Uniqloのキャンペーンを見て、日本にデモがない訳を考える

Uniqloが面白いデニムのキャンペーンを始めた。なぜ、Uniqloが日本では通用してもアメリカで苦戦するのかがよくわかる。

Uniqloだけをみつめていてもよくわからないので、Appleがなぜもてはやされるのかを見てみよう。Appleはもともと巨人IBMに対抗するというイメージで成功した。コンピュータは専門的な知識が必要だと考えられていた当時、Appleのパソコンはグラフィカルインターフェイスを持っていて「誰でも簡単に」使うことができたのだ。これが巨人や権威をうちたおすというイメージに転換され、クリエイティブな人たちに受け入れられた。彼らの目標はパソコンで作品を作ることであって、コンピュータを操作することではなかった。

つまり、価値観を通じて企業と消費者が結びついていて、製品はその間を結びつける媒体になっている。価値観で結びつくためには、当然ながら消費者の中に価値観がなければならない。価値観は「生き方」である。こういうアプローチをライフスタイフ型という。

同じことはDIESELにも言える。DIESELの現在のキャンペーンは「壁を壊す」というものだが、当然ながらトランプ大統領のメッセージの否定になっている。つまり、消費者の中に価値観があり、商品を買うことでその価値観を発露しているということになる。政治は当然ライフスタイルの一部なので、アパレルメーカーが政治的メッセージを発するのは当たり前のことだ。

ここでUniqloのキャンペーンを見てみよう。Uniqloのキャンーペーンは、デニムの聖地であるロスアンジェルスで様々な形のデニムを研究するというものだ。やっていることはデニムの3D加工である。つまり、デニムは工業生産品として扱われており、その加工を「効率的に行う」ことで、できるだけ安価に人気のデニムが生産できることになっている。これは極めて工業生産品的な扱いかたである。それを象徴するのが「イノベーション」で、イノベーションそのものがかっこいいということになっている。

こうしたやり方は「みんなと同じものを」「より安く」手に入れたい日本人には受けるやり方なのかもしれない。しかし疑問もある。3D加工は何のライフスタイルの反映なのだろうか。

3D加工というのはもともとアメリカ人のお金持ちが「履き古したようなジーンズ」をできるだけ早く手に入れたいという欲求から生まれた。その祖型はビンテージのジーンズだと考えられる。ジーンズはもともとワークウェアなので、これ見よがしではないが高級感は出したいというような気持ちの発露なのだろう。例えていえば、ステーキではなくおにぎりを食べたいが、やはり近所の惣菜屋の弁当は嫌なので梅干しを南高梅にして、その伝統やうんちくを語るというような感じなのではないだろうか。

ところが、Uniqloはロスアンジェルスで3D加工のものを安く作れるという方向に舵を切ってしまう。確かにいろんなジーンズがあるけれど「どれがUniqloのオススメですか」ということはよくわからない。「いろいろ作ったからあとは自己責任で選んでよ」ということになっている。なぜそうなるかというと、日本人には作り手にも受け手にもライフスタイルがないからである。

まずUniqloにはデザイナーは存在しない。そもそも個人の価値観で消費者を引っ張るという考え方がないからだ。デザイナー集団は外注になっていて「部材」の一つとして扱われている。かといって、消費者にどんなデザインが欲しいのかを聞いても「よくわからない」というような答えしかも取ってこない。それは、消費者も「今流行っているものを手っ取り早く教えて欲しい」とは思っても、個人の価値観が存在しないからではないだろうか。多分、日本人にライフスタイルを聞くと「より安く」「より楽に」ということになるはずだ。

「人は見た目が100%」というドラマを見ているのだが、テーマは「男性や世間に受け入れられるためにファッションを選ぶ」というものになっている。つまり日本人にとっては「人は他人からどう思われいるかが100%」なのだ。

これは日本人にとっては極めて自然なことだ。日本人は政治的な意見を持つことを自分に禁止しているのだが、これは政治的意見に限らないということがわかる。つまり、日本人は自分自身がより好ましいライフスタイルを持つことを禁止していて、他人にもそれを強制するのだということが言える。日本人がライフスタイルを維持するのは他人の目を気にしているからなので、そこに協定が加わると「楽な方に」と流れてしまう。これを理解すると、次のような問題にも応用できるだろう。

  • なぜ、日本ではデモが起きないのか。
  • なぜ、野党がだらしなくなり、選挙がないと、自民党の中で失言が増えるのか。

また、改革は自己目的化するのだから、政治改革にはめざすものがなくなり、政治改革や民主化の推進が自己目的化した挙句、何も達成できないということになる。これはUniqloのキャンペーンでデニムのイノベーションが自己目的化しているのと同じことなのである。

メールの盗聴システムを騒いでいる人たちに言いたいこと

アメリカが日本にメールの盗聴システムを提供したというのが話題になっているようだ。朝日新聞にも記事が出ている。

が、なぜ騒ぎになっているのかよくわからない。なぜならばメールは盗聴されるものだからである。だからメールは「誰かに盗み見られてもよい」ように書かなければならない。

これはメールの根本的な仕組みによる。例えば、あなたが共産党より左側にいる組織のメンバーで、自宅のパソコンから組織にメールを送るケースを考えてみよう。あなたのパソコンはプロバイダー経由でメールを発出するわけだが、それが直接極左組織に届くことはない。どうがんばってもどこかのサーバーを経由する。つまり経由地のサーバーが暗号化を施していなければ、途中経路のメールは盗み見られてしまう可能性があるのである。だから極左組織のメンバーであるあなたはメールを使ってはいけない。

これを防ぐための仕組みは提供されている。例えばG-mail(フリーメールだから安全じゃないと思っている人もいるだろうが、かなり安全なシステムだ)はメールの暗号化に対応しているそうだ。メールそのものが暗号化されれば、途中で盗み見られても中身がわからない。

だが、たまたま見かけた2016年の記事によると、暗号化に対応しているプロバイダーはほとんどないそうだ。また、暗号化は途中経路の暗号化のようで、メールそのものは暗号化されていないようだ。こうした暗号化されていないものを「平文」という。平文のメールは途中で開けられたらそこで中身が見られてしまう。かといってメールそのものを暗号化してしまうと、到達しなかったり、到達しても相手が読めなかったりということがある。いずれにせよ、暗号化の動きが広がっているのは、CNETによると政府がメールを盗み見ようとするためだという。

スノーデンの文書について本当に知りたいのは、こうした通信がSSL対応した通信網(SSLにもいろいろなバージョンがある)にどれくらい有効かということなのだが、かなり前の資料になるはずなので、現在の仕組みにどれくらい対応しているかはわからない。というわけで資料としてはあまり意味をなさないのではないかと思う。

クレジットカードの文章も当然盗み見られるのだから番号は知られていると考えたほうがよい。Amazonで買い物してもフルのクレジットカード番号を記載しているものはないはずである。いずれにせよ、明細をチェックして怪しい動きがないかはチェックしておいたほうがいいし、余計なカードは作らないほうがよいだろう。

だが、こうしたシステムがテロの防止にどれくらい影響力があるかはよくわからないところである。例えば国家転覆を狙うテロ組織は当然中国共産党から支援を受けているだろうが、中国といえばサイバー攻撃が盛んな国だ。彼らは当然暗号化された連絡手段を持っているだろう。一方、一般庶民のメールは盗み見放題ということになる。

ということで冗談で「〜さんをやっちまおうぜ」というようなメールを送るのはやめた方が良い。共謀罪が成立すればそれを受け取っただけで罪に問われる可能性が出てくるからだ。

なお、メールを使うよりは、SNSのメッセージアプリを使った方が安全性は高くなる。いろいろなサーバーをホップすることはないからだ。しかし、例えばLINEは捜査機関に情報を開示しており(開示した件数も公表している)絶対に公的機関にバレないということはない。リンク先は、令状に基づくものがほとんどだったと書いてある。つまり「令状に基づかない」ものがあるのだ。

多分、メールを盗み見るというのは、違法ないしは違憲なのだと思うが、戦争はいたしませんという憲法を持っていてもこの体たらくなのだから、憲法で信書の機密性が守られているなどと信じるのはあまり得策ではないのではないだろう。現在の法体系では少なくとも政府がメールを盗み見るなどということは表沙汰にはできないだろうが、既成事実を作って法律さえ変えてしまえばそれも可能になる。共謀罪の成立過程を見ていると、政府はもはや一般人も網にかけるつもりでいるらしく、それを隠そうともしないので、いわゆる「監視社会」が実現する日は遠くないのかもしれない。

IT系の営業がダークサイドに堕ちる時

日本のIT産業は「IT土方」と呼ばれる身分制なので、顧客と会社の接点である営業が、自分は顧客側の人間だと錯誤してしまうことがある。特に都心にかっこいいオフィスを構える広告代理店が相手だとそういう気分に陥るようである。

「がっつりプログラミング系」の会社だと、仕様書がきちんとあり、機能を定義したりして歯止めがきいたりするのかもしれないが、デザインという厄介な要素が加わるとわけのわからないことが起こることがある。これに広告代理店が加わるとさらにわからなくなる。

第一の要因は、デザインには必ずしも正解がないにもかかわらず、クライアントによってはいろいろと口をはさみたがるという点にある。

オーストラリア、カナダ、スウェーデンのデザイナーと仕事をしたことがあるが、彼らはデザインにメソッドがあり、最終的には「クリエイティブブリーフ」と呼ばれるサマリーを出して顧客に確認をする。海外では割と当たり前の手法なのだと思うし、日本人は白人系の外人の話はありがたがって聞いてくれるのでこの手法は日本でも成立する。しかし、日本人のデザイナーだとだめだ。日本人が唯一話を聞いてもらえるのは外人と英語で話をしている時である。ということで意味もないのに日本人しかいないミーティングに見た目の良い外人(つまり太っていない人)を連れ出したりするのも割と有効である。アジア系でも英語で話をしている人(つまりニューヨークに留学経験のあるタイ人とか)だと話を聞いてくれるが、下手な日本語を話す台湾人とかだと逆にナメられる。

だが、広告代理店はそもそもブリーフが成立しない。オブジェクティブがないからだ。日本人がオブジェクティブと呼んでいるのはクライアントに夢を見せるための曼荼羅のようなパワーポイントだが、のちにビジネス界でも「ポンチ絵」という名前がついていることを知った。これはマンガの昔風の表現だ。

彼らは必ずも数字によって成果物を判断しない。どれくらい商品の売り上げアップに貢献したということはあまり重要視されず、流行しているものを「あのライバル社がやっているあれ、うちでもできないかなあ」くらいのことになりがちだ。数字は成果を確認し反省点を洗い出すところに意味があると思うのだが、日本人は数字が出るとそれがコミットした最終ラインということになり責任問題に発展する。

この辺りから、正解がないのに理想があるということになるので修正に歯止めが効かなくなってしまう。理想はあるのだがそれがわからないという人が多く、会議体で決めたりすると誰も正解がわからないのに「なんか違う」ということになりがちである。

これだけでもややこしいのだが、さらに「広告黎明期から仕事してます」みたいなおじさんが入るとわけがわからなくなる。大抵アートディレクターなどと呼ばれている、海外からのかっこいい成果物に参ってしまって見よう見まねで覚えたような「職人」タイプだ。一度、神宮前の古いアパートを改装したコンクリート打ちっ放しのオフィスで(そういうところで働くのがかっこいいとされているらしい)「グリッドデザインの基礎」みたいなことをこんこんと説教され「いやウェブって幅が変わるから」と心の中でつぶやきつつ、表面上は目を輝かせながら「へえーすごいっすねえ」と言い続けたことがあった。レスポンシブデザインなどが出る前の話だ。

ITデザイン系の営業が難しいのは、こうした文化の間にある「バイリンガル状態」にある人が「自分がどっちにいるのか」わからなくなってしまうという点だろう。「ドキュメントドリブン」の世界と「センスドリブン」の世界の間でダークサイドに墜ちてしまうのだ。

広告代理店のオフィスに出入りしているうちに、MBAマーケティングなんかを読むようになり、いっぱしのマーケティング用語(なぜか全部カタカナ)を使うようになったら「ダークサイド」に堕ちてしまった証拠だ。本来ならデザイナーなりプログラマーのエージェントとして働かなければならないのだが、要件は聞いてこないで、代理店の会議で聞きかじったマーケティング用語でわけのわからないことを言い始める。が、こういう人は根が真面目なので、まだチームをぐちゃぐちゃにすることはない。「お付き合い」していればやがてプロジェクトはなんとなく終了して嵐は収まる。

厄介なのは「ITに憧れて入ってきた」というようなタイプだ。広告代理店には締め切りまで一生懸命何回でも修正して「頑張った感」を出すという奇習があるのだが、アートディレクターさんが乗り込んできて「メールで修正のやり取りをするのは面倒だ」と言い始めたことがある。その時にはプログラマーやデザイナーを犠牲にするわけにはいかないので(パソコンの前で色が変えられるということは絶対に教えてはいけない)キラキラ系の営業を人身御供に出した。会議室に缶詰になり、時々差し入れなどを渡してやり「広告って大変な仕事なんだねえ」などと感心してみせる。たいてい忙しくなってくると、なんだかわからない一体感みたいなものが醸成されて、幸せな気分になるようである。徹夜などすると何か脳内麻薬が分泌されるのだろう。

重要なのは、こうした「作品」は誰にも正解がわからず、そのまま消えていってしまうということだ。効果測定していないから当然なのだが、効果測定してしまうと価格なりの成果が出せていないということがバレてしまう。だからそれができないのだ。「管理料」という消費税みたいな費目もよくないと思う。お金をとった以上働かなければならないし、働いたら一生懸命感を出さなければならないので、最終的には過労労働につながるのかもしれない。とはいえ、営業は伝書鳩のようなもので技術にもデザインにも興味がないので、何もできない。となると、曼荼羅の精緻化が一大プロジェクトに発展したり、会議が演説になったりするわけだ。

つい最近、広告代理店で新入社員が過労死したという事件があった。まあ、ああいう働き方してたら過労死する人も出てくるだろうなあなどと思うのだが、そもそも「正解」が何なのか追求してこなかったドメスティックの代理店がいきなり海外系のエージェンシーと競合しようとするとそういう悲惨なことが起きてしまうのではないかと思う。

逆にいうと、それなりの広告測定をしているエージェンシーが出てきているということなのではないかと思うのだが、現在の状況はよくわからない。

日本人は空気を読むのが別に得意じゃない

海外で生活しているだろうと思われる人がTwitterで「日本流の空気を読むという文化が苦手」とつぶやいていた。これを読んでみて「別に日本人は空気を読むのが得意じゃないと思うけどなあ」と考えた。以下整理して行きたい。

まずこの人は「空気を読むのが苦手な人はどうしても言葉で説明しようとするが、言葉で説明するとそれは日本的ではないと言われてしまう」と言っている。つまり、他の人たちは「言葉なしで空気を読み合うのが得意なのだろう」と類推していることになる。

直感的に「それは他の人たちが自分の言いたいことを言葉で説明できないのに察してくれ」って言っているだけなんじゃないかと思った。だがそれは「無理ゲー」というものである。多くの場合、日本人は言葉を使って自分の気持ちや立場を表明するのが苦手だ。普段なら「なぜ言葉を使って説明するのが苦手なのか」ということを考察するわけだが、今日はちょっと違う方向に考えが向いた。

実は日本人(と括られている人たち)は自分たちのことを知ってはいるが、言葉にするのを避けているのではないのかと思ったのだ。言語による説得が行われるのは

  1. 「新しいことがあって、失敗する可能性もあるけど、達成度が高いよ」というような場面か
  2. 「みんなはこういうやり方になれているようだけど、僕は違ったやり方がしたいんだ」というような説明

の時だ。

これを一言でまとめると「新しいことへの挑戦」であり、その結果得られるのが「成長」だ。多分「言葉に出して説明したくない人たち」はそれが「失敗に終わる可能性」を恐れているのではないかと思う。失敗すると「なんか惨めな気持ちになるじゃん」と考えた経験がある人は多いのではないか。

こういう気持ちに最初に出会ったのはいつだろうかと考えたのだが、多分高校受験の頃ではないかと思った。高校は失敗できないので(浪人というのがほぼありえないから)公立校の場合「自分が絶対に受かる」ところを選びがちだ。するとそこに集まるのは「頑張ればもうちょっと上に行けたかもしれないけど、頑張らなかった」人たちである。彼らは「さらに高みを目指して大学受験しよう」などとは思わず「そこそこの地方の公立校にいければいいや」と考えてしまいがちだ。だから「いや頑張って違った体験してみようよ」などという人がいるとなんだか疎ましく、惨めな気持ちになってしまうのだろう。日本の学校教育はいわば「失敗できない学歴によるランク付け」なので、そういう人ばかりが製造されてしまうのである。

ここで「もうちょっと頑張ってみようよ」という人たちに言葉で説得されると「でも自分たちはどうせそんなに能力ないし」と言わなければならない。それはちょっと惨めなことだから言わないし言えないのではないだろうか。

大人になってくると様相が少し違ってくる。新人が「効率が悪いからやり方を変えてみましょうよ」などと提案する。しかし事情を知っている人たちは「いや、やり方を変えるとついてこれなくなる人が出てくるし」と考える。過去に何回か調整した末に混乱した苦い経験などを思い出すかもしれない、やり方を変えられない特定の個人を思い出すかもしれない。結局効率化を求めても面倒が増えるだけということになる。だが、それを言葉に出すと誰かの悪口になってしまうので言わない。そこで「察しろよ」などと思ってしまうわけである。

日本人が他人の気持ちを推察するのは得意じゃないというのは確実に言える。具体例を挙げろと言われたらTwitterからいくらでも実例が引いてこれる。たいていは相手の話を聞いていないし、聞いていても誤解している。賛同しているつもりでも実は自分のことを言っているだけという人も多い。総じてものすごく思い込みが強いし、自分たちが思い込みをしているということにすら気がついていない。もし日本人が空気を読む達人だったら、Twitterは今よりも居心地がいい場所になっているだろう。

もしTwitterが特殊な人たちの集まりだと思うなら、誰かの話を黙って15分くらい聞いていればいいと思う。「よくこれだけめちゃくちゃなことが言えるなあ」と感心することがよくある。ある分野については正確な知識を持っていても、その他はめちゃくちゃということがよくある。誘導すると怒られるので黙って話を聞くか「おうむ返し」を挟むのがコツかもしれない。

つまり「失敗するのが嫌だから今のままでいいじゃん」とか「あのうるさい人にあわせておけば丸く収まるんだからそれでいいじゃん」というのが空気の正体であって、別に相手の気持ちが読めているわけではないと思う。

しかしそんなことでは成長がないではないじゃないかと考える人も出てくると思うのだが、多分変化に伴うリスクを恐れているから日本は成長しなくなってしまったのだと思う。

ユナイテッドエアラインズの炎上

ユナイテッドエアラインズが炎上している。乗務員を乗せるために席が足りなくなり4名を抽選で選んだのだが1名が拒否した。そこで警察を呼んで引きずりおろしたのだが、その時に怪我をさせたらしい。怪我をした痛々しい乗客の顔がYouTubeなどで拡散して大騒ぎになった。アメリカでは「人道的でない」という批判が多かったようだ。

だが、この問題が日本ではちょっと違う捉えられ方をした。たまたま乗客がアジア系だったのだ。そこで、この人がアジア系だったから我慢させられたのだとか、選ばれたのはすべてアジア系だった(そんな報道はないのだが)というような話が拡散した。

これがSNSによって拡散したというのは間違いがないが拡散速度は一様ではない。ビデオには翻訳はいらないので瞬く間に全世界に拡散する。ところがそのビデオについて日本語で何が話されているかということは英語話者には伝わらないし、英語話者がビデオを人権問題として批判しているということも日本人には伝わらない。

こうしたことが起こるので、ユナイテッドエアラインズはローカル言語を話すことができるスタッフを常駐させて、ユナイテッドエアラインズの立場を説明させるだけでなく、つねにどういうリアクションが起きているかをモニターさせるべきなのではないかと考えた。

実際にそういう文章を書いたのだが「はて」と思った。日本人がボイコットしても会社は別に痛くもかゆくもないのだ。いつ炎上が起こるかなど誰にもわからないのだから、そのためにスタッフを常駐させるのはムダということになる。実際に株価は少し下がったものの、その後持ち直した。最近、経営効率が上がっていて、ユナイテッド航空の株は「買い」というレーティングが付いているのだ。

ニュースでは「ユナイテッド航空」と伝えられたが、この路線は実はユナイテッドエアラインズではない。実はユナイテッドエクスプレスというローカル路線(実際にはいくつかの航空会社の連合体)なのだ。多分、ローカル路線は最低限の機体と乗務員で回しているのではないかと思う。ギリギリの機体数で運行するからオーバーブッキングも増えるし、乗務員のやりくりもうまくいかないのではないだろうか。だから、オーバーブッキングした客を下すことができないと、収益が下がってしまうことになる。CEOは従業員向けのメッセージで「乗務員はよくやった」と言っている。つまり、そもそも乗客が支払っている料金では満足なサービスは維持できないし、そのつもりもないのである。

アメリカの航空産業はLCCが台頭して大手航空会社を軒並み破綻させた歴史がある。紙ナプキンに絵を描いて経営合理化を成功させたという逸話が残るサウスウエスト航空などが有名だ。しかし、結果として過当競争が怒りオペレーションに無理が出ているのだろう。一方で、お客さんの方も「1日休んで次の日に搭乗する」ということができないほど忙しくなっていることがわかる。つまり地方が疲弊しているのである。

しかし、問題は効率化だけではない。最初から席が足りないことがわかっていれば、搭乗させる前に「席が用意できなくなりました」と言っていたはずだ。つまり、いったん客を乗せた後で「乗務員がやりくりできない」ということがわかり、慌てて乗客を引きずりおろしたことになる。やっていることがめちゃくちゃなのだが、社員の士気も落ちているのではないだろうか。

警察当局(武装した保安担当者という報道とシカゴ市警察という報道がある)の対応も問題だ。こちらについては「問題を起こした人を調べが済むまで休職にした」という情報がある。今の所、なぜそんなことが起きたのかという後追い報道はない。日本人は普段から黒人が警察からボコボコにされる映像を繰り返し見せられているので「黄色人種でも同じ扱いを受けるんだな」と思ってしまうだろう。職員は「自分が怪我をさせられるかもしれないから」という理由で過剰防衛した可能性もある。テロの危険性が増しているので緊張を強いられる現場だったのではないだろうか。

たまたま一つの航空会社が起こした不祥事は「アメリカという国そのものの不信感」につながる。だが、これを経済的に是正することはできない。乗客は安い航空会社を求めており、投資家は効率的な運用を求める。かといってアメリカ当局が「アメリカは人種差別のない安全な国です」というキャンペーンを張るわけにはいかない。問題を起こしたのは民間の航空会社であり、政府が謝罪するような問題でもない。つまり、経済が疲弊すると国の持っている信頼が崩れていってしまうのである。

しかし、航空会社はそもそも問題を発見できないし、発見できたとしても経済的に「謝るのが得か損か」という判断になる。ここで判断を誤ってしまうと、裁判を起こされて過剰な制裁金を取られる危険性があるし、オーバーブッキングした客に粘られたら収益率が下がるということになりかねない。

アメリカにとって「ソフトパワーが大切だ」と聞いたはつい最近の事だと思うのだが、それも過去の話になりつつあるらしい。いう言葉を聞いたのはほんの数年前のことだと思うのだが、トランプがもたらした「アメリカの分断」を見せつけられ、黄色人種が安全に旅行できないかもしれないアメリカという図式まで見せられた後になってみると「アメリカって没落しつつあるんだなあ」という印象しか残らない。国のイメージというのは意外と簡単なことで崩壊するのだろうなあと思う。

United Airlines needs local SNS managers…

Many Japanese are upset to United Airlines because of one video footage which is spread over Twitter. Overbooking was tweeted more than 47000 times. I got impression that multi-national companies need local SNS managers not only to represent in the local languages but to monitor what is happening all over the world. Sometimes reactions over SNS are unexpected.

I see people are upset because it is violation of human rights in general but it gives some “different” reaction to Japanese people. Some took it is racial discrimination and attached because a face of beaten passenger is very familiar while not to know American is also upset.

This is misunderstanding because the Airline choose them randomly and there is no information about skin color. This case is completely different from the case of Michael Brown but it is just a minor detail” for some people. The only truth for them is that “An Asian’s beaten by police officers” like African Americans. So they expect Japanese would be treated in same manner. It can be quite harmful for US-Japan relation when Japanese have lost trust to the US because of recent Trumpism.

Unfortunately, a lack of information is filled with imagination. Some believes “All four were Asians”. I found a tweet explains it “rationally”.

  1. White people are excluded from the beginning.
  2. If the airline choose Black people, the company would be claimed.
  3. Yellow people is obedient and therefore they are chosen.

As you may notice, it is quite generalized. The US removes an ASIAN from the air plain and it would happen to us too.

However, this type of misunderstandings is invisible from English speakers simply because they can’t read Japanese. Also, Japanese can’t find out many Americans upset the case because it is wrongdoing.

This person, who has 86000 followers says he experienced overbooking because Japanese can’t complain in English.

This person who has over 60000 followers says the guy was an east asian.

I don’t think the video gives serious and immediate financial impact to the firm because Japanese are not their targeted customers. So they can let it goes till Japanese Twitter people find another topic to upset about. However the video may leave a vague impression that the US is divided and Asian is not welcomed.

I believe United Airlines needs to have local communicators to monitor local languages to avoid potential conflict which is caused by United Airlines.

I was quite impressed when I heard about the concept of “Soft Power” but it seems that it became a history only in few years.

つながりたい人々と都市の孤独

先日来、日本人が持っている規範意識について考えている。個人の中に内在する規範意識を持たずに、村落的な監視によって抑えられているというものである。現在の政治状況は村落的な監視が利かなくなった結果、個人の感情や思考が暴走したものであると考えている。これをいろいろと飴玉のように転がしていて、読んでいる人たちがどう思っているかということが気になった。とはいえレスポンスはないはず(その理由は後々考えるが)なので、今回も自分で考えることにする。

わずかな手がかりとして、メンションなしのリツイートというものがあるのだが、どうも反応をとして多いのは「個人の意見が尊重されない」という不満のようだ。集団思考で空気を読むのが日本人だと定義してしまうと「私の意見は取り上げられないのに周りに合わせることばかり強要される」と不満を持つ人が増えてくるのだろう。

しかしながら「空気」はそこにいるすべての人たちが作り出すものであり、神様や権威が押し付けたものではない。つまり「私の意見が取り入れられない」と言っている人も空気作りに参加していることになる。つまり、あなたの意見は取り入れられているのになぜ不満を持つのですかという疑問が生まれる。

例えば、権威とされている人たちも実は日本人としてのメンタリティを持ち続ける限りにおいて空気には逆らえない。安倍首相がおざなりながらも福島に出かけて興味がないにもかかわらず「福島の桜はきれいだなあ」などという下手なパフォーマンスをして、気にかけてもいない被災者の心情を傷つけたから復興大臣に代わってお詫びをするなどというのは、実は権力者もまたそれなりに空気を気にしているからなのだ。

もし自分の意見が取り入れられないのだとするなら、意見表明してみればいい。誰にも聞いてもらえないだろうが、それも「誰の意見も聞いてこなかった」ということの裏返しにすぎない。そもそも、自分の意見を構築できる人が少ないようだ。アメリカや西ヨーロッパではありえないのだが、それでも大人としてやって行けるのが日本なのだ。意見がないのだから表明もできない。

そう考えてみると、実は(西洋的な教育を受けた人は全く別だと思うが)個人として尊重されたいわけではないということがわかってくる。日本人は村落的なつながりに憧れている。それは自分の心情や考えと、集団の心情や考えが全く合致しているという状態である。自分の考えていることは周りも考えていることなのだから、個人が言葉を選んで意見表明してもらわなくてもいいという関係だ。つまり個人が意見を持たなくてもやって行けるのが理想なのだろう。

古くからこのようなニーズはあった。例えば、戦後それを実現したのが創価学会だ。もともと農村から都市に流入してきた人たちの集まりだったという説が濃厚だそうだが、村落にあったコミュニティをそのまま都市に持ち込んだということになっている。しかし、実際にはその教えは急進的すぎて、もともとの寺からは排除されてしまう。個人の価値が接続の源泉にならないのだから、当然どこかから価値を持ってこなければならない。自然村落は地域的なつながりによって閉鎖された空間なのだから、こうした人工集落は解放されているのだろうということが予想される。つまり、日本人は解放された空間が苦手で、つまり個人が意見を持たないためにはかなり大きくて超自然的な権威を置かないと不安を感じてしまうのではないだろうかという仮説が生まれる。

いったん権威に帰依してしまえば、個人の意見表明は必要なくなる。あとは権威をコピペしてくるだけでよい。実際に新興宗教系の人と話をしてみると良いと思うのだが、驚くほど自分たちの教義を理解していない。にもかかわらず熱心にコピペするので語彙だけは豊富になる。うまくいっている新興宗教は「魂のポイント制」を採用しているので、核心が見えないことは気にならないようだ。つまり修行が足りないからもっと教祖様の話を聞かなければならないなどというのである。こうした新興宗教的なコピペ精神は「ネトウヨ」と「パヨク」に共通する。

日本人が理想とするのは、周囲の人たちと何の違和感もなく調和し、何も言わなくても自分の思い通りに物事が進み、何か大きな権威によって自分の意義が肯定されているという状況なのかもしれない。

だが人工集落は必ず敵を作り出してしまう。どんな権威もすべての人の欲求を完全に満足させることなどできないからである。人工的な囲いを作るとかならずそこから排除される人たちが出てきてしまう。安倍政治に不満を持つ人が多いのは、彼らにとって居心地のよい村落作りががお友達の優遇にしかならないからだろう。排除された人たちが見えなければよいのだろうが、SNSが発達するとそういうわけにもいかない。

だが、いろいろ観察すると敵の存在は社会集団が崩壊する原因にはならないようだ。崩壊は内部から進行する。人工的に作り出した物語には必ず綻びがある。それは、外からくる権威を継接ぎにしているに過ぎないからである。日本人が膠着語を話すように、経緯をにかわでくっつけたようなものになりがちだ。そこには主語はなく、従って全体としては意味をなさないのである。

例えば教育勅語は、日本伝来の精神ということになっている。だがそれは西洋的な一神教をもともと多神教的だった天皇の権威を接ぎ木したものではないだろうか。多分キリスト教を参考にして、教義を作り、道徳を作ろうとしたのだろう。しかし、道徳というものをあまり真剣に考えてこなかったために「みんな仲良く」という当たり前のことしかかけず、最後は「何かあったら天皇のために命を投げ出すんだぞ」とおざなりに終わっている。

教育勅語が見捨てられたのは「みんな仲良く一致団結して」という精神を、押し付けた人たちが理解していなかったからである。つまり教育勅語もコピペなのだ。結局、軍部の作戦の失敗を国民に押し付けて破綻した。「みんな仲良く」の中に餓死した陸軍兵士も見捨てられた沖縄も入っていなかったわけである。国民は「守ってくれない権威よりも、美味しいものを食べさせてくれる敵のほうがいいじゃん」と考えたから教育勅語は捨てられてしまったのだ。にもかかわらずその経緯を全く反省していないというのが日本人の道徳心のなさを露呈する結果になっているように思える。

こうして、新しい権威ができては消えというサイクルを繰り返すことになる。で、あれば「個人が意見を精錬してお互いに聴きあうことにしたらいいんじゃないか」などと思うのだが、それだけはどうしても嫌だという人が多いようだ。まあ、人生は魂の修行なのだと考えれば、それもアリなのかもしれないと思ったりもする。

政治がもたらす閉塞感を打開するためにはどうしたらいいか

先日、茂木健一郎が「日本の笑いは低俗でつまらない」と発言したことについて取り上げた。茂木健一郎がつまらないのは、西洋的な価値観をよしとしていて、日本文化の中にある良さを全く見出そうとしない点や、低俗さと高級さという価値体系の奴隷になっている点だ。つまり、戦前回帰をよしとするネトウヨの人たちとたいして違いがないのである。

いずれにせよ、この記事は、政治課題(もしくは政治課題に擬態した他人の悪口)と違いあまり関心を集めなかったようだ。とはいえ「笑いとは何か」ということを当てずっぽうで書いたので、本でも読んでみようかと思った。図書館で蔵書を検索したところ、ベルクソンの「笑い」という小編が見つかった。哲学書を読むのは気が重いなあと思ったのだが、気が変わらないうちに読んでみることにした。

読んでみて思ったのだが、現代社会に閉塞感を感じている人はぜひ一度この本をパラパラとめくってみるべきではないかと思った。精読するとたぶんかなり時間がかかるので「ざっと読み」がおすすめだ。

現在の閉塞感は、多くの人が安倍政治にうんざりしているにもかかわらず解決策が見つからないということに起因している。人口が減少し、経済が崩壊してゆくのにその解決策が何十年も見つけられないという「沈みゆく予感」が背景にあるのではないかと考えられる。つまり、解決策が見つからないということが問題になっている。そこで「なんとかしろ」と怒っているのだ。しかし怒りの感情は他人を遠ざける。危険信号を発出しているからだろう。反核とか平和運動といった誰でも賛成しそうな運動に支持が集まらないのは、それが楽しそうに見えないからである。

安倍政権は、権威が問題を隠蔽し、情報を隠し、法体系をゆがめているという点に問題があるのだが、誰もそれをやめさせようとはしない。閉塞感を感じる人は政権が持っているデタラメさを否定したいが世論調査をみると「自分だけが安倍を嫌っていて、みんなは依然安倍政権を支持しているように」見えるので苦しむのだろう。

こうした状況を変えるために笑いは役に立つ。笑いは「誰にでもわかり、愉快だから」である。つまり、怒りによる打倒よりも笑いによる批判の方が広がりを持つ可能性が高い。しかし、それは多くの人が思っているような「直接的な政権への批判」ではないのではないかと思う。

ベルクソンは笑いが成立するためには3つの要素が必要だとしている。詳しい定義は原典を読んでみていただきたいのだが、自分なりに解釈すると1) 人間的な感情に基づいており、2) 対象から心理的に分離しており、3) その感覚が集団に共有されていることが重要だということのようだ。これについて詳細な分析がなされるのだが、政治的な重苦しさというものにのみ焦点を当てると「対象に近すぎる」と笑いが起こらなくなるということが言える。ベルクソンは「共感があると笑えない」と言っているのだが、共感だけではなく反発もある種の愛着である。アタッチメントという言葉を想起したが日本語の適当な訳を思いつかなかった。

つまり、今安倍政治に反対している人たちは「安倍政治にアタッチしすぎているからそれが深刻に思える」ということになる。同時にそこから離れて新しい選択肢を探すことにも恐れを感じているということが言える。逆に代替策を探さなくても権威そのものが無効化されてしまえば、目的は半分くらいは達成できるし、興味がない人にも広がる。笑いはデタッチメントすることによって対象物を無効化できるのである。

そのためには安倍政治を客観視してみる必要があるということがわかる。少し離れたところからみると、安倍政権の口裏合わせは喜劇でしかない。しかし、これを個人が感じているだけでは笑いは発生しない。これは「裸の王様」の例を思い出すと理解しやすいだろう。王様が服を着ていないのは自明だが「みんながそれを認知している」という理解が共有されない限り、それは笑いにならないのだ。ベルクソンの定義を離れると、笑いはみんなが漠然と持っている感情に言葉を与えることで共有を促すための高度な技術なのである。結果的に緊張が緩和されることになる。

博多大吉が伏し目がちに「政治的な笑いには需要がない」と告白している。これはお笑いを生業にする人たちにとっては危険な態度だ。状況が閉塞するほどに、発言できる範囲は狭まり、最終的には弱いものを叩いて笑いを取るか、自分を貶めて笑わせるしかなくなってしまうだろう。日本は戦時中に「決戦非常措置要綱」を作ってエンターティンメントを禁止した時代がある。古川緑波などのお笑いタレントは大変苦労したのだが、こうした苦労は戦後には引き継がれなかったようだ。しかし、それは彼らの職場の問題であって、特に我々が考えるべき問題ではないかもしれない。

日本の笑いは実践が主で、理論的な教育がほとんど存在しないか、存在したとしても西洋喜劇の流れを組んだ古典的なものだからではないかと考えられる。このため体系的に自分たちの笑いを客観視する機会恵まれないのであろう。

戦争が起きると「笑っている場合ではない」ということになり、他人を強制的に戦争へと駆り立てる動きが出る。そこでどのように立ち振る舞うかが生き死にに直結するので、境遇を客観視するような余裕はなくなり、世の中から笑いが消える。現在も「政治を笑のめしてはいけない」という空気が広がっている。敵の存在こそ明確ではないが、社会が闘争状態に近づきつつあるのかもしれない。

 

筒井康隆と規範の相対化

筒井康隆という名前をTwitterで見かけた。慰安婦像に猥褻なことをしにゆこうかと言って問題になったらしい。どの立場の人が怒っているのかよくわからなかった。ハフィントンポストによると「既存の規範に対抗する人として理想化しすぎてきたのではないか」という声もあるのだという。だからいわゆるリベラルという人が反発しているのかもしれない。リベラルは表現の自由と韓国(を含めたアジアの隣人)を愛しているはずなので、これが屈辱されるのは許せなかったのだろう。つまり、韓国を嘲笑している=政権擁護という自動化が起こっているのだ。

保守も劣化しているが、リベラルも劣化してるんだろうなあと思う。

まあ、筒井康隆が「時をかける少女」の作家だと思っている人もいるだろうから、投稿が下品だと非難する人がいる気持ちはわかる。が、ちょっと驚いたのは筒井康隆を偶像化する人が案外多かったのだということだった。筒井康隆を読んで心理的にアタッチしてしまうというのを非難するつもりはないけれど、かといってそれが永続するというのは感覚的によくわからないし、筒井を読んでいるはずの人が自分の中にある自動化された思考を疑わないというのもよくわからない。

「偽文士日碌」を何ページか読んでみたのだがそれほど面白いとも思えなかった。そもそも、とりとめもない文章が並べられており、その間に「ドキッとする」発想があるというのが、文章の目的のように思えた。これ、文章にしているから「ドキッとする」が、誰でもこれくらいのことは考えているはずだ。しかし、一部の人を除いて、思ったことを口に出したりはしないし、抑圧してしまう(つまり忘れる)ので大した問題にはならない。これをわざと表出させるのが筒井の作風なのだと思う。これをメタフィクションなどと言ったりするのだが、これは1980年代には割と一般化していた概念だ。日本は自分の心情に絡め取られたような「私小説」の伝統があり、そこから反発する形で、現実からの分離を目指すメタフィクションが出てきたのではないかと考えられる。

メタフィクションの目的は書かれていることを主張することではなく、考えること自体の補足なので「伝えること」と「伝えないこと」の境目についてはよく考えてみた方が良いと思う。なのだが、これも普通の人たちの興味を惹くのかはよくわからない。

Twitterは普段発言力を持たない人たちが、世間の抑圧にしばられることなしに発言できるという点にベネフィットがある。これは日本の社会が「過度に空気を読み合う」社会だからであると考えることができる。つまり、日本人は普通の生活では伝えることができないが、言いたいことはたくさんあるので、半匿名の場所で言いたいことをいうということになっている。だから未だに「伝える」ことに意味がある。「伝えない」ことが問題になるのは、伝えることが一般化したあとである。その意味では日本人は「どう伝えるか」を練習した方がよく「伝えることにはそれほど意味がないのではないか」という点について考える必要はないのではないかと思うのだ。

筒井作品を読んでいる人の中にも、筒井康隆の発言には失望したと言っている人がいるようなのだが、その意味でこれが「発言だったのか」ということはよく考えた方がよい。すなわち、普段の言動も「権力と戦う意図があって一貫してなされていた」かどうかよくわからないわけで、従って「それを偶像化したり、嫌ったりすること」に意味があるかどうかもよくわからないということになる。全て演技かもしれないし、演技かどうかを本人が補足しているのかということもよくわからない。

この考えを発展させてゆくと、とんでもない発想自体が無効化されてしまうことがある。高校生のころに筒井康隆の全集を読んだのだが、その頃には筒井康隆が<闘っていた>規範はすでに相対化されてしまっており、闘争自体にはそれほど面白さを感じなかった。断筆宣言も当時はそれなりに刺激的だったが、今読んでも「犯人が誰かわかっているサスペンスを読む」くらいの感動にしかならない。だから、今「とんでもない」と思っている発言も、実は将来的には相対化されてしまうことが予想されるわけで、挑戦自体がそれほど面白いことに思えなくなってしまうのだ。

妄想と発言の境目が曖昧になったり、作者と読み手の間にインターラクションが起こるのを「作品として眺める」のが面白いといえば面白いのだろうけど、そもそもインターネットがそういうものであると言える。つまり、かつての非現実を生きているわけで、それが「なんかあんまり新鮮味がないなあ」という感覚の正体なのかもしれないのだが、それすら考えるのが面倒というか、どうでもよいように思える。

今回の件で一番気の毒だなと思ったのが「老害だ」という意見だった。妄想と現実の間にあるから面白みがあるわけで、単なる老人の妄想だと捉えられてしまうと単にゴミ箱行きということになる。みんないろいろなニュースに反応するのに忙しいので、石原慎太郎も筒井康隆も「老人の妄想」として一緒くたに捨てられてしまうのだ。

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。