保守派が夫婦別姓を懇願する日

長い文章になってしまったので要約しておく。リベラル勢力が夫婦別姓を実現したければ、結婚制度そのものに依存しない方がよい。どちらかといえば非婚夫婦(同性を含む)に法的資格を与えるか、結婚のメリットを「差別だ」として糾弾した方がいい。一方で、保守勢力が家族の絆を強制すると、少子化が進み結婚制度が崩壊してしまうかもしれない。不思議なことに、どちらの勢力も自分たちの目的と反対の方向に努力していると言える。「結婚」という形に形にこだわりすぎているのだ。

結婚と家に関する議論は思ったよりも面白かった。今回のお話は、いつか保守派が夫婦別姓を懇願する日が来るかもしれないというものだ。

今回はまず議論の視点をちょっと変えて、ゲイのカップルはどうして同性婚を熱望するのかという視点から考えてみた。ゲイのカップルが結婚したがるのは、カップルというものは「人並みに」結婚すべきだと考えているからだ。愛し合っている2人が結婚できないのは「人並みではない」のだ。

では、先進国では結婚はどれくらい「人並み」なのだろうか。これに直接答える統計はない。事実婚は政府に登録しない結婚なので統計が取れないからだ。それに代わる統計が婚外子の割合だ。スウェーデンやフランスでは50%以上が婚外子で、アメリカも40%以上が婚外子なのだそうだ。こうした国々では「結婚する事」はもはや当たり前でもなんでもない。

フランスで婚外子が多いのは結婚制度が窮屈だったからだという説がある。カトリック国なので離婚が難しいという説があるが、これは疑わしい。スウェーデンはカトリック国ではないし、イタリアの婚外子率はそれほど高くない。

フランスで結婚に人気がないのは、結婚が難しいからだそうだ。いくつもの書類を揃え、最後には市長との面談が必要なのだ。離婚にも同じような煩雑さがある。かつては弁護士を立てて裁判をしないと離婚ができなかったそうだ。一方、アメリカで婚外子が多いのは、結婚が贅沢な行為になっているからだという。経済的に結婚生活が維持できない人たちがいるのだ。

つまり、結婚が難しくなると、結婚しないで子供を作る人が増えるのである。

フランスでは結婚できないゲイのカップル向けに契約制度を作った。最初はゲイカップルが利用するだけだったが、そのうち「結婚したくない」カップルが制度を利用するようになり、婚外子が増えていった。つまり結婚の枠外にある人向けに「その他」扱いした制度を作ったがために「その他」が一般化してしまったのである。

結婚しても姓を変えたくないという人は、事実上「結婚して新しい(同一の)家を創る」という制度を否定している人たちだ。法的には一つのまとまりとして認められたいが、別々の家に属したいと思っているということになる。こういう人たちは、結婚以外に法的な枠組みができれば、それを選択してもよいはずなのだ。つまり、婚姻と一つの家を作るということは全く別のことで、さらにいえば、事業体としての家、婚姻、家庭というのも別々の概念なのだ。

日本では婚外子の割合は極端に低いことから事実婚が多くないことが予想される。事実婚が多くないのは結婚や離婚が比較的に簡単だからだという人もいる。第二次世界大戦後、当時としてはリベラルな価値観(男女の合意だけで結婚できる)が持ち込まれたので、結果的に西洋のような結婚制度からの離脱が起こらなかったというわけだ。さらに、終身雇用が当たり前で、扶養家族としての妻を優遇した税制があったという理由を加えてもよいかもしれない。

いずれにせよ、結婚が難しくなると、結婚できない人が増える。結婚できなくても家庭はできるわけだから、社会がそれを追認せざるを得なくなる。と、同時に事実婚が増えて結婚に対する憧れが消えてしまう。すると、結婚という制度自体が相対的に意味をなくしてしまうのである。

そんなのは「お笑いぐさだ」と考える人もいるかもしれない。しかし、若い女性の中には「結婚はしたくないが、子供は欲しい」と考える女性が増えているという話もある。すでに父親のいない家庭というのを指向している人がいるということになる。

日本でも結婚のコストは高くなりつつある。特に、女性が負うコストは大きい。企業からはパート労働を担う安価な労働力として期待されているし、子供の面倒も母親が見るものだと考えられている。家庭では、無料の労働力として期待されており、家事や介護は妻の仕事だとされている。自民党はこうした無理難題を女性に押しつけて「社会進出」と呼んでいる。支払うコストが大きいのに得られるベネフィットは少なくなれば、結婚制度を選択する合理的な理由がなくなる。

つまり、結婚に対する縛りをきつくしてしまうと、結婚制度そのものが崩壊してしまう可能性がある。すぐにガラガラと崩れ去る事はないだろうか、数世代単位で消えてしまうかもしれない。

リベラルな人たちは自民党の諸政策に反対しない方がいいかもしれない。自民党が憲法や法律など様々な手段を駆使して、結婚や家庭の義務などを強化すると、人々は結婚制度から逃げ出すだろう。結婚したら離婚できないようにするのもよいかもしれない。多分、婚外子差別があるなかで結婚のしばりをきつくすれば出生率の低下が起こり、あるしきい値を越えた時点で、女性は結婚を選ばなくなるはずだ。皮肉なことに、保守派が自説を通せば通す程「リベラル」が狙っているとされる「家制度の崩壊」が起こりかねないのだ。自称保守派は、理想の家庭を追求するあまり、日本民族の転覆を狙う共産主義者の手先になってしまうのだ。

結婚制度が破壊されても女性は案外困らないかもしれない。妻と子供の姓だけが同じになり、父親がどの姓なのか分からない(つまり、父親が誰なのか分からない)という「家庭」が増える可能性もある。その時の保守派は「姓は同じでなくてもよいので、昔あった結婚という制度を使ってください」とお願いすることになるかもしれないのである。

夫婦別姓問題と家族制度の崩壊

夫婦別姓が許されないのは違憲か合憲かという裁判の決着が出た。違憲ではないというのが結論だったのだが、これに対するリアクションが興味深かった。

別姓推進派の中には「姓をなくすことはアイデンティティを失う事なのだ」と涙ながらに訴える人がいた。姓の問題というよりも、女性であるというだけで自身を否定された強烈な経験が投影されているのだと思う。

一方で別姓反対派は、別姓推進は共産主義者の陰謀だと思っているようだ。共産主義者は家族制度を解体を画策しているが、それは最終目標である国家の解体への第一歩だということだ。「なんと大げさな」と思うが、右派の中ではかなり浸透した見方らしい。悪の秘密結社が世界征服のために幼稚園バスを襲うのに似ている。

右派の見方で特に危険だと思ったのが、家族制度の神聖視だ。家族制度さえ再構築できれば、社会問題が一挙に解決するだろうと思っているフシさえある。ところが実際には家族の絆は密室を作り出す事がある。こんなニュースを思い出した。

年老いた父親が娘を殺した。娘には病的な暴力癖があった。家族にたびたび暴力を振るうので、一人暮らしをさせたが、問題は解決しなかった。次に、精神病院にかかったが「統合失調症」「解離性人格障害」などと病名は定まらない。福祉にも相談したが無駄だった。最終的に父親が首を絞めて「問題を解決」せざるを得なかったのだ。

確かに特殊な例だ。しかしながら、家族を介護していて共倒れになるという話は珍しくない。家族の問題は家族で解決しようという意識が強く、問題を表沙汰にするのは恥だという意識が強いかもしれない。その結果、日本の殺人事件の半数は家族間の殺し合いになっている。「嘘だ」と思うなら、統計を調べてみるとよいだろう。

現状でもかなり悲惨な状況にあるのに、「家族の問題だから社会は関与しない」と突き放してしまうとどういう事態に陥るのか想像するのは難しくない。だから、姓さえ統一すれば自ずから一体感が生まれ、問題が解決するというのは幻想に過ぎない。憲法を改正して家族保護条項を作ろうという話もあるが、同一線上にある議論だ。

こうした幻想が温存されるのは、議論の当事者たちが難しい家族の問題に直面してこなかったからだろう。思い込みだけで議論しているのだ。

しかし、危機感を感じる背景にはなにかがあるはずだ。それに対峙しないかぎり不安は消えないだろう。

もともと、日本の家族は「絆の共同体」などではなく、事業体としての色彩が強かった。例えば、子供のない家に養子に出すことも当たり前で、兄弟なのに姓が違うということも珍しくなかった。家は財産管理の単位で、それを「家督」と呼んだ。

こうした事業体としての家族を肩代わりしたのが企業だった。こうして、夫が稼いて妻が支えるという形式が作られた。一方で、家が事業の主体ではなくなったために、子供は家から切り離された。さらに終身雇用制度が崩壊したために、かろうじて「家のようなもの」を支えていた経済基盤が崩壊しつつある。地方では中小の商店、工場、農家などが「事業体」としての家を作っていたが、崩壊しつつある。大規模店舗ができたために個人商店が潰れたり、農業に魅力がなくなり子供に継がせることができないなど、事情は様々だ。

家が崩壊しつつあるのは、共産主義者の陰謀ではない。崩壊しつつあるのは日本型資本主義だ。姓を同一にしようが、別々にしようが家の崩壊には何の関係もない。また、戦前の家父長制度を復活させたからといって、かつての終身雇用型の社会が戻ってくる訳ではないのだ。

点字新聞と軽減税率

新聞が軽減税率を適用するという話を苦々しく聞いた。たかだか2%の「減税」は政治的なトロフィーとしての意味合いしかないのだが、この2%の為に「ジャーナリズム」が持っている権力監視という役割を放棄しかねないと思うからだ。

しばらくして、大切なことを忘れていたことに気がついた。それは「知る権利」の大切さだ。特に普通の手段では情報を得にくい人たちと情報の関係である。そこで思いついたのが、点字新聞だ。

日本では唯一、毎日新聞社が点字新聞を出しているらしい。日刊ではなく週刊のようだ。送料無料と書いてあるので、宅配ではないのではないかと思う。ということは、今回の軽減税率の対象からは外れてしまうことになる。

しかし「知る権利」という意味では、これほど重要な媒体もないはずだ。

確かに軽減税率にはトロフィーとしての役割しかないのかもしれないのだが「国民の知る権利」などと主張するのだったら、こうした福祉系の新聞への配慮を行うべきだろう。文字が読めない人にとっては紙媒体だけが新聞ではないのではないのかもしれない。例えば、音声媒体の新聞もあるだろう。

宅配で線引きするのは、「ジャーナリズム」と「イエロージャーナリズム」をわける意図があるのだと思う。有り体に言えば、駅売りの庶民ジャーナリズムへの差別感情だ。そこで、「高級な」新聞だけを切り分けようというつもりなのだろう。しかし、そうした区分は、切実に情報を必要とする人たちを排除することになりかねない。宅配新聞だけを有益だとして優遇するのは、多分単なる傲慢なのだ。

それにしても「知る権利」という言葉を軽々しく使いすぎているのだなあ、と自省した。多分、切実に情報を必要としている人というのも、思いが至らないだけで、数多く存在するのだろう。

「貧乏人は栄養について考えろよ」という厚生労働省のお達しについて

厚生労働省が「貧困層ほど栄養バランスが悪いから、栄養に関する知識を身につけましょう」と発言し、炎上した。ぎりぎりの食費でやりくりをしている層は、そもそも栄養バランスのよい食事ができないというのだ。日本人の食事環境はかなり追い込まれているようだが、現在の食の貧困化はまだマシなレベルにある。この先、さらなる砂漠化が進む可能性もある。

現在、スーパーの大型化が進んでいる。拠点を集約することで経費を削減しようという動きだ。大型スーパーには生鮮食料品も豊富に揃っているが、こうしたスーパーに行くには車が必要だ。

車を持たないお年寄り、単身世帯、母子家庭などは、大型スーパーマーケットには行けないので、近所にあるスーパーマーケットに通う。しかし、こうした地域拠点のスーパーマーケットは少ない人数で回せるように「ハードディスカウンター」に置き換わりつつある。従業員を細小限にして経費を削減するハードディスカウンターには生鮮食料品があまり売られていない。代わりに扱われているのは、管理が簡単な加工食品だ。つまり、貧乏で余裕のない人ほど、こうした加工食品に頼ることになる。こうしたハードディスカウンターが増えれば、食品会社は儲けを重視して加工食品をより多く取り扱うようになるだろう。

生鮮食料品は流通に手がかかる贅沢品になりつつあるのだ。

しかし、ハードディスカウンターで自炊する人はまだ恵まれているかもしれない。料理や食事という概念を持っているからである。

自炊する余裕すらない働く母親は、子供に菓子パンやインスタントラーメンを与えて育てるかもしれない。こうした食料は作る手間がかからず買い置きもできる。もしくは数百円を与えて「何か好きなものを買え」というだろう。もしかしたら、ポテトチップスを買ってきて夕食代わりにする子供もいるかもしれない。

すると子供には「食卓には野菜や肉があるべき」だという観念が身に付かない。そもそも食事とおやつの区別も付かないかもしれない。食事とおやつの概念がない人が、炭水化物とタンパク質などといった栄養素について学ぶ事はないだろう。「栄養の知識を身につけろ」というが「栄養」がどういうものだか分からなくなる可能性もあるのだ。

これが世代間で連鎖すれば「料理」や「食事」を最初から知らない世代が出てくる。こうした家庭環境にいる子供がインスタグラムに食事の光景でもアップしてくれれば表面化するかもしれないが、そのようなことは起こらない。菓子パン一つで子供を放置するのは、ある人たちから見れば虐待だが、別の人には日常になるのだ。テレビを見ながらポテトチップスを食べる子供は「夕食」という概念すら持たないだろう。

普通に食事をしている日本人にとっては想像が難しい食の貧困問題だが、アメリカの事例を見ると印象が変わるかもしれない。アメリカには冷凍ポテトを解凍し、お湯で溶いたマカロニチーズを皿に盛るのが料理だと思っている人たちが大勢いる。

そんなアメリカで、ミシェル・オバマの給食プログラム改革が大失敗した。ミシェル・オバマはジャンクフードに依存する習慣を改善しようと学校給食にヘルシーな食材を使おうとした。しかし、このプログラムは不評だった。薄味で量も少なかったからだ。学校給食を拒否する子供が続出し、一部の州ではボイコット運動にまで発展したそうだ。却って廃棄される食品が増えたという。

ファストフード(化学調味料で味付けされたハンバーガーや砂糖で一杯のコーラなど)に慣れた子供たちには薄味の食事は不評だったのだろう。ミシェル・オバマは学校にあった不健康な食事や飲料も追放したために、学校の自動販売機の売上げも激減した。

栄養のある生鮮食料品を食べさせようというプログラムだったが、ファストフードや冷凍食品に慣れきった業者はこうした食品を提供できなかった。その為に、単に量が減っただけの食事を出すところも多かったようだ。また、学校給食に囲い込んだ食品業界の反発もあったという。食品業界は、トマト・ペーストを塗ったピザを「野菜だ」と議会に認めさせたこともあったという。手間がかかる生鮮食料品よりも加工食品の方が食品業界の儲けが多いのだ。

発想は良かったが、実行力が伴わなかったせいで「オバマが学校給食を貧困化させて、教育行政に手を突っ込んでいるのだろう」というような陰謀論をささやく人すらいる。

日本の食育や給食制度はよくできている。そして、食の砂漠化を防ぐ防波堤のような役割を果たしているのだ。日本人の食事への関心が給食制度を支えているのだが、なくしてからやっとありがたみに気がつくのかもしれない。

その意味でも、単に「栄養に関する知識を身につけましょう」という厚生労働省のアドバイスはあまりにも軽すぎた。

「花燃ゆ」はなぜ惨敗したのか

花燃ゆが終った。視聴率は惨敗だったようだ。ツイッター上での評価も「史実と違っている」など散々だった。もともとNHKが安倍政権におもねる為に制作されたのだという噂があったので、仕方がないのかなという印象だ。

このドラマが惨敗したのは、視聴者のニーズに合っていなかったためと思われる。視聴者のニーズをまとめると次の3要素になる。「豪華なテレビゲーム」か「分かりやすいホームドラマ」が好まれる傾向にあるようだ。

  • 勝利の爽快感
  • 単純明快な分かりやすさ
  • きれいさや豪華さ

いろいろなカテゴリで視聴率の平均値を比較してみた。試しに男性が主役のものと女性が主役のものを比べたが、どちらも変わりはなかった。今回「女性を主人公したのが敗因」という批判があったが、これは当たらない。女性ものを細かく見ると、橋田ドラマが貢献しているのが分かる。男性ものと女性ものではメインターゲットが違っているようだ。

次に時代で分けてみた。人気があるのは戦国時代だ。続いて人気があるのが江戸時代。それ意外の時代の人気は平均以下だ。明治維新期などは人気がありそうだが、あまり支持されないらしい。平安以前のドラマはない。日本史として認識されてすらいないのだ。

さらに、主役の階層を見てみた。権力者(最終的に政権に就く)や武将(戦国時代)に人気がある。中間権力者も合格だ。一方で庶民を扱ったもの(宮本武蔵、坂本龍馬、忠臣蔵などの有名なものも含む)は人気がない。日本人は判官びいきで庶民目線だという説があるが、こと大河ドラマに関してはこの説は成り立たない。

これらを総合すると「戦国時代に権力者が最終的に勝ち上がる」物語が好まれることになる。信長、秀吉、家康の関係性はよく理解されており、筋が追いやすいからかもしれないし、成功者気分に浸りたい人が多いのだろう。しかし、同じ成功者でも平清盛は人気がなかった。筋や時代背景がよく分からないと不評のドラマだった。勝ち上がるドラマでも背景が分からなければ支持されないのだ。

大河ドラマの人気がピークだったのはバブル期の1980年代だ。この頃の大河ドラマの題材には「ねね(おんな太閤記)」「無名の医師(いのち)」「政宗」「信玄」「春日局」などがある。このうち「いのち」と「春日局」は「成功者目線」という条件を欠いている。この2作と「おんな太閤記」はシナリオが分かりやすいことで知られる橋田壽賀子原作だ。この分かりやすさがヒットのもう一つの条件なのかもしれない。特に「いのち」は時代劇ですらないので、勝ち上がる物語とはメインターゲットが違っていることが伺える。

バブル崩壊後、大河ドラマは冬の時代を迎える。多分、制作者側がマンネリを怖れたのだろう。「炎立つ」は藤原三代を扱い、「花の乱」は応仁の乱を扱った。さらに「琉球の風」は琉球王朝を描いている。日本の正史の外を扱ったものは、いずれも惨敗した。「花の乱」と「いのち」の主役は同じ三田佳子なので、俳優はあまり視聴率とは関係がないのではないかと思われる。今回も井上真央が悪いというわけではないのだろう。そして、視聴者は戦国や江戸時代以外の歴史にはあまり興味がないようだ。

大河ドラマの視聴者が求めているのは、歴史ドラマではないのだろう。代わりに、テレビゲームのような爽快感を求めているのではないかと思われる。自分が戦国武将のような気分になって「勝てる」ものがよい。清盛は「画面が汚い」と嫌われた一方で、派手な騎馬シーン(派手さを演出するために、日本にはいなかったはずのサラブレッドが使われたりする)のある戦国ものに人気が集るのだ。9時台のTBSのドラマにも同じような傾向が見られる。勧善懲悪で最後には正義の味方が勝つようなドラマが好まれている。

もしくは橋田壽賀子作品のように「見ていなくても分かる」くらいのレベルのものが好まれるのかもしれない。こちらを支持するのは姑世代のおばさんだろう。近年、姫ものが2作あった。お嫁さんにしたいタイプの「篤姫」(宮崎あおい)は成功し、あまりお嫁さんにしたくなさそうな江(上野樹里)は失敗している。

花燃ゆはいくつかの点でこの類型に沿っていない。まず、権力者が成功する作品ではなかった。むしろ、維新の立役者たちが次々と死んで行く話だ。大河ドラマの視聴者は失敗した人は嫌いなのだ。次に明治維新という時代背景がよく分からなかったのだろう。さらに、群像劇にするなら橋田壽賀子を呼んできて、タイプキャストばかりの分かりやすい劇に仕上げる必要があった。もし分かりやすければ「歴史と違っている」などということを気にする人はいなかったかもしれない。爽快感ときれいさだけを求めている視聴者にとって「明治の子女が教育をつけて自立してゆく」というのはどうでも良いテーマだったのだろう。

大河ドラマを確実にヒットさせたいなら、戦国武将の成功記に限って放送すべきだ。これをできるだけ豪華絢爛に作成するのだ。しかし、当てはまる題材は限られているので、数年でマンネリに陥るだろう。

で、あれば橋田壽賀子のような脚本家を発掘してきて、古き良き家庭(男に権威があるが、それをしっかり者の女性が支えている)を舞台に分かりやすい人物を描いた、2〜3話飛ばしても筋が分かるような話を作るとよいのかもしれない。

大河ドラマの制作費は年間で数十億円単位だという。そこで優秀なライターが集って、日本の歴史を新しい視点から切り取ってやろうと意気込むのだろう。しかし、実際に視聴者が求めているのは、水戸黄門を豪華にして絢爛な騎馬シーンを盛り込んだようなドラマか、サザエさん一家を歴史の荒波に立ち向かわせるようなドラマなのだ。

「日本人の安心安全を守る」という口上は口先だけの約束なのではないか

靖国神社を爆破しようとしたとして、全昶漢(チョン・チャンハン)容疑者が逮捕された。再入国しようとした羽田空港で火薬とタイマー(のようなもの)を持っているところを捕まったのだという。これを聞いて「火薬を持っていても飛行機に乗れるのか」と不安に思った人も多いのではないだろうか。

この人が怪しいということは誰もが知っていたようだ。週刊誌の記者がマークしていたということだから、当然警察も知っていたのだろう。当然、韓国政府もそのことを知っていたに違いない。にも、関わらずこの人は火薬を持ったまま飛行機に乗れてしまったわけである。

このことはつまり日韓の飛行機(どこの便かは分からないが、金浦-羽田間は日韓のコードシェアのようだ)は、警察にマークされるような人物が火薬を持って乗って来てもお咎めがないということを意味している。世界各国でテロが蔓延する現在、これはとても危険なことだ。誰もが「犯人が機内で火薬を爆発させたらどうするつもりだったのだろうか」と危惧を抱くだろう。そうなったら乗客は巻添えである。少なくとも日韓の飛行機には乗らない方がいい、ということになる。容易にテロリストの標的になりそうだからだ。

「荷物検査では見分けられなかった」という意見もあるようだが、ロシアの飛行機はジュース缶に仕掛けられた爆弾が原因になったという情報もある。日韓の警察当局が航空会社に連絡しなかったのだとしたら、責められるべきは日韓当局ということになる。日韓の公安当局は危険な男を野放しにした上に、穏便に逮捕さえできれば乗客は巻添えになっても仕方がないという「判断」をしたのかもしれない。

一方、この発表自体が嘘なのではないかという人もいる。容疑者が韓国から火薬を持ち込んだとすれば、単独犯だという印象が強まるからだ。このことは日本国内に協力者がいないということを意味する。もしこれが当局の偽装だとすれば、別の危険性がある。本当は国内にいるかもしれない協力者を隠蔽してしまうことになるからだ。韓国人の協力者だから当然韓国人だろうという予想が成り立つのだが、そうとばかりは言い切れない。政府に不満を持っている日本人も大勢いるのだ。

このニュース「韓国人はけしからん」という意味ではそこそこ話題になったが、日本の治安対策は大丈夫かというような声は聞かれなかった。また、航空機へのテロ対策を強化すべきだという声もなかった。これは新幹線で焼身自殺が起きたときの対応に似ている。ポリタンクが持ち込まれて起きたのだが「新幹線で手荷物検査をしろ」という人はほとんど出なかった。

セキュリティが強化されればそれだけ不便になることは容易に予測できる。そこで「致命的なことはほとんど起こらないだろう」という見込みが働くのだろう。いわゆる正常化バイアスが生じるのだ。マスコミが政府の圧力に屈したという見方もあるだろうが、「何も起こらないで欲しい」という意識も働いていてのではないかと思う。

この事件は間接的に日本人がテロの脅威を外国のものだと考えていることを伺わせる。「日本にいれば大丈夫だろう」という見込みを抱いているのだ。今のところ国内で深刻なテロは起きていないので、この見込みは正しいが、明日のことは分からない。

よく安保法制の議論で「戦争法案が通ったら日本はテロの標的になる」という人がいる。なかには、原発がテロに襲われると指摘した人もいた。しかし、実際にはこうした発言は単に相手を攻撃する意味合いしかないのだろう。と同時に、今回の件で積極的な発言をしなかった安倍首相も「日本人の生命を守る」ことにあまり関心がなさそうだ。「世界情勢は変わっている」などという発言をよく聞いたのだが、本心では「変わったのはアメリカの要望だ」ぐらいにしか思っていなかったのではないだろうか。

新聞の軽減税率適用はジャーナリズムの死を意味する

軽減税率の問題でちょっとした騒ぎが起きている。そもそも8%の税金が10%に増えるのだが「軽減税率」と言う言葉が踊っているせいで、あたかも税金が減るような印象を与えている。加えて、これで税収が減るので社会保障費を削るか赤字国債を発行すべきだという話になりつつある。

食品の線引きをどこにするかというのが「議論」の中心なのだが、その影で新聞も軽減税率の対象にすることが決まったらしい。テレビでは「一部の新聞が」と言っている。宅配新聞だけが対象になるということのようだ。面白い事に新聞はほとんどこのことを伝えていない。一部のテレビ局だけが見出しに掲げる程度である。

新聞の軽減税率には政治的な意味合いが強そうだ。控除額はわずか2%なので消費者にはあまり影響がない。しかし、新聞社にとっては政治的なトロフィーという意味合いが強いのだろう。政党のメインターゲットである高齢者への影響力、公明党と聖教新聞との関係などが考慮された結果なのではないかと思われる。

新聞は、表面的には純粋な観察者を装っている。中立で公平だというのが価値の源になっているからだ。人々が新聞を信用するのは、それが「混じりけのない真実」を伝えてくれるだろうという期待があるからだろう。プレイヤーになってしまうと中立公平という神聖な地位から転がり落ちてしまう可能性がある。「私利私欲から事実を歪めている」というのは嫌われる。

ところが、誰が考えても軽減税率の対象に新聞を加えるという選択に公平性はない。新聞は知識の源泉になっていて、それが民主主義を支えているという理屈は成り立つだろうが、スマホやインターネット回線の消費税も軽減税率を適用すべきだ。若年層はスマホでニュースを読んでいるからだ。

また、ジャーナリズムには貴賎がある。駅売りの新聞は軽減税率の適用対象外のようだ。駅売りタブロイド紙は民主主義には貢献しないということなのだろう。週刊誌の権力批判もジャーナリズムとは言えないということになる。記者クラブを持っている新聞社だけが社会的に善とされているのだ。これは新聞はジャーナリズムという役割を手放しましたよという宣言に他ならならない。中国の人民日報や北朝鮮の労働新聞を笑えない。

今回の決定はジャーナリズムの死を意味している。新聞は政府に助けを求めており、伝えないことを通じて世論の印象を操作しようとしている。そのうえ、意見に線引きをして政府と取引をしうる立場にある人たちだけがわずか2%の恩恵を受けることにした。これは談合そのものだ。彼らはわずか2%の税金で魂を売ったのだ。そこに怒りは湧かない。むしろ哀れみのような感情さえ生まれる。かつてのような発行部数を誇っていれば保身に走る必要はなかったかもしれない。

ジャーナリズムとは日々の記録を取ることなのだと強弁するのであれば、またそれもよいかもしれないが、それは政府の広報係のようなものだから、税金で賄うべきだろう。

もっとも、こうした状況を作り出したのは新聞ではなく国民だともいえる。もともと、政党パンフレットが祖先の新聞は党派性が強いものだった。特定の団体の主張を述べたものだったからだ。時には新聞を発行した罪で殺される人もいた。その後、特定の党派に偏らない情報が知りたいというニーズが生まれ、党派のスポンサーシップに頼らない新聞が生まれた。購読料や広告収入が「中立公平」を支えたのである。

新聞が没落しつつあるということは、人々が中立公正な情報を望まなくなっているということを意味する。自分たちで情報が比較検討できるようになったからかもしれない。

また「ジャーナリズムとは権力批判だ」というのも単なる印象に過ぎないかもしれない。政府批判者という役割はかつてはインテリ層のものであり、商品価値があった。しかし、その役割はネットに移りつつあり、かつてより大衆化されてしまった。意外と公正中立性よりもルサンチマン解消の方が「ジャーナリズム」のメインの商品価値だったのかもしれないが、新聞はそうした役割の主役ではなくなりつつある。

ジャーナリズムの死を嘆いてみたかったのだが、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

Amazon PrimeのCMとコンテクスト文化

クリスマスシーズンを前にAmazon PrimeがCMを流している。配送業者らしい見知らぬ男性が何かを唱っている。多分、本国のCMを流用したものではないかと思うが、全く訴求効果がなさそうだ。それはなぜなのかを考えてみた。

アメリカ人は「説明」が大切だと考える。新しいサービスの内容を説明し、その「ベネフィット」を感じてもらおうと思うのだ。そのため、アメリカのCMはベネフィット訴求型が多い。そこで、いきなり女性が出てきてシャンプーの効果について説明を始めるというようなコマーシャルが好まれる。

ところが日本人はベネフィットにあまり関心を寄せない。見知らぬ小太りの男性が何かを唱っていても、それが自分に関係があることだとは認識しないのだ。

日本人はむしろ、周囲にいる自分と同じような人たちがサービスを受け入れているかどうかを気にする。見知らぬサービスを使っていると自分まで「不正解だ」ということになりかねないからだ。こうした周辺情報のことを「コンテクスト(文脈)」と呼ぶ。コンテクストの方がベネフィットより大切なのだ。

このため、日本人では「自分と同じ属性を持っている」人か「自分の恋愛対象になる」人と商品やサービスを関連づけるようなコマーシャルが好まれる。もしくは誰もが憧れる芸能人が使っているところを見せて「あの人のようになれるかもしれない」というような憧れを抱かせる手法もよく取られる。

このため、日本のコマーシャルではよく顔の知られた芸能人が重用される。そのような芸能人は「数字を持っている」とされるので、広告代理店が芸能人にランクをつける。バラエティ番組でもお笑いタレントが実際に大型量販店やファストフード店に行き実際に商品を試してみるような内容が好まれる。お笑いタレントは自分たちと同じだと考えられているので、彼らが使うサービスは「正解」になる可能性が高い。

一方で、アメリカのコマーシャルで芸能人が出てくるのはむしろ例外的かもしれない。「コンテクスト」は商品の本質(ベネフィット)とはあまり関係がないからだ。コンテクストが重要視されるのは高級アパレルや香水などの商品に限られるのではないだろうか。訴求すべきベネフィットが抽象的だからだ。

ハリウッド俳優は「映画の中身」を語りたがる。限られた時間の中で「本質」を語らなければならないと感じるからだろう。一方で、日本人のレポータは、その俳優がどんな人であり、受け取ったプレゼントにどんな反応をするかを知りたがる。周辺情報の方に需要があるのだ。日本人は映画でどのような内容が語られているかということにはあまり関心がなく、どのような人が作っているのかを気にするのだということになる。

こうした違いが思わぬ誤解を生むことがある。よく安倍首相は海外のプレスにちぐはぐな回答をしている。プレスの人たちは物事の本質(政治家の場合は問題の解決策を示すのが本質だと考えられる)を聞きたがっているのだが、安倍首相はコンテクスト(周囲の状況や自分がいかに信頼に足る人物かということ)を語ろうとする。これがちぐはぐさを生み出している。答えを聞いた海外プレスは不満を募らせているかもしれない。少なくとも首相の発言がニュース記事になる事はないだろう。

こうしたちぐはぐさが生まれる原因が政治家にあるというわけではない。日本の有権者がコンテクストを知りたがるからだ。選挙の時期に「支持者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行くとよく分かる。彼らは問題の本質(なぜ、それが起きて、どう解決すべきか)についてはよく知らないし興味もない。にも関わらず「今回のマニフェストがなぜ正解なのか」というコンテクストを語りたがる。

よく、安倍首相は「矢(手段)」と「目標(的)」の違いを理解していないと言われている。しかし、日本型のリーダーの役割はコンテクストと正解を提示することにあると考えられるので、物事の論理的な整合性が取れなくても構わないのだろう。正解さえ決まってしまえば、回りにいる人たちはその正解を自分が好きなように解釈し好きなように取りはからうことができる。

2009年の選挙では逆の現象が見られた。問題の本質は分析されず「政権交代が正義なのだ」というような主張がまかり通っていた。政権交代がなぜ必要で、それがどのような解決策を提示するかということはあまり重要ではなかったのだ。

こうしたコンテクストは「空気」と呼ばれることがある。

このように考えると「日本人は物事を解決できないではないか」と思えてくる。それほど問題解決に重きを置かないのかもしれない。それよりもむしろ問題を文脈に当てはめて「解決した」と見なすのではないかと考えられる。そう考えると東アジア各国の「歴史認識問題」が起きている理由がほの見えてくる。扮装をどう防ぐかということよりも、その事件がどのような意味を持っているのかというコンテクストが重要視されるのだろう。

性的マイノリティとかわいそうな政治家たち

ある地方都市の市議会議員が「同性愛者は異常な動物だ」と言いバッシングを受けた。市議は発言を「酒の勢いだった」と釈明した。今回は練馬区の議員が「やはり同性愛は日本の伝統として受け入れがたい」と議会で質問したことが問題視されている。

これについて、異端視されている「同性愛者がかわいそうだ」という指摘がある。だが、本当にかわいそうなのは、多分指摘をした政治家たちの方だ。

リチャード・フロリダの有名な著作に「クリエイティブ都市論」というものがある。2008年の発表なので、随分と古い本だ。フロリダは社会に豊かさをもたらす「クリエイティブクラス」という人たちを定義した上で、都市が競争力を持つためにはクリエイティブクラスを集めなければならないと言っている。

フロリダが注目したのが、同性愛の人たちの集積度合いである。同性愛の人たちが暮らしやすいということは、その都市がオープンであるということを意味する。クリエイティブな人たちはそうしたオープンな(フロリダは寛容なというような言い方をしている)環境を好むのだ。

東京は世界でも有数の都市なので、クリエティブクラスにとっては居心地のよい都市だといえる。だから、渋谷や世田谷といった地域で同性愛者に優しい環境づくりが行われるのは偶然ではない。有権者がそれを支持し、多様な価値観を許容する人たちが集ってくるからだ。これがスパイラルを形成する。

とはいえ、日本の性的マイノリティがおおっぴらに「私達はゲイなので、先進地域に引っ越しました」などと表明することはないだろう。表に出ている人たちは新宿あたりで商売をしている人たちか、芸能界やファッション業界などで活躍している一部の人たちだけのはずである。故に多様性と先進性の関係は表立っては語られないのではないかと思われる。

一方で、そうした人たちから見放された地域は「古くからの価値観」にことさらこだわるようになる。有権者が古い価値観を持ったヒトたちだから、新しいアイディアが地元から出てくることは期待しない方がいい。彼らは過疎化や競争力の低下などを心配するが、具体的にはどうしていいか分からない。古い人たちが考える「繁栄」とは、せいぜい地方の名産品が売れて、工業団地ができることぐらいだろう。後は自分たちがクールだと思う価値観を外国人観光客に押しつけるのも好きだ。スーツを着たおじさんたちがアニメを売り込んでも全然クールではないが、本人たちは気がつかない。

こうした地域はインドや中国などの中進国と競争せざるを得なくなる。企業を誘致するためには法人税を下げて、自国通貨をバーゲニングし、安い労働力を買い叩くくらいしか選択肢がない。まあ、それも仕方がないことだ。

地方都市の凋落は目に余るものがある。例えば、大阪市長選の状況を見ると哀れさを感じてしまう。彼らの望みはせいぜい「東京並の大都会になり、新幹線を誘致する」くらいのことだ。それすら叶わずに、大企業は市場を求めて東京や海外に流出してしまう。保守的で新しいサービスを受け付けない都市で再先端のサービスや製品を売っても仕方がない。そうした市場では、国で蛍光灯を禁止してLEDを売りつけるくらいがせいぜいだろう。

同じ事は移民にも言える。アメリカの先端都市が優秀な中国人やインド人を使って、ITのデファクトスタンダード作りに邁進していた時期、日本は外国人労働者を「社会保障制度から排除された安価な労働力」くらいにしか扱ってこなかった。そんな国に優秀な労働力が集るはずはない。事実、外国人実習生は次々と「研修先」から逃げ出している。

移民の方にも選ぶ権利がある。シリア難民ですらスマホを使って条件の良さそうな国を選択しているのである。スマホやPCすら使いこなせずNHKしか情報源のない年老いた政治家たちが「あの人たちはかわいそうだ」と思っているとしたら、かわいそうなのは難民ではなく、その政治家の方だと言えるだろう。

政治家が自分の信条を述べる事は別に構わないと思う。しかし、それが後進性のスティグマになってしまうということは考えた方がいい。多分、受け取った人は「渋谷や世田谷区と比べて練馬区って案外遅れているのだなあ」とか「まあ、東京のはずれだから仕方ないか」くらいにしか思わないだろう。

ブログが宗教団体の圧力で消されかけたら

知り合いのはてなブログが閉鎖の憂き目に合った。経緯はよく分からないが、ある宗教団体の犯罪行為(どうやら児童虐待らしい)について書いたようだ。よっぽどひどい嘘を書いたか、本当のことを暴いてしまったのだろう。

どちらにせよ、はてなの側としては「ヤバいものは閲覧停止にしてしまえ」と判断してしまったのではないかと思う。該当箇所を削除するようにというお達しと猶予期間はあったようだ。

これについて、別の識者が「アーカイブを消されるのはひどい損失だ」と嘆いていた。が、それだけ重要なアーカイブならばそれなりにバックアップを取っておく必要があるだろう。はてなブログはMT形式でバックアップができる。これは様々なブログサービス(例えばWordpressなど)で読み込む事が可能だ。

そもそも、はてなブログは無料だ。だから、運営者側の判断で消されても文句は言えない。それでも無料のサービスが使いたいのであれば、海外で運営されている無料のサービス(例えば、Wordpress.comなど)に移行するのがよいだろう。

さらに「ブクマが消えてしまう」のが嫌なのであれば、ドメインを取ってしまうことも一つの選択肢だ。多分、1か月に500円程は必要だろうが、運営者に勝手に消される可能性は低くなるのではないかと思う。サーバーが使えなくなったら、サーバーを移転して、ドメインを張り替えたら終わりである。

残念なことにこの事例は「日本人の生産性の低さ」を如実に物語っている。第一にこうした社会運動は、個々の活動として行われることが多い。なかなか参加者同士の支え合いに発展しない。第二にグループウェアなどを使った動きが出てこない。Twitterで呟き、それをまとめて終わりといった具合である。若年層はLINEでやり取りをしているのかもしれないが、これも閉鎖系なので、運動に広がりが生まれない。

新しい世代のサービスはいくつも出ている。例えば、Googleを使ったサービスが考えられる。まず、Googleグループを作る。これはメーリングリストのように機能するが、履歴がすべてGoogleのサーバーに残るという仕組みである。テーマごとにスレッドを設定して利用するので、後からテーマが追いやすい。問題が起こったら担当者にアサインする仕組みも付いている。もちろん履歴は公開も可能なので、検索エンジン経由で新しい参加者が見つかる可能性もある。

この夏の「落選運動」の時にも思ったのだが、日本の社会運動は連帯が下手だと思う。そもそも団体活動が苦手な人たちが、価値観を押しつけられることに反発していることが多いからなのかもしれない。こうした連帯の下手さ加減は、しっかりと野党に受け継がれている。大切な時ほど、内輪もめを起してしまうのである。

運動家のみならず、日本人はチームプレイが苦手だ。これは一般的な日本人の自己像とは異なるかもしれない。特にセクションが違っている人たちの間の「無関心さ」はかなりのものだ。残業があっても「隣の人を手伝わない」のは日本では当たり前だと考えられている。だから、自分でメッセージを抱え込むメールが重要視される。また、閉鎖した空間でやり取りを楽しむLINEの人気にもつながっている。

こうした特性があるので、グループウェアを使った協動が導入されにくいのだろう。

いずれにせよ恊働の問題を解決しないと、いつまで経っても社会運動が広がりを持つことはできないだろう。すると「NHKがとりあげてくれない」と文句を言い続けるだけになってしまうのではないかと思う。NHKを大勢で囲んでも問題は解決しない。で、あれば問題点を共有する仲間で運動を広げた方が手っ取り早いのではないかと思う。