ローコンテクスト文化と是々非々文化

松田公太という参議院議員が、菅官房長官の「是々非々」発言に疑問を呈している。多分、松田さんは是々非々という言葉の意味が分からなかったのだろう。海外経験が多いことが影響しているのではないかと思われる。

菅官房長官は、おおさか維新の党を指して「是々非々を歓迎する」と言っている。これは「取引が可能だ」という意味合いを含んでいる。おおさか維新に大阪府市の改革をやらせる代わりに憲法改正への道筋を立てて欲しいと考えているのだろう。お互いの利権には踏み込まず、目標を達成する協力をしましょうということである。

一方で、ローコンテクスト文化圏の是々非々は「出された法案を検討し合理的な判断を下す」という意味合いだろうと思われる。例えば社民党や共産党のような万年野党が「とにかく政府の方針にはなんでも反対する」のと比べて合理的に聞こえる。

ハイコンテクストの人たちは「関係性」に注目する一方で、ローコンテクストの人たちは「対象物」に着目する。同じものを見ているつもりで、まったく別々のものを見ているのだ。

菅官邸にとって、おおさか維新は好ましい相手だ。自民党に近寄る議員たちは「あわよくば自民党に入れてもらいたい」と思っている人ばかりだ。いわば「フリーライダー候補」と言える。また「万年野党」とも利害圏が共通している。だから「万年野党」は何かにつけて反対するのだ。一方、おおさか維新は自前の支持者を持っていて自活している。中央と地方なので利権の棲み分けも完璧である。これがおおさか維新が好まれる原因だろう。

菅官邸は取引を持ちかけるのが好きだ。沖縄に対しては「遊園地を誘致してあげるから、基地に反対しないでね」と言っている。「あなたたちのことは分かってますよ。おいしい思いをしたいんですよね」というわけだ。それは「私達もおいしい思いをしたいんですよ。分かっているでしょ」というメッセージを含んでいる。これを仄めかすように伝えるのが日本式だ。

一方、菅官邸はこうした「是々非々」の取引ができない人たちが嫌いだ。原発を稼働に「とにかく反対」という人も嫌いだし、軍事費で儲けたいと思っているのに「とにかく戦争反対だ」と叫ぶ人たちも嫌いだ。「沖縄の誇り」を持ち出されると取引ができないので、これも嫌がる。そして、こうした人たちがいないように振る舞う。

菅官房長官や安倍首相はこうした人たちと対峙するときに、目を見ないで嫌な顔をすることが多い。特に女性(多分見下しているのだろう)などが相手の場合には露骨に嫌な顔をする。取引ができないとどうしていいか分からなくなってしまうのだ。

松田さんの党は(党でなくなったみたいだが)安保関連法案には賛成しているので「是々非々党」だと思われがちである。日本人の受け手(つまり有権者)もそのように受けとめている。「政権と取引したのだろう」という具合だ。しかし、実際には「国会で審議できるようにしよう」と言っている。官邸から見ると取引したいと考えている利権に踏み込もうとしているように見えるのだ。日本人は自分の縄張りに他人が入ってくるのを嫌がる。さらに、こうした取引をするのに言語的な交渉を行わない傾向がある。お互いに目をみて「分かっているでしょ」と非言語的なやり取りを行う。

このハイコンテクストな「是々非々文化」はかなりの弊害を生み出している。そもそもコンテクストを理解できない外国人もいる。アメリカのようなローコンテクスト文化圏の人だと「日本人は集団で私を排除しようとしているし、はっきりと要求を表に出さない」と思うかもしれない。もっとやっかいなのは女性だ。「女の人は建前だけ言って困る」というのは「是々非々の対応ができない」という意味である。だから、日本では地位が上がるほど女性の管理職が少ない。「女は面倒」なのだ。

こうしたハイコンテクストな文化が残っている企業には優秀な外国人や女性が近づかないだろう。多様性がないということは、こうした顧客のニーズが満たせないということである。ハイコンテクストな人たちとの間でのやりとりが好まれるので、ガラパゴス化してしまうのである。

最近ではオリンピックでこの是々非々文化が問題を起している。ザハ・ハディド氏は外国人であり女性でもある。組織委員会の人たちは「それとなく」要求を伝えた(あるいは仄めかした)はずである。それがうまく伝わらなかったのだろう。利益が確保できない事を怖れた建設会社が法外に高い見積もりを出して「自爆テロ」を演じたのではないだろうか。代わりに出てきたのが「話が分かる」日本人男性の建築家だ。

さらにはエンブレムでも「話がわかりそうな」広告代理店が「話のわかりそうな」アートディレクタを採用して形だけのコンペが実施された。日本人にとっては「利益を分配する」というのは自然な文化なのだ。

大きな公共事業には国際コンペが義務づけられている。TPPが発効すれば地方レベルの公共事業にも国際コンペが義務づけられそうだ。日本の「是々非々問題」は国際的な軋轢を生じさせそうである。この文化は、アメリカやアングロサクソン系の人たちからは「非関税障壁」と見なされているからである。

NHKの女性進出プロパガンダ

古館伊知郎が報道ステーションを降りるといって大騒ぎになっている。官邸の圧力だろうというもっぱらの評判だ。しかし、分かりやすいところにかける圧力は圧力とは呼べない。無知蒙昧な庶民を「教育してあげる」のが本物のプロパガンダだろう。もともとカトリックの宣伝のことを軽蔑的に呼んだのがはじまりだそうだ。

今年撃沈した大河ドラマ『花燃ゆ』の後半のテーマは「女と教育」だった。女は教育をつけて国の経済発展に尽力すべきだというメッセージである。「経済力を付けて自立すべきだ」という台詞が語られた。そうすると「私らしく輝ける」というのである。

今年後半の朝ドラ『あさが来る』のテーマも「女と社会進出」らしい。福沢諭吉(武田鉄矢が押し付けがましく演じている)が「女も教育をつけて経済的自立を果たし責任を負うべきだ」と主張した。ドラマ自体は楽しく見ているのだが、武田鉄矢には「うんざりぽん」だ。

この2つは偶然選ばれたのではないのだろう。女性進出を政治的スローガンとしている安倍政権の動き(ウーマノミクス)と重なるからだ。確かに女性の社会進出自体は悪い事ではない。

確かに女性は期待されている。企業で正社員を非正規で置き換える動きが進んでいるので、女性は貴重な労働力として期待されているのだ。政府によると、女性は働き手であるとともに、家事や育児をこなし、将来は介護労働にも携わるべきだ。

一方で女性が重要な役職に就く事は好まれない。政府は小泉政権の頃に掲げた女性公務員の管理職の割合を30%以上にするという目標を7%に引き下げた。政府は「女性を管理職にしたらカネを払う」と言っているのだが、申請した会社はほとんどない。

そこでNHKのメッセージだ。NHKの考え方によれば、女性の社会進出が遅れているのは、女性に教育と意志がないからである。だから、教育を付ければ自ずから女性は社会進出するであろうというのだ。実際には女性の教育は進んでいるが、女性が教育を付けたからといって男性並に稼げるわけではない。実際には補助労働力として期待されているだけだ。もちろん「学をつければ良い仕事に就ける」という期待を持てる男性も減っている。

もちろん、どのような作品を選び、どんなメッセージを乗せるかはNHKの自由だ。いやなら見なければよいだけだし、朝のドラマにそんなメッセージが込められているとは誰も思わないだろう。うっかり見逃してしまう人の方が多いのではないかと思う。

気になるのは「私らしく」という点だ。女性が意識を高めれば私らしく輝けるというメッセージには宗教的な響きがあるが、実際には取捨選択を迫られる上に自分の選択が正しかったのかについて確信が持てない。そこで周囲との比較が始まるのである。

この無責任なメッセージを政府がNHKに押しつけているとは思えない。おそらく政府の歓心を買う為に「自主的に」行っているのではないだろうか。明白に主張しているわけではないので、罪の意識も薄いかもしれない。しかし、こうした無責任なプロパガンダを流す前に、NHKは自らが雇っている高学歴で意識の高い女性が高い地位に就けるように努力すべきだろう。管理職の割合を50%程度まで引き上げるなら、NHKのメッセージを信じてもよいと思う。

点字新聞と軽減税率

新聞が軽減税率を適用するという話を苦々しく聞いた。たかだか2%の「減税」は政治的なトロフィーとしての意味合いしかないのだが、この2%の為に「ジャーナリズム」が持っている権力監視という役割を放棄しかねないと思うからだ。

しばらくして、大切なことを忘れていたことに気がついた。それは「知る権利」の大切さだ。特に普通の手段では情報を得にくい人たちと情報の関係である。そこで思いついたのが、点字新聞だ。

日本では唯一、毎日新聞社が点字新聞を出しているらしい。日刊ではなく週刊のようだ。送料無料と書いてあるので、宅配ではないのではないかと思う。ということは、今回の軽減税率の対象からは外れてしまうことになる。

しかし「知る権利」という意味では、これほど重要な媒体もないはずだ。

確かに軽減税率にはトロフィーとしての役割しかないのかもしれないのだが「国民の知る権利」などと主張するのだったら、こうした福祉系の新聞への配慮を行うべきだろう。文字が読めない人にとっては紙媒体だけが新聞ではないのではないのかもしれない。例えば、音声媒体の新聞もあるだろう。

宅配で線引きするのは、「ジャーナリズム」と「イエロージャーナリズム」をわける意図があるのだと思う。有り体に言えば、駅売りの庶民ジャーナリズムへの差別感情だ。そこで、「高級な」新聞だけを切り分けようというつもりなのだろう。しかし、そうした区分は、切実に情報を必要とする人たちを排除することになりかねない。宅配新聞だけを有益だとして優遇するのは、多分単なる傲慢なのだ。

それにしても「知る権利」という言葉を軽々しく使いすぎているのだなあ、と自省した。多分、切実に情報を必要としている人というのも、思いが至らないだけで、数多く存在するのだろう。

「花燃ゆ」はなぜ惨敗したのか

花燃ゆが終った。視聴率は惨敗だったようだ。ツイッター上での評価も「史実と違っている」など散々だった。もともとNHKが安倍政権におもねる為に制作されたのだという噂があったので、仕方がないのかなという印象だ。

このドラマが惨敗したのは、視聴者のニーズに合っていなかったためと思われる。視聴者のニーズをまとめると次の3要素になる。「豪華なテレビゲーム」か「分かりやすいホームドラマ」が好まれる傾向にあるようだ。

  • 勝利の爽快感
  • 単純明快な分かりやすさ
  • きれいさや豪華さ

いろいろなカテゴリで視聴率の平均値を比較してみた。試しに男性が主役のものと女性が主役のものを比べたが、どちらも変わりはなかった。今回「女性を主人公したのが敗因」という批判があったが、これは当たらない。女性ものを細かく見ると、橋田ドラマが貢献しているのが分かる。男性ものと女性ものではメインターゲットが違っているようだ。

次に時代で分けてみた。人気があるのは戦国時代だ。続いて人気があるのが江戸時代。それ意外の時代の人気は平均以下だ。明治維新期などは人気がありそうだが、あまり支持されないらしい。平安以前のドラマはない。日本史として認識されてすらいないのだ。

さらに、主役の階層を見てみた。権力者(最終的に政権に就く)や武将(戦国時代)に人気がある。中間権力者も合格だ。一方で庶民を扱ったもの(宮本武蔵、坂本龍馬、忠臣蔵などの有名なものも含む)は人気がない。日本人は判官びいきで庶民目線だという説があるが、こと大河ドラマに関してはこの説は成り立たない。

これらを総合すると「戦国時代に権力者が最終的に勝ち上がる」物語が好まれることになる。信長、秀吉、家康の関係性はよく理解されており、筋が追いやすいからかもしれないし、成功者気分に浸りたい人が多いのだろう。しかし、同じ成功者でも平清盛は人気がなかった。筋や時代背景がよく分からないと不評のドラマだった。勝ち上がるドラマでも背景が分からなければ支持されないのだ。

大河ドラマの人気がピークだったのはバブル期の1980年代だ。この頃の大河ドラマの題材には「ねね(おんな太閤記)」「無名の医師(いのち)」「政宗」「信玄」「春日局」などがある。このうち「いのち」と「春日局」は「成功者目線」という条件を欠いている。この2作と「おんな太閤記」はシナリオが分かりやすいことで知られる橋田壽賀子原作だ。この分かりやすさがヒットのもう一つの条件なのかもしれない。特に「いのち」は時代劇ですらないので、勝ち上がる物語とはメインターゲットが違っていることが伺える。

バブル崩壊後、大河ドラマは冬の時代を迎える。多分、制作者側がマンネリを怖れたのだろう。「炎立つ」は藤原三代を扱い、「花の乱」は応仁の乱を扱った。さらに「琉球の風」は琉球王朝を描いている。日本の正史の外を扱ったものは、いずれも惨敗した。「花の乱」と「いのち」の主役は同じ三田佳子なので、俳優はあまり視聴率とは関係がないのではないかと思われる。今回も井上真央が悪いというわけではないのだろう。そして、視聴者は戦国や江戸時代以外の歴史にはあまり興味がないようだ。

大河ドラマの視聴者が求めているのは、歴史ドラマではないのだろう。代わりに、テレビゲームのような爽快感を求めているのではないかと思われる。自分が戦国武将のような気分になって「勝てる」ものがよい。清盛は「画面が汚い」と嫌われた一方で、派手な騎馬シーン(派手さを演出するために、日本にはいなかったはずのサラブレッドが使われたりする)のある戦国ものに人気が集るのだ。9時台のTBSのドラマにも同じような傾向が見られる。勧善懲悪で最後には正義の味方が勝つようなドラマが好まれている。

もしくは橋田壽賀子作品のように「見ていなくても分かる」くらいのレベルのものが好まれるのかもしれない。こちらを支持するのは姑世代のおばさんだろう。近年、姫ものが2作あった。お嫁さんにしたいタイプの「篤姫」(宮崎あおい)は成功し、あまりお嫁さんにしたくなさそうな江(上野樹里)は失敗している。

花燃ゆはいくつかの点でこの類型に沿っていない。まず、権力者が成功する作品ではなかった。むしろ、維新の立役者たちが次々と死んで行く話だ。大河ドラマの視聴者は失敗した人は嫌いなのだ。次に明治維新という時代背景がよく分からなかったのだろう。さらに、群像劇にするなら橋田壽賀子を呼んできて、タイプキャストばかりの分かりやすい劇に仕上げる必要があった。もし分かりやすければ「歴史と違っている」などということを気にする人はいなかったかもしれない。爽快感ときれいさだけを求めている視聴者にとって「明治の子女が教育をつけて自立してゆく」というのはどうでも良いテーマだったのだろう。

大河ドラマを確実にヒットさせたいなら、戦国武将の成功記に限って放送すべきだ。これをできるだけ豪華絢爛に作成するのだ。しかし、当てはまる題材は限られているので、数年でマンネリに陥るだろう。

で、あれば橋田壽賀子のような脚本家を発掘してきて、古き良き家庭(男に権威があるが、それをしっかり者の女性が支えている)を舞台に分かりやすい人物を描いた、2〜3話飛ばしても筋が分かるような話を作るとよいのかもしれない。

大河ドラマの制作費は年間で数十億円単位だという。そこで優秀なライターが集って、日本の歴史を新しい視点から切り取ってやろうと意気込むのだろう。しかし、実際に視聴者が求めているのは、水戸黄門を豪華にして絢爛な騎馬シーンを盛り込んだようなドラマか、サザエさん一家を歴史の荒波に立ち向かわせるようなドラマなのだ。

新聞の軽減税率適用はジャーナリズムの死を意味する

軽減税率の問題でちょっとした騒ぎが起きている。そもそも8%の税金が10%に増えるのだが「軽減税率」と言う言葉が踊っているせいで、あたかも税金が減るような印象を与えている。加えて、これで税収が減るので社会保障費を削るか赤字国債を発行すべきだという話になりつつある。

食品の線引きをどこにするかというのが「議論」の中心なのだが、その影で新聞も軽減税率の対象にすることが決まったらしい。テレビでは「一部の新聞が」と言っている。宅配新聞だけが対象になるということのようだ。面白い事に新聞はほとんどこのことを伝えていない。一部のテレビ局だけが見出しに掲げる程度である。

新聞の軽減税率には政治的な意味合いが強そうだ。控除額はわずか2%なので消費者にはあまり影響がない。しかし、新聞社にとっては政治的なトロフィーという意味合いが強いのだろう。政党のメインターゲットである高齢者への影響力、公明党と聖教新聞との関係などが考慮された結果なのではないかと思われる。

新聞は、表面的には純粋な観察者を装っている。中立で公平だというのが価値の源になっているからだ。人々が新聞を信用するのは、それが「混じりけのない真実」を伝えてくれるだろうという期待があるからだろう。プレイヤーになってしまうと中立公平という神聖な地位から転がり落ちてしまう可能性がある。「私利私欲から事実を歪めている」というのは嫌われる。

ところが、誰が考えても軽減税率の対象に新聞を加えるという選択に公平性はない。新聞は知識の源泉になっていて、それが民主主義を支えているという理屈は成り立つだろうが、スマホやインターネット回線の消費税も軽減税率を適用すべきだ。若年層はスマホでニュースを読んでいるからだ。

また、ジャーナリズムには貴賎がある。駅売りの新聞は軽減税率の適用対象外のようだ。駅売りタブロイド紙は民主主義には貢献しないということなのだろう。週刊誌の権力批判もジャーナリズムとは言えないということになる。記者クラブを持っている新聞社だけが社会的に善とされているのだ。これは新聞はジャーナリズムという役割を手放しましたよという宣言に他ならならない。中国の人民日報や北朝鮮の労働新聞を笑えない。

今回の決定はジャーナリズムの死を意味している。新聞は政府に助けを求めており、伝えないことを通じて世論の印象を操作しようとしている。そのうえ、意見に線引きをして政府と取引をしうる立場にある人たちだけがわずか2%の恩恵を受けることにした。これは談合そのものだ。彼らはわずか2%の税金で魂を売ったのだ。そこに怒りは湧かない。むしろ哀れみのような感情さえ生まれる。かつてのような発行部数を誇っていれば保身に走る必要はなかったかもしれない。

ジャーナリズムとは日々の記録を取ることなのだと強弁するのであれば、またそれもよいかもしれないが、それは政府の広報係のようなものだから、税金で賄うべきだろう。

もっとも、こうした状況を作り出したのは新聞ではなく国民だともいえる。もともと、政党パンフレットが祖先の新聞は党派性が強いものだった。特定の団体の主張を述べたものだったからだ。時には新聞を発行した罪で殺される人もいた。その後、特定の党派に偏らない情報が知りたいというニーズが生まれ、党派のスポンサーシップに頼らない新聞が生まれた。購読料や広告収入が「中立公平」を支えたのである。

新聞が没落しつつあるということは、人々が中立公正な情報を望まなくなっているということを意味する。自分たちで情報が比較検討できるようになったからかもしれない。

また「ジャーナリズムとは権力批判だ」というのも単なる印象に過ぎないかもしれない。政府批判者という役割はかつてはインテリ層のものであり、商品価値があった。しかし、その役割はネットに移りつつあり、かつてより大衆化されてしまった。意外と公正中立性よりもルサンチマン解消の方が「ジャーナリズム」のメインの商品価値だったのかもしれないが、新聞はそうした役割の主役ではなくなりつつある。

ジャーナリズムの死を嘆いてみたかったのだが、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

Amazon PrimeのCMとコンテクスト文化

クリスマスシーズンを前にAmazon PrimeがCMを流している。配送業者らしい見知らぬ男性が何かを唱っている。多分、本国のCMを流用したものではないかと思うが、全く訴求効果がなさそうだ。それはなぜなのかを考えてみた。

アメリカ人は「説明」が大切だと考える。新しいサービスの内容を説明し、その「ベネフィット」を感じてもらおうと思うのだ。そのため、アメリカのCMはベネフィット訴求型が多い。そこで、いきなり女性が出てきてシャンプーの効果について説明を始めるというようなコマーシャルが好まれる。

ところが日本人はベネフィットにあまり関心を寄せない。見知らぬ小太りの男性が何かを唱っていても、それが自分に関係があることだとは認識しないのだ。

日本人はむしろ、周囲にいる自分と同じような人たちがサービスを受け入れているかどうかを気にする。見知らぬサービスを使っていると自分まで「不正解だ」ということになりかねないからだ。こうした周辺情報のことを「コンテクスト(文脈)」と呼ぶ。コンテクストの方がベネフィットより大切なのだ。

このため、日本人では「自分と同じ属性を持っている」人か「自分の恋愛対象になる」人と商品やサービスを関連づけるようなコマーシャルが好まれる。もしくは誰もが憧れる芸能人が使っているところを見せて「あの人のようになれるかもしれない」というような憧れを抱かせる手法もよく取られる。

このため、日本のコマーシャルではよく顔の知られた芸能人が重用される。そのような芸能人は「数字を持っている」とされるので、広告代理店が芸能人にランクをつける。バラエティ番組でもお笑いタレントが実際に大型量販店やファストフード店に行き実際に商品を試してみるような内容が好まれる。お笑いタレントは自分たちと同じだと考えられているので、彼らが使うサービスは「正解」になる可能性が高い。

一方で、アメリカのコマーシャルで芸能人が出てくるのはむしろ例外的かもしれない。「コンテクスト」は商品の本質(ベネフィット)とはあまり関係がないからだ。コンテクストが重要視されるのは高級アパレルや香水などの商品に限られるのではないだろうか。訴求すべきベネフィットが抽象的だからだ。

ハリウッド俳優は「映画の中身」を語りたがる。限られた時間の中で「本質」を語らなければならないと感じるからだろう。一方で、日本人のレポータは、その俳優がどんな人であり、受け取ったプレゼントにどんな反応をするかを知りたがる。周辺情報の方に需要があるのだ。日本人は映画でどのような内容が語られているかということにはあまり関心がなく、どのような人が作っているのかを気にするのだということになる。

こうした違いが思わぬ誤解を生むことがある。よく安倍首相は海外のプレスにちぐはぐな回答をしている。プレスの人たちは物事の本質(政治家の場合は問題の解決策を示すのが本質だと考えられる)を聞きたがっているのだが、安倍首相はコンテクスト(周囲の状況や自分がいかに信頼に足る人物かということ)を語ろうとする。これがちぐはぐさを生み出している。答えを聞いた海外プレスは不満を募らせているかもしれない。少なくとも首相の発言がニュース記事になる事はないだろう。

こうしたちぐはぐさが生まれる原因が政治家にあるというわけではない。日本の有権者がコンテクストを知りたがるからだ。選挙の時期に「支持者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行くとよく分かる。彼らは問題の本質(なぜ、それが起きて、どう解決すべきか)についてはよく知らないし興味もない。にも関わらず「今回のマニフェストがなぜ正解なのか」というコンテクストを語りたがる。

よく、安倍首相は「矢(手段)」と「目標(的)」の違いを理解していないと言われている。しかし、日本型のリーダーの役割はコンテクストと正解を提示することにあると考えられるので、物事の論理的な整合性が取れなくても構わないのだろう。正解さえ決まってしまえば、回りにいる人たちはその正解を自分が好きなように解釈し好きなように取りはからうことができる。

2009年の選挙では逆の現象が見られた。問題の本質は分析されず「政権交代が正義なのだ」というような主張がまかり通っていた。政権交代がなぜ必要で、それがどのような解決策を提示するかということはあまり重要ではなかったのだ。

こうしたコンテクストは「空気」と呼ばれることがある。

このように考えると「日本人は物事を解決できないではないか」と思えてくる。それほど問題解決に重きを置かないのかもしれない。それよりもむしろ問題を文脈に当てはめて「解決した」と見なすのではないかと考えられる。そう考えると東アジア各国の「歴史認識問題」が起きている理由がほの見えてくる。扮装をどう防ぐかということよりも、その事件がどのような意味を持っているのかというコンテクストが重要視されるのだろう。

ブログが宗教団体の圧力で消されかけたら

知り合いのはてなブログが閉鎖の憂き目に合った。経緯はよく分からないが、ある宗教団体の犯罪行為(どうやら児童虐待らしい)について書いたようだ。よっぽどひどい嘘を書いたか、本当のことを暴いてしまったのだろう。

どちらにせよ、はてなの側としては「ヤバいものは閲覧停止にしてしまえ」と判断してしまったのではないかと思う。該当箇所を削除するようにというお達しと猶予期間はあったようだ。

これについて、別の識者が「アーカイブを消されるのはひどい損失だ」と嘆いていた。が、それだけ重要なアーカイブならばそれなりにバックアップを取っておく必要があるだろう。はてなブログはMT形式でバックアップができる。これは様々なブログサービス(例えばWordpressなど)で読み込む事が可能だ。

そもそも、はてなブログは無料だ。だから、運営者側の判断で消されても文句は言えない。それでも無料のサービスが使いたいのであれば、海外で運営されている無料のサービス(例えば、Wordpress.comなど)に移行するのがよいだろう。

さらに「ブクマが消えてしまう」のが嫌なのであれば、ドメインを取ってしまうことも一つの選択肢だ。多分、1か月に500円程は必要だろうが、運営者に勝手に消される可能性は低くなるのではないかと思う。サーバーが使えなくなったら、サーバーを移転して、ドメインを張り替えたら終わりである。

残念なことにこの事例は「日本人の生産性の低さ」を如実に物語っている。第一にこうした社会運動は、個々の活動として行われることが多い。なかなか参加者同士の支え合いに発展しない。第二にグループウェアなどを使った動きが出てこない。Twitterで呟き、それをまとめて終わりといった具合である。若年層はLINEでやり取りをしているのかもしれないが、これも閉鎖系なので、運動に広がりが生まれない。

新しい世代のサービスはいくつも出ている。例えば、Googleを使ったサービスが考えられる。まず、Googleグループを作る。これはメーリングリストのように機能するが、履歴がすべてGoogleのサーバーに残るという仕組みである。テーマごとにスレッドを設定して利用するので、後からテーマが追いやすい。問題が起こったら担当者にアサインする仕組みも付いている。もちろん履歴は公開も可能なので、検索エンジン経由で新しい参加者が見つかる可能性もある。

この夏の「落選運動」の時にも思ったのだが、日本の社会運動は連帯が下手だと思う。そもそも団体活動が苦手な人たちが、価値観を押しつけられることに反発していることが多いからなのかもしれない。こうした連帯の下手さ加減は、しっかりと野党に受け継がれている。大切な時ほど、内輪もめを起してしまうのである。

運動家のみならず、日本人はチームプレイが苦手だ。これは一般的な日本人の自己像とは異なるかもしれない。特にセクションが違っている人たちの間の「無関心さ」はかなりのものだ。残業があっても「隣の人を手伝わない」のは日本では当たり前だと考えられている。だから、自分でメッセージを抱え込むメールが重要視される。また、閉鎖した空間でやり取りを楽しむLINEの人気にもつながっている。

こうした特性があるので、グループウェアを使った協動が導入されにくいのだろう。

いずれにせよ恊働の問題を解決しないと、いつまで経っても社会運動が広がりを持つことはできないだろう。すると「NHKがとりあげてくれない」と文句を言い続けるだけになってしまうのではないかと思う。NHKを大勢で囲んでも問題は解決しない。で、あれば問題点を共有する仲間で運動を広げた方が手っ取り早いのではないかと思う。

マイナンバーカードの?が教えてくれること

「マイナンバーカードが配達されない」とか「詐欺に使われている」というニュースを見た。この中で特に深刻だと思えるのが、配送ラベルに印刷されている?の問題だ。今の日本のダメなところが凝縮している。

ガラパゴス化した組織は全体でミスをなかった事にする。なかったことにするから、いつまでも失敗から学べないのだ。

住所ラベルに?が印刷されたのは、全角スペースにすべきところを半角スペースにしたからなのだそうだ。これをプログラムが処理しきれず?が印刷されてしまったのだという。

なぜ、半角スペースを入れると?が印字されてしまうのだろうか。報道では詳しく説明されないのだが、多分COBOLを利用しているからではないかと思われる。ビジネス分野でよく使われるCOBOLは全角と半角の取り扱いが苦手なのだという。これを「克服」するためには、予め半角になりやすい文字種を決めておいて、手作業で対照表を作って置き換えるのだという。この処理を失敗すると、文字コードが半角分(全角を基準にすると0.5文字になる)ずれてて、全体が文字化けを起すはずだ。

文字化けを防ぐために、エラーとして「手作業で」?を印字しているのではないかと思われる。?は当てはまる文字が有りませんよとか「データが間違っていますよ」いう意味の「エラーコード」なのだ。プログラマが意図して組み込んでいるのだ。そういう「仕様」なのだろう。

ここまで書いても「だからどうしたの」と言う人が多そうだ。

第一に「なぜ未だに、日本語処理が苦手なCOBOLを使っているのか」という問題がある。1959年に仕様が統一されたCOBOLはもう50年以上もの歴史のあるプログラミング言語だ。多分、役所関係の仕事だけをやっていれば済む(他に仕事がない)会社や部署が使い続けているのだろう。こうした会社では、他の言語を習得する意欲がないはずだ。ガラパゴス化しているのだ。

もし、MicrosoftやAppleのように家庭用機器を作っている会社であればそんな製品を放置する事はなかっただろう。COBOL言語そのものの問題というよりは、改良されたCOBOLが使えないコンピュータを使っている人たちが多いということなのかもしれない。メーカーは古いアーキテクチャに無駄なリソースを割くよりも新しいアーキテクチャに移って欲しいと思うはずだ。いわば、MS-DOSあたりを使っている感覚だといえば分かりやすいかもしれない。

こうした世界では、倒錯した価値観が支配することになる。不完全な状態を「改善しよう」とは思わない。それを使いこなす事に不思議な快感を覚え、それを「職人技」だと賞賛することになるのだ。目的を達成するよりも、職人技を磨く事が尊敬される不毛な世界だ。

しかし、これは問題の半分だ。もしこれがエラーコードだったとしたら、どこかで抽出ができたはずだ。?が印刷されたら、ログを吐いて出荷を止めるようなことができたのではないかと思う。しかし、システムインテグレータはそれをしなかった。これは推測になるが「納期の問題」があったのかもしれない。「納期に間に合わせる為には絶対に半角スペースは入れないでくださいね」というわけだ。

役所の方も納品物をチェックしなかったのだろう。役所側(あるいは業者の営業)が、納品する住所録にある半角スペースを一括で全角に変換してやればよかった。また、納入したものを目視確認すれば問題は表面化しなかったはずである。プログラマは半角スペースをイレギュラーとする仕様で書いているのだから、チームメンバーは(それがクライアントや営業であっても)イレギュラーなデータが流れ込まないようにする責任がある。

「時間がないからミスはあってはならない」が「ミスはあってはならないから、ないはずだ」に変わってしまう。最後には「ミスはないはずだから、これはミスではない」になる。だから、誰も学習しないのだ。そして学習しないから「これをどうにかしよう」とは思わないのだ。

このように考えると、マイナンバーが外部に流出するのも時間の問題だといえる。?で収まっているうちに問題を解決すれば良かったと思う日が来るだろう。

残念なことに、これを伝えるマスコミ側にもコンピュータのことが分かる人がいなかったようだ。政治部や社会部に専門家がいなかったのかもしれない。だから、深刻な問題が起きたとき、初めて専門家を呼んで大騒ぎして「責任者を首にしろ」などと叫ぶわけである。

まあ、問題が起きた時に多額の税金で処理をするのもいいかもしれないし、何度でも叫び続ければいい。何回でも同じ間違いを繰り返せば、そのうち学習するだろう。

2015年にはどのくらいのテロ事件が起きていたのか

パリで連続爆破事件が起きた。たいへん痛ましい事件なので、インターネット上ではフランスに連帯を示す人たちがあふれた。Amazonはフランス国旗を掲げ、Facebookにはフランス国旗と自分の顔写真を重ね合わせるアイコンを表示する人たちがいた。

一方、なかなか事件を取り上げない日本のマスコミに対して「特別放送を流さないとは何事だ」というようないらだちを表明する人たちも多かった。中にはTwitter上でコメントを出した著名なジャーナリストに対して「事実誤認」を指摘する人まで表れた。普段から「これだから日本のマスコミは……」というような気持ちを持っている人たちが多いのかもしれない。

この騒ぎは普段私達が持っている小さな差別意識を表面化させたように思う。先進国の事件を自分たちの状況と重ね合わせて「平和な暮らしが脅かされるかもしれない」という恐怖心を感じることはよく分かる。一方、中進国で同じような事件が起きても「対岸の火事だ」という認識しか持たない。「ああ、貧しくてかわいそうに」くらいにしか思わないのだ。

同じような事実認識は難民騒ぎでも起きている。トルコ・レバノン・ヨルダンには350万人以上の難民がいるが特に大きく報道されることはなかったが、ヨーロッパに難民が流れてきたころから「国際問題」として認知されるようになった。

試しに今年起きたテロを並べようと思ったのだが、多すぎてすべてを列挙することはできなかった。興味のある人は公安調査庁のページを閲覧するとよいだろう。

もちろん知らなかったものもあるが、テレビで報道されたものもある。にも関わらずこうした一連のテロで「通常放送を止めろ」という指摘が出なかったのはなぜなのだろうか。今一度考えてみた方がよいと思う。本当に国際情勢に関心があるのであれば、CNNやBBCなどの導入を検討した方がよいだろう。テロのたびに放送を止めるより、ニュー寸専門チャンネルを見た方がいい。テロはそれほど頻繁に起きているのだ。

  • イエメンでは恒常的にテロや軍への攻撃があり、多くの人が殺されている。内戦化しているため、個別の事件が取り上げられることはない。アフガニスタンでもタリバンの事件が多発しているが、こちらも混乱状態が定着しているため特に報道されることはなくなった。
  • アフリカ(サブサハラ)では恒常的に自爆テロが起きている。ナイジェリアではイスラム過激派ボコハラムが数十名単位の殺戮を複数回行っているが、特にニュースになることはない。子供に爆弾を括り付けて自爆テロ犯に仕立てることもある。人道的に見るとパリの事件より何倍ももむごたらしい。カメルーン、チャドでも自爆テロが起きているが特に報道されることはない。マリではホテルが襲撃され外国人が殺された。
  • アメリカでは銃乱射事件が多発している。あまりにも頻繁に起こるので「大事件だ」という報道は見られなくなっている。こうした虐殺は「通常の」殺人事件だと見なされていて、特にテロだという人はいない。
  • インド・パキスタン・バングラディシュでも事件が起きている。安保関連法案の審議途中には「法人保護」が題目になっていたのだが、バングラディシュで邦人が殺された時、政府は無反応だった。マスコミも特に大きく報じることはなかった。
  • 3月18日に、チュニジアのバルド国立博物館で銃乱射事件が起きた。22名が亡くなった。政府の重要な収入源である観光業へのダメージを狙ったものと考えられている。6月にはプライベートビーチが襲撃され38名が亡くなった。8月にも警官1名が死亡する事件が起きている。
  • 4月5日にカイロで爆弾テロがあった。警察関係者1名が亡くなった。2月にも連続爆破騒ぎがあり、1名が死亡していた。6月にもテロがあり検事総長が亡くなった。
  • 7月にはソマリアで中国大使館関係者1名を含む13名以上が殺された。イスラム過激派組織アル・シャバブが犯行声明を出した。アル・シャバブはケニアでも14名を殺害した。
  • 8月17日にバンコクでテロがあった。20名が亡くなった。ウィグル独立派の犯行が疑われたが、真偽はよく分からなかった。9月にも爆弾テロがあり2名が亡くなったが、こちらは報道されなかった。
  • 8月7日、アフガニスタンの首都カブールで爆弾テロがあり、警察学校の政党など50人以上が亡くなった。米軍兵士1名が含まれていた。アフガニスタンでは不安定な状況が続いており、タリバンの関与が疑われている。
  • 10月10日にアンカラでテロが起きた。20人以上が亡くなった。背景にはクルド人とトルコ人との間にある民族的な軋轢があると考えられている。
  • 8月6日にサウジアラビアで治安部隊員15人が死亡する自爆テロが起きた。10月16日にはモスクで銃撃事件が起き5人が亡くなった。こちらはISILの支部が犯行声明を出した。
  • 11月13日、パリとその郊外で同時多発的に爆弾テロがあり、129人が亡くなった。イスラム国(IS)の関与が疑われている。1月7日にもシャルリー・エブドが襲われる事件が起きていた。シャルリー・エブド事件では12人が殺された。

Windows XPでYahooにアクセスできなくなる!?

現在、Yahoo!にXPパソコンで接続すると「もうじきほとんどのサービスが使えなくなる」という注意書きを目にする。10月から12月にかけて「セキュリティ関連の改良が施される」のだそうだ。何の対策が行われるのかという詳しい説明はない。

もう少し調べてみると、Yahoo!が SHA-1証明書をSHA-2証明書に切り替えるのだということが分かった。7月頃まではYahoo!もこのように説明していたのだそうだ。この説明が正しければ、XPがSP3になっていれば、従来通り接続ができるのだということになる。Yahoo!がなぜ説明を変えたのかは分かっていない。「この機会にXPを排除してしまうのだろう」という人もいれば「とりあえず、大丈夫だ」という人もいる。

中にはYahoo!さえ使わなければ大丈夫だという人もいる。ところが、話はそれほど簡単ではないようだ。もともとこの話はSHA-1証明書の暗号が破られることがわかったところから始まる。これを危胎化というそうだ。SHA-1はアメリカの国立標準技術研究所(NIST)で1995年に作られたのだそうだが、2005年に「このように計算すれば、いずれは破られるだろう」というアルゴリズムが開発された。(JPNIC)そこでNISTは2010年にSHA-1の使用を停止するべきだという勧告を出した。

そのために、MicrosoftとGoogleが「自社製品は今後 SHA-1を信頼しない事にする」と決めた。これを受けてシマンテックなどの証明書発行機関が、2015年限りでサーバーサイドのSHA-1証明書を発行を打ち切ることを決定したのだ。そのため、サーバーサイドではもうじきSHA-1が使えなくなる。となると、サポートが打ち切られたOSがSHA-2に対応していなければ、そのまま使えなくなってしまうというわけだ。例えばApacheもSHA-2に対応していなければ使えなくなるので、古いサーバーOSも入れ替えが必要だ。つまり、Yahoo!だけの問題ではなさそうなのである。

シマンテックの書いたものを読むと、どうやらSHA-1対応かそうでないかはOSではなくブラウザーが決めるのだということが分かる。シマンテックの調査によるとほとんどのブラウザーがすでにSHA-2対応している。もう一つのソースであるwikipediaにはそれとは異なる対応表があったが、どちらともXP SP-3は対応したことになっている。

Yahoo!がどのような情報と意図に基づいて今のような注意書きを変えたのかはよく分からない。話を分かりやすくしようとして混乱の原因を作った可能性もあるし、別の意図を持っているのかもしれない。少なくとも、今日現在、Yahoo!は古い証明書を使っているので、話の真偽は確かめようがない。年内に突然ログインができなくなる可能性も捨てきれない。

この話を調べていて疑問に思ったのは、ブラウザーとサーバー以外の製品の対応だ。SSLは例えばメールソフト、iTunes、メッセンジャーなどで使われている。こうした製品がどの程度影響を受けるのかについては情報が集められなかった。もっとも、切り替えは進んでいるのかもしれない。Gmailが古いガラケーからアクセスできなくなっているのだそうだ。Googleは明確なアナウンスをしていないので、これがSHA-2対応によるものなのかは不明だ。Gmailの証明書を見ると、署名アルゴリズムがSHA256になっていた。これはSHA-2の一種なので、Gmailは既にSHA-2化が進んでいることになる。で、あればGmailを見る事ができるブラウザーは引き続きYahoo!の機能を使えることになる。

GlobalSignの対応表によると、XP SP3はSHA256に対応していることになっている。一方、MacOSの対応は10.5以降なので、10.4や10.3では使えないサービスも出ているものと思われる。

もっとも「古いOS」の利用率はそれほど高くない。このブログに接続する人を調べたところ、XPの利用率は3%に満たなかった。最もメジャーなバージョンはWindows 7だ。Windows 10やiOS9.1といった最新OSを利用している人たちも少数派で、アップデートの難しさを感じる。Mac OS 10.4を使っている人もごく少数派なので、今回のアナウンスによって影響を受ける人はそれほど多くないのかもしれない。

ネット上にはWindows XPパソコンはWindows 10には対応できないといった書き込みも多く見られる。しかし、これは必ずしも正しくない。後期に作られたXPパソコンの中にはWindows 10の導入要件を満たしたものがある。検索すると「アップデートに成功した」という記事が見つかる事もあるので、一度検索してみることをお勧めする。ただ、パソコンの価格も下がっている。10000円のWindows 10パソコンも発売されている。一方、PowerPCは10.5を例外としてそろそろオフライン限定にした方がよさそうだ。

シマンテックによると、日本政府は2019年までにSHA-2への切り替えを行うのだそうだ。すでに解読が進んでいる暗号であり、いつ破られてもおかしくはない。加えて、日本政府や自治体の情報リテラシーはかなり遅れていることが知られている。政府は「マイナンバーのセキュリティ対策は万全だ」と胸を張るだろうが、本当に大丈夫なのか改めて検証した方がよいように思える。そもそも民間のレベルでは2016年末ごろまでにアクセスができなくなってしまうのだ。