Sankei’s Paranoia

I was bit surprised. One of Japanese leading newspapers Sankei called a demonstration protesting Abe’s “war law” as a Nazi-alike activity.

It is cognitive dissonance. Sankei and its supporters believe they are doing right things. However, they are frustrated because young people don’t follow Sankei. They internally explained that was because young people ignorant and immature. But the anti-government movement showed they are not ignorant but willing to change the situation. So they have changed their explanation. The young people are protesting because the young people are brainwashed by a evil party like Nazi.

Ironically, the movement is ignored by Japanese voters. About 50% of voters still supporting Abe because it is still better than DPJ’s traumatic three years. Japanese voters are afraid of changes. Only right wings feel the movement is a threat and can’t help calling the movement a Nazi like activity.

Recently Sanae Takaichi a minister of Internal Affairs and Communications told the government could suspend a broadcasting station if the government judged programs were unfair. It must be a shocking comment for westerners but Japanese voters didn’t react much nor called it a Nazi alike attitude.

Japanese have enjoyed full spec democracy for 70 years but it seems that the US failed to “install” democracy to Japan.

学校教育には道徳の代わりに宗教を導入すべき

最近、様々な新興宗教にはまる人を見る機会が増えた。特に多いのが「国体教徒」たちだ。いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちである。成年になってはまると「ああ、生きる意味が見つかった。この国に生まれて良かった」などと思ってしまうのだ。だがその根幹にあるのは「国の為に人が存在する」という倒錯した教義だ。よく聞いてみるとそれは「権力者のための尽くせ」という以上の意味はない。権力者の人たちは国よりも自分の幸福の追求に熱心なのだが、熱に浮かされているうちはその事に気がつかないのである。

他方で「原発を止めるべきだ」とか「基地をなくすべきだ」という信条が宗教化することもある。もちろんそれは悪い主張ではないかもしれないが、それがなくなれば世の中の全ての災厄がなくなってしまうわけではない。中にはそれだけが人生の目的になっている人もいるのではないか。

宗教教育にはいくつかの利点がある。

第一に、宗教は明らかに学校で教える科学とは違っている。だから経典を文字通りに信じる事はなくなる。つまり、子供のうちに宗教に触れると宗教に対する免疫がつくのだ。かといって、宗教すべてがデタラメというわけではない。よく誤解されるところだが、さまざまな矛盾を受けとめる事で、その裏側にある「真実」を考える機会が得られるだろう。

第二に、宗教に頼ることがなくなる。意外に思えるかもしれないが、古典的な宗教は生きる意味を教えてくれない。まともな宗教は「神様について行けば万事OKだ」とは言わないものなのだ。世の中には、子供を失った人や不本意ながら病気になった人がいる。宗教はそうした人たちの逃避先になっている。だから、宗教を学ぶ人は誰でも人生の不条理に触れることになる。もし神様がいるのなら不条理は世の中からなくなっているはずである。だが、そうはならない。

第三に宗教は人を操作しないということが学べる。日本の新興宗教は個人崇拝につながるものが多い。結局、ある個人の為に財産を寄付することで「救いを買う」という制度になっている。すると階層の上にいる人ほど「他人を利用してやろう」と思うことになる。なかにはポイント制度を導入している宗教すらある。強化月間のようなものもある。ほとんどマーケティングだが、中にいると気がつかないのだろう。だが、古典的な宗教にはゲーミフィケーション的な要素はない。人を操作しても救いが得られないことを知っているからだ。

何も考えていなかった人がある日突然人知を越える偉大なものに出会い「くらくらする」体験は誰にでもある。人生にはうまく行かないこともあるのだから誰かに頼りたくなることもある。正解のない人生に迷ったとき正解を教えてもらえたらと思うこともあるだろう。人は決して万能ではないということを知る意味でそれは悪い事ではないだろう。

私達は、人生のどこかで「私達の人生は一人ひとりのものである」という大切な事を学ばなければならない。かといって一人ひとりは孤立しているわけではなく誰がとつながっている。宗教はその大事なことを教えてくれ機会になるのではないかと思う。

Twitterでカラまれたことに対する考察

まず分かったのはこの人はまとまった意見を書けない人なんだろうなあということだ。議論するためには頭の中にある体系を持っていることが必要だ。まとめ方にはいろいろあると思うが、少なくとも「問題」「問題に対する見方」「そのソリューション」と三段が必要だから140文字でこれをこなすのは無理だ。

「Twitterで議論できる」と考える人はそもそも、140文字の情報の固まりが浮遊しているだけのようだ。なんとなく分かっていたことではあるのだが、実際に想像してみるとなかなか恐ろしいことだ。それぞれのデータがまとまりのないままチャンクのままで存在するのだ。

そもそも情報を集めるのはあるまとまった考えを得る為だ。まとまった考えを得るのは「与えられた情報の中でできるだけ確実な(これは正しいとは限らない)意思決定をするため」である。

では、Twitterの140文字の情報やYahoo!ニュースのヘッドラインが相互に関連せずに浮遊している人というのは何を目指しているのだろう、と考えると「よく分からない」としかいいようがない。

強いて想像するとしたら、コミュニケーションの目的は1つだ「情報発信の方向や用語の使い方」でどのムラに所属するのか(政治の場合には右か左か)が分かる。ヤノマミ族やニューギニアの人たちが言語を分けるのと同じ理屈である。ちょっとした発音や用語で外敵を見分けるのだ。と同時に同じ言語を話す人たちとの間では所属欲求が満たされるのである。

ここから導き出される結論は簡単で、情報そのものにはさしたる意味があるわけではないということになる。関係性こそが問題なのだ。

故にTwitter上で議論は成り立たない。そこにあるのはヤノマミ流の「お前が去るか俺がお前を殺すか」という選択だけだ。もしそれを議論と呼ぶのだとしたら、定義が違うのだということになる。議論はお互いが持っている情報をすりあわせた上で、より正しい解決策(それはあるいは共通した解決策を模索しないという解決策かもしれない)を導き出す為の手段である。

お前が持っている「自民党が人権を抑圧しようとしている」という認識は「間違い」で、それは「ネットの意見だけを鵜呑みして」「騙されているのだ」という主張を繰り返していた。彼が(彼女かもしれないが)の言いたかったのは「正しい情報さえ手に入れれば、きっと正しい態度になるはず」という主張である。

そもそも相手は正解を知っているわけだから、議論する必要はない。それは説得と呼ばれるべきだ。

だまされているという根拠も示されているが、それは薄弱だった。「人権抑圧は、中国のような抑圧国家がやることであって、日本のような立派な先進国がそんなことするはずはない」というものだった。左派の人たちは「日本は先進国であるはずなのに、北朝鮮かナチみたいなことばかりいう」と思っているので、平行線を辿る。どちらも見込みだからだ。

では、全く無駄な話だったかと言えばそうでもない。どうやら、僕は次のような信念体系を持っている事が分かった。これは異質な意見にぶつけてみないと分からないことだ。

人はそれぞれが幸福を追求すべきであり、結果的に社会の繁栄につながる。幸福の追求は個人の内発的な動機に基づいて行われるべきだ。社会は個人が幸福を追求するための装置であり、社会の存続の為に個人が存在するわけではない。しかしながら、個人の幸福の追求は衝突することもある。社会はそれを調整する機能を持つべきだが、それは最低限のものである必要べきだ。個人は間違えるし、全ての個人の情報を持ち得ないので、多様な意見を集めることで間違いを補正すべきだ。故に民主主義のプロセスは擁護されるべきである。また、不運は誰にでも訪れるので、社会的な保証は準備するべきである。社会や国家の有り方として現在の民主主義が正しい解なのかは分からないが、結果的には現在取り得る政体の中では最適な解である。民主主義国の経済的な成功がそれを裏付けている。何人も無謬ではないので「正しい」答えはあり得ない。「正しい意見」を持っていると主張する人は疑われるべきだ。

批判的に見れば、かなり「西洋流に洗脳されている」とも言える。特に功利主義的な主張は「では生産性のない人はこの世から消えてもよいのか」という問いにつながるのではないかと思う。そもそも人の人生に意味などあるのだろうかという問いもあり得るだろう。

共産主義という悪魔

政府が言論の自由を制限し人権をないがしろにすれば、経済の活気が失われる。だから、自民党の政策を進めて行けば国家は没落するだろう。これは自明の理屈だと信じていた。

だが、右派の人たちはそうは考えないように思える。どういう世界観があるのかいろいろ聞いてみたかったのだが、どうやら仮定そのものが間違っているらしい。そこに理屈はないらしいのだ。

出発点になっているのは知性への反発のようだ。知性といってもマスコミと学校の先生といったレベルなのではないかと思う。どちらも左翼に支配されていると考えているようだ。知性が左翼に支配されているのは、もともとはGHQが、日本を弱体化させるために民主主義を持ち込んだせいなのだが、それを引き継いだのが北朝鮮であると彼らは考えている。彼らの世界観では先生たちは無知な生徒を洗脳しようと「人権教育」をするのだが、マスコミも左派知識人に支配されていて、この邪悪な計画を隠蔽しているのである。

右派の目的はそうした「悪い人たち」から無知でではあるが善良な市民を守ることらしい。むしろ「正しい人権」の守護者であるという認識を持っているのではないかとすら思える。

こうした意識がなりたつのは「自分たちは賢いのだ」という万能感を持っているからだろう。ほとんどの人たちは真実を知らないか興味がないので「私達が正しいことを教えてやらなければならない」という認識が成り立つ。ただし、教師やマスコミと言った人たちは「賢いのではなく間違っている」なぜならば、外国に協力する売国奴だからである。そうすることで自分たちの万能感が担保されるわけである。

ただし、民主主義についてはあまり関心がなさそうだ。売国的な知識人さえ排除できれば、正しく民意が反映されるだろうと素直に信じている。権力者が権力を濫用するだろうなどということは全く考えていないようだ。現在の経済状態についてもあまり危機意識を持っていないのではないようだ。

よくわからないのは自民党の改憲勢力との関係だ。磯崎議員は「キリスト教的な天賦人権論は日本にふさわしくない」と主張しており西田議員は「そもそも日本人に人権があるのがおかしい」などという。

だが、今回お話したネトウヨ系の人たちは「立憲主義が破壊されることがあれば、世界から非難されるだろう」と言っている。今非難されていないから安倍政権はそのようなとんでもないことを考えているはずがないという理屈になるらしい。彼らは安倍政権とお友達の連続性をどう捕らえているのかが気になるところだが、怖くて聞けなかった。もしかしたら耳には入っていないのかもしれない。

逆に左派への危機感のアンテナはびんびんに張られている。彼らによると、中国は虎視眈々と日本の殲滅を狙っており、左派勢力は彼らの尖兵になって日本を弱体化させようとしているらしいのだが、最終的な目的は不明なままである。「所詮ファッション左翼」なので深く考えていないのだろうと推論している。また、人権派は行き過ぎた見返りを求めていて、日本に寄生しているのだそうだ。

高度経済成長世代は「中間層が階層を昇る余地があることが経済的な繁栄をもたらす」と考えるし、成長が定常状態だと考える。だが、そもそも「成長」という概念そのものがない。だから成長しないから政府の政策が間違っているという認識はなさそうだ。だから彼らの政治への関心は分配に向いてしまう。政治といえば分配の議論なのである。そこで「行き過ぎた分配を求める人がいけない」という理屈が成り立つのだろう。

こうした世界観はキリスト教の信仰心に似ている。神は無謬であり、祝福された民は神を信じる限りは繁栄することができる。なぜなら神がそう約束したからだ。しかし、世の中には悪魔がいて、何かと神が作った平和を壊そうとしている。だが、悪魔がなぜ神を邪魔するのかという点についての答えはない。神に祝福された世界では、悪い事は起こりえない。何か起こったとしたらそれは「罰が当たった」のである。行いが悪かったのだ。故にセーフティネットなど必要ないのだろう。

この人たちと国体原理主義の人たちとの間には断層があるように思える。国体原理主義者たちは日本書紀に書かれたことは真理だと考えており、明治維新で捏造された伝統と信じている。だが、ネトウヨの人たちの多くはそこまで急進的な国体教を信じているわけではなさそうだし、普通に資本主義社会を生きていると感じているのかもしれない。これは、マルクス主義を教条的に信じている人と単に分配を求める人が一緒くたに「左翼」と混同されるのと同じことなのかもしれない。

左派と右派の一番大きな違いは、現状への危機意識というか不安を持ちあわせているかという点のように思える。一方共通点もある。左派が疑念を持っているのは権威主義的な父性への反発なのだと思うのだが、右派はそれが知性への反発にすり替わっている。これは同根なのではないかと思うのだ。

日本の左派たちは分配こそが解決策であって、全ての問題が解決されると考える。その原資は儲けすぎている企業が支出すべきものだ。一方で、右派は、アメリカ・資本主義・自民党という旧西側の体制を信じていて、これに従っていれば全てが解決すると考えているのかもしれない。トランプ旋風を見ると、アメリカ人は、自分たちの不調はすべて外国人に起因すると考えており、サンダースの支持者たちは企業と1%が悪いと考える。

非常に単純化すると、共産主義という悪者がいるために、それに対峙する人たちを正義だと定義しなければならないのだろう。天国とは悪魔がいない場所のことなのだ。

「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」

ネットで「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と言っている人を見つけた。ちょっとめまいがしたのだが、どういう精神構造を持っているのかにも興味もあった。どうやら「人権」を叫ぶ人たちというのは全て外国の陰謀で動いていると考えていることは分かった。彼らの世界観によると「人権」を叫ぶ人たちというのは全て売国的な共産主義者なのだ。

西洋流の教育を受けた人間の頭の中では人権は自由主義と結びついている。私有財産を許容することで経済が活性化するからだ。また、政府の干渉をなくせば自由交易が増えて、域内の価値が最大化されると考えられている。さらに、言論の自由を保証することでより多くの意見が集る。これを集約する中でよりよい選択肢が生まれる。この「集合知」が民主主義を支えると考える。だから民主主義社会ではプロセスと多様性が大切なのだ。

こうした世界観が生まれるのはどうしてかと考えてみた。それは冷戦下で育った人たちは「私有財産や言論の自由がなく」「中央集権的な計画経済」がどうなったかを身をもって知っているからだ。つまり、中国、ロシア、東ヨーロッパで何が起こり、それがどのような結末を迎えたかを目撃しているのだ。つまり、資本主義(自由主義)と社会主義を対立概念として捉えているのである。

ところが「日教組陰謀論」を信じている人たちの頭の中ではGHQのもたらした民主主義と社会主義がごっちゃになっているようだ。どちらも「日本を弱体化させた」と考えられている。なぜ、アメリカと社会主義がごっちゃになっているのかが長い間分からなかった。

twoviews少し考えた結果、視点をずらせばよいことが分かった。戦前の日本と西洋の民主主義諸国(社会主義も自由主義も)を対立概念として置けばよいのだ。アメリカも共和制国家なので同類といえば同類である。つまり、視点を右傾化させればよいのだ。

よく考えてみると、今の世代は東側の世界を知らないのだ。その上低成長時代に育ったので「言論の自由が経済的豊かさをもたらす」などと言われてもぴんとこないのだろう。民主主義とは「バラバラに自分の言いたい事を言っている」ようにしか見えないのかもしれない。

アメリカが日本を弱体化したという話なのだが、アメリカは日本を資本主義のショーケースにしようとした。そのため、通貨を安く抑えて日本の品物がアメリカを席巻することになる。結果的にアメリカの経済を脅かすまでになり「日米貿易摩擦」と呼ばれ、日本は西独を抜いて世界第二位の経済大国になった。もし、アメリカが日本を弱体化させたいのであれば、教育を通じて日本人をわがままにするなどという回りくどいことはしなかっただろう。アメリカ市場から締め出してしまえばよかったのだ。

つまりGHQの日本弱体化計画とは「ショッカーが世界征服をするために幼稚園バスを襲う」というのを同じような話なのである。

この世界観のおもしろい所は、西洋流の民主主義社会との対立概念を何に置くかという点だろう。戦前の日本は計画経済ではなかったのだが、なんとなく、満州の植民地経営と戦時計画経済が頭の中にあるのではないだろうか。みんなが心を合わせて一生懸命働けば効率的に豊かになれそうな気はする。しかし、それは計画経済下の社会主義と一緒なのである。「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と考える人たちは、皮肉なことに彼らが嫌いな左派の人たちと同じ目的を持っているということになる。

ここまで考察すると、左側の人たちがどのような指向を持っているかが気になるところである。彼らはなぜ人権が大切だと思っているのだろうか。なんとなく「人権が大切なのは当たり前だろう!お前さては右翼だな」などと言われそうな気がする。よく考えるとこれも当然の反応だ。低成長なので、自由と民主主義が経済的成長をもたらすという前提が信じられないのだろう。

結果的に右派が社会主義を信奉し、左派が自由主義を擁護するというめちゃくちゃな鏡の世界に住んでいるのだ。

政治に対する危機感を共有したい人がまずやるべきこと

政治には危機感を持っているが、政治について話せないという人は多い。当初、それについて対応策を書こうと思った。

多分、自分が話すのではなく、相手に話させるのが良い。「ニュースが分からない」などと言えば、相手は得意になって話してくれるだろう。すると相手のポジションが分かるので、それに従ったテーマで話せばよい。「興味ない」という人もいるだろうが、トピックは刷り込まれるだろうから、関連するニュースを追うようになるだろう。単純接触を繰り返して徐々に洗脳してゆくというテクニックはポテトチップスの販売から新興宗教まで幅広く利用されている、とてもありふれた方法だ。

だが、これを書くのはやめにした。過去に書いた記事を思い出したからだ。

もともと日本ではデモが起きなかった。東日本大震災の後でさえ目立ったデモは起きておらず「日本ではなぜデモが起きないのか」というエントリーを書いていた。

だが、実際にはデモが起きていた。最初に起きたデモは小規模なものだった。民主党政権の打ち出した福島への帰還基準年間20msvに反対する人たちが抗議運動をしていたのだ。やがてこれが反原発運動になった。

デモをしなかった人たちはなぜ突然デモに目覚めたのだろうか。例えると赤信号に似ているのではないだろうか。日本人は赤信号で道路を渡らない。しかし、誰かが信号を無視して渡りはじめると、続いて皆が渡り始める。規範そのものではなく、その規範に対して周囲がどのような反応を示すかが重要なのだ。

職場や学校で話題が出るようになれば、次第に政治の話題は増えるだろう。

現在の問題は「語り手」が少ないということではなく「聞き手」が少ないことだということになる。

清原和博容疑者は釈放されるべきではないのか

清原和博容疑者が覚醒剤使用の容疑で逮捕されてからしばらく経った。この問題を見ていて、この人は犯罪者として裁かれるべきではないのではないかと思った。

清原容疑者が薬に手を出したきっかけは痛み止めの服用だったようである。意外なようだが、痛み止めと違法薬物は地続きになっている。アメリカでは痛み止めへの依存性から抜けずにリハビリセンターに入る人もいる。記憶に新しいところでは(もう忘れている人もいるかもしれないが)トヨタ自動車で女性初の役員になったジュリー・ハンプ氏が「麻薬(オキシコドン)を密輸した」疑いが持たれた事件がある。痛み止めなのだが麻薬成分が含まれており、依存性もあるようだ。アメリカでは合法だが、処方を問題視する人もいる。

清原容疑者の報道者たちは、売れるネタが欲しいばかりに彼を見殺しにした。どうやら普段から異常行動があることを知っていたらしい。家族も気がついていて精神科もに担ぎ込まれたことがあったようだ。早くからリハビリセンターに入れていればここまで状況がひどくなることはなかったはずだ。それができなかったのは「犯罪者として前科がついてしまう」からだろう。

鎮痛剤など一部の人のものだと思うかもしれない。だが、麻薬と鎮痛剤が地続きになっているように、抑うつ状態と覚醒剤も地続きになっている。

「家族と離れて落ち込んだ」ことなどが清原容疑者をさらに追い込んでゆく。「ちょっとさびしい」ことで薬物やお酒への依存に追い込まれる人も多いはずだ。大人になると仕事がきついとかさびしいとかいうことはよくあるが、相談できる場所は少ない。動けなくなるほどぼろぼろになって初めて精神科に行くことになる。

精神科では長い時間待たされて5分ほど診察がある。そして、薬を渡されることになる。具合が悪いというと、薬の量が増えてゆくばかりだ。本当に必要な薬を飲まされているのか、5分ほどの診療でわかるはずはない。必要な薬を処方される人もいるだろうが、不必要な薬を飲まされている人も大勢いるはずだ。しかし、医者は困らない。親切に診療しても、5分で薬を与えても報酬は同じだからである。

誰でもうまくいっているときは良いのだ。しかし、何かトラブルがあったときに頼れる場所は多くない。その結果、非合法の薬物にすがることになる人が出てくるのだろう。いったん非合法薬物にすがると、そこから抜け出せなくなる。問題が地下化するからだ。特に覚醒剤は依存性が強く、再犯率も高いそうだ。

覚醒剤使用者を逮捕することで、却って覚醒剤の蔓延を助長しているのは確かだ。覚醒剤ばかりではなく、その他の違法薬物摂取者を見つけたら早めに通報してリハビリできる場所を作る必要があるのではないかと考えられる。

日本人はこうした薬物問題が起こると、逮捕して社会的に制裁すれば「なかったものにできる」と考えているようだ。確かに安心感を得る効果はありそうだ。「まっとうな社会は薬物的にクリーンだ」というメッセージだ。

しかし、もし問題を解決したいと考えるなら、今の法制度は健全に機能しているとはいえない。誰でも問題を抱える可能性があるということをもっと強く認識すべきだろう。

安倍首相に憲法を改悪させないために民主党ができること


前回は「人を動かす」方法について学んだ。今回はこれを応用して、現実の問題を考えてみたい。安倍首相の憲法改正案が危険だと考える人は、知っている政治家にこの方法を勧めてみていただきたい。一人では効果がないかもしれないが、何人かからの働きかけがあれば態度が変わってくるかもしれない。危機的な状況において重要なのは行動することだが、聡明な方ならお分かりいただけるのではないかと思う。

その方法はあっけないほど簡単だ。民主党は安倍首相の憲法改正案について見解を正してもよいが、その場で非難してはいけない。

人は誰でも傾聴されることを求める。逆に反対されると頑になってしまう。国会では安倍首相に大いに語っていただきたい。

傾聴の効果はすぐに現れるはずである。第一に、安倍首相の発言はすぐにつじつまが会わなくなるだろう。彼の発言を聞いていると、憲法そのものには対して興味がないことが分かる。最近有名なのは「経済的自由と表現の自由に関して異なる基準が適用されているのはなぜか」という質問に答えられなかったというエピソードである。語っているうちに言っていることがめちゃくちゃになってくるはずである。

次に話の矛盾を他の官僚に語らせることだ。安倍首相と周辺にいる人たちの特徴はプロセスに無頓着なところだ。故に、安倍首相の発言の確認を官僚にさせるとよい。だんだん整合性が合わなくなってくるだろう。平和安全法制を書き換えるに当たって過去の法制局の憲法解釈を変えさせたようなことが頻繁に起こるはずだ。時間勝負なので、予め「クイズ」をたくさん用意しておくと良いだろう。

平和安全法制の場合にはかなり長い時間をかけてつじつまを合わせていた。論理的にはめちゃくちゃでも口裏は合っていたので、なんとなく論破しにくかった。しかし、こうしたことが矢継ぎ早に起これば、国民も「ああ、これはおかしいな」と思うだろう。批評は憲法評論家やニュースコメンテーターに任せておけば良い。早く言えば、犯人を自供させるために「優しい刑事」と「怖い刑事」を組み合わせるようなものだ。

相手を責める為にはまず自分が謝ること、というのが『人を動かす』の鉄則である。だから民主党は憲法改正そのものに反対していた過去の姿勢を反省してみせればよいだろう。これは一部の護憲派の人々の離反を招くかもしれないが、一般国民への印象はかなり変わるはずだ。こうした戦略的進路変更は民主党にしかできない。社民党と共産党はそもそも憲法改正そのものに反対しているからだ。民主党は柔軟さをアピールし、差異を際立たせることができるだろう。

一般の国民は憲法には関心がない。憲法に関心があるのは「意識の高い」人たちだろう。これは残念なことだが、やりようはある。一般国民が怖れているのは、現状変更だ。そこで、民主主義が否定されたとき「価値観を共有する国」(特にアメリカ)がどのような態度を取るか、諸外国からどう見られるかということを心配してみせるとよいだろう。人権を軽視するような発言が自民党政治家から繰り返されればされるほど、同盟関係が損なわれる危険性が増すことになる。特にアメリカは「フェアさ」や「民主主義」にはうるさい。少なくとも表立って安倍首相を応援するようなことはやりにくくなるはずだ。

最後の効果は限定的かもしれないし、根本的に重要かもしれない。安倍首相は憲法には興味はないが、憲法は改正したがっている。それは多分「心理的リアクタンス」によるものだ。自民党の憲法改正案は自民党が選挙に負けた後で作られた。「負け」を受け入れられなかったので、リアクタンスが働きめちゃくちゃな憲法案が作られたのだ。下野していた安倍首相は憲法改正を「戦い」と評している。野党が攻撃すればするほど憲法改正案に固執するようになってきたし、これからもそうなるだろう。

例えて言えば「勉強しなさい」と言われた子供が頑に「勉強はしない」と思い込んで行くようなものだろう。それが自分のためにならないということが分かっても、「勉強嫌い」を表明してしまったためにロック・インされてしまうのである。安倍首相を支えているのは「戦っている」という自覚だけだろう。

そこで、野党が反対するのをやめて「自分で考えさせる」と多分頭の中には何もないということに気がつくはずだ。最悪、安倍首相は政権を維持するモチベーションを失ってしまうのではないか。空っぽになった頭で、論理的矛盾を突かれながらぼろぼろになる安倍首相を想像するだけで楽しくなってしまう。いったんぼろぼろになったら、安易に辞任させずその様を眺めるのも楽しいのではないだろうか。

他人をコントロールするには

まず、人は自分にしか興味がないことを知るべき。つまり、相手を直接コントロールすることはできない。また、人は敵対的な態度にリアクタンス(心理的抵抗)を覚える。逆に共感的な態度は賛同を得やすい。つまり、他人は変えられないが関係性や空気はコントロールできる。あいてに好ましい影響を与えるためには、相手を直接コントロールするのではなく、間接的な方法をとるべきだ。

こうした手法は昔から提案されている。第二次世界大戦前に書かれたデール・カーネギーの『人を動かす』などが有名で今でも読み継がれている。『人を動かす』や最近の読み物などを参考にして他人をコントロールする方法をまとめてみた。『人を動かす』には『マンガで読み解く 人を動かす』もある。

他人をコントロールするにはまず自分が変わる

『人を動かす』の中には「聞き手になる」など受身の方法が多く書かれている。カーネギーは主にセールスマンなどに向けたセミナーを行っていたからだ。だが、現在では聞き手に回ると「この人はなんでも聞いてくれる」などと期待されたり、いやな役割だけを押し付けられたりしがちだ。セールスマンと違ってその場にとどまらなければならない人が多いからだ。閉ざされた空間では、まず自尊心を持って、相手に支配されないようにするのが重要なのではないかと思う。偉い人に認めてもらいたいなどと思うと卑屈になりがちだが、状況をコントロールしてくらいのだという意識を持つことが大切だろう。ボディランゲージや姿勢などで状況を動かすことができるようだ。人を変えるためにはまず自分から変わらなければならない。

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人間は共感と社会的承認を求めている

人を動かすためには、まず、他人が何を欲しがっているのかを見極める。見極めたらそれを惜しみなく与える。また、他人がそれを得られるように援助を申し出るのもよい。多くの人は社会的報酬を欲しがっている。相手の成功を「おめでとう」と評価する・思いがけない賛辞を送る。重要感を持たせる。期待をかけるなどが効果的だ。直接与えるだけでなく、援助の気持ちを表すのも効果的だろう。相手が望むものを得られる方法を提案してみるのも良い。

協力的な態度は重要だ。名前を覚えたりして、相手に誠実な関心を寄せて置くと人から尊敬されるようになる。人を非難する代わりに理解している姿勢を示す。つまり、心理的リアクタンスはできるだけ取り除いてやると良い。

相手に影響を与えたければ自分から話してはいけない。聞き手に回るべきだ。相手への共感を示し、議論を避ける、間違いを直接指摘しない。自分の間違いは素直に認める。何かやらせたいと思ったら提案せずに相手に思いつかせる。相手に信頼して欲しければ、相手にしゃべらせるのがよいという科学的な知見もあるようだ。まずは、質問すると相手は話しやすくなる。

人間は空気に支配される

相手の美しい心情に呼びかける。相手を優遇するとそれなりに返礼しなければならないと考えるようになる。相手にうなずいていると、相手もイエスと言いやすくなる。肯定には肯定で、協力には協力で対応する態度をミラーリングという。アメリカでは相手を触るとチップが多くなるという研究があるらしい。日本では親しみを込めた態度をとるとよいのかもしれない。

特には意外性や演出も大切

ただし、相手を褒めてさえいればよいというものでもない。例えば賞賛しなれている人は褒められてもあまりうれしいと感じないだろう。国会議員を褒めてもコントロールできないだろう。意外性のある方法を考えるべきだ。つまり、演出も大切だ。肯定的な雰囲気を作り、穏やかに話し、笑顔で接し、イエスと答えられる質問を選ぶと相手は協力しやすくなる。逆に、対抗意識に訴える方法も効果的だ。相手同士を競争させて効果を上げる方法がとられることもある。

もっとも相手が協力的かどうかはわからない。ためしに視線を変えてみて相手が同じ方法を見たらリベラル(共感的)である可能性が高いそうだ。そうでなければ保守的だ。共感的で協力的なほどリベラルということになる。社会的承認を得られている人をほめても効果的ではないかもしれない。

聞き手に回ることと服従することは違う

聞き役に回っていると、相手は「話を聞いてもらえて当たり前だ」と感じるようになるかもしれない。すると相手をコントロールすることは難しくなるだろう。うつむくと服従的な態度だとみなされるので避けた方がよいらしい。体や手足を大きく広げると重要な人に見える。また、一歩手前に出ると会話を支配できるようだ。聞き手に回ることと服従的になることとは違う。

若者は検索する

さきほどコンテンツの年齢分布を調べていて「検索は若者」で「ソーシャルは高齢者」なんじゃないかと思ったのだが、当たったようだ。検索エンジンを使って情報を集めている中高年は少ない。

多分、Twitterには年寄りしかいないというわけではなく、たまたま見られているコンテンツが高齢者向け(主に政治ネタ)だったからかもしれない。中高年である作者が提供するネタに引き寄せられた人がフォロワーになり、それを見て記事を書くと同じような年齢の人が集るのではないかと思われる。違う年代の読者を集めようと思ったら、時々毛色の違う記事を書いて検索エンジン経由のトラフィックを分析するのがよいのかもしれない。

ソーシャルのグラフ

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検索エンジンのグラフ

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ダイレクト(ブックマークなど)の直接参照は年齢的にバランスが取れている。

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