つながりたい人々と都市の孤独

先日来、日本人が持っている規範意識について考えている。個人の中に内在する規範意識を持たずに、村落的な監視によって抑えられているというものである。現在の政治状況は村落的な監視が利かなくなった結果、個人の感情や思考が暴走したものであると考えている。これをいろいろと飴玉のように転がしていて、読んでいる人たちがどう思っているかということが気になった。とはいえレスポンスはないはず(その理由は後々考えるが)なので、今回も自分で考えることにする。

わずかな手がかりとして、メンションなしのリツイートというものがあるのだが、どうも反応をとして多いのは「個人の意見が尊重されない」という不満のようだ。集団思考で空気を読むのが日本人だと定義してしまうと「私の意見は取り上げられないのに周りに合わせることばかり強要される」と不満を持つ人が増えてくるのだろう。

しかしながら「空気」はそこにいるすべての人たちが作り出すものであり、神様や権威が押し付けたものではない。つまり「私の意見が取り入れられない」と言っている人も空気作りに参加していることになる。つまり、あなたの意見は取り入れられているのになぜ不満を持つのですかという疑問が生まれる。

例えば、権威とされている人たちも実は日本人としてのメンタリティを持ち続ける限りにおいて空気には逆らえない。安倍首相がおざなりながらも福島に出かけて興味がないにもかかわらず「福島の桜はきれいだなあ」などという下手なパフォーマンスをして、気にかけてもいない被災者の心情を傷つけたから復興大臣に代わってお詫びをするなどというのは、実は権力者もまたそれなりに空気を気にしているからなのだ。

もし自分の意見が取り入れられないのだとするなら、意見表明してみればいい。誰にも聞いてもらえないだろうが、それも「誰の意見も聞いてこなかった」ということの裏返しにすぎない。そもそも、自分の意見を構築できる人が少ないようだ。アメリカや西ヨーロッパではありえないのだが、それでも大人としてやって行けるのが日本なのだ。意見がないのだから表明もできない。

そう考えてみると、実は(西洋的な教育を受けた人は全く別だと思うが)個人として尊重されたいわけではないということがわかってくる。日本人は村落的なつながりに憧れている。それは自分の心情や考えと、集団の心情や考えが全く合致しているという状態である。自分の考えていることは周りも考えていることなのだから、個人が言葉を選んで意見表明してもらわなくてもいいという関係だ。つまり個人が意見を持たなくてもやって行けるのが理想なのだろう。

古くからこのようなニーズはあった。例えば、戦後それを実現したのが創価学会だ。もともと農村から都市に流入してきた人たちの集まりだったという説が濃厚だそうだが、村落にあったコミュニティをそのまま都市に持ち込んだということになっている。しかし、実際にはその教えは急進的すぎて、もともとの寺からは排除されてしまう。個人の価値が接続の源泉にならないのだから、当然どこかから価値を持ってこなければならない。自然村落は地域的なつながりによって閉鎖された空間なのだから、こうした人工集落は解放されているのだろうということが予想される。つまり、日本人は解放された空間が苦手で、つまり個人が意見を持たないためにはかなり大きくて超自然的な権威を置かないと不安を感じてしまうのではないだろうかという仮説が生まれる。

いったん権威に帰依してしまえば、個人の意見表明は必要なくなる。あとは権威をコピペしてくるだけでよい。実際に新興宗教系の人と話をしてみると良いと思うのだが、驚くほど自分たちの教義を理解していない。にもかかわらず熱心にコピペするので語彙だけは豊富になる。うまくいっている新興宗教は「魂のポイント制」を採用しているので、核心が見えないことは気にならないようだ。つまり修行が足りないからもっと教祖様の話を聞かなければならないなどというのである。こうした新興宗教的なコピペ精神は「ネトウヨ」と「パヨク」に共通する。

日本人が理想とするのは、周囲の人たちと何の違和感もなく調和し、何も言わなくても自分の思い通りに物事が進み、何か大きな権威によって自分の意義が肯定されているという状況なのかもしれない。

だが人工集落は必ず敵を作り出してしまう。どんな権威もすべての人の欲求を完全に満足させることなどできないからである。人工的な囲いを作るとかならずそこから排除される人たちが出てきてしまう。安倍政治に不満を持つ人が多いのは、彼らにとって居心地のよい村落作りががお友達の優遇にしかならないからだろう。排除された人たちが見えなければよいのだろうが、SNSが発達するとそういうわけにもいかない。

だが、いろいろ観察すると敵の存在は社会集団が崩壊する原因にはならないようだ。崩壊は内部から進行する。人工的に作り出した物語には必ず綻びがある。それは、外からくる権威を継接ぎにしているに過ぎないからである。日本人が膠着語を話すように、経緯をにかわでくっつけたようなものになりがちだ。そこには主語はなく、従って全体としては意味をなさないのである。

例えば教育勅語は、日本伝来の精神ということになっている。だがそれは西洋的な一神教をもともと多神教的だった天皇の権威を接ぎ木したものではないだろうか。多分キリスト教を参考にして、教義を作り、道徳を作ろうとしたのだろう。しかし、道徳というものをあまり真剣に考えてこなかったために「みんな仲良く」という当たり前のことしかかけず、最後は「何かあったら天皇のために命を投げ出すんだぞ」とおざなりに終わっている。

教育勅語が見捨てられたのは「みんな仲良く一致団結して」という精神を、押し付けた人たちが理解していなかったからである。つまり教育勅語もコピペなのだ。結局、軍部の作戦の失敗を国民に押し付けて破綻した。「みんな仲良く」の中に餓死した陸軍兵士も見捨てられた沖縄も入っていなかったわけである。国民は「守ってくれない権威よりも、美味しいものを食べさせてくれる敵のほうがいいじゃん」と考えたから教育勅語は捨てられてしまったのだ。にもかかわらずその経緯を全く反省していないというのが日本人の道徳心のなさを露呈する結果になっているように思える。

こうして、新しい権威ができては消えというサイクルを繰り返すことになる。で、あれば「個人が意見を精錬してお互いに聴きあうことにしたらいいんじゃないか」などと思うのだが、それだけはどうしても嫌だという人が多いようだ。まあ、人生は魂の修行なのだと考えれば、それもアリなのかもしれないと思ったりもする。

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