リスク・安心安全・日本人

池田信夫氏の観察が面白かった。経済学ではリスクを確率的な問題だと考える。だが、実際に日本人はリスクを確率の問題だとは考えていない。これは実感的に確からしい。だが、なぜそうなるのかを説明するのはなかなか難しい。

考えの過程はちょっと冗長だが、一言で要約すると日本人は合理的にリスクを管理できるが、その提供範囲はきわめて限定されるということになるのではないかと思った。

原子力発電の危険が確率の問題だという認識が成り立つためには、その運用の意思決定に参加できることが前提になる。原子力発電の問題ではこの原則が崩れているのではないかと思われる。そこで日本人には公共空間という概念がないという仮説が考えられる。日本人は意思決定ができる空間と意思決定はできないが影響を受ける空間を厳密に分けているのではないかということだ。そして、意思決定はできないが影響を受ける空間では「どんなリスクも許容しない」のである。

これはきわめて感覚的な問題だ。自分たちの手元にある音楽プレイヤーから流れる音は心地よい音だが、自分で音量や曲が選択できない音は騒音だという例えが浮かんだ。

原発を確率的なリスクの問題にするためには、国民の政治参加を容易にして、政治のもとで原発をコントロールすればよいことになる。だが、これは成り立ちそうにない。

日本人は和を嫌う。自分たちの意思決定圏に他人が入ってくるのを嫌がるのだ。自分の意思決定権が希釈されてしまうからだろう。その対になっているのは、そもそも意思決定できないところには関与したがらないという性質だ。だから日本人は民主的政治プロセスには参加したがらない。それよりも自分が関与できること(例えばアイドル、マンガ、ファッション、おいしい食べ物、最新の電子ガジェット)に時間を使いたいと考えるのである。

その意味では左翼の反原子力発電運動は決して収まらないだろう。彼らはそれを他人がスピーカーで流す大音量の音楽のように感じている。たとえそれがモーツアルトであろうと、単なる騒音に過ぎないのだ。

公共というものを「関与できる」「関与できない」に分けるといろいろなことが説明できる。

5年前の東日本大震災では人々は整然と行動した。日本人は整然としていてすばらしいということになっているのだが、実際には下手に動けば他人から大バッシングを受けることを日本人が承知していたからだろう。意思決定できないが、影響を受けるものの代表が「空気」だが、日本では空気を乱すと周囲から圧殺されてしまうのだ。

若者の「なんとか」離れは、すべて意思決定圏にない事象からの離脱だ。自分でコントロールできないものには近づかないのだ。これを他人が説得しようとしてもムダである。これを実感するのは簡単だ、LINEばかりしている若者にFACEBOOKのアカウントを作れといってみればよい。若者はおじさんコミュニティの意思決定に関与はできないが、影響は受ける。そこでコミュニティを切り離したいと考えるのだろう。

会社員のおじさんが本社に残りたがるのも、意思決定が重要だからだ。いったんここから外れた会社員は「コースを外れた」として明確に区別される。多分、地方に「飛ばされた」官庁からはやる気が失われるだろう。テレワークはできるかもしれないが、非公式のコミュニケーション(居酒屋で飲むこと)の方が意思決定には重要だからだ。意思決定は非公式なものなのだ。非正規の社員たちはもともとここから除外されているので、会社のためにやる気を出すことはないだろう。意思決定件は稀少な既得権益なのだ。

原子力村も他人の関与を嫌がる。5年前の原発事故ではここに混乱がおきた。実質的に意思決定してきたのは専門知識が分かる人たちだが、ここに知識のない首相が乗り込んだことで大混乱がおきた。専門家は「平易な言葉で説明しなければならない」などとは思わず薄ら笑いを浮かべながら「政治家は馬鹿だなあ」と思っていたようだ。軍事的にも同じ問題が起きているのではないかと思われる。自衛隊は専門用語が通じる米軍にはシンパシーを感じているだろうが、政治家が軍事に関与することに嫌悪感を持っているのではないかと思われる。法律がコントロールできるのは公式の意思決定だけなので、いくら法律を作っても問題が解決しないのは当たり前だ。

ここから得られる結論は簡単だ。リスクを合理的に管理したなら、それを専門家だけで解決して、周囲にはゼロリスクだと説明することだ。そして決して失敗しないことである。安倍政権は日米同盟の深化には何のリスクもないと説明した。有事が起きない限りこの説明は合理的ではないが、有効なのだろう。そのためにはすべての軍事情報を隠蔽することが必要だということになる。音さえ聞こえなければ、自分たちに関係ないから誰も反対しないのだ。また、意思決定圏にない事柄を合理的に理解しようとする人もいない。

もうひとつの解決作は、公式の(つまり表立った)意思決定を徹底させ、異議があれば納得ができるまで議論する姿勢を育てることである。現状では全く不可能に思えるが、今から教育を始めれば2~3世代のうちには定着するかもしれない。

日本人は意思決定を集団で行いそこには非公式なルートで時間をかけて蓄積された知識の集積が大きな役割を果たしているようだ。ここに合理性を持ち込むのはなかなか大変そうだ。

保育園の義務化について

保育園を義務教育にすれば、現在の待機児童問題はすべて解決すると言っている人をちらほら見かけるようになった。出元もなんとなく分かったが、あまりにも不愉快なので書きたくない。どうせ実現しないことが分かっているから人をたきつけるのだろう。大変悪質な手口だ。

ちょっと考えればそれが嘘だということはすぐ分かる。小学生はオムツも取れているし、自分で席に着くこともできる。だから数十名を一人の先生が見ることができるのだ。だが、0歳児は違う。おなかがすけば泣くし、静かにしなさいといっても理解できない。とても数十人を一人で見ることはできないだろう。0歳児は泣かせておけばいいかもしれないが、子供はすぐに歩けるようになる。どんな危険があるか分からないが「触るな」とか「歩き回るな」とか言って聞かせることはできない。

もっとも、子供に綱をつけてつないで置くことはできるだろう。犬や猫みたいに扱うわけである。泣いても相手をしない。そのうち子供は泣いてもムダだということを悟るだろう。実現するのは、親が子育てに関与することを許されない社会だ。生活とポジションを維持するためには働かざるを得ない。だから子供を綱につないで、国や地方自治体に管理してもらうのだ。

最近「絆」というのは家畜をつないでおく綱のことであるという説が出回っている。両親は会社につなぎとめられ、子供を綱につないで運命を悟らせる。そういう社会を「絆社会」というのかもしれない。

どうして誰も「そんなのはおかしいのではないか」と異議を唱える人がいないのはなぜなのだろうか。

学生の野球を禁止すべきなのではないか

読売巨人軍の野球選手が賭博容疑で記者会見を開いていた。これを見て、学生の野球を禁止すべきなのではないかと思った。

会見を見て、この野球選手の語彙や世界認識は中学生レベルに見えた。自分で善悪の判断ができないのだろう。多分、子供の時から野球漬けで他のことを覚える必要もなかったのだろうし、周囲も覚えさせてくれなかったのではないだろうか。野球にだけ集中していればよい待遇を得られるからだ。

さらに、先輩への服従心も感じられた。もともと賭博に関与していたのは先輩選手らしいのだが、上下関係の厳しい世界では先輩に逆らうことなど考えられなかったのだろう。悪いことであっても先輩が「やれ」といえばやらなければならなかったのである。

清原元選手の件を見てもわかるように、選手たちは常に不安に苛まれている。その結果が痛み止めであり、その延長にあった薬物だった。「悪い」という意識もさほどなく、周りから勧められたら安易に手を出してしまうのではないか。法律で悪いと決まっているから悪いわけではない。その人の人生がぼろぼろになり、健康も損なうから悪いことなのだ。

会見で泣きじゃくっていた選手は野球界を追われるだろう。だが「君には迷惑をかけないから」といっていた人たちは選手の人生には責任を取ってくれない。もともと規範意識の低い人であり、他人を操った結果人生をめちゃくちゃにしても罪悪感など感じない人なのだ。

周囲からそそのかされ、カモにされた代償として選手生命を失った選手たちはこの先大変な苦労を強いられるだろう。学歴も世間知もないのだ。これが野球の明確な教育効果だ。だから、こんな教育はもうやめるべきなのである。人生そのものが賭けの対象になるという意味では競馬やパチンコなどと同じ類のものなのだ。競馬に教育効果があるなど主張する人はいない。

こうした「何の疑問もなく集団のルールに従う」人たちは危険因子ですらある。社会システムが機能不全を起こしても、こうした人たちは、リーダーや社会規範に従う。たいていの場合、弱者を攻撃したり、リーダーが「悪」と断じる人たちを攻撃することになる。「戦争に負けたけど日本は悪くない」とか「社会矛盾はすべてやる気のない弱者のせいだ」と断じるのはこうした「体育会脳」の人たちだ。これは社会にとって大変有害なことである。

日本にネトウヨ的な言論がはびこるのもこうした体育会脳のせいだろう。個別に話をしているといい人たちで人権を抑圧している意識などもなさそうだ。しかし集団になるととんでもないことを言い始める。多分、彼らにとって「中国や韓国が悪い」というのは「ボールを打ったら一塁の方向に走る」のと同じことなのだ。

特に中学生レベルで倫理判断が止まっている人たちが「自分の頭で考え出した」りするのも危険である。教習所に通わないでいきなり路上に出るようなものだ。他人を操ろうとしている悪い人は大勢いる。そうした人たちの格好の獲物になってしまう。学校で自分なりの判断能力を身につけるべきだったなどといっても、もう学生時代は戻ってこないのだ。

さて、こうした体育会系脳がうまく機能していたのは、マネジメントがそこそこしっかりしていたからなのだろう。司令塔さえしっかりしていれば、構成員が善悪を判断する必要はない。だが、読売巨人軍が賭博選手を輩出したところを見るとマネジメントは硬直化して内部から腐り始めているのだろう。嘆かわしいことではあるが、日本のオリンピック関係者がマネジメント能力を失っているところを見ると、共通した劣化要因があるのではないかと思われる。両者に共通するのはとてつもなく無能だが、周りから奉られているトップが君臨しているという点だろう。日本相撲協会の数々の不祥事も合わせると、日本の体育会系組織には重大な欠陥があるのだ。

読売巨人軍は責任を取って、失格になった元選手を職員として雇うべきだ。野球しか知らないのだから、最低限社会人としてのマナーと基本的社会スキル(実際には学校で学ぶべきだった)を教える義務がある。読売巨人軍のプロパガンダがこうした若者を大量に生産していたのだから当然だ。『巨人の星』には最終回があるが読者は星飛雄馬の人生の最終回はずっと先なのだ。

この選手は一人で記者会見させられたようだ。マネジメントの「私たちは知らなかった」という姿勢は容認されるべきではないだろう。また弁護する側の「捜査権がないので調査には限界がある」などという言質を許してはいけない。華やかな部分にだけフリーライドしておいて、問題を発見したから放逐して「自浄作用を発揮しました」などと言い放つ姿勢は容認されるべきではない。

保育所の問題とコモンズの悲劇

保育所問題の議論がなんだかあらぬ方向に向かっているようだ。「保育士の待遇を改善すれば問題が解決する」というのである。議論の前に、まずコモンズの悲劇(共有地の悲劇とも)のコンセプトを理解する必要がある。

ここに4軒の畜産家がいる。牧草地の間には誰のものでもない土地(条件1)があって、柵がない(条件2)。どのようにすると一番よいのだろうか。

持続可能性を考慮に入れると、誰のものでもない牧草地(共有地・コモンズ)を4軒の畜産家で協同管理するのがよい。コモンズに入れる牛の数を適性に割り当てて、牧草が生えてくる余地を残すのだ。ときどきでかけていって肥料を撒いたり、手入れをするのもよいかもしれない。コストはかかるが、これが一番よいやり方である。

しかし、短期的な利益を考慮すると事情が変わってくる。コスト負担はできるだけ避けた方がよいが牛の数は増やせばいい。最終的には他の3軒の畜産家を駆逐することができるだろう。ただし、それでも手入れをしなければ牧草地は枯れてしまう。つまり、4軒とも倒産してしまう。牧畜家がいなくなれば牛乳が飲めなくなる。

ここで「牛乳が欲しいから」という理由で誰か他の人が牧草地の管理を買って出たらどうなるだろうか。畜産家は安く牧畜できるが、その費用には関心を払わなくなるので、限界まで事業を拡大させる。すると社会はインフラを維持できなくなる地点に到達する。維持ができなくなったところで市場は崩壊するだろう。

これを実際の経済に置き換えてみると、いろいろなことが分かる。牧畜家に当たるのが企業で、共有の牧草地に当たるのが社会的インフラだ。牧草地の維持は社会の持続可能性を示している。難しいことは何もない。たとえとして引っかかる点があるとしたら人間を牧草扱いするとは何事だという点だろうが、そこは我慢して欲しい。

安倍政権は企業減税して、その分の負担を消費税に求めている。社会的インフラの維持を企業ではなく働き手から得ようという算段だ。

しかし、これには問題が多い。年金生活者が増えて所得に占める賃金の地位は下がりつつある。さらに、企業にとってはコスト削減のインセンティブが働く。端的に言えば子供を持っている従業員の雇用は割高になるために切り捨ててしまうのが一番経済合理性が高いということになってしまうのである。一度職を離れた人を同じスキルで非正規雇用すれば賃金はさらに下げられる。

今のままで保育士の賃金を上げると、社会的インフラへのフリーライド(ただ乗り)のインセンティブが強まる。ただ乗りした方が短期的に勝利できる可能性が強まるからだ。他の条件が同じなら、手厚い従業員保護をする会社よりも人件費の面で有利になる。却ってフリーライダーが勝ちやすくなってしまうのだ。

また、この政策は政府の債務を大きくする。保育所だけが社会的インフラではない。福祉を手厚くしたり、公的補助をして企業を誘致したりすると、フリーライドのインセンティブを強めることになるのだ。つまり、現在の政策を続けてゆくと、その延長線上には財政破綻があるということになる。財政破綻した瞬間に市場は崩壊する。

この問題の解決策はいくつかある。

第一の解決策は、牧草を輸入することだ。牛乳がなくなると困るから、消費者のコストで牧草を輸入して共有地においておくのである。この方法の欠点は牧草を輸入すればするほどそれに乗って牛が増えてゆくということだ。市場が牧草を賄いきれなくなったときに市場は崩壊するだろう。結局、コモンズを買っている(外国の土地を共有地として使っている)ことになる。牧畜家が牧草輸送のコストを負担するという方法もあるのだが、いずれにせよこれは奴隷制の例えなのである。牛は丸々と太っているが、足元は砂漠化しているということだ。帝国主義的な資本主義では正当化されるのかもしれないが、現在ではこの方法を取るのは無理だろう。

第二の解決策は共有地を牧畜家に割り当ててコストを負担させることだ。保育所の場合には、子供のいる従業員に対して保育所の設置を義務化するという政策になる。所有権を明確にする方法は「内部化」と呼ばれる。この方法の難点は共有地が私有化されることで、本当に共有地が利用したい人が締め出されてしまうというものである。例えば、零細企業などは従業員のための施設が作れず倒産してしまうかもしれない。もともと保育園はこうした企業のために作られた(つまり福祉の一環なのである)ということを考えると本末転倒かもしれない。すべてを自由競争にゆだねるというのは資本主義的には王道だが、これですべてがうまく行くというわけでもなさそうだ。私有地化による悲劇をアンチコモンズなどと呼ぶそうである。

第三の解決策は、牧畜家から税金を取って誰か他の人が共有地を管理するという方法である。この方法だと零細企業が締め出されることはなくなるかもしれない。この解決策の問題点はいくつかある。代理人が割高な料金を取って過大請求するかもしれない。代理人をどれだけ信頼できるかという問題になる。本来は規模の経済が働くので効率的なはずだが、必ずしも成功するとは限らない。つまりこの解決策は「社会主義的」アプローチだ。つまり、不効率になる可能性が高いのである。代理人が牧草地を独占するのだから、牧草地の管理人には「できるだけ高い金を牧畜家からふんだくってやろう」というインセンティブが働く。あるいは管理人が誰が草を食べられるかを決めるので不公平感が生まれるのだ。

現在の方法は第三の解決策に近い。一番の違いは牧畜家から税金を取っていないのに牧草地を協同管理しようとしているという点だ。そこで、問題を無視するか(自民党流アプローチ)つじつまを合わせようとしている(野党的アプローチ)ために、保育所の問題は「解けない問題」になっているのである。

最悪なのは牧草地の管理者(保育所の場合は国)が独占企業と同じになっているという点だろう。牧草地も増やさないし、
水もやらない(つまり保育士の待遇もよくしない)。そして費用は牧畜家ではなく消費者に負担させようとしている。牛は丸々と太っているが、砂漠が広がるという光景が生まれつつあるのだ。

地方分権して牧草地の管理人の数を増やせば少なくとも共有地独占の問題は解決するだろうが、企業のフリーライドの問題は解決しない。

難しい言い方をすれば、こうしたありようを変えてゆくことを「統治機構の改革」と呼ぶべきなのだ。つまり、日本を変えるということである。戦前の支配体制に復帰を目指したり、単に地方に財源を移すことを統治機構改革と呼ぶのは間違っているのではないかと思える。

食品廃棄率の嘘と本当

Twitterで日本は輸入食品の約半分を捨てているというツイートが流れてきた。これを見て「ひどい」と思った。日本は流通が現代化されていないので無駄が多いだろうと思った。業界が自浄能力を発揮できないのなら、廃棄物に税金をかけて廃棄物を減らすべきだ。ところが、朝の頭でもう一度調べなおしてみると、この情報は嘘らしい。

消費者庁が調べたところ、日本の食品生産量は8424トンで、生産・流通段階では641万トンが廃棄されている。意外なことに家庭ではもっと多い1072万トンが廃棄されている。家庭の方がより多くの食品を捨てているのだ。そのうち可食部分は500~800万トンだという。つまり廃棄物には生ゴミも含まれているのだ。

どうも環境派の人たちは数字に弱いらしい。もともとの数値自体は正しいのだが、間違って引用することが多いのだ。これでは「大騒ぎしたいから数字を膨らませているだけ」と言われても仕方がない。多く流布している数字は輸入量が5500万トンで廃棄が1800万トンだというものだ。冷静になって考えるとなぜ輸入と廃棄を比べるのかがよくわからない。

とはいえ、これは放置していい問題とも思えない。消費者は割高な料金を支払っているからだ。特に問題なのはチャンスを逃さないために過剰に発注される可食廃棄物だろう。品切れになると買ってもらえないので多めに発注しておくのである。だが、冷静に考えるとブドウグミがないからといって何も買わないで帰る人がどれくらいいるのだろう。多くの人は(それが廃棄ロスの削減だと知っていれば)文句を言いながらもコーラグミを買って帰るのではないだろうか。また小売にとっては適正な在庫管理をするインセンティブになる。これは政策として取り組んでもよい問題だろう。

一方で、消費者は別のお金を払っている。それがゴミの焼却だ。生ゴミには多くの水分が含まれていて量もかさばる。税収が減少している地方自治体はゴミ焼却炉の維持に苦しんでいるのだが、生ゴミを減らせばその分だけ焼却炉の数を減らせる(あるいは新しいものを建てなくてもすむ)のである。消費者庁のレポートは東京都の数字を引用しているのだが、東京都は家庭ごみを開けて中身を調べたようだ。そこまでやってゴミを減らそうとしているのだろう。

生ゴミを減らすのはなかなか難しい。自治体の中には水分を抜くためのコンポストを推奨しているところもある。コンポストで自然乾燥してから家庭菜園の堆肥などに使うのだが、コンポストの購入に費用がかかる上、土地のない人たちにはあまりメリットがない。

もっと問題なのは、食べられるのに捨てられる食品だ。冷蔵庫の在庫管理システムなどを作ることは技術的には可能(冷蔵庫の食品の賞味期限を一覧表化してスマホなどで閲覧できるようにする)なのだろうが、一般の家庭の主婦が使いこなすのはなかなか難しそう。仮にすべての食費にバーコードをつけたとしても、買い物帰りにすべてチェックインするとしたら膨大な手間がかかるだろう。

「生ゴミに罰金を」などといえば批判を浴びそうだが、実際には多くの自治体がゴミ袋を有料化している。これはゴミを出さない家庭へのインセンティブになっている。

この問題について気になったのは、食品廃棄に反対する人たちのほとんどが「世界的にみて突出している」とか「飢えている人がたくさんいるのに」と言っていることだ。羞恥心や罪悪感で他人を操作しようとしていることになる。なぜ「お金がかかるから無駄をなくそう」といえないのだろうかと思うのだが、本質的に自分の欲求を通すことを禁止しているのだろうと思われる。だが、なぜそうなったのかということに合理的な説明はできそうにない。

学校教育には道徳の代わりに宗教を導入すべき

最近、様々な新興宗教にはまる人を見る機会が増えた。特に多いのが「国体教徒」たちだ。いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちである。成年になってはまると「ああ、生きる意味が見つかった。この国に生まれて良かった」などと思ってしまうのだ。だがその根幹にあるのは「国の為に人が存在する」という倒錯した教義だ。よく聞いてみるとそれは「権力者のための尽くせ」という以上の意味はない。権力者の人たちは国よりも自分の幸福の追求に熱心なのだが、熱に浮かされているうちはその事に気がつかないのである。

他方で「原発を止めるべきだ」とか「基地をなくすべきだ」という信条が宗教化することもある。もちろんそれは悪い主張ではないかもしれないが、それがなくなれば世の中の全ての災厄がなくなってしまうわけではない。中にはそれだけが人生の目的になっている人もいるのではないか。

宗教教育にはいくつかの利点がある。

第一に、宗教は明らかに学校で教える科学とは違っている。だから経典を文字通りに信じる事はなくなる。つまり、子供のうちに宗教に触れると宗教に対する免疫がつくのだ。かといって、宗教すべてがデタラメというわけではない。よく誤解されるところだが、さまざまな矛盾を受けとめる事で、その裏側にある「真実」を考える機会が得られるだろう。

第二に、宗教に頼ることがなくなる。意外に思えるかもしれないが、古典的な宗教は生きる意味を教えてくれない。まともな宗教は「神様について行けば万事OKだ」とは言わないものなのだ。世の中には、子供を失った人や不本意ながら病気になった人がいる。宗教はそうした人たちの逃避先になっている。だから、宗教を学ぶ人は誰でも人生の不条理に触れることになる。もし神様がいるのなら不条理は世の中からなくなっているはずである。だが、そうはならない。

第三に宗教は人を操作しないということが学べる。日本の新興宗教は個人崇拝につながるものが多い。結局、ある個人の為に財産を寄付することで「救いを買う」という制度になっている。すると階層の上にいる人ほど「他人を利用してやろう」と思うことになる。なかにはポイント制度を導入している宗教すらある。強化月間のようなものもある。ほとんどマーケティングだが、中にいると気がつかないのだろう。だが、古典的な宗教にはゲーミフィケーション的な要素はない。人を操作しても救いが得られないことを知っているからだ。

何も考えていなかった人がある日突然人知を越える偉大なものに出会い「くらくらする」体験は誰にでもある。人生にはうまく行かないこともあるのだから誰かに頼りたくなることもある。正解のない人生に迷ったとき正解を教えてもらえたらと思うこともあるだろう。人は決して万能ではないということを知る意味でそれは悪い事ではないだろう。

私達は、人生のどこかで「私達の人生は一人ひとりのものである」という大切な事を学ばなければならない。かといって一人ひとりは孤立しているわけではなく誰がとつながっている。宗教はその大事なことを教えてくれ機会になるのではないかと思う。

Twitterでカラまれたことに対する考察

まず分かったのはこの人はまとまった意見を書けない人なんだろうなあということだ。議論するためには頭の中にある体系を持っていることが必要だ。まとめ方にはいろいろあると思うが、少なくとも「問題」「問題に対する見方」「そのソリューション」と三段が必要だから140文字でこれをこなすのは無理だ。

「Twitterで議論できる」と考える人はそもそも、140文字の情報の固まりが浮遊しているだけのようだ。なんとなく分かっていたことではあるのだが、実際に想像してみるとなかなか恐ろしいことだ。それぞれのデータがまとまりのないままチャンクのままで存在するのだ。

そもそも情報を集めるのはあるまとまった考えを得る為だ。まとまった考えを得るのは「与えられた情報の中でできるだけ確実な(これは正しいとは限らない)意思決定をするため」である。

では、Twitterの140文字の情報やYahoo!ニュースのヘッドラインが相互に関連せずに浮遊している人というのは何を目指しているのだろう、と考えると「よく分からない」としかいいようがない。

強いて想像するとしたら、コミュニケーションの目的は1つだ「情報発信の方向や用語の使い方」でどのムラに所属するのか(政治の場合には右か左か)が分かる。ヤノマミ族やニューギニアの人たちが言語を分けるのと同じ理屈である。ちょっとした発音や用語で外敵を見分けるのだ。と同時に同じ言語を話す人たちとの間では所属欲求が満たされるのである。

ここから導き出される結論は簡単で、情報そのものにはさしたる意味があるわけではないということになる。関係性こそが問題なのだ。

故にTwitter上で議論は成り立たない。そこにあるのはヤノマミ流の「お前が去るか俺がお前を殺すか」という選択だけだ。もしそれを議論と呼ぶのだとしたら、定義が違うのだということになる。議論はお互いが持っている情報をすりあわせた上で、より正しい解決策(それはあるいは共通した解決策を模索しないという解決策かもしれない)を導き出す為の手段である。

お前が持っている「自民党が人権を抑圧しようとしている」という認識は「間違い」で、それは「ネットの意見だけを鵜呑みして」「騙されているのだ」という主張を繰り返していた。彼が(彼女かもしれないが)の言いたかったのは「正しい情報さえ手に入れれば、きっと正しい態度になるはず」という主張である。

そもそも相手は正解を知っているわけだから、議論する必要はない。それは説得と呼ばれるべきだ。

だまされているという根拠も示されているが、それは薄弱だった。「人権抑圧は、中国のような抑圧国家がやることであって、日本のような立派な先進国がそんなことするはずはない」というものだった。左派の人たちは「日本は先進国であるはずなのに、北朝鮮かナチみたいなことばかりいう」と思っているので、平行線を辿る。どちらも見込みだからだ。

では、全く無駄な話だったかと言えばそうでもない。どうやら、僕は次のような信念体系を持っている事が分かった。これは異質な意見にぶつけてみないと分からないことだ。

人はそれぞれが幸福を追求すべきであり、結果的に社会の繁栄につながる。幸福の追求は個人の内発的な動機に基づいて行われるべきだ。社会は個人が幸福を追求するための装置であり、社会の存続の為に個人が存在するわけではない。しかしながら、個人の幸福の追求は衝突することもある。社会はそれを調整する機能を持つべきだが、それは最低限のものである必要べきだ。個人は間違えるし、全ての個人の情報を持ち得ないので、多様な意見を集めることで間違いを補正すべきだ。故に民主主義のプロセスは擁護されるべきである。また、不運は誰にでも訪れるので、社会的な保証は準備するべきである。社会や国家の有り方として現在の民主主義が正しい解なのかは分からないが、結果的には現在取り得る政体の中では最適な解である。民主主義国の経済的な成功がそれを裏付けている。何人も無謬ではないので「正しい」答えはあり得ない。「正しい意見」を持っていると主張する人は疑われるべきだ。

批判的に見れば、かなり「西洋流に洗脳されている」とも言える。特に功利主義的な主張は「では生産性のない人はこの世から消えてもよいのか」という問いにつながるのではないかと思う。そもそも人の人生に意味などあるのだろうかという問いもあり得るだろう。

共産主義という悪魔

政府が言論の自由を制限し人権をないがしろにすれば、経済の活気が失われる。だから、自民党の政策を進めて行けば国家は没落するだろう。これは自明の理屈だと信じていた。

だが、右派の人たちはそうは考えないように思える。どういう世界観があるのかいろいろ聞いてみたかったのだが、どうやら仮定そのものが間違っているらしい。そこに理屈はないらしいのだ。

出発点になっているのは知性への反発のようだ。知性といってもマスコミと学校の先生といったレベルなのではないかと思う。どちらも左翼に支配されていると考えているようだ。知性が左翼に支配されているのは、もともとはGHQが、日本を弱体化させるために民主主義を持ち込んだせいなのだが、それを引き継いだのが北朝鮮であると彼らは考えている。彼らの世界観では先生たちは無知な生徒を洗脳しようと「人権教育」をするのだが、マスコミも左派知識人に支配されていて、この邪悪な計画を隠蔽しているのである。

右派の目的はそうした「悪い人たち」から無知でではあるが善良な市民を守ることらしい。むしろ「正しい人権」の守護者であるという認識を持っているのではないかとすら思える。

こうした意識がなりたつのは「自分たちは賢いのだ」という万能感を持っているからだろう。ほとんどの人たちは真実を知らないか興味がないので「私達が正しいことを教えてやらなければならない」という認識が成り立つ。ただし、教師やマスコミと言った人たちは「賢いのではなく間違っている」なぜならば、外国に協力する売国奴だからである。そうすることで自分たちの万能感が担保されるわけである。

ただし、民主主義についてはあまり関心がなさそうだ。売国的な知識人さえ排除できれば、正しく民意が反映されるだろうと素直に信じている。権力者が権力を濫用するだろうなどということは全く考えていないようだ。現在の経済状態についてもあまり危機意識を持っていないのではないようだ。

よくわからないのは自民党の改憲勢力との関係だ。磯崎議員は「キリスト教的な天賦人権論は日本にふさわしくない」と主張しており西田議員は「そもそも日本人に人権があるのがおかしい」などという。

だが、今回お話したネトウヨ系の人たちは「立憲主義が破壊されることがあれば、世界から非難されるだろう」と言っている。今非難されていないから安倍政権はそのようなとんでもないことを考えているはずがないという理屈になるらしい。彼らは安倍政権とお友達の連続性をどう捕らえているのかが気になるところだが、怖くて聞けなかった。もしかしたら耳には入っていないのかもしれない。

逆に左派への危機感のアンテナはびんびんに張られている。彼らによると、中国は虎視眈々と日本の殲滅を狙っており、左派勢力は彼らの尖兵になって日本を弱体化させようとしているらしいのだが、最終的な目的は不明なままである。「所詮ファッション左翼」なので深く考えていないのだろうと推論している。また、人権派は行き過ぎた見返りを求めていて、日本に寄生しているのだそうだ。

高度経済成長世代は「中間層が階層を昇る余地があることが経済的な繁栄をもたらす」と考えるし、成長が定常状態だと考える。だが、そもそも「成長」という概念そのものがない。だから成長しないから政府の政策が間違っているという認識はなさそうだ。だから彼らの政治への関心は分配に向いてしまう。政治といえば分配の議論なのである。そこで「行き過ぎた分配を求める人がいけない」という理屈が成り立つのだろう。

こうした世界観はキリスト教の信仰心に似ている。神は無謬であり、祝福された民は神を信じる限りは繁栄することができる。なぜなら神がそう約束したからだ。しかし、世の中には悪魔がいて、何かと神が作った平和を壊そうとしている。だが、悪魔がなぜ神を邪魔するのかという点についての答えはない。神に祝福された世界では、悪い事は起こりえない。何か起こったとしたらそれは「罰が当たった」のである。行いが悪かったのだ。故にセーフティネットなど必要ないのだろう。

この人たちと国体原理主義の人たちとの間には断層があるように思える。国体原理主義者たちは日本書紀に書かれたことは真理だと考えており、明治維新で捏造された伝統と信じている。だが、ネトウヨの人たちの多くはそこまで急進的な国体教を信じているわけではなさそうだし、普通に資本主義社会を生きていると感じているのかもしれない。これは、マルクス主義を教条的に信じている人と単に分配を求める人が一緒くたに「左翼」と混同されるのと同じことなのかもしれない。

左派と右派の一番大きな違いは、現状への危機意識というか不安を持ちあわせているかという点のように思える。一方共通点もある。左派が疑念を持っているのは権威主義的な父性への反発なのだと思うのだが、右派はそれが知性への反発にすり替わっている。これは同根なのではないかと思うのだ。

日本の左派たちは分配こそが解決策であって、全ての問題が解決されると考える。その原資は儲けすぎている企業が支出すべきものだ。一方で、右派は、アメリカ・資本主義・自民党という旧西側の体制を信じていて、これに従っていれば全てが解決すると考えているのかもしれない。トランプ旋風を見ると、アメリカ人は、自分たちの不調はすべて外国人に起因すると考えており、サンダースの支持者たちは企業と1%が悪いと考える。

非常に単純化すると、共産主義という悪者がいるために、それに対峙する人たちを正義だと定義しなければならないのだろう。天国とは悪魔がいない場所のことなのだ。

「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」

ネットで「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と言っている人を見つけた。ちょっとめまいがしたのだが、どういう精神構造を持っているのかにも興味もあった。どうやら「人権」を叫ぶ人たちというのは全て外国の陰謀で動いていると考えていることは分かった。彼らの世界観によると「人権」を叫ぶ人たちというのは全て売国的な共産主義者なのだ。

西洋流の教育を受けた人間の頭の中では人権は自由主義と結びついている。私有財産を許容することで経済が活性化するからだ。また、政府の干渉をなくせば自由交易が増えて、域内の価値が最大化されると考えられている。さらに、言論の自由を保証することでより多くの意見が集る。これを集約する中でよりよい選択肢が生まれる。この「集合知」が民主主義を支えると考える。だから民主主義社会ではプロセスと多様性が大切なのだ。

こうした世界観が生まれるのはどうしてかと考えてみた。それは冷戦下で育った人たちは「私有財産や言論の自由がなく」「中央集権的な計画経済」がどうなったかを身をもって知っているからだ。つまり、中国、ロシア、東ヨーロッパで何が起こり、それがどのような結末を迎えたかを目撃しているのだ。つまり、資本主義(自由主義)と社会主義を対立概念として捉えているのである。

ところが「日教組陰謀論」を信じている人たちの頭の中ではGHQのもたらした民主主義と社会主義がごっちゃになっているようだ。どちらも「日本を弱体化させた」と考えられている。なぜ、アメリカと社会主義がごっちゃになっているのかが長い間分からなかった。

twoviews少し考えた結果、視点をずらせばよいことが分かった。戦前の日本と西洋の民主主義諸国(社会主義も自由主義も)を対立概念として置けばよいのだ。アメリカも共和制国家なので同類といえば同類である。つまり、視点を右傾化させればよいのだ。

よく考えてみると、今の世代は東側の世界を知らないのだ。その上低成長時代に育ったので「言論の自由が経済的豊かさをもたらす」などと言われてもぴんとこないのだろう。民主主義とは「バラバラに自分の言いたい事を言っている」ようにしか見えないのかもしれない。

アメリカが日本を弱体化したという話なのだが、アメリカは日本を資本主義のショーケースにしようとした。そのため、通貨を安く抑えて日本の品物がアメリカを席巻することになる。結果的にアメリカの経済を脅かすまでになり「日米貿易摩擦」と呼ばれ、日本は西独を抜いて世界第二位の経済大国になった。もし、アメリカが日本を弱体化させたいのであれば、教育を通じて日本人をわがままにするなどという回りくどいことはしなかっただろう。アメリカ市場から締め出してしまえばよかったのだ。

つまりGHQの日本弱体化計画とは「ショッカーが世界征服をするために幼稚園バスを襲う」というのを同じような話なのである。

この世界観のおもしろい所は、西洋流の民主主義社会との対立概念を何に置くかという点だろう。戦前の日本は計画経済ではなかったのだが、なんとなく、満州の植民地経営と戦時計画経済が頭の中にあるのではないだろうか。みんなが心を合わせて一生懸命働けば効率的に豊かになれそうな気はする。しかし、それは計画経済下の社会主義と一緒なのである。「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と考える人たちは、皮肉なことに彼らが嫌いな左派の人たちと同じ目的を持っているということになる。

ここまで考察すると、左側の人たちがどのような指向を持っているかが気になるところである。彼らはなぜ人権が大切だと思っているのだろうか。なんとなく「人権が大切なのは当たり前だろう!お前さては右翼だな」などと言われそうな気がする。よく考えるとこれも当然の反応だ。低成長なので、自由と民主主義が経済的成長をもたらすという前提が信じられないのだろう。

結果的に右派が社会主義を信奉し、左派が自由主義を擁護するというめちゃくちゃな鏡の世界に住んでいるのだ。

政治に対する危機感を共有したい人がまずやるべきこと

政治には危機感を持っているが、政治について話せないという人は多い。当初、それについて対応策を書こうと思った。

多分、自分が話すのではなく、相手に話させるのが良い。「ニュースが分からない」などと言えば、相手は得意になって話してくれるだろう。すると相手のポジションが分かるので、それに従ったテーマで話せばよい。「興味ない」という人もいるだろうが、トピックは刷り込まれるだろうから、関連するニュースを追うようになるだろう。単純接触を繰り返して徐々に洗脳してゆくというテクニックはポテトチップスの販売から新興宗教まで幅広く利用されている、とてもありふれた方法だ。

だが、これを書くのはやめにした。過去に書いた記事を思い出したからだ。

もともと日本ではデモが起きなかった。東日本大震災の後でさえ目立ったデモは起きておらず「日本ではなぜデモが起きないのか」というエントリーを書いていた。

だが、実際にはデモが起きていた。最初に起きたデモは小規模なものだった。民主党政権の打ち出した福島への帰還基準年間20msvに反対する人たちが抗議運動をしていたのだ。やがてこれが反原発運動になった。

デモをしなかった人たちはなぜ突然デモに目覚めたのだろうか。例えると赤信号に似ているのではないだろうか。日本人は赤信号で道路を渡らない。しかし、誰かが信号を無視して渡りはじめると、続いて皆が渡り始める。規範そのものではなく、その規範に対して周囲がどのような反応を示すかが重要なのだ。

職場や学校で話題が出るようになれば、次第に政治の話題は増えるだろう。

現在の問題は「語り手」が少ないということではなく「聞き手」が少ないことだということになる。