Twitterでカラまれたことに対する考察

まず分かったのはこの人はまとまった意見を書けない人なんだろうなあということだ。議論するためには頭の中にある体系を持っていることが必要だ。まとめ方にはいろいろあると思うが、少なくとも「問題」「問題に対する見方」「そのソリューション」と三段が必要だから140文字でこれをこなすのは無理だ。

「Twitterで議論できる」と考える人はそもそも、140文字の情報の固まりが浮遊しているだけのようだ。なんとなく分かっていたことではあるのだが、実際に想像してみるとなかなか恐ろしいことだ。それぞれのデータがまとまりのないままチャンクのままで存在するのだ。

そもそも情報を集めるのはあるまとまった考えを得る為だ。まとまった考えを得るのは「与えられた情報の中でできるだけ確実な(これは正しいとは限らない)意思決定をするため」である。

では、Twitterの140文字の情報やYahoo!ニュースのヘッドラインが相互に関連せずに浮遊している人というのは何を目指しているのだろう、と考えると「よく分からない」としかいいようがない。

強いて想像するとしたら、コミュニケーションの目的は1つだ「情報発信の方向や用語の使い方」でどのムラに所属するのか(政治の場合には右か左か)が分かる。ヤノマミ族やニューギニアの人たちが言語を分けるのと同じ理屈である。ちょっとした発音や用語で外敵を見分けるのだ。と同時に同じ言語を話す人たちとの間では所属欲求が満たされるのである。

ここから導き出される結論は簡単で、情報そのものにはさしたる意味があるわけではないということになる。関係性こそが問題なのだ。

故にTwitter上で議論は成り立たない。そこにあるのはヤノマミ流の「お前が去るか俺がお前を殺すか」という選択だけだ。もしそれを議論と呼ぶのだとしたら、定義が違うのだということになる。議論はお互いが持っている情報をすりあわせた上で、より正しい解決策(それはあるいは共通した解決策を模索しないという解決策かもしれない)を導き出す為の手段である。

お前が持っている「自民党が人権を抑圧しようとしている」という認識は「間違い」で、それは「ネットの意見だけを鵜呑みして」「騙されているのだ」という主張を繰り返していた。彼が(彼女かもしれないが)の言いたかったのは「正しい情報さえ手に入れれば、きっと正しい態度になるはず」という主張である。

そもそも相手は正解を知っているわけだから、議論する必要はない。それは説得と呼ばれるべきだ。

だまされているという根拠も示されているが、それは薄弱だった。「人権抑圧は、中国のような抑圧国家がやることであって、日本のような立派な先進国がそんなことするはずはない」というものだった。左派の人たちは「日本は先進国であるはずなのに、北朝鮮かナチみたいなことばかりいう」と思っているので、平行線を辿る。どちらも見込みだからだ。

では、全く無駄な話だったかと言えばそうでもない。どうやら、僕は次のような信念体系を持っている事が分かった。これは異質な意見にぶつけてみないと分からないことだ。

人はそれぞれが幸福を追求すべきであり、結果的に社会の繁栄につながる。幸福の追求は個人の内発的な動機に基づいて行われるべきだ。社会は個人が幸福を追求するための装置であり、社会の存続の為に個人が存在するわけではない。しかしながら、個人の幸福の追求は衝突することもある。社会はそれを調整する機能を持つべきだが、それは最低限のものである必要べきだ。個人は間違えるし、全ての個人の情報を持ち得ないので、多様な意見を集めることで間違いを補正すべきだ。故に民主主義のプロセスは擁護されるべきである。また、不運は誰にでも訪れるので、社会的な保証は準備するべきである。社会や国家の有り方として現在の民主主義が正しい解なのかは分からないが、結果的には現在取り得る政体の中では最適な解である。民主主義国の経済的な成功がそれを裏付けている。何人も無謬ではないので「正しい」答えはあり得ない。「正しい意見」を持っていると主張する人は疑われるべきだ。

批判的に見れば、かなり「西洋流に洗脳されている」とも言える。特に功利主義的な主張は「では生産性のない人はこの世から消えてもよいのか」という問いにつながるのではないかと思う。そもそも人の人生に意味などあるのだろうかという問いもあり得るだろう。

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