日本人にインターネットは向いていないかも……

先日来、LookbookとWEARを比べている。いくつか違いがある。WEARはファッションサイトなので服を中心に組み立てられている。一瞬当たり前のように感じられるのだが、Lookbookをみるとそうでもないことが分かる。Lookbookは「私をどう演出するか」という点に力点が置かれていて、服はその要素の一つだ。とはいえ服がおろそかになることはなく、ポイントになる要素(例えば靴など)は強調されている。これを実現するためには、自分を素材だとみなして客観視しなければならない。だが、訓練なしでは難しい。

一番の違いは顔の処理だ。WEARには未だに目を隠している人が多い。中にはうつむいていたり、サングラスで目を隠す人もいる。中には手を口に当てて口だけ隠している人たちがいた。彼らは洋服を見せたいのであって、顔を晒したくない。体は隠さなくて良いのかと思うのだが、そこにはコンプレックスはないようだ。つまり、個人として特定されたくないのだろう。

その一方で、顔を晒すとどんな不都合があるのかは、実はよくわかっていないのではないだろうか。

特定されたくないとはいえ、無視されるのも嫌なようだ。その証拠に顔を隠しても「いいねをお願いします」というような記述がある。個人を特定されて嫌なフィードバックを貰うのはいやだが、承認だけはしてほしいということになるだろう。

pdca承認を得るためには試行錯誤をして失敗を減らすしかない。このために古くから用いられるのがPDCAサイクルだ。デミング博士らが提唱し、日本には製造業を中心に広まった。日本版ではAはActになっているが、英語版ではAdjustという説もあるそうだ。

悪い評判を聞かないとこのサイクルが回せない。

一方で、フィードバックする側にも問題がある。改善を求めるわけではなく、批判が人格の全否定になることが一般化している。

距離が掴めない関係で、ネガティブな意見をいう技術がないのだ。他人のフィードバックがない分だけ、自分の意見や価値観が絶対的だと思ってしまうのだろう。つまり、この関係は受信者と発信者に共通の問題のように思える。

注目が得られない人は、ある程度来たところで発信をやめてしまうと思うのだが、成功してしまっった場合にも別の問題が起こる。ある時点でネガティブなフィードバックに接するとどうしてよいのかがわからなくなる。そこで相手をブロックするということが起こるのではないだろうか。

そもそも、情報発信をするとネガティブなフィードバックがあるいう仮定は間違っている。情報発信をしている人は多いので、わざわざ好んでネガティブなフィードバックを送ってくる人は多くない。それほど気にすることはないのではないかと思える。

多様性が許容できないのにネットを使いたがる老人

最近、Twitter上で「蓮舫の国籍を取り上げろ」と息巻いている人がいる。賛同者はほとんどいないし、自分が何を主張しているのかよくわかっていないようだ。一応、法律違反だからダメだということになっているのだが、法律が理念を実現するための道具だということが忘れられている。

彼らの本音は多様性の排除だ。まず多様性を武器にした蓮舫新代表に対する攻撃からはじまり、同じく多様性を持ったTBSのアナウンサーに対する個人攻撃になった。さらに人権や多様性の観点から二重国籍の人たちを擁護する識者を馬鹿呼ばわりしはじめた。

二重国籍はある種の特権だ。たまたま両親が別の国の出身であるとか、別の国で生まれたという偶然がなければ二重国籍状態にはならないからだ。多分、特権を持った人がもてはやされるのが許せないのだろう。

ここから本能的に自分が多様な世界にキャッチアップできないことを知っているのだろうということがわかる。

二重国籍は現行の法律では問題行動なのだが、変化が多い現代社会では有利に働くことが多い。国際競争力ということを考えると、多様な才能を日本社会に取り込むことができるかという問題が持つ意味は大きい。だから、これを機会に現行法制をどう変更してゆくかという議論が始まってもおかしくない。

これを見ていて、インターネット論壇も来るところまできたなあと思った。もともとネットに注目していた人たちは最先端の人たちだった。そもそもアクセスするためにはそれなりの技術が必要だったからだ。ゆえに初期のインターネットは多様な意見の大切さを知っていた。他者の意見に触れることで、新しい視座を得ることができるからだ。実はネットが出始めの頃は、気軽に他者の意見に触れるような環境はなかったのだ。

しかし、ある時点から出版社や新聞社で食べられなくなった人たちが集まるようになってくると状況が変わり8時メタ。多様な意見に触れることがよいという考え方は持たずに、自分たちが場を支配したいという気持ちが強い。他者が許容できないのだ。もともと出版社や新聞社は入った時点で「許されたものしか発言できない」という特権を得られるので、ネットでそれを再現しようとしたのかもしれない。現実世界で特権を失ってしまったからこそ、新天地のネットで王になりたいという気持ちが強いということも考えられる。

他者が許容できないので、とうぜん多様性も許容できない。ゆえに二重国籍など考えられない。良識的な意見も許容しないらしく、異論を唱えるものをことごとくブロックしているらしい。

日本社会では他者を許容できないことが成功の要因になることがある。組織は既得権防衛のための装置だからだ。しかしインタネットは基本的に多様な意見を排除できない。ブロックするというのは、自分の意見が相手に伝わらなくなるということなので、自らの影響力を排除するということなのだが、基本的なネットの仕組みがよくわかっていないのだろう。

もちろん、ブロックはネットの「間違った使い方」とは言えない。さらに言えば、自分で出資して会員制の空間を作っても良い。それができないのは、この人たちがもともとあった会員制のサロンを追い出されてしまったからだろう。

その意味では蓮舫問題は「ネットに不適合な人達」をあぶり出す装置になっている。

人々が失敗を認めなくなったわけ

内田樹という人が「人々が失敗を認めなくなったわけ」について考察している。すこし違和感を持った。

この「鬼の首を」というのは、現象であって原因ではない。故にこれを責めても問題は解決しない。

一つひとつ紐解いてみよう。順をおって考えると意外と簡単だ。

最初に感じる違和感はこれを日本人論にしているところだ。しかし、謝らない社会はどこにでもある。20年前にはアメリカに行ったら自分の間違いを認めてはいけないと言われた。これは日本が甘え型の社会だったからだ。「すみません」というのは単なるあいさつであって謝罪の意味はなかった。どちらかというと軋轢をつくらないために「私の方が間違っているかもしれませんが」と言っていたわけである。受ける方も「そうだ、お前は間違っている」などとは言わなかった。これが甘え型社会だ。

このようなことができたのは人々の地位が安定していからだ。ところが、バブルが崩壊してから人々の認識が変わった。社会が椅子取りゲーム化した。くじ引きでもして誰かを引きずりおろさないと全員は生き残れないという(あるいは間違った)認識が蔓延したのだ。こういう社会ではちょっとした間違いが生死に関わるので誰も間違いを認められなくなる。

日本社会はお互いに「間違い」を作らずに許しあってきた。そのために間違いから学ぼうという習慣も根付かなかった。さらに厄介なことに暗黙知を形式化しようという習慣もなかった。長い時間をかけて黙って通じるまで経験を共有することが前提になっている。

間違いを決して認めないはずのアメリカ社会で間違いが許容されるのは「その間違いには理由があるかもしれない」と考えるからだ。間違いを形式化して問題点を抽出するのだ。ところが日本は急激にサバイバル型に変質したために、間違いは学習の機会だという認識が根付かなかった。そのため「ワンアウト退場」という極端な社会が作られた。

さらに人件費の削減もこの傾向に拍車をかけた。

間違いを見つけて修正するという作業は知的に負荷がかかる。すくなくとも余力がないとできない作業だ。この知的な余力は金銭的な理由から省かれるようになった。例えばマクドナルドのアルバイトはオペーレションの間違いを自ら修正することは要求されるが、全体を最適化したり、人気のないメニューを修正したりする知的能力は要求されない。最初の社会は間違いを認めない社会だったのだが、現在では自分が間違っているかすらわからない社会になった。

この「ワンアウト退場型」の社会にはさまざまな弊害がある。人々は分かることだけをやり、その他のことをカッコで括って外部化するようになった。だから、自分の専門外のことに関しては恐ろしく無関心だ。そのためシステムが暴走を始めても誰も気に留めないし、理解しようともしない。ただ、この現象も珍しくはなく、2003年にはすでに『バカの壁』が書かれている。

社会や組織が学習できなくなると、すべてのシステムを外から力づくでとめるしか方法がなくなる。Twitterが発達して暴力的なブレーキとして働くようになったのはつい最近のことだ。人々は、ワンアウト退場型でどうエラーを修正方法するかについて学んだのだ。

アメリカは違ったやり方をしている。トップの首を定期的にすげ替えるのだ。日本は流動性が低い社会なので「退場」したらやり直しはできない。だから間違いを認めることは決してできない。

それでも日本社会が崩壊しないのは、とりあえずうまくいっているやり方だけを踏襲してゆけばなんとかやっていけるからである。学びの機会を失ってしまったので成長することはないが、崩壊もしないのである。

鬼の首を取ったように他人の間違いをあげつらうのは、それが唯一のエラー修正策だからである。社会にあったエラー修正策を見つけない限りその状態は続くだろう。できれば、社会全体が成長してゆくほうが良いのだが、エラーを認めないと成長ができない。

そのためには一人ひとりにの認識を変えるしかない。

 

ジャニーズ事務所と五社協定

あるTweetへの返信。

ジャニーズ事務所が退団した人たちを競演NGで潰しているというような引用ツィートがあった。それを暴いてほしいというような意味合いだと思う。実際にそういうことは、ジャニーズ事務所でなくてもよく行われているし、逆に抱き合わせで競演させるということもある。だから、あまり新鮮な驚きはない。10年ほど前だったら業界に入って間もない人たちがドヤ顔で「芸能界って汚いところなんだぜ」などと知識を披瀝していたものだが、最近はバーター(束)という言葉が一般にまで認知されるようになった。ネットのおかげなんだろうと思う。

さて、この慣行だが、過去にも事例があった。映画会社は専属システムを取っており、自社の俳優が他社の映画に出ることを禁止していた。だから、映画会社を辞めたことで干された人も多かったのだ。これを五社協定システムという。

ところがこのシステムは面白い形で潰れることになる。映画会社を干された人たちがテレビに流れるようになったのだ。テレビ局は制作会社も持たないので、中小のプロダクションを使わざるを得なくなった。だが、かつての銀幕のスターがテレビに出るようになると、視聴者はテレビを差別しなくなった。それどころか「映画館に行かなくても、無料で楽しめる娯楽」ということになり、映画館への集客が激減した。これがもとに戻ったのはテレビドラマの続編を映画でやるようになってからだ。その間、映画会社はテレビの下請けに転落した。

それは遠い将来の話のように思えるかもしれないのだが、私たちは既に同じような潮流を目の当たりにしている。小林幸子が「芸能界を干された」時に頼ったのがニコ生だった。そこでメガ幸子が生まれ、ボーカロイドの曲を歌い、ついには紅白歌合戦に復帰した。NHKはニコ生を見るような人たちにも紅白歌合戦を見てほしかったのだ。

オリエンタルラジオはインスタグラムやTwtterでかなり入念に仕込んでパーフェクトヒューマンを流行らせ、ネットの人気にあやかりたいテレビ局はこぞって追随した。いつもならテレビ局のやる気なく仕込んだいじめまがいのバラエティー番組のひな壇に甘んじている人たちでも、自分たちの好きなことができるということを証明したのだ。

つまり、ジャニーズを干された人たちは、ジャニーズを出てネットに出ればいいということになる。一人では大した潮流にはならないかもしれないのだが、ネットの番組は「好きなときに見られる」というオンデマンド性があり、テレビよりは優れている。テレビは家族でみなければならないが、ネットはスマホでも見ることができる。家族と一緒に過ごしたくない人たちは、多分スマホの方を好むだろう。

ジャニーズ事務所はグループを囲い込もうとして、グループそのものを破壊してしまった。経済損出は数百億という話だ。スターの発掘をジャニー喜多川氏に依存しているので、後継者がいなければ、事務所は衰退してしまうだろう。実際にはグループを外に出して過去の権利とネーミングライツなどを徴収すべきだったのだが、そのような知恵は働かなかったらしい。しかし、それは時代の趨勢なので「どうでもいい」話だ。

一番危険なのは、未だに事務所とテレビ局に頼りたい木村拓哉さんだろう。かつてのようなお客はテレビを見ていないのだが、その枠組みから離れられない。テレビが映画のように衰退してゆくとは思えないのだが、それでも数あるメディアの一つになるだろう。

映画が衰退すると、かつて「往年の銀幕スター」と呼ばれていた人たちはある時期から化石扱いされるようになった。内村光良がパロディーにするような(キャラの名前は忘れたが)大御所と呼ばれる人たちだ。彼らは一時代を築きはしたが、やがて中身のない笑われるだけの存在になってしまったのである。残念ながら、木村さんがたどりつつあるのはそういう道なのだ。

ある信仰告白

リベラルとか左翼とかいろいろな呼び方があるのだが、あの界隈の人たちの運動が一つの転換期を迎えたと思った。#生活苦しいヤツは声あげろ というTwitterのタグだ。

これまでの左翼運動は「戦争」や「原発」などの穢れに対しての反対運動だった。根底には何らかの別の不満や不安があるのだが、あくまでも穢れが外部からやってくることに対する反対運動の形をとっていた。自分たちの問題だと考えたくなかったのだと思われる。

確かに「普通」を抜けることには抵抗がある。通常、それは脱落を意味するように思われるからだ。だが、そうした運動はクローゼットのなかから叫び声を挙げるようなもので、たいしたインパクトを与えない。自分の問題として認識してはじめて運動体として前進しはじめるのだ。

この動きを考えだしたのが誰だかは分からないが、現状への意義の申し立てだと考えることができる。

キリスト教社会では、こうした「異議の申し立て」を信仰告白という。もともとキリスト教は異端の宗教だったので、信者間以外で信仰告白がされることはなかった。後に信仰告白はローマ教会に対しての異議申し立てという意味合いを帯び、公然となされるようになった。信仰告白は宗教改革期に多く見られ、最終的に国際的な戦争に発展する。プロテスタント運動以前には信仰告白はなかったものと考えられる。「自分が信仰を選び取った」という認識がなかったわけだ。

イスラム教では「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」というのが信仰告白になっている。証人2名の前で宣誓すると、共同体に迎え入れられるそうだ。キリスト教のような異議申し立てのという意味合いはなく、共同体のメンバーシップが強調される。

ともに、自分が特定の心情を持っているということを世間に向けて発表することを信仰告白と呼んでいる。それは心情なので厳密なファクト(事実)である必要はない。いずれにせよ「自分が選択したから信仰がある」という意識があることが重要だ。#生活苦しい……は何を告白しているのかというと「自分たちの暮らしはもっとよくなりうる」ということだろう。

そもそもこの運動がすぐさま教義を持ち得るかというのはかなり疑問だし、安倍政権が「生活を苦しくした」原因だとも思えない。だから過剰な意味付けはしたくないしかし、安倍政権が支持されているのは「日本人の生活が全体的に苦しくなりつつある」ということを否定したい人が多いからだと思われる。

しかし安倍政権を支持する人たちが信仰しているのは「私たちのくらしはこれ以上良くなりようがないし、我々には豊かになる資格はない」という世界観だ。異議申し立ては「良くする手段はあるはずだし、幸せになりたい」という宣言だということが言える。

21世紀の左翼運動は「現在の政権がうまく行っていない」ということを証明しようと長い時間を浪費した。世間に不調を認めさせてコンセンサスにしようとしたのだが、その度に「自己責任だ」と考える人たちに阻まれてきた。だが、そんなことは必要がなかった。「自分たちはそう考えている」というだけで十分だったのだ。

日本人はバブルが崩壊してから長い間、国として衰えて行くことは認めても、一人ひとりの暮らしが先細って行くことは認めてこなかった。現状認識を改めるのに一世代もかかったのだ。

PCデポの炎上

PCデポという会社がある。パソコンの販売だけでなくアフターフォローに力を注いでいる。日経新聞では高齢化社会の成長産業として賞賛されているのだが、Twitterでは悪徳企業として炎上しかかっている。出火元はこちら。

一人暮らしの80歳の男性が10台のデバイスをカバーする契約を結ばされており、解約しようとしたところ、20万円を請求されたというのだ。通常では考えられない「解約手数料」なのだが、実際にはいろいろと付帯契約を結ばされていたらしい。いわゆる「押し売り」をされていたようだ。既にYahooファイナンスで問題になっており、広報のコメントにもともとの告発者が反論したりしている。

法的にはセーフなのだろう。一応、お客さんの同意を取ったようなので、契約としても成り立っている。しかし、これを見た人たちはどう思うだろうかとか、株価にどのような影響を与えるだろうかという視点が欠けているように思える。

今度は、お客のクレジットカード情報を含んだ個人情報をクラウドにアップしているという件がネットで発見された。こうなると、上場企業のコンプライアンスが疑われる。またやはり「騙されていたのか」という人たちも続々現れている。さらに1テラバイトのハードディスクに4テラバイトのクラウドを付けて5テラバイトとして売っているという案件も発見された。つまり、どんどん延焼しているのだ。

最終的には日経新聞に記事が載った。ちょっとした書き込みをきっかけに、株価が18%も下がったそうだ。

いわゆるIT企業というものが堕ちて行く様をまざまざと見せられているようで哀しい気分になった。企業にはいろいろな「収益の上げ方」があるわけだが、結局、お金を溜め込んでいる高齢者を騙して不必要なサービスを提供するようなやり方をしないと儲けることができないのだ。IT業界がオーバースペックに落ち込んでいるということが分かる。

確かに、高齢者とパソコンの関係には問題が多い。

パソコンはとても複雑な機械で、ある日突然動かなくなる可能性がある。また、高齢者のパソコンの使い方を見ていると、設計者が想像もできないようなとんでもない癖を身につけていることが多い。さらに、高齢ユーザーは「定期的にバックアップすべきだ」などという基本的な知恵がない。馴れている人ならバックアップを取ったりしてそうしたトラブルが起らないように様々な方策を取るのだが、それもまだパソコンが趣味だった時代にトラブルに遭遇して身につけた知恵だったりする。

にもかかわらず、日本の高齢者はパソコン信仰は強い。タブレットを見せても「何か本格的じゃない」という理由で使いたがらなかったりする。タブレットやスマホは女子供のものであって、自分はパソコンを使うのだという意識が強いのかもしれない。

パソコンを知っている人は通信販売で価格を比較して買い物をする。そもそもスマホで最低限の支出しかしない。価格で競合できないメーカーや量販店はあまりPCが得意でないユーザーにサービスを売らざるを得なくなる。こうした人たちに親切に対応すると疲弊する。結局、おとなしい人たちを騙して余計なものを買わせるようなサービスだけが生き残るのだ。

オペレーション上にも問題がありそうだ。社内では知識によって序列ができている。社員が偉いというわけではなく、バイトでも知識を持っている人の方が「実質的に偉い」ということが起る。2ちゃんねるを見ると教育制度は整備されていないらしいので、もともとアルバイトや社員が持っている知識を前提に成り立っているのだろう。

すると、皮肉なことに「パソコンを知らない人」つまりお客の序列が一番低くなってしまうのだ。会社からは予算(PCデポはノルマがないが、予算設定はあるそうだ)を与えられているので、当然「騙される客が悪いのだから」という意識が芽生えることになるのだろう。会社は「まじめにやっている」人と「お客を騙して不必要なものを売りつけている人」を区別することはできない。

荒れ果てたマーケットで、モラルを保つのは難しい。アップルが高い意識を保てるのは、高い金を支払うリテラシーの高いユーザーに支えられているからだ。

この問題を考えていて、一企業を責めてみても、あまり問題の解決に役に立たないことに気がついた。どうして、高齢者社会の日本では、高齢者が間違えずメンテナンスも難しくないないシステムがつくれないのだろうかと思った。バックアップが簡単でメンテナンスフリーというのはすでにiPadなどで実装されている。技術的にUIを限定するのは簡単だろう。

問題は2つあるように思える。1つは日本のメーカーに開発力がないということ。もう1つはマーケティングの問題だろう。「らくらくスマホ」と呼ばれる製品があるが、あのようなマーケティングをされると「おじいちゃん扱いするな」という気持ちになるのだろうなあと思う。

 

若者のなんとか離れを嘆く前に考える事

デジタル一眼レフを買った。中古ショップで5000円以下の品物は1つしかなかったので迷うことはなかった。できることとできないことは予め決まっている。とはいえ当初の目的は達成できたので満足だ。そこから、カメラはレンズとセンサーによってできることが変わるということも学んだ。その上、ソフトウェアもダウンロードすることができた。ソフトウエアを使うと、画像を編集したり、パソコンと接続して写真を撮影することができる。

つまり、ユーザーは品物を買うと、品物に対する体系と何ができるかということ(経験)を学ぶのだと一般化できる。逆にいうと「手に取るまで、そうした知識を身につける事ができない」ということになる。

これが迷いなくできたのは、皮肉なことに選択肢が多くなかったからだ。一般的に人間は選択肢が多すぎると選択そのものができなくなってしまうとされている。選択肢の多さが参入障壁になっているのだ。

試しに量販店に行ってみた。売り場には各社のカメラが並んでいる。いろいろなスペックが氾濫しているのだが、機能や価格は各社横並びである。同じ「写真を撮影する」という目的のために30,000円のカメラがあり、20万円のカメラもある。30000円のカメラを買って後悔するのは嫌だし、かといって20万円で失敗したら目も当てられない。売り場には各社から派遣された店員がいるのだが(大抵は契約になっているはずだ)妙な意識を働かせる。自社の製品だけをお薦めしていると思われるのが嫌なのだ。そこで「どの製品を選ぶかはお客様次第ですね」というのだ。

一度、何かのカメラを買っている人は、ここから「(自分にとって)正しい選択」ができるかもしれない。しかし、新規のユーザーは多分多すぎる選択肢の中から適当なものを選ぶ事はできないだろう。各社とも有名な俳優を使ってコマーシャルを作っているが、カメラを買うまで、誰が何を薦めているのかさっぱり分からなかった。小栗旬、平井堅、綾瀬はるか、向井理がカメラを持っていることは分かっても、どこのカメラのどのような機能を宣伝しているかは伝わらないのだ。

エントリーレベルの製品というのは各社出しているので「買わせる」ことはできるはずなのだが、エントリーレベルもプロ仕様も一律に置かれているので、却って分かりにくくなってしまうのだろう。

よく考えてみると、知識体系と経験を作る為の方策はいくつもある。

一つは学校を作る事だ。学校といっても本格的なものである必要はない。母と子のワークショップとか、そういう類いのものでも十分だ。題材もソーシャルネットワーク向きにきれいな食べ物の写真を撮影するというくらいで十分だ。重要なのは、ターゲット向けにプログラムが組まれていることだろう。

次の方策はソフトウェアを使った継続性だ。コンパクトデジカメにも本格的なソフトウェアを付ける。その品質に満足できたユーザーの中には、新しくカメラを買う時に同じ社の製品を選ぶだろう。ソフトウェアを拡張してゆくと、オンラインで写真をシェアしたり、店頭で簡単に写真を印刷できたりとさまざまな「経験」を提案することができる。こちらは若干設計が異なる。ターゲット向けに細分化してはいけないのである。

こうした総合的な経験を提供できる会社にパナソニックやソニーがある。スマホを作っていて、総合的な経験を構築しうる立場にある会社だ。しかし、日本人は縦割り意識が強く、カメラ事業(例えばソニーはコニカミノルタからカメラ事業を買っている)とスマホ事業で経験を統合するということができないようである。アップルには「独裁者」がいて、経験を統合した。ソフトウェアをプラットフォームとコンテンツに分離したのだ。

キャノンはプロフェッショナル向けの経験作りに成功しているのだが、写真に特化したことで機能を複雑化させずにすんだのかもしれない。結果的に、プロのワークフローをアマチュアユーザーにテイキョウする事に成功している。

実際のデジカメ市場ではネットワークの原理が働いているようだ。「カメラに詳しい」人がいるのだが、たいていキャノンの作った経験に沿って仕事をしているようだ。キャノンはスタジオ撮影を円滑に進める為に必要な経験をソフトウェアとして提供しているからだ。これが「デファクトスタンダード」になっているわけだ。カメラを欲しい人は、プライベートのネットワークを通じて、カメラの知識を獲得する。すると、フォロワーのカメラもキャノンということになってしまうのである。

日本の家電店は経験の拡大をやっていた。電子レンジを売る為に料理教室と提携するというのがその一例だ。しかし、家電がありふれたものになり、価格中心になるとこうした機能が失われた。結果、個人の家電店は消え、徐々に家電量販店が台頭した。皮肉なことに家電量販店はその地位をアマゾンなどの通販に取って代わられた。役割はショップというよりショーケースのようなものに代わりつつある。ショーケースに特化するなら、家電店は料理教室やカメラ教室などを運営すべきということになる。

なぜあなたはハブられるのか

夏休みが始まってからしばらく経った。普段の教室から離れ、一学期にあったことを冷静に見ることができる時期かもしれない。

今回は「なぜあなたはハブられるのか」について考えてみたい。そして、どうしたらその状況から抜けられるのかもあわせて考えたい。ちなみに「ハブる」とは仲間はずれにするというような意味だ。

「なぜハブられるのか」を検索すると「あなたに落ち度があるのだから、一つづつ改善して行こう」というような文章が多数見つかる。だが、本当はそれは間違っていると思うし、ひどい誤解が含まれている。

本当に円満な社会は少ない。たいていの社会は緊張に満ちている。日本には「他人を平等に扱う」という伝統がなく、なんらかの序列構造を持っているのが一般的だ。例えば、誰が足が速いとか、勉強ができるとか、お金持ちかとか、序列の作り方はたくさんある。しかし、序列は曖昧で崩れやすい。そして、序列がないと不安を感じてしまう人たちがいる。

なぜ序列がないとダメなのだろうか。それは、社会が様々なことを決める枠組みだからである。これを意思決定という。社会は意思決定の枠組みなのだ。みんなの意見を聞くと、結局なにも決まらないので、序列を作って「強い人のいうことを聞く」ということにしている。誰の家で宿題をやるとか、どこに遊びに行くとか、どのテレビ番組(あるいはアプリ)について話し合うかなど、決めなければならないことはいくらでもある。誰も意思決定しないと何も決まらないから、当然何もできない。

日本社会では意思決定が集団構造になっているのが一般的だと言われている。つまり、何かを決めるリーダーグループがいて、その他大勢がそれに従うという構図である。日本社会では「納得がゆくまでみんなで行き先を話し合う」ということは行われない。日本人は徹底した話し合いを面倒だと思うのである。一方で、一人で全部の責任を引き受けるのも嫌だ。決めたことで何か悪いことが起ると(例えばイタリアレストランにいったのに、ことのほかまずかった)責任を取らされるからである。だから「なんとなく決まった」ことにしたいのだ。

しかしながら、このやり方だと「なぜこの人たちのいうことを聞かなければならないのか」と不満を漏らす人が出てくることがある。その不満を解消する方法はいくつかある。例えば、順番に誰かの言うことを聞く(この前はA君が行き先を決めたら次はB君だ)方法があるが、これはなかなか面倒だ。すると、代わりに「意思決定にも参加できないし、行動も一緒にしない」という人を作るのだ。

  1. 一緒に行動して、意思決定する人たち
  2. 一緒に行動するし、なんとなく影響を与えられるが、意思決定はできない人たち
  3. 一緒に行動できないし、もちろん意思決定できない人

では、なぜそのような人が必要なのだろうか。それは、もともとグループの構造が曖昧であり、なおかつ常に不安を抱えているからということになるだろう、この3カテゴリーの人たちが「ハブられる」人だ。

さて、そのように考えてくると、ハブられる原因は集団の側にあって、ハブられた人たちの問題ではないということが分かる。つまり、何か努力をしたからといって仲間に入れてもらえるということはないのである。逆にその集団から離れてしまうと「見せしめ」の効果が薄れるので、ターゲットが別に移る可能性もある。しかし、それも集団側の問題なので、あまり期待はできない。

あなたのせいではないのだから、「努力してなんとかしよう」とは思わないほうがいい。

厄介なことがいくつかある。第一のポイントは「ハブられる」ことには表面上の理由があるということである。実際は「見せしめにできるなら誰でもよかった」わけだが「あの時ああ言ったから仲間はずれになったのかも」とか「誘われたのに行かなかったから」などと思い当たる節がいくつか出てくる。すると、この表面上の理由をくよくよと考えてしまうのだ。

次のポイントは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みだ。そもそも「意思決定ができない」のにみんなでつるんでいるのは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みがあるからだろう。バラバラなのだったら、最初から自分だけで好きなことをすればいいのだ。特に女性は「仲良くしなさい」と言われることが多いので、このようなプレッシャーが強い。

しかし、よく考えてみると「どうやって仲良くするのか」ということを教えてもらった人はそれほど多くないのではないだろうか。また女性は「リーダーになってグループをまとめるような役割」は期待されないので「なんとなくみんなのいうことを聞きながら、全員一致で何かを決める」ということになりがちだ。しかし、それは無理難題である。だから、手っ取り早い方法に走るのだ。それが「仲間はずれ」を作って、まとまるという方法である。仲間はずれは道徳の破綻なのである。

いちばん厄介なのが「とにかく仲良くしなさい」という先生だ。数学が分からないのに「とにかく100点を目指せ」というのに似ている。先生はクラスで問題が起ると責任を取らされるので、何も問題を起こしたくない可能性が高い。この場合先生が「介入」するとさらに厄介になるだろう。

さて、ハブられた人は「自分だけが仲間はずれにされた」と思いがちである。中にはそれが嫌で自殺を考える人も出てくるくらい孤立することがある。しかし、実際にはこうしたことはよく行われている。大人になったら解決するということもない。

例えば政治の世界でも、同じようなことが日常行われている。何が決まったということよりも、誰が誰とお友達で、誰が仲間はずれにされたというようなことが記事の中心になっていたりする。

大臣が1年ごとに交代するのは「みんな平等に大臣にして上げなければならない」という思い込みがあるからだし「首相と仲良しだから早く大臣にしてもらえた」と書かれることも多い。

さらに「仲間に入れてもらえなかった」と恨みを募らせて大騒ぎする人たちもいる。外で仲間を募って復讐を果たす人もいるし、Twitterで相手の裏話を暴露する議員もいたりする。

また「全てあいつらが悪い」と思い込むことによって、うまく行っていない現実から目をそらすということもよく行われている。

こうした現実はあまり慰めにはならないかもしれないのだが、外から見ているととてもくだらないことに思える。重要なのは「政治は下らないなあ」と思うことではない。外から見ているとたいての人間関係のごたごたはくだらないことばかりなのだというのを知ることだ。つまり、クラスの人間関係だけが人生の全てではないのだ。

 

「天皇退位の意向」報道

NHKのニュースを見て驚いた。独自とした上で「天皇陛下が退位の意向」とやったのだ。健康に不安を抱えている今上天皇は5年頃前(ちょうど東日本大震災があったころだ)から退位の意向を家族に伝えていたとされる。だが、皇室典範に退位の規定はなく、実現のためには皇室典範が必要になるという。その後、毎日新聞が伝え、朝日新聞も伝えた。出元は「宮内庁幹部」とのことである。

ところがさらに驚いたことに、宮内庁の次長が「陛下に退位の意向はない」と報道を否定した。そのため、ネット上では様々な憶測が広がっている。多いのは「憲法改正を阻止するために、苦渋の決断をしたのだ」というものだ。陛下は常々平和の大切さを訴えており、平和憲法の改悪には反対の立場であられるだろうという予測に基づく。逆に政府の広報機関であるNHKがリークしたことから「安倍政権が陛下の追い落としを図っているのだ」という物騒な憶測も、少数派ではあるが存在する。

さらに次代への不安が考えられる。天皇を、先代がなくなって始めて継承する地位だ定義してしまうと、実際に天皇に即位したときに経験のあるアドバイザーが誰もいないということになってしまう。政治的に利用されることになりかねないし、お立場上孤立するということにもあり得る。生前譲位することで、継承の時間を取ることができるのだ。これはかなり切実な問題かもしれない。

実際に退位の意向があるとしたら、その意思は尊重されるべきだろう。老後をゆっくりと過ごしたいという気持ちは誰にでもあるものだし、一生激務の中に閉じ込めておくのは人権上問題がある。しかし、国事行為に関連する以上、即位・退位に自由意志を認めてしまうと。それを通じて政治的意思表明をしたり、逆に周りに利用されることにもなりかねない。退位の規定がないのは、政治利用を恐れたからだという話も出始めている。

この件は情報が少なく、確かなことは何も分からない。唯一確かなのは自民党・民主党の両政権が揃ってこの問題を放置してきたということだろう。安倍首相に至っては事前に相談もしてもらえなかったことになり、リエゾンとしての宮内庁の上層部のメンツは丸つぶれである。にも関わらずそうしたリークが出たいうことは、陛下側が政権を信頼しておらず、なおかつ宮内庁内に深刻な意思疎通の問題と孤立があるということになる。

報道によると、陛下は近々ご自身のお立場を説明されたいという意向だと言う。お立場上「譲位」を言わない可能性もあるということだが、もしそうなればきわめて不自然なものとなるだろう。

一方で安倍首相に近い楺井会長が安倍政権にこのニュースを上奏しなかったとは考えにくい。可能性は2つある。NHKの内部でスタッフの叛乱のような動きが起きているか、安倍政権側が天皇退位の既成事実を作りたかったというものである。もし後者であれば本物のクーデターだ。とんでもない話だが、全く否定しきれないところにもどかしさがある。

天皇陛下は憲法上政治的な意見を表明しないというだけであって、自由意志は存在する。現在の自民党の憲法改正案は「天皇中心の政治に戻すべきだ」と考える人たちの意向を受けながら、天皇への政治的権限強化は唄われていない。引き続き「お人形」として利用しようとしているだけだ。今上天皇に地位を巡る意向があるということだけでも、こうした動きに影を落とすだろう。

5分で写真からイラストを作る方法

ウェブサイトなどにイラストが欲しい。しかし、絵なんか描けないという人も多いのではないだろうか。Photoshopがあれば簡単に写真からイラストを作ることができる。手順を2つご紹介する。

まず、スマホなどで適当に写真を撮る。加工するのでベタな絵で構わない。これはあじさい。構図もまったく工夫されていない。

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次にこの写真のレイヤーを複製する。レイヤーは2つ作る。一つは「フィルタ」から「表現手法」の「輪郭検出」を選ぶ。「イメージ」から「色調補正」の「彩度を下げる」を選ぶ。もう一つは「イメージ」から「色調補正」の「ポスタリゼーション」を選択し色数を下げておく。今回は3色にした。

必ずふちの絵を上にしてレイヤーの重ね方で調整する。「比較(暗)」や「焼き込みカラー」などから工夫すると良い。すると、ディテールが消えて描いたような写真が得られる。適当に撮影したとは思えない。

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次のやり方はもっと簡単だ。「フィルタ」から「インク画(外形)」を選ぶだけ。

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サイトのバナーやデスクトップピクチャーなどに応用できる。これはベンチで食べる前のドーナツとパンを並べて撮った写真。こんなどうでもよい素材でもポップな壁紙にできる。簡単にイラストが増産できるのだが、くれぐれも自分が著作権を持っている写真で試して頂きたい。

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