日米は同盟関係にないという説があるらしい

他人のTwitterというのはなかなか勉強になる。今日は「日米は軍事同盟を結んでいない」という人がいた。その根拠になっているのは「日米は(軍事)同盟条約を結んでいないからだ」ということだ。これに対して「同盟というのは重層的なものであって、軍事同盟だけを指している訳ではない」と反論している人がいた。

なんだかすっきりしない。いろいろ調べて分かったのは、この単純そうな問題ですらタブー視された歴史があったということだ。これを健全に語れる状態に戻さないと、後々ややこしいことになるのではないかと思えるのだ。そもそも「語れなかったことが、今の私たちの議論をややこしいもの」にしている。

まず「日米は軍事同盟関係を結んでいない」というのは、従来の政府の見解だったようだ。なぜなのかはよく分からないが、日米安保の改訂に大きな反発があったので政府がタブー視していたのではないかと考えられる。

これが変わったのは大平首相の頃だそうである。学術的にまとめられた文章は見つからず、なぜかYahoo! 知恵袋に書かれている。Wikipediaには後任の鈴木善幸総理大臣が「やっぱり日米安保は軍事同盟ではない」と発言して伊東正義外相が抗議の辞任をしたのだということが書いてある。どのような党内対立があったのかは分からないが、1980年代の初頭までは「あれは軍事同盟なのだ」と言うことが半ばタブー視されていたことが分かる。

ある国会議員(伊東正義外相の話はこの人から聞いた)によると、永田町ではこれで「日米同盟は軍事同盟」というのが定説になったようだが、巷ではまだ「あれは軍事同盟ではないので、日米は同盟関係にはない」と信じている人がいるということになる。つまり、「日米の関係が何なのか」ということや「同盟とはそもそも何なのか」ということすら、実は世間的な統一見解がない。少なくとも当時の見解の相違を引きずっている人がいるのだ。

では、条約のパートナーはこの件をどう見ているのだろうか。アメリカ政府のウェブサイトには「アメリカの集団的防衛の枠組み」というセクションがあり、日本条約という項目がある。

まずは、日本ではいろいろとごちゃごちゃ言っているが、日米安保条約は集団的自衛の取り組みなのだということが分かる。「限定的」というのは「憲法に沿う形で」と書いてあるが、あくまでも「日本の行政権の及ぶ範囲では相互の攻撃を自国の攻撃と見なす」となっている。アメリカの認識としては「日本はアメリカを助けませんよ」は通らないことになる。

であれば、昨年夏のあの一連の議論とか、これまでの政府見解って何だったのかということになる。一方、安倍さんは領域外でも協力すると言っていたが、あれは日米同盟の枠外だということになるが、大丈夫なのか。また、日本はオーストラリアやインドと相互防衛条約なんか結んでいないのだから、中国の封じ込めなんかできない。あの議論の混乱を見ると、安倍さん自身が枠組みについてよく分かっていなかったのではないかと思えてくる。

ただ、この表にあるからといって、実効的な同盟関係にあるというものでもないらしい。例えばリオ条約の項目にはキューバが含まれている。長い間国交がなかったのだからアメリカとキューバは同盟国とは言えない。Wikipediaではキューバは除名されたと書かれているのだが、アメリカ政府のリストはアップデートされているらしいので(ページの下にいくつかの国が加えられメキシコが取り除かれたと書いてある)形式上は同盟関係が生きているのだ。

またANZUSの中にはニュージーランドが入っているが、ニュージーランドが非核化を進めたために、ニュージーランドとの相互防衛協定は実質的に失効しているのだそうだ。にも関わらず「集団防衛の枠組み」の中にはニュージーランドが残っている。

いずれにせよ、日本では内と外で議論を使い分けた結果つじつまが合わなくなり、後世の人たちが苦労するという図式があるようだ。これが幾重にも積み重なり、国防の議論を難しくしているのだろう。今回はたまたま「同盟って何」という点に着目したのだが、こういう議論がたくさんあるのだろう。

過去の政府見解は正しかったと言いたい気持ちは分かるし、政治家はなぜ放置していたのかと非難されたくない気持ちもよくわかる。しかし、安全保証の議論を正しい道筋に戻すためには、与野党ともにこれまで議論を錯綜させたことを国民に詫びてはどうだろうか。これは日本の安全保障上、かなり重要なのではないかと思う。

それは政治的論争ではありません、たんなるいじめです。

いわゆる右派の主張をしている人が執拗に他人を罵倒しているのを見た。どうやら常習者らしい。また別の人は女性の活動家や政治家を執拗に攻撃している。比較的知能が高そうだ。これを見て思ったのだが、いわゆる右派の主張に乗っている人にとってTwitterはおおっぴらに他人を罵倒できる息抜きの場になっているらしい。つまり、これは政治的議論を装った安全な場所からのいじめなのだ。たいへん卑怯な行為である。

これを見て思ったことはいくつかある。左派と右派の違いは他人へのシンパシー(共感能力)の違いだと言われている。西洋では女性を弱者とみなして執拗に攻撃する男性は「知的(これは知能だけではなく共感能力などを含む)でない」であると見なされる。つまり、何も実名で自分の知性のなさをさらけ出さなくてもいいのにと思ってしまう。

次に思ったのは、これが無力感の裏返しになっているらしいということだ。こうした人たちの提案が受け入れられることはない。にも関わらず、延々と主張を繰り返している。主張が通らないので、他者への攻撃に転じるのだ。それに乗る人たちがいるので、主張は理解されなくてもある種の一体感が得られるのだろう。さらに悪いことにこういった人たちは紳士協定を結んでお互いをかばい合っている。会社にも、仕事はできないが政治的にはやたらに影響力のあるやっかいな人たちがいる。やたらに「俺は聞いてない」とか「根回しがなかった」とかいって生産的な議論を妨害する抵抗勢力がいるが、まさにそんな感じだ。

そのくせ、他者からの攻撃にも意外と弱いらしい。すぐにブロックしたがるのだ。ブロックされたということは彼らの感性にヒットしたということなのだろう。すると崇拝者といじめの対象だけが残るわけで、彼らの心の平安が保たれるということになる。

そもそも、なぜいじめが起るのだろう。それは、いじめる側の人たちが抑圧されているからだ。予めテンションがかかっている訳だ。つまり、いじめは管理の失敗なのだと言える。学校で先生がいじめに加担することが多いのも(黙認したりほのめかしたりすることが多い)のも先生が管理されている存在でありなおかつ管理に失敗しているだからだ。それを学校側が隠蔽するのは当然だ。それは学校の管理の失敗を意味するからである。先生を抑圧し、必要なリソースを与えないというのは管理の失敗なのである。

会社の場合には「目的が見失われており」「評価の基準が曖昧である」ことがいじめの原因になったりする。学校と会社の事例を見てわかるのは、組織が本来の目的を見失って構造が曖昧になったときに、人々は自らが動いて秩序を維持しようとするのだという結論が得られる。ただ、その秩序維持は弱者への搾取と同義である。弱者を搾取することで失敗しかかった集団を維持しようとする試みだ。だから、いじめは現代版の生け贄なのである。

学校のいじめと違って政治議論を装ったいじめには対応策がある。いじめられるシグナルを減らせばいいのだ。典型的なのが福島みずほ参議院議員だ。甲高い声早口な声で反論する。表情は怒っている。これは典型的な「コルチゾール反応」だと考えられる。攻撃への防御姿勢だ。

こうした非言語的なコミュニケーションは意外と見逃されがちなのかもしれないが、きわめて重要だ。ヒトはかなり残酷な生き物で「コルチゾール反応」は「この人は社会的階層の下位にあるからいじめても大丈夫だぞ」というシグナルになってしまうのだ。いわゆる左派と呼ばれている人たち(男女問わず)にはこの「コルチゾール反応」が多いのではないだろうか。

よく、民進党の議員に「先生は民進党を出るべきだ」と懇願する人がいるが、「いじめの対象に自分が崇拝者している人がいるのはおかしい」と思っている人がいるのではないかと考えられる。そもそもそれは最初から政治的な議論ではなかったということだ。

こうした政党が支持を得るためには、非言語的コミュニケーションについての基礎を学ぶ必要がある。

日本の右派と左派はなぜ折り合わないのか

Twitter上では今日も、いわゆる「右派」と「左派」がそれぞれの主張を呟いている。お互いに攻撃しあっているのだが、その議論がかみ合うことはない。なぜ噛み合ないのかを理論的に考察した人はいない。

左派はおおむね機会の公平さよりも分配を重視しており、穢れを嫌っている。一方右派は新しい試みを嫌い、外敵や外国人を排除して同じまとまりで固まりたいと考えているように見える。

だが、両者は差異よりも共通点の方が大きい。例えば「純粋さ」を求めるという点は似ている。左派は放射性物質などの汚染物質を穢れだと考えるのだが、右派は外国人を穢れだと考えている。戦争についての忌避感も実は共通している。左派が戦争の原因が国内にあると考えているのだが、右派は中国が戦争の原因であると考えるという違いがあるだけだ。

故に、政治的に固まっている左派も右派も実際には同根であると考えることができる。両者の差異は見込みだけだ。右派は自分たちに取り分があると考えている。すなわち分配の意思決定に参加できると漠然と信じている。一方、左派は意思決定から排除されていると考え穢れを押し付けられると信じているわけだ。

信じがたいかもしれないが、右派がいなくなると、左派と呼ばれている人が左派的なつながりを持ったままで「保守化」することがある。例えば「高齢者の分配」を支持する人たちが「保育園ママ」を排除するということが起りえるのだ。

「分配を受けていないのに、漠然とおこぼれに預かれると思っている層と漠然と自分は意思決定から排除されているだろう」という見込みを持つ人がいる。経済的弱者が右派的な思想を持って安倍政権を応援したりするのである。現状よりも「ありたい自分」を設定して見込みの分析を行っているのかもしれない。

面白いのはアメリカと中国に対する態度だ。右派と呼ばれる人たちはおおむねアメリカに対して好意的な見方をしているのだが、親密さを利用してアメリカの意思決定に関与できるのだと信じているのだろう。つまり、忠誠心や帰属意識によって保護してもらえるという見込みを持っていることになる。一方で中国は日本に敵対的であって意思決定に関与できない。それは不確実なよそ者であって穢れに属するのである。一方、左派の人が親中国的とは言えない。そもそも日本の政府から排除されているのだから、外国にまで意識が及ばないのだろう。日本の政府はアメリカと親しくしているので、反米の姿勢を取ることはあり得る。

ここまで考えてくると「穢れとは何か」が分かる。意思決定に関与できないと不利益を押し付けられることになる。それを「穢れ」と呼んでいるのだろう。

左派を攻撃する右派は、従って複雑な経路を使って攻撃をする。彼らは意思統一できないのは、自分のコントロールできない何かが邪魔をしているからだと考える。2つの根源がある。1つはアメリカ(彼らに言わせれば共産主義に汚染されていた悪いアメリカ)が作った現行憲法で、もう1つは中国や韓国の影響を受けた「売国奴」だ。決してトピックそのものに反対している訳ではないのだ。

左派は「自分の与り知らぬところで何か悪いことが行われているので、放射性物質を押し付けられる」という理由で原子力発電所に反対する。右派は左派が騒ぐのは中国や韓国に入れ知恵された人が日本の秩序を攪乱していると考えるわけである。

アメリカで右派と左派の対立を研究する場合「その人がどのような道徳的態度を持っているか」という理論構成になるという。だが、日本では「その人の道徳的態度や価値判断」はそれほど問題にならず、自分が意思決定にどの程度関与できうるかという見込み(つまりは実際の所属ではなく、主観的な所属意識ということになる)によって態度が決定するのだということが言える。「私」ではなく「我々」で考えていることになる。個人の価値観で指標を取ると右派も左派もその態度はバラバラなのではないだろうか。

これを拡張すると政治に興味がない人は「意思決定にも参加できないが、不利益の分担もない」と考えているのではないかという仮説が生まれる。故に「政治に関心のない人を取り込む政策」を作ることは不可能だという見込みが生まれる。こうした人たちを抱き込むためには2つの選択肢がある。

仮想的な万能感を与えて、意思決定に参加できるのだという見込みを与える。これは過去に小泉政権や政権奪還時の民主党が使った手だ。しかし、いったん政権ができるとこれが「仮想的だった」ことがばれてしまう。

不利益を分担させる。これを使った政権はないのだが、安倍政権の政策が進めばやがて「反安倍」が生まれる可能性はありそうだ。ただし、その前に自民党から反安倍の動きが起きて動きを封じてしまいそうな気がする。

最初の疑問に戻ると、右派と左派が折り合わないのは当然だといえる。実は憲法第九条も原発の問題も「どうでもよい」のだ。だから、合理的にその安全性(あるいは危険性)を説得することは不可能である。誰が担い手になるかによって善し悪しが決まるということだから、文脈こそが主役なのである。

 

人は縛られているうちに、自らを縛るようになる。

他人とのコミュニケーションはたまに面白いことがある。今回は人が「法」というものがどのように捉えられているかを発見した。法律は人が作ったものだ。だから人が変えられるはずである。だが、どうやら「法理論」を物理法則のように捉えている人がいるらしい。

長島昭久議員がこのところ、去年の安保法制について呟いている。そのレスポンスの一つに「政府はこれまでも憲法につじつまを合わせるように苦心惨憺してきたのに、その苦労を無視するのか」というようなことをいう人がいた。言いがかりだ。

そもそも「つじつまを合わせなきゃ行けない時点で間違ってんじゃないのか」などと思う訳だが、こういう感覚を持っている人は意外と多いのかもしれない。多くの人は法律を守る側にいるわけで「赤信号で止まりましょう」と言われたら、ずべこべ言わずにそれに従う必要がある。「なぜそういう理屈なのか」などと言い出したら、社会生活は破綻するだろう。

ここでは「黄色で止まれ」と言われていたのにある日突然「黄色はゆっくり左右を見たら進んでもいい」となった。人は喜ぶだろうか。じゃあ、今まで「黄色で止まってきた俺はなんだったんだ」と立腹する人も出てくる。では、その人は何に起っているのか。

これを考えると「なぜ、過去に作った決まりは変えられないのか」という問いに行き着く。そして、そこから「それは、強制されてきたからだ」という答えが得られる。

憲法第九条は敗戦の結果作られ、自衛隊もアメリカのリクエストである。さらに一般国民は国会議員になることはほとんど不可能(理論上は可能だが、供託金が高く実質的にはお金持ちか組織のある人しかなれない)だ。そこでそれをもろもろ受け入れて「太陽が東から昇るように状況を受け入れる」ことになるのだろう。実はそれが変えられるものだったということが分かっても、態度を変容することは難しい。

たとえは悪いのだが、これは奴隷として生きていた人が「実は自由になってもよかった」と言われたときの感情と似ているかもしれない。きっと彼は解放してくれた主人を恨むだろう。これまでの忍従の苦労が全て徒労だったことが分かってしまうのだから。憲法学者は神官のようなものだ。実は無力なのだが「これは神の試練だ」などと騙っているわけだから。試練を受忍することがその人の人生の目的になってしまう。

加えて、今回の解釈変更も実質「アメリカに強制されている」わけで、何重にも自由意志が蹂躙されていることになる。他者から縛られているうちに、自分を縛ることになってしまったということになる。

自らを呪縛から解放しない限り、この不毛な議論は続くのではないだろうか。

強い関係と弱い関係 – 選民教育と一般教育の違い

普段いろいろなツイートをするのだが、返信は滅多にない。これだけいろいろ書いているので、憎悪に満ちた返信があってもよさそうだが、それはない。なぜなのだろうかと思うことがある。

昨日面白い体験をした。民進党の蓮舫参議院議員が「日曜討論に岡田さんが出る」とツイートしていた。昨日は憲法記念日なので日曜討論はない。まあ、別にどうでもいいことなのだが、面白いので突っ込んでみた。すると「日曜討論ではなかった」という旨の返信があった。

すると、蓮舫議員と私宛にいくつかのレスポンスが来た。多分蓮舫議員に構ってもらいたい人だったのではないかと思うのだが、よく分からない。なかには「お前は民進党支持のようだが、民進党には何もできないではないか」というものもあった。

そこで思ったのだが「民進党」というのは「公衆の面前で叩いてもよい」存在になっているらしい。こういったことは自民党の政治家には起らないし、日本を元気にする会でも起らない。さらに民進党の議員では長島昭久議員のところでもあり得ない。

多分「蓮舫さんが女性だから舐められている」のだろうなあと想像した。つまり「この人は弱い」という人が叩かれるのであって、いじめの構造に似ている。だが、民進党の女性議員をイジる人は、どのような根拠で「この人はイジっても怖くない」と思うのだろうか。こういうことを研究した人はいないのではないだろうか、などと考えた。

いずれにせよ、このような言論空間では意見そのものには情報的な価値はないということになりそうだ。誰が発信しているかが重要であり「いじめてもいい」というフラグが立つととりあえず叩く訳だ。こうしたコミュニケーションにも機能はあるはずだ。多分、意見交換というよりは社会秩序の維持機能があるのだろう。つまり「誰かをイジってもいい」と思う人は「誰か別の人にイジられている」社会の駒なのだ。

この仮説は少し残酷だ。つまり、選良教育と一般教育がある。選良教育では情報交換や討議といった意思決定に関わるコミュニケーションが行われる。一方で、一般教育からはそのような技術は予め排除されている。代わりに社会秩序維持のための方法を学ぶのだ。社会秩序維持の技法を学ぶ訳ではない。維持されるメンタリティを育成されるのだろう。


この延長線上にあるのが「弱い靭帯」の不足である。これは個人的にはかなりの発見だった。インターネットのコミュニケーションをBBSの時代からやっているのだが、当時はどこの誰か分からない人と会話をするのが楽しかった。ネットワークとしては「モデレータ」のいるスタイルで、参加者は会話に返信する義務はなかった。気に入れば参加すれば良いし、忙しければ返信しなくても構わない。誰も強要する人はいなかった。ただし、自分の趣味のBBSが荒れてしまうのは避けなければならないので、それなりの自律的に秩序が維持される。このようなフォーメーションが成り立っつ条件は2つある。

  • 限られた人たちが参加する。知らない人たちのコミュにケーションに参加しても平気な人たちだ。
  • モデレーターがお金を払って私的な場を維持している。

こうしたつながりを社会学では「弱い紐帯」と呼ぶ。義務や上下関係の薄い関係と言える。弱い紐帯を持っていると、情報の幅が広がる。だが、現代では、多くのネットユーザーにはこうした区分はしないらしい。管理される教育を受けた人たちにはそもそも「弱い紐帯」という考え方がないのかもしれない。

例えば、LINEには弱い紐帯という考え方はない。だから、Twitterでも「今日と明日は返信できません」と断りを入れる人がいる。会話を返すのを義務だと考える「強い関係性」なのだが、これがLINEいじめの原因にもなっている。

今回は「支持者ではない」と言っているのに「民主党は何もできない」と主張をぶつけてくる人がいたのだが「ああ、そうだろうなあ」というくらいにしか思えなかった。多分「会話をする人が必ずしも意見に賛同しているとは限らない」ということが、本質的に理解できていなかったのではないかと考えられる。

そこで、そもそも人はどのようにして弱い紐帯という概念を学ぶ(あるいは学ばない)のだろうかと考えたわけだ。

この考察が正しいかは分からないのだが、日本には「管理して意思決定する側の教育」と「管理される側」の教育の2種類がありそうだ。つまり、Twitterでどのような意見を発信するという、たいへん下らない些末なことが、ある階層からみると「社会的なスティグマ」になってしまうということである。

この結論の残酷なところは、こうした態度が再生産されるということだろう。つまり、通常の教員養成課程では「管理されている人が、管理される人を作るための教育」を行うということになる。いったんこのカテゴリに入ってしまうと、そもそも情報交換して意思決定するということができなくなってしまう。

これは「管理する側」に都合がよいように思えるのだが、実際にTwitterで行われている政治議論を見ると分かる通り、本来は「意思決定する側」の人たちが絡めとられてゆく。そもそも「管理される側の教育」しか受けたことがない人たちが、意思決定しているようにも感じられる。

沖ノ鳥島はどう考えても岩だろう

世の中には炎上商法というのがあるらしいので、ちょっと試してみる。「王様は裸だ」と言ってみたい気もする。だが、一方で「お前は非国民だ」という批判も多そうだし、ひょっとしたら脅されることもあるかもしれない。それほどセンシティブな一言。

「いやあ、沖ノ鳥島には人は住めそうにないっすよね。あれ、岩なんじゃないですか?」

論理的な反論のある方は、何らかの方法でご返信いただきたい。いくつか、材料を挙げておいた。

  • 排他的経済水域を主張するためには「いつも地上に出ている部分があり」かつ「人が居住可能で経済活動を実施していなければならない」のだが、二番目の条件はAND条件ではなくOR条件である、と解釈可能ではある。
  • 政府は発電の研究をしているから、経済活動は成り立っていると主張している。
  • 例えばイギリスはかつて岩礁(ロッコール)を島と主張していたが、諦めた経緯がある。

独自で経済活動をするためには、誰かが居住していなければならない。いわば「人柱」だ。無人で経済活動というのも成り立つだろうが、国際的に認められるかは未知数。

次の設問はもう少し専門性が必要そうだ。日本が仮にあれを岩礁だと認めた上で巨大な滑走路を持つ軍事拠点に利用可能な施設(軍事拠点と宣言する必要はない)を領海内に作ったとする。12海里は22キロメートルだそうだ。珊瑚礁なので、埋め立ては不可能ではないだろう。それは国際的に非難されるのだろうか。

  • もともと日本の領土・領海なので「力による現状変更」ではない。
  • 一方で特に必要な施設とは思えず、他国の懸念を招く恐れはある。
  • 拠点を作っても周辺の独占的な漁業権は認められない。(公海だから漁業はできる)

最後に「非論理的」な反論のスロットを用意した。

  • 中国にくれてやるのは嫌だ。中国に見方するとは、お前は工作員だな?
  • 中国のいうことをみすみす聞くのは悔しい。
  • 日本が撤退したら中国がなにをするのか分からない。
  • そもそも領土問題は感情的に属する問題であって、論理的な整合性など要らないのだ。
  • 寝た子を起こすようなことをいって、お前は非国民に違いない。
  • お前、これまで税金をいくら投入したか知っているのか。

 

オスプレイを巡る倒錯した議論の根源を探る

熊本と大分の地震の対策としてオスプレイを使ったことが非難されている。オスプレイは何故だか左翼の攻撃の対象になっているのだ。もともとはアメリカのいうままに兵器を買わされることを苦々しく思っていた人が多かったのだろう。つまり、左翼的動機というよりはナショナリスティックな動機だ。日本では愛国派が従米で左翼が反米というようなねじれがあるので、当初から議論はややこしくなっている。

左翼がオスプレイに反対する理由を探しているうちに「オスプレイは危ない」という側面が強調されるようになった。もちろん、改良はされているわけだから、安全性はそのうちに担保されるようになるだろう。岩波がこのようなことをつぶやいて「ミリオタ」と呼ばれるクラスターに攻撃を受けている。ミリオタの攻撃はツイートのコメント欄で見ることができる。

興味深いことに、なぜオスプレイを買ってはいけなかったということもミリオタさんたちの議論から分かる。一つはオスプレイが既に旧型に属するらしいということだ。どうやら、もっと効率のよいタイプが開発されているらしい。次の理由はオスプレイが大きすぎると言うことである。イスラエルは「高すぎて買えなかった」らしい。

オスプレイは確かに熊本に物資を運んだが、あまり小回りが利かなかったらしい。そもそも、物資移送にはあまり活躍せずに早々に帰ってしまった。あまり使い勝手はよくなさそうである。よく「いい宣伝になった」という人がいるが、あまり役に立たなかったというのが正解だろう。

要するにオスプレイはフォードの大型車(まあ、シボレーでもいいけど)みたいなものなのだ。割高でバカでかい。フォードの大型車(しかも型落ち)を高値でつかまされたということになる。多分、開発したのに売り先がないと責任を取らされるのだろう。そこで、日本政府に売りつけたということになる。つまり、日本政府がいうところの「アメリカ」は、アメリカ全体ではなく、アメリカのトップでもないということになる。

そもそも、日本はなぜアメリカから割高な兵器を買うことができるのだろうか。それは戦争が差し迫っている脅威ではないからだ。もし、戦争が差し迫った脅威なら、支出できる税金は限られているわけだから費用対効果を気にするはずだ。つまり「国際情勢の変化で戦争の脅威が云々」というのは全くの嘘なのだ。

どうしてこのような議論になってしまったのは不明だが、オスプレイは2つの要点を押さえておくことだけが必要なのではないかと思った。なぜ、今のような議論になってしまったのか、よく分からない。

  • 日本政府はお買い物が下手で、タチの悪いディーラーとつきあっているらしい。
  • でかいアメ車を買ってしまったために「子供たちの送り迎えにも使えるよ」などと言い訳して家族のひんしゅくを買った。

震度情報を隠蔽したNHK

熊本地方で地震が起きた。震度7だった。かなり大きな地震で、福岡でも震度4の地域があったそうだ。阪神淡路みたいな大惨事にならなくて良かったと思ったが、それでも9人が亡くなった。

そんななか不可解な動きがあった。NHKがなぜか鹿児島県の震度を表示しなかったのだ。この状況は今でも続いている。お昼のニュースでも当時の震度表記から鹿児島県が省かれている。どうやら偶然外されたわけではないらしい。(実際の図はこちらにのせた。偶然表示されなかったのだという意見もあるだろうから、ご自身の目で判断していただきたい)

これはかなり不自然だ。多分、鹿児島でもかなり揺れただろうから、地元の人たちは「なぜ鹿児島の震度が表示されないのだろうか」と思ったのではないだろうか。

これはかなりあからさまな動きだ。現在、薩摩川内市では原発が稼働している。Yahoo!によるとこの地域の震度は4だったそうである。これが反原発の人たちを刺激するのを避けたかったのではないかと思われる。Twitterは「地震が起きたあともなかなか地震速報に切り替わらなかった」と指摘する人がいる。ちょうどニュースをやっていたのだから、すぐに切り替わっても良さそうだ。

ほんの数分でNHKの上層部では「鹿児島の震度は表示するな」と指示したのだろうか。普段からそのような取り決めがあったのかもしれないし、その場で慌てて決めたのかもしれない。だが官僚的な組織で「現場の判断で鹿児島を外す」みたいなことがあり得るだろうかという疑念が生じる。

何がなんでも今すぐ、すべての原発を止めてしまえとは思わない。反原発運動は一部の人たちのライフスタイルとなってしまっているので、それはどうなのかとも思う。しかし、当地の震度を隠すというのは少しやり過ぎではあるまいか。

NHKに人たちが国民を向いていないのは明らかだ。普段どのような態度で視聴者と接しているのだろうか。受信料は欲しいが視聴者の冷静な判断力を信頼していないことになる。本当にこんな放送局を支えるべきなのか。割と真剣にそう考えた。

追記1:これを書いてから2日ほど経って、NHKは熊本付近を表示した後に九州全域を表示するようになった。さすがに一度作ってしまった地図を作り直すのはバツが悪いと思ったようだ。一方、Twitterでは「NHKは隠蔽していた」という情報が一人歩きするようになっている。

追記2:震源地が南にずれて鹿児島の震度が表示されるようになった。「川内原発に近い」と懸念を表明している人もいるが、断層は川内までは到達していないのだという人もいる。八代で震度5強の地震が起きている。この記事を書いた後で別の地震が起り、熊本の死者の数は40名を超えた。少なくとも観測史上では初の群発地震だったようだ。NHK・鹿児島・隠蔽で検索が増えており、いわばバズった状態になっている。ちょっとした隠蔽だったと思うのだが、これはかなり高く付くのではないかと思う。こうした不信感に疲れが重なるとデマのもとになる。マスコミの責任として、なぜ表示しなかったのかを説明するべきだと思う。

 

核廃絶に向けて唯一日本人だけができること

オバマ大統領が広島に来るかもしれないらしい。前回は政府に内々に打診したが、官僚が勝手に断っていたようだ。そこで今回はワシントンポストに「リーク」して既成事実を作っている。安倍内閣はオバマ大統領にスルーされたのだと思うが、いったん事実ができてしまったら反対するわけにもいかない。ご機嫌伺いの日本政府は「賛成も反対もしない」という立場だそうだ。意向が固まれば賛成だと言い出すのではないか。

さて、オバマ大統領は広島と長崎に原爆投下したことを謝るべきなのだろうかという問題がある。原発問題はきわめて政治性が高く議論が交錯しやすい。結論によっては北朝鮮が核を持つことすら正当化されてしまう。

現在北朝鮮がワシントンに核攻撃すればそれは違法ということになる。多くの市民が巻き込まれるのは明白だからだ。だが、かつてはそうではなかった。

第二次世界大戦までは、市民を巻き込んだ殺戮は違法ではなかったそうだ。軍隊を警察に例えると、各都市の警察官は市民を巻き込んで相手都市に踏み込んでもよかったのだ。なぜならば都市を統括する国は存在しなかったからだ。警察と呼ぶのがふさわしくなければ、自警団と言っても良い。武士のようなものである。だが、第二次世界大戦の後「人々が殺し合うのは良くないのではないか」ということになった。そこで、とりあえず市民を巻き込むのはよしましょうということになった。

もう一つの変化は原爆の発明だ。例えれば第二次世界大戦までは武士は刀だけで戦っていた。そこにアメリカ現れて隠し持っていた拳銃で日本人の市民を「ずどん」と撃ったのだ。もう日本が負けることはわかっていたのだから無意味な殺生だったが、効果はてきめんだった。みんな黙ってアメリカに従うものと思われた。

ところがアメリカの思惑は外れた。共産主義が台頭したからだ。ソ連は拳銃の密造に成功したし、アメリカは中国の利権を取り損なった。もともと日本を追い出して中国利権を手に入れるのが戦争の目的の一つで、そのために国民党を抱き込んでいた。だが、彼らのもくろみは外れたわけだ。

最近、オバマ大統領は「銃を持つのはよくない」から段階的になくすべきだと言っている。「国際社会」はその手始めとして中国に「あなたが持っている銃の種類と数を公表せよ」と言っている。つまり、銃を登録制にしたいのだ。しかし、中国の立場からすると、そんな話に従う必要はない。だから、銃は野放しである。

特に厄介なのは北朝鮮だ。第二次世界大戦後「主権国家には踏み込みませんよ」という協定が作られ、代わりに戦争が禁止された。しかし、北朝鮮だけは「そんな話は信じられない」と言って拳銃の密造を始めた。イラクやリビアがいちゃもんを付けられてアメリカにやられるのを見ているから、彼らの危機感も間違っているとはいいきれない。イラクやリビアがやられたのは実は石油を持っているからなのだが、北朝鮮にはそんなことはわからない。そしてどうやら密造拳銃を完成させたらしい。イスラエルも密造拳銃を持っているらしいのだが、アメリカはイスラエルには何も言わない。

このように考えると、アメリカの大統領が広島を訪れたところでさしたる影響はなさそうだ。結局、この事態を作ったのはアメリカだからである。「お前が言うな」というだけの話である。

「主権国家を保証する代わりに戦争そのものを違法にしよう」というのが、第二次世界大戦後の取り決めだったのだが、この枠組みすら崩れつつある。そんなのはどうにでもなる話(事実イラクは主権国家だったが侵攻された)だ。そこで登場したのが「もう主権国家格を追求するのはやめて、国家体制に反逆しよう」という人たちだ。主権国家格など何のトクにもならないと彼らは思っている。彼らはテロリストと呼ばれているが、これは主権国家体制が崩壊しているという事実を印象操作しているだけなのかもしれない。

日本の役割はどうだろうか。結局のところ、広島や長崎の市民たちは「見せしめ」のために殺されたのだ。アメリカ人にとって同胞(つまり同じ人間である)ヨーロッパに原爆を落とすのははばかられたことだろう。身代わりにされたのだ。

物わかりのよい日本人は「あれは天災のようなものだ」と思い込もうとしてきた。戦争の原因を作り出したことは確かなのだから相手を恨むのはやめにしようというわけだ。台風や津波で殺されても日本人は天を恨まない。この地上で生きてゆかなければならないからだ。結局のところ「赦す」ことでしか、憎しみの連鎖を乗り越えることはできないということを私たちはよく知っているのだ。

この価値観を相手に伝えるのはとても難しい。日本人は自主的に赦したわけだから、相手に同じ気持ちを抱かせるために言葉を重ねることは無意味だろう。ただ、その戦後の繁栄だけが「相手を赦すことはいいことなんだな」と思わせる効果があるのではないかと思う。ただ、見せしめで殺されたことは事実なのだから、それを曲げてはいけないように思う。「それでも相手への恨みを捨て去れますか」というのが日本人に向けられた問いだろう。

事実アメリカ人はこの日本人の態度を不可解に思うようだ。「広島なんかに行ったら、謝れという話になるのではないか」と思っている人も多い。

オバマ大統領は結局「日本人が赦した」姿勢を見て、それに沈黙で返礼するしかない。その意味ではアメリカ人要職の訪問には意味がある。だが、アメリカ人には、この状況をどうこういう資格がない。自分のレジェンド作りの為に広島や長崎を政治利用しているという見方すらできるのだ。これは原爆で殺された人たちへの冒涜にならないのか、しばし冷静に考えてみる必要がありそうだ。

おそらく外交も無意味だ。口約束なんか破られるに決まっているからだ。だから、外交努力で戦争を防止することなどできない。となると、諸都市の武士団が拳銃を「ずどん」とやらないのは、経済的に緊密に結びついているからでしかない。いったん経済的に結びついてしまえば、けんかはしにくくなる。

ただし、絶対的な経済活動の敗者たちは、刀を持って歯向かってくるだろう。もはや武士だけが刀を持てる時代は終わったのだし、刀狩りもできない。

いくさを防ぐためには「赦す」か「分け与える」しかないのだ。世界中で日本人だけがそれを「身を以て」語ることができるのである。

Twitterでカラまれたことに対する考察

まず分かったのはこの人はまとまった意見を書けない人なんだろうなあということだ。議論するためには頭の中にある体系を持っていることが必要だ。まとめ方にはいろいろあると思うが、少なくとも「問題」「問題に対する見方」「そのソリューション」と三段が必要だから140文字でこれをこなすのは無理だ。

「Twitterで議論できる」と考える人はそもそも、140文字の情報の固まりが浮遊しているだけのようだ。なんとなく分かっていたことではあるのだが、実際に想像してみるとなかなか恐ろしいことだ。それぞれのデータがまとまりのないままチャンクのままで存在するのだ。

そもそも情報を集めるのはあるまとまった考えを得る為だ。まとまった考えを得るのは「与えられた情報の中でできるだけ確実な(これは正しいとは限らない)意思決定をするため」である。

では、Twitterの140文字の情報やYahoo!ニュースのヘッドラインが相互に関連せずに浮遊している人というのは何を目指しているのだろう、と考えると「よく分からない」としかいいようがない。

強いて想像するとしたら、コミュニケーションの目的は1つだ「情報発信の方向や用語の使い方」でどのムラに所属するのか(政治の場合には右か左か)が分かる。ヤノマミ族やニューギニアの人たちが言語を分けるのと同じ理屈である。ちょっとした発音や用語で外敵を見分けるのだ。と同時に同じ言語を話す人たちとの間では所属欲求が満たされるのである。

ここから導き出される結論は簡単で、情報そのものにはさしたる意味があるわけではないということになる。関係性こそが問題なのだ。

故にTwitter上で議論は成り立たない。そこにあるのはヤノマミ流の「お前が去るか俺がお前を殺すか」という選択だけだ。もしそれを議論と呼ぶのだとしたら、定義が違うのだということになる。議論はお互いが持っている情報をすりあわせた上で、より正しい解決策(それはあるいは共通した解決策を模索しないという解決策かもしれない)を導き出す為の手段である。

お前が持っている「自民党が人権を抑圧しようとしている」という認識は「間違い」で、それは「ネットの意見だけを鵜呑みして」「騙されているのだ」という主張を繰り返していた。彼が(彼女かもしれないが)の言いたかったのは「正しい情報さえ手に入れれば、きっと正しい態度になるはず」という主張である。

そもそも相手は正解を知っているわけだから、議論する必要はない。それは説得と呼ばれるべきだ。

だまされているという根拠も示されているが、それは薄弱だった。「人権抑圧は、中国のような抑圧国家がやることであって、日本のような立派な先進国がそんなことするはずはない」というものだった。左派の人たちは「日本は先進国であるはずなのに、北朝鮮かナチみたいなことばかりいう」と思っているので、平行線を辿る。どちらも見込みだからだ。

では、全く無駄な話だったかと言えばそうでもない。どうやら、僕は次のような信念体系を持っている事が分かった。これは異質な意見にぶつけてみないと分からないことだ。

人はそれぞれが幸福を追求すべきであり、結果的に社会の繁栄につながる。幸福の追求は個人の内発的な動機に基づいて行われるべきだ。社会は個人が幸福を追求するための装置であり、社会の存続の為に個人が存在するわけではない。しかしながら、個人の幸福の追求は衝突することもある。社会はそれを調整する機能を持つべきだが、それは最低限のものである必要べきだ。個人は間違えるし、全ての個人の情報を持ち得ないので、多様な意見を集めることで間違いを補正すべきだ。故に民主主義のプロセスは擁護されるべきである。また、不運は誰にでも訪れるので、社会的な保証は準備するべきである。社会や国家の有り方として現在の民主主義が正しい解なのかは分からないが、結果的には現在取り得る政体の中では最適な解である。民主主義国の経済的な成功がそれを裏付けている。何人も無謬ではないので「正しい」答えはあり得ない。「正しい意見」を持っていると主張する人は疑われるべきだ。

批判的に見れば、かなり「西洋流に洗脳されている」とも言える。特に功利主義的な主張は「では生産性のない人はこの世から消えてもよいのか」という問いにつながるのではないかと思う。そもそも人の人生に意味などあるのだろうかという問いもあり得るだろう。