顕示的消費の変遷

顕示的消費はヴェブレンが1890年代に出版した本で始めてコンセプトとして提示された。有閑階級(つまり働かなくても食べてゆける)人々が社会的な階級を誇示するために行う消費を顕示的消費と呼ぶ。社会階層意識がなくなるにつれて、顕示的消費は衰退するだろうというのが一般的な予想だ。

戦後の高度経済成長期の人々はこぞってよい車に乗りたがった。経済が豊かになるにつれ国民全体の社会的階層が上がってゆく実感があったからだだろう。最終的に、顕示的消費は一般の若者にも広がった。バブル時代の若者の間では、公園や劇場のようなまち渋谷を散策し、ブランドロゴが入った洋服を買うことが流行した。顕示的消費は「ブランド」と結びつくのが一般的だった。ところが低成長が続くとブランド品は売れなくなった。一般に余剰の所得が減少したからだと説明されている。こうして顕示的消費は消え、ユニクロだけが勝ち組になった。

ヴェブレンが観察したように、顕示的消費を支えていたのは社会階層だ。上流階級にあるファッションが流行る。それが映画などのメディアに乗って流され、デパートで展示される。庶民のうち比較的裕福な人が真似をし、広まる。するとファッションには顕示的効果がなくなるので、別の流行を探さざるを得なくなるというわけだ。だが、こうしたメカニズムは崩れつつある。誰が上流階級なのか、もはや判然としないからだ。

だが、顕示的な消費が消えたわけではなさそうだ。

例えば体面を保つための消費は残っている。友達の家を訪れる際に珍しいお菓子を持っていったり、玄関にフラワースタンドを飾るなどの消費は、社会的ステータスを保つために欠かせない。正月に手作りの(あるいは有名デパートの)お節を食べるというのも体面消費である。全体的に貧しくなったと言われていても、贈答品のお菓子の需要はそれほど減らないのだそうだ。顕示といってもクジャクのように見せびらかす物ではない。それは香水のようにほのめかすものなのである。

料理のように役割が移動するものもある。有閑階級は自分で料理などしなかった。料理は卑しいのだから顕示にはなり得ない。その後も料理は「主婦であればやって当たり前」のものであり顕示性はなかった。だが、現代では自分で作ったお弁当をインスタグラムにアップしたりすることがある。知識の量、手間、手先の器用さ、芸術的才能、流行を先取りするセンスといったものが必要だからだ。冷凍食品を買って済ますことができるからこそ、それが贅沢な物と見なされるのだ。

この料理をインスタグラムにアップするという形の顕示的消費にはいくつかの特徴がある。

弁当の作り手は消費者であり生産者でもある。トフラーが提唱し、もはや死語になった感すらある「プロシューマー」なのだ。プロシューマーという言葉は「商品開発に顧客の声を生かす」という形で企業に取り入れられたが、やがて衰退した。消費者が直接情報発信できるようになったからである。

次に顕示の内容が価格ではなくなりつつある。消費者は生産手段を持たなかったので価格しか顕示できなかった。しかし現代では顕示できる内容は多岐に渡り、複雑化している。現代の顕示的消費者が顕示しているものは「選択」である。

おたくは顕示的消費ではない。他者に向けて発信されるのが顕示的消費だからだ。相手に評価されなければ顕示的消費とは呼べない。一方でおたくは生産手段を持つことができ、情報そのものに価値があるのだから、顕示的消費ではないといっても、それが無意味で無価値ということではない。

つまり、情報が重要な役割を占めている。料理は単に食べるものではなく、情報として二次利用されてはじめて価値が生まれるのだ。

こうした情報を「生産」する人たちが現れた。それがユーチューバーだ。ユーチューバーが見せているのは、たいていの場合単なる消費に過ぎない。だが、その消費を紹介するだけで、月々の暮らしを成り立たせることができるのである。ユーチューバーは子供たちのあこがれの職業になりつつある。「面白おかしく毎日を消費して暮らしたい」と考える子供たちが増えているようだ。つまり、消費こそが生活なのだ。

マーケティングの世界では情報発信の主体は生産者から消費者に移りつつあるらしい。選択肢が複雑になるにつれて「キュレーター(集める人たち)」が重要だと言われ始めたが、玄人の集団であるキュレーターの時代は来なかった。代わりにバブルを迎えたのがインフルエンサーだ。影響力があり情報発信手段を持った消費者にこぞって高いマーケティングフィーを払う企業が増えており、バブルの様相を呈しているとのことである。

これにともなって「情報を統制する」ことが難しくなると同時に無意味になりつつある。物の価値はどう消費されるかによって決まるわけであり、その情報を生産者は持っていないのだ。いまや解禁日や製品コンセプトについてコントロールが完全に正当化されるのは、映画やテレビ番組の宣伝だけになった。これは情報を売っているのだから、当然と言えば当然の帰結だ。

とはいえ、ソーシャルネットワーキングだけに頼るわけにも行かない。ユーザーは紹介する素材を求めている。アーンドメディアだけでは成り立たず、それを補間する(あるいはネタを提供する)意味でもオウンドメディアが必要なのだ。

消費という経済活動はヴェブレンの時代から大きく様変わりしたように見えるのだが、基本的な構造は似ている。人々は誰かに影響を受けたがっている。ただし、社会的階層や裕福さはそのあこがれの対象にはならないようだ。何が憧れられるのかということはあまり解明が進んでいないのではないかと思われる。

ご近所のシルバーデモクラシー

またぎきなので正確なところは分からない。

仲がよさそうなご近所さんたちだが、いろいろと問題があるらしい。ご近所にはやたらに決まりを作りたがるひとたちがいる。「困っている人がいるから町内会レベルで互助組織を作り住民の状況を調査すべきだ」と言い出す人がいるのだそうだ。で、実際に困っている人のリストを作ろうとすると「プライバシーの問題があり、そんなリストを公開するのは危険だ」と言い出す人が出てくるようである。

妥協点はない。白か黒かである。

決まり事を作りたい人たちはそれがよいことだと信じているので、しつこくその議題を出し続けて決して折れることはない。そこで定期的な近所のお話合いは決して問題解決ができないまま毎度紛糾するのだそうだ。

全体レベルで意見がまとまるわけはないので、やたらと私的な組織を作りたがるという。そして「自分たちは世の中の役に立っているのだから、補助金をよこせ」という主張も忘れない。直接聞いたことがあるのは「子供の福祉に役立つ場を作るから、市が空き家を提供して、補助金も出せ」という話だ。お決まりなのは「私が役員になる」ということである。結局「私らしく輝ける場所」を探しており、他人を巻き込みたいのだ。「子供」はそのための道具になっているのだが、言っている人は全く気がついていない。

こうした人たちに共通しているのは「自分の価値観はよい価値観なのだから、相手も従うべきだ」という強烈な思い込みである。若者は消費者としての自分に閉じこもるのだが、高齢者は自分の価値観を回りに押し付けようとする。ただ、その価値観がやたらと細かいのだ。例えば「自転車を塀の外に括り付けておくのは好ましくない」というようなたぐいの話である。

こうした視点から自民党の憲法案を見ると、やたらに細かな価値観の押しつけあいが多いことが分かる。これは高齢者の自己顕示なのだろうと考えられる。多分自民党の人たちにすれば憲法とは「みんなで守るべき村の決まり」程度の認識なのではないだろうか。「私たちの村がいかに特別で美しいか」で始まり「みんなで仲良く暮らすべきだ」という主張が入る。そしてその中心で輝いているのは「私たち自民党」なのだろう。悪気はないのかもしれないが、出来上がった主張はきわめて危険で、これが憲法と言えるかどうかさえ疑問だ。

文部科学省は学校の運営を手助けするために地域の力を活用したい意向だ。なんとなく良さそうなのだが、地域の人たちがただで手伝ってくれるとは思えない。学校運営に入り込んだ高齢者たちは「私らしさ」を発揮しはじめるだろう。自分たちの価値観で相手を染めようとするのである。多分、先生の気苦労は増えるだろう。

こうした住民自治組織はまだら模様になっている。一角に若い人たち向けの住宅があるが、新しくできたのでそこだけ組織には入っていない。高齢者たちは虎視眈々と「若い人にも入ってほしい」と狙っているのだが、決して新しい価値観を受け入れるというわけではなさそうだ。「私色に染上げてやろう」と考えているのではないかと思われる。

「若者は選挙に行かない」と考えている人も多いようだが、決して若い人たちの意見を聞いて政治に反映させようなどとは思っていないだろう。無垢なうちに自分の色に染上げて、熱心な観客にしてやろうと考えているのではないだろうか。

Why Japanese people don’t ask for apologize to President Obama.

When President Obama decided to visit Hiroshima for the first time, people of the US concerned if Japanese people would ask for apologize and make things clear. It happened because two cultures are very different.

People who suffered from two a-bombs want to be understood rather to be apologized. However understanding is a difficult concept. In Japanese language “wakaru” -understanding contains two perspectives – logic and emotion. If you don’t share feelings with others, they wouldn’t think they are understood. Japanese people is more group oriented and an emotional tie has more valued.

Apologizing requires two parties – “you” and “I”. On the other hands, emotional understand makes a emotionally tied group of “us”. In Japanese “wakari-au” – understanding each other or developing mutual undersign is an important step to become “us”. Oneness is a beauty of Japanese culture.

At the same time, in group oriented cultures, people feels uncomfortable when mutual understanding is not developed and people cross the line. 70 years ago, Japanese wanted to develop mutual understanding with Koreans but Korean felt they are just interfered their uniqueness. “Wakari-au” culture has no respect to individuals because it focus more on groups.

It is interesting enough that Korean students studying in Japan may feel they are rejected because Japanese culture is more independent than Korean culture. So Japanese has moderate group oriented culture. which is stronger than westerners but weaker than Korean and Chinese.

Japanese group oriented culture has been developed over years. Avoid to cross lines between you and I because there is no space to escape when people can’t get along with each other. Japanese learned that from a civil war which happened about 400 years ago. In stronger group oriented cultures you can’t change a group.

Of cause, President can use the opportunity to state his position and beliefs when clear statements appear in West world but he doesn’t need to state words to “wakaru” with HIroshima and Nagasaki survivors when emotional aspect is important.

If you want to remove wars and nuclear weapons, it would be a good idea to learn from “wakari-au” concept. The world got too small for fight to survive like Japan of 400 years ago and wiser to understand each others.

NHKが朝鮮中央テレビ化しているのだが……

ある日のNHKのニュースが酷かった。その日にはこんな出来事があった。グアムで米軍機が墜落し、エジプトに向かう飛行機が消息を絶った。高速道路の工事現場が崩落した。そして、大阪でも殺人事件が発生した。スリランカでは大洪水が起きて30万人が家を失うというニュースがあった。

だが、NHKが時間を裂いたのは安倍首相がサミットにむけて何を準備しているかということだった。選挙向けにはバラマキと消費税増税延期が必要なので、そのための雰囲気作りをする必要がある。そのために「力強い政治リーダーとして、世界経済を牽引するために各国に要請を行っている」という絵を作りたかったようだ。いわばG7を国内政治に利用を幇助していたのである。

野党側はこれを見越して「自分たちが消費税減税を先に言った」という実績作りに熱心だ。アンチ野党の人たちが「財政再建はどうするんだ」などと騒ぎ始めているのだが、早晩に状況は変わるだろう。

各国のリーダーの思惑もだいたい分かっている。アメリカはヨーロッパと日本に支出を増やしてもらいたいと考えている。自分の政府はもう借金ができない(なにせ政府の閉鎖寸前まで追い込まれているのだ)からだ。ドイツは「やりたきゃ勝手にやれば」と思っているようだ。

だからNHKが作る絵は国内向けのプロパガンダにしか過ぎない。「北の指導者が経済活性化の為に尽力した」というのと似ている。全世界の人は、北朝鮮が経済的に圧倒的に南に負けていることが分かっていてあの絵を見ているから、アナウンサーたちの大仰な声がこっけいに見えるのだ。

安倍政権が圧力をかけているとは思わない。多分NHKの人たちは頭がいいので、与えられた状況でどうしたら出世できるかがよくわかっているのだろう。風向きが変われば、また変えればいいだけの話である。

と3日前くらいに考えたのだが、朝起きてどうでもよくなった。ふと「なぜ、自分はこれだけたくさんの出来事が起きているのか」知っているのだろうと考えたからだ。明らかにそれはネットがあるからだ。ニュースに興味があればYahooニュースかなんかを覗くか、Twitterのタイムラインを眺める。それだけでたいていのことは足りてしまうのである。

そもそもNHKのニュースをみて「安倍さんがんばってるなあ、誇らしいなあ」などと思っている人はほとんどいないだろう。「一億総活躍プラン」みたいなものが作られているのだが「財源は決まっていません」の一言で「ああ、また詐欺かよ」と思った人がほとんどなのではないだろうか。これはさすがにNHKも扱っており、財源が決まっていないこともきっちりと伝えていた。

高齢者はNHKに騙されるだろうと考える人がいるかもしれないのだが、朝日新聞を隅から隅まで読んでいて、有り余る時間に舛添さん問題などについて熱く語り合っているわけで、NHKを鵜呑みにして「安倍様は世界の首脳からの熱烈な要請を受けて力強い消費税増税延期を決断なされた」などと言えば笑われるだけだろう。

「このような政権追従の報道を続けていれば、そのうちにNHKは信頼を失うだろう」と書きたいのはやまやまなのだが、そもそも最初から信頼などされておらず、人々は好きな情報を好きなように解釈しているだけなのだ。

松田公太氏の影響力について

Twitterは面白いツールなのだが、残酷でもある。その人の影響力が相手に覗かれてしまうのだ。例えばこのブログのRetweetもページビューと連動している。Retweetがあってもページビューが動かなかったりすると、拡散点としての価値はゼロなのだ。フォロワーの数と連動しているわけでもなさそうだ。おおむね左派は関心の範囲が狭く、情報収集には熱心ではないように思う。

松田公太さんという人がいる。東京から改選を控えた現職の参議院議員だ。このポイントにポジティブな呟きをすると拾ってもらえる。そして複数の「いいね」が付いて、Retweetもされる。あ、影響力があるんじゃないかなどと思う。

colornetwork3だが、これは間違いなのだ。

このツイートのインプレッションを見ると意外と広がりが少ないことがわかる。ここから先は類推でしかないのだが、狭くて熱烈なコミュニティがありそこで拡散されているのだろう。

同じような現象が反原発・戦争法案派にも見られる。そうでないコミュニティと比べてお互いのフォロー関係が密なのだ。探したら昔作ったネットワークチャートがあった。

そもそも、ツイッター民は政治のツイート自体に興味がなさそうだ。この数日で呟いた物を調べたところ、ヒットしたのは次の5つだった。

  • 安倍首相が護憲派の守護神になっているという皮肉めいたツイート
  • iOSがアップデートされたが、スムーズに移行できたというツイート
  • ブックオフがハードオフとは違う会社であるというツイート
  • 日立がコンサル営業にシフトする試みは失敗するだろうというツイート
  • 韓国人はお行儀が悪いというツイート

トレンドワード入りしているとインプレッションが稼げるのだが、政治ネタは少ない。安倍首相云々の話はトレンドワード入りしているわけではないので、どうして拡散したのかはよくわからない。Retweetした人がたまたまフォロワーの多い人だったのかもしれない。

松田参議院議員はアンチが少なく熱烈なフォロワーが多いと思うのだが、こうした存在は拡散力が劣る。とはいえ影響力が上がると今度はアンチが増える。定式化はできないが、強さと広がりは別の物で、広がりと支持率も別のパラメータなのだということが分かる。

とはいえこれが投票行為にどのくらい反映するかどうかはよく分からない。多分選挙関連のツイートが盛り上がるのは投票日前の3日間くらいだろうし「他に適当な人がいないから」という理由での投票もあるだろう。情報が多すぎて人々が振り向けられるリソースが限られているはずで、数ヶ月先のことなど構ってはいられないのだろう。この時点では誰がどこから出るのかを把握している有権者はほとんどいないだろう。

全く蛇足なのだが、安倍首相が護憲派の擁護者になっているというツイートはかなり拡散した。戦争法案派(つまり左派)への反発から安倍首相よりの人もいたと考えられるのだが、こうした動きが退潮するにつれて、コンテンツとしての安倍さんは飽きられ始めているのではないかと思う。つまり、安倍首相は護憲派の存在を作っているのと同様に、護憲派は安倍さんの存在意義を作っている。相互が依存関係に陥った(つまり共依存だ)まま、双方とも衰退してゆくことが予想される。

引き続きもろもろ観察したい。

園芸ショップに見る顕示消費の変化

近所に100円ショップ、中古品店、GUが並んでいるショッピングモールがある。はっきりいって「中流から落ちかけた人たち」が集まる場所という印象のところだ。ところが、そこにこじゃれた園芸店ができた。高価なインテリア植物が並び、庭先には聞いたことのないような花が並んでいる。サボテン専用の温室とカフェが併設されている。

なぜここが選ばれたのかは分からないのだが、駐車スペースが豊富なところとまとまった土地があったからではないかと思われる。建物はプレハブなのだろうが、周りの庭に見たこともないような樹が植えられており、温室も整備された。

そこに買い物に来る人たちは美男美女が多い印象がある。子連れの姿も多く見られる。特に男性が「こぎれいな」格好をしていて、平均身長も高いような気がする。高齢者の姿は全く見られない。

花の値段は「少し高い」程度だ。例えばオステオスペルマムは産地が経営するショップで100円、ホームセンターで150円というところだが、ここでは300円程度で売られている。特徴的なのは色かもしれない。一般的な赤、黄色、青といった色合いは少なく、淡い色合いの物が多い。クリーム色のペチュニアなどが売られている。こうした色合いは単体で見ると地味なのだが、寄せ植え材として群生させてそれなりの植木鉢に植えれば見栄えがする。人によっては「シック」とか「アンティーク」などと表現する色合いだ。

特徴的なのは葉ものだ。寄せ植えをグレードアップさせるためには、花よりも葉ものを充実させる必要がある。斑入り、淡い緑、ブロンズ、シルバーリーフなどを組み合わせるのが基本なのだ。ホームセンターにはこれほど豊富な品揃えはない。ホームセンターの顧客は花壇のスペースを埋める必要があり、葉っぱを入れたとしてもアイビーが入るくらいだからである。ホームセンターは花の割合が6、野菜3、葉が1という程度ではないだろうか。

園芸に何を求めるかは人によって違っている。きわめて乱暴に一般化すると、戦前・戦中生まれの高齢者は野菜や果樹が好きだ。「役に立つもの」で埋めたがる。ところが主婦になると今度は庭先や玄関に「必要最低限の飾り付け」をする必要が出てくる。園芸はその意味では贅沢品ではなく、一般消費財に近い。いわば「必要経費」なのだ。ホームセンターでは、大量に同じような花を栽培する必要があるのだ。インテリアとしての観葉植物が100円ショップでも売られているのはそのためだろう。

ところが、人よりちょっとセンスアップしたくなると、とたんに「単体では全く役に立たない葉っぱ」が重要になってくる。葉ものがあるとないとでは見栄えが全く異なる。このような園芸に注目が集まるのは「ナチュラル好き」な人が増えているからだろう。オーガニックや有機栽培などの野菜にこだわり、チアシードやエルダーフラワーといった聞いたこともない「美容によい成分」を探す。そして日曜には見栄えのよい夫と子供をつれて園芸店に繰り出すわけである。時間と資金に余裕がないとそんな生活はできないわけだが、余裕がある人たちが大勢いることが分かる。

そういう人たちを惹き付けるのが「SNSジェニック(インスタグラム映えするというような意味だ)」なお店だ。そこで「すてきでナチュラルな料理」や「珍しい樹のある庭園」などが重要な役割を果たす。

こうした人たちはブランド品を身につけているわけではなさそうだが、まとまったこぎれいな格好をしている。かつてはブランド品のロゴマークを買うことが「顕示消費」だったわけだが、顕示消費の内容は、ブランドという記号を離れ、「ライフスタイルの誇示」とか「ちょっとした幸せ」の演出に移っているのかもしれない。

NHKが印象操作を試みるもあえなく失敗に終わる

安倍首相がメルケル首相を訪問した。NHKのニュースによると概要は次の通り。

  • 安倍首相はお城に招かれた。(特別待遇がほのめかされている)
  • 安倍首相はドイツにさらなる財政出動を要請した。
  • メルケル首相は、ドイツに移民が流入しており内需は喚起されていると語った。
  • 財政出動については、引き続きG7で協議することにした。
  • メルケル首相は日本のリーダーシップのもとで力強いメッセージを発することに賛同した

ところが、事前に様々な情報が出回っている。総合すると次の通り。報道の中で何がぼかされているのかがよく分かる。

  • 安倍首相はメルケル首相は、ドイツは難民の流入もあり、既に十分に財政出動していると主張し、安倍首相の提案をやんわり断った。(あるいは、両者は認識に違いがあることが分かった)
  • メルケル首相は、G7では代わりに規制緩和や財政規律などについて話し合いたいと語った。
  • メルケル首相は、競争的な通貨切り下げには勝者はなく、為替相場の安定が重要との認識を示した。
  • メルケル首相は、日本にNATOのメンバーシップをオファーし、フランスやイギリスを説得できると語った。

TBSでは「メルケル首相は財政出動について明言を避けた」としていて「課題が残った」としている。このラインがぎりぎり公平と言えるのではないかと思う。NHKのニュースだけを見ると、日本のリーダーシップにメルケル首相が賛同したという印象が得られる。だが、事前に様々な情報が入っている人から見ると、安倍さんはメルケル首相に相手にされていないことが分かる。それどころか安倍さんの政策や主張に釘を刺す発言もある。すると、却ってしらけた印象になってしまうのだ。

情報ソースは主に2つある。一つはクルーグマン教授の「東京で話し合われたこと」というものだ。安倍首相は「ドイツに財政出動させるにはどう説得すればいいか」とたずね、クルーグマン教授に「外交は専門外」だとやんわりと断られている。ノーベル賞学者を呼んでもこの程度のことしか聞けないのかと国民をあきれさせた。もう1つの情報ソースは外国の通信社などである。こちらはグーグル検索すれば簡単に手に入るし、Twitterでも情報が飛び交っている。特に専門知識は必要がない。

特にNATOの下りは重要だろう。第一に日本は集団的自衛権を行使できないので、NATOには加盟できない。しかし、日米同盟は別口と考えられている。「だったら、NATOにでも入れますよね」というのは、日本のダブルスタンダードに対する皮肉だ。次に、安倍さんは今回の旅行でロシアを訪問することになっている。ロシアとヨーロッパは緊張関係にある。NATOはロシアに対抗するための装置である。そこで、メルケルさんは「あなたはいったいどっちの側なの?」と迫ったわけである。

安倍さんのコウモリのような態度(日米同盟に臣従する態度を見せつつ、ロシアにも接近する)は警戒されているし、平和憲法を空文化してアメリカとの集団自衛にコミットする姿勢もあまりよくは思われていないのではないかと考えられる。

各社ともメインで伝えていないところを見ると、NATOの件は、何かのついでにほのめかしただけのようである。

よくNHKは大本営だという人がいるが、大本営が成り立つためには情報が遮断されていなければならない。ところが実際には様々な情報が飛び交っているから、大本営発表は単なる道化にしかならない。日本のマスコミはそのまま権威を失ってゆくのではないかと考えられる。

また、NHKだけでなく、特定の情報を鵜呑みにする(これは、NHKだけでなく、左派や右派、ないしは自分の専門だけの情報ソース)ことの危険性も示唆している。

強い関係と弱い関係 – 選民教育と一般教育の違い

普段いろいろなツイートをするのだが、返信は滅多にない。これだけいろいろ書いているので、憎悪に満ちた返信があってもよさそうだが、それはない。なぜなのだろうかと思うことがある。

昨日面白い体験をした。民進党の蓮舫参議院議員が「日曜討論に岡田さんが出る」とツイートしていた。昨日は憲法記念日なので日曜討論はない。まあ、別にどうでもいいことなのだが、面白いので突っ込んでみた。すると「日曜討論ではなかった」という旨の返信があった。

すると、蓮舫議員と私宛にいくつかのレスポンスが来た。多分蓮舫議員に構ってもらいたい人だったのではないかと思うのだが、よく分からない。なかには「お前は民進党支持のようだが、民進党には何もできないではないか」というものもあった。

そこで思ったのだが「民進党」というのは「公衆の面前で叩いてもよい」存在になっているらしい。こういったことは自民党の政治家には起らないし、日本を元気にする会でも起らない。さらに民進党の議員では長島昭久議員のところでもあり得ない。

多分「蓮舫さんが女性だから舐められている」のだろうなあと想像した。つまり「この人は弱い」という人が叩かれるのであって、いじめの構造に似ている。だが、民進党の女性議員をイジる人は、どのような根拠で「この人はイジっても怖くない」と思うのだろうか。こういうことを研究した人はいないのではないだろうか、などと考えた。

いずれにせよ、このような言論空間では意見そのものには情報的な価値はないということになりそうだ。誰が発信しているかが重要であり「いじめてもいい」というフラグが立つととりあえず叩く訳だ。こうしたコミュニケーションにも機能はあるはずだ。多分、意見交換というよりは社会秩序の維持機能があるのだろう。つまり「誰かをイジってもいい」と思う人は「誰か別の人にイジられている」社会の駒なのだ。

この仮説は少し残酷だ。つまり、選良教育と一般教育がある。選良教育では情報交換や討議といった意思決定に関わるコミュニケーションが行われる。一方で、一般教育からはそのような技術は予め排除されている。代わりに社会秩序維持のための方法を学ぶのだ。社会秩序維持の技法を学ぶ訳ではない。維持されるメンタリティを育成されるのだろう。


この延長線上にあるのが「弱い靭帯」の不足である。これは個人的にはかなりの発見だった。インターネットのコミュニケーションをBBSの時代からやっているのだが、当時はどこの誰か分からない人と会話をするのが楽しかった。ネットワークとしては「モデレータ」のいるスタイルで、参加者は会話に返信する義務はなかった。気に入れば参加すれば良いし、忙しければ返信しなくても構わない。誰も強要する人はいなかった。ただし、自分の趣味のBBSが荒れてしまうのは避けなければならないので、それなりの自律的に秩序が維持される。このようなフォーメーションが成り立っつ条件は2つある。

  • 限られた人たちが参加する。知らない人たちのコミュにケーションに参加しても平気な人たちだ。
  • モデレーターがお金を払って私的な場を維持している。

こうしたつながりを社会学では「弱い紐帯」と呼ぶ。義務や上下関係の薄い関係と言える。弱い紐帯を持っていると、情報の幅が広がる。だが、現代では、多くのネットユーザーにはこうした区分はしないらしい。管理される教育を受けた人たちにはそもそも「弱い紐帯」という考え方がないのかもしれない。

例えば、LINEには弱い紐帯という考え方はない。だから、Twitterでも「今日と明日は返信できません」と断りを入れる人がいる。会話を返すのを義務だと考える「強い関係性」なのだが、これがLINEいじめの原因にもなっている。

今回は「支持者ではない」と言っているのに「民主党は何もできない」と主張をぶつけてくる人がいたのだが「ああ、そうだろうなあ」というくらいにしか思えなかった。多分「会話をする人が必ずしも意見に賛同しているとは限らない」ということが、本質的に理解できていなかったのではないかと考えられる。

そこで、そもそも人はどのようにして弱い紐帯という概念を学ぶ(あるいは学ばない)のだろうかと考えたわけだ。

この考察が正しいかは分からないのだが、日本には「管理して意思決定する側の教育」と「管理される側」の教育の2種類がありそうだ。つまり、Twitterでどのような意見を発信するという、たいへん下らない些末なことが、ある階層からみると「社会的なスティグマ」になってしまうということである。

この結論の残酷なところは、こうした態度が再生産されるということだろう。つまり、通常の教員養成課程では「管理されている人が、管理される人を作るための教育」を行うということになる。いったんこのカテゴリに入ってしまうと、そもそも情報交換して意思決定するということができなくなってしまう。

これは「管理する側」に都合がよいように思えるのだが、実際にTwitterで行われている政治議論を見ると分かる通り、本来は「意思決定する側」の人たちが絡めとられてゆく。そもそも「管理される側の教育」しか受けたことがない人たちが、意思決定しているようにも感じられる。

なぜ、人々は好き勝手な物語を語るのか

礒崎陽輔衆議院議員が怒っている。主題は憲法改正案だ。毎日新聞が「自分たちをレッテルばりした」のが気に入らないらしい。

ここでは自民党の側に立って磯崎さんの疑問にお答えしたい。こうした「客観的な事実でない部分的な情報を主観で埋める」ものを物語という。確かに「戦争法」は事実を「安倍首相は戦争を従っている」という憶測で埋めた「左翼の物語」と言える。では、議論が物語を許容するのは何故なのだろうか。

一つは安倍首相が事実を的確に伝えなかったという点にある。もともと中国を封じ込めたいという気持ちを持っており(これはダイヤモンドなんちゃら構想として知られる)アメリカが「相応な費用負担を求めている」という事実を隠蔽したまま、それを利用しようとした。日米同盟は盤石だと言い張り、日本人の負担は増えないと約束している。これらは全てもとの事実を隠蔽した行為だ。事実が曖昧なので、物語の余地が生まれたと言える。政治は「憶測でものを言っても良い」ことになったのだ。

次に安倍政権側が物語をねつ造しているという事情がある。緊急事態条項でよく知られている物語は「ガソリンが足りなくて命が救えなかった」から緊急事態条項が必要だというステートメントだが、少なくとも東日本大震災ではそのような事実はなかったことが知られている。そもそもこれが物語なので、カウンター側も別の物語を当ててくる。

もう一つよく知られているのは、震災対応に際して「自治体に権限を渡すべきだ」という声だ。これは事実ではないかもしれないが、実感であろう。実際に「よく分かりもしないのに、中央からやってきた人が仕切りたがって困った」という声はよく聞かれる。松本文明副大臣の行状が記憶に新しいところである。これは中央集権型とは真逆のベクトルだ。つまり「地震の時には強い政府が求められている」というのは既に物語なのだ。

では「本当は安倍政権は何を画策しているのか」と思うのが人情というものである。そこから想像を膨らませるが「証明」はできない。そこで、人々は好きな物語を作り、その隙間を埋めようとするのである。

つまり磯崎議員への回答は簡単だ。自民党やその支持者たちが自分の好きな方向に国民を誘導しようとしたから、全体が好き勝手な物語を紡ぐようになったのである。マスコミは黙るようになった。つまり誰の物語にも加担したくないが事実を探るのも面倒(というより実質的に不可能)なので「誰が何を言った」ということを以て、事実を報道したということにしているのだろう。

政治的主張の組み立て方 – リピーターと新規ユーザー

ソーシャルメディアの反応を見ると、政治的な主張にどの程度の引きがあるのかが分かる。だが、その反応は要面的であり、使い方を間違えるととんでもない勘違いを生み出しかねないのではない。以下、具体的に示す。

一部の方は既にご存知だと思うのだが、Google Analyticsでユーザーの行動が終追えるようになった。ユーザーごとにIDが割り当てられていて行動をトレースできる。そこでリピーターの行動の解析を試みることにした。

念のために申し添えると「プライバシーが漏れる」ということはない。IDは固有だが、名前などとは紐づけられていないからだ。IDは各個人のブラウザーに入っているが、パソコンを押収でもしないかぎり、個人の特定はできない。

ユーザーの行動履歴は閲覧できても、エクスポートには対応していない。そこで、ページをコピペして加工した。ユーザーの多いサイトで同じことをするのは大変だろうなあと思う。

user_id interaction ページ名という形式に加工してCytoscapeに読み込ませる。やろうと思えばページのジャンルをアトリビュートとして読み込ませることもできるのだと思うが、面倒なのでやらなかった。多分書いている本人がよく分かっていないので、意味がないだろうと思ったからである。もちろん、バスケット分析などもできるのだが、そこまでやりたい人(主にECサイトの人だろう)は、カスタマイズされたコードとIDを埋め込んでいるものと思われる。

まず、ヘッドラインで反応しているひと(いいね)などは全く当てにならないようだということだった。傾向が全く違うのだ。多分、Retweetもヘッドラインに反応しているのかもしれない。時々、ヘッドラインと全く違うことを書いていたりするのだが、本文は読まれていなさそうだ。

次に分かったのは「ユーザーというのは一人ひとり違った指向を持っていてつかみ所がない」ということだった。このブログはいわゆる「左翼層」をターゲットとした記事(一言でいうと、安倍政権が災いを引き起こしているという内容だ)が多いのだが、リピーターはほとんど読んでいないようだった。「Twitterにはバカが多い」とか「NHKは情報を隠蔽した」いう記事は多くのページビューがあったのだが、リピーターにはこれも読まれていない。みんなが読む情報に飛びつく人は飽きるのも早いということになる。

ユーザーのニーズは多様化している。例えばマーケティング系のもの、コミュニケーションに関わるもの、マスコミのあり方に対するもの、イノベーションについて、デザインなどと複数のジャンルについて幅広く読んでいた。特定の傾向は見られない。

さて、これを見る限りは、野党勢力は今夏の参議院選挙であまり躍進できないのではないかと思われる。自民党の憲法案やTPPへの関心は多分それほど高くない。具体的に何が起るかイメージできていないのではないかと考えられるし、多分反対する野党陣営は「大げさだ」と考えてられているのではないかと思う。

熱心な人はTwitterで安倍首相の悪口をつぶやいているが、多分誰も読んでいない。多くの人は飽きているか、そもそも最初から気にしていない。情報発信者も「カラオケ状態(つまり、誰も他人の歌を聞いていない)」なのではないかもしれない。リアクションを見ながら発言している人は、おそらく誰もいないのではないだろうか。

では、そのような人たちは政治に関心がない無知蒙昧な人たちなのかというとそうでもないらしい。政治記事にも読まれているものがあるからだ。これも傾向は判然としない(書いている人が分かっていないのだから傾向が見えないのも当然だ)ものの「意識高い系のワードと政治を組み合わせたもの」や「公共性に関するもの(ただし、公共についてポジティブなのかネガティブなのかは判然としない)」などは読まれている。今のレベルでは仮説にすぎないものの「自民党中心の政治が制度疲労を起こしている」と考えている人は多いのではないかと考えられる。だが、野党も「旧態依然としている」と思われているために、支持が広がらないのだ。

いずれにせよTwitterやYahoo!ニュースのヘッドラインに引っ張られて政治主張や情報発信の方針を決めるのは危険だから止めたほうが良さそうだと思った。自分のメディアを持ち、定期的に反応を解析しないと、表面的なリアクションに引っ張られる危険性があるのではないだろうか。

多くの露出を得るためには、インフルエンサーにフックしたり、過激なことを書く必要がある。ただし、リピーターを獲得するためにはそれではダメなようだ。感情で動く人は、辛抱強く文章を読んだりはしないのだ。