日本の右派と左派はなぜ折り合わないのか

Twitter上では今日も、いわゆる「右派」と「左派」がそれぞれの主張を呟いている。お互いに攻撃しあっているのだが、その議論がかみ合うことはない。なぜ噛み合ないのかを理論的に考察した人はいない。

左派はおおむね機会の公平さよりも分配を重視しており、穢れを嫌っている。一方右派は新しい試みを嫌い、外敵や外国人を排除して同じまとまりで固まりたいと考えているように見える。

だが、両者は差異よりも共通点の方が大きい。例えば「純粋さ」を求めるという点は似ている。左派は放射性物質などの汚染物質を穢れだと考えるのだが、右派は外国人を穢れだと考えている。戦争についての忌避感も実は共通している。左派が戦争の原因が国内にあると考えているのだが、右派は中国が戦争の原因であると考えるという違いがあるだけだ。

故に、政治的に固まっている左派も右派も実際には同根であると考えることができる。両者の差異は見込みだけだ。右派は自分たちに取り分があると考えている。すなわち分配の意思決定に参加できると漠然と信じている。一方、左派は意思決定から排除されていると考え穢れを押し付けられると信じているわけだ。

信じがたいかもしれないが、右派がいなくなると、左派と呼ばれている人が左派的なつながりを持ったままで「保守化」することがある。例えば「高齢者の分配」を支持する人たちが「保育園ママ」を排除するということが起りえるのだ。

「分配を受けていないのに、漠然とおこぼれに預かれると思っている層と漠然と自分は意思決定から排除されているだろう」という見込みを持つ人がいる。経済的弱者が右派的な思想を持って安倍政権を応援したりするのである。現状よりも「ありたい自分」を設定して見込みの分析を行っているのかもしれない。

面白いのはアメリカと中国に対する態度だ。右派と呼ばれる人たちはおおむねアメリカに対して好意的な見方をしているのだが、親密さを利用してアメリカの意思決定に関与できるのだと信じているのだろう。つまり、忠誠心や帰属意識によって保護してもらえるという見込みを持っていることになる。一方で中国は日本に敵対的であって意思決定に関与できない。それは不確実なよそ者であって穢れに属するのである。一方、左派の人が親中国的とは言えない。そもそも日本の政府から排除されているのだから、外国にまで意識が及ばないのだろう。日本の政府はアメリカと親しくしているので、反米の姿勢を取ることはあり得る。

ここまで考えてくると「穢れとは何か」が分かる。意思決定に関与できないと不利益を押し付けられることになる。それを「穢れ」と呼んでいるのだろう。

左派を攻撃する右派は、従って複雑な経路を使って攻撃をする。彼らは意思統一できないのは、自分のコントロールできない何かが邪魔をしているからだと考える。2つの根源がある。1つはアメリカ(彼らに言わせれば共産主義に汚染されていた悪いアメリカ)が作った現行憲法で、もう1つは中国や韓国の影響を受けた「売国奴」だ。決してトピックそのものに反対している訳ではないのだ。

左派は「自分の与り知らぬところで何か悪いことが行われているので、放射性物質を押し付けられる」という理由で原子力発電所に反対する。右派は左派が騒ぐのは中国や韓国に入れ知恵された人が日本の秩序を攪乱していると考えるわけである。

アメリカで右派と左派の対立を研究する場合「その人がどのような道徳的態度を持っているか」という理論構成になるという。だが、日本では「その人の道徳的態度や価値判断」はそれほど問題にならず、自分が意思決定にどの程度関与できうるかという見込み(つまりは実際の所属ではなく、主観的な所属意識ということになる)によって態度が決定するのだということが言える。「私」ではなく「我々」で考えていることになる。個人の価値観で指標を取ると右派も左派もその態度はバラバラなのではないだろうか。

これを拡張すると政治に興味がない人は「意思決定にも参加できないが、不利益の分担もない」と考えているのではないかという仮説が生まれる。故に「政治に関心のない人を取り込む政策」を作ることは不可能だという見込みが生まれる。こうした人たちを抱き込むためには2つの選択肢がある。

仮想的な万能感を与えて、意思決定に参加できるのだという見込みを与える。これは過去に小泉政権や政権奪還時の民主党が使った手だ。しかし、いったん政権ができるとこれが「仮想的だった」ことがばれてしまう。

不利益を分担させる。これを使った政権はないのだが、安倍政権の政策が進めばやがて「反安倍」が生まれる可能性はありそうだ。ただし、その前に自民党から反安倍の動きが起きて動きを封じてしまいそうな気がする。

最初の疑問に戻ると、右派と左派が折り合わないのは当然だといえる。実は憲法第九条も原発の問題も「どうでもよい」のだ。だから、合理的にその安全性(あるいは危険性)を説得することは不可能である。誰が担い手になるかによって善し悪しが決まるということだから、文脈こそが主役なのである。

 

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