働き方改革を論じたければバラバシを読もう

昨日は「プログラマーとして成功したければ海外に出るべきだ」と書いた。賛成してもらえたかどうかは全くわからないが読んで頂いた人は多かったようだ、なんとなく「ああそうだな」と思った人もいるだろうし、反発した人もいるかもしれない。日本はもうだめだと思っている人は「やっぱり日本はダメなんだ」と考えてなんとなく安心感を感じたかもしれない。

観測としてはただしそうだが、少しだけ理論的に考えてみたい。理論が話からければ批判もできないし、対応策も見つけられないからだ。

収穫加速という理論がある。発明はさまざまな基礎技術に基づいて成立するのだが、基礎技術が充実すればするほど、あるアイディアが現実化する時期は早まるという理屈だ。こうしたことが起こるのは、知識がネットワーク状に連携しているからだ。

このように、ネットワークの価値は点の数と点の結びつき(線)の数によって決まる。やみくもに広がっているネットワークには、実は中心と周縁があり、中心にいたほうがなにかと有利になる。

例えば、ITの場合は日本語で得られる知識は英語で得られる知識よりは少ないはずだ。ここで重要なのは、その有利さはプログラムの価値だけに止まらないということだ。効率的なプログラミングができる人がいると企業の生産性が向上する。企業は有利に競争できるのだから、英語で情報が取れる会社のほうが勝ち残る確率が高まる。良い顧客が残ると、プログラミングの会社はさらに良い顧客に恵まれることになる。するとプログラマの給与が高くなり、さらによいエンジニアが集まる。よいエンジニアが集まるとその周りには学校が作られ、よい先生が集まり、収入アップを目指す生徒が押し寄せるという具合である。

こうした「中心と周縁」の形は日本人が考えるものとは違っているかもしれない。日本人は中心と周縁をピラミッド状に捉えることが多いのではないだろうか。例えば自動車産業は顧客網を持っている大手メーカーがトップに立ち、その裾野に多くの部品産業が集積するという形をとっている。また、広告代理店はテレビ局の枠を買っているので、他社よりも安い値段で広告を売ることができるし、テレビ局も顧客を握っている広告代理店を頼らざるを得ない。

ピラミッド型の場合、知識は頂上に蓄積されてあまり流通しない。例えばマクドナルドやコカコーラの収益の秘密は本社が握っていて、周縁の人たちの賃金はあまり高くない。

しかし、プログラマの場合そうはいかない。知識はネットワークのそのものに溜まっている。具体的にはプログラマ個人とそのつながりである。その「すべり」をよくするためには、粒をそろえておく必要がある。つまり最低賃金でプログラマを使い倒すようなことはできない仕組みになっている。

日本では「最低賃金を1500円にしろ」という運動はあるが、技能労働ができるような職場やフリーランスの環境を用意しろというような運動は行われない。それは労働者自身が自分たちが最低賃金で働くだけの技能しかなく、それ以外の職業機会もないということを認めていることになる。だれもが中心になれるわけではないので、当然ながら数としては、周縁の人たちが目立つことになる。

一方で政府の側も政策的に最低賃金の仕事を量産している。アベノミクスを労働の側面からみると正規雇用を非正規に置き換えて行くという動きなのだが。これはバブル期以降の企業のマインドがそうなっているからだ。収益が見込めないので人件費を削るしかないと考えているのである。これが足元の労働市場を荒らしている。イオングループはアベノミクスは幻想だったと言い切り、自社ブランド製品を値下げするそうである。収益の悪化は従業員の賃金に影響を与えるはずだ。

官僚や政治家の情報源は、旧来型の製造業と運輸や小売などのサービス業なので、知識ネットワークが競争力の源泉になるような職業を念頭においていないのだろう。

今まで見たことがない現象を理解するためには、表面の制度(例えば高度技能移民を増やすとか、最低賃金をあげるというような類だ)を見るだけではだめで、その裏に何があるのかを理解する必要がある。

とても難しそうに見える「ネットワーク」の振る舞いだが、2008年ごろに「複雑系」として話題になった。中心にいるのは、ダンカン・ワッツやバラバシなどである。ちょうど、労働の国際間移動が経済を活性化すると言われていた頃である。

なんとなく話だけきいても良く分からない複雑系やネットワークの議論だが、基本的な考え方が分かりやすく解説されている。

「各国では移民の制限が始まっているではないか」という声が聞かれそうだが、高度技能移民を使って産業競争力をあげた国々と、そうでない日本では状況が全く異なる。いわば周回遅れを走っているわけで、同じ土俵で議論することはできないのではないだろうか。

このネットワーク理論は例えば「なぜベータはVHSに負けたのか」という考察にも使える。クリステンセンなどが「バリューネットワーク(リンク先はITメディア)」という理論を使って説明している。これも応用編だけ読むと「なんとなくそういうものかなあ」というだけで終わってしまうので、理論的なところを読んでおくといろいろな考察に使えるのではないだろうか。

百田尚樹という割れ窓

百田尚樹という作家が「朝日新聞の社長を半殺しにする」とツイートして世間の反発を買っている。これを読んで「どうしようか」と考えたのだが、とりあえず世論に同調することにした。

考え込んでしまった理由は、もし「百田尚樹は目の前から消えろ」という声に同調すると、自分にも戻ってくる可能性があるち考えたからだ。世論が「何が正しくて何が正しくないか」を決めて反論も許されないというのはあまり愉快な体験ではないだろう。

では、百田尚樹的なものがこのままTwitterに残ってもよいのだろうか。それを考えるためには、そもそもTwitterが何のために存在するのかを考えてみる必要があるだろう。

つい忘れがちになりそうになるのだが、Twitterは営利企業で、その収入は広告のはずである。つまり、ヘイトスピーチや事実に基づかない言論が跋扈することになると、よい広告主が集まらなくなる可能性が高いのだ。Twitter側も荒れ果てた2ch状態になったサービスを温情で運営し続ける必要は全くない。電話や郵便のような「ユニバーサルサービス」に慣れているので、受益者は努力しなくてもプラットフォームが維持されるものだと思いがちだが、実はそうではないのである。

どうということのないおしゃべりに使うことが多いTwitterだが、時々災害インフラとしても役に立つことがある。またマスコミの情報もTwitterでの補足があって初めて理解できるような状態になっている。つまり、このサービスは公益性が高いが、実は民間がプラットフォームを提供している、という珍しいサービスなのである。

公益性が高いが私的に運用されているということは、それを整備するのも参加者の仕事ということになる。参加者が2chのような荒れた雰囲気を望めばそれなりのコミュニティができることになるし、道徳水準をを高めに設定することもできる。道徳水準が高い方が、よりよい広告が集まりそうだが、これはショッピングモールと同じ理屈である。寂れた地方のシャッター通りにやコンビニの前ではヤンキーたちが集まり、きれいなショッピングモールにはそういう人たちはやってこない。

問題なのはネトウヨさんたちというヤンキーの集まりが「変なゲーム」を仕掛けてくることだ。大通りで「あいつマジ気に入らないから、なんかあったら半殺しにしてやる」と叫んでいるのだが、そういう人たちが多く集まると「もしかして居心地のよい空間を探すというのは個人のわがままなのかもしれない」などと思ってしまう。それどころか「自分の主張がなぜわがままではないのか」ということを議論しなければならないような気持ちに落ちってしまうのである。

だがよく考えてみるとショッピングモールに百田尚樹的な人がいたら、多分かなり白眼視されるはずで、別になぜその発言が不適当なのかを証明しなければならないようなことではないのではないだろうか。

ニューヨークの市長が割れた窓を修繕することで街の治安を回復したという話がある。つまり、居心地のいいコミュニティを維持するためには、一人ひとりのちょっとした心がけが必要だ。百田尚樹さんがというより、百田尚樹的なものはいわば我窓であり、見つけ次第塞がなければならないのではないだろうか。

テレビのように、無責任な発言でもとりあえず数字が取れればいいというメディアのことはよくわからないが、ネットは記録が残るメディアであり双方向性もある。テレビの常識はネットでは非常識だし、多分近所のカフェからも追い出されるレベルなのではないかと考えられる。そこで変なゲームを仕掛けられてもそれに乗る必要など全くないのだ。

IT系の営業がダークサイドに堕ちる時

日本のIT産業は「IT土方」と呼ばれる身分制なので、顧客と会社の接点である営業が、自分は顧客側の人間だと錯誤してしまうことがある。特に都心にかっこいいオフィスを構える広告代理店が相手だとそういう気分に陥るようである。

「がっつりプログラミング系」の会社だと、仕様書がきちんとあり、機能を定義したりして歯止めがきいたりするのかもしれないが、デザインという厄介な要素が加わるとわけのわからないことが起こることがある。これに広告代理店が加わるとさらにわからなくなる。

第一の要因は、デザインには必ずしも正解がないにもかかわらず、クライアントによってはいろいろと口をはさみたがるという点にある。

オーストラリア、カナダ、スウェーデンのデザイナーと仕事をしたことがあるが、彼らはデザインにメソッドがあり、最終的には「クリエイティブブリーフ」と呼ばれるサマリーを出して顧客に確認をする。海外では割と当たり前の手法なのだと思うし、日本人は白人系の外人の話はありがたがって聞いてくれるのでこの手法は日本でも成立する。しかし、日本人のデザイナーだとだめだ。日本人が唯一話を聞いてもらえるのは外人と英語で話をしている時である。ということで意味もないのに日本人しかいないミーティングに見た目の良い外人(つまり太っていない人)を連れ出したりするのも割と有効である。アジア系でも英語で話をしている人(つまりニューヨークに留学経験のあるタイ人とか)だと話を聞いてくれるが、下手な日本語を話す台湾人とかだと逆にナメられる。

だが、広告代理店はそもそもブリーフが成立しない。オブジェクティブがないからだ。日本人がオブジェクティブと呼んでいるのはクライアントに夢を見せるための曼荼羅のようなパワーポイントだが、のちにビジネス界でも「ポンチ絵」という名前がついていることを知った。これはマンガの昔風の表現だ。

彼らは必ずも数字によって成果物を判断しない。どれくらい商品の売り上げアップに貢献したということはあまり重要視されず、流行しているものを「あのライバル社がやっているあれ、うちでもできないかなあ」くらいのことになりがちだ。数字は成果を確認し反省点を洗い出すところに意味があると思うのだが、日本人は数字が出るとそれがコミットした最終ラインということになり責任問題に発展する。

この辺りから、正解がないのに理想があるということになるので修正に歯止めが効かなくなってしまう。理想はあるのだがそれがわからないという人が多く、会議体で決めたりすると誰も正解がわからないのに「なんか違う」ということになりがちである。

これだけでもややこしいのだが、さらに「広告黎明期から仕事してます」みたいなおじさんが入るとわけがわからなくなる。大抵アートディレクターなどと呼ばれている、海外からのかっこいい成果物に参ってしまって見よう見まねで覚えたような「職人」タイプだ。一度、神宮前の古いアパートを改装したコンクリート打ちっ放しのオフィスで(そういうところで働くのがかっこいいとされているらしい)「グリッドデザインの基礎」みたいなことをこんこんと説教され「いやウェブって幅が変わるから」と心の中でつぶやきつつ、表面上は目を輝かせながら「へえーすごいっすねえ」と言い続けたことがあった。レスポンシブデザインなどが出る前の話だ。

ITデザイン系の営業が難しいのは、こうした文化の間にある「バイリンガル状態」にある人が「自分がどっちにいるのか」わからなくなってしまうという点だろう。「ドキュメントドリブン」の世界と「センスドリブン」の世界の間でダークサイドに墜ちてしまうのだ。

広告代理店のオフィスに出入りしているうちに、MBAマーケティングなんかを読むようになり、いっぱしのマーケティング用語(なぜか全部カタカナ)を使うようになったら「ダークサイド」に堕ちてしまった証拠だ。本来ならデザイナーなりプログラマーのエージェントとして働かなければならないのだが、要件は聞いてこないで、代理店の会議で聞きかじったマーケティング用語でわけのわからないことを言い始める。が、こういう人は根が真面目なので、まだチームをぐちゃぐちゃにすることはない。「お付き合い」していればやがてプロジェクトはなんとなく終了して嵐は収まる。

厄介なのは「ITに憧れて入ってきた」というようなタイプだ。広告代理店には締め切りまで一生懸命何回でも修正して「頑張った感」を出すという奇習があるのだが、アートディレクターさんが乗り込んできて「メールで修正のやり取りをするのは面倒だ」と言い始めたことがある。その時にはプログラマーやデザイナーを犠牲にするわけにはいかないので(パソコンの前で色が変えられるということは絶対に教えてはいけない)キラキラ系の営業を人身御供に出した。会議室に缶詰になり、時々差し入れなどを渡してやり「広告って大変な仕事なんだねえ」などと感心してみせる。たいてい忙しくなってくると、なんだかわからない一体感みたいなものが醸成されて、幸せな気分になるようである。徹夜などすると何か脳内麻薬が分泌されるのだろう。

重要なのは、こうした「作品」は誰にも正解がわからず、そのまま消えていってしまうということだ。効果測定していないから当然なのだが、効果測定してしまうと価格なりの成果が出せていないということがバレてしまう。だからそれができないのだ。「管理料」という消費税みたいな費目もよくないと思う。お金をとった以上働かなければならないし、働いたら一生懸命感を出さなければならないので、最終的には過労労働につながるのかもしれない。とはいえ、営業は伝書鳩のようなもので技術にもデザインにも興味がないので、何もできない。となると、曼荼羅の精緻化が一大プロジェクトに発展したり、会議が演説になったりするわけだ。

つい最近、広告代理店で新入社員が過労死したという事件があった。まあ、ああいう働き方してたら過労死する人も出てくるだろうなあなどと思うのだが、そもそも「正解」が何なのか追求してこなかったドメスティックの代理店がいきなり海外系のエージェンシーと競合しようとするとそういう悲惨なことが起きてしまうのではないかと思う。

逆にいうと、それなりの広告測定をしているエージェンシーが出てきているということなのではないかと思うのだが、現在の状況はよくわからない。

日本人は空気を読むのが別に得意じゃない

海外で生活しているだろうと思われる人がTwitterで「日本流の空気を読むという文化が苦手」とつぶやいていた。これを読んでみて「別に日本人は空気を読むのが得意じゃないと思うけどなあ」と考えた。以下整理して行きたい。

まずこの人は「空気を読むのが苦手な人はどうしても言葉で説明しようとするが、言葉で説明するとそれは日本的ではないと言われてしまう」と言っている。つまり、他の人たちは「言葉なしで空気を読み合うのが得意なのだろう」と類推していることになる。

直感的に「それは他の人たちが自分の言いたいことを言葉で説明できないのに察してくれ」って言っているだけなんじゃないかと思った。だがそれは「無理ゲー」というものである。多くの場合、日本人は言葉を使って自分の気持ちや立場を表明するのが苦手だ。普段なら「なぜ言葉を使って説明するのが苦手なのか」ということを考察するわけだが、今日はちょっと違う方向に考えが向いた。

実は日本人(と括られている人たち)は自分たちのことを知ってはいるが、言葉にするのを避けているのではないのかと思ったのだ。言語による説得が行われるのは

  1. 「新しいことがあって、失敗する可能性もあるけど、達成度が高いよ」というような場面か
  2. 「みんなはこういうやり方になれているようだけど、僕は違ったやり方がしたいんだ」というような説明

の時だ。

これを一言でまとめると「新しいことへの挑戦」であり、その結果得られるのが「成長」だ。多分「言葉に出して説明したくない人たち」はそれが「失敗に終わる可能性」を恐れているのではないかと思う。失敗すると「なんか惨めな気持ちになるじゃん」と考えた経験がある人は多いのではないか。

こういう気持ちに最初に出会ったのはいつだろうかと考えたのだが、多分高校受験の頃ではないかと思った。高校は失敗できないので(浪人というのがほぼありえないから)公立校の場合「自分が絶対に受かる」ところを選びがちだ。するとそこに集まるのは「頑張ればもうちょっと上に行けたかもしれないけど、頑張らなかった」人たちである。彼らは「さらに高みを目指して大学受験しよう」などとは思わず「そこそこの地方の公立校にいければいいや」と考えてしまいがちだ。だから「いや頑張って違った体験してみようよ」などという人がいるとなんだか疎ましく、惨めな気持ちになってしまうのだろう。日本の学校教育はいわば「失敗できない学歴によるランク付け」なので、そういう人ばかりが製造されてしまうのである。

ここで「もうちょっと頑張ってみようよ」という人たちに言葉で説得されると「でも自分たちはどうせそんなに能力ないし」と言わなければならない。それはちょっと惨めなことだから言わないし言えないのではないだろうか。

大人になってくると様相が少し違ってくる。新人が「効率が悪いからやり方を変えてみましょうよ」などと提案する。しかし事情を知っている人たちは「いや、やり方を変えるとついてこれなくなる人が出てくるし」と考える。過去に何回か調整した末に混乱した苦い経験などを思い出すかもしれない、やり方を変えられない特定の個人を思い出すかもしれない。結局効率化を求めても面倒が増えるだけということになる。だが、それを言葉に出すと誰かの悪口になってしまうので言わない。そこで「察しろよ」などと思ってしまうわけである。

日本人が他人の気持ちを推察するのは得意じゃないというのは確実に言える。具体例を挙げろと言われたらTwitterからいくらでも実例が引いてこれる。たいていは相手の話を聞いていないし、聞いていても誤解している。賛同しているつもりでも実は自分のことを言っているだけという人も多い。総じてものすごく思い込みが強いし、自分たちが思い込みをしているということにすら気がついていない。もし日本人が空気を読む達人だったら、Twitterは今よりも居心地がいい場所になっているだろう。

もしTwitterが特殊な人たちの集まりだと思うなら、誰かの話を黙って15分くらい聞いていればいいと思う。「よくこれだけめちゃくちゃなことが言えるなあ」と感心することがよくある。ある分野については正確な知識を持っていても、その他はめちゃくちゃということがよくある。誘導すると怒られるので黙って話を聞くか「おうむ返し」を挟むのがコツかもしれない。

つまり「失敗するのが嫌だから今のままでいいじゃん」とか「あのうるさい人にあわせておけば丸く収まるんだからそれでいいじゃん」というのが空気の正体であって、別に相手の気持ちが読めているわけではないと思う。

しかしそんなことでは成長がないではないじゃないかと考える人も出てくると思うのだが、多分変化に伴うリスクを恐れているから日本は成長しなくなってしまったのだと思う。

ユナイテッドエアラインズの炎上

ユナイテッドエアラインズが炎上している。乗務員を乗せるために席が足りなくなり4名を抽選で選んだのだが1名が拒否した。そこで警察を呼んで引きずりおろしたのだが、その時に怪我をさせたらしい。怪我をした痛々しい乗客の顔がYouTubeなどで拡散して大騒ぎになった。アメリカでは「人道的でない」という批判が多かったようだ。

だが、この問題が日本ではちょっと違う捉えられ方をした。たまたま乗客がアジア系だったのだ。そこで、この人がアジア系だったから我慢させられたのだとか、選ばれたのはすべてアジア系だった(そんな報道はないのだが)というような話が拡散した。

これがSNSによって拡散したというのは間違いがないが拡散速度は一様ではない。ビデオには翻訳はいらないので瞬く間に全世界に拡散する。ところがそのビデオについて日本語で何が話されているかということは英語話者には伝わらないし、英語話者がビデオを人権問題として批判しているということも日本人には伝わらない。

こうしたことが起こるので、ユナイテッドエアラインズはローカル言語を話すことができるスタッフを常駐させて、ユナイテッドエアラインズの立場を説明させるだけでなく、つねにどういうリアクションが起きているかをモニターさせるべきなのではないかと考えた。

実際にそういう文章を書いたのだが「はて」と思った。日本人がボイコットしても会社は別に痛くもかゆくもないのだ。いつ炎上が起こるかなど誰にもわからないのだから、そのためにスタッフを常駐させるのはムダということになる。実際に株価は少し下がったものの、その後持ち直した。最近、経営効率が上がっていて、ユナイテッド航空の株は「買い」というレーティングが付いているのだ。

ニュースでは「ユナイテッド航空」と伝えられたが、この路線は実はユナイテッドエアラインズではない。実はユナイテッドエクスプレスというローカル路線(実際にはいくつかの航空会社の連合体)なのだ。多分、ローカル路線は最低限の機体と乗務員で回しているのではないかと思う。ギリギリの機体数で運行するからオーバーブッキングも増えるし、乗務員のやりくりもうまくいかないのではないだろうか。だから、オーバーブッキングした客を下すことができないと、収益が下がってしまうことになる。CEOは従業員向けのメッセージで「乗務員はよくやった」と言っている。つまり、そもそも乗客が支払っている料金では満足なサービスは維持できないし、そのつもりもないのである。

アメリカの航空産業はLCCが台頭して大手航空会社を軒並み破綻させた歴史がある。紙ナプキンに絵を描いて経営合理化を成功させたという逸話が残るサウスウエスト航空などが有名だ。しかし、結果として過当競争が怒りオペレーションに無理が出ているのだろう。一方で、お客さんの方も「1日休んで次の日に搭乗する」ということができないほど忙しくなっていることがわかる。つまり地方が疲弊しているのである。

しかし、問題は効率化だけではない。最初から席が足りないことがわかっていれば、搭乗させる前に「席が用意できなくなりました」と言っていたはずだ。つまり、いったん客を乗せた後で「乗務員がやりくりできない」ということがわかり、慌てて乗客を引きずりおろしたことになる。やっていることがめちゃくちゃなのだが、社員の士気も落ちているのではないだろうか。

警察当局(武装した保安担当者という報道とシカゴ市警察という報道がある)の対応も問題だ。こちらについては「問題を起こした人を調べが済むまで休職にした」という情報がある。今の所、なぜそんなことが起きたのかという後追い報道はない。日本人は普段から黒人が警察からボコボコにされる映像を繰り返し見せられているので「黄色人種でも同じ扱いを受けるんだな」と思ってしまうだろう。職員は「自分が怪我をさせられるかもしれないから」という理由で過剰防衛した可能性もある。テロの危険性が増しているので緊張を強いられる現場だったのではないだろうか。

たまたま一つの航空会社が起こした不祥事は「アメリカという国そのものの不信感」につながる。だが、これを経済的に是正することはできない。乗客は安い航空会社を求めており、投資家は効率的な運用を求める。かといってアメリカ当局が「アメリカは人種差別のない安全な国です」というキャンペーンを張るわけにはいかない。問題を起こしたのは民間の航空会社であり、政府が謝罪するような問題でもない。つまり、経済が疲弊すると国の持っている信頼が崩れていってしまうのである。

しかし、航空会社はそもそも問題を発見できないし、発見できたとしても経済的に「謝るのが得か損か」という判断になる。ここで判断を誤ってしまうと、裁判を起こされて過剰な制裁金を取られる危険性があるし、オーバーブッキングした客に粘られたら収益率が下がるということになりかねない。

アメリカにとって「ソフトパワーが大切だ」と聞いたはつい最近の事だと思うのだが、それも過去の話になりつつあるらしい。いう言葉を聞いたのはほんの数年前のことだと思うのだが、トランプがもたらした「アメリカの分断」を見せつけられ、黄色人種が安全に旅行できないかもしれないアメリカという図式まで見せられた後になってみると「アメリカって没落しつつあるんだなあ」という印象しか残らない。国のイメージというのは意外と簡単なことで崩壊するのだろうなあと思う。

United Airlines needs local SNS managers…

Many Japanese are upset to United Airlines because of one video footage which is spread over Twitter. Overbooking was tweeted more than 47000 times. I got impression that multi-national companies need local SNS managers not only to represent in the local languages but to monitor what is happening all over the world. Sometimes reactions over SNS are unexpected.

I see people are upset because it is violation of human rights in general but it gives some “different” reaction to Japanese people. Some took it is racial discrimination and attached because a face of beaten passenger is very familiar while not to know American is also upset.

This is misunderstanding because the Airline choose them randomly and there is no information about skin color. This case is completely different from the case of Michael Brown but it is just a minor detail” for some people. The only truth for them is that “An Asian’s beaten by police officers” like African Americans. So they expect Japanese would be treated in same manner. It can be quite harmful for US-Japan relation when Japanese have lost trust to the US because of recent Trumpism.

Unfortunately, a lack of information is filled with imagination. Some believes “All four were Asians”. I found a tweet explains it “rationally”.

  1. White people are excluded from the beginning.
  2. If the airline choose Black people, the company would be claimed.
  3. Yellow people is obedient and therefore they are chosen.

As you may notice, it is quite generalized. The US removes an ASIAN from the air plain and it would happen to us too.

However, this type of misunderstandings is invisible from English speakers simply because they can’t read Japanese. Also, Japanese can’t find out many Americans upset the case because it is wrongdoing.

This person, who has 86000 followers says he experienced overbooking because Japanese can’t complain in English.

This person who has over 60000 followers says the guy was an east asian.

I don’t think the video gives serious and immediate financial impact to the firm because Japanese are not their targeted customers. So they can let it goes till Japanese Twitter people find another topic to upset about. However the video may leave a vague impression that the US is divided and Asian is not welcomed.

I believe United Airlines needs to have local communicators to monitor local languages to avoid potential conflict which is caused by United Airlines.

I was quite impressed when I heard about the concept of “Soft Power” but it seems that it became a history only in few years.

PTAと日米文化の違い

菊池桃子さんのPTAは働く親にとって負担が大きいのではないかという発言が支持を集めているという記事を読んだ。日本ではPTAというと、タダ働きを押し付けられて気苦労ばかりというイメージが強い。もともとはGHQが押し付けた制度なのだが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

まず、これはアメリカの制度なのでアメリカでも問題が起きているのではないかと考えた。確かにPTAには加入しないでPTOを作る学校もあるということで一定の不満はあるようだ。PTAは全米的なピラミッド型の組織になっているようだが、それはいやだという人たちがいるのだろう。

ではPTAやPTOはアメリカでも嫌われているのだろうか。

これについてはアメリカ暮らしを経験した日本人がいくつかの体験談を書いている。まずPTA/PTOはそれほどの負担を求められない。どちらかというと「学校の教育に参加する権利を買っている」という側面が強いようだ。それだけではなく「PTAが寄付を募って先生に渡す」ということすら行われているという。つまり、無償労働だけではなく経済的なサポートもPTAやPTOの役割になっているようだ。これには教会のような寄付文化に慣れているという事情がありそうだ。

大きく違っているのは「アメリカ人はいやなことやメリットのないことはしない」という点である。このためそもそも「自発的に発生した集団でいやいや何かをやる」ということが存在しえない。

PTAに入ると学校の事情がわかり、寄付を通じて学校教育にも参加できるというのがメリットだ。その他、保護者との関わりを持つことができて「コミュニティに参加できる」こともメリットになっている。一方、活動に参加してもそれほど負担になるようなことはないという。

一方日本は強制参加であるうえに一部の暇な保護者たちや実力者に「タダ働きを強制される」ということになっている。中には親と学校の揉め事の仲介者として気苦労を背負わされるということもあるようである。誰がタダ働きを強制しているのかということは実はよくわからないが、先生や教育委員会と心理的に癒着してしまった上層部の人たちが「あるべきPTA像」という空気を押し付けてくるのが日本のPTAということなっている。

この裏側にあるのは「コミュニティに参加はしたくないが」「何かあったら自分の主張を押し付けてくる」人の存在である、いわゆるモンスターペアレントだ。普段から保護者たちとの間に親密な関係があればよいのだが、実は集団の中で孤立するケースは日本の方が多いのではないかとすら思える。

日本でPTAをなくすと多分「言いたいことがある時だけは騒ぎ立てるが、普段は何も協力しない」という親が増えるのではないだろうか。政治を観察するときに「消費者型の有権者」という絵が観察できるのだが、日本人のコミュニティに関する考え方を如実にあわらしている。自分たちが公共を運営して問題も共有するという意識は極めて希薄なのだろう。

そうはいっても「協力したくても協力できないのだ」という親も多いのかもしれない。それは会社組織が学校と同じようなフルコミットメントを求めるからではないかと思った。つまり働いている親は「会社という村」に所属することを求められ、その監視網に置かれる。その上保護者のネットワークに組み入れられてLINEで24時間監視されるようになると神経が持たなくなるのだろう。「どちらもほどほどに」というのは日本人にとって極めて難易度が高い。

この問題を考えていて興味深いのは「わがままな個人主義」であるはずのアメリカではチームワークを発揮してコミュニティが運営できるのに「集団主義で和を重んじる」日本社会の方が集団で孤立感を感じやすいのかということである。

最近「日本人の規範意識」について考えているので、ついその線から分析したくなってしまうわけだが最後にちょっと触れたようにコミュニティの関係が緊密すぎるという問題もありそうだ。「どうしてこんなことが起こるのか」ということを一度整理して考えてみるのも面白いかもしれない。

なおアメリカの学校の方が優れているというように取られてしまうと誤解を生むのでいくつか問題点もあげておきたい。給食が著しく貧相だったり、地区の財政により教育の内容に大きな格差があったりもする。公立学校は予算の捻出に苦労しているところも多いのではないかと思う。さらに最近では銃の問題があり学校で度々殺人が起きている。あくまでも日本のコミュニティを考察する上での参考であって、アメリカの学校制度の方が優れているなどというつもりはない。

つながりたい人々と都市の孤独

先日来、日本人が持っている規範意識について考えている。個人の中に内在する規範意識を持たずに、村落的な監視によって抑えられているというものである。現在の政治状況は村落的な監視が利かなくなった結果、個人の感情や思考が暴走したものであると考えている。これをいろいろと飴玉のように転がしていて、読んでいる人たちがどう思っているかということが気になった。とはいえレスポンスはないはず(その理由は後々考えるが)なので、今回も自分で考えることにする。

わずかな手がかりとして、メンションなしのリツイートというものがあるのだが、どうも反応をとして多いのは「個人の意見が尊重されない」という不満のようだ。集団思考で空気を読むのが日本人だと定義してしまうと「私の意見は取り上げられないのに周りに合わせることばかり強要される」と不満を持つ人が増えてくるのだろう。

しかしながら「空気」はそこにいるすべての人たちが作り出すものであり、神様や権威が押し付けたものではない。つまり「私の意見が取り入れられない」と言っている人も空気作りに参加していることになる。つまり、あなたの意見は取り入れられているのになぜ不満を持つのですかという疑問が生まれる。

例えば、権威とされている人たちも実は日本人としてのメンタリティを持ち続ける限りにおいて空気には逆らえない。安倍首相がおざなりながらも福島に出かけて興味がないにもかかわらず「福島の桜はきれいだなあ」などという下手なパフォーマンスをして、気にかけてもいない被災者の心情を傷つけたから復興大臣に代わってお詫びをするなどというのは、実は権力者もまたそれなりに空気を気にしているからなのだ。

もし自分の意見が取り入れられないのだとするなら、意見表明してみればいい。誰にも聞いてもらえないだろうが、それも「誰の意見も聞いてこなかった」ということの裏返しにすぎない。そもそも、自分の意見を構築できる人が少ないようだ。アメリカや西ヨーロッパではありえないのだが、それでも大人としてやって行けるのが日本なのだ。意見がないのだから表明もできない。

そう考えてみると、実は(西洋的な教育を受けた人は全く別だと思うが)個人として尊重されたいわけではないということがわかってくる。日本人は村落的なつながりに憧れている。それは自分の心情や考えと、集団の心情や考えが全く合致しているという状態である。自分の考えていることは周りも考えていることなのだから、個人が言葉を選んで意見表明してもらわなくてもいいという関係だ。つまり個人が意見を持たなくてもやって行けるのが理想なのだろう。

古くからこのようなニーズはあった。例えば、戦後それを実現したのが創価学会だ。もともと農村から都市に流入してきた人たちの集まりだったという説が濃厚だそうだが、村落にあったコミュニティをそのまま都市に持ち込んだということになっている。しかし、実際にはその教えは急進的すぎて、もともとの寺からは排除されてしまう。個人の価値が接続の源泉にならないのだから、当然どこかから価値を持ってこなければならない。自然村落は地域的なつながりによって閉鎖された空間なのだから、こうした人工集落は解放されているのだろうということが予想される。つまり、日本人は解放された空間が苦手で、つまり個人が意見を持たないためにはかなり大きくて超自然的な権威を置かないと不安を感じてしまうのではないだろうかという仮説が生まれる。

いったん権威に帰依してしまえば、個人の意見表明は必要なくなる。あとは権威をコピペしてくるだけでよい。実際に新興宗教系の人と話をしてみると良いと思うのだが、驚くほど自分たちの教義を理解していない。にもかかわらず熱心にコピペするので語彙だけは豊富になる。うまくいっている新興宗教は「魂のポイント制」を採用しているので、核心が見えないことは気にならないようだ。つまり修行が足りないからもっと教祖様の話を聞かなければならないなどというのである。こうした新興宗教的なコピペ精神は「ネトウヨ」と「パヨク」に共通する。

日本人が理想とするのは、周囲の人たちと何の違和感もなく調和し、何も言わなくても自分の思い通りに物事が進み、何か大きな権威によって自分の意義が肯定されているという状況なのかもしれない。

だが人工集落は必ず敵を作り出してしまう。どんな権威もすべての人の欲求を完全に満足させることなどできないからである。人工的な囲いを作るとかならずそこから排除される人たちが出てきてしまう。安倍政治に不満を持つ人が多いのは、彼らにとって居心地のよい村落作りががお友達の優遇にしかならないからだろう。排除された人たちが見えなければよいのだろうが、SNSが発達するとそういうわけにもいかない。

だが、いろいろ観察すると敵の存在は社会集団が崩壊する原因にはならないようだ。崩壊は内部から進行する。人工的に作り出した物語には必ず綻びがある。それは、外からくる権威を継接ぎにしているに過ぎないからである。日本人が膠着語を話すように、経緯をにかわでくっつけたようなものになりがちだ。そこには主語はなく、従って全体としては意味をなさないのである。

例えば教育勅語は、日本伝来の精神ということになっている。だがそれは西洋的な一神教をもともと多神教的だった天皇の権威を接ぎ木したものではないだろうか。多分キリスト教を参考にして、教義を作り、道徳を作ろうとしたのだろう。しかし、道徳というものをあまり真剣に考えてこなかったために「みんな仲良く」という当たり前のことしかかけず、最後は「何かあったら天皇のために命を投げ出すんだぞ」とおざなりに終わっている。

教育勅語が見捨てられたのは「みんな仲良く一致団結して」という精神を、押し付けた人たちが理解していなかったからである。つまり教育勅語もコピペなのだ。結局、軍部の作戦の失敗を国民に押し付けて破綻した。「みんな仲良く」の中に餓死した陸軍兵士も見捨てられた沖縄も入っていなかったわけである。国民は「守ってくれない権威よりも、美味しいものを食べさせてくれる敵のほうがいいじゃん」と考えたから教育勅語は捨てられてしまったのだ。にもかかわらずその経緯を全く反省していないというのが日本人の道徳心のなさを露呈する結果になっているように思える。

こうして、新しい権威ができては消えというサイクルを繰り返すことになる。で、あれば「個人が意見を精錬してお互いに聴きあうことにしたらいいんじゃないか」などと思うのだが、それだけはどうしても嫌だという人が多いようだ。まあ、人生は魂の修行なのだと考えれば、それもアリなのかもしれないと思ったりもする。

有名人がTwitterで絡まれるのはなぜか

Twitterで有名人が絡まれるのをよく見かける。そこで「絡まれるにはメカニズムがあり、そのメカニズムを解明すれば、絡まれることはなくなるだろう」と考えた。だが、いろいろ考えてみて「やはり有名な人が絡まれないようにするのは難しいんだろうなあ」と思った。今回は最終的に教育勅語の話に着地する。

有名人が絡まれる背景にはどうやら「単純化」と「情報の追加」があるらしい。140文字は少ないので言いたいことがすべて伝わらない。そこで、曖昧な部分を脳内で補強するらしい。すべてを網羅的に観察したわけではないので、単なる思い込みを含んでいるかもしれないが、党派性が起きているように思える。つまり、あらゆる人たちは白組と紅組に分かれており、ある意見を提示しただけで、受け手の脳内で「この人はどちらの味方か」という分類が行われるのではないかと考えられる。

例えばトランプ大統領のシリア攻撃を「適切な判断だった」というと、自動的にトランプ大統領の他の政策にも賛同しているように見えてしまうという例がある。その人が様々な情報を流して立体的な判断をしようとしていたとしても御構いなしだ。表現の自由のために戦っているように見えた筒井康隆がリベラルを侮辱する(あるいは体制側に賛同するように見える)メッセージを発信すると、それが今までの立場を「全否定」したように見えてしまうということもあるだろう。

いっけん、単純化されているように見えるのだが、よく考えてみるとすべての事象について「右か左か」というソーティングがされているのだから、かなりの情報量がないと成り立たないことがわかる。すべての事象を「右と左」に分けていて、それを常に確認し合っているからだ。つまり、単純化だけではなく情報の付加が起きているということになり、なおかつ頭の中には様々な人間関係が整理されていることがわかる。

日本人の「関係性」に対する執着の例を卑近なところで挙げたい。アメリカのドラマのウェブサイトには日本ではおなじみの相関図がない。彼らはドラマをプロットで説明する。しかし日本人はプロットにはそれほど興味がなく、誰と誰がどんな関係にあり、それがどう変化するかということに強い関心を持っている。そこでドラマのウェブサイトには欠かさず相関図が出てくるのだ。日本人は、誰がどの党派に属するかによって、その人の意見が読めると考えるのである。こうしたことは政治報道でも起きており、政策よりも派閥の動向により強い関心が向けられることになる。

つまり、日本人は、集団に属する人間には個人の考えというものはなく、どの党派に属するかということさえ分かればその集団の考えが自動的にその個人の考えになるとみなしていることがわかる。

以前に「交流分析」を見たときに、人間を、理性、感情、スーパーエゴに分けるという整理方法を学んだのだが、ここには「党派」という全く違ったパラメータがあるのではないかと仮説できる。まあ、思いつきレベルだがいちおう絵にしてみた。

党派性が強い人は、あるその党派を認めてしまうと、自動的にそこに従わなければならないという前提が生まれるという仮説ができる。だから、自分の中の何か(それが感情なのか、理性なのか、スーパーエゴなのかはわからないのだが)とコンフリクトを起こすので、それを認めるわけにはいかないということになる。

この疑問を考えたときに「なぜ僕は絡まれることが少ないのだろうか」と考えたのが、それは文章がうまいわけではなく、権威ではないので「否定しなくてもべつに構わない」からではないかと思った。つまり、どこにも属していない個人の考えというのは、ないのと同じなのだ。

が、商業雑誌で活字になったり(それが例えばWillやSPAであっても)権威となるので、それを認めるわけにはいかないということになるだろう。つまり、有名になることで権威性を帯びてしまうので、攻撃の対象になるということになる。これは防ぎようがないから「無視するのがよい」ということになる。

まあ、ここまでは他愛もない分析なのだが、いくつかの派生的な観察が出てくる。

第一に「安倍政権を倒せ」という党派性の高いメッセージは発信しないほうがよさそうだ。「この人は立場的にそう言っているのだな」と思われて、あとの客観的な事実はすべてスルーされてしまうだけだろう。客観的に事実を並べて、相手に投げたほうがよさそうだ。

逆に、安倍政権側も党派性の強い考え方を国民に押し付けようとしている。日本人はそもそも内的な規範ではなく村落的規範(ここでは党派と言っているが、他人様の目といってもよいだろう)によって制限されているので「共謀罪が成立したから言いたいことが言えなくなった」ということはありえない。そもそも最初から「個人が言いたいことなど言えない」社会なのだ。

だが、それは相互監視によって文章にならない規範によって支えられている。それを言葉にしようとするといくつかの問題が起こるのだろう。それは「個人のアイディアは聞いてもらえないので、誰からも文句が出ない権威」が言葉を発するべきだということと、実際に自分の中を掘ってみてもそれほどたいした規範意識は出てこないということである。

そこでできた貧相な規範体系が例えば教育勅語ということになる。西洋には立派な規範体系があり、そのカウンターとしてでてきたのが教育勅語だが、結局は「親を大切にしよう」とか「みんなで仲良くやろう」などといった、村のおじさんたちが酔っ払って子供に諭すようなことしか出てこなかった。しかし、権威づけは必要なので「いざとなったらお国のために命を捧げるんだぞ」という言葉をつけて終わっている。

本来は個人の意識(それは感情などの無意識を含んでいる)を抑える役割を持っていた規範意識を自分で操作できるぞと思ってしまったとたんに、歯止めが利かなくなる。つまり、人間で言うところのスーパーエゴの暴走が起きてしまうのだ。これが国家レベルで行われると、植民地の無制限の蹂躙ということだし、個人レベルでは「本当は理解していない保守主義」という党派規範を身にまとい、個人のエゴを暴走させて、他人を貶めたりする態度につながってゆくということになる。

「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、教育勅語を信奉する人たちは内的な規範を持っていない。首相は平気で嘘をつくし、気に入らない子供は虐待される。さらに、危なくなったら「俺は知らなかった」といって仲間を裏切る。これらは内的に規範が作られていない(つまり親が弱い)ことを示している。だからこそ、集団の規範体系によって相手をコントロールしようとするのだろう。

つまりネトウヨというのは、戦前回帰ではなく、西洋流の規範意識を理解できないままでいた人たちが個人のエゴを暴走させている状態に過ぎないということが言える。その筆頭でエゴを暴走させているのが日本の首相なのだろう。

 

政治がもたらす閉塞感を打開するためにはどうしたらいいか

先日、茂木健一郎が「日本の笑いは低俗でつまらない」と発言したことについて取り上げた。茂木健一郎がつまらないのは、西洋的な価値観をよしとしていて、日本文化の中にある良さを全く見出そうとしない点や、低俗さと高級さという価値体系の奴隷になっている点だ。つまり、戦前回帰をよしとするネトウヨの人たちとたいして違いがないのである。

いずれにせよ、この記事は、政治課題(もしくは政治課題に擬態した他人の悪口)と違いあまり関心を集めなかったようだ。とはいえ「笑いとは何か」ということを当てずっぽうで書いたので、本でも読んでみようかと思った。図書館で蔵書を検索したところ、ベルクソンの「笑い」という小編が見つかった。哲学書を読むのは気が重いなあと思ったのだが、気が変わらないうちに読んでみることにした。

読んでみて思ったのだが、現代社会に閉塞感を感じている人はぜひ一度この本をパラパラとめくってみるべきではないかと思った。精読するとたぶんかなり時間がかかるので「ざっと読み」がおすすめだ。

現在の閉塞感は、多くの人が安倍政治にうんざりしているにもかかわらず解決策が見つからないということに起因している。人口が減少し、経済が崩壊してゆくのにその解決策が何十年も見つけられないという「沈みゆく予感」が背景にあるのではないかと考えられる。つまり、解決策が見つからないということが問題になっている。そこで「なんとかしろ」と怒っているのだ。しかし怒りの感情は他人を遠ざける。危険信号を発出しているからだろう。反核とか平和運動といった誰でも賛成しそうな運動に支持が集まらないのは、それが楽しそうに見えないからである。

安倍政権は、権威が問題を隠蔽し、情報を隠し、法体系をゆがめているという点に問題があるのだが、誰もそれをやめさせようとはしない。閉塞感を感じる人は政権が持っているデタラメさを否定したいが世論調査をみると「自分だけが安倍を嫌っていて、みんなは依然安倍政権を支持しているように」見えるので苦しむのだろう。

こうした状況を変えるために笑いは役に立つ。笑いは「誰にでもわかり、愉快だから」である。つまり、怒りによる打倒よりも笑いによる批判の方が広がりを持つ可能性が高い。しかし、それは多くの人が思っているような「直接的な政権への批判」ではないのではないかと思う。

ベルクソンは笑いが成立するためには3つの要素が必要だとしている。詳しい定義は原典を読んでみていただきたいのだが、自分なりに解釈すると1) 人間的な感情に基づいており、2) 対象から心理的に分離しており、3) その感覚が集団に共有されていることが重要だということのようだ。これについて詳細な分析がなされるのだが、政治的な重苦しさというものにのみ焦点を当てると「対象に近すぎる」と笑いが起こらなくなるということが言える。ベルクソンは「共感があると笑えない」と言っているのだが、共感だけではなく反発もある種の愛着である。アタッチメントという言葉を想起したが日本語の適当な訳を思いつかなかった。

つまり、今安倍政治に反対している人たちは「安倍政治にアタッチしすぎているからそれが深刻に思える」ということになる。同時にそこから離れて新しい選択肢を探すことにも恐れを感じているということが言える。逆に代替策を探さなくても権威そのものが無効化されてしまえば、目的は半分くらいは達成できるし、興味がない人にも広がる。笑いはデタッチメントすることによって対象物を無効化できるのである。

そのためには安倍政治を客観視してみる必要があるということがわかる。少し離れたところからみると、安倍政権の口裏合わせは喜劇でしかない。しかし、これを個人が感じているだけでは笑いは発生しない。これは「裸の王様」の例を思い出すと理解しやすいだろう。王様が服を着ていないのは自明だが「みんながそれを認知している」という理解が共有されない限り、それは笑いにならないのだ。ベルクソンの定義を離れると、笑いはみんなが漠然と持っている感情に言葉を与えることで共有を促すための高度な技術なのである。結果的に緊張が緩和されることになる。

博多大吉が伏し目がちに「政治的な笑いには需要がない」と告白している。これはお笑いを生業にする人たちにとっては危険な態度だ。状況が閉塞するほどに、発言できる範囲は狭まり、最終的には弱いものを叩いて笑いを取るか、自分を貶めて笑わせるしかなくなってしまうだろう。日本は戦時中に「決戦非常措置要綱」を作ってエンターティンメントを禁止した時代がある。古川緑波などのお笑いタレントは大変苦労したのだが、こうした苦労は戦後には引き継がれなかったようだ。しかし、それは彼らの職場の問題であって、特に我々が考えるべき問題ではないかもしれない。

日本の笑いは実践が主で、理論的な教育がほとんど存在しないか、存在したとしても西洋喜劇の流れを組んだ古典的なものだからではないかと考えられる。このため体系的に自分たちの笑いを客観視する機会恵まれないのであろう。

戦争が起きると「笑っている場合ではない」ということになり、他人を強制的に戦争へと駆り立てる動きが出る。そこでどのように立ち振る舞うかが生き死にに直結するので、境遇を客観視するような余裕はなくなり、世の中から笑いが消える。現在も「政治を笑のめしてはいけない」という空気が広がっている。敵の存在こそ明確ではないが、社会が闘争状態に近づきつつあるのかもしれない。