専業主婦を動員する教育の強靭化計画

政府がこのほど教育の強靭化計画をまとめた。主に「ゆとりとの決別」が話題になったやつだ。若い世代からは「ゆとりは間違いだったのか」という怨嗟の声が挙っている。

だが、実際には間違いを認めておらず「知識の量を落とさずに、考えさせる教育を実施する」となっている。両方とも否定できなかったわけだ。「何が問題なのか」分からないが成果は挙っていないので新しい方式を採用するということになっている。

これは役所がよくやる「両方を取る」というやつだ。財政再建も経済成長(政府のいう経済成長とは要するにバラマキを意味する)を両方やるみたいな感じで、どちらも中途半端に終わることになりそうな内容である。

どちらもやるわけだから当然負担は教員にかかる。ゆとり教育のときも「マニュアルが欲しい」みたいなことを言っていた先生たちは、今度は「生徒が積極的に学習するための方法論」についてのマニュアルを要求するのだろう。

〔学校の指導体制の充実〕

教員が総合的な指導を担う日本の学校の特徴を生かしつつ、日本のこれからの時代を支える創造力をはぐくむ教育へと転換するとともに、複雑化・困難化する課題に対応できる「次世代の学校」を構築し、教員が今まで以上に、一人一人の子供に向き合う時間を確保し、丁寧に関わりながら、質の高い授業や個に応じた学習指導を実現できるようにするべく、教職員定数の戦略的な充実を通じ、学校の指導体制を充実させます。

この方針に従えば、先生は雑務をこなす時間がなくなる。そこで期待されているのが「周囲のサポート」である。こんな項目がある。いっけん良さそうな方針だ。

〔「地域とともにある学校」への転換〕

地域と学校の連携・協働の下、幅広い地域住民等(多様な専門人材、高齢者、若者、PTA・青少年団体、企業・NPO等)が参画し、地域全体で学び合い、未来を担う子供たちの成長を支え合う地域をつくる活動(地域学校協働活動)とコミュニティ・スクールを全国的に推進し、高齢者、若者等も社会的に包摂され、活躍できる場をつくるとともに、安心して子育てできる環境を整備することにより、次世代の地域創生の基盤をつくります。

例えばPTAが入っている。教育予算は増やせないが、現場への要求は強まる。だから、ボランティア人材で補おうというわけだろう。最近では「PTAは強制加入ではない」という認識が広まりつつある。仕事をしている人が増えたわけだからPTAには参加できない。しかし「子供を人質に取られた」ような状態で加入せざるを得ないという不健康な状態が続いている。結果として、PTAからの離反が起きているわけだ。

表向きはどんな職業の人も教育サポートに参加すべきなのだろうが、実際には専業主婦にストレスがかかるのは目に見えている。「私は働いているし、あなたたちはどうせ暇なんでしょう」と上から目線で断ってくる人たちに対して「結局、ただ働きさせられるのは私たち」と不満を募らせる主婦も増えるかもしれない。

文部科学省の方針は敗戦直前の日本軍に似ている。何か方針は間違っていたようだがそれは認められない。過去の責任問題になりかねないからだ。ということで新しい方針を作った。しかし兵糧は不足しているので、国民を動員する。与える武器は竹槍のみである。

とはいえ表向きには反対しにくい。「子供の教育に参加しないのか、お前は非国民だ」などと言われかねない。日本政府は全体として労働者の非正規化を促進した。その結果両親とも子育てに時間が取れなくなった。しかし、今度は教育にもお金を裂けないから学校にも協力しろと言っているのである。

政府にとって専業主婦とは介護も子育ても家事も無料でやってくれる便利な存在なのだろう。ある意味使い捨てられる外国人実習生に似ている。こういう政府が「公共」を教えたいと言っているのだ。公共は大切な概念だが育まれるべきもので強制されるものではない。政府が考えているのは公共への自主的な協力ではなく、経済的な動員なのではないかと思う。

日米は同盟関係にないという説があるらしい

他人のTwitterというのはなかなか勉強になる。今日は「日米は軍事同盟を結んでいない」という人がいた。その根拠になっているのは「日米は(軍事)同盟条約を結んでいないからだ」ということだ。これに対して「同盟というのは重層的なものであって、軍事同盟だけを指している訳ではない」と反論している人がいた。

なんだかすっきりしない。いろいろ調べて分かったのは、この単純そうな問題ですらタブー視された歴史があったということだ。これを健全に語れる状態に戻さないと、後々ややこしいことになるのではないかと思えるのだ。そもそも「語れなかったことが、今の私たちの議論をややこしいもの」にしている。

まず「日米は軍事同盟関係を結んでいない」というのは、従来の政府の見解だったようだ。なぜなのかはよく分からないが、日米安保の改訂に大きな反発があったので政府がタブー視していたのではないかと考えられる。

これが変わったのは大平首相の頃だそうである。学術的にまとめられた文章は見つからず、なぜかYahoo! 知恵袋に書かれている。Wikipediaには後任の鈴木善幸総理大臣が「やっぱり日米安保は軍事同盟ではない」と発言して伊東正義外相が抗議の辞任をしたのだということが書いてある。どのような党内対立があったのかは分からないが、1980年代の初頭までは「あれは軍事同盟なのだ」と言うことが半ばタブー視されていたことが分かる。

ある国会議員(伊東正義外相の話はこの人から聞いた)によると、永田町ではこれで「日米同盟は軍事同盟」というのが定説になったようだが、巷ではまだ「あれは軍事同盟ではないので、日米は同盟関係にはない」と信じている人がいるということになる。つまり、「日米の関係が何なのか」ということや「同盟とはそもそも何なのか」ということすら、実は世間的な統一見解がない。少なくとも当時の見解の相違を引きずっている人がいるのだ。

では、条約のパートナーはこの件をどう見ているのだろうか。アメリカ政府のウェブサイトには「アメリカの集団的防衛の枠組み」というセクションがあり、日本条約という項目がある。

まずは、日本ではいろいろとごちゃごちゃ言っているが、日米安保条約は集団的自衛の取り組みなのだということが分かる。「限定的」というのは「憲法に沿う形で」と書いてあるが、あくまでも「日本の行政権の及ぶ範囲では相互の攻撃を自国の攻撃と見なす」となっている。アメリカの認識としては「日本はアメリカを助けませんよ」は通らないことになる。

であれば、昨年夏のあの一連の議論とか、これまでの政府見解って何だったのかということになる。一方、安倍さんは領域外でも協力すると言っていたが、あれは日米同盟の枠外だということになるが、大丈夫なのか。また、日本はオーストラリアやインドと相互防衛条約なんか結んでいないのだから、中国の封じ込めなんかできない。あの議論の混乱を見ると、安倍さん自身が枠組みについてよく分かっていなかったのではないかと思えてくる。

ただ、この表にあるからといって、実効的な同盟関係にあるというものでもないらしい。例えばリオ条約の項目にはキューバが含まれている。長い間国交がなかったのだからアメリカとキューバは同盟国とは言えない。Wikipediaではキューバは除名されたと書かれているのだが、アメリカ政府のリストはアップデートされているらしいので(ページの下にいくつかの国が加えられメキシコが取り除かれたと書いてある)形式上は同盟関係が生きているのだ。

またANZUSの中にはニュージーランドが入っているが、ニュージーランドが非核化を進めたために、ニュージーランドとの相互防衛協定は実質的に失効しているのだそうだ。にも関わらず「集団防衛の枠組み」の中にはニュージーランドが残っている。

いずれにせよ、日本では内と外で議論を使い分けた結果つじつまが合わなくなり、後世の人たちが苦労するという図式があるようだ。これが幾重にも積み重なり、国防の議論を難しくしているのだろう。今回はたまたま「同盟って何」という点に着目したのだが、こういう議論がたくさんあるのだろう。

過去の政府見解は正しかったと言いたい気持ちは分かるし、政治家はなぜ放置していたのかと非難されたくない気持ちもよくわかる。しかし、安全保証の議論を正しい道筋に戻すためには、与野党ともにこれまで議論を錯綜させたことを国民に詫びてはどうだろうか。これは日本の安全保障上、かなり重要なのではないかと思う。

それは政治的論争ではありません、たんなるいじめです。

いわゆる右派の主張をしている人が執拗に他人を罵倒しているのを見た。どうやら常習者らしい。また別の人は女性の活動家や政治家を執拗に攻撃している。比較的知能が高そうだ。これを見て思ったのだが、いわゆる右派の主張に乗っている人にとってTwitterはおおっぴらに他人を罵倒できる息抜きの場になっているらしい。つまり、これは政治的議論を装った安全な場所からのいじめなのだ。たいへん卑怯な行為である。

これを見て思ったことはいくつかある。左派と右派の違いは他人へのシンパシー(共感能力)の違いだと言われている。西洋では女性を弱者とみなして執拗に攻撃する男性は「知的(これは知能だけではなく共感能力などを含む)でない」であると見なされる。つまり、何も実名で自分の知性のなさをさらけ出さなくてもいいのにと思ってしまう。

次に思ったのは、これが無力感の裏返しになっているらしいということだ。こうした人たちの提案が受け入れられることはない。にも関わらず、延々と主張を繰り返している。主張が通らないので、他者への攻撃に転じるのだ。それに乗る人たちがいるので、主張は理解されなくてもある種の一体感が得られるのだろう。さらに悪いことにこういった人たちは紳士協定を結んでお互いをかばい合っている。会社にも、仕事はできないが政治的にはやたらに影響力のあるやっかいな人たちがいる。やたらに「俺は聞いてない」とか「根回しがなかった」とかいって生産的な議論を妨害する抵抗勢力がいるが、まさにそんな感じだ。

そのくせ、他者からの攻撃にも意外と弱いらしい。すぐにブロックしたがるのだ。ブロックされたということは彼らの感性にヒットしたということなのだろう。すると崇拝者といじめの対象だけが残るわけで、彼らの心の平安が保たれるということになる。

そもそも、なぜいじめが起るのだろう。それは、いじめる側の人たちが抑圧されているからだ。予めテンションがかかっている訳だ。つまり、いじめは管理の失敗なのだと言える。学校で先生がいじめに加担することが多いのも(黙認したりほのめかしたりすることが多い)のも先生が管理されている存在でありなおかつ管理に失敗しているだからだ。それを学校側が隠蔽するのは当然だ。それは学校の管理の失敗を意味するからである。先生を抑圧し、必要なリソースを与えないというのは管理の失敗なのである。

会社の場合には「目的が見失われており」「評価の基準が曖昧である」ことがいじめの原因になったりする。学校と会社の事例を見てわかるのは、組織が本来の目的を見失って構造が曖昧になったときに、人々は自らが動いて秩序を維持しようとするのだという結論が得られる。ただ、その秩序維持は弱者への搾取と同義である。弱者を搾取することで失敗しかかった集団を維持しようとする試みだ。だから、いじめは現代版の生け贄なのである。

学校のいじめと違って政治議論を装ったいじめには対応策がある。いじめられるシグナルを減らせばいいのだ。典型的なのが福島みずほ参議院議員だ。甲高い声早口な声で反論する。表情は怒っている。これは典型的な「コルチゾール反応」だと考えられる。攻撃への防御姿勢だ。

こうした非言語的なコミュニケーションは意外と見逃されがちなのかもしれないが、きわめて重要だ。ヒトはかなり残酷な生き物で「コルチゾール反応」は「この人は社会的階層の下位にあるからいじめても大丈夫だぞ」というシグナルになってしまうのだ。いわゆる左派と呼ばれている人たち(男女問わず)にはこの「コルチゾール反応」が多いのではないだろうか。

よく、民進党の議員に「先生は民進党を出るべきだ」と懇願する人がいるが、「いじめの対象に自分が崇拝者している人がいるのはおかしい」と思っている人がいるのではないかと考えられる。そもそもそれは最初から政治的な議論ではなかったということだ。

こうした政党が支持を得るためには、非言語的コミュニケーションについての基礎を学ぶ必要がある。

日本の右派と左派はなぜ折り合わないのか

Twitter上では今日も、いわゆる「右派」と「左派」がそれぞれの主張を呟いている。お互いに攻撃しあっているのだが、その議論がかみ合うことはない。なぜ噛み合ないのかを理論的に考察した人はいない。

左派はおおむね機会の公平さよりも分配を重視しており、穢れを嫌っている。一方右派は新しい試みを嫌い、外敵や外国人を排除して同じまとまりで固まりたいと考えているように見える。

だが、両者は差異よりも共通点の方が大きい。例えば「純粋さ」を求めるという点は似ている。左派は放射性物質などの汚染物質を穢れだと考えるのだが、右派は外国人を穢れだと考えている。戦争についての忌避感も実は共通している。左派が戦争の原因が国内にあると考えているのだが、右派は中国が戦争の原因であると考えるという違いがあるだけだ。

故に、政治的に固まっている左派も右派も実際には同根であると考えることができる。両者の差異は見込みだけだ。右派は自分たちに取り分があると考えている。すなわち分配の意思決定に参加できると漠然と信じている。一方、左派は意思決定から排除されていると考え穢れを押し付けられると信じているわけだ。

信じがたいかもしれないが、右派がいなくなると、左派と呼ばれている人が左派的なつながりを持ったままで「保守化」することがある。例えば「高齢者の分配」を支持する人たちが「保育園ママ」を排除するということが起りえるのだ。

「分配を受けていないのに、漠然とおこぼれに預かれると思っている層と漠然と自分は意思決定から排除されているだろう」という見込みを持つ人がいる。経済的弱者が右派的な思想を持って安倍政権を応援したりするのである。現状よりも「ありたい自分」を設定して見込みの分析を行っているのかもしれない。

面白いのはアメリカと中国に対する態度だ。右派と呼ばれる人たちはおおむねアメリカに対して好意的な見方をしているのだが、親密さを利用してアメリカの意思決定に関与できるのだと信じているのだろう。つまり、忠誠心や帰属意識によって保護してもらえるという見込みを持っていることになる。一方で中国は日本に敵対的であって意思決定に関与できない。それは不確実なよそ者であって穢れに属するのである。一方、左派の人が親中国的とは言えない。そもそも日本の政府から排除されているのだから、外国にまで意識が及ばないのだろう。日本の政府はアメリカと親しくしているので、反米の姿勢を取ることはあり得る。

ここまで考えてくると「穢れとは何か」が分かる。意思決定に関与できないと不利益を押し付けられることになる。それを「穢れ」と呼んでいるのだろう。

左派を攻撃する右派は、従って複雑な経路を使って攻撃をする。彼らは意思統一できないのは、自分のコントロールできない何かが邪魔をしているからだと考える。2つの根源がある。1つはアメリカ(彼らに言わせれば共産主義に汚染されていた悪いアメリカ)が作った現行憲法で、もう1つは中国や韓国の影響を受けた「売国奴」だ。決してトピックそのものに反対している訳ではないのだ。

左派は「自分の与り知らぬところで何か悪いことが行われているので、放射性物質を押し付けられる」という理由で原子力発電所に反対する。右派は左派が騒ぐのは中国や韓国に入れ知恵された人が日本の秩序を攪乱していると考えるわけである。

アメリカで右派と左派の対立を研究する場合「その人がどのような道徳的態度を持っているか」という理論構成になるという。だが、日本では「その人の道徳的態度や価値判断」はそれほど問題にならず、自分が意思決定にどの程度関与できうるかという見込み(つまりは実際の所属ではなく、主観的な所属意識ということになる)によって態度が決定するのだということが言える。「私」ではなく「我々」で考えていることになる。個人の価値観で指標を取ると右派も左派もその態度はバラバラなのではないだろうか。

これを拡張すると政治に興味がない人は「意思決定にも参加できないが、不利益の分担もない」と考えているのではないかという仮説が生まれる。故に「政治に関心のない人を取り込む政策」を作ることは不可能だという見込みが生まれる。こうした人たちを抱き込むためには2つの選択肢がある。

仮想的な万能感を与えて、意思決定に参加できるのだという見込みを与える。これは過去に小泉政権や政権奪還時の民主党が使った手だ。しかし、いったん政権ができるとこれが「仮想的だった」ことがばれてしまう。

不利益を分担させる。これを使った政権はないのだが、安倍政権の政策が進めばやがて「反安倍」が生まれる可能性はありそうだ。ただし、その前に自民党から反安倍の動きが起きて動きを封じてしまいそうな気がする。

最初の疑問に戻ると、右派と左派が折り合わないのは当然だといえる。実は憲法第九条も原発の問題も「どうでもよい」のだ。だから、合理的にその安全性(あるいは危険性)を説得することは不可能である。誰が担い手になるかによって善し悪しが決まるということだから、文脈こそが主役なのである。

 

人は縛られているうちに、自らを縛るようになる。

他人とのコミュニケーションはたまに面白いことがある。今回は人が「法」というものがどのように捉えられているかを発見した。法律は人が作ったものだ。だから人が変えられるはずである。だが、どうやら「法理論」を物理法則のように捉えている人がいるらしい。

長島昭久議員がこのところ、去年の安保法制について呟いている。そのレスポンスの一つに「政府はこれまでも憲法につじつまを合わせるように苦心惨憺してきたのに、その苦労を無視するのか」というようなことをいう人がいた。言いがかりだ。

そもそも「つじつまを合わせなきゃ行けない時点で間違ってんじゃないのか」などと思う訳だが、こういう感覚を持っている人は意外と多いのかもしれない。多くの人は法律を守る側にいるわけで「赤信号で止まりましょう」と言われたら、ずべこべ言わずにそれに従う必要がある。「なぜそういう理屈なのか」などと言い出したら、社会生活は破綻するだろう。

ここでは「黄色で止まれ」と言われていたのにある日突然「黄色はゆっくり左右を見たら進んでもいい」となった。人は喜ぶだろうか。じゃあ、今まで「黄色で止まってきた俺はなんだったんだ」と立腹する人も出てくる。では、その人は何に起っているのか。

これを考えると「なぜ、過去に作った決まりは変えられないのか」という問いに行き着く。そして、そこから「それは、強制されてきたからだ」という答えが得られる。

憲法第九条は敗戦の結果作られ、自衛隊もアメリカのリクエストである。さらに一般国民は国会議員になることはほとんど不可能(理論上は可能だが、供託金が高く実質的にはお金持ちか組織のある人しかなれない)だ。そこでそれをもろもろ受け入れて「太陽が東から昇るように状況を受け入れる」ことになるのだろう。実はそれが変えられるものだったということが分かっても、態度を変容することは難しい。

たとえは悪いのだが、これは奴隷として生きていた人が「実は自由になってもよかった」と言われたときの感情と似ているかもしれない。きっと彼は解放してくれた主人を恨むだろう。これまでの忍従の苦労が全て徒労だったことが分かってしまうのだから。憲法学者は神官のようなものだ。実は無力なのだが「これは神の試練だ」などと騙っているわけだから。試練を受忍することがその人の人生の目的になってしまう。

加えて、今回の解釈変更も実質「アメリカに強制されている」わけで、何重にも自由意志が蹂躙されていることになる。他者から縛られているうちに、自分を縛ることになってしまったということになる。

自らを呪縛から解放しない限り、この不毛な議論は続くのではないだろうか。

イケメンという呪縛

社会生態学者の安冨歩教授がLGBTの人が体験する差別について書いている。なるほどなと思わせるところもあるが、納得できないところもある。安冨さんは、男性っぽい女性は「美しい女性」だとされるが、女性っぽい男性は「美しい男性」だとは見なされないと主張している。

これは、明らかに間違っている。特に日本にはジャニーズがある。背が低く幼形の男性の方が好まれるのだ。これは男性が幼い前田敦子をセンターに据えるのに似ている。日本人は幼形が好きなのだ。ジャニーズの世界で背が高くなるということは「センターを外される」ことを意味しているし、ましてや筋肉を付けたりひげを生やしたりして男性らしさを強調することも実質的に許されていない。その典型が木村拓哉である。彼は「木村拓哉という牢獄」に入っているのだ。

美人という枠について言及されているので一部言い当てているとは思うのだが、正常な男性が「<暴力>の中に住んでいない」という認識は必ずしも正しくない。

最近フジテレビが夕方のニュースはイケメンを起用し始めた。月替わり・日替わりでイケメンが出てくる。男性の「Objectification」だ。この中で男性は知的であることが要求されない。彼らは癒しであり知性が低いことが暗黙のうちに求められている。ひどい言い方だが「愛玩の対象」として置かれているのだ。

これが顕著になるのが伊藤利尋アナ(キャスターというのか)の不在だ。伊藤アナがいなくなると美男美女ばかりになるので、イケメンいじりがなくなるのである。だが、伊藤アナが入ると状況が一変する。非美形の伊藤アナがイケメンの知性を制限するように誘導するのである。

これは日本テレビの夕方のニュースとは違っている。こちらはジャニーズのタレントがキャスターとして置かれているのだが、アナウンサーレベルの話し方と取材能力が求められており、時間的なコミットもあるようである。

フジテレビのニュースに木村拓也というきれいな顔のアナウンサーが出てくる。外回りでお天気を読むアナウンサーだ。アナウンサーなので「知的枠」のはずなのだが、イケメン枠だとされている。ここでキャラの問題が出てきた。伊藤アナが熊本に出張した穴を埋めたのだが「普段はイケメン枠なのに知的枠のキャスターとして座らなければならない」ことになったのだ。結果、木村アナは「二重人格」になりキャラが破綻した。結局、外回りに戻されたようだ。

安冨さんは「テレビは劣等感を植え付ける装置だ」と書いてあるのだが、これは間違っているのかもしれない。つまり、劣等感を持っているはずの人が、美しい人たちを鑑賞の対象にして閉じ込めているのかもしれないのだ。すると文中のマツコ・デラックスさんの立ち位置が違ってくる。マツコさんは美しい男性を「対象物化」するために置かれていることになる。抑圧する側の人(しかも女性)の代表だという構図になってしまう。あれは、容姿から解放された女性の姿なのだということになるわけだ。

安冨さんが「気持ち悪く」見えるのだとすれば(ご本人を見たことがないのでなんとも言えないのだが)、それはスタイルが獲得できていないからだけなのかもしれない。例えばIkkoさんを見て「気味が悪い」という女性はおらず、女性のお手本になっている。Ikkoさんを見て感激のあまり泣き出してしまう女性すらいるのだ。りゅうちぇるも同じである。化粧をしているが「病気か趣味か」と聞かれることはないだろう。スタイルさえ決まってしまえば、人は意外と気にしないのだ。

ユーザーとしての安冨さんにスタイルを獲得しろと求めるのは無理があるかもしれない。重要なことはここに空白のマーケットがありそうだということであり、デザイナーの需要があるということだ。問題の本質は、意外と「たんに、才能のあるデザイナーがいないだけ」なのかもしれない。

 

きのう・きょう・あしたの語源

日本語では、今日からみて次の日のことを「あした」と表現する。ただし、あしたのもともとの意味は「朝」である。このことから、昔の日本には明日・今日・昨日という概念がなかったことが分かる。あしたの対になる言葉はゆうべであり、これは昨日の夜の意味だ。日本人は今、あしたの朝、きのうの夜くらいの時間軸で生活していたことになる。

明日、昨日は中国語から輸入した概念らしい。現在では明天・昨天というようである。中国語では、翌年のことを、明年・来年と言うらしいが、日本語からはなぜか「明年」という表現が落ちてしまっている。

ゆうべには今でも「一般的な夜」の意味と「昨日の夜」という二種類の使い方がある。これは日本語に冠詞がないからだろう。つまり、evening, the evening, an evningのような区別ができないのだ。同じようにあしたにも、「一般的な朝」と「特定の(つまり明日の)朝」という二種類の区別があったのではないかと類推できる。

ちなみに昨日はきのふであり「(さ)きのひ」から来ていると考えられているようだ。「さき」が、「さきの大戦」のように過去を向いているのが興味深い。「このさき」というと将来のことになる。今日はけふであり、「け」は「けさ(この朝)」と同じだという。「ふ」は「ひ」が転じたものらしい。

NHKが印象操作を試みるもあえなく失敗に終わる

安倍首相がメルケル首相を訪問した。NHKのニュースによると概要は次の通り。

  • 安倍首相はお城に招かれた。(特別待遇がほのめかされている)
  • 安倍首相はドイツにさらなる財政出動を要請した。
  • メルケル首相は、ドイツに移民が流入しており内需は喚起されていると語った。
  • 財政出動については、引き続きG7で協議することにした。
  • メルケル首相は日本のリーダーシップのもとで力強いメッセージを発することに賛同した

ところが、事前に様々な情報が出回っている。総合すると次の通り。報道の中で何がぼかされているのかがよく分かる。

  • 安倍首相はメルケル首相は、ドイツは難民の流入もあり、既に十分に財政出動していると主張し、安倍首相の提案をやんわり断った。(あるいは、両者は認識に違いがあることが分かった)
  • メルケル首相は、G7では代わりに規制緩和や財政規律などについて話し合いたいと語った。
  • メルケル首相は、競争的な通貨切り下げには勝者はなく、為替相場の安定が重要との認識を示した。
  • メルケル首相は、日本にNATOのメンバーシップをオファーし、フランスやイギリスを説得できると語った。

TBSでは「メルケル首相は財政出動について明言を避けた」としていて「課題が残った」としている。このラインがぎりぎり公平と言えるのではないかと思う。NHKのニュースだけを見ると、日本のリーダーシップにメルケル首相が賛同したという印象が得られる。だが、事前に様々な情報が入っている人から見ると、安倍さんはメルケル首相に相手にされていないことが分かる。それどころか安倍さんの政策や主張に釘を刺す発言もある。すると、却ってしらけた印象になってしまうのだ。

情報ソースは主に2つある。一つはクルーグマン教授の「東京で話し合われたこと」というものだ。安倍首相は「ドイツに財政出動させるにはどう説得すればいいか」とたずね、クルーグマン教授に「外交は専門外」だとやんわりと断られている。ノーベル賞学者を呼んでもこの程度のことしか聞けないのかと国民をあきれさせた。もう1つの情報ソースは外国の通信社などである。こちらはグーグル検索すれば簡単に手に入るし、Twitterでも情報が飛び交っている。特に専門知識は必要がない。

特にNATOの下りは重要だろう。第一に日本は集団的自衛権を行使できないので、NATOには加盟できない。しかし、日米同盟は別口と考えられている。「だったら、NATOにでも入れますよね」というのは、日本のダブルスタンダードに対する皮肉だ。次に、安倍さんは今回の旅行でロシアを訪問することになっている。ロシアとヨーロッパは緊張関係にある。NATOはロシアに対抗するための装置である。そこで、メルケルさんは「あなたはいったいどっちの側なの?」と迫ったわけである。

安倍さんのコウモリのような態度(日米同盟に臣従する態度を見せつつ、ロシアにも接近する)は警戒されているし、平和憲法を空文化してアメリカとの集団自衛にコミットする姿勢もあまりよくは思われていないのではないかと考えられる。

各社ともメインで伝えていないところを見ると、NATOの件は、何かのついでにほのめかしただけのようである。

よくNHKは大本営だという人がいるが、大本営が成り立つためには情報が遮断されていなければならない。ところが実際には様々な情報が飛び交っているから、大本営発表は単なる道化にしかならない。日本のマスコミはそのまま権威を失ってゆくのではないかと考えられる。

また、NHKだけでなく、特定の情報を鵜呑みにする(これは、NHKだけでなく、左派や右派、ないしは自分の専門だけの情報ソース)ことの危険性も示唆している。

強い関係と弱い関係 – 選民教育と一般教育の違い

普段いろいろなツイートをするのだが、返信は滅多にない。これだけいろいろ書いているので、憎悪に満ちた返信があってもよさそうだが、それはない。なぜなのだろうかと思うことがある。

昨日面白い体験をした。民進党の蓮舫参議院議員が「日曜討論に岡田さんが出る」とツイートしていた。昨日は憲法記念日なので日曜討論はない。まあ、別にどうでもいいことなのだが、面白いので突っ込んでみた。すると「日曜討論ではなかった」という旨の返信があった。

すると、蓮舫議員と私宛にいくつかのレスポンスが来た。多分蓮舫議員に構ってもらいたい人だったのではないかと思うのだが、よく分からない。なかには「お前は民進党支持のようだが、民進党には何もできないではないか」というものもあった。

そこで思ったのだが「民進党」というのは「公衆の面前で叩いてもよい」存在になっているらしい。こういったことは自民党の政治家には起らないし、日本を元気にする会でも起らない。さらに民進党の議員では長島昭久議員のところでもあり得ない。

多分「蓮舫さんが女性だから舐められている」のだろうなあと想像した。つまり「この人は弱い」という人が叩かれるのであって、いじめの構造に似ている。だが、民進党の女性議員をイジる人は、どのような根拠で「この人はイジっても怖くない」と思うのだろうか。こういうことを研究した人はいないのではないだろうか、などと考えた。

いずれにせよ、このような言論空間では意見そのものには情報的な価値はないということになりそうだ。誰が発信しているかが重要であり「いじめてもいい」というフラグが立つととりあえず叩く訳だ。こうしたコミュニケーションにも機能はあるはずだ。多分、意見交換というよりは社会秩序の維持機能があるのだろう。つまり「誰かをイジってもいい」と思う人は「誰か別の人にイジられている」社会の駒なのだ。

この仮説は少し残酷だ。つまり、選良教育と一般教育がある。選良教育では情報交換や討議といった意思決定に関わるコミュニケーションが行われる。一方で、一般教育からはそのような技術は予め排除されている。代わりに社会秩序維持のための方法を学ぶのだ。社会秩序維持の技法を学ぶ訳ではない。維持されるメンタリティを育成されるのだろう。


この延長線上にあるのが「弱い靭帯」の不足である。これは個人的にはかなりの発見だった。インターネットのコミュニケーションをBBSの時代からやっているのだが、当時はどこの誰か分からない人と会話をするのが楽しかった。ネットワークとしては「モデレータ」のいるスタイルで、参加者は会話に返信する義務はなかった。気に入れば参加すれば良いし、忙しければ返信しなくても構わない。誰も強要する人はいなかった。ただし、自分の趣味のBBSが荒れてしまうのは避けなければならないので、それなりの自律的に秩序が維持される。このようなフォーメーションが成り立っつ条件は2つある。

  • 限られた人たちが参加する。知らない人たちのコミュにケーションに参加しても平気な人たちだ。
  • モデレーターがお金を払って私的な場を維持している。

こうしたつながりを社会学では「弱い紐帯」と呼ぶ。義務や上下関係の薄い関係と言える。弱い紐帯を持っていると、情報の幅が広がる。だが、現代では、多くのネットユーザーにはこうした区分はしないらしい。管理される教育を受けた人たちにはそもそも「弱い紐帯」という考え方がないのかもしれない。

例えば、LINEには弱い紐帯という考え方はない。だから、Twitterでも「今日と明日は返信できません」と断りを入れる人がいる。会話を返すのを義務だと考える「強い関係性」なのだが、これがLINEいじめの原因にもなっている。

今回は「支持者ではない」と言っているのに「民主党は何もできない」と主張をぶつけてくる人がいたのだが「ああ、そうだろうなあ」というくらいにしか思えなかった。多分「会話をする人が必ずしも意見に賛同しているとは限らない」ということが、本質的に理解できていなかったのではないかと考えられる。

そこで、そもそも人はどのようにして弱い紐帯という概念を学ぶ(あるいは学ばない)のだろうかと考えたわけだ。

この考察が正しいかは分からないのだが、日本には「管理して意思決定する側の教育」と「管理される側」の教育の2種類がありそうだ。つまり、Twitterでどのような意見を発信するという、たいへん下らない些末なことが、ある階層からみると「社会的なスティグマ」になってしまうということである。

この結論の残酷なところは、こうした態度が再生産されるということだろう。つまり、通常の教員養成課程では「管理されている人が、管理される人を作るための教育」を行うということになる。いったんこのカテゴリに入ってしまうと、そもそも情報交換して意思決定するということができなくなってしまう。

これは「管理する側」に都合がよいように思えるのだが、実際にTwitterで行われている政治議論を見ると分かる通り、本来は「意思決定する側」の人たちが絡めとられてゆく。そもそも「管理される側の教育」しか受けたことがない人たちが、意思決定しているようにも感じられる。

沖ノ鳥島はどう考えても岩だろう

世の中には炎上商法というのがあるらしいので、ちょっと試してみる。「王様は裸だ」と言ってみたい気もする。だが、一方で「お前は非国民だ」という批判も多そうだし、ひょっとしたら脅されることもあるかもしれない。それほどセンシティブな一言。

「いやあ、沖ノ鳥島には人は住めそうにないっすよね。あれ、岩なんじゃないですか?」

論理的な反論のある方は、何らかの方法でご返信いただきたい。いくつか、材料を挙げておいた。

  • 排他的経済水域を主張するためには「いつも地上に出ている部分があり」かつ「人が居住可能で経済活動を実施していなければならない」のだが、二番目の条件はAND条件ではなくOR条件である、と解釈可能ではある。
  • 政府は発電の研究をしているから、経済活動は成り立っていると主張している。
  • 例えばイギリスはかつて岩礁(ロッコール)を島と主張していたが、諦めた経緯がある。

独自で経済活動をするためには、誰かが居住していなければならない。いわば「人柱」だ。無人で経済活動というのも成り立つだろうが、国際的に認められるかは未知数。

次の設問はもう少し専門性が必要そうだ。日本が仮にあれを岩礁だと認めた上で巨大な滑走路を持つ軍事拠点に利用可能な施設(軍事拠点と宣言する必要はない)を領海内に作ったとする。12海里は22キロメートルだそうだ。珊瑚礁なので、埋め立ては不可能ではないだろう。それは国際的に非難されるのだろうか。

  • もともと日本の領土・領海なので「力による現状変更」ではない。
  • 一方で特に必要な施設とは思えず、他国の懸念を招く恐れはある。
  • 拠点を作っても周辺の独占的な漁業権は認められない。(公海だから漁業はできる)

最後に「非論理的」な反論のスロットを用意した。

  • 中国にくれてやるのは嫌だ。中国に見方するとは、お前は工作員だな?
  • 中国のいうことをみすみす聞くのは悔しい。
  • 日本が撤退したら中国がなにをするのか分からない。
  • そもそも領土問題は感情的に属する問題であって、論理的な整合性など要らないのだ。
  • 寝た子を起こすようなことをいって、お前は非国民に違いない。
  • お前、これまで税金をいくら投入したか知っているのか。