豊洲の設計の問題は実は他人事じゃないかもしれないなあと思った件

豊洲の件はまだもめているようだ。「東京のお魚の問題だし関係ないや」と思っているのだが、最近ちょっと考えが変わった。

近所に大手レストランの工場がある。最近のレストランは価格を抑えるために工場で調理してから出荷するらしい。レストランでは「レンジでチン」なのだろう。近くのホームセンターに行く道すがらなのだが、油の匂いがしてちょっと気持ちが悪くなる。この工場ではトラックは横付けではなく後ろから荷物を積載するようになっている。その方がたくさんのトラックが収容できて「効率的」なのだろう。

最近、隣の敷地で冷凍ブロッコリをさばいているのを見た。排水設備のない露天で氷漬けのブロッコリをさばいていたのだ。もしかしたら工場の敷地なのかもしれないし、関連業者が周囲に集まっているのかもしれない。排水がないので氷をフェンス越しに捨てていた。

ここからわかることは幾つかあると思う。まず、工場で食品は「できるだけ汚れない」状態で扱われているのだなと思う。冷凍したら美味しくなくなるんじゃないかと思うのだが、スーパーで買う野菜も流通過程で冷凍されていることが多いのかもしれない。

が、設計通りには物事は進まず、例外的な処理を「現場でなんとかしている」状態なのだと思う。土ボコリが立っているところで冷凍ブロッコリを扱うのはあまり衛生的に見えない。もともとは土に生えていたものなわけだから、まあ別に洗えばいいやと思うのだが、冷凍ブロッコリというのはもう洗っているものなのではないかとも思う。後工程でちゃんと洗っていますようにと願うばかりだが、ブラックボックスなのでよくわからない。

あの後ろからトラックを入れる工場を見てから、豊洲関連のツイートを見ると別の感情が湧く。例えば、トラックが横付けできないと雑梱ができないというようなつぶやきを見つけた。小規模の業者の場合、一つのトラックで様々な種類の魚を扱う必要があるのではないかと思った。つまり大量に同じ食品を扱っている業者は後ろ着けでもそれほど困らないのではないだろうか。

そこから考えられる可能性は、小規模の業者と大規模業者では「求めるスペックが違っている」という可能性だ。つまり、都には最初から小規模事業者のことなど眼中にないという可能性がある。

もちろんそれも問題なわけだが別の可能性も排除できない。それは、設計する人がそもそも現場を見ていないのではないかという疑念だ。つまり、設計通りにことが運べば「発砲スチロールの箱から魚がこぼれ落ちることなどない」わけで、エラー処理を考えていないということだ。エラー処理を考えられないのは、現場で誰かがミスをするということを想像できないからなのだが、現場を知らない人が設計したらそうなるに決まっている。設計者が考えるのは発注主のタイトな予算に合わせてできるだけ「効率的な」設計をすることだろう。いちいち「たら・れば」を考えていたら予算に合わせられない。

ブロッコリがどうして露天で捌かれていたのかはわからないのだが「早く処理しなければならないが場所がない」という状態にあって、仕方なく現場の判断で行ったのかもしれないなあと想像してしまう。多分、現場の人たちはマネージメントに苦情を言ったりはしないだろう。文句をいうとクビが飛ぶ(あるいは契約を着られる)可能性があり、それは危険だ。早いところこのブロッコリを片付けてしまおうと思うに違いない。後のことは工場の中の人たちが適当にやるだろうというわけだ。

築地の人たちは「伝統文化を支えている」などと思って仕事するかもしれない。が、現代の食品流通に携わる人たちってどうなんだろうかとも思う。パートや出入り業者の人たちが日本の食の安全を支えているなんていう気概ややりがいを感じているだろうか。でも、それを責めるわけにはゆかない。なぜならば「同じ食べるなら安い方がいいや」と思ってしまうからだ。

素人が何も知らないで、現場の工場に取材することもなく長々と書いてきたのだが、つまり僕の疑問というのは次のような点だ。豊洲の設計がなんとなくまずいということはよくわかったのだが、これは日本の食品流通では割とよく起こっていることなのかもしれないなあと思うのだ。

工場は多分難しいISOなんとかみたいな規格が遵守されているんだろうが、その前工程で何が起きているのかはわからない。「国産は安心」などと思ってしまうわけだが、実はどうなんだろう。

多分、個人的にはあのレストランには行かないと思う。食品が衛生的に扱われているのかよくわからない。だから今回は工場の名前は書かなかった。が、多分加工食品を全く食べないで生活するというのは極めて難しいのではないか。

豊洲の問題を他人事のように眺めて「みんなバカだなあ」などとのんきに構えているわけだが、実はあの暴対なつぶやきの中にかなり危険で私たちに身近な問題が隠れているのかもしれないなあと思った。が、知識がないので「できるだけ関わらないようにする」くらいのことしか言えない。知らないというのはつくづく悲しいことである。どのように扱われているかわからない食べ物を単に「安いから」という理由で食べている僕がバカなのかもしれない。

なぜカンニング竹山は炎上したのか

カンニング竹山さんのこの発言が炎上した。炎上の原因は、森友学園問題で「8億円の値引きは仕方がない」とコメントしたことにあるようだが、原因となった番組を見ていないのでここはなんとも言えない。いずれにしても「政治について語っても生活は何も変わらない」という実感があるのだろう。

このツイートを考えるといろいろなことがわかる。

第一の疑問は、なぜコメディアン風情が政治に口を出したのかということだ。そして、次の疑問は、なぜコメディアンが政治問題をうまく扱えないのかという問題である。

第一の疑問を解くのは実はいさささか難しい。そもそも日本の演劇人は政治とは無縁ではなかったからだ。日本の喜劇にはいくつかの潮流があるのだが、源流の一つは政治をわかりやすく伝えようとした川上音二郎に行き着く。大河ドラマ「春の波濤」のモデルにもなった。これが新劇となり現在にも受け継がれているのだが、大衆化して派生したのが浅草演劇だ。浅草演劇は、萩本欽一やビートたけしといったコメディアンを輩出した。

コメディアンと政治の関係が問題になるのは、実は現在の「お笑い」がこうした伝統から切り離されつつあるからだと考えられる。お笑いが大衆演劇ではなく、プロダクションが運営する「学校」で教えられるようになっているのが切断の理由ではないだろうか。

芸能プロダクションが運営する学校の目的はテレビが必要とする非正規雇用タレントの促成栽培だと考えられる。が、当時のお笑いは、とんねるずに代表されるような仲間内のふざけあいだった。そこでいじめられる「キャラ」が必要とされた。例えば、太っている人やあまり美人でない人を「いじる」と称していじめたり、熱いものを食べさせて苦しむ姿を眺めるのがテレビのお笑いだったのだ。

単にいじめられているだけでは面白くないので「いじる」側のキャラも必要だった。つまり、バブル期以降必要とされたのは、公開いじめを演じるキャラたちだったと考えられる。

ところが、フジテレビの凋落が示すように、こうした公開いじめは徐々に飽きられてゆく。それが単なる仲間内の馴れ合いであるということが徐々に露呈してきたからだろう。テレビで馴れ合いのいじりあいをしているのは「私たちとは関係がない」人たちとみなされるようになったのだ。

つまり、竹山さんのツイートはこの意味でとても示唆に富んでいる。テレビで仲間内の馴れ合いであるいじめを演じる人たちにとって「政治は関係がないや」と考えている。つまり庶民とは違った世界を生きているのである。が、そのように切断された人たちが演じるお笑いが視聴者の共感を得るはずはない。その意味では同じナンセンスなことをやっていても、自分たちとそれほど変わらないYouTuberの方が圧倒的に面白いし、圧倒的にリアルだ。

そこで芸人たちは新しい職場が必要になった。それが政治などを扱う情報系番組である。この背景にも実は同じような構造がある。ストレートな報道番組が見られなくなっているのだろう。報道番組はもともと政治記者たちが主導して作っていた番組だが、彼らが関心を持つのは派閥などの人間関係なので、有権者には全く関係がない。

かといって、虚構のキャラクターを演じる俳優を政治問題を扱う番組に起用するのは危険性が高いし、文化人ではリアクションが取れない。そこで、お笑いタレント程度であれば起用しても構わないと考えたのではないだろうか。が、ここでの問題は「政治問題でも当たり障りなく演じられるだろう」というテレビ局のある種傲慢な思い込みだ。実際には視聴者の気持ちが番組を作るはずなのだが、テレビ局は「自分たちが流れをコントロールできる」と思ってしまうのだろう。

もともとネット文化はラジオと親和性が高い。ラジオはサブカルチャーと見なされているので、少々偏った意見でもそれほど嫌われることはなかった。最初にタレントが政治を扱いだしたのは、多分テレビではなくAMラジオなのではないだろうか。が、これがテレビになると「誰も傷つけてはいけない」ということになってしまう。お笑いには常に誰かを傷つけるリスクがある(が、それを笑いという緊張緩和で統合する昨日もある)わけで、ここに芸人を立たせるのは実は気の毒なことなのである。

改めて考えてみると、普段私たちが政治について語ることは珍しくなくなっていることがわかる。つまり、なぜラジオでしか成立しなかったようなコンテンツがテレビでも受け入れられるようになったのかという疑問が生まれる。 原因は幾つか考えられる。民主党に政権交代するときにテレビ政治ショーを通じて「一般庶民でも政治に口出しできる」という印象を与えた。さらに、安倍政権のデタラメさにうんざりした人たちがTwitterで語り出したという要因もあるのだろう。Twitterには「言語化できないが、何かおかしい」という人が満ち溢れており、常に新しいコンテンツを求めている。

しかしここで問題が起こる。テレビでいじめが横行するのは、視聴者が「自分たちが巻き込まれることはない」と考えて安心してみていられるからだ。これは学校で誰かがいじめられているのを見て他の人たちが「自分はターゲットではない」とホッとするのに似ている。つまり、いじめを見ているうちは、みんなが満足することができたのである。だが、政治的課題にはつねに「対立」と「分裂」がつきもので、スキルなしにはみんなを満足させることはできない。また、当たり障りのないことを言えば、却って両陣営から「相手に組みしている」などと言われることになる。

もし、浅草演劇の流れを汲んだお笑いが生きておれば、権力から直接距離をとりつつ、目の前にいる人たちのリアクションを見ながら、違和感を言語化するというようなお笑いが成立したのかもしれない。笑いには「感情を解放して全体を統合する」という見逃せない機能があるからだ。しかし、テレビ芸人の人たちにはこうしたスキルがなく政治番組への出演も「バイト感覚」なので、対立に直面すると単に引きこもるしかなくなるのだろう。

当たり前のことがとても画期的に見えてしまう千葉市長選挙

千葉市長選挙が盛り上がっていない。現職に対抗する候補がいないのだ。一応、選挙期間中なので公平性のために書いておくと、共産党が擁立した候補と現職の一騎打ちということになっている。この様子を見て、もし自民党がまともだったら革新系の政党はなくなってしまうんだなあと思った。中央で共産党などの革新系がある程度の勢いを持っているのは、実は自民党のおかげなのだ。

千葉市の共産党側は、争点を「学校にクーラーを入れる」ことと「カジノをやめさせる」の2つに絞ったようだ。が、正直「なんでそれなの?」という思いはある。

一方で現職側は市民と一定のつながりをもっていて、いくつかのプロジェクトを走らせたい模様だ。主なプロジェクトには、市中心部の再開発、市役所の建て替え、海岸沿いのまちづくりなどがある。政治家としてまちづくりみたいな大きなことをやってみたくなったのかなあという懸念はある。二期目までの主な仕事は財政の立て直しだったからである。

千葉市長は選挙のたびに約束を立ち上げ、任期中に検証し、一応選挙期間中にチェックして、新しい約束を作るというようなサイクルになっている。この約束をマニフェストと呼んでいる。中央民主党が失敗した手法なのだが、政令市レベルだと一人で組み立てることができるので、これがうまく機能するのだろう。

このことから、共産党というのは今や自民党のおかげで成立している政党なのだということがよくわかる。つまりそれほど現在の政権政党の政府運営はひどい状態になっていると言える。だが政府叩きには2つの欠点がある。

一つ目の欠点は、あまり勉強しなくても政府を叩くのは簡単だということだ。財政の仕組みを勉強しなくても「福祉予算がないのは政府が無駄遣いをしているからだ」といえば、なんとなく立派なことを言ったような気になってしまう。共産党の候補の方は「市長と話をして大規模プロジェクトはよくないという思いを新たにした」と言っているのだが、思い込みが確信に変わってしまうのだろう。

だが、支持者にとってもっと深刻なのは「叩くこと」がもたらす一体感と陶酔感ではないだろうか。共産党をはじめとした野党4党は自民党の悪政を追求するのに夢中になっている。この運動には麻薬のような効果があるように思える。

共産党はモデルにする社会像を持たない。これは東側陣営が崩壊してしまったからだ。ドイツのような社会民主主義も根付かなかったので、核心陣営には政策立案能力がないのだ。それが露呈しないのは、実は自民党を否定さえしていればまともに見えてしまうからである。もし自民党が憲法を遵守しつつ都合の悪いところを変えてゆこうなどと考えれば、共産党はたちどころに崩壊してしまうかもしれない。

実際に自民党政権が安定したのは、憲法や国防といった問題を棚上げにして経済に集中したからだと考えられる。憲法や国防という大きな問題は陶酔感を伴った反対運動にとって「飴」になっているので、これを扱わないことで、若者たちは却って政治に興味を持たなくなっていったのだ。いったん陶酔したからこそ冷めるのも早かったということになる。

その他の革新系の団体も実はあまり選挙には乗り気でなくなっているようだ。原発をなくせなどいう運動は誰も興味を持たないので運動の中心にいられるのだが、市長が積極的にマニフェスト作りを呼びかけると「その他大勢」になってしまうのだ。

千葉市がこういう状態でまとまったのは、財政がかなりひどい状態に陥った上に自民党型の金権政治が「逮捕」という最悪の形で終焉したからである。その後バブルの処理を経て今の状態になった。

現在、国政ではかなりひどいことがまかり通っているのだが、このまま安倍政権が何年か続いた方がよいのかもしれないと思うことがある。やはり「あれはひどかったね」というのが浸透しないと状況は変わって行かないのではないだろうか。

現職の支持者の中には「マニフェストまで作って素晴らしい」などというつぶやきをする人がいるわけだが、実は当たり前のことをやっているだけのようにも思える。これが素晴らしく見えるのはある意味では自民党のおかげであると言える。つまり、自民党が内部から改革してしまうと、多分民進党を含めた革新系は総崩れし「安倍政権はいらない」と言っていた人たちも政治から「手を引く」ことが考えられる。

つまり、中央には自民党があるから革新政党がなくならず、革新政党が政策立案能力を持たないので、自民党が支持を集めるという奇妙な相互依存関係があるのだ。

国政に比べるとまともに見える千葉市政だが、当然問題もある。共産党がプロジェクト管理をまともに学んでいるとは思えないので、例えば市役所の建て替えが見積もり通りに行われているのかをチェックする人たちが誰もいないのだ。

なお自民党側は今回現職を応援しないが独自候補も立てないという方針で臨むようである。基本的に中央の勢いを地方に取り込むという形式の政党なので、中央がガタガタになると地方支部が衰退してしまうのかもしれない。もともと逮捕されてしまった前職を担いでいたという「前科」もあり、独自候補が立てられなかった可能性もある。

日本人が議論ができないのは日本語のせいなのか

前回のエントリーについて、こういう感想をいただいた。

前回言語的なことは避けて書いていたので「ああ、やっぱりここにきちゃうのかあ」と思った。言語論にあまり乗り気ではないのは、これについて考え始めるとチョムスキーくらい読んで言語学の知識を得なければならなくなりそうだからだ。

日本語が議論に向いていないというのは確かなように思える。確かに語順によるものとも考えられるので、最初に検討してみよう。日本語では動詞を先に持ってきて会話を成立させることも可能だ。日本語はマーカーをつけて文法的な地位を表示する言語であり、語順はあまり関係がない。

  • 食べた、俺パンを。

また、パンを見てこう呟くこともできる。

  • 嫌い!大嫌い!

日本語は「何を扱っているのか」を記述しなくても文章が成立してしまう。だから、主題に焦点を当てるのが難しいという特徴がある。英語だとhate! といっても憎しみという単語を連呼しているだけになってしまうので、最低限でもI hate it!と言わなければならない。次にありきたりな文を見てみよう。同僚がおにぎりの袋を持っているのを見てあなたが言った一言だ。

  • 日本語
    • 今日はパンじゃないんですね。
    • はい、パンじゃないです。
  • 英語
    • You don’t eat bread today.
    • No, I don’t eat bread today.

まず、日本語は「あなたのいったこと」は正しいという意味で「はい」と言っている。関係性を意識しているのがわかる。英語は「私(あなた)がパンを食べる」ということを否定している。これが主題だ。さらに日本人は「私が食べる」ということを言っていない。それがわかるのは共通の認識を持っているからだ。この文章を不思議がる人は誰もいないし、類推できなくて疲れたということもない。

一方、英語でもIt’s not bread.とは言えるわけだが「あなたは昼食にパンを食べないのね」という意味は持たない。これは単におにぎりがパンではないということを言っているだけだからだ。多分「何を当たり前のことをいっているのだろう」と思うだろう。You are right!ともいえるが、これは過剰な待遇表現になるのではないかと思う。英語でも相手を肯定して「へつらい」を示すことはできるのだが、通常はそこまではやらない。

だが、それでも「今日は」が持っている複雑さはわからない。こんな事例がある。QUORAにあった「恥ずかしい日本語の間違い」というトピックから抜粋した。「今日かわいいね」と言ったら女性に怒られたというものだ。正しくは「今日かわいいね」と言わなければならないそうだ。

「今日は」には限定の意味があり、主題や主語のマーカーではないのだ。今日はかわいいといってしまうと、昨日はどうだったんだということになる。が文章自体は「今日かわいい」といっているだけであって、昨日のことは特に言及されていない。が日本人はそこに限定の意味を見出してしまい「じゃあ、昨日は」などと思ってしまうわけである。つまり「今日はパンじゃないんですね」という会話には「いつもと違うけどどうしたの」という含みがあるのだ。

日本語は主題を限定しないで会話が作れるので、文章を接続する時に最初の文章と次の文章で主題を変えても構わないということになる。この特徴のために日本語を英語にする時に間違いが起こることがある。実際の英文は忘れたが、こういう文章(ピリオドは1つしかない)を見たことがあった。

日本に投資する、こんな会社がリストされている。

こんな会社とは東芝のことだ。実際には、適切な会計報告をしていない会社を上場させたままにしている東証一部には投資すべきではないということを言っている。元の日本語は「こんな会社がリストされているのに日本に投資する」だろう。多分英語では言いたいことを言わなければならないので、「あなたは東証一部に投資すべきではない。なぜならば……」という文章を言及する必要がある。さらに、文章の主語は統一しなければならないというルールも存在する。

つまり、日本語を英語にするためにはかなりの情報を追加して文章を整理する必要がある。ここで必要な追加要素は次のようなものだ。

  • 主題:あなた
  • アクション:投資する
  • 関係性:にもかかわらず
  • 関係性:こんな会社をリストしているところの

いろいろなものを手当たり次第に見てきたのは、日本語ネイティブの人が日本語の特徴を知るのが極めて難しいからだ。日本語はかなりの情報を補っているということがわかる。

ここまで見てゆくと、日本語が「合理的でない」のかという問題が出てくる。だが、そもそも意識の流れというのは主語を持たない。私という固定された視点があり、そこに入ってきた情報(光、音、頭の中の考え)の流れがとりとめもなく展開されてゆく。午後取り組まなければならない仕事のことを考えていたのに、テレビで政治家の不正のニュースをみながら、お昼ご飯のことを考える人もいるだろう。つまり、思考にピリオドはないので主語もおけない。関心人の焦点があるだけである。

日本語ネイティブの英語話者が、モノリンガルな人の発言を「論理的でない」と感じるのは、翻訳を通じて論理的な文章構成に触れているからだろう。モノリンガルな人もそれを知覚しているはずだが、無意識のうちに行われるのでそれを意識することができないのだと考えられる。

いくつかの論文を読むと、英語は「論理」を記述しているのだが、日本語は「今の話し手の意識の流れ」を記述しているという説が見つかる。さらに、会話の文末をぼかしたり、そもそも言わなかったりということが多いようだ。そもそも日本語の会話の半数が「述語を持たないという観察もある。主語も明確でなく述語も持たないのだから、その会話の目的は何なのだろうかということになる。つまり、これは日本語の会話がそもそも叙述を目的にしていないのではないかと予想できるわけだ。

ここまで長々と書いてきたわけだが、ここまで見てきても日本語が何の情報を交換しているのかということはよくわからない。

冒頭の書き込みに戻る。否定的な書き込みが必ずしも反論になっていない理由は、多分そのトピックそのものが関心の焦点ではないからだ。つまり、トピックはどうでもよいということになる。ではどうでも良いことになぜ噛み付くのかという問題が出てくる。

経験的に思い当たるのは、発言した人(Aさん)の人格を否定しているという可能性だ。会話の術部を省略して相手に決めさせることが「待遇」になっているわけだから、逆の待遇も有り得る。異議を申し立てることで関係を記述しているのだから、主題がずれても構わないのだ。普段の生活の中ではBさんは、語尾をぼかして相手に決めさせているのかもしれない。

お前個人の意見なんか聞いちゃいないんだよ……

英語でQUORAというQ&Aサイトがある。ここでは、実名で比較的まともな議論が行われている。ちょっとした焦りとともに、どうやったら日本語で建設的な議論ができるのかを考えた。だが、結果的には「日本人と議論するのは無駄だな」という結論になったので、書くことは何もないのだが、一応、考えた過程をまとめておく。

正確には、英語圏で数年以上の経験を積んだことがない日本人は建設的な議論の空間からは排除すべきだというのが結論になった。多分、中国語圏の人も大丈夫だと思うのだが、中国語の経験がないのでよくわからない。

英語圏には個人が意見表明を通じてレピュテーションを確立できる場が複数ある。一方、日本のQ&Aサイトはあまりまともにならない。最近ではYahoo!のコメント欄が匿名で荒れているという話がある。英語圏では個人が専門知識を披瀝することがその人の信頼性を増すという考え方があるのに比べて、日本にはそうした認識がないからであると考えられる。

劣情を匿名でぶつけ合うのが日本のインターネット議論の特徴だ。議論の場というのは基本的に荒れ果てていて、その中で喧嘩に強い人が生き残ってお金をもらって叩き合いをするのが日本の言論ということになっている。言論は「リアル北斗の拳」状態なのだ。

この違いはかなり大きい。英語圏では自分の知見をブラッシュアップしたり、逆にいろいろな人から知識を得ることができる。知識はネットワーク状に形成されるという特徴があるので社会全体の生産性が上がって行く。一方、日本人は同じガムを噛み続けるように知識が陳腐化して世界から取り残されてしまうというわけである。日本人は教育というと大学教育ばかりに着目するがこれはとても愚かなことである。

が嘆いてばかりはいられないので、原因を探ってみることにする。だが「どうして日本人は公開の場で意見表明しないのか」を考えると、途端に壁にぶつかってしまう。かろうじていくつかの特徴があるなと思ったが、どうしてそうなってしまったのかがよくわからない。つまり、対策の立てようがないのだ。

一つ目の特徴は「意見表明」が儀式になっているという点だ。日本人は集団間の調整でものをきめるのだが、形式的にリーダーが決めたことにすることが多い。つまり「リーダーに花を持たせる」のである。だが、同時にリーダーが一人勝ちするのを嫌う。

例えば最近の例では、安倍首相が個人の考えとして「憲法改正は第9条の追加と教育から」などといって自民党の中が大騒ぎになってしまった。安倍首相ですら祭り上げられる存在なので、個人として意思決定のコンペティションに参加することができないのだ。安倍首相の「力強い決断」はすべてアメリカからの圧力によるものであることがわかってきている。自民党の中に「アメリカに逆らうとマズイ」というコンセンサスがあり異論がでにくのだろう。意見表明は「あやしあい」の道具になっており、実際の意思決定とはあまり関係がないということだ。つまり、公開の場で意見を言ったり聞いたりしてみんなで決めて行くということがありえないのだ。

日本人の意思決定のメカニズムはよくわからないが、外から自民党の様子を見ていると派閥間の利害調整が意思決定に大きな役割を果たしているのではないかと思われる。つまり数が大きな影響を持っている。が、派閥は「持ちつ持たれつ」の関係を持っており、単にいうことを聞いているわけではないのだろう。

ここから想像されるのは、かなり固定的な人間関係がないと日本人は意思決定ができないということだ。自民党末期「麻生降ろし」が行われたが、これは「選挙に負けてしまう」という焦りが背景になったものだった。つまりベネフィットが得られないということがわかると、途端に何も決められなくなってしまうのではないだろうか。

日本人は徹底して個人の意見を嫌う。会議などで「それはお前個人の意見だろう」と言われたことがある人は多いのではないだろうか。集団の意見というのは個人の意見の集約のはずなのだが、個人が意見を直接表明すると嫌われる。いくつか理由が考えられる。リーダーでさえ個人の抜け駆けは許されないのだから、普通のメンバーが意思決定に大きな影響力を与えたとみなされるのがまずいのだろう。さらに、会議の場では「みんなが納得し」て「誰も傷つかか」ず「リスクが全くない」意見が求められることがある。それを求めていつまでたっても結論が出ないということはよくある。つまり利害調整が出来る時には裏で物事が決められるのだが、それがないと何も決められなくなってしまうのだ。

集団が説得力を持つという例を見つけるのはそれほど難しくない。例えばニュースショーのコメンテータは、ある集団に属していたという属性が説得力の源泉になっている。「元読売新聞の誰々さん」とか「時事通信社特別何とか委員のだれそれさん」というのがそれにあたる。就職の選抜も「今年は東大生を何人とMARCHから何人」という割り当てがなされることがある。これは東大というのが能力の指針として利用されているからだ。が、面白いことに「オリンピック金メダリストのだれそれさん」であっても、いったん集団性を帯びてしまえば政治問題についてコメントができることになっている。

このように考えると、日本人の公開議論は意思決定とは別の機能を持っているのだということがわかる。例えば「待遇」や「仲間の選別」であると考えらえる。つまり日本人は意思決定のために議論することはほとんどないのだ。

人がおとなしく振舞うのは、社会的なふるまいがある利得をもたらすからだ。You behave because of their reputationという英文が先に浮かんだが、日本語に訳せなかった。日本人は公共の場で良い評判を得るために公開の場で適切に振舞うということがないからだ。さらに社会貢献が感謝されるという背景がある。(His/ her social contribution counts.)

こうした社会的な認識はQ & Aサイトが適切に運用されるためにはとても重要なのだが、うまく訳せないのは、日本人がそもそも社会貢献や自分が参加して社会を建設するという意識を持っていないからだろう。利害調整は人から隠れて、テーブルの下で行うべきことなのだ。

建設ができないのだから、あるものの中で収まるか、破壊するかしか道はないということになる。右派左派ともに誰かのコピペの意見が多く新しいアイディアが得られないことはよくある。これを不思議に思っていたのだが、実はコピペこそが日本人にとって議論の目的なのだろう。つまり、「意見表明」は所属集団への帰属表明であって、西洋でいうところの意見表明や知識の交換ではないからだろう。

ということで、日本語で意見を求めたり、Twitterに健全な議論を期待するのは最初から意味がないという結論になった。特にTwitterには決まった構造はないので、いつまでたっても構造は作られないので、別の目的に用いるべきだということがわかる。社会的な圧力を顕在化させたり、地震などの時の情報インフラとしては有効なので、うまく活用すべきだと思う。

砂漠化する政治議論

面白いツイートを見かけた。選挙を控えている熊谷千葉市長がツイッターで絡まれている。もともとは零戦が復活するという話なのだが、これに「零戦=日本軍=悪」という人が絡んだ。それに対して、共産党にも反省すべき歴史があるが共産党が全面否定されるわけではないですよねと返したところ、熊谷市長は共産党とソ連の関係を知らないと非難されたのだ。

唐突に共産党が出てきたところには違和感があるのだが、今度の市長選挙の対抗勢力は共産党しかなく、選挙がらみだと考えたのかもしれない。が、全体としては他愛もない話でしかない。

面白いことに、このところ熊谷千葉市長はツイッター上で「炎上」しているらしい。どうやら「政治家=右翼」という図式があるらしく、ジェンダー系の話を「右翼の人権侵害」みたいに捉えているらしいのだ。この話が面白いのは、千葉市で熊谷市長が置かれている状況と部外者の印象がかなり異なっているという点である。

もともと千葉市は自民党を中心に金権政治が行われていたところであり、民主党から出た市長は若くてリベラルだという漠然とした印象がある。が、こうした文脈は千葉市以外には伝わらないのだろう。そこでいろいろな人が自動的に個別のツイートに噛み付くという状態になっているようだ。政治家の発言にアレルギーを持つ人が多いのだろう。いずれにせよ、千葉市には対立候補を擁立する政党は共産党以外にはなく、こうした炎上は政治には何の影響も与えないのだ。

こうした部外者が政治問題に口出しをするケースはもはや日常化してしまっている。日本人が政治に関心がないというのは嘘だろう。この構図は豊洲問題にも見られる。豊洲問題は日本人がなぜプロジェクトをまともに扱えないかというケーススタディーとしては面白いのだが、所詮は東京都民の問題である。にもかかわらず全国各地の人たちがツイッターで「参戦」してきて、落とし所がない「議論」を繰り広げている。つまり、なんだかよくわからないが部外者が「気軽に政治的な話題に参入してきて落とし所がないままで相手の人格を否定しようとする」ということが常態化しているのだ。

もちろんこれは日本だけの問題ではない。例えばアメリカでは政治的騒乱は必ず暴動に発展する。窓ガラスを割ったり、商店を略奪したり、車を転倒させたりするようなことが行われるわけだが、これは政治的議論にある程度の知識や技術が必要とされるので、それができない人たちが騒ぐのだ。日本では政治的議論がこうした「暴動」の場になりつつあると言えるだろう。

こうした状況は幾つかの理由により建設的な議論にはつながらない。例えば自民党には熱心な「サポーター」が大勢いて日夜宣伝工作を繰り広げている。が一方で会費を払って党員になる人はそれほど多くはないらしい。一般党費は4000円でしかない。これはお金をもらってTwitterに悪口を書き散らしている人は多いが、お金を払って政治家をささえようなどという人はいないということを示唆している。お金をもらって暴れる人や、お金はもらえないがなんらかのベネフィットを求めて体制擁護の意見を書き散らしている人は見かけるが、議論に参加しようという人はいない。

建設的な政治意見をいう人はいないのだが、ちょっとした政治的な意見表明すらできなくなっているらしい。政治的意見を公的にいうことは「危険だ」という空気が生まれつつあるようだ。

共産党の機関紙「赤旗」によると。政治コメディーを扱うザ・ニュースペーパーは森友問題をテレビでやれないということである。高市早苗総務大臣が「停波をほのめかす発言」をしてからテレビ局が萎縮しているのだろうというような分析になっている。前回、ザ・シンプソンズを引き合いに出してテレビで政権批判をしても別に生死に関わることはないと書いたわけだが、正直なところそれは間違っていたのかもしれないとすら思った。ザ・シンプソンズはトランプ大統領をかなり批判的に書いているが、トランプ大統領に近いFOXのコンテンツだ。

そもそも、どうしてこのようなことが横行することになったのだろうか。こうした空気が広がったのは、安倍政権が国民の声を聞かなくなった頃からだ。「決められる政治」を標榜して、どんどん物事を決めてゆくのだが、説明がめちゃくちゃで、議論をするつもりはないらしい。最近では「そもそも」という言葉の使い方を巡って騒動が起きている。憲法の解釈もめちゃくちゃなら、言葉すらデタラメということで、議論が全く成り立たない。さらにマスコミを恫喝したのでまともな議論が表舞台から消えてしまった。

日本人は政治的な意見表明のロールモデルを持たなくなったので「脊髄反射的に相手の人格攻撃をする」ことが政治的な意見表明だと思い込むようになったのだろう。恐ろしいことにこれが拡大再生産されて、政党の議論すらおかしくなりつつある。

公の場で相手を否定せずに意見をすり合わせてこなかったツケは実はかなり大きいのではないだろうか。誰も決まったことに責任や愛着を持たないのに、社会を支えて行こうという気持ちになれるはずはないからだ。「政治的な意見表明が行えなくなったら安倍が戦争を起こす」ということはないだろう。が、国民が政策決定に関わらなくなれば民主主義は内側から壊死してしまうのだ。

知らないともったいない工芸茶の飲み方

工芸茶というお茶がある。中国茶の一種で中に花が仕込んであるというやつである。が、もったいない飲み方をしていたなあと思う。最初の1つはコーヒーを入れて持ち運ぶやつにいれて飲んだ。まあ「濃いお茶」という感じだ。中国茶なので3回以上は楽しめる。

が、ちょっと気が変わってガラスの器に入れて飲んでみた。正直、中のドライフラワーみたいなやつが見えるんでしょみたいな感じだ。なんでフタがついてるんだろうと思ったのだが、まああるんだし使ってみようと考えた。

花が開くのを待ってふたをあけると「ふわ」っとお茶の香りがしてくる。ああ、中国茶って香りを楽しむもんだったんだあと思った。最初に入れた容器はふたがついていて細長い穴からすするようになっているので香りに気がつかないのだ。

ウェブサイトを見るといろいろなことが書いてあるのだが、要するに沸騰点のお湯よりも少しさめたものを使い、じっくり蒸らして飲めみた異なことが書いてある。これ、香りを楽しむためのものだったんだなあと改めて思った。当たり前だが、香りは初回が一番高い。

知らないって恐ろしいことである。

決めたことはみんなで守らなければならないが、決める時に責任を持って議論に参加しなければならない

クールビズの温度はなんとなく決まったので科学的根拠がないという話が出ているそうだ。自民党の人たちは民主主義というものを根本から理解していないのだなと思った。正直、もううんざりだといいたいのだが、「え、なんで怒っているの」ということになりかねないので、説明してみたい。

大人の世界ではみんなで決められたことには従わなければならない。そのためには自分の考えが違っていれば「違う」と言わなければならないし、わからないことがあれば「わからない」という必要がある。

誰でも(ずけずけものをいうアメリカ人などでも)嫌われるのは嫌だから、議論の全体が一定の方向に流れている時「私はわかりません」とか「それは違うと思います」というのは勇気のいるものだ。だが、それでも意見をいうのが大人というものなのである。

実際には「許容範囲の温度」を17度〜28度と法律で決まっているので、その上限にあたる温度を設定した(つまり高い目標を立てた)ということである。前段になる法律は随分と前に作られたものなので、それに妥当性があるかというのは議論のあるところだろう。エアコンの設定温度ではなく室温(実際の温度)が28度になるように調整するということもあまり知られていない。

今回「28度は高すぎるのでは」と言った人たちには男が多かったのではないだろうか。男性は夏でも無駄に暑いスーツを着てネクタイを締めたがるので、室温を高く感じるのだろう。女性との間で「エアコン論争」が起こるのも珍しくない。当時の責任者が女性の大臣だったということもあって、その時には文句を言わないのにあとからグダグダと「いやああれには科学的根拠はないんですよ」という。こういうことをいう人は議論に責任を持って参加していないことになるし、多分責任を持つ気もないのだろう。

嫌われたくないという理由で何も言わなかったのなら、そのあともずっと黙っていろよと思うのだが、こういう人に限ってあとになって「聞いていなかった」とか「納得していなかった」などと言い出す。

こういう人たちはそもそも「みんなで納得して決める」ということができないので、審議時間=議論の質ということになってしまう。最近の大切な議論は全てこんな調子で常に「真剣に考えた結果納得ができていない」という人たちを置き去りにすることになってしまう。

民主主義の危機だと思うわけだが、自民党のこうした態度は民主主義以前に大人としてどうなのかと思う。副大臣どころか政治家を辞めてしまうべきなのではないだろうか。この副大臣は比例復活ということだ。

自民党議員の姑息さは多分日本人のこうした無責任さに裏打ちされているのだろう。そもそもGHQに恩赦されて政治家として復帰しておきながら「あの憲法には納得していなかった」という人の子孫がトップにいるのだから当然といえば当然かもしれない。多分家の中でぐちぐちと「本当はGHQにこびへつらいたくなかった」と女々しくつぶやいていたのではないだろうか。それが娘を通じて孫に伝わり、いつしか「おじいさまの悲願」となり、政治的リソースを食いつぶしている。1日も早くこんな日を終わらせることはできないのだろうか。

 

犬の介護計画を立てる

犬がまた倒れた。いろいろドタバタだったのだが、苦労話を書いても仕方がないので「第三者が果たすべき役割」についてまとめておきたい。犬の介護を経験する人は多くないとは思うのだが、いろいろな危機管理に役に立つかもしれない。大切なのは次の4つだ。意外と障害対応とかプロジェクトマネジメントに似ている。

  • 問題を特定する。
  • クリティカルパスを特定する。
  • スキルを特定する。
  • 現象を観察する。

最初に犬が倒れると心理的にペットに近い人はパニックを起こす。後になって聞いても何の病気だか「聞いたけどよくわからなかった」という。獣医は説明しているはずなのだが頭に入ってこないのだろう。脳の病気だとか神経がどうとか繰り返すばかりで、脳卒中みたいなものかもなどという。だから、まず大切なのは、間に入って病気について再度説明してもらうことだった。そこで聞き返して初めて、相手(獣医師)も説明が足りなかったことに気づいたらしい。図表を出して内耳の近くにある脳の部分(前庭)が障害を起こしているのだと説明してくれた。相手はプロなので詳しく聞けばそれなりにわかりやすく教えてくれるのである。耳の神経部から入って炎症が起きるのだが、障害するのは脳の一部である。

問題が特定できれば後で調べ物ができる。おいおい述べるように情報が即座に役に立つわけではないが知識を仕入れることは重要だ。さらに、どの程度治る病気なのか、どういう経過をたどるのかということがわかる。脳の病気なので完全にはよくならないらしく、これはこれで落胆してしまうのだが(正直、もう前みたいに元気にならないという現実を突きつけられるのはかなりショックだ)が、やはり情報収集は大切である。

病気の急性期には症状が刻々と変化する。大きな声で暴れるので「痛いのではないか」と思ってしまう。しかし何もできないわけだから、一睡もせずに付きそうみたいなことが対応策になってしまう。そこで「とりあえず目標を決める」ことが重要だと思った。とはいえ当事者は慌てているし、獣医は「患者がどこまでわかっているか」ということがわからないので、意外と情報は伝達されない。そこで「とりあえず、当座のことを決めよう」と宣言してみた。すると獣医は「とりあえず、落ち着くかどうかみてみましょう」という。ここからようやく話が進み出した。最初のクリティカルパスが決まったのだ。

こうしたキーになるイベントを集めたものをクリティカルパスと呼ぶ。正確なプロジェクト管理用語には細かい定義があるのだと思うが、大体の意味は伝わるのではないかと思う。まず落ち着くかどうかを見る。落ち着くと水を与えられるようになる。これを栄養剤などに切り替えて、最終的に流動食まで持って行くと、薬を飲ませることができるようになる。すると症状が落ち着くわけである。一つ点が決まると、次の目標が決められる。こうして流動的ながらシナリオを決めることができる。重要なのは、シナリオが「不確定要素」を含んでいるので、意思決定のための判断ポイントを作るのが重要という点だろう。チェンジマネジメントなどだとここに「現場の反乱」などが入ったりするようだ。つまり「不確定要素」と「リスク要因」について考える必要がある。ということで、今回の介護計画はリスクマネジメントがあまり必要ないので楽といえば楽だ。が「暴れたら連絡してくれ」と言われた。つまり対応を間違えて状況が激変することが唯一のリスクということになる。

開腹が望めない病気なのでパスなんか決めても疲れるだけのように思えるのだが、実際にはこれがとても重要である。なぜならば、パスが決まるとスキルが特定できるからだ。スキルには「動けない犬に水や食料を与える技術」とか「薬を与える技術」などが含まれる。さらに、何に驚いて鳴いているのかということがわかるので、環境を整えることができる。獣医師の話だと触覚刺激に極めて敏感になっている(目も耳も遠くなっていて、なおかつバランスが取れないという状態にあり、暗闇に閉じ込められている感じになっているということである)ようだ。ということで安静にできて障害物がない環境を準備する必要があったのだ。

事前にパラパラと情報を集めておいたのだが、この時点では体系化されていない。そこで「水を飲ませるためにはどうしたらいいのか」を聞いてみた。スプーンで与えるとか脱脂綿に含ませるなどのアイディアが介護する側から出たのだが、正解は注射器の針のないもの(シリンジというらしい)を使って水を飲ませることらしい。どうやら獣医師も質問されるまで、この道具について教えればいいということを失念していたらしい。だから、言われたことを覚えるだけでなく、質問することが極めて大切なのだなと思った。「わからない」というのは立派な情報なのだ。

犬が暴れるので入院させていたのだが、実は水を欲しがって吠えていたらしい。これがわかったのは犬を観察したからである。舌をぴちゃぴちゃするので水を与えるとかなり激しい勢いで飲んだ。事前にシリンジをもらっていたので水を飲ませることができた。

本を読んだり先生に何かを教えてもらうと今度は知識で頭がいっぱいになってしまうのだが、やはり目の前にある現実をモニターするのは大切なようである。水を与えないでしばらく見ていると鳴き出すので「水が欲しいのに飲めない」が「動こうとしても動けない」という状態になっていたようである。そこでもがいているうちに頭が隙間に入って、最終的にパニックを起こしていたのだろうという仮説が立てられる。状況を整えたら暴れなくなったので仮説はある程度確かめられたようだ。

原因がわかると対処できるので心理的には少しだけ楽になる。こうやって少しずつ知識を蓄えて行くことが重要なのだろう。

第三者的な目で見ると「自分が冷たい人になってしまったのではないか」と感じられてしまい、実はあまり愉快な経験ではなかった。当事者意識が薄いのではと思われそうだし、真剣になっている当事者から見ると「しゃしゃり出ている」と思われる危険性もある。

がやはり当事者だけになってしまうと「伝えたつもり」とか「わかっているつもり」になりがちなのようだ。獣医師(伝え手)は延々としゃべり、介護する側(受け手)それを聴きながすという構図である。で、様子を見ながら情報を整理する人が必要なのだなと思った。家族や近所で第三者的な目が確保できればよいのだが、社会が介入しなければならないケースもあるのだろうなと思う。また介護のような現場ではなくても、プログラミングの障害調査や社内調査などでも第三者が介入することでコミュニケーションが円滑になることがあり得るのではないかと思った。

犬はようやく落ち着いて眠っている。よほど喉が乾いていたのだろう。

 

 

 

日本に政治風刺のお笑いがないのはなぜか

高橋英樹という放送作家の人が政治風刺について書いている。これを読むと日本でなぜ政治風刺が起こらないのかということがわかる。これは高橋さんが持っているある欠落によるものだが、多分日本人が普通に考えるとこういうことになってしまうのだろう。つまり日本人にはある感覚が欠落していることになる。

アメリカの政治風刺にはいくつかの種類がある。例えばシンプソンズのような漫画や夜の枠のショー番組などである。わかりやすいのでシンプソンズを見てみよう。絵を見ているだけである程度楽しめる。

シチュエーションは簡単なので細かいことがわからなくても楽しめる。ヒラリーとトランプのどちらが大統領にふさわしいかわからないので不眠になっている。

キーになるポイントはトランプ大統領が夜にツイッターをしているということをみんなが知っているという点だ。大統領は激務なので夜中に電話がかかってくるかもしれない。だから「トランプの方がいいのでは」という展開になる。

「髪型が不自然だ」とキャラがいじられてはいるのだがそれは副次的なものである。つまり、言いたいのは「普通の人は寝ている時間なのに、トランプは起きていてみんなを振り回すだろう」ということである。ベットには危ない思想の本が置かれていて、中国との間に壁を建設しろなどと言っている。当然壁は海に建設されることになるだろう。

つまり、一般常識とずれている「めちゃくちゃさ」が面白みを生んでいるのだ。これを積み重ねて周りが振り回されるとドタバタコメディーになるし、Stand upコメディーに仕立てることもできる。しかしStand upの場合にはお客さんのレスポンスが欠かせないだろう。つまり、Stand upはお客を統合するためのオーケストレータとしての役割をコメディアンが担っていることになる。

要約すると、政治風刺を笑えるためには「普通の人は夜は寝ている(もしくは〜している)」という一般常識を見ている側が共有していなければならない。これは一般常識から政治的な感覚にも及ぶのだが、地続きになっている。このずれを際立たせた上でキャラをかぶせて「ああ、あの人だ」と特定させるという筋立てなのだ。

高橋さんの文章に戻る。例示が全く面白くないのは「森友学園」そのものの面白さはせいぜい籠池夫妻のキャラくらいのものだからだ。森友事件が「面白く」あるためには、例えば周囲の常識と政府答弁がずれているということを認識する必要がある。何か都合が悪いことが起こると「書類をなくしたことにする」人は多分笑いの対象になるだろう。

こうした差異が感知されないということになると、いくつかの仮説が考えられる。

高橋さんという人が「常識に照らして政治を見たことがない」というのが最初の仮説で、次の仮説は「そもそも高橋さんが政治についての感覚を一切持っていない」というのが次の仮説である。どのような背景の方はわからないのだがBLOGOSにコラムを転載されているということは多分それなりの重鎮の方と思われるので「日本のお笑い界は政治に対して常識的で世間と共有できるような政治感覚を持っていない」ということがわかる。

高橋さんはこれ以上やると命がけになると言っている。が、シンプソンズが命がけでこれをやっているとは思えない。単に「夜中におもいつきであれこれ言っているけど、この判断って冷静なのか」と言っているだけである。

例えばこれは100日後のホワイトハウスのドタバタぶりを描いたスケッチだが、トランプ大統領は何も達成していないのに本人は大満足だということが面白おかしく描かれている。シンプソン一家ももともと移民(ネイティブアメリカン以外はすべて移民だから #1)なのだが「どこからきたのか覚えていないけど本国に送還される」ということになっているようだ。

#1. Wikipediaによるとエイブラハム・シンプソンは軽い認知症を患っており先祖が誰かという話がいつもめちゃくちゃであるというキャラ設定になっているらしい。

 

高橋さんが「政治批判は思い込みだ」という背景には少し深刻な事情があるように思える。

日本人は話し合いを嫌うので「全面的に従う」か「相手を全否定するか」ということになりがちだ。つまり、政治批判はそのまま政権打倒運動につながってしまうというゼロイチの思考があるのだろう。もともと、古い世代に学生運動的なラジカルなものが政治批判であるという思い込みが残っているからだろう。異議の申し立て=人格まで含めた相手の全否定なのだ。

ゆえに、日本のお笑いの主流は弱いものをみつけていたぶること(イジるという専門用語もある)になる。弱いものを全否定しても誰も危険を感じない。いじめられる人もそれでお金がもらえるので「おいしい」と考えてしまう。ゆえに、お笑いが政治を取り扱うと弱いものいじめになってしまう可能性が高いのではないかと考えられる。人民裁判で推定有罪になった人たちや明らかにブサイクな人などを全面的に叩いて人格否定するのがお笑いなので、政治に対してこれを行うと確かに命の危険を感じるかもしれない。

以前、日本のリベラルは民意を統合する役割を放棄していると書いたのだが、笑いにもちょっとした違和感を統合する役割があるはずだ。これを果たせないのは、日本人がそもそも協力を嫌っていて同僚を信頼しないので、自分たちより弱いものをいたぶって開放感を感じることだけを「安全な笑いだ」と認識しているからではないかと考えられれる。これを学校で真似をするので日本からはいじめがなくならないのかもしれない。が、重要なのは世論を統合するようなオーケストレータとしてのStand upコメディアンが出てこないということだろう。ゆえに日本では関係性を作って2人以上でコメディが行われ、観客は傍観者として関与しないで眺めるのが主流になるのだ。

こうした状況は安倍首相のような意味を解体する人には好都合だ。有権者の側に意味を統合され「あの人むちゃくちゃだなあ」と言われると権威は即座に失われてしまうのだが、がテレビや新聞も官邸のいうことを垂れ流すだけで誰も意味の統合を行わないので、好き勝手ができてしまうのである。現在はGHQが<押し付けた>憲法だけが日本の民主主義を統合しているのだが、これもまもなく解体されてしまうのかもしれない。