思った記憶がある。

これはちょっとショックだった。文章は読みようによっては「自殺した生徒にも落ち度があったのでは」というような内容になっている。故に「いじめた側は悪くない」というように取れるわけである。だが、実際に言いたかったことは「そもそも誰が正しい」ということが軋轢を生むということである。

この事件はすでに「正しい」「正しくない」というような波紋を作りつつある。いじめた生徒が悪いから探し出して晒せという声もある。逆に自殺した生徒の名前を探索する人も大勢現れた。家族は「単に匿名のいじめの被害者」ではなく、唯一の輝く命を持っていた存在としての娘を社会に認知させたかったようである。

コメントには「遺書にない「わざわざ」という言葉を加えることで、自分の考えた主張に誘導しようとしていると書かれていた。つまり「正しいか・正しくないかを追求することは苦しみにつながる」という文章を書いているのに、ある特定の人に味方する<主張>になっていると考える人がいたということだ。そういう意図はないと言うことはできるが、受け手にとっては理解した内容が真実なのだ。

その人はそれに腹を立て抗議のコメントを送るに至った。そしてそれを読んだ人(つまり私)は意図したのと違う<間違った>解釈をされたと腹を立てたのである。つまりは青森県で起きたいじめが新しい苦を生み出していることになる。これが因果が持っている力なのだ。

これは他人を傷つけかねない。この境目はどこにあるのだろうかと考えたのだが、結局のところ、前に考えたように外に向かうのか、内に向かうのかの違いだということになった。つまり、どちらかを罰する方向に向かえば、それは新たな因果を生み出していることになる。逆に私にとってこの事件が何を意味しているのかということを考えることは、そうした因果を超えてゆくための一つのプロセスになるだろう。

「正解は苦を生み出すのではないか」というようなことを書いておきながら、やはり正しく理解されなかったと考えてしまうことから、自分が正解にとらわれていることはわかる。これが苦を生み出しているわけで、そこから一人で抜けるのは難しい。であれば一緒にそこから抜け出す道を見つけようという意識が生まれたときに、そこに何らかの意味が生じるのだろう。

と同時に書いただけではそのことに気が付くことはできない。やはり外からのレスポンスというものがあって始めて気が付くわけだ。まったく同じ単語の羅列でもまったく違った結論が得られる。苦しみが苦しみを再生産することもあるし、それを打ち消す力にもなりえるのだ。

仏教の用語はよくわからないが、これを功徳というのかもしれない。苦しみから逃れるという作業はきわめて個人的なものなのだが、それを助け合えるという点につながりが持つ意味があるように思える。

というより、単にそう思いたいのだけなのかもしれないのだが。

東京大学卒エリート「なのに」過労死したのではない

今日の話はいささか屈折している。少しショッキングな構図を作ったほうが異常性が伝わりそうに思える。しかし、読み終えても異常さに気がつかない人も多いかもしれない。

電通の新卒社員高橋まつりさんが自殺し「一生懸命勉強したのにかわいそうだ」とか「東大まで出たのにブラック企業で働かざるを得ないとはかわいそうだ」という論評が出ている。

このためネットでは「日本でも労働規制を」という署名活動まで起きた。直感的に何か違うのではと思ったのだが、それが何なのかよくわからない。

そもそもなぜ労働時間は週に40時間程度ということになったのか調べてみた。それは1日の労働時間を8時間程度にしようというムーブメントが起きたからだ。ではなぜそうなったのか。いくつかの理由があるようだ。

労働時間が40時間程度になったのは第二次世界大戦後のことなのだそうだ。それまではヨーロッパでも労働時間はもっと長かった。だがなぜそんな動きが出たのかを書いた記事は見つけられなかった。第二次世界大戦後「人権」という概念が一般化し徐々に広まったなどと書いてあるばかりである。つまり、それは当たり前のことだとされているのだ。

まったく別のアプローチから週の労働時間を削った会社がある。それがフォードだ。フォードは自分たちの製品が「余暇」によって支えれていることを知っていた。つまり消費者がいて余暇や生活を楽しむために自動車が必要だというビジョンを持っていたのだ。そのために労働者を厚遇して余剰所得を作りなおかつ余暇の時間を作ったのである。つまり、生産者が消費者でもあるということを認識していたからこそ労働時間を削ったのである。

労働時間を規制すると人生の質が上がる。すると余暇が増えて企業も潤う。労働時間は短縮されるので時間当たりの生産性を上げてアウトプットの質を落とさないようにした。これがヨーロッパを中心に起こったことである。

また、格差縮小という動機もあったようだ。オランダは失業率を改善するためにワークシェアリングを導入して平均の労働時間を下げた。労働市場からのアウトサイダーを減らすためだと説明されている。オランダではガス田が開発され製造業が傾いた。企業の投資が資源・エネルギーセクターに流れたからなのだろう。ではなぜアウトサイダーを減らす必要があったのか。それはアウトサイダーが社会の負担になるからだ。

いずれにせよ、欧米で労働時間が削減されるのは、より快適で人間らしい生活が送りたいという欲求があったからだということがわかる。逆を言うと国民の間から「人間らしい生活を送りたい」という要望が出なければ、労働改革は進まないのである。

非民主主義国ではこれが成り立たない。例えば北朝鮮には強制労働の習慣があり、多くの国民が長時間労働で搾取されている。中には食事を与えられない人もいるそうで、仲間の死体でねずみを集めるなどというようなショッキングな話すら出回っている。このほかに海外に出稼ぎにゆかされて7割を国に搾取される人たちもいるということである。

さて、日本の事例を見てみよう。実は平均の労働時間は減少しつつある。高齢者が引退の時期を迎えて非正規に置き換わっているからである。企業は正社員を育成したがらないので、正規雇用は減りつつある。日本とアメリカを比べるとアメリカの方が平均労働時間は長い。日本人が働きすぎというのは、平均値で見ると嘘なのである。

だが、これは平均の話である。非正規が増えると管理コストは増す。それを補うために正規雇用の最下層の人たちに圧力がかかる。

ブラック企業で働かされている人は2種類いる。学生なのに飲食店などで非正規雇用に従事していて学校に行けないような人たちと、名ばかり店長のように名目上は管理職なのだが実際には末端の正社員に過ぎないような人たちだ。後者は正社員ピラミッドの最下層に位置づけられている。悪条件でパートが集まらないとこの人たちが搾取されるようになる。また「非正規への転落」を恐れて長時間労働から抜け出せない人たちもいる。

北朝鮮では長時間労働は「無理やり働かされる」ことであり強制労働とほぼ同じことなのだが、日本ではやっと正社員になれた人たちが自分から進んで入る場所だという違いがある。日本では(もし生き残れれば)賃金をもらえるという違いもある。だが、24時間働くような環境ではお金を使うことはできないわけで、ほぼ同じことなのだ。

つまり「東大を出たのに強制労働まがいの職場しかない」わけではなく、東大を出たからこそそのような職場に入ったということがいえるのだ。故に日本では強制労働所入りが特権だとみなされていることになる。

日本人はかなり倒錯した感覚を持っているのだが、日本にいるとそのことには気がつきにくい。それどころか長時間労働を自慢する人さえいる始末である。

労働時間の議論は環境問題に似ている。よい空気の下で過ごしたいのは健康で人間的な暮らしがしたいからである。ではなぜ健康で人間的な生活がしたいのか。そこには理由はない。日本では当たり前の議論なのだが、中国ような国ではこれは当たり前ではない。

しかし、日本人は中国人を笑えない。かつて日本では喘息が起きるような地域に住むことが特権だった時代がある。製鉄所の煙は「七色の煙」と言われて繁栄のシンボルだとされていたのだ。

日本人が労働時間短縮に踏み切れないのは結局のところ、人間は労働だけでなく豊かな生活を楽しむべきだという認識が持てないからなのだ。国の政策もそれを後押ししている。

自民党が推進している労働改革には二種類ある。一つはパート労働者から社会保険料の免責特権を剥奪してパート労働者を調達しやすくしつつ社会保険料の担い手を増やそううとする<改革>で、もう一つは正社員の残業支払いを免除しようという<改革>だ。双方とも労働賃金の抑制を狙っている。

これは安部政権が企業を自分たちのスポンサーだと考えているからなのだが、実際には国と企業の利益は背反する。企業が賃金や社会保険料を支払いを抑制すると、社会が生活保障を賄わなければならないからである。これはオランダの議論を見ればわかることだ。しかし、日本ではこのような議論にはならずに場当たり的な対策が議論されるばかりだ。

しかし、日本の有権者は企業の側に立った政策を支持してしまう。労働者も個人の選択として強制労働のような状態を選好している。つまり、日本人は進んで死にたがっているという結論になってしまうのである。

たとえて言えば、日本には食べ物はないが空気がきれいな田舎でおなかをすかせて死んでゆくか、公害の中で息ができなくなって死んでゆく2つの選択肢しかないことになる。

あんたが前に書いたブログを削除しろという要請が来た

いきなりTwitterのダイレクトメッセージで「記事を削除しろ」と言われた。削除しろといわれた記事はこちら。まあ、書いていればいろいろあるだろうなあとは思ったのだが、いきなり削除しろといわれると「何言ってるんだアンタ」という気にはなる。

まず「評価したブログを削除しろ」と来た。書いたブログは削除できるが評価したブログは削除できない。そこで?となった。そもそもどのブログ記事なのか書いていなかったので、何をやっていいのかすらわからない。

理由は「自分が嫌がらせを受けているから」なのだという。なぜ、他人が嫌がらせを受けたら自分が記事を削除しなければならないのだろうか。

そこで問いただしてみたところ、記事は特定されたのだが、その理由付けは「上西議員について言及したところ嫌がらせを受けるようになった」と書いてあった。その話は前に聞いたと思ったのだが、それも記事を削除する理由にはならない。そこで理由を聞いたところ「片方では感じがよくない」という。意味がまったく通らない。「一方的で感じ悪い」という意味なのかなあと類推したのだが、それでもよくわからない。インプットがあれば対話式にしたりすることはできる。

続けて「この前提示したURL(これは2ちゃんねるなのだが)に誹謗中傷を書き込まれている」というメッセージがきた。「この前」というのは8月のことだ。大体このあたりでなんとなく意思疎通ができない理由はわかった。

第一にこの人は「なぜ」と「だから」という言葉の使い方を理解していないようだ。次に自分の頭の中にある知識を相手がそのまま持っているという思い込みがあるのだろう。

一方、こちら側が期待するのは次のような文章だ。

私は~であり、あなたの書いた文章は~である。それが[具体的な問題]を引き起こしているから[特定の対応]をして欲しい。

最終的にかなり汚い言葉で「怒っている」と伝えたところ、前回の記事で「相手をほめるような部分もありそれが苦痛だった」と書いてきた。どちらかというと双方のやり取りに呆れているのだが、自分に味方してくれない=敵を評価しているという理解になっているらしい。

別のところで考えてもよいのだが、どうやらコミュニケーションに問題があっても、党派対立には鋭い感性を示す場合が多い。これがネットが炎上する直接の原因になっているものと思われる。だが、この心情がよくわからない。問題があった場合、どちらか一方が悪いということはありえないと思うからだ。

これがこの人特有の問題なのかという点はよくわからない。割と日本人一般に見られる問題なのかもしれないと思う。日本人のコミュニケーションは経験を共有していることが前提になっているので、ネット越しで会ったこともない「他者」との会話ができない。そもそも「~だから~である」という形式で説明することに慣れていない。

そこで突然「わかってくれない」と怒りだすことがあるのだが、これが「こどもっぽい」という評価にはつながらないことも多い。意外と偉い人が「説明責任」という概念を理解できない場合もある。「わかってくれない」ことは受け手側の罪になってしまうのだ。そして周りの人たちは「騒ぎが起きた」ことを問題にする。

説明をするという基礎技術が身につかないので、さまざまな議論は「敵味方」という極端な構図になりがちだ。最近では、憲法改正を唄っていた民進党が護憲派ということになり、TPPは日本を滅ぼすといっていた稲田朋美(現大臣)がTPPを推進するというようなことが起きている。立場と文脈に従って議論のプロセスも結論もすべて変わってしまう。当然、これを前提にしたTwitterの議論も人格攻撃に終止することになる。何の問題を解決したかったのかということはあまり省みられていないようだ。

冷静に考えてみて、当該のエントリーを削除しても何の影響もないなあとは思った。誰も読んでいないからだ。読み直してみたところ、特定のTweetが引用されていたのでそれは削除した。世間に迷惑をかけているとしたら、推敲されておらず文章がめちゃくちゃだったことだろう。例示のために出した文章から話が流れてしまっている。

一応、このブログのテーマは「なぜ伝わらないのか」というものなのでプロセスは残したい。なんとなく「文脈を共有しないことが問題」というアタリはあるものの具体的な問題が何なのかよくわからない。

「忙しいから後で書く」ということなのだが、書いても因果関係がよく把握できない文章が来るんじゃないかなあという気はする。相手はスマホで書いているようなのだが、まとまった文章を書くのには向いていないのでないだろうか。そもそも朝の忙しいときに「あの文章を削除してもらおう」と思ったことになる。

今回の出来事で、長い文章を書いたところで相手に論理的構成が伝わっているとは限らないんだなあという感想を持った。そうした人たちは文章というものをどのように理解しており、どれくらいの読み手がそうなのかというのはとても気になるところだ。

来年の種籾を食べる日本人

先日来、電通の過労死問題について調べている。本来ならば将来の変革の種になる人材を1年で使い潰してしまった愚かな会社の話である。つまり電通は種籾を食べているということになる。

同じような話はいくらでもある。例えば国は基礎研究の予算を絞って応用にばかり力を入れる。子育てには予算を付けずに今お金になりそうな箱物の建設を急ぐ。どれも、将来の種を今食べ尽くす類の話なのだが、不思議と国民の間も政府にもさほどの危機感はないようだ。

日本が農業国なので「種籾を食べてはいけない」というような教訓があってもよさそうだ。だが「来年の種籾を食べてはいけない」という意味のことわざや教訓はこの国にはない。

一方、飢饉の際に「種籾を食べてしまった」という話は多く伝わっているようだ。伊勢神宮には種籾石というものがあり、奉納するときに飢饉があり種籾まで食べてしまったという話が伝わってい。それ以上の説明がなく「飢饉になるほどなのに信仰心があって偉い」ということなのか、それとも別の意味があるのかはよくわからない。

それとは別に藩全体が飢饉に陥り無収入になった結果として、農民たちが籾まで食べてしまったという話がある。悪天候や虫の害などが影響しているようだ。日本には米と麦の他に代替作物がないので種籾まで食べ尽くすという事態が起こるわけだ。ネットで義農と呼ばれる人が「自分は餓死したが籾を守った」という話を読んだ。社会的なセーフティネットはなく、個人のモラルに頼ってしまうということになるようだ。その時藩主は農民に米を与えず、吉宗から罰せられたそうだ。

二宮金次郎の「報徳思想」の中には倹約してためた余剰を社会に還元する推譲という考え方が出てくるが、それ以上の体系にはなっていない。少なくとも統治やマネジメントのレベルでは「将来のために還元せよ」というような思想はない。武士階級には倹約という考え方はなく、将来取れる年貢を担保にして無制限に借金するというような財政がまかり通っていた。農民は余剰分を搾取されてしまうので、江戸後期になって生産性の向上はみられなくなった。

ここから見えるのは「自己責任」と「モノカルチャー」という伝統である。社会全体で助け合うという気持ちがないうえに、みなが一斉に同じ行動をとるので、困窮が社会全体に広がってしまうのである。

社会的なバックアップガないのに、なぜ日本人は滅びなかったのだろうという疑問が湧く。悪天候というものが5年続くことはないわけで、社会的な教訓を得る前になんとか天候が回復し、農業生産が再び回復したという経緯があるのかもしれない。ある地域で種籾を食べつくしてもよその地域が生き残ったということもあるのだろう。裏を返せば、今年の分を食べても来年また生えてくるという恵まれた自然環境の結果なのだ。

これが砂漠で生きていて十分の一税を発明せざるをえなかった西洋の人たちとは違っているのかもしれない。

現在日本は種籾を食べ始めているのだが、政治的リーダーたちは以外と「どうにかなる」と考えているフシがある。中にはオリンピックや万博などを誘致し続ければ景気は回復すると考えていそうな人たちもいる。日本の衰退は構造的なものであって、シクリカルな変化ではなさそうなのだが、そう思えないのも、反省しなくてもなんとかなった過去の経験があるからなのかもしれない。

 

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

ドラマの消失と炎上

夜、寝られずにフジテレビのドラマ「キャリア」を見た。途中までは普通のドラマだったのだが、最後の最後で主役の玉木宏に不自然な光が当たった。どうやら問題を揉み消そうとする「巨悪」であるところの国会議員とその息子を成敗する金さんという図式が作りたかったらしい。

後日、自転車に乗っているときにふと「あれは痛快スカッとジャパンだったんだ」と思った。その時に考えたのは、フジテレビってもはやドラマを作れなくなってしまったんだなあということだった。その時に思いついたのが「内省」の消滅というワードだ。日本人は自らを振り返って変化する力を失いつつあるのではないかと思った。

「痛快スカッとジャパン」はドラマではない。ドラマを見ている人をみるという複雑な構成になっている。なぜ、普通にドラマをみることができないのだろうかといつも思っていた。それはドラマの主人公や悪役に自らを重ね合わせることができないからというのが一応の答えになる。つまり、ドラマを傍観者の視点で見ているわけだ。

ではなぜ傍観者の視点で見たがるのかという点が問題になる。当事者であることにストレスを感じているというとになるだろう。これがバラエティ番組の肝だ。日本のバラエティ番組の基本構造はいじめだ。強いものが弱いものを叩いたりいじったりするのを傍観者の視点で眺めるのがバラティである。なぜそれが楽しいのかというと、自分は背後にいて「外れていない」ことを確認できるからである。

「炎上」のところでも考察したのだが、日本人は自分の言動や態度について表立って責任を取ることを極端に嫌がり、あくまでも「コロス」の役割を好んでいる。逆に強いリーダーも作らずに「空気」を醸成する。「痛快スカッとジャパン」はその延長になっており、悪役であるイヤミ課長を「誰かが成敗してくれるのを見る」のが一番心地いい立ち位置なのだが、ドラマを見ただけではそれがどのような意味を持っているかということはわからない。そこで視聴者の代表が「評価」することが求められるのだ。

つまり「痛快スカッとジャパン」は徹底的に当事者意識を隠蔽しているのである。

ドラマの本来の機能は主人公に自分を重ね合わせることにある。例えば、NHKの朝ドラに人気があるのは、主人公の女の生き方が自分と重なる時期が必ず一回は訪れるからだし、真田丸が人気なのは「何もなしえなかった不遇な主人公」が最後に「命を燃やす意味」を見つけるからだ。主役に憧れたり、乗り越えられなかった苦難を体験することでカタルシスを得るというのがドラマの基本構造と言える。

内省は必ず変化を生み出す。つまり、内省は人が変わるきっかけを作る。

制作者の意図は不明だがもし「キャリア」が数字を求めてバラエティ化していると考えると、それはドラマの自殺だということになる。バアラエティ番組はドラマの機能そのものを破壊することによって成立しているので、どんなに「かっこいい主人公」を持ってきても全く意味がないからである。できるとしたら、北町署をメタドラマ化して外から楽しむ人を追加するということくらいだろう。

今回は「内省」を軸にいろいろなことが結びついているのだが、書くことは癒しになるのかという問題を考えたことも思い返した。池田信夫や長谷川豊が「他人を攻撃する」ことを選んだのは内省を失っているからである。逆に小林麻央さんのブログに人気があるのは「がん」という変えられない現実があり、自分が「がん患者なのか母親なのか」という内省を通じて現実が持つ意味合いを変えようとしているからなのだろう。つまり、内省が人を感動するという基本路線は失われていないが、需要は低下しているということになる。

炎上が増えているのは「内省」が失われているからだ。状況を変えるためには2つのルートがある。一つは自分を変えることであり、もう一つは他人を変えることだ。炎上は他人を変えるためのとても極端な手法である。「自分は変わらない」と考える人が増えているからこそ、手を汚さずに他人を変えたいという人が増えるのである。

ドラマが成立するためには、区切られた時間と空間が必要である。これが容易に得られないのだろうと思う。したがって自らを省みる時間を得られず、かといって当事者にもなりたくないので、ネットで他人を攻撃することを選ぶという図式があるのかもしれない。