筒井康隆と規範の相対化

筒井康隆という名前をTwitterで見かけた。慰安婦像に猥褻なことをしにゆこうかと言って問題になったらしい。どの立場の人が怒っているのかよくわからなかった。ハフィントンポストによると「既存の規範に対抗する人として理想化しすぎてきたのではないか」という声もあるのだという。だからいわゆるリベラルという人が反発しているのかもしれない。リベラルは表現の自由と韓国(を含めたアジアの隣人)を愛しているはずなので、これが屈辱されるのは許せなかったのだろう。つまり、韓国を嘲笑している=政権擁護という自動化が起こっているのだ。

保守も劣化しているが、リベラルも劣化してるんだろうなあと思う。

まあ、筒井康隆が「時をかける少女」の作家だと思っている人もいるだろうから、投稿が下品だと非難する人がいる気持ちはわかる。が、ちょっと驚いたのは筒井康隆を偶像化する人が案外多かったのだということだった。筒井康隆を読んで心理的にアタッチしてしまうというのを非難するつもりはないけれど、かといってそれが永続するというのは感覚的によくわからないし、筒井を読んでいるはずの人が自分の中にある自動化された思考を疑わないというのもよくわからない。

「偽文士日碌」を何ページか読んでみたのだがそれほど面白いとも思えなかった。そもそも、とりとめもない文章が並べられており、その間に「ドキッとする」発想があるというのが、文章の目的のように思えた。これ、文章にしているから「ドキッとする」が、誰でもこれくらいのことは考えているはずだ。しかし、一部の人を除いて、思ったことを口に出したりはしないし、抑圧してしまう(つまり忘れる)ので大した問題にはならない。これをわざと表出させるのが筒井の作風なのだと思う。これをメタフィクションなどと言ったりするのだが、これは1980年代には割と一般化していた概念だ。日本は自分の心情に絡め取られたような「私小説」の伝統があり、そこから反発する形で、現実からの分離を目指すメタフィクションが出てきたのではないかと考えられる。

メタフィクションの目的は書かれていることを主張することではなく、考えること自体の補足なので「伝えること」と「伝えないこと」の境目についてはよく考えてみた方が良いと思う。なのだが、これも普通の人たちの興味を惹くのかはよくわからない。

Twitterは普段発言力を持たない人たちが、世間の抑圧にしばられることなしに発言できるという点にベネフィットがある。これは日本の社会が「過度に空気を読み合う」社会だからであると考えることができる。つまり、日本人は普通の生活では伝えることができないが、言いたいことはたくさんあるので、半匿名の場所で言いたいことをいうということになっている。だから未だに「伝える」ことに意味がある。「伝えない」ことが問題になるのは、伝えることが一般化したあとである。その意味では日本人は「どう伝えるか」を練習した方がよく「伝えることにはそれほど意味がないのではないか」という点について考える必要はないのではないかと思うのだ。

筒井作品を読んでいる人の中にも、筒井康隆の発言には失望したと言っている人がいるようなのだが、その意味でこれが「発言だったのか」ということはよく考えた方がよい。すなわち、普段の言動も「権力と戦う意図があって一貫してなされていた」かどうかよくわからないわけで、従って「それを偶像化したり、嫌ったりすること」に意味があるかどうかもよくわからないということになる。全て演技かもしれないし、演技かどうかを本人が補足しているのかということもよくわからない。

この考えを発展させてゆくと、とんでもない発想自体が無効化されてしまうことがある。高校生のころに筒井康隆の全集を読んだのだが、その頃には筒井康隆が<闘っていた>規範はすでに相対化されてしまっており、闘争自体にはそれほど面白さを感じなかった。断筆宣言も当時はそれなりに刺激的だったが、今読んでも「犯人が誰かわかっているサスペンスを読む」くらいの感動にしかならない。だから、今「とんでもない」と思っている発言も、実は将来的には相対化されてしまうことが予想されるわけで、挑戦自体がそれほど面白いことに思えなくなってしまうのだ。

妄想と発言の境目が曖昧になったり、作者と読み手の間にインターラクションが起こるのを「作品として眺める」のが面白いといえば面白いのだろうけど、そもそもインターネットがそういうものであると言える。つまり、かつての非現実を生きているわけで、それが「なんかあんまり新鮮味がないなあ」という感覚の正体なのかもしれないのだが、それすら考えるのが面倒というか、どうでもよいように思える。

今回の件で一番気の毒だなと思ったのが「老害だ」という意見だった。妄想と現実の間にあるから面白みがあるわけで、単なる老人の妄想だと捉えられてしまうと単にゴミ箱行きということになる。みんないろいろなニュースに反応するのに忙しいので、石原慎太郎も筒井康隆も「老人の妄想」として一緒くたに捨てられてしまうのだ。

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。

 

なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。

だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。

記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。

ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。

うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。

一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。

もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。

誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。

「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。

つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。

これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。

つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。

 

巻き込みリプを嫌う人たち

Twitterの仕様が変わり「巻き込みリプ」が増える懸念があるということが問題になったらしい。ちょっと不思議な騒動だと思ったが、これを考えて行き着いたのは日本のコミュニティの特徴だった。どうやら個人主義と集団主義が入り混じっており、円滑にコミュニケーションをとるためにはこれを意識して使い分けなければならないということなのではないかと思う。さらに考えてゆくと社会で円滑にコミュニケーションをとるための経験と知識が失われつつあり、新しい形を模索しているのかもしれない。

巻き込みリプというのは、調べたのが正しければこういうことのようだ。AさんがBさんと話している。Cさんがやりとりに加わりAさんが抜けた。しかしAさんとBさんの名前が残っていると、Aさんにも通知が行く。これを巻き込みリプといい「迷惑行為」だとみなされるという。

これが問題になるのは、Twitter上の会話がそれほど愉快なものではないからではないかと思った。もし「そうですね、すばらしいですね」という意見だけであればそれほど問題にならないのだろうが、クレームなどの場合には不愉快な体験を拡散してしまうことになる。

だが「不愉快仮説」だけでは解決しない。そこで、そもそも同質ではない人たちと会話をすること自体に苦手意識を持っている人が多いのかもしれないという仮設に行き着いた。フォロー・被フォローの関係でやりとりしているうちはある程度の親密さが確保されるのだが、これがワンホップするだけで「知らない人」になる可能性が高いからだ。つまり、Twitterでは日本人が持っていた、集団主義と個人主義を使い分けるというやり方が通用しないのだ。

知らない人を不快に思う態度は、子供などでによく見られる。多分コミュニケーションとしてはある程度の緊張が伴い、それに耐えられないのだろうし、自我が発達していないので何を主張して何を引くべきなのかということが分からないのだろう。

例えば、かつての日本人は敬語を使うことで距離を置いていたのだが、そうした距離のとり方も理解されていないのではないだろうか。

公共圏での距離のとり方は日本独特のもので、集団主義的傾向の強い韓国人や中国人たちからは「冷たい」と感じられることが多いようだ。韓国人は日本人に対して「この人とはとても仲良くなれた」と感じたあとで裏切られた感覚を持つことが多いという話を聞いたことがある。日本人には「親密な態度を装っているが実は距離をとるためにそうしている」だけという場合がある。

一方で意見調整型のコミュニケーションは西洋系の人たちからは「遠慮しあっていて」正直ではないとみなされることがある。相手の意見を聞いているだけのように見えてしまうようだが、実は聞き返されることを期待しているということが分からないのだ。

つまり、日本人が距離をとってばかりというのも間違っている。古くからある職場ではかなりあけすけな意見が飛び交っているはずで、上から下に対するものもあれば、下からの突き上げもある。このため旧来の日本は稟議書社会で下からの提案を上が決済することになっていた。最近あった、三越・伊勢丹での社長放逐もその一例だそうだ。上からの改革を労働組合が嫌ったのだ。

つまり、古くからあるコミュニティを知っている人は、うわべだけで距離をとったり、下から自分の意見を通したりというように、形式的な関係と本音をうまく使い分けてきたということが分かる。集団主義の体裁をとっていながら、実はとても個人主義だったり、やはり集団主義的な行動が求められたりするわけだ。つまり、明示的な関係と暗黙的な関係をうまく読んで成り立っている社会なのだ。

ここからTwitterで個人が情報発信するというのは、日本でこうした複雑な社会が壊れつつあり、個人として意見形成したり、集団を形成したいというニーズがあるこことが分かる。

しかしながら、明示的な個人主義を体得していないままでこうした情報空間に放り込まれる(自ら進んで参加しているわけだが)さまざまな軋轢が生まれるということになる。

Twitterは、自分の意見を押し付けてくるが何を言っているのかさっぱり分からない人を良く見かける。経験を共有している集団では自分の意見を表明できなくても、周囲が補ってくれる。また共有された価値観のセットも豊富にあるので意見を形成する必要すらない。こういう人が裸で個人主義社会に突入するとこうなってしまうのだろう。

その意味では「Twitterなど無駄」ということもいえるわけだが、スピリチュアル的に言えば「人生は修行なのです」ということになる。つまり、壮大な路上教習なのかもしれない。

 

日本のお笑いはなぜくだらないといわれるのか

はっきり言って、エイプリルフールなんてウザいだけの行事だと思っていたのが、今年はちょっと状況が違った。Twitterのタイムラインに朝から厳しめのツイートばかりが並んでいたからだ。「朝生」の森友問題で興奮した人が多かったようである。そこで、ちょっと場を和ませたいなあと思って嘘ツイートとネタ投稿をしたのだが、当然のことながらタイムラインの緊張を和ませることはできなかった。

そこでいろいろ考えているうちに、茂木健一郎と松本人志氏のお笑い論争にゆきあたった。「なぜ日本のお笑いは面白くないのだろうか」というものだ。

それを考え出すと「よいお笑いとは何か」について考えなければならないのだが、今回の議論を聞いていると「よいお笑い」に関する理論的な構築は全くといっていいほどなされなかったようだ。茂木さんは最近でも「小沢一郎が民主党に復帰すると日本がよくなる」という何の裏打ちもないネタを披露しており、本来たいした学者ではないのかもしれない。これが議論が成り立たなかった原因だろう。

実は現在のTwitterの状況は「よいお笑いとは何なのか」を考える上で大きなヒントを与えてくれる。それは緊張だ。この緊張が不景気からきていることは間違いがない。だが、安倍首相とそのお友達は国家の私物化計画を着々と進めておりデタラメな理論で攻めてくる。それを不快に思っている人たちが騒ぎ、不快に思っている人たちを不快に思っている人たちが反撃するという状態である。つまり、政治は人々に緊張をもたらしているが、解消の糸口がないのだ。こうした極端な状況下でなくても、社会は緊張に満ちている。そこで笑いが必要になる。群れが窮屈だとそれだけで緊張が生まれるのだ。

では、笑いとは何だろうか。犬をくすぐると犬は逃げるかくすぐられても気持ちがいい場所を当ててくる。くすぐられるのが嫌だからだ。しかし人間は別の反応を示す。それは笑いだ。つまり、笑いには緊張の緩和という生理的な目的があるのだ。これは人間が群れで生活しており、逃げ場がない空間で緊張を処理する必要があったからだろう。Twitterも逃げ場がない情報空間を作っているが、人間にはそれを緩和するための手段をまだ獲得していないのだ。

つまり、笑いの基本構造は、緊張とその緩和であると言える。

日本のお笑いももともとは西洋喜劇の流れを汲んでいる。悲劇が劇空間が消滅することで緊張を緩和する一方で、劇中で緊張が起きて劇中で解消するのが喜劇である。例えば「フーテンの寅さん」もこのフォーマットに則っている。寅さんが恋に落ちて緊張する。また、マドンナも何らかの問題を抱えている。これを寅さんが解消すると見ている人たちはほっとできるだ。だが、寅さんは必ず振られるので劇空間が消滅して、緊張は完全に消滅するのだ。

だが、平成期に入って「群れ全体が緊張から解き放たれる」という笑いと並んで台頭したのが弱い人を叩いて笑いを取るという「いじめ型の笑い」だ。いじめられている人をみることによって「自分が攻撃対象でない」ことを知り、なおかつ生活で感じたストレスのはけ口にするというタイプである。いじめられるのは、知的に劣っている人や、見た目の著しく崩れた女性などである。これは「競争意識」に基づいて、かなり緻密に計算されている。

いじめ型の笑いは他人の犠牲を必要とする。だから笑いとしては低俗である。また、いじめによって緩和の緊張は起こらない。単に緊張が持続するだけである。

もちろん、その他の笑いも残っている。例えば権威を持っている人(校長先生)の口調を真似て見せるのには権威がもたらす緊張を無効化する役割があるわけだし、みんながもやもやしていることに言葉を与えて「腑に落ちる」形にするお笑いもみかける。中には力技で「そんなの関係ねえ」という人もいる。これらはすべて緊張の緩和に関連している。ダチョウ倶楽部では「キス」が緊張緩和に役立っている。

これらがすべて「くだらない」のはどうしてだろうか。それは、緊張緩和というオブジェクティブに日本人があまり関心を持たないからではないだろうか。関心は手段の緻密化に向かう。大元の原理には関心を向けず、精緻化に心を砕くのが日本人なのだ。そこで、自動化が起こってしまうのだろう。緊張緩和で笑いが起きたとしても「なぜ笑ってスッとしたのか」ということは考えず、次も同じ動きをしたら同じ感情が得られるのではと感がてしまうのだ。このため、一度流行ったネタを繰り返しやらされて消えてゆく芸人は多い。それは、笑いに理論的な裏付けがないからなのである。

さて、エイプリルフールで乙武洋匡さんが「車椅子を売っぱらった」というネタを披露していた。これにレスがついていたのだが、「センスがいいか松本人志さんに判断してもらおう」という書き込みを見かけて面白いなと思った。ネタを分析するとあまり面白くないのではないかと思う。なぜならば、笑いの前提になる緊張がないからである。緊張しているのは不倫がばれて自虐ネタを披露しなければならないと考えている本人だけで、その緊張を社会と共有しているとは言い難い。

しかし見ている人にも評価の軸がない。すると権威化と原理化が起こるようだ。つまり、松本さんがすべらないネタだと認定したら、それは笑うべきなのだということになるのだろうし、過去の累計で権威化することも起こるのではないか。

松本さんは今回の議論の中で茂木さんをいじろうとしたが、どのようなお笑いが良いものなのかという評価はしなかった。原因は二つ考えられる。松本さんはお笑いの実践家であって評論家ではないので論評を避けたか、お笑いについて構築的な議論なく「何が面白いのか自分でもわかっていない」という二点だ。

もし、後者が正しいとしたら、松本さんは過去に流行ったネタをみんなから飽きられるまでやってゆくしかなく、やがてはとんねるずのように「あの人オワコンだね」と言われるようになるのだろう。だが、松本さん自体のお笑いは「状況の無効化」を狙ったものが多いようだ。いわゆる「シュールな」というものだ。多分、原理があっていくつかの表現を駆使しているのではないかと考えられる。

ちょっと長くなったが、エイプリルフールの軽い嘘が楽しめるような世の中は健全な世の中と言えるし、他愛のない嘘は場を和ませる。来年こそはフェイクニュースやオルタナティブファクトなどに惑わされずに、くだらない冗談で笑いあえるような状況になっていて欲しいものだと思う。

 

東京都で魚の生食を禁止する条例ができるらしい

このほどの当ブログの独自取材で、東京都が魚の生食を全面禁止することがわかった。食の近代化を目指し、オリンピックにふさわしい国際都市の実現を目指す。

ことの発端は猪瀬直樹前都知事の「築地市場が人気なのはワイルドで野蛮なアジア趣味を覗き見にきている外国人が多いからだ」という趣旨のTwiterの指摘だ。猪瀬直樹さんは惜しまれつつ引退したのだが今でも根強い人気があり、その発言は重く受け止められていた。

そもそも築地市場が汚いのは、調理されていない魚を食べるというおぞましい習慣によるものである。こうした後進的なアジア性は科学的に克服される必要があるだろうという議論がTwitterを中心に巻き起こり、普段から環境問題に造詣が深い小池都知事もそうした世論を無視できなくなったようである。

さらに豊洲市場移転プロジェクトには自民党議員の利権が絡んでおり、もし豊洲移転が実現できなければ多くの議員が路頭に迷うばかりか東京湾に沈められてフグなどの餌になりかねないという事情もある。豊洲をより安全にするためには、最大の汚染源である魚を排除する必要があり、冷凍した魚を扱うのが一番安全であることは科学的に100%証明されている事実だ。魚を全て冷凍にしてパック販売すれば地下に溜まっているベンゼンなどの有害物質が付着する可能性も排除できる。このように魚の冷凍化のメリットは大きい。

この方針を徹底するために、小池都知事は都の小学生に副読本を配り「魚を生で食べるのは野蛮」と教えることを義務付ける。先進国で魚を生で食べる文化を持っている国はなく、魚は調理するのが国際的な潮流だ。と同時に電通に「魚を生で食べるのは野蛮だ」という800億円規模のキャンペーンの実行を依頼した。さらに、800人規模の「寿司Gメン」を発足させて、都に8000件以上ある日本食店を巡回する体制をとる。

日弁連は、都の新しい政策は、国民が自由に魚を料理する自由を侵害するもので憲法違反だという声明を出したが、裁判所が違憲判断を出した例は少なく議論への影響力は乏しいものと思われる。


ということで、エイプリルフールネタを書いてみました。みなさんお楽しみいただけましたでしょうか。今日も1日頑張っていきましょう!

松井一郎さん率いる日本維新の会のタチがわるいのはなぜか

今回考えるテーマは「良い愛国と悪い愛国」なのだが、それだと誰も読んでくれそうにないので、日本維新の会に関係したテーマを付けた。さらにアベノミクスはなぜ詐欺なのかを考えた。これを考える直接のきっかけになったのは、森友学園問題で自称愛国者の人たちが我先に逃げ出したのはどうしてだろうというものだった。なぜ利己的な人ほど愛国思想を語りたがるのだろうか。

印象的には「あの人たちのいう愛国は本物じゃないんだろうな」と思うのだが、面倒なことに文章にするには本物の愛国主義を定義しなければならない。だが、愛国主義はさまざま悪用されてきたのでなかなかニュートラルに考えられそうにない。そこで、愛国主義は集団主義の一種であり、集団が家族や企業などではなく、国に拡張されたものだと定義することにする。すると「良い集団主義」について考えればいいことになり少々気が楽になる。

「よい集団主義」を定義するうえで重要なのは持続可能性だろう。つまり、各個人のがんばりが、集団を通じての方がより効果的に蓄積されるとき、その集団主義は「機能している」と考えることができるはずだ。

すると、個人主義は個人間の契約に基づいた価値の交換が行われている形態だと定義できる。個人が価値の交換に納得でき、なおかつそれが全体を活性化させられればそれは機能している個人主義だ。個人主義はイメージ的にはブラウン運動みたいなものなので、運動を阻害する規制は排除されなければならないということになる。

すると集団主義は「個々の契約でみると一方的な価値のやりとりがあるかもしれないが、それが集団を通じて何らかの形で再分配される」から機能するのだということがわかるだろう。それは時間的な蓄積かもしれないし、あるいは空間的な蓄積かもしれない。もし一方的に簒奪されるのなら、それは奴隷制であって集団主義とは言えない。

例えば、終身雇用はよい集団主義だった。若い頃の労働は持ち出しになるが、それが数十年後に戻ってくるからである。再配分が機能している限りにおいてその集団主義は正当化される得ると考えると終身雇用は機能していた。またかつての農村もよい集団主義だったのだろう。若い頃働けば最後まで養ってもらえるからである。

ということは、集団主義が成り立つためにはいくつかの要素があることがわかる。まず集団主義には「生業」が重要で、時間的な蓄積が伴う場合には、その生業が長期間変わらないという条件がつく。再配分が成り立つためには創造された価値を蓄積しておく必要がある、ゆえにそもそも生産設備を持っていなければならない。つまり、集団主義は価値の創出がある場合においてのみ正当化されるということになる。武士のような寄宿層がいたとしてもそれは生産集団としての藩の一機能に過ぎず、単体では存在できない

アベノミクスが失敗したのは、政府と有権者の間に「生産者」がいないために価値の創造が起こらないからだということが言える。価値の創造を行っているのは企業なので、小規模生産者と自民党の間には関係が成り立ちうるのだが、企業が抜けてしまうとプロレタリアートと政党の間には再配分が起こらないのだ。公明党は企業とは関係がないではないかと思われがちだが、島田裕巳の研究によれば農村コミュニティが都市に同化した形態であり中小企業経営者らとのつながりが強く、やはり生産との関係があることがわかる。

ここから得られる景色はちょっと変わっている。つまり「良い愛国」と「悪い愛国」には主張そのものの違いがないということである。違っているのは背景であり、主張だけを見てもそれが良いものか悪いものかは判断できない。しかし、再配分の裏打ちがあることだけは重要である。

この点、アベノミクスは私物化と言われるが、それは必ずしも正しくないことわかる。彼らは生産を持たないかあるいは持続可能性を欠いているので、何らかの形で有権者一般から収奪して、自分たちのシステムに利益を誘導する必要がある。集団の中では利益を分配するのだから、支持者たちの中では私物化ではない。が、その他大勢の有権者にとっては単なる「支持者への利益誘導」であり私物化のように見える。つまり、安倍首相はよいリーダーということになり支持者たちの期待に応えているだけだということになる。唯一の問題は彼が日本全体の首相であるべきで、日本国憲法と法律の許容する範囲で行動することを期待されているということだ。だが、法律を遵守していては集団が維持できないほど、日本は持続可能性が低くなっているのだろう。

このように、集団が持っている再配分機能が失われると、政治家は集団的な人たちのコントリビューションが期待できなくなるということが予想される。それは集団的な考えを持った人たちのコミットメントが将来のリターンによって動機付けられるからだ。だから、政治家は何らかの形で利益が配分されない有権者を繋ぎとめておく必要が生じる。しかもリターンはできないのだから時間軸はより壮大である方がよい。すると「来世で報われる」というさらに長期の時間軸でもよいわけだが、さすがにそれは信じ難いので「国」という壮大な物語で時間稼ぎをするのだろう。社会の再配分機能があるときには「ことさら愛国を叫ばなくても集団主義が機能する」ということになり、ことさら愛国を叫ぶ人はすべからく詐欺師である可能性が高いという結論が得られる。ここでいう詐欺師は約束を守るつもりがあっても、それが実行できない人を含む。

さて、それでも物語を約束出来る人たちはまだ恵まれている。それすら約束できない場合にはどうすらばよいのだろうか。ここで、維新の会が出てくる。彼らは自分たちの支持基盤も生産手段も持たず、自民党から利権を収奪する形で大阪で成立した。しかし、そのままでは衝突が予想されるので協力者の形を取りながら自民党に擦り寄る戦略にシフトした。しかし彼らは自分たちでは価値が創造できないので「彼らの敵である民進党を攻撃する」という形をとるしかなかった。しかし、民進党は野党としての存在感を失ってしまったので、敵としての価値がなくなった。だから維新の会は今行き詰っているはずだ。

日本維新の会のタチが悪いのは、彼らが浮動層を支持基盤にしており、自分たちで価値が作り出せないからということになる。価値が創造ができないから、それを蓄積することもできない。ゆえに常にどこかから簒奪してくる必要があり、なおかつ利用価値がなくなれば捨て去るしかないのだ。ゆえに党首(松井一郎さん)の人格はあまり関係がないということになる。しかし、もし彼が自民党にいたら一生雑巾掛けで終わっていたかもしれない。浮かび上がるには奪い盗るしかないのだ。

さて、集団主義が機能するためには再配分が重要だと考えた。もしこれが正しければ、集団主義が成立するためには「生産が固定的であり」かつ「長時間持続する」必要があるということがわかる。しかし社会が変化してくると、集団主義に依存することはできなくなるはずだ。ここから集団主義は個人主義に移行する可能性が高いということが言える。一方、アメリカでは真逆の動きが出ている。個人主義が行き過ぎると、勝者と敗者の二極化が起こる。すると敗者の側は我慢ができなくなり、集団主義を頼み勝ちすぎた個人を淘汰するような動きが起こるはずだ。このように集団主義と個人主義はどちらかが究極ということはなく、つねに振り子のように揺れているのかもしれない。