なぜ、人々は好き勝手な物語を語るのか

礒崎陽輔衆議院議員が怒っている。主題は憲法改正案だ。毎日新聞が「自分たちをレッテルばりした」のが気に入らないらしい。

ここでは自民党の側に立って磯崎さんの疑問にお答えしたい。こうした「客観的な事実でない部分的な情報を主観で埋める」ものを物語という。確かに「戦争法」は事実を「安倍首相は戦争を従っている」という憶測で埋めた「左翼の物語」と言える。では、議論が物語を許容するのは何故なのだろうか。

一つは安倍首相が事実を的確に伝えなかったという点にある。もともと中国を封じ込めたいという気持ちを持っており(これはダイヤモンドなんちゃら構想として知られる)アメリカが「相応な費用負担を求めている」という事実を隠蔽したまま、それを利用しようとした。日米同盟は盤石だと言い張り、日本人の負担は増えないと約束している。これらは全てもとの事実を隠蔽した行為だ。事実が曖昧なので、物語の余地が生まれたと言える。政治は「憶測でものを言っても良い」ことになったのだ。

次に安倍政権側が物語をねつ造しているという事情がある。緊急事態条項でよく知られている物語は「ガソリンが足りなくて命が救えなかった」から緊急事態条項が必要だというステートメントだが、少なくとも東日本大震災ではそのような事実はなかったことが知られている。そもそもこれが物語なので、カウンター側も別の物語を当ててくる。

もう一つよく知られているのは、震災対応に際して「自治体に権限を渡すべきだ」という声だ。これは事実ではないかもしれないが、実感であろう。実際に「よく分かりもしないのに、中央からやってきた人が仕切りたがって困った」という声はよく聞かれる。松本文明副大臣の行状が記憶に新しいところである。これは中央集権型とは真逆のベクトルだ。つまり「地震の時には強い政府が求められている」というのは既に物語なのだ。

では「本当は安倍政権は何を画策しているのか」と思うのが人情というものである。そこから想像を膨らませるが「証明」はできない。そこで、人々は好きな物語を作り、その隙間を埋めようとするのである。

つまり磯崎議員への回答は簡単だ。自民党やその支持者たちが自分の好きな方向に国民を誘導しようとしたから、全体が好き勝手な物語を紡ぐようになったのである。マスコミは黙るようになった。つまり誰の物語にも加担したくないが事実を探るのも面倒(というより実質的に不可能)なので「誰が何を言った」ということを以て、事実を報道したということにしているのだろう。