PCデポの炎上

PCデポという会社がある。パソコンの販売だけでなくアフターフォローに力を注いでいる。日経新聞では高齢化社会の成長産業として賞賛されているのだが、Twitterでは悪徳企業として炎上しかかっている。出火元はこちら。

一人暮らしの80歳の男性が10台のデバイスをカバーする契約を結ばされており、解約しようとしたところ、20万円を請求されたというのだ。通常では考えられない「解約手数料」なのだが、実際にはいろいろと付帯契約を結ばされていたらしい。いわゆる「押し売り」をされていたようだ。既にYahooファイナンスで問題になっており、広報のコメントにもともとの告発者が反論したりしている。

法的にはセーフなのだろう。一応、お客さんの同意を取ったようなので、契約としても成り立っている。しかし、これを見た人たちはどう思うだろうかとか、株価にどのような影響を与えるだろうかという視点が欠けているように思える。

今度は、お客のクレジットカード情報を含んだ個人情報をクラウドにアップしているという件がネットで発見された。こうなると、上場企業のコンプライアンスが疑われる。またやはり「騙されていたのか」という人たちも続々現れている。さらに1テラバイトのハードディスクに4テラバイトのクラウドを付けて5テラバイトとして売っているという案件も発見された。つまり、どんどん延焼しているのだ。

最終的には日経新聞に記事が載った。ちょっとした書き込みをきっかけに、株価が18%も下がったそうだ。

いわゆるIT企業というものが堕ちて行く様をまざまざと見せられているようで哀しい気分になった。企業にはいろいろな「収益の上げ方」があるわけだが、結局、お金を溜め込んでいる高齢者を騙して不必要なサービスを提供するようなやり方をしないと儲けることができないのだ。IT業界がオーバースペックに落ち込んでいるということが分かる。

確かに、高齢者とパソコンの関係には問題が多い。

パソコンはとても複雑な機械で、ある日突然動かなくなる可能性がある。また、高齢者のパソコンの使い方を見ていると、設計者が想像もできないようなとんでもない癖を身につけていることが多い。さらに、高齢ユーザーは「定期的にバックアップすべきだ」などという基本的な知恵がない。馴れている人ならバックアップを取ったりしてそうしたトラブルが起らないように様々な方策を取るのだが、それもまだパソコンが趣味だった時代にトラブルに遭遇して身につけた知恵だったりする。

にもかかわらず、日本の高齢者はパソコン信仰は強い。タブレットを見せても「何か本格的じゃない」という理由で使いたがらなかったりする。タブレットやスマホは女子供のものであって、自分はパソコンを使うのだという意識が強いのかもしれない。

パソコンを知っている人は通信販売で価格を比較して買い物をする。そもそもスマホで最低限の支出しかしない。価格で競合できないメーカーや量販店はあまりPCが得意でないユーザーにサービスを売らざるを得なくなる。こうした人たちに親切に対応すると疲弊する。結局、おとなしい人たちを騙して余計なものを買わせるようなサービスだけが生き残るのだ。

オペレーション上にも問題がありそうだ。社内では知識によって序列ができている。社員が偉いというわけではなく、バイトでも知識を持っている人の方が「実質的に偉い」ということが起る。2ちゃんねるを見ると教育制度は整備されていないらしいので、もともとアルバイトや社員が持っている知識を前提に成り立っているのだろう。

すると、皮肉なことに「パソコンを知らない人」つまりお客の序列が一番低くなってしまうのだ。会社からは予算(PCデポはノルマがないが、予算設定はあるそうだ)を与えられているので、当然「騙される客が悪いのだから」という意識が芽生えることになるのだろう。会社は「まじめにやっている」人と「お客を騙して不必要なものを売りつけている人」を区別することはできない。

荒れ果てたマーケットで、モラルを保つのは難しい。アップルが高い意識を保てるのは、高い金を支払うリテラシーの高いユーザーに支えられているからだ。

この問題を考えていて、一企業を責めてみても、あまり問題の解決に役に立たないことに気がついた。どうして、高齢者社会の日本では、高齢者が間違えずメンテナンスも難しくないないシステムがつくれないのだろうかと思った。バックアップが簡単でメンテナンスフリーというのはすでにiPadなどで実装されている。技術的にUIを限定するのは簡単だろう。

問題は2つあるように思える。1つは日本のメーカーに開発力がないということ。もう1つはマーケティングの問題だろう。「らくらくスマホ」と呼ばれる製品があるが、あのようなマーケティングをされると「おじいちゃん扱いするな」という気持ちになるのだろうなあと思う。

 

「独島」という悲劇

韓国の国会議員が終戦記念日に竹島に上陸した。これを重大な挑発行為だと考える向きもあると思うのだが、今日は終戦記念日だ。すこし違った角度から見てみたい。

日本は民主的な過程で第二次世界大戦に突入した。少なくとも戦争が始まった時点では国民は軍部を支持していた。そしてかなりはっきりとした敗戦を迎えた。国力の差は明確で「うまく行けば勝てるかもしれない」というようなレベルの違いではなかった。日本人は自由意志で戦争に参加し、はっきり「負けたのだ」と考えることができた。

ところが韓国は自らの意思で戦争に参加したわけではなかった。中国はかろうじて戦勝国としての地位を与えられたが、朝鮮人はその列に加わることもできなかった。日本は半島を解放したが、米ソから自治能力がないと見なされ、戦後も植民地扱いを受けた。その後、外国を巻き込んだ内戦が始まり、国土が破壊された。つまり、8月15日は韓国人に何ももたらさなかったのである。

韓国は、列強と見なされないばかりか、主権があるとさえ思われなかった。つまり自由意志がなかったのだ。このことは、韓国人の自意識に大きな傷を残した。

その後も韓国は戦勝国のステータスを求め続け「対馬が欲しい」などと主張して戦勝国側に無視されている。南千島はソ連にとってトロフィーみたいなものだが、韓国も同じようなものを欲しがった。しかし、韓国には与えられなかった。

もともと朝鮮半島は文化的に進んだ地域だったのだが、中華秩序に安住しているうちに社会の進展が妨げられ、明治維新期までに取り返しがつかないほどの差がついていた。同じ東洋圏の日本は世界屈指の列強国となって行くのだが、朝鮮半島は滅びつつある清のそのまた属国という社会的地位に甘んじなければならなかった。

その惨めな韓国が唯一武力で外国から勝ち取ったもの、それが竹島なのだ。イスンマン大統領が一方的に漁業管轄権を主張し、漁民に発砲したりした。つまり、竹島を見せびらかすことで「戦勝国気分」を味わうことができる。逆に言えば、韓国はそれ以外の手段で戦争に勝つことがどんなことなのかが体験できない国なのだ。

終戦の日には他者にたいして寛容でありたいと思う。と、考えると韓国国会議員団の行動がとても哀しい意図を持っていることがわかる。竹島でどんなに力強く太極旗を降ったところで、韓国が日本に占領されていた歴史は変えられない。北朝鮮との間でどんなに経済的に優位に立っても、自分たちの歴史が誇れないのだ。

と、同時に日本にとっての竹島は靖国神社なのだということが分かる。外国が反対すればするほど靖国神社に行くことが「負けていないこと」に思えてくるのだ。しかし、靖国神社に参拝したからといって戦争に勝ったことにはならない。外国から冷めた目で見ると、それは単に自分を騙そうとしているようにしか見えないのではないだろうか。

終戦の日に考える – 戦争はいけないことなのか

今日は終戦の日だ。この季節になると、あの戦争は間違っていたというテレビ番組が流される。「軍部の暴走」で始まった戦争は個人の力では止められず、原爆のような非人道的な兵器が使用さえれ、多くの無辜の民が巻き込まれたというストーリーになっている。

きつい言い方になるが、そうした言葉を鵜呑みにする人たちは、自民党を応援してリベラルな人たちを罵倒する人たちとたいして違いがないと思う。大勢が信じることを言っていれば、絶対に賛同してもらえると信じているのだろう。

実は、戦争には経済的な効能がある。平等に生産施設を破壊されるので、格差が是正される効果があるのだ。現在、経済成長が鈍化しているのは先進国で需要が満たされてしまっているからなのだが、戦争は数年に渡る破壊活動は人々の「満たされたい」という気持ちを高める。この結果、大規模な経済成長が生まれ、新しいイノベーションの温床になるのだ。

同じように長年の対立も格差の解消に一役買っている。資本主義経済が比較的うまくいっていたのは、共産主義の脅威に対峙していたからだった。共産主義に触発された叛乱を防ぐために政治家は自国の労働者に分配せざるを得なかった。例えば、日本は共産国に囲まれていたために、社会主義的な分配機能が働いた。詳細に見ると、共産主義に影響された政治勢力があり、そこに票を奪われないために政権政党が分配政策を取っていたのだ。東西冷戦が終わると政権政党には分配のインセンティブがなくなったので「格差社会」が作られることになった。

つまり、現在の低成長や格差は、大規模な戦争や対立を通じて解消しうるのだ。

なぜ戦争を反対する立場から、戦争の効能を考えなければならないのだろうか。私たちは戦争の効能に変わりうる手段を発明していないからだ。資本主義は破壊を前提になりたっている。それが抑止されてしまったことで資本主義の一部が崩れてしまったのである。

では、戦争を代替しうる手段とはどんなものだろうか。

戦争には人を団結させる力がある。この争いを模式化したのがスポーツだ。国家間のスポーツ合戦が今行われているオリンピックである。オリンピックを見ていると世界各地でたくさんの戦争が開発されていることが分かる。なかにはレスリングや柔道のように似たような物もある。英語のWikipediaには操競技のあん馬の起源は兵士が馬の乗り降りの訓練がもとになっているという説が掲載されている。アーチェリーや射撃のような軍事訓練も競技として取り入れられている。

オリンピックは4年に一度、国家が巨大な需要を作り出すプロジェクトになった。オリンピックの要点はそれが途方もない無駄遣いであるということになる。

終戦の日には犠牲になった人々のことを考える日にしたいというのはもちろんなのだが、それだけで終わるのは少しもったいない気がする。戦争はなぜ必要だったのかを考えることにより、新しい発見があるかもしれない。結果的にはそれが新しい戦争を防ぐ知恵になるだろう。

 

SMAP解散に寄せて

昨晩はSMAPが解散するということで大騒ぎだったようだ。NHKは速報まで流したのだという。もともとはサイゾーが流した話だったが、一夜にして事務所発表ということになってしまった。時期を選んでオリンピックシーズンにぶつけたというわけではないかもしれない。

SMAPの経済効果を調べたところ、ファンクラブ(98万人が4000円の会費を払っているそうだ)収入とコンサート収入をあわせて100億円以上あるという。解散によってこれが消えてしまうことになる。

また、最近視聴率の低下に悩むフジテレビも看板番組を失う。12月まで活動するということだが、冷えきっていることが分かっているグループの番組を見たいと思う人は減るだろう。さらに、所属レコード会社であるビクター・エンターティンメントも稼ぎ頭の一組を失う。ビクター・エンターティンメントには他にサザンオールスターズなどがいるのだが、往時に比べると勢いは衰えているようだ。

SMAPが解散に至った直接の原因は、大きくなったプロダクトの一部を壊してしまったことにある。ジャニーズ側としてはマネージメントの飯島氏からプロダクトを分離して、自分たちのコントロール下に置きたいという思惑があったのだろう。しかし、現実には飯島氏はSMAPの一部であって「一緒にグループを育ててきた」という意識が強かったようだ。それを見誤った会社側は少なくとも100億円を瞬時に失うことになってしまった。

事務所側は危機管理に失敗した。関係者を巻き込んで「マネージャーが暴走した」という物語を作ってファンを納得させようとした。ジャニーズのタレントと良好な関係を保ちたいスポーツ新聞各社はあたかもこれが客観的事実のように報道したが、女性週刊誌はジャニーズの報道におつきあいしつつ、たびたび「香取慎吾が仲間内で脱退の話をしている」などと報じてきた。

しかしながら、最大の失敗はプロダクトを発展的に次の段階に持って行けなかったことだろう。アイドルグループは、コンサートで唄わせて、テレビ番組で仲がいいところを見せるという図式しか描けなかった。しかし、フジテレビが27時間テレビで「疲れるまで踊らせる」という企画を組んだ時点でSMAPは「アイドルのパロディー」になっていた。フジテレビやビクター・エンターティンメントという老舗企業がSMAPに依存しており、解散ができなかった。と、同時に新しい活躍の形を示すことができなかった。

SMAPの末路は、嵐などにも通じるのだろうか。その参考になるのがSMAPの前にいた2つのグループだ。

シブがき隊は解散したあと、メンバーの一人である本木雅弘が表現力のある俳優としてブレイクした。このようにグループ時代の知名度を活かして活躍する道がある。一方で、少年隊は未だに存続しているが、グループとしての活動は行われていない。大きく少年隊に依存する企業がなかったために、活動を段階的に縮小することができたものと思われる。東山紀之はテレビ番組のナビゲータや刑事ドラマの主役として認知されている。

 

 

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。

真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。

それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。

しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。

どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。

しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。

だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。

だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。

上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。

プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、

デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。

こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。

ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。

つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。

「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。

若者のなんとか離れを嘆く前に考える事

デジタル一眼レフを買った。中古ショップで5000円以下の品物は1つしかなかったので迷うことはなかった。できることとできないことは予め決まっている。とはいえ当初の目的は達成できたので満足だ。そこから、カメラはレンズとセンサーによってできることが変わるということも学んだ。その上、ソフトウェアもダウンロードすることができた。ソフトウエアを使うと、画像を編集したり、パソコンと接続して写真を撮影することができる。

つまり、ユーザーは品物を買うと、品物に対する体系と何ができるかということ(経験)を学ぶのだと一般化できる。逆にいうと「手に取るまで、そうした知識を身につける事ができない」ということになる。

これが迷いなくできたのは、皮肉なことに選択肢が多くなかったからだ。一般的に人間は選択肢が多すぎると選択そのものができなくなってしまうとされている。選択肢の多さが参入障壁になっているのだ。

試しに量販店に行ってみた。売り場には各社のカメラが並んでいる。いろいろなスペックが氾濫しているのだが、機能や価格は各社横並びである。同じ「写真を撮影する」という目的のために30,000円のカメラがあり、20万円のカメラもある。30000円のカメラを買って後悔するのは嫌だし、かといって20万円で失敗したら目も当てられない。売り場には各社から派遣された店員がいるのだが(大抵は契約になっているはずだ)妙な意識を働かせる。自社の製品だけをお薦めしていると思われるのが嫌なのだ。そこで「どの製品を選ぶかはお客様次第ですね」というのだ。

一度、何かのカメラを買っている人は、ここから「(自分にとって)正しい選択」ができるかもしれない。しかし、新規のユーザーは多分多すぎる選択肢の中から適当なものを選ぶ事はできないだろう。各社とも有名な俳優を使ってコマーシャルを作っているが、カメラを買うまで、誰が何を薦めているのかさっぱり分からなかった。小栗旬、平井堅、綾瀬はるか、向井理がカメラを持っていることは分かっても、どこのカメラのどのような機能を宣伝しているかは伝わらないのだ。

エントリーレベルの製品というのは各社出しているので「買わせる」ことはできるはずなのだが、エントリーレベルもプロ仕様も一律に置かれているので、却って分かりにくくなってしまうのだろう。

よく考えてみると、知識体系と経験を作る為の方策はいくつもある。

一つは学校を作る事だ。学校といっても本格的なものである必要はない。母と子のワークショップとか、そういう類いのものでも十分だ。題材もソーシャルネットワーク向きにきれいな食べ物の写真を撮影するというくらいで十分だ。重要なのは、ターゲット向けにプログラムが組まれていることだろう。

次の方策はソフトウェアを使った継続性だ。コンパクトデジカメにも本格的なソフトウェアを付ける。その品質に満足できたユーザーの中には、新しくカメラを買う時に同じ社の製品を選ぶだろう。ソフトウェアを拡張してゆくと、オンラインで写真をシェアしたり、店頭で簡単に写真を印刷できたりとさまざまな「経験」を提案することができる。こちらは若干設計が異なる。ターゲット向けに細分化してはいけないのである。

こうした総合的な経験を提供できる会社にパナソニックやソニーがある。スマホを作っていて、総合的な経験を構築しうる立場にある会社だ。しかし、日本人は縦割り意識が強く、カメラ事業(例えばソニーはコニカミノルタからカメラ事業を買っている)とスマホ事業で経験を統合するということができないようである。アップルには「独裁者」がいて、経験を統合した。ソフトウェアをプラットフォームとコンテンツに分離したのだ。

キャノンはプロフェッショナル向けの経験作りに成功しているのだが、写真に特化したことで機能を複雑化させずにすんだのかもしれない。結果的に、プロのワークフローをアマチュアユーザーにテイキョウする事に成功している。

実際のデジカメ市場ではネットワークの原理が働いているようだ。「カメラに詳しい」人がいるのだが、たいていキャノンの作った経験に沿って仕事をしているようだ。キャノンはスタジオ撮影を円滑に進める為に必要な経験をソフトウェアとして提供しているからだ。これが「デファクトスタンダード」になっているわけだ。カメラを欲しい人は、プライベートのネットワークを通じて、カメラの知識を獲得する。すると、フォロワーのカメラもキャノンということになってしまうのである。

日本の家電店は経験の拡大をやっていた。電子レンジを売る為に料理教室と提携するというのがその一例だ。しかし、家電がありふれたものになり、価格中心になるとこうした機能が失われた。結果、個人の家電店は消え、徐々に家電量販店が台頭した。皮肉なことに家電量販店はその地位をアマゾンなどの通販に取って代わられた。役割はショップというよりショーケースのようなものに代わりつつある。ショーケースに特化するなら、家電店は料理教室やカメラ教室などを運営すべきということになる。

ボン・ジア!

リオオリンピックが始まってずっと気になっていたことがある。それがキャスターたちの「ボンジーア」だ。なんとなく挨拶であることは分かるのだが、発音が「ア」になるのはおかしいのではと思ったのだ。

これ日本人がまじめに発音するのはほぼ不可能らしい。ちなみに綴りは、Bom DIaである。発音記号はこのサイトで確認したこちらではポルトガル語との違いが書いてある。

まず、omだが実際にはoにティルダがついた発音になるようだ。日本語のンではなく母音の一種だ。母音なのにンと聞こえてしまうのだ。「鼻母音」としてフランス語の授業でやらされた人もいるかもしれない。東京外国語大学の説明は悪魔の教典のようである。サンパウロのンなど、ポルトガル語には、この音が多用されるという。音を聞いても、onと区別がつかない。中には表記に引きずられて「口を閉じるン」と解説している人もいた。ちなみに日本語ではサンマのンが「口を閉じるン」だ。が、ティルダのついた母音は口を閉じない。繰り返しになるが、悪魔の発音。

次にDiaだが、いろいろな説がある。ディと発音する地域とヂと発音する地域があるようだ。ポルトガルとブラジルで違うという人もいるし、サンパウロとリオデジャネイロで違っているという人もいた。Asiaのジと違って、破裂が伴うヂである。日本語には(一部弁別する地域があるそうだが)この区別はないのだが、英語圏なのでは全くの別物である。日本人のキャスターはほとんどがジと発音していると「思う」。日本語は区別しないので弁別ができない。だから、なかにはちゃんと発音している人もいるのかもしれない。

しかし、難物はこちらではなくaの音だった。ポルトガル語のaには二種類あるらしい。こちらは閉じたaと呼ばれるそうで、aをひっくり返した記号を使うようだ。Wikipediaは中舌狭めの広母音と呼んでいるようだが、聞いてもよく分からなかった。Wikipediaでは音声サンプルが聞けるのだが、少しくぐもった暗い印象がある。日本語のアより舌を奥に置くようだ。

ということで、ブラジル風に発音しようとすると、ヂで舌を微妙にならしてから舌を引っ込めてアを発音するとカリオカ気分が堪能できそうだ。

ということで、カタカナで書けそうなBom Diaなのだが、実際には正しく発音できたとしても、自分が正しく発音しているかどうかすらよく分からないだろうということになる。

ちなみにカタロニア語ではBon DIaと書くそうだが、oは開いたオの音らしい。nは日本語にもあるンの音だ。Diはディと発音し、aは普通のアである。

一橋大学の同性愛者自殺裁判

一橋大学のロースクールで同性愛者が自殺をしたというニュースがTwitterで話題になっている。クラスメイトの男性の告白をしたところ断られた上に、告白されたことを暴露されたらしい。結果、パニック障害になったのだが、大学側は適切な援助をせず「ちゃんと授業にでないと卒業できないよ」と逆にプレッシャーを与えたというのだ。

これを受けて多くの人が「大学の対応はけしからん」と言い、被告男性を責めた。大学側は性同一性障害と同性愛の区別すらついていなかったらしく「え、そこからですか?」という驚きはある。また、告白された側の男性が「人間のクズ」であることは間違いがない。

しかし、大学や被告を責め立てたとしても問題は解決しない。

同性愛者がマイノリティとして生きて行かなければならないというのは事実だ。マイノリティにはマジョリティ以上の「胆力」が求められる。ある程度強くなければ生きて行けないのだ。だが、同時にマイノリティはそれほど珍しい存在ではない。

例えば新宿二丁目に行けば同性愛の人が大勢いて、この手の「失恋話」は珍しいことではないだろう。「かわいそうねえ」と同情してもらえることもあるだろうし「そんなの当たり前じゃない」という人もいるにちがいない。同性愛だけがマイノリティではないことを考えると、以外とありふれた存在である。

そのように考えると、この大学の特殊性が浮かび上がってくる。一橋大学のようなエリート校のロースクールに入るためには、社会勉強をしている時間はなかったのかもしれない。その上、学校関係者もエスタブリッシュメントばかりを相手にしてきたのだろう。そういう「どマジョリティ」の人たちは、同性愛と性同一性障害の区別すらつかなかったのだ。

ロスアンジェルスでは男性同士がベッド一つの家に住んでいるというのは自慢したり悲観したりするほど珍しいことではない。その人たちがオネエ言葉で話すということもないし、スカートをはいて社会生活をしているわけではない。芸能界にはオネエ言葉の弁護士などがいて、良い稼ぎをしている。そういう人たちをみて顔色を変えることは政治的には正しくない態度だと考えられている。「あなた同性愛者なのか」と聞くこともない。さらに民族的なマイノリティエスタブリッシュメント(顕著なのはユダヤ人だが、その他にイラン人のコミュニティなどがある)層が住んでいる。このような多様性が都市の繁栄を支えている。

この多様性をふまえた上で日本社会を考えると、マイノリティ問題は実は深刻な問題を含んでいる。さらに、ここがロースクールだったことを考えると、その閉鎖性は致命的だ。法律家は人権問題を扱う訳だが、人権抑圧される人は何らかの意味で少数派だ。しかし、その当事者が少数派に対するまなざしを持っていない。それどころか「マジョリティ」を偽装しなければ生きて行けないほど均質な社会なのだ。そのような社会では少数性は「単なるスティグマであって、社会のお荷物だ」という意識を生み出すのかもしれない。

実は多様性は活力なのだが、そうした視線を持ち得ないのだ。

さらに少数性への対処も遅れている。例えば教会などだと「いじめられてかわいそうねえ」などと頭をなでられることはない。教会は常に問題に接しており(中には子供を失った親などという救いのないケースもある)「強く生きてゆかなければならない」などど諭されることが多い。しかし、エスタブリッシュメントばかりの大学は日の当たる側面しか見てこなかったのだろう。

少数性は誰でもが直面する問題だ。例えば、周囲に例のない健康問題を抱えればそれだけで「マイノリティ」である。

これを指摘するのは少々残酷だが、こうした均質な環境で、自殺した本人も本当の意味でマイノリティについて考えたことがなかったのではないかと考えられる。同性愛者だからといって、自動的に他の同性愛者を受け入れているとは限らない。どのような家庭環境なのかは分からないが、もしかしたら息子が「普通でない」ことを受け入れられなかった可能性はある。

社会人経験を持っていない人がいきなり法律家になるのも問題だ。適切な休学制度などがあれば本人は閉ざされた教室から解放されていただろうし、それなりに人生を考える時間や、社会について学ぶ機会が得られたはずである。新宿二丁目か海外に出れば「同性愛者」がどのように扱われているかを知るチャンスもあったはずだ。

一橋大学でロースクールに入ることができたほどの人が、外に出さえすれば、様々な経験ができたはずで、それは社会の多様性を促進する上で大きな助けになったはずである。

人がパニックを起こすほど孤立しても、その人に代わって孤立してやることはできないし、その人のことを100%理解してやるのは不可能だ。しかし、周りにいる人は「あなただけではない」と言ってやることができるはずである。

なぜあなたはハブられるのか

夏休みが始まってからしばらく経った。普段の教室から離れ、一学期にあったことを冷静に見ることができる時期かもしれない。

今回は「なぜあなたはハブられるのか」について考えてみたい。そして、どうしたらその状況から抜けられるのかもあわせて考えたい。ちなみに「ハブる」とは仲間はずれにするというような意味だ。

「なぜハブられるのか」を検索すると「あなたに落ち度があるのだから、一つづつ改善して行こう」というような文章が多数見つかる。だが、本当はそれは間違っていると思うし、ひどい誤解が含まれている。

本当に円満な社会は少ない。たいていの社会は緊張に満ちている。日本には「他人を平等に扱う」という伝統がなく、なんらかの序列構造を持っているのが一般的だ。例えば、誰が足が速いとか、勉強ができるとか、お金持ちかとか、序列の作り方はたくさんある。しかし、序列は曖昧で崩れやすい。そして、序列がないと不安を感じてしまう人たちがいる。

なぜ序列がないとダメなのだろうか。それは、社会が様々なことを決める枠組みだからである。これを意思決定という。社会は意思決定の枠組みなのだ。みんなの意見を聞くと、結局なにも決まらないので、序列を作って「強い人のいうことを聞く」ということにしている。誰の家で宿題をやるとか、どこに遊びに行くとか、どのテレビ番組(あるいはアプリ)について話し合うかなど、決めなければならないことはいくらでもある。誰も意思決定しないと何も決まらないから、当然何もできない。

日本社会では意思決定が集団構造になっているのが一般的だと言われている。つまり、何かを決めるリーダーグループがいて、その他大勢がそれに従うという構図である。日本社会では「納得がゆくまでみんなで行き先を話し合う」ということは行われない。日本人は徹底した話し合いを面倒だと思うのである。一方で、一人で全部の責任を引き受けるのも嫌だ。決めたことで何か悪いことが起ると(例えばイタリアレストランにいったのに、ことのほかまずかった)責任を取らされるからである。だから「なんとなく決まった」ことにしたいのだ。

しかしながら、このやり方だと「なぜこの人たちのいうことを聞かなければならないのか」と不満を漏らす人が出てくることがある。その不満を解消する方法はいくつかある。例えば、順番に誰かの言うことを聞く(この前はA君が行き先を決めたら次はB君だ)方法があるが、これはなかなか面倒だ。すると、代わりに「意思決定にも参加できないし、行動も一緒にしない」という人を作るのだ。

  1. 一緒に行動して、意思決定する人たち
  2. 一緒に行動するし、なんとなく影響を与えられるが、意思決定はできない人たち
  3. 一緒に行動できないし、もちろん意思決定できない人

では、なぜそのような人が必要なのだろうか。それは、もともとグループの構造が曖昧であり、なおかつ常に不安を抱えているからということになるだろう、この3カテゴリーの人たちが「ハブられる」人だ。

さて、そのように考えてくると、ハブられる原因は集団の側にあって、ハブられた人たちの問題ではないということが分かる。つまり、何か努力をしたからといって仲間に入れてもらえるということはないのである。逆にその集団から離れてしまうと「見せしめ」の効果が薄れるので、ターゲットが別に移る可能性もある。しかし、それも集団側の問題なので、あまり期待はできない。

あなたのせいではないのだから、「努力してなんとかしよう」とは思わないほうがいい。

厄介なことがいくつかある。第一のポイントは「ハブられる」ことには表面上の理由があるということである。実際は「見せしめにできるなら誰でもよかった」わけだが「あの時ああ言ったから仲間はずれになったのかも」とか「誘われたのに行かなかったから」などと思い当たる節がいくつか出てくる。すると、この表面上の理由をくよくよと考えてしまうのだ。

次のポイントは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みだ。そもそも「意思決定ができない」のにみんなでつるんでいるのは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みがあるからだろう。バラバラなのだったら、最初から自分だけで好きなことをすればいいのだ。特に女性は「仲良くしなさい」と言われることが多いので、このようなプレッシャーが強い。

しかし、よく考えてみると「どうやって仲良くするのか」ということを教えてもらった人はそれほど多くないのではないだろうか。また女性は「リーダーになってグループをまとめるような役割」は期待されないので「なんとなくみんなのいうことを聞きながら、全員一致で何かを決める」ということになりがちだ。しかし、それは無理難題である。だから、手っ取り早い方法に走るのだ。それが「仲間はずれ」を作って、まとまるという方法である。仲間はずれは道徳の破綻なのである。

いちばん厄介なのが「とにかく仲良くしなさい」という先生だ。数学が分からないのに「とにかく100点を目指せ」というのに似ている。先生はクラスで問題が起ると責任を取らされるので、何も問題を起こしたくない可能性が高い。この場合先生が「介入」するとさらに厄介になるだろう。

さて、ハブられた人は「自分だけが仲間はずれにされた」と思いがちである。中にはそれが嫌で自殺を考える人も出てくるくらい孤立することがある。しかし、実際にはこうしたことはよく行われている。大人になったら解決するということもない。

例えば政治の世界でも、同じようなことが日常行われている。何が決まったということよりも、誰が誰とお友達で、誰が仲間はずれにされたというようなことが記事の中心になっていたりする。

大臣が1年ごとに交代するのは「みんな平等に大臣にして上げなければならない」という思い込みがあるからだし「首相と仲良しだから早く大臣にしてもらえた」と書かれることも多い。

さらに「仲間に入れてもらえなかった」と恨みを募らせて大騒ぎする人たちもいる。外で仲間を募って復讐を果たす人もいるし、Twitterで相手の裏話を暴露する議員もいたりする。

また「全てあいつらが悪い」と思い込むことによって、うまく行っていない現実から目をそらすということもよく行われている。

こうした現実はあまり慰めにはならないかもしれないのだが、外から見ているととてもくだらないことに思える。重要なのは「政治は下らないなあ」と思うことではない。外から見ているとたいての人間関係のごたごたはくだらないことばかりなのだというのを知ることだ。つまり、クラスの人間関係だけが人生の全てではないのだ。

 

捏造される過去とフィルムカメラ

最近、カメラについての文章をいくつも読んでいる。Yahoo!知恵袋などを読むと、マーケットが何を求めているのかが意外に分かるのだ。一眼レフ分野では「初心者だが何を買っていいか分からない」という質問が多い。選択肢が多すぎるのだろうとは思うのだが、意外と「自分が何をやりたいのか」が分かっていない人が多いようだ。やりたいことにより必要なスペックが異なるのだ。

さて、フィルムカメラにも面白い質問があった。それは「どうやったらフィルムカメラみたいな古い写真が撮影できるのか」というものだ。これに対していらだちを募らせる人もいる。

実は15年ほど前には全く別の構図があった。デジタルカメラのセンサーが発達していなかったために「デジタルカメラ=おもちゃ」という図式があったのだ。プロがデジタルカメラを使うなどということは考えられなかったわけだ。

つまり、そこそこの一眼レフ・フィルムカメラを使えばそれなりの写真が撮れていたわけで、フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できるということではない。これは昭和生まれの人ならたいていは知っていることだ。

古びた写真は、昔の写真の経年劣化だ。退色具合は各色バラバラなので、あのような色あせた写真ができる。もう一つの原因は「ビネット」と呼ばれる四隅が暗くなった写真だ。これはレンズとフィルムスペースが合致しないことで起るのだそうで、スマホカメラではまず起らない現象だ。

この間違った印象に輪をかけたのがインスタグラムなどの写真アプリだ。古びた写真を撮影して「懐かしい感じ」を出すフィルターがいくつも作られており、芸能人発信で広がって行く。すると、カメラの歴史を知らない人たちが「フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できる」と勘違いしてしまうようだ。

このような思い込みが広がった状態で、古ぼけた写真を撮影しようとして普通のフィルムカメラに手を出す人がいる。そして「あれ、レトロの写真が撮影できないぞ」と言って、ラボなどに問い合わせする人がいるらしい。

一方で、デジタルカメラになって確実に変わったところもある。昔のカメラは自分で光の強さを計ってからカメラを設定する必要があった。しかし、最近のデジタルカメラは、センサーが光の具合を感知して設定を決めた上で、自分で絵作りをしてくれる。こうした機能は高級なデジタルカメラだけでなく、スマホカメラにも搭載されているありふれた機能だ。つまり、最近のカメラでは「失敗作」を撮影するのはほぼ不可能になっている。何でもきれいに撮影できてしまうので、失敗作が作れないのだ。