今読まれる文章を書くにはどうしたらいいのか

先日書いたNHKの文章が軽く「バズって」いる。鹿児島県の震度情報を「隠蔽している」というものだ。どうやらGoogle検索で上位に来ているらしい。そもそもなぜ人々は検索してまで情報を探すのだろうか。
megane情報が完全な形で提供されることはほとんどないから、情報の伝え手は様々な工夫をしてできるだけ全体像を伝えようとする。

これは眼鏡の絵。

ところが、昨今のマスコミには様々な「配慮」が求められる。プレッシャーがあるからだ。それはコンプライアンス(その内容は曖昧だが、とりあえず法令遵守と訳される)だったり、スポンサー(NHKの場合は国)への配慮だったり、政治家への圧力だったりするようだ。終身雇用制度があった頃には「ジャーナリズムの正義を守る」などと言えていた人たちも最近ではおとなしくならざるを得ない。辞めると下請けやフリーランスに「転落」してしまうからである。

ところがこうした「配慮」は弊害をもたらす。全体像が伝わりにくくなるわけだ。すると、人々はそこを埋めようとする。

この模式図が眼鏡を意味しているのは明らかだ。だが、これを「眼鏡ではありません」と伝えてみる。だが、見ている人は「ああ、これは眼鏡じゃないんだなあ」とは思わない。眼鏡であることは誰の目にも明白だと思うはずだ。そこで却って「これは眼鏡なのだ」という確信を強める。そこで「これは眼鏡なんだ」という「情報」を求めるようになるわけだ。わざわざ「NHK隠蔽」で検索する人が増えるのはそういう理屈なのだろう。

つまり「情報を補間して、みんなが思っていること」を書いてやればそれなりの支持を集めることができる。隠蔽にはこうした負の効果がある。

ここでは奇妙な倒錯が生まれる。もともとの絵が「眼鏡だった」ことはどうでもよくなるのだ。「それを隠蔽している」ということが問題になる。例えば、安倍政権を批判している人たちにとっては個別の問題はもはやどうでもいいことだ。単に安倍政権が地上から(しかももっとも惨めな形で)なくなれば、あとはもうどうでもいいわけだ。

また、ヘッドラインだけが問題になる。つまり「NHKは情報を隠蔽している」というヘッドラインだけが必要で、あとは関連する単語さえ並べてあれば「これだけ長く書いてあるのだから、おそらくこれは真実」ということになる。

読み手の関心は「認知的不協和」の解消(俺の推論は正しいはずだが、相手はそうじゃないと言い張っている)にあるわけで、真実が何なのかということには興味が行かない。自分で情報を検証することには意味がない。最悪なのは「問題の解決」を求めなくなるということだ。認知的不協和の解消に一日を費やすので、もはや解決する時間などないわけだ。

配慮が増えるたびに、元の絵は見えにくくなる。だが、それは情報を隠したことにはならない。人々は「見たい絵」を見るようになるのである。

実際にはさらに複雑なことが起きている。両陣営がお互いに見せい絵を見せようとしている。今回の例では元の絵は眼鏡だったのだが、もはやその形は明瞭ではない。すると人々はますます「見たい絵」を見るようになる。これが行き着き先は「デマ」である。デマは情動が見せる絵だ。つまり、情報が隠蔽されると理性的な判断は失われるということになる。デマの行動は合理性を欠くので、しばしば受けて全体にとって損な行動になる。

ここまで考えると、情報の公正公平がなぜ重要なのかが分かる。元の絵を元の絵のままで見せなければならない。(かといって嘘をついてまで単純化してはいけない)そうしないと「何かを伝える」という基本的な役割が果たせなくなるからである。

その意味で安倍政権のやっていることは罪深い。情報を意図的に混乱させることで、情報そのものの信頼性を毀損している。これは情報空間を破壊するという意味では情報テロと呼んでよい。しかし、その結果は政権側の思惑通りには行かないはずだ。人々はますます見たいものを見るようになる。検索の動機を与えて、ますます都合の悪い「真実」があぶり出されることになるだろう。

震災対応に見る分散型システムの優位性

熊本・大分の地震では「物資が足りない」という声が多く聞かれた。品物は足りているのだそうだが、分配がうまくいっていなかったらしい。そこで多くの人が「震災に備えて、自治体は情報をシステムを作っておくべきなのではないか」と考えたようだ。日本を元気にする会の松田公太参議院議員もその一人。

さて、ここで日本人が「システム」というと、中央に大きなサーバーがあり、その情報が集約化される図を思い浮かべるのではないだろうか。それをNECか富士通に作らせるのだ。その裏にあるのはオペレーション上の慣習だろう。下にいる人が上にいる人に決済を求めることになっている。だからシステムのその慣習に合わせるのだ。そのピラミッドの頂点は当然国である。

だが「車輪は発明するな」のことわざの通り、実際には情報を集約するシステムはできている。情報通信研究機構(NICT)が既にリリースしたシステムがあるのだ。だが、NICTの作ったシステムは、役所や国会議員が考えそうなものではなかった。Twitter上のつぶやきを分析して表示している。

中央集権的な伝達システムではどこかで連絡ミスが起きる。そもそも日本人はチーム連携が苦手な上に、最近の公務員は非正規が1/3を占めている。下が言ったことが上に伝わるということは期待しない方がよさそうだ。中央集権的なシステムは既に崩壊していると言ってよい。だったら、膨大な情報をそのまま抽出して「必要な人」が検索した方が簡単なわけだ。分配も計画的にやるより分散型でやった方がいい。手近にあるものを運べそうな人のところに運んでやればいいわけである。

そもそも「情報がないない」と言っていたのはお役所の人たちだ。情報通信研究機構(これは総務省管轄の研究所らしい)で何を作っているのか知らなかったに違いない。情報通信研究機構にも限界はあったようだ。UIがあまりよくないし、自然言語による質問には対応していないようである。予め想定された質問から選ぶことになっている。

技術そのものはできあがっている。Googleがそのよい例だ。「おそば食べたい」というと近所のそばやを検索してくれるという例のあれである。多分、こうした技術を組み合わせれば中央集権的な(コンピュータ用語でいうところの、サーバー依存の)システムを作らなくても、分散型でやってゆけるのではないだろうか。

Twitterでは「水道管が破裂した」などという報告を集めてくれるシステムを作ればいいんじゃないのかという意見も聞いたが、千葉市が「千葉レポ」という仕組みを運用している。エンジンはセールスフォースだそうだ。スマホで近所の危険情報などを報告すると市役所の職員がなんとかしてくれる(なんとかしてくれないこともあるが、経過は教えてくれる)という仕組みである。

かつてはちょっとした不具合だったとしても、市議に泣きついたり(市議会議員の仕事は実質的には苦情処理だったのだ)市長に手紙を書いたりしていた。市長に手紙を書くと数ヶ月後に部局長から形式的な手紙が送られてきていた。仕組みを作ることで、苦情の申し立てがしやすくなったし、その後の対応も分かりやすくなっている。

システムを発注するのは役所なので、どうしても中央集権的になってしまいがちだ。だが、実際に有事の際に役に立つのは分散系のシステムのようである。多分、システムに従ってオペレーションを変えた方が効率的な仕組み作りが楽にできるだろう。

NHKは薩摩川内の震度情報を隠蔽したのか?

先日「NHKは鹿児島の震度情報を隠蔽した。薩摩川内市には稼働中の原発があるからだ」と書いたら、多くのアクセスを貰った。すこし罪悪感を感じた。当初の印象だけで隠蔽と決めつけてよいのかと思ったからだ。そこで震度情報を改めてみてみた。結論は書かないので図をみて判断していただきたい。もし隠蔽ではなければ図こそがNHKの公平さを証明することになるだろう。

NHK側に立って擁護すると、当初は震源が熊本市近辺にあったので、鹿児島まで入らなかったという仮説が立てられる。

fig1

当初の震度情報。鹿児島が表示されていない。薩摩川内市は震度4だった。五島列島は震度2だが表示されている。鹿児島だけがない。fig2

八代市付近で起きた地震の情報。震度3以上が表示されている。上の図では震度2でも表示があったよなあと思う。よく分からない。どの地域を表示するかは恣意的に決められるのかもしれない。震源地は図のほぼ中央(ただし南北だけ)にある。詳しい震度(Yahoo!)はこちらから。

fig4

よく分からないので、最初の震度7の地震と5強の地震を比べてみた。これによると鹿児島県西部(薩摩地方)の震度は頭だけが出ていたはずで、やはり意図的に消されていたことが分かる。善意に解釈すれば中途半端に出ていたので消したことになる。だが、宮崎県南部にもすべてが表示されていないものがあり、中途半端に出ていただけで消したという解釈は少し難しいかもしれない。

マスコミ不信

朝日新聞が記者クラブ問題について書いている。「表現の自由」国連報告者がやってきて、日本の記者クラブ制度には問題が多いと警告したらしい。記事によると「ジャーナリストの多くが匿名を条件に面会に応じた。政治家からの間接的圧力で仕事を外され、沈黙を強いられたと訴えた」のだそうだ。

内部ではきわめて深刻な問題が起きているようだ。どうやら新聞社は政治家から「恫喝」されているらしい。と、同時に新聞社は記者クラブを通じて特権的な立場にある。恫喝もされているが、同時に恩恵も受けているという複雑な状況に置かれているようだ。

問題だと思うのは、朝日新聞が記者クラブに関してさらっと書いていることだ。デービッド・ケイ氏は記者クラブの排他性も指摘し「記者クラブは廃止すべきだ。情報へのアクセスを制限し、メディアの独立を妨害している制度だ」と批判したとしている。朝日新聞はまるで人ごとのように書いている。知らない人が見たら「朝日新聞は記者クラブに加盟していないのではないか」と思うのではないだろうか。かといって、記者クラブ制度を見直しますとも書いていないし、反対に「記者クラブはメリットがある」とも主張していない。朝日新聞のこの記者はケイ氏のレポートをどのような気持ちで聞いたのだろうか。

もう一つの記事でも報道の自由は失われつつあるらしいことが分かる。報道の自由度ランキングで72位に転落したという。10年には11位だったというから短い間に大幅に落下したことになる。朝日新聞はこちらも他人事感満載で伝えている。日本の民主化度は高いので、ジャーナリズムが足を引っ張っているということになる。

新聞社は(少なくとも表立っては)異議を申し立てることができない。記者クラブを通じて優先的に政府から情報を分けてもらっているからだ。だからこそ朝日新聞は中立を装って応援団になってくれる人たちが外野で騒いでくれることを期待しているのかもしれない。

新聞社は特権的な地位を享受しながら、政治家の圧力から逃れることはできない。政府が何を隠蔽しようとしているのかは分からない。冷静に考えてみると、そもそもそれが必要なことなのかすらも不明だ。有権者は政治にはあまり興味がなさそうだから、何を伝えられても選挙結果には影響がなさそうだし、政府に不利な情報そのものはネットにあふれており、断定調で書かれている。

この不自然な状況にはいくつかの問題がある。

第一に、国際的な悪評が形作られることになる。この手の調査団に「匿名で」悪口をいうジャーナリストが増えるだろう。日本人は自浄能力がない。まるで中国か北朝鮮のようだ。それは日本の民主主義に対する懸念ではない。日本人そのものへの懸念だ。

マスコミの不信感も高まっている。つい最近も「NHKは鹿児島の震度情報を隠蔽した」と書いたら軽く「バズ」った。きわめて不健康な状況だ。マスコミ離れが加速しており、信頼度も下がりつつあるのではないだろうか。曖昧な状況ではデマが拡散されやすい。曖昧な情報は補間され、好きなように判断されるのだ。これは社会の安定性を大きく損なう。人々は「読みたいニュース」だけを真実だと考えるようになるだろう。政府に不信感を持っている人たちは政府批判を読みたがり、別の人たちは政府を妄信する。いうまでもなく、どちらも間違いだ。誰かがバランスの取れた報道をする必要があるわけだが、インターネットからそういうメディアが出てくるのはまだまだ先のことになりそうだ。そもそも、真実は曖昧なものであり、ネットでは人気がないからだ。

最後にマスコミは政府が作ろうとしている非民主的な状況に加担することになる。「内心は嫌々従った」と後で言い訳するのかもしれないが、国民を裏切ることになるだろう。政府が戦争をしたいのか、国民を大企業の奴隷にしたいのかは分からないが、権力の共犯者になってしまうということだ。戦前の政府と同じ状況だ。

これを打開するために新聞社がやらなければならないことは2つある。第一に政府からいかなる恩恵も受けないことだ。軽減税率の対象から外してもらい、記者クラブ制度も廃止すべきだ。安倍首相とお寿司を食べに行くのもやめたほうがいい。次に新聞社は自分たちが公平中立な第三者であるふりをやめるべきだ。新聞社は問題の渦中にあり、状況を作るのに加担している。

炊き出しの場所を探す – Googleクライシスマップの使い方

金曜日の夜に熊本地震からしばらく経った。無料wifiの提供は始まったようだが、未だに「物資が届かない」とか「情報がない」などの声があるそうだ。

自治体はまとめサイトを作るべきだという話があるようだが、実際には民間で災害対策情報をまとめている人たちがいる。例えばGoogleは「クライシスマップ」というものを提供しているのだそうだ。東日本大震災の復興支援への対応経験がある九州大学の学生がまとめた情報だそうだ。「情けは人のためならず」というが、支援の経験は自分たちが被害者になったときに活きるものらしい。

ただ、このマップを見ても、どう活用してよいか分からない。慌てているとなおさらだろう。いつ地震が来るかは分からないのだし、使い方だけでも見ておこうと思った。なおスマホから見ると使いにくかったので、タブレット(いくらか電池の持ちがよい)かノートパソコンで見るのが良いのではないかと思う。予めブックマークしておくか、「google 災害情報」で検索すると出てくる。備えあれば憂いなしだ。

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まず、広域の地図が表示される。広域にわたっているために、ちょっと分かりにくい。crisis002

そこで自分の住んでいる地域を検索する。ここでは東区健軍とした。青い筋で見えているのは車が通れる道路。本田技研が情報提供しているそうである。渋滞情報までは分からないが、通行できることは分かる。その他は判例がなくよく分からない。

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欲しい情報を見るためには、レイヤーを使う。レイヤーは画面右にある。レイヤーを選択すると選択画面が出てくるので「炊き出しマップ」を選択した。これは災害ごとに異なると思われる。炊き出し場所は赤いピンで表示されているらしい。画面左にあるピンを選択したところ小学校の名前が出た。ラジオで情報を取得したようだ。かなり詳しい情報が載っている。

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都市部の道路は通れるようだが、通行実績がない(すなわち通れない)ところがかなりあるようだ。予め分かっていれば無駄な動きが少なくてすみそうだ。スマホしかなく情報が取れない人の代わりに調べてあげるというような「リモートボランティア」という支援もあるのではないかと思った。情報が最新のものかは分からないが、すくなくとも闇雲に動くよりはよさそうに思える。

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「Yahoo!災害マップ」と検索すると避難場所情報が出てくる。

震度情報を隠蔽したNHK

熊本地方で地震が起きた。震度7だった。かなり大きな地震で、福岡でも震度4の地域があったそうだ。阪神淡路みたいな大惨事にならなくて良かったと思ったが、それでも9人が亡くなった。

そんななか不可解な動きがあった。NHKがなぜか鹿児島県の震度を表示しなかったのだ。この状況は今でも続いている。お昼のニュースでも当時の震度表記から鹿児島県が省かれている。どうやら偶然外されたわけではないらしい。(実際の図はこちらにのせた。偶然表示されなかったのだという意見もあるだろうから、ご自身の目で判断していただきたい)

これはかなり不自然だ。多分、鹿児島でもかなり揺れただろうから、地元の人たちは「なぜ鹿児島の震度が表示されないのだろうか」と思ったのではないだろうか。

これはかなりあからさまな動きだ。現在、薩摩川内市では原発が稼働している。Yahoo!によるとこの地域の震度は4だったそうである。これが反原発の人たちを刺激するのを避けたかったのではないかと思われる。Twitterは「地震が起きたあともなかなか地震速報に切り替わらなかった」と指摘する人がいる。ちょうどニュースをやっていたのだから、すぐに切り替わっても良さそうだ。

ほんの数分でNHKの上層部では「鹿児島の震度は表示するな」と指示したのだろうか。普段からそのような取り決めがあったのかもしれないし、その場で慌てて決めたのかもしれない。だが官僚的な組織で「現場の判断で鹿児島を外す」みたいなことがあり得るだろうかという疑念が生じる。

何がなんでも今すぐ、すべての原発を止めてしまえとは思わない。反原発運動は一部の人たちのライフスタイルとなってしまっているので、それはどうなのかとも思う。しかし、当地の震度を隠すというのは少しやり過ぎではあるまいか。

NHKに人たちが国民を向いていないのは明らかだ。普段どのような態度で視聴者と接しているのだろうか。受信料は欲しいが視聴者の冷静な判断力を信頼していないことになる。本当にこんな放送局を支えるべきなのか。割と真剣にそう考えた。

追記1:これを書いてから2日ほど経って、NHKは熊本付近を表示した後に九州全域を表示するようになった。さすがに一度作ってしまった地図を作り直すのはバツが悪いと思ったようだ。一方、Twitterでは「NHKは隠蔽していた」という情報が一人歩きするようになっている。

追記2:震源地が南にずれて鹿児島の震度が表示されるようになった。「川内原発に近い」と懸念を表明している人もいるが、断層は川内までは到達していないのだという人もいる。八代で震度5強の地震が起きている。この記事を書いた後で別の地震が起り、熊本の死者の数は40名を超えた。少なくとも観測史上では初の群発地震だったようだ。NHK・鹿児島・隠蔽で検索が増えており、いわばバズった状態になっている。ちょっとした隠蔽だったと思うのだが、これはかなり高く付くのではないかと思う。こうした不信感に疲れが重なるとデマのもとになる。マスコミの責任として、なぜ表示しなかったのかを説明するべきだと思う。

 

Lineいじめとコミュニケーション特性

必要に迫られてLineについて勉強している。これがいろいろとややこしい。つい、いじめの温床になるのも当然だななどと思ってしまった。もっとも、この感想には男性としての偏見が含まれている。そもそも女性同士のコミュニケーションが複雑だからだ。

伝統的な電子コミュニケーションの基礎はメールだ。基本的に一対一のコミュニケーションツールで、メーリングリストを使うと一対多に拡張できる。その後にメッセンジャーツールができた。メールに即時応答できるが、これも一対一のツールである。さらにFacebookが出てきた。これは個人が好き勝手にコミュニケーションして、個人がリアクションするというツールだ。最後に登場したのがSkype。これはメッセンジャーを音声にしたものだが、電話の代替でわかりやすい。これにTwitterが加わる。これは「弱い靭帯」ツールとして機能している。簡単にフォローもアンフォローもできる。Instagramも「弱い靭帯」ツールだ。

ところが、Lineはこの「個人主義」で「弱い靭帯」という要件を欠いている。

女性は男性のように「用事があったら見ておいて」というメールメンタリティは受け付けないようだ。要するに会話が楽しみたいわけである。会話はコミュニケーションの手段ではない。女子高生はお互いに相手の話を聞いていないというが、老人ホームでも女性は会話が成立していなくても、お互いになにか話し合っていることがあるそうだ。いわばカラオケ状態だ。

Lineは最初からグループが前提になっている。グループがあるから「外す」ことが可能になる。Facebookでは「相手から外される」ことはあるが「外し」は存在しない。そもそもそんな概念がないからだ。誰が考えたのかは知らないが、Lineはアジア的なメンタリティだ。特に日本人は集団が意思決定して集団が従うことで知られている。これは大陸アジアとも違った形なのだそうだ。Lineが日本人の間に爆発的に流行したのは、一度Lineが使われるようになると他の人も使わなければならないという同調圧力が働くからだろう。

ところがLineでは「外し」はかなり重要な意味を持つ。勝手にアンフォローすることはできず、いったんブロックしてから削除するのだそうだ。なぜこのような仕様にしたのかはわからないが、これは十分「絆」になっている。絆とは家畜をつなぐ綱のことだ。

また、相手からメッセージが来ると、夜中であってもけたたましい音がする。そこで、通知がこないように設定することになる。あまり仲良くない相手や企業から頻繁に通知が来るとウザい。ところがLineを使い慣れない人は「相手の通知設定がどうなっているか」はわからない。だから関係性が曖昧になりがちだ。絆が不必要に強いからこそ、関係性が隠蔽されやすいのだ。

例えばSkypeは相手のステータスがわかるようになっている。これも個人主義的な文化だ。「今は話できない」ことがわかっているからこそ、相手は安心して電話がかけられる。ところがLineはそれを推察するしかない。気が弱い人は通知を常時オンにしておく必要があるだろう。そもそも「今は邪魔しないでください」というのが表立って言えないのが日本人なのだ。

このように「集団主義的」に見える日本人だが、実はそのコミュニケーションに対する態度には偏差が大きい。つまり、人によって実はバラバラなのである。そのバラバラさにはいくつかの要因がある。

  • 年齢:年齢によってリテラシが異なる。
  • 生育歴:他人がどれくらい生活に干渉していいかは生育歴で決まる。
  • 関係性:親密さの度合いによって許容できるコミュニケーションが異なっている。

年齢によってパソコン、タブレット、スマホに対するリテラシは大きく異なる。もっともリテラシが低いのはパソコンに慣れていない高齢者だ。パソコンに慣れていない高齢者にとって、パソコンは「混乱」と同義なのだ。

電話やFaxにはモードがあり、そのモードは1種類である。電話がなれば受話器を取る。電話をかけたければ数字を押す。これだけだ。一方、パソコンやタブレットのUIはモーダレスである。教科書にはUIはモーダレスにして、ユーザーの自由度を増せと書いてあるものがあることが多い。ところが高齢者はモーダレスは苦手なようだ。さらに画面の一部(小さなアイコン)がボタンに変わるなどいうことは本能的に受け入れないようなのだ。

モーダレスなデバイスに接すると、端からみると認知が破壊されたような状態になるらしい。例えば文字は書けるのに、ひらがなでの入力ができなくなる。「入学」を「にゆーがく」などと打とうとする。またLineで受信メッセージが出ると何をしてよいかわからなくなるようだ。あの受話器のマークがボタンではなく単なる絵に見えるのかもしれない。絵を「押す」ということができないのだ。

認知体系が破壊されると電話での常識すらわからなくなるようだ。つまり「相手が忙しそうなときに電話をかけるとどうなるか」というのがわからなくなる。実は電話とかFaxとかの機械はかなり多くの情報をバンドルしている。これは経験的に学んだものだ。だが、装置が変わるだけで過去の学習が無効化されてしまうのだ。経験から普遍的なルールを抽出するというような学習にはなっていないようだ。

女性は会話を好む。だが、会話が成立するためにはかなり多くの概念を共有している必要がある。実はここにかなりの分断が起きている。一方、男性はコミュニケーションの「目的」に集中しやすいので、分断が少ない。

女性の中にも、テレビ電話を極端に嫌がる人(生活を覗かれるのがイヤなのだろうし、化粧をしていないところを見られるのもイヤなようだ)もいれば、気にしない人もいる。個人的な価値観もありそうだが、関係性が大きく影響しているようである。要するに「よそゆき」の関係性の人には私生活に踏み込んで欲しくないのだ。この場合、夫が防波堤のような役割を果たしている。

一方、テレビ電話は嫌がらないが、時間が分散していて集中した時間が取れない人もいる。こうした違いは関係性のほかに生育歴にもよるようだ。大家族でよそ者の出入りが多かったようである。

生育歴が関係するので、実の親子のコミュニケーションにはそれほど問題が生じないのだが、それ以外のコミュニケーションではもともと問題が発生しやすい。

日本人女性といってもすべての人が集団主義的とは限らない。誰かにじゃまされずにじっくりと文言を考えたいという人もいる。こういう人に一番向いているメディアは実は手紙やFaxなのではないかと思う。

で、あればはっきりと「私にはこう連絡してほしい」と言えればよいのだろうが、主張するような訓練は受けていない。「私とあなたの間には違いがない」というのがコミュニケーションの前提だからだ。ここにジェンダーの問題も絡んでくるのだろう。できるだけ共感的で相手にあわせるべきだという刷り込みだ。

Lineはコミュニケーションに集団圧力を加えることで大きくなったツールで、個人の主張ができるようには作られていない。もし個人主義的なツールだったならこれほど発展しなかっただろうし、これほど状況が複雑化することもなかっただろう。

Lineいじめをなくしたいなら、学校でメールアカウントでも作ってメールからコミュニケーションの基礎を学ばせるべきだ。よく「コミュニケーション障害」などと言われるが、これだけ事態が複雑化しているのだから、問題が起きて当然なのだ。

 

価格と期待値

昨日は「消費者があまり期待しない市場」での価格形成について観察した。市場が決定する最低価格帯に価格が収斂する。まれにそこから外れる値段がつくものもあるが、それは例外的である。例えばヤフオクでは、ひと世代かふた世代前のMacにこうした動きが見られる。一方、最新型の機種ではこうした傾向は見られない。新品よりもいくらか割安な値段で取引されるし、値段にもばらつきがあるようだ。

両者を分けている価値は曖昧だが、強いて言えば「ライフスタイル」だ。スペック(速度)にはそれほど大きな違いはないのだが、やはり「スタバでどや顔」したい人たちはライフスタイルの選択肢として最新のMacを選んでいるのだ。最新型のマックには「ブランド価値がある」ということになる。

ユニクロは「あまり期待しない」人たちから脱却し、ブランド価値への移行を指向していたようだ。しかし、それを諦めて価格志向に回帰しょうとしている。週末だけ安い価格で売るのもやめるらしい。ユニクロは「品質」と「価格」を両立させる方針だという。

これが正しい選択なのかはよくわからない。価格重視の人たちは「価値にはあまり期待をしない」からだ。最低限着られればよいのである。こうした顧客たちが商品知識を持っていないとはいいきれない。商品について熟知したからこそ、あまりこだわらなくなった可能性もある。だから、消費者を教育するのも徒労に終わるかもしれない。

IMG_0133では、価格重視の人たち向けにオペレーションを省力化するのがよいのだろうか。その典型的な例がマクドナルドだ。

マクドナルドは近視眼的にコスト管理をするとどうなるかという壮大な社会実験になっている。

この写真は最近食べたマクドナルドだ。200円で買える。包みを開くと具とパンがバラバラになっていた。レストランというよりは給餌場の様相だ。話には聞いていたが、実際に見るとかなりショッキングである。日本人が持っている食堂に対する期待値を大きく損なう。

だが、これを目にすると「ああ、やっぱり」くらいの感想しか持たない。そもそも300円(税込)でコーヒー(これもまともに抽出したものかどうかは怪しいものだが)とわずかな休息さえ得られればよいのである。

マクドナルドは主婦を雇って「子供にも優しい」品質をアピールしようとしていたが、業績は回復しなかった。従業員も顧客もマクドナルドには過剰な期待はしていない。だから、高いものを食べたりはしないだろう。それくらいの価格帯で食べられるおいしい(そして期待を裏切らない)ものはいくらでもあるからである。

低価格路線を取ると品質にはあまりコストをかけられなくなる。それでも「品質」と「価格」を両立しますと言い続けなければ、マクドナルドのようになってしまうというわけだ。

このように価格は需要と供給の単純な交点ではなさそうだ。同じ品質のものでも価値観によって大きく変動してしまうのだ。

1971年にマクドナルドが日本に入ってきたとき、それは「あこがれのアメリカ」というライフスタイル商品だった。日本は40年ちょっとであこがれを消費し尽くしてしまったことになる。

大学生のパソコン離れ

スマホが普及するにつれて、パソコンができない子供が増えているという。大学はまずパソコンを教えなければならないらしく「自分たちは何学部なのだ」と嘆く先生が多いのだと言う。これを聞いて「何か変だなあ」と思った。

かつて、卒論をワープロで提出しようとしたら、先生から「ワープロは心がこもらないからよい論文が書けない」と言われた。手書きだからこそ心がこもるというのだ。つまり、ついこの間まではパソコンは大学教育には必須ではなかったのだ。だから、大学生がパソコンを使えなければ、使わなければよいのである。

パソコンがなければ「調べ物ができない」と言う人がいるかもしれない。これはよい指摘だ。昔アメリカの大学では、最初に2つのことを教えてくれた。1つはGopher(Gopherはテキストベースの検索システム。wwwはこれにグラフィックスを加えたのが「画期的」だった。テーブル組でレイアウトができるようになってからインターネットは爆発的に普及し始めた)の使い方で、もう1つはそれを使って大学の蔵書リストをあたることだ。最近では、学術論文ネットワークの使い方を教えてくれる。いくつかの有料サービスが学生なら無料で使えることになっている。

これはよい仕組みだ。確かにGoogleでもあらかたのことはわかるのだが、アカデミックスキルを身につけたとは言えない。やはり学術論文をあたるのが「正しいお手前」である。「インターネットは信頼性が置けない」と言っているのは、やはり日本人が田舎者だからだ。世の中には有料のソースというものがある。知的な訓練を積ませたければこうしたソースの使い方を身につけさせるべきなのである。

さて、現在のQWERTYキーボードは、キー同士があたらないようにという工夫の結果生まれたものだ。現在ではタイプライターを使う人はいないので、キーボードがQWERTYである必要はない。これだけスマホ組が増えているわけだから、誰かがUSBで接続できるフリック入力ができるキーボードを売り出せばよいだけの話だ。これは爆発的に売れるだろう。機械式のキーボードではなく、タッチスクリーン式の液晶画面のようなものになるかもしれない。Googleはエイプリールフールのネタとして触れるフリックキーボードの提案をしている。

かつての教授たちが「手書きしか認めたくない」と思っていたのは自分たちがパソコンを使ったことがなかったからだろう。そこで「気持ちがこもらない」などと言ってみるわけだ。同じようにスマホが受け入れられないのは、現在の教授たちがスマホを使いこなしていないからだ。

さて、パソコンが使えないのはなぜだろうか。確かなことはわからないが、子供が(たとえ子供部屋はあったとしても)自分だけのスペースを与えられていないことが原因になっているのではないかと思う。じっくり自分だけで占有できる時間と空間がなく、また逆に家族とは情報を共有したくないと思っている。この結果、時間が切り貼りになり、集中することができない。そこでパーソナルスペースを持ち歩くことになったのだろう。だが、そのパーソナルスペースも人付き合いに浸食されてゆく。

多分これが「若者がスマホしか使えない」ことの唯一の問題ではないかと思うが、時間を切り売りしている大人も多いのではないだろうか。

LINEコミュニティと自民党の憲法改正案

昨日はヤフオクを例に挙げて、オンラインコミュニティが殺伐としてくる事例は何が原因なのかを考え、日本人は不特定多数が集まるコミュニティでどう振る舞ってよいかわからないのではないかという仮説を立てた。そこで過剰に防衛的になったり、逆に匿名を利用してオークションを荒らす人がでてくるわけだ。

ここで提示できる解決策は2つある。1つは脱村落的な世界に慣れることであり、もう1つは伝統的な村落コミュニティに戻るというものだった。日本の右派(保守とも言われる)の人たちは、村落的コミュニティに戻れば社会矛盾は一挙に解決すると考える人が多い。村落共同体の基礎は個人ではなく家族なので、家族回帰が語られる。逆に脱村落化するのは自由主義的な考え方である。ある種の社会的訓練がないままで自由主義化したのがヤフオクなのだ。つまり、これはかなり政治的な課題だともいえる。

では、日本型の村落コミュニティが理想なのかという疑問が出てくる。例えばLINEは村落コミュニティを作っている。ただし、かなり窮屈なコミュニティだ。相手のメッセージに対して即座に返信することが求められる、仕様のせいもあるかもしれないのだが、参加している人たちの注意力は既に散漫になっており、家事や仕事をしている間にメッセージが来ても、すぐに返信したくなってしまうらしい。

LINEにはグループを作る機能もある。よく知られているように、相手が気に入らないとLINE外しやLINEいじめという問題が起るのだ。社会的制裁(村八分)が頻繁に用いられるのである。グループは実際の集団である家族からは分離している。親が子供のLINEを除くことはタブーとされており、家族が揃った食卓でスマホ片手にバラバラの時間を生きているというのはよくある光景だ。

つまり、保守層が考えるようにはならない。家族はもはやバラバラの時間を生きているわけだし、こうして新しく作られたコミュニティも持続性を欠いている。特に顕著なのは個人と個人の距離感の問題だ。

「適度に距離を保って楽しく利用すればいいのではないか」などと思うわけだが、それは使っていない人の発想だ。いったんコミュニティが成立してしまうと、その監修から逃れることができなくなる。

LINEコミュニティに欠けているのはオンライン特有の属性ではない。LINEコミュニティに参加している人たちはフォロワー属性が強いのではないかと考えることができる。日本の意思決定やコミュニティの特色は「集団性」だ。それほど強い集団を形成するわけではないが、個人としてコミュニティに参加したり、発言するのを嫌うである。つまり、社会的集まりを運営した経験がないままでコミュニティが形成されると、一人ひとりがうまく距離を取れなくなる。そこでLINE外しやLINEいじめが頻発するわけである。

ここまで「日本人」と大枠でくくってきたのだが、日本人のSNSに対する態度は一様ではない。掲示板時代からコミュニティに参加していた人たちがいる。この人たちはオンラインコミュニティに慣れていて、適当な距離を保ちながら会話を行うことができる。掲示板が「荒れた」のは2chが出てきたからだ。普及するにしたがってフォロワー層が出てくると、元いた人たちはいなくなってしまう。

また、留学・海外勤務を経験した人たちはFacebookに慣れている。ここにもも「すぐに反応しなければならない」という約束はない。また、グループという感覚も薄い。個人対個人のやり取りになっている。

Facebookはいくらか「盛られている」。それが露見するのは「盛ることを知らない(もしくはその必要がない)」人が入ってきたときである。例えて言えば、フレンチばかり食べている人のところにお母さんが乱入してきて「週末に帰省したときのお味噌汁は何がいいか」と聞かれるような感覚だ。

Facebookは実名だという説があるのだが、アメリカでも名前やキャラクタを作って登録している人もおり、必ずしも実名コミュニティとは言えない。芸能人が芸名で活動するのと同じような感覚だ。ここから類推すると、実名であってもある程度のキャラクタを作っている人が多いのではないかと思う。本名で活動している芸能人のテレビに出ている姿が本人そのものではないのと同じような感覚だろう。日本人はこれを「盛る」というが、普段から生活を「盛っている」のがアメリカ人だ。

その意味ではSNSはそもそもキャラを作って参加する(これをセルフブランディングなどという)ものだ。日本人が集団の中に埋没することを好むように、アメリカ人はキャラに埋没することを嗜好するのだ。

さて、話が脱線したが、現代社会はすでに「個人化」している。それは、おそらくアメリカから憲法を押し付けられたからではなく、多くの現代人が複数のコミュニティを同時に生きているからだろう。故に憲法で旧来の家族感を押し付けたとしても、実際にできあがるのは、家族が食卓を囲みながらそれぞれのスマホ画面を覗くようなバラバラで出来損ないのコミュニティなのではないかと考えられる。