今読まれる文章を書くにはどうしたらいいのか

先日書いたNHKの文章が軽く「バズって」いる。鹿児島県の震度情報を「隠蔽している」というものだ。どうやらGoogle検索で上位に来ているらしい。そもそもなぜ人々は検索してまで情報を探すのだろうか。
megane情報が完全な形で提供されることはほとんどないから、情報の伝え手は様々な工夫をしてできるだけ全体像を伝えようとする。

これは眼鏡の絵。

ところが、昨今のマスコミには様々な「配慮」が求められる。プレッシャーがあるからだ。それはコンプライアンス(その内容は曖昧だが、とりあえず法令遵守と訳される)だったり、スポンサー(NHKの場合は国)への配慮だったり、政治家への圧力だったりするようだ。終身雇用制度があった頃には「ジャーナリズムの正義を守る」などと言えていた人たちも最近ではおとなしくならざるを得ない。辞めると下請けやフリーランスに「転落」してしまうからである。

ところがこうした「配慮」は弊害をもたらす。全体像が伝わりにくくなるわけだ。すると、人々はそこを埋めようとする。

この模式図が眼鏡を意味しているのは明らかだ。だが、これを「眼鏡ではありません」と伝えてみる。だが、見ている人は「ああ、これは眼鏡じゃないんだなあ」とは思わない。眼鏡であることは誰の目にも明白だと思うはずだ。そこで却って「これは眼鏡なのだ」という確信を強める。そこで「これは眼鏡なんだ」という「情報」を求めるようになるわけだ。わざわざ「NHK隠蔽」で検索する人が増えるのはそういう理屈なのだろう。

つまり「情報を補間して、みんなが思っていること」を書いてやればそれなりの支持を集めることができる。隠蔽にはこうした負の効果がある。

ここでは奇妙な倒錯が生まれる。もともとの絵が「眼鏡だった」ことはどうでもよくなるのだ。「それを隠蔽している」ということが問題になる。例えば、安倍政権を批判している人たちにとっては個別の問題はもはやどうでもいいことだ。単に安倍政権が地上から(しかももっとも惨めな形で)なくなれば、あとはもうどうでもいいわけだ。

また、ヘッドラインだけが問題になる。つまり「NHKは情報を隠蔽している」というヘッドラインだけが必要で、あとは関連する単語さえ並べてあれば「これだけ長く書いてあるのだから、おそらくこれは真実」ということになる。

読み手の関心は「認知的不協和」の解消(俺の推論は正しいはずだが、相手はそうじゃないと言い張っている)にあるわけで、真実が何なのかということには興味が行かない。自分で情報を検証することには意味がない。最悪なのは「問題の解決」を求めなくなるということだ。認知的不協和の解消に一日を費やすので、もはや解決する時間などないわけだ。

配慮が増えるたびに、元の絵は見えにくくなる。だが、それは情報を隠したことにはならない。人々は「見たい絵」を見るようになるのである。

実際にはさらに複雑なことが起きている。両陣営がお互いに見せい絵を見せようとしている。今回の例では元の絵は眼鏡だったのだが、もはやその形は明瞭ではない。すると人々はますます「見たい絵」を見るようになる。これが行き着き先は「デマ」である。デマは情動が見せる絵だ。つまり、情報が隠蔽されると理性的な判断は失われるということになる。デマの行動は合理性を欠くので、しばしば受けて全体にとって損な行動になる。

ここまで考えると、情報の公正公平がなぜ重要なのかが分かる。元の絵を元の絵のままで見せなければならない。(かといって嘘をついてまで単純化してはいけない)そうしないと「何かを伝える」という基本的な役割が果たせなくなるからである。

その意味で安倍政権のやっていることは罪深い。情報を意図的に混乱させることで、情報そのものの信頼性を毀損している。これは情報空間を破壊するという意味では情報テロと呼んでよい。しかし、その結果は政権側の思惑通りには行かないはずだ。人々はますます見たいものを見るようになる。検索の動機を与えて、ますます都合の悪い「真実」があぶり出されることになるだろう。

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