日本はのび太ではなくジャイアン

NHKの朝の番組でトランプ大統領の機嫌を損ねることなくNOという方法について真剣に話し合われているのを見た。これを見て危険だなと思った。

多くの人は「日本はアメリカに逆らえない」という前提を持っているようだ。だからTPPではアジアの国を引き込んで交渉力を得るべきであるという結論になる。日本が先導してアメリカがアジア各国の市場に参入できるように手助けすればアメリカも納得するだろうという主張が展開されていた。アメリカはジャイアンに例えられ、日本はのび太の地位にあるという認識も共有されていたようだ。

ところが冷静に考えてみると日本の経済力は世界第3位である。つまりのび太だとしても、とてつもなく太ったのび太なのである。では力の方はどうだろうか。実は日本の軍事力は世界第9位程度なのだ。これより上には西ヨーロッパ諸国、ロシア、中国、アメリカ、韓国しかいないという実力である。つまりとてつもなく力が強いのび太だということになる。

つまり、諸外国としてみたら「ジャイアンが近づいてきている」ようにしか見えない。いくら「他国を攻撃するための武器は持っていません」と言っても、実際に実弾が発射できる装備(自衛隊は装備品などと言っているようだが)を見たら「それって人を殺せますよね」ということになって当たり前だ。

日本としてはアメリカに逆らえないからいうことを聞いて、それを他国にもお願いするだけという意識を持つかもしれないのだが、実はジャイアン同士が手を組んでのび太を襲っているようにしか見えていないということである。

こうした自己認識は他国への潜在的脅威になりかねず改めなければならないとは思うのだが、賢い解説委員がたくさんいるNHKでもアメリカが出てくると70年前の感覚を引きずってしまうんだなと思った。思い込みは恐ろしいものだ。

情弱に絡まれたら覚えておきたいルール

面白い体験をした。山本一郎さんが建築エコノミストの森山さんを批判している記事についてコメントしたところ絡まれたのだ。山本さんはいろいろなニュースに首を突っ込んでは話をかき回している。不利な側について話を搔き回す役割を担っているので、誰かが雇っているのかもしれないと思う。

とはいえ、山本さんは形成を逆転することはできないので、情報を足して「なんだかよくわからないなあ」という状況を作り出すというテクニックを使う。リンク先のニュースを見たところ、さまざまな技術的な情報が並んでいて精査が難しくなっている。だが、記事の趣旨はそこではなく「森山さんは怪しい」というものだ。つまり技術情報は飾りである可能性が高いのだ。

ということで、山本さんが通常運転なので「いつものクオリティなんだなあ」と香ばしいようなしょっぱいような優しい目でコメントした。もはや芸と言っても良い領域だし、森山さんが「怪しくない」とも思ってはいない。都の委員を退任されたということで「逃亡だ」という声が出ているのも知っている。だが、それでも山本さんをみると中身というよりも「あ、山本さんが出てきたってことは、豊洲やばいのかな」とか「いよいよ玉切れかな」などと思えてしまうのである。これは仕方がないことだ。

絡んできた人が面白いかったのは「山本さんをdisっているので、当然森山さんの味方であり、と同時に築地推進なんだろう」と思い込んでいるように思えたことだ。つまり「かなりの量の自動類推が働くのだがそれに気がつかない」で話を進めてしまう人が、ネットには結構多いことになる。

そこで「豊洲推進したいんだったら山本さんを出すのはあまり得策ではないですよね」という説得素をしようと思ったのだが「俺は絶対に正しい」との一点張りだった。それだけでなく「お前、俺にチャレンジしてるんだろう」という警戒心が行間からにじみ出ていた。ここでわかるのは「実は豊洲にはそれほど関心がない」ということである。豊洲の移転が白紙になっても別にどうでもいいと思っているが、築地派の意見が通ってしまうのは許せないのである。だから、表題について語っても無駄なのだ。

そこでプロフィールを見に行ったのだが「情弱です」と書いてあった。情報処理に自信がないわけだから「お前リテラシーがないよね」みたいなコメントは火に油を注ぐ可能性がある。そこで「あんな複雑な文章を読んで確信が持てるなんてすごいですねえ」ということにした。すると相手は攻撃する動機がなくなるので、突っかかってこなくなる。実際にそうだった。つまりたいていの人は実は表題ではなく自分にしか興味がないのだ。

つまり最初から豊洲なんかはどうでもよくて「豊洲問題を通じて自分が正しいことを訴えたい」と思っていた可能性が高い。なぜ豊洲問題にそれほどアタッチしてしまっているのかはわからないのだが、小池百合子都知事はいわゆる「生意気な女」カテゴリーなので、それに対する反発があるのかもしれないし、別の理由で自民党が好きなのかもしれない。

この人は明らかに思い込みがあって情報を色々足しながら、結局最終的には「俺を見てくれ」とか「俺を認めてくれ」と言っている。で、それが満たされないと相手に暴言を吐き、妥当しようと試みる。つまり「お前が俺の心理状態を見て、忖度して会話を合わせてこいよ」と言っているわけである。大人の世界では恥ずかしいとされることがネットでは堂々とまかり通る。普段、他人の目が気になってわがままに振る舞えないと感じている人ほど、匿名という安心感から子供返りしてしまうのだろう。

ただ、この人だけが特殊なのではない。例えば、自民党が好き放題しているのは「政治リテラシーが低く政治への参加意識が薄いからだ」と思い込んでいる人たちがいる。彼らはバカだから騙されているだけで、自分たちが啓蒙してやればおのずと野党への支持が集まり自民党政権はなくなるはずだなどと陶酔しているのである。情報は多く出ており、それでも野党支持が集まらないのだからなんらかの理油があるはずだ。が、それは全く考えないのだろう。

つまり情弱という人たちは、情報リテラシーが低いわけではなく、物事の理由を「相手がバカだから」と考えるという点と、信じているソリューションが非常に単純であるという点に問題があるのだ。絡んできた人は「山本一郎が正しいということを証明できれば、女が政治にしゃしゃり出てくることはなくなる」と考えているのだろうし、野党共闘の人たちは「野党さえまとまれば自民党政府は終わる」と信じているのだ。

本当に「やばい」と思ったら、どうにかして状況を変えなければならず、そのためには原因の特定が必要になる。が、民主主義の危機を叫んでいる人たちにそんな形跡は見られないので、実はそれほどの危機意識はないという結論になる。つまり野党共闘を叫んでいる人たちも実は民主主義なんて自然と守られるくらいにしか思っていないのだ。だが、こうした思い込みは社会を健全に保つためにはかなり有害なのかもしれない。

森友問題が盛り上がらない理由を仮説を立てて考えてみた

今日は確かめようがない仮説の話。財務省が森友学園に勝手に安い価格で国有財産を売っぱらっていたことが明確になった。誰が入れ知恵しているのかはわからないが、籠池理事長は財務省を泳がせておいて、持っている材料を小出しに攻めてくる。すると「財務省は今度も嘘をついていたよね」ということが明らかになる。非常にうまいやり方だといえるだろう。

もう国民の中に財務省を信用する人は誰もいないだろうし、安倍昭恵も関わっていたのだから(少なくとも名前が使われるのを黙認していた)安倍首相の宣言が確かなら首相退任は避けられない。

が、世論は全く盛り上がらない。なぜなのだろうか。3つの仮説を考えてみた。

1つ目の仮説は攻め手の問題だ。民進党に信頼がないという理由がありそうだ。しかし、そもそもなぜ民進党が信頼されないのかということがわからない、これを解くためには別の「盛り上がっている」事例を引き合いに出す必要がある。豊洲の問題があれだけ盛り上がっているのは、都政に携わる人たちがなんらかの利権を獲得しているからだと考えられる。つまり「相手の得」が「自分たちの損」であるという理解があり、得をした人を罰するために小池都知事と都民ファースとの会があると考えるとうまく行く。「民進党」が盛り上がらない理由は、自民党に誰も私服を肥やした人がおらず、さらに民進党は国民の他罰感情を利用して政権をかすめとろうとしているという理解があるからではないかと思われる。

このようなコンフィギュレーションは日本人には説明不要だが、実はかなり複雑な情報がないと理解されないのではないかと思う。敵味方という文脈の方が、適当か不適当かという対象物よりも重要視されているからである。

民進党が有権者の支持を得られない理由だけはわかる。「俺たちにやらせてくれたら消費税増税はしない(つまり損はしない)」といって政権を奪取したが、消費税増税を押し付けた「嘘つき」だからである。つまり彼らは嘘で有権者の貴重な票を簒奪した悪人であり、日本の村落的なルールでは決して許されない裏切り行為なのだ。

一方で、日本人は納税者感覚を持っておらず、財務省が自分の財産が勝手に処分したという考えを持っていないのではないかという仮説も立つ。つまり、日本人は大局的な観点から損得を計算しておらず、目先に取引関係に強い関心を持っているのではないかという仮説につながる。もし財務省が籠池さんからなんらかのキックバックを受けており「おいしい思い」をしていたら違うリアクションがあったのかもしれない。

そもそも、日本人は最初から民主主義というものを信じておらず、自分も安倍首相たちとお近づきになれば、いい目をみることができるかもしれないと考えていたという可能性もある。これが最後の仮説だ。かつて国民が政府の不正に怒っていたのは政治というものが自分たちとは遠く離れたところで行われていて、自分たちのあずかり知らぬところでおいしい思いをしている人たちが多いと考えていたからなのかもしれない。が、安倍首相はネットを通じて国民に直接働きかけたために「俺もうまくやったら籠池のおっさんみたいになれるかもしれない」と感じているのではないだろうか。安倍政権を擁護する人の中には「大企業が傾けば俺たちの暮らしがダメになる」という人が多い。例えば東京電力が原子力発電をやめれば不況になって給料が下がるというような考え方だ。裏返せば普段からTwitterなどで安倍政権を擁護しておけば、悪いようにはされないという意識があるのかもしれない。

ここから日本人は、自分のところに得が回ってこないのに、別の人だけが得をするのがとても嫌なのではないかという大きな仮説が浮かんでくる。これを確かめる術はないのだが、この視点を持つといろいろなことがうまく説明できる。今回は籠池さんも学校をなくしており、最終的に「得」はしていない。ということで籠池さんへのバッシングにはならない。財務省は振り回されているだけであって特に得はしていない。安倍昭恵さんも特に得はしていない。さらに安倍総理も特にはキックバックなどを受けているわけではない。すると、国民の多くが向かう「敵」が作られないのだ。

多分、加計学園の件も、学園関係者が私服を肥やして豪勢な生活をしていて、一方で関連自治体が困窮しているという絵を作らない限りそれほど盛り上がらないのではないか。少なくとも銚子市は大変困窮しているわけだが、特に同情は集まっていない。他人の損にはあまり同情は集まらず「自己責任でしょ」ということになる。やはり「誰かが得をしている」という絵が重要なのではないだろうか。

もし、これを盛り上げたければ「加計学園の件を追求すれば嫌なこと(消費税が上がるとか財政が破綻するとか)」が避けられるという絵を描かなければならない。これは小泉首相がやったやり口だ。なんとなく納得されれば国民はそれほど深く考えずそのアイディアに乗るだろう。が、民進党は一度それに失敗しているので、誰か別のプレイヤーが必要ということになる。

日本人は民主主義のような内面化されたルールが一人ひとりを自制するなどということは信じておらず、絶え間ない相互監視を通じて相手を縛り付けることだけが損を回避する唯一の手段なのだと考えているのではないだろうか。民主主義は一流国として海外とお付き合いするためのドレスのようなものであって、決して物事の本質ではないということになる。

すでに監視社会に住んでいる日本人

面白いつぶやきを見つけた。監視されていると感じることによって息苦しさを感じることを「パノプティコン」と呼ぶのだそうだ。

共謀罪の議論が明後日の方向に進みつつあるなと思った。この議論が難しいのは西洋のように個人が内心の自由を持っている国とそうでない日本に大きな違いがあるからだ。以降の議論は「そもそも日本人には内心の自由を持っていない」という前提で進める。

日本の会社に入ると大抵は飲み会に参加することになる。上司がいるわけではないが、居酒屋で愚痴をこぼし合う。しかしこれは懇親会ではなく、相互監視のための組織で「抜け駆け」しないようにお互いを監視しつつ、どの程度の行動なら許されるのかということを探り合っている。日本人にはこうした非公式のコミュニケーションパスがあり、例えば上司への稟議などもこうしたルートが使われるし、ここから排除されることで「根回しされていなかった」と騒ぎ出す。

Wikipediaを読む限りではベンサムの考えるパノプティコンの概念には、権威が貧乏でだらしない人たちを監視して、社会全体の幸福度を上げて行こうという考え方があるようだ。つまり、ベンサムは街でダラダラして貧困に落ち込んでいる人たちを「自己責任だ」と考えていて、監視しないと身なりを整えたり立派に働いたりしないダメな人たちだと考えていたことになる。つまり、内心にディシプリンがないから、彼らはダメなのだと考えていたようだ。しかし、日本人はディシプリンがないのに、社会的にはお行儀がよいことで知られている。それは、お互いを常に監視しあっているからなのであろう。

このディシプリンのなさとコンテクスト依存は時に大変な問題を起こす。二階派には有権者を大切にしようというディシプリンはなく、関心事は「誰がどれだけ偉くなれるか」ということだけだ。だから今村復興大臣が「東北でよかった」と発言しても誰も疑問に感じない。彼らにとって政治とは大臣の地位とそこで扱えるお金のことであって、東北の被災し者たちの相手ではないのでそれは当然だ。これが問題になったのは、記者という「コンテクストが異なる」人たちが失言を求めてたむろしていたからである。彼らの目的は政治家の失言を集めて視聴率を集めたり、名前を売ることなので、二回幹事長からすると「排除されなければならない」のだ。

このパノプティコンの考え方が否定されるのは、自分のことは自分自身が一番よく知っているので、他人からあれこれ指図されなくても、身を保ち得るし、社会全体としても高い功利が得られると考えるからである。実際には東ドイツはパノプティコン社会だったが、経済的には西ドイツとの競争に負けてしまった。

いずれにせよ、日本にこうした非公式な縛りあいの関係を見つけるのは難しくない。そもそも学校で友達同士の相互監視があり(先生は排除されるので告げ口すると嫌がられる)PTAでもお互いの目が光っており「私はこんなに苦労したのだから、次の役員も苦労すればいい」と考える。さらに引退すると自治会などの組織があり、お互いのライフスタイルについて干渉し合っている。

窮屈だという人もいる。例えば先生に縛られるのが嫌だという子供は先生に隠れてこそこそと自分たちだけの集団を作る。ではそこで自分たちの生き方を追求するかといえばそんなことはない。LINEで自発的な監視網を作り24時間監視し合うのだ。

ここまでで言えるのは「共謀罪」などなくても日本人はお互いに監視し合っていて、それに息苦しさを覚えているということだ。日本が監視社会なのは政府の陰謀ではないというのも重要だ。つまり日本人は「自発的にお互いを縛りあって」いるのだ。

では、共謀罪ができても社会は変わらないのかという疑問が出てくる。これに応えているコラムは多くないが、ニューズウィークに「共謀が罪なら、忖度も罪なのか?」というコラムを見つけた。つまりもともと相互監視的な性質があるので、ちょっとした変化があっても社会の雰囲気が一気に変わってしまう可能性があるのだ。つまり「単なる犯罪防止のために」とルールを変えてしまうと、非公式のコミュニケーションルートが過剰に反応するので、コントロールが不能になってしまう可能性が極めて高いのだ。冷泉はこれは「ハイコンテクスト」という概念で説明している。

この実例を見つけるのも簡単だ。内閣が人事を握るようになると、法令を破ってでも内閣の要望に応えなければならないという気持ちが生まれた。一方で、自分たちで「人道的に」就職先を作ろうという天下りスキームができた。これは内閣の指示が曖昧で成果が出しにくいにもかかわらず、数値目標で処遇が変わるようになってしまったからだと考えられる。今言われている「忖度」はハイコンテクストな組織の暴走なのだ。

ここから言えるのは「お互いが抜け駆けしないように監視し合う」内なる相互監視をやめない限り、パノプティコンは無くならないということになる。何もかも政府のせいにしてはいけないのでである。と同時に日本人が極めてハイコンテクストな(日本語でいうと「阿吽の」)社会に住んでいるという理解なしに制度を変更したり批判してはいけないのである。

Uniqloのキャンペーンを見て、日本にデモがない訳を考える

Uniqloが面白いデニムのキャンペーンを始めた。なぜ、Uniqloが日本では通用してもアメリカで苦戦するのかがよくわかる。

Uniqloだけをみつめていてもよくわからないので、Appleがなぜもてはやされるのかを見てみよう。Appleはもともと巨人IBMに対抗するというイメージで成功した。コンピュータは専門的な知識が必要だと考えられていた当時、Appleのパソコンはグラフィカルインターフェイスを持っていて「誰でも簡単に」使うことができたのだ。これが巨人や権威をうちたおすというイメージに転換され、クリエイティブな人たちに受け入れられた。彼らの目標はパソコンで作品を作ることであって、コンピュータを操作することではなかった。

つまり、価値観を通じて企業と消費者が結びついていて、製品はその間を結びつける媒体になっている。価値観で結びつくためには、当然ながら消費者の中に価値観がなければならない。価値観は「生き方」である。こういうアプローチをライフスタイフ型という。

同じことはDIESELにも言える。DIESELの現在のキャンペーンは「壁を壊す」というものだが、当然ながらトランプ大統領のメッセージの否定になっている。つまり、消費者の中に価値観があり、商品を買うことでその価値観を発露しているということになる。政治は当然ライフスタイルの一部なので、アパレルメーカーが政治的メッセージを発するのは当たり前のことだ。

ここでUniqloのキャンペーンを見てみよう。Uniqloのキャンーペーンは、デニムの聖地であるロスアンジェルスで様々な形のデニムを研究するというものだ。やっていることはデニムの3D加工である。つまり、デニムは工業生産品として扱われており、その加工を「効率的に行う」ことで、できるだけ安価に人気のデニムが生産できることになっている。これは極めて工業生産品的な扱いかたである。それを象徴するのが「イノベーション」で、イノベーションそのものがかっこいいということになっている。

こうしたやり方は「みんなと同じものを」「より安く」手に入れたい日本人には受けるやり方なのかもしれない。しかし疑問もある。3D加工は何のライフスタイルの反映なのだろうか。

3D加工というのはもともとアメリカ人のお金持ちが「履き古したようなジーンズ」をできるだけ早く手に入れたいという欲求から生まれた。その祖型はビンテージのジーンズだと考えられる。ジーンズはもともとワークウェアなので、これ見よがしではないが高級感は出したいというような気持ちの発露なのだろう。例えていえば、ステーキではなくおにぎりを食べたいが、やはり近所の惣菜屋の弁当は嫌なので梅干しを南高梅にして、その伝統やうんちくを語るというような感じなのではないだろうか。

ところが、Uniqloはロスアンジェルスで3D加工のものを安く作れるという方向に舵を切ってしまう。確かにいろんなジーンズがあるけれど「どれがUniqloのオススメですか」ということはよくわからない。「いろいろ作ったからあとは自己責任で選んでよ」ということになっている。なぜそうなるかというと、日本人には作り手にも受け手にもライフスタイルがないからである。

まずUniqloにはデザイナーは存在しない。そもそも個人の価値観で消費者を引っ張るという考え方がないからだ。デザイナー集団は外注になっていて「部材」の一つとして扱われている。かといって、消費者にどんなデザインが欲しいのかを聞いても「よくわからない」というような答えしかも取ってこない。それは、消費者も「今流行っているものを手っ取り早く教えて欲しい」とは思っても、個人の価値観が存在しないからではないだろうか。多分、日本人にライフスタイルを聞くと「より安く」「より楽に」ということになるはずだ。

「人は見た目が100%」というドラマを見ているのだが、テーマは「男性や世間に受け入れられるためにファッションを選ぶ」というものになっている。つまり日本人にとっては「人は他人からどう思われいるかが100%」なのだ。

これは日本人にとっては極めて自然なことだ。日本人は政治的な意見を持つことを自分に禁止しているのだが、これは政治的意見に限らないということがわかる。つまり、日本人は自分自身がより好ましいライフスタイルを持つことを禁止していて、他人にもそれを強制するのだということが言える。日本人がライフスタイルを維持するのは他人の目を気にしているからなので、そこに協定が加わると「楽な方に」と流れてしまう。これを理解すると、次のような問題にも応用できるだろう。

  • なぜ、日本ではデモが起きないのか。
  • なぜ、野党がだらしなくなり、選挙がないと、自民党の中で失言が増えるのか。

また、改革は自己目的化するのだから、政治改革にはめざすものがなくなり、政治改革や民主化の推進が自己目的化した挙句、何も達成できないということになる。これはUniqloのキャンペーンでデニムのイノベーションが自己目的化しているのと同じことなのである。

Sketch Upで部屋の居心地をシミュレーションする

Sketch Upで部屋の模型を作った。手順を踏むと意外と簡単にできる。

枠組みを作る

まず、壁と窓を作った。本当はパンチングするとよいのだろうが窓を寸法通りに配置する方法がわからなかったので、壁を四角に分割して窓を当てはめた。ということで壁に変な線が入っている。枠線を取り除いてからグルーピングするという方法があるらしい。

家具を配置する

家具の寸法をかたっぱしから測って模型を作る。IKEAの家具は3Dデータが揃っているが、無印良品も少しだけ3Dデータが見つかることがある。基本的にユニットシェルフばかりを使っているので作業としては楽だった。

調度品を置く

Appleのパソコンなどは3Dデータがある。植物もデータを作っている人がいるので、植木鉢だけ再現した。別ファイルを作って、そこで作業して部屋に持ち込むのが一番簡単だった。

あとは100均で買ったボックスなどを入れて行く。本なんかもシミュレーションするとよいのだろうが、まあそこまでしなくても大体の雰囲気はわかる。

日当たり

日当たりをシミュレーションすることができた。北を設定するプラグインがあるので、これを導入して北を指定して、影をつけて行く。
近づくとこういう感じ。描画に時間がかかるが影が描かれている。

影設定というウィンドウがあり、左上端にあるボックスをクリックすると影がつく。季節や時間ごとの調整も可能だ。

知らずに自治会の役員なんかをやるとちょっと危ない? 法律の改正

いつものようにFeedlyを見ていたら政府広告が挟まっていた。個人情報保護法が変わるのだそうだ。もしかしたらニュースを見た記憶があるのかもしれないのだが、元来ぼーっとしたタチなのであまり意識していなかった。

ポイントは2つで、5000名以下の名簿も保護の対象になるということと、匿名化した個人情報の活用ができるようになるという点だ。後者はこれまでは統計データなら利用はできていたのだが、今後は統計処理しなくても個人の購買履歴や移動履歴などを活用できるということになる。活用というとよくわからないが、ぶっちゃけ「定期券を持っている人がどこからどこまで移動したか」という個人単位のデータを売り買いできるということである。マーケティングデータとしてはかなり貴重なものなので需要は高いだろうが、自分の購買履歴や行動履歴を勝手に売り買いされるというのはどうも「面白くないなあ」という気がする。こうした議論を恐れてか、広報ページの書き方は「公益」を全面に押し出した書き方になっている。

が、意外と見落とされそうなのが「5000名以下の名簿」の方である。タイトル立ては「5000名以下の個人情報を扱う事業者」となっているので、一般の人たちには関係なさそうだが、広報ページには次のようにある。

例えば、これまでは大勢の従業員を抱える企業や大量の個人情報を事業に利用していた企業などが個人情報保護法の主な対象でしたが、これからは中小企業や個人事業主も対象になります。また、個人情報を利用する事業が営利か非営利かは問われないため、町内会・自治会、学校の同窓会などにも、個人情報を取り扱う際のルールが義務づけられることになります。

つまり、自治会の役員を引き受けて名簿を作ったら「事業者扱い」されてしまうのだ。注意しなければならないことはいくつもあるが、管理にはこのような決まりが課せられる。

取得した個人情報は漏洩などが生じないように、安全に管理しなければなりません。

  • 紙の個人情報は鍵のかかる引き出しで保管する
  • パソコンの個人情報ファイルにはパスワードを設定する
  • 個人情報を扱うパソコンにはウイルス対策ソフトを入れる

など

Excelのパスワードの設定の仕方がわからなかったり、ウィルス対応ソフトが入っていなかったりすると、漏洩した時に「注意義務違反」になる可能性があるのだ。具体的には次のようなアドバイスがあるという。名簿を集める時に「親睦と連絡のために使いますよ」などということを明示した上で、了解を得る必要があるということだ。

そのため、同窓会名簿や自治会名簿を作成する場合には、①利用目的の特定(改正法第15条)、②利用目的による制限(改正法第16条)、③適正な取得(改正法第17条)、④取得に際しての利用目的の通知等(改正法第18条)、⑤第三者提供の制限(改正法第23条)等の個人情報取扱事業者としての義務を遵守する必要があります。これらの義務を遵守しているのであれば、従前と同様に名簿を作成することはできます。
なお、名簿を配布する先の会員が個人である場合には、個人情報保護法の適用はありませんが、会員に対して、名簿の紛失や転売をしないように注意喚起をすることが大切です。

もちろん、注意義務違反で直ちに逮捕されるということはない。しかし、注意義務違反が見つかった後で、監督官庁(個人情報保護委員会)の命令に従わなかったりして悪質性が認定されると、最終的には六ヶ月以下の懲役(または30万円以下の罰金)まで行くことがあるということになるようだ。逆に「いい加減な管理をしたから情報が漏れた」などというクレームも監督官庁へ報告することになるという。だが、現行法下で罰則を受けた事例はないとのことである。また、名簿が漏洩して、経済的な損出が出た時にも民事上賠償の責任が出てくることになる。

難しいことはわからないからパソコンでの名簿管理はやめようとする人たちもでてくるだろうが、そうなると手書きということになるので、あまり現時的とは言えない。今のうちに名簿管理ソフトのパスワード設定方法とか、ウィルス管理ソフトの勉強をしておくべきだろう。現在集めている名簿については取り直しは必要ないとのことだが、新しく取る名簿は適用対象になるということなので、五月末以降は運用に気をつけたい。

メールの盗聴システムを騒いでいる人たちに言いたいこと

アメリカが日本にメールの盗聴システムを提供したというのが話題になっているようだ。朝日新聞にも記事が出ている。

が、なぜ騒ぎになっているのかよくわからない。なぜならばメールは盗聴されるものだからである。だからメールは「誰かに盗み見られてもよい」ように書かなければならない。

これはメールの根本的な仕組みによる。例えば、あなたが共産党より左側にいる組織のメンバーで、自宅のパソコンから組織にメールを送るケースを考えてみよう。あなたのパソコンはプロバイダー経由でメールを発出するわけだが、それが直接極左組織に届くことはない。どうがんばってもどこかのサーバーを経由する。つまり経由地のサーバーが暗号化を施していなければ、途中経路のメールは盗み見られてしまう可能性があるのである。だから極左組織のメンバーであるあなたはメールを使ってはいけない。

これを防ぐための仕組みは提供されている。例えばG-mail(フリーメールだから安全じゃないと思っている人もいるだろうが、かなり安全なシステムだ)はメールの暗号化に対応しているそうだ。メールそのものが暗号化されれば、途中で盗み見られても中身がわからない。

だが、たまたま見かけた2016年の記事によると、暗号化に対応しているプロバイダーはほとんどないそうだ。また、暗号化は途中経路の暗号化のようで、メールそのものは暗号化されていないようだ。こうした暗号化されていないものを「平文」という。平文のメールは途中で開けられたらそこで中身が見られてしまう。かといってメールそのものを暗号化してしまうと、到達しなかったり、到達しても相手が読めなかったりということがある。いずれにせよ、暗号化の動きが広がっているのは、CNETによると政府がメールを盗み見ようとするためだという。

スノーデンの文書について本当に知りたいのは、こうした通信がSSL対応した通信網(SSLにもいろいろなバージョンがある)にどれくらい有効かということなのだが、かなり前の資料になるはずなので、現在の仕組みにどれくらい対応しているかはわからない。というわけで資料としてはあまり意味をなさないのではないかと思う。

クレジットカードの文章も当然盗み見られるのだから番号は知られていると考えたほうがよい。Amazonで買い物してもフルのクレジットカード番号を記載しているものはないはずである。いずれにせよ、明細をチェックして怪しい動きがないかはチェックしておいたほうがいいし、余計なカードは作らないほうがよいだろう。

だが、こうしたシステムがテロの防止にどれくらい影響力があるかはよくわからないところである。例えば国家転覆を狙うテロ組織は当然中国共産党から支援を受けているだろうが、中国といえばサイバー攻撃が盛んな国だ。彼らは当然暗号化された連絡手段を持っているだろう。一方、一般庶民のメールは盗み見放題ということになる。

ということで冗談で「〜さんをやっちまおうぜ」というようなメールを送るのはやめた方が良い。共謀罪が成立すればそれを受け取っただけで罪に問われる可能性が出てくるからだ。

なお、メールを使うよりは、SNSのメッセージアプリを使った方が安全性は高くなる。いろいろなサーバーをホップすることはないからだ。しかし、例えばLINEは捜査機関に情報を開示しており(開示した件数も公表している)絶対に公的機関にバレないということはない。リンク先は、令状に基づくものがほとんどだったと書いてある。つまり「令状に基づかない」ものがあるのだ。

多分、メールを盗み見るというのは、違法ないしは違憲なのだと思うが、戦争はいたしませんという憲法を持っていてもこの体たらくなのだから、憲法で信書の機密性が守られているなどと信じるのはあまり得策ではないのではないだろう。現在の法体系では少なくとも政府がメールを盗み見るなどということは表沙汰にはできないだろうが、既成事実を作って法律さえ変えてしまえばそれも可能になる。共謀罪の成立過程を見ていると、政府はもはや一般人も網にかけるつもりでいるらしく、それを隠そうともしないので、いわゆる「監視社会」が実現する日は遠くないのかもしれない。

みんな仲良くと人権意識は相容れないのか

最近、コンビニや100円ショップのレジで違和感を感じている。が、記事にするほどでもなさそうなので今まで書かなかった。これを記事にしようと思ったのはある弁護士のツイートを見たからだ。この人の極端な意見ということではなく、これに賛同する人も多いらしい。が、アメリカのように本質的な理解が難しい多民族が混在して生活しているところで得た実感とそれを受け取る日本人の認識が一致しているのかはよくわからないところだ。

100円ショップでは、レジで虚空を睨んでいるお客さんをよく見かける。ちょっとした挨拶をすることが「面倒だ」と感じる人がとても多いらしい。そこで「こんにちは」などと言ってみるととても戸惑われたりする。特に若い人ほどこの傾向が強いようだ。都市や近郊では「相手はいないことにする」のがマナーなのだ。

だったらすべてセルフレジにしてしまえばいいと思うのだが、セルフレジはお酒を購入するための年齢確認や特売品の割引に対応していないらしい。が、セルフレジがもっと便利になれば「対面で買い物するのは面倒」と考える人が増えるのではないだろうか。

他人がインビジブルであることが前提になっている社会で、なんらかの接触が生じると、慌てて「なかったこと」にする人たちも多い。接触によってなんらかの感情が生じるので、それを解消するために自分が今まで話していた相手に話しかけるのだ。誰も話し相手がいない場合はスマホなどが話し相手になるのだろう。これを感じないのは犬の散歩をしている時だけだが、この場合、犬が緩衝装置になっており、同時に「同じものに興味がある」という安心感が警戒心を少しだけ軽減させるのだろう。

都市や近郊に住んでいる日本人にとって公共とは極めて不愉快な場であって、できるだけ自分たちの親密さが保てる村落に引きこもりたいと考えている。こうした考えかたは学校や職場などにも広がっている。つまり「みんなで仲良く」というのは誰の欲求も満たされない牢獄のような状態だということになる。

こうした公共を勝手に「不機嫌な公共」と命名している。

が、不機嫌な公共は民主主義の成立過程を考えると極めて違和感のある概念だ。民主主義はキリスト教圏で発展したので「私がしてほしいように相手を扱う」べきという認識がもとになっている。自分の意見を主張する代わりに相手の意見も聞くというような認識を持てないと、その先にある民主主義がよくわからなくなってしまう。つまり「公共は自分を殺す」のか「自分を活かすために相手の意見も聞いてあげる」と考えるのかで、社会に関する見方は180度変わってしまいかねない。

だが、冒頭に引用したツイートとその反応をみると日本人にとって公共とは抑圧の別の言い方にすぎず、誰もそれを疑っていないことがわかる。政治はさらにひどくて、公共とは人権を抑圧するための大義名分だと考えている政治家が多いようだ。

背景には、余裕を失った社会があるのではないかと考えられる。わかりきった仕事をこなすだけの時間しか与えられず、例外的な処理をこなす時間も、裁量も、知識もない。これが私生活にも広がっている。すると問題は放置するか誰かに押し付けるしかない。問題を起こさないためには、自分を殺して決まったやり方に従うしかない。こうしてどんどん個人の裁量が削られていってしまうのだ。

もちろんこの代償も大きい。不当な扱いをされたと感じた人が一度騒ぎ始めると歯止めがきかなくなる。透明な社会が前提になっているので「今後のお付き合い」を気にする必要などないわけで、であれば体面を気にしたり協調したりすることなく、法律や道徳などを盾にして自分の欲求だけを相手にぶつければいいのだ。こうした人たちはクレーマーと呼ばれるが、これがますます不機嫌な公共を拡大させる。だが、不機嫌で余裕のない社会で自分を通すにはけんか腰になるしかない。

この不機嫌な公共を念頭にしてTwitterの政治議論をみると、保守とは「不機嫌な相手を無理やり動員するために人権を取りあげてしばりつける」という考え方であり、革新とは「社会は不機嫌なので、汚いものから遠ざかる」権利の主張だということだということがわかる。

リベラルの視点から眺めると、彼らに政治的な提案がないのは当たり前だ。そもそも社会や公共は自分たちとは何の関わりもないことなので、そこに提案をしても意味はない。例えば民進党は不機嫌な人たちの注意を引くことはできても動員はできないので、政府への批判が票につながらないのだろう。野党が軽くなると、保守が増長し、ますます不愉快な決まりを作る。するとさらに不機嫌な人たちは怒り出し、社会から引きこもってしまうのだ。

こうした認識はかなり広がっているのではないかと考えられるが、これが続く限り現在のような政治状況は無くならないんだろうなと思う。

料理本と民主主義

Twitterを見ていたらフリーライター氏が料理本についてコメントしているのをみつけた。多分、仕事の宣伝か新しい仕事の獲得絡みだとは思うのだが、今の料理本はよろしくないと主張している。この中に「分量」や「火の通し方」について、経験がものをいうのであり「誰でもわかる(ような)書き方」になっているのはけしからんと書いてあった。

料理職人のようで面白い感想だなあと思った。料理本のレシピというのは実はかなり民主主義の浸透と深い関わりがあるのだが、これはイデオロギーベースというよりも庶民の実感に基づいているように思える。一方で、技術の囲い込みというのも極めて村落的な感覚で「自分が獲得したものを教えてしまうと搾取される」という恐れが残っている。村落は発展ではなく維持存続が目的化した社会なのでこうした感覚が生まれることになる。ここから民主主義は成長を前提としたイデオロギーなのだということがわかるのだ。

もともと日本の料理本は料理人から聞いた通りを掲載していたようだ。しかし料理人は細かな情報は伝えようとしなかった。やはり自分たちが苦労して獲得したものを簡単に人に教えたくないという気持ちがあったのだろう。

ところが戦後になると、料理の作り方を詳細に記録したレシピが出てくる。料理の手順を写真付きで載せた「暮しの手帖」を題材にした朝の連続ドラマが有名だが、香川綾と岸朝子の「大さじ・小さじ」もよく知られている。産経新聞に掲載された岸朝子のインタビューによると、料理を計量する体系は香川が発明し戦前から使っていたが、岸朝子が本格的に広めたということになっている。巷では岸朝子が「大さじ・小さじの発明者である」という認識が広がっているようで、そのように書かれた記事が多く見つかる。

なぜ「みんながわかるような」料理のレシピが作られたのかということはあまり語られていない。飢餓を経験したすべての人が食べることに関心を持っていたというのは間違いがないのだろうが、雑誌編集者たちが「暮らしにまつわることであってもすべての人が正しい知識を持たなければならない」と考えたことも大きかったのではないかと思われる。第二次世界大戦は情報統制と暮らしの破壊だったので、その揺り戻しとしての側面があるのだ。

こうした動きが民間から広まってのちに政府を動かしているというのは着目すべきポイントだろう。アメリカの圧倒的な豊かさを目の当たりにして、すべての人々がきっちりとした生活の知識を持たなければ豊かにはなれないという認識が生まれたのではないだろうか。つまり、国力は国の軍事力や企業の力ではなく、民衆一人ひとりの知識にあるという認識が生まれ、そのために情報の標準化が行われたというわけだ。

確かに「料理には勘や経験」が必要なことは間違いがなく、レシピがあるからといってその通りに作れるというものではないかもしれない。しかし、分量を標準化すれば誰でも簡単に料理を学べ、それが家庭の活力につながり、さらにそれが社会の豊かさにつながる。つまり生活こそが大切であるというイデオロギーである。明治政府は家庭を国家統治の道具だとみなしたのだが、戦後の日本人は豊かさの追求こそが家庭の目的であると考えたのだ。

まあライターの人が新境地を開拓するために今のレシピ本をdisるというのは他愛もないことなのだが、現在の政府のやり方を見ていると、情報を隠したり嘘をついたりして自分たちの身を守ろうという話があまりにも多すぎる。つまり情報の大切さが見落とされている。企業もできるだけ人件費を抑えるために、労働者にあまり知識を与えず単純な労働ばかりをやらせようとする。それだけでは生産性が上がらないので、長時間労働がまかり通るという具合である。豊かさや強さがどこから生まれるのかという認識が根本的に欠落しているのだろう。

さらに、豊洲移転の問題を見ていると、東京の人たちが、本来自分たちが持っていた豊かな魚文化をそれほど大切にしていないことがわかる。国を憂うような発言をする人ほど「魚なんかどうでもいい」とか「築地はアジア的な汚らしさで恥ずかしい」などと言っている。

伝統を源泉とする豊かさが国の強さにつながるという認識が今の保守の人たちの頭の中から全く欠落している。とても嘆かわしいことだ。代わりに彼らが熱中するのは、ビデオゲームのような戦争ごっこだ。いわゆる真の保守と言う人ほどこのような「大きな絵」を語りたがる。

戦後、我々の先輩が敗戦の中から学んだ「正しい情報や知識が社会の活力を作るのだ」という真摯で謙虚な姿勢をもう一度思い出すべきなのではないかと感じる。

いずれにせよアプリで簡単に料理レシピを検索できて、作ったものを相手に見せられるというのは、なんでもないことに見えて日本に民主主義が根付いているという証なのである。