最近、コンビニや100円ショップのレジで違和感を感じている。が、記事にするほどでもなさそうなので今まで書かなかった。これを記事にしようと思ったのはある弁護士のツイートを見たからだ。この人の極端な意見ということではなく、これに賛同する人も多いらしい。が、アメリカのように本質的な理解が難しい多民族が混在して生活しているところで得た実感とそれを受け取る日本人の認識が一致しているのかはよくわからないところだ。
100円ショップでは、レジで虚空を睨んでいるお客さんをよく見かける。ちょっとした挨拶をすることが「面倒だ」と感じる人がとても多いらしい。そこで「こんにちは」などと言ってみるととても戸惑われたりする。特に若い人ほどこの傾向が強いようだ。都市や近郊では「相手はいないことにする」のがマナーなのだ。
だったらすべてセルフレジにしてしまえばいいと思うのだが、セルフレジはお酒を購入するための年齢確認や特売品の割引に対応していないらしい。が、セルフレジがもっと便利になれば「対面で買い物するのは面倒」と考える人が増えるのではないだろうか。
他人がインビジブルであることが前提になっている社会で、なんらかの接触が生じると、慌てて「なかったこと」にする人たちも多い。接触によってなんらかの感情が生じるので、それを解消するために自分が今まで話していた相手に話しかけるのだ。誰も話し相手がいない場合はスマホなどが話し相手になるのだろう。これを感じないのは犬の散歩をしている時だけだが、この場合、犬が緩衝装置になっており、同時に「同じものに興味がある」という安心感が警戒心を少しだけ軽減させるのだろう。
都市や近郊に住んでいる日本人にとって公共とは極めて不愉快な場であって、できるだけ自分たちの親密さが保てる村落に引きこもりたいと考えている。こうした考えかたは学校や職場などにも広がっている。つまり「みんなで仲良く」というのは誰の欲求も満たされない牢獄のような状態だということになる。
こうした公共を勝手に「不機嫌な公共」と命名している。
が、不機嫌な公共は民主主義の成立過程を考えると極めて違和感のある概念だ。民主主義はキリスト教圏で発展したので「私がしてほしいように相手を扱う」べきという認識がもとになっている。自分の意見を主張する代わりに相手の意見も聞くというような認識を持てないと、その先にある民主主義がよくわからなくなってしまう。つまり「公共は自分を殺す」のか「自分を活かすために相手の意見も聞いてあげる」と考えるのかで、社会に関する見方は180度変わってしまいかねない。
だが、冒頭に引用したツイートとその反応をみると日本人にとって公共とは抑圧の別の言い方にすぎず、誰もそれを疑っていないことがわかる。政治はさらにひどくて、公共とは人権を抑圧するための大義名分だと考えている政治家が多いようだ。
背景には、余裕を失った社会があるのではないかと考えられる。わかりきった仕事をこなすだけの時間しか与えられず、例外的な処理をこなす時間も、裁量も、知識もない。これが私生活にも広がっている。すると問題は放置するか誰かに押し付けるしかない。問題を起こさないためには、自分を殺して決まったやり方に従うしかない。こうしてどんどん個人の裁量が削られていってしまうのだ。
もちろんこの代償も大きい。不当な扱いをされたと感じた人が一度騒ぎ始めると歯止めがきかなくなる。透明な社会が前提になっているので「今後のお付き合い」を気にする必要などないわけで、であれば体面を気にしたり協調したりすることなく、法律や道徳などを盾にして自分の欲求だけを相手にぶつければいいのだ。こうした人たちはクレーマーと呼ばれるが、これがますます不機嫌な公共を拡大させる。だが、不機嫌で余裕のない社会で自分を通すにはけんか腰になるしかない。
この不機嫌な公共を念頭にしてTwitterの政治議論をみると、保守とは「不機嫌な相手を無理やり動員するために人権を取りあげてしばりつける」という考え方であり、革新とは「社会は不機嫌なので、汚いものから遠ざかる」権利の主張だということだということがわかる。
リベラルの視点から眺めると、彼らに政治的な提案がないのは当たり前だ。そもそも社会や公共は自分たちとは何の関わりもないことなので、そこに提案をしても意味はない。例えば民進党は不機嫌な人たちの注意を引くことはできても動員はできないので、政府への批判が票につながらないのだろう。野党が軽くなると、保守が増長し、ますます不愉快な決まりを作る。するとさらに不機嫌な人たちは怒り出し、社会から引きこもってしまうのだ。
こうした認識はかなり広がっているのではないかと考えられるが、これが続く限り現在のような政治状況は無くならないんだろうなと思う。