池田信夫氏の観察が面白かった。経済学ではリスクを確率的な問題だと考える。だが、実際に日本人はリスクを確率の問題だとは考えていない。これは実感的に確からしい。だが、なぜそうなるのかを説明するのはなかなか難しい。
朝まで生テレビ終了。印象的だったのは「リスク=被害✕確率」だということを誰も納得しなかったこと。経済学的にいうと、みんなMinMaxで考えてるんだね。それが「安心」の意味だとすると、ものすごく高コスト。
— 池田信夫 (@ikedanob) 2016年3月11日
考えの過程はちょっと冗長だが、一言で要約すると日本人は合理的にリスクを管理できるが、その提供範囲はきわめて限定されるということになるのではないかと思った。
原子力発電の危険が確率の問題だという認識が成り立つためには、その運用の意思決定に参加できることが前提になる。原子力発電の問題ではこの原則が崩れているのではないかと思われる。そこで日本人には公共空間という概念がないという仮説が考えられる。日本人は意思決定ができる空間と意思決定はできないが影響を受ける空間を厳密に分けているのではないかということだ。そして、意思決定はできないが影響を受ける空間では「どんなリスクも許容しない」のである。
これはきわめて感覚的な問題だ。自分たちの手元にある音楽プレイヤーから流れる音は心地よい音だが、自分で音量や曲が選択できない音は騒音だという例えが浮かんだ。
原発を確率的なリスクの問題にするためには、国民の政治参加を容易にして、政治のもとで原発をコントロールすればよいことになる。だが、これは成り立ちそうにない。
日本人は和を嫌う。自分たちの意思決定圏に他人が入ってくるのを嫌がるのだ。自分の意思決定権が希釈されてしまうからだろう。その対になっているのは、そもそも意思決定できないところには関与したがらないという性質だ。だから日本人は民主的政治プロセスには参加したがらない。それよりも自分が関与できること(例えばアイドル、マンガ、ファッション、おいしい食べ物、最新の電子ガジェット)に時間を使いたいと考えるのである。
その意味では左翼の反原子力発電運動は決して収まらないだろう。彼らはそれを他人がスピーカーで流す大音量の音楽のように感じている。たとえそれがモーツアルトであろうと、単なる騒音に過ぎないのだ。
公共というものを「関与できる」「関与できない」に分けるといろいろなことが説明できる。
5年前の東日本大震災では人々は整然と行動した。日本人は整然としていてすばらしいということになっているのだが、実際には下手に動けば他人から大バッシングを受けることを日本人が承知していたからだろう。意思決定できないが、影響を受けるものの代表が「空気」だが、日本では空気を乱すと周囲から圧殺されてしまうのだ。
若者の「なんとか」離れは、すべて意思決定圏にない事象からの離脱だ。自分でコントロールできないものには近づかないのだ。これを他人が説得しようとしてもムダである。これを実感するのは簡単だ、LINEばかりしている若者にFACEBOOKのアカウントを作れといってみればよい。若者はおじさんコミュニティの意思決定に関与はできないが、影響は受ける。そこでコミュニティを切り離したいと考えるのだろう。
会社員のおじさんが本社に残りたがるのも、意思決定が重要だからだ。いったんここから外れた会社員は「コースを外れた」として明確に区別される。多分、地方に「飛ばされた」官庁からはやる気が失われるだろう。テレワークはできるかもしれないが、非公式のコミュニケーション(居酒屋で飲むこと)の方が意思決定には重要だからだ。意思決定は非公式なものなのだ。非正規の社員たちはもともとここから除外されているので、会社のためにやる気を出すことはないだろう。意思決定件は稀少な既得権益なのだ。
原子力村も他人の関与を嫌がる。5年前の原発事故ではここに混乱がおきた。実質的に意思決定してきたのは専門知識が分かる人たちだが、ここに知識のない首相が乗り込んだことで大混乱がおきた。専門家は「平易な言葉で説明しなければならない」などとは思わず薄ら笑いを浮かべながら「政治家は馬鹿だなあ」と思っていたようだ。軍事的にも同じ問題が起きているのではないかと思われる。自衛隊は専門用語が通じる米軍にはシンパシーを感じているだろうが、政治家が軍事に関与することに嫌悪感を持っているのではないかと思われる。法律がコントロールできるのは公式の意思決定だけなので、いくら法律を作っても問題が解決しないのは当たり前だ。
ここから得られる結論は簡単だ。リスクを合理的に管理したなら、それを専門家だけで解決して、周囲にはゼロリスクだと説明することだ。そして決して失敗しないことである。安倍政権は日米同盟の深化には何のリスクもないと説明した。有事が起きない限りこの説明は合理的ではないが、有効なのだろう。そのためにはすべての軍事情報を隠蔽することが必要だということになる。音さえ聞こえなければ、自分たちに関係ないから誰も反対しないのだ。また、意思決定圏にない事柄を合理的に理解しようとする人もいない。
もうひとつの解決作は、公式の(つまり表立った)意思決定を徹底させ、異議があれば納得ができるまで議論する姿勢を育てることである。現状では全く不可能に思えるが、今から教育を始めれば2~3世代のうちには定着するかもしれない。
日本人は意思決定を集団で行いそこには非公式なルートで時間をかけて蓄積された知識の集積が大きな役割を果たしているようだ。ここに合理性を持ち込むのはなかなか大変そうだ。