ディビッド・ケイ氏はマッカーサーではない

国連の報告者であるディビッド・ケイ氏が日本のマスコミについて注文をつけた。この過程で日本の記者たちからなぜか匿名での情報を提供があったそうだ。つまり記者たちは常々報道のあり方に疑問を感じているようなのだが、それを自分たちでなんとかしようという気持ちはないようである。「誰かがなんとかしてくれないかなあ」と考えていることになる。

ディビッド・ケイ氏の注文は主に政府の規制や新しい法律に関するものだが、マスコミのインサイダーたちの中には記者クラブ制度に強い不満を持っている人もいるようだ。が、本当に記者クラブ制度は問題なのだろうか。

最近の政局はそもそも場外乱闘の形で起こることが多い。主な発信源はNHKや朝日新聞社へのリークや、週刊誌への情報提供である。記者クラブはその後追いとして、政府の言い分を取材する役にしか立っておらず、すべての報道が記者クラブによってコントロールされているとはとても言えない状態だ。

にもにもかかわらず記者クラブ「だけ」が存在感を持って見えるのはどうしてだろうか。これは記者クラブがなかったらどうなるかを想像してみればわかる。記者たちは特定の記者クラブで雑巾掛けの修行を始める。もともとは文学部とか法学部などのジャーナリズム専攻でない学部を出た人たちで、OJTで取材の仕方を学ぶわけである。この人たちがマスコミ内部で名前を売り、生き残った現場志向の強い人たちがフリーとなり、ジャーナリスを名乗るようになるという構造になっている。

つまり、記者クラブは学校の役割を果たしており、記者クラブをなくしてしまうと「どうやって官公庁の取材をしていいのか」がわからない人ばかりになってしまうということを意味する。日本にはジャーナリズムを教える学校がないので、記者クラブがなくなってしまうと記者教育ができなくなってしまうのだ。

学校ができない理由は何だろうか。第一の理由は理論的な裏打ちの不在だろう。例えば、ジャーナリストは権力から一定の距離をおくべきだというような、倫理規定が日本にはない。こうした倫理規定ができるのは、裏にジャーナリズムは権力を監視し民主主義を健全なものにする役割があるという自己認識があるはずなので、日本人にはそうした意識がないことがわかる。

さらに、現場の記者たちは後進をマネジメントしたり仲間を育てることを嫌がる。現場志向が強いからだと考えられるのだが、それだけではなく「ライバルが増える」ことを嫌がっているのだろう。獣医学部も参入規制があるそうだが、ジャーナリズムは学校を作ることさえ嫌がるのだ。

もしフリーの記者たちが本当に記者クラブ制度はいけないと考えているなら、自分たちの仲間を増やす努力をするはずだ。SNS時代なので、こうした書き手は新聞社などに入ったことがない人たちで読み手を兼ねている可能性が高い。が、ジャーナリストの人たちは優位性を保ちたいので、こうした人たちを敵視してしまうことが多い。

共通の意識もなく競合者同士で協力もできないので、ジャーナリストはまとまれない。そこで外国から来た人に匿名で告げ口することになる。政府から弾圧されているから表立って行動できないという理解は必ずしも正しくないのではないだろうか。

さて、理論的な精緻化をはからず、仲間や後進を育てないということのほかに、ウェブメディアならではの問題も出てきている。TBSのジャーナリストにレイプされたという女性ジャーナリストに対して「枕営業をしかけたのではないか」というセンセーショナルな発言をした池田信夫氏を例に説明したい。

アゴラはもともと専門家の知見を活かしてウェブならではの提言をするという名目で設立されたのだと思うが、新田氏(この人も問題のある発言で知られる)を編集長に据えたあたりから、おかしなことになってきている。

もともと池田さんはNHKの出身なのだが、メインストリームでポジションを得られなかったことでウェブに新天地を求めたのだと思う。やがてネット上でプレゼンスを得てゆくのだが、編集長の新田氏のWikipediaに面白い記述があった。民進党の蓮舫代表を叩いたことでページビューが大きく伸びたのだそうだ。

2015年10月、アゴラ研究所所長の池田信夫のオファーを受け、池田主宰の言論サイト『アゴラ』の編集長に就任[5]2016年9月に行われた民進党の代表選挙に出馬した蓮舫の二重国籍問題を、八幡和郎と池田がいち早く追及した際には編集長としてバックアップし、就任1年で、月間ページビュー数を300万から1000万に押し上げた[6]

新田さんと池田さんが女性に対する差別主義者だという見方はできるのだが、もしかしたら「ビジネスマッチョ」なのかもしれない。気が弱く女性との競争に負けつつある「サイレントマジョリティ」の男性のニーズがあるのだ。普通の人たちが言えないルサンチマンを代わりに晴らしてやるとそれだけ支持を集めるという構造がある。女性に対するヘイトスピーチにはそれなりの商品価値があり、それが「女は枕営業だからレイプされても自業自得(ただし一般論ね)」というような言説がまかり通ってしまうのである。

同じことが反体制側にもいえる。Literaなどが代表例だが、岩上安身氏のようにかなり過激に安倍政権を批判する人たちもいる。彼らもジャーナリスト業界から流れてきた人たちなのだが、民主主義を健全に保つために権力から距離をおくべきだという行動規範はない。このことが結果的に民主主義を両側から不健全なものにしている。

よく、ウェブは掃き溜めだなどというのだが、実際に掃き溜めにしているのはこうしたマスコミ崩れの人たちだ。民主主義と言論の関係について理論的に学んだわけではなく、仲間同士で研究しているわけでもないので、特に言論に品位を持とうとか、是々非々の距離で付き合おうとは思わないのだろう。

現在の安倍政権は露骨なマスコミ干渉をしてくるので、「マスコミへの弾圧」のせいで密告が増えているという感想を持ちやすいが、実際にはまとまれないことの方がより深刻なのではないかと思う。デイビッド・ケイ氏はマッカーサーではない。結局のところ自分たちでなんとかすべきなのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

日本人が間違いやすい英語とその対策法

最近間違った英語の収集を始めた。間違った英語が生まれる背景には日本人特有の思考形態があると思うからだ。間違いを指摘するのは「こいつ英語も知らないのかよ」ということを揶揄したいわけではないので、ここではあえてお名前は出さない。短い文章ながら、日本人がやりそうな間違いを多く含んでおり、参考になると思ったからだ。Twitterを使えば海外の人とも簡単にやりとりができるので、間違いをあげつらうのではなく、学ぶ価値はあると思う。

文章は下記の通り。

Fans around the world please complain to the Japanese government and Tokyo Metropolitan Government. It is against the closure of Tsukiji.

最初の間違いはパンクチュエーションに関係しており、明確に間違いと言える。命令文には主語がないので「世界中のファンよ」というのを単文にするか呼びかけとして区切る必要がある。

さらに、いろいろ検索してみたが日本の政府は単なる政府を指すので小文字だが、東京都は固有名詞なのですべてキャピラタライズするのが一般的なのだろうが、小文字で政府と書くと一般名詞化する。英語はこういうところが難しい。

Fans around the world, please complain to the Japanese government and the Tokyo Metropolitan Government.

だが、一概に間違いと言えないが直したほうが良いというものもある。つまり「違和感がある」のだが、実は民主主義に対する感覚の違いに原因があるように思える。

日本人はお任せ民主主義なので「政府に文句を言いましょう」というのが文章としてなんとなく成立してしまう。文句をいうが責任は取らないよという意味であり、これは日本人の肌感覚としては間違っていないかもしれない。一方、英語圏には民主主義国が多い。当然英語話者も民主的で積極的な姿勢を身につける。文句を言うは受身的な感じがするので、もっと積極的なraise your voiceとかsend your voiceなどがふさわしいように思う。つまり「あなたの声を届けましょう」というほうが参加している感じが出るのだ。

が、ここまで来てもなんとなくしっくりこない。築地移転に文句を言ったとして、それがどう築地の保全に役立つのかがよくわからないのである。そこで最後の文章が浮いてしまうのだ。直訳すると「それは築地の閉鎖に反する」となり文法上の間違いはなさそうだが、意味が伝わらない。the closureの theをみて「その閉鎖」ってなんだという話もある。これも文法的には正しい。つまり、築地閉鎖をtheと言っているわけである。が、文章を読んでもthe closureが築地閉鎖のことかはわからない。なぜなら文章の中で築地が閉鎖されるとは言っていないからである。この辺りが英語はものすごく理屈っぽい気がする。

日本語を最大限に想像すると、みなさんが声をあげたら築地に反対することになりますというような文章が作れる。そこで、観光客の反対運動の盛り上がりは築地の閉鎖への反対を意味するというような文章は作れるのだが、これもなんだかしっくりこない。反対が盛り上がっても東京都が取り上げなければ意味がない。そこで次のような文章が考えられる。

  • みなさんの声が強まれば、東京都庁は移転を再検討するでしょう
  • 東京都庁は観光客の反対意見を真剣に受け止めるでしょうから声をあげてください。

が、これもなんとなくしっくりこない。なぜならば発信者と反対をしている人の関係がよくわからないからだ。それらを総合的に考えるとこんな文章になる。おそらく原文の日本語(つまり、伝えたかったこと)とは違ってくるのではないかと思う。もちろんこれが完全に正確かどうかはわからないのだが、とりあえず伝わるレベルにはなったと思う。Twitterは長く説明ができないので、文章を詰め込むのが意外と難しい。

みなさんが声をあげて私たちを助けてください。東京都はこれを真剣に捉えるでしょう。

  • Please raise your voice to help us. The Tokyo Met Gov will take it seriously if they know tourist are against the moving of the fish market.
  • Please support us by raising your voice. Louder voice will make the Tokyo Met Gov to reconsider the moving of Tsukiji.

当初、この文章に関して考え始めた時には、名詞や動詞は辞書を見ながら訳せるがからとかたらといった助詞の適切な変換が難しいのだという論を考えていたのだが、実際に分解して考えてみると文法以前の考え方の違いが問題になっているのではないかと思った。

この文章は(多分だが)外国人に対して築地移転に反対するように (正確には声をあげて反対運動を支持するように) 呼びかけているので、そこをダイレクトに表現したほうが良い。だから呼びかけた人はその声を集めて都庁に伝えるリーダーのような役割を持っていることになる。

しかし、日本人はインダイレクト(ほのめかすような)なコミュニケーションを好み、責任を取りたがらないので、元の文章には「私が声を届けますから助けてください」というニュアンスがないことがわかる。そこは「含んで」いるのかもしれないが、英語では伝わらない可能性が高いだろう。

このように文化的にかなり違いがあるので、最初から英語の文章を組み立てたほうが、より伝わる英語表現ができるのではないかと思う。つまり「文法的に正しい」ことと「伝わるかと」ということはちょっと違ったことなのではないかと思う。

非顧客を顧客にできないプロの人たち

ファッションについて勉強している。最近やっとトレンドというものがわかるようになってきた。といっても「俺、お洒落さんになったもんね」ということではない。トレンドって確かに存在するんだと思えるようになったのだ。

WEARというコミュニティがあり、そこに投稿すると「好き」か「そうでないか」というレスポンスが得られるのだ。どうやら全体的にゆるい方が好ましいようである。イメージは日曜日に近所のショッピングモールに行っても浮かない格好か、美容師スタイルだ。つまり、あまり男性的イメージとはいえない。

こうした「ゆる」が流行になるのは、その前に「スリム」が流行していたからだ。みんなスリムには飽きてきているのだ。つまり、ある種のトレンドが発生すると、気分が生まれ。それに飽きてきたころに新しいスタイルが好感度を上げることになるという構造があるらしい。つまり、一度まとまった集団ができると、それはある程度同じように動くので結果的に「トレンド」が生まれるのである。

そういう意識で見てみると、古着屋であっても「ゆる服」には少し高めの値段設定がしてある。オーバーサイズのTシャツやワイドパンツなどがそれにあたる。一方でブランドものが安く売られていたりする。トレンドが、実際に売れ筋に影響するということはなさそうなので(買いに来る人は流行に無縁そうな中年が多い)値付けに反映されるのだろう。

が、幾つかの問題もある。まず、いわゆるファッションジャーナリストの人たちは必ずしもこうしたトレンドとリンクしていない。どちらかといえば、ファッション業界があるべき姿にないといって嘆いている人が多い。昔に比べて服が売れなくなってきているのでそう思うのは当然なのだが、お客さんはついてこない。古着やネットが占める割合が大きくなっているのだが、ファッションジャーナリストたちの主戦場はデパートやファッションモールだからである。ユニクロさえ守備範囲外かもしれない。

こうした問題が起こるのは、彼らは発信にはなれているのだが受信ができないからだ。そもそもトレンドを可視化するツールはつい最近まではなかったし、実際に参加しないで「売れ筋トップ10」などとみても状況がよくわからないのだ。ファッションにPOSデータはあまり役に立たないのはスタイルが単体では成り立たないからである。

もう一つの問題は「素敵マーケティング」である。どうやらトップブランドの人たちは「自分たちの素敵なブランドを素人に紹介してもらいたくない」という気持ちがとても強いようである。実際には服が売れないわけだから「非顧客を顧客にする」ということが必要なはずなのだが、そうした人たちを意図的に無視してしまうのだ。素敵マーケターというのはインスタグラムで素敵な生活を見せているような人たちである。

こうした苛立ちが現れているドラマが「人は見た目が100%」である。このドラマの中では「女子もどき」と呼ばれる非顧客が、素敵な美容師に憧れて素敵女子を目指すという物語だ。劇中には女子力の高い総務課の女性陣が出てくる。彼女たちはとても努力していて、配慮もあり、ルックスも良く、知識もある。いわば、女子の鏡だ。

が、冷静に考えるとその女子像は「男性に頼っている」存在である。つまり、これが憧れの対象になり得るかという問題がある。

ゆえに、女子もどきの人たちがなぜファッションに憧れるのかという点が全く描けない。見た目でしか判断されない職場に強制的に転職させられて、素敵な女子に囲まれたから勉強を始めたということになっている。ここでは「女子力の高さ」が肯定されているのだが、なぜ肯定されるべきなのかということが全くわからないのだ。

合コンの相手はイケメン美容師だったりするわけだが、30歳前の美容師にそんな余裕があるとは思えない。彼らは、自分たちの商品価値が30歳くらいで終わることがわかっているので、独立資金をためて自分の店を出すことが目標になっていたりするのである。男性に養ってもらうというのが「女子力を目指す唯一の理由」だとしたら、それは現代ではそもそも成り立たない。

つまり、素敵マーケターたちがインスタで憧れライフを顕示しても誰もついてこないという状況が生まれてしまうことになる。が、素敵マーケターはそれに気がつかない。で服が売れないと嘆き続けるわけである。

この背景にはプロの人たちと実際のズレがある。現代においてファッションが重要なのは、アサーティブな自己表現のスキルが必要だからである。自己表現のためにはファッションに対する基礎知識が必要なのは間違いがないが、それ意外にも他の人たちがそれをどう受け取るかという知識が必要になる。ある種コミュニケーションのツールになっている。

実はファッションを楽しむためにはあまり構造的なことはわからなくても良い。単に実践しているうちになんとなく「ああ、こうかな」というのがわかってくるので、あとはそれを洗練させて行けばよいからだ。その意味では外国語の習得に似ている。

だが、例えばこういう構造を勉強することは「伝わらない」ことに悩んでいる人たちにとってはある種のヒントになるかもしれない。例えば現在、政治状況について「安倍政権はこんなにひどいことをしているのにみんなそれに気がついていない」などという人が多いわけだが、多分、非顧客を捕まえるための何かが欠けているのではないかと思う。例えば、政治に関心がない人たちのニーズだったり、彼らが情報をどう受け取っているかという知識である。

なぜカンニング竹山は炎上したのか

カンニング竹山さんのこの発言が炎上した。炎上の原因は、森友学園問題で「8億円の値引きは仕方がない」とコメントしたことにあるようだが、原因となった番組を見ていないのでここはなんとも言えない。いずれにしても「政治について語っても生活は何も変わらない」という実感があるのだろう。

このツイートを考えるといろいろなことがわかる。

第一の疑問は、なぜコメディアン風情が政治に口を出したのかということだ。そして、次の疑問は、なぜコメディアンが政治問題をうまく扱えないのかという問題である。

第一の疑問を解くのは実はいさささか難しい。そもそも日本の演劇人は政治とは無縁ではなかったからだ。日本の喜劇にはいくつかの潮流があるのだが、源流の一つは政治をわかりやすく伝えようとした川上音二郎に行き着く。大河ドラマ「春の波濤」のモデルにもなった。これが新劇となり現在にも受け継がれているのだが、大衆化して派生したのが浅草演劇だ。浅草演劇は、萩本欽一やビートたけしといったコメディアンを輩出した。

コメディアンと政治の関係が問題になるのは、実は現在の「お笑い」がこうした伝統から切り離されつつあるからだと考えられる。お笑いが大衆演劇ではなく、プロダクションが運営する「学校」で教えられるようになっているのが切断の理由ではないだろうか。

芸能プロダクションが運営する学校の目的はテレビが必要とする非正規雇用タレントの促成栽培だと考えられる。が、当時のお笑いは、とんねるずに代表されるような仲間内のふざけあいだった。そこでいじめられる「キャラ」が必要とされた。例えば、太っている人やあまり美人でない人を「いじる」と称していじめたり、熱いものを食べさせて苦しむ姿を眺めるのがテレビのお笑いだったのだ。

単にいじめられているだけでは面白くないので「いじる」側のキャラも必要だった。つまり、バブル期以降必要とされたのは、公開いじめを演じるキャラたちだったと考えられる。

ところが、フジテレビの凋落が示すように、こうした公開いじめは徐々に飽きられてゆく。それが単なる仲間内の馴れ合いであるということが徐々に露呈してきたからだろう。テレビで馴れ合いのいじりあいをしているのは「私たちとは関係がない」人たちとみなされるようになったのだ。

つまり、竹山さんのツイートはこの意味でとても示唆に富んでいる。テレビで仲間内の馴れ合いであるいじめを演じる人たちにとって「政治は関係がないや」と考えている。つまり庶民とは違った世界を生きているのである。が、そのように切断された人たちが演じるお笑いが視聴者の共感を得るはずはない。その意味では同じナンセンスなことをやっていても、自分たちとそれほど変わらないYouTuberの方が圧倒的に面白いし、圧倒的にリアルだ。

そこで芸人たちは新しい職場が必要になった。それが政治などを扱う情報系番組である。この背景にも実は同じような構造がある。ストレートな報道番組が見られなくなっているのだろう。報道番組はもともと政治記者たちが主導して作っていた番組だが、彼らが関心を持つのは派閥などの人間関係なので、有権者には全く関係がない。

かといって、虚構のキャラクターを演じる俳優を政治問題を扱う番組に起用するのは危険性が高いし、文化人ではリアクションが取れない。そこで、お笑いタレント程度であれば起用しても構わないと考えたのではないだろうか。が、ここでの問題は「政治問題でも当たり障りなく演じられるだろう」というテレビ局のある種傲慢な思い込みだ。実際には視聴者の気持ちが番組を作るはずなのだが、テレビ局は「自分たちが流れをコントロールできる」と思ってしまうのだろう。

もともとネット文化はラジオと親和性が高い。ラジオはサブカルチャーと見なされているので、少々偏った意見でもそれほど嫌われることはなかった。最初にタレントが政治を扱いだしたのは、多分テレビではなくAMラジオなのではないだろうか。が、これがテレビになると「誰も傷つけてはいけない」ということになってしまう。お笑いには常に誰かを傷つけるリスクがある(が、それを笑いという緊張緩和で統合する昨日もある)わけで、ここに芸人を立たせるのは実は気の毒なことなのである。

改めて考えてみると、普段私たちが政治について語ることは珍しくなくなっていることがわかる。つまり、なぜラジオでしか成立しなかったようなコンテンツがテレビでも受け入れられるようになったのかという疑問が生まれる。 原因は幾つか考えられる。民主党に政権交代するときにテレビ政治ショーを通じて「一般庶民でも政治に口出しできる」という印象を与えた。さらに、安倍政権のデタラメさにうんざりした人たちがTwitterで語り出したという要因もあるのだろう。Twitterには「言語化できないが、何かおかしい」という人が満ち溢れており、常に新しいコンテンツを求めている。

しかしここで問題が起こる。テレビでいじめが横行するのは、視聴者が「自分たちが巻き込まれることはない」と考えて安心してみていられるからだ。これは学校で誰かがいじめられているのを見て他の人たちが「自分はターゲットではない」とホッとするのに似ている。つまり、いじめを見ているうちは、みんなが満足することができたのである。だが、政治的課題にはつねに「対立」と「分裂」がつきもので、スキルなしにはみんなを満足させることはできない。また、当たり障りのないことを言えば、却って両陣営から「相手に組みしている」などと言われることになる。

もし、浅草演劇の流れを汲んだお笑いが生きておれば、権力から直接距離をとりつつ、目の前にいる人たちのリアクションを見ながら、違和感を言語化するというようなお笑いが成立したのかもしれない。笑いには「感情を解放して全体を統合する」という見逃せない機能があるからだ。しかし、テレビ芸人の人たちにはこうしたスキルがなく政治番組への出演も「バイト感覚」なので、対立に直面すると単に引きこもるしかなくなるのだろう。

犬の介護計画を立てる

犬がまた倒れた。いろいろドタバタだったのだが、苦労話を書いても仕方がないので「第三者が果たすべき役割」についてまとめておきたい。犬の介護を経験する人は多くないとは思うのだが、いろいろな危機管理に役に立つかもしれない。大切なのは次の4つだ。意外と障害対応とかプロジェクトマネジメントに似ている。

  • 問題を特定する。
  • クリティカルパスを特定する。
  • スキルを特定する。
  • 現象を観察する。

最初に犬が倒れると心理的にペットに近い人はパニックを起こす。後になって聞いても何の病気だか「聞いたけどよくわからなかった」という。獣医は説明しているはずなのだが頭に入ってこないのだろう。脳の病気だとか神経がどうとか繰り返すばかりで、脳卒中みたいなものかもなどという。だから、まず大切なのは、間に入って病気について再度説明してもらうことだった。そこで聞き返して初めて、相手(獣医師)も説明が足りなかったことに気づいたらしい。図表を出して内耳の近くにある脳の部分(前庭)が障害を起こしているのだと説明してくれた。相手はプロなので詳しく聞けばそれなりにわかりやすく教えてくれるのである。耳の神経部から入って炎症が起きるのだが、障害するのは脳の一部である。

問題が特定できれば後で調べ物ができる。おいおい述べるように情報が即座に役に立つわけではないが知識を仕入れることは重要だ。さらに、どの程度治る病気なのか、どういう経過をたどるのかということがわかる。脳の病気なので完全にはよくならないらしく、これはこれで落胆してしまうのだが(正直、もう前みたいに元気にならないという現実を突きつけられるのはかなりショックだ)が、やはり情報収集は大切である。

病気の急性期には症状が刻々と変化する。大きな声で暴れるので「痛いのではないか」と思ってしまう。しかし何もできないわけだから、一睡もせずに付きそうみたいなことが対応策になってしまう。そこで「とりあえず目標を決める」ことが重要だと思った。とはいえ当事者は慌てているし、獣医は「患者がどこまでわかっているか」ということがわからないので、意外と情報は伝達されない。そこで「とりあえず、当座のことを決めよう」と宣言してみた。すると獣医は「とりあえず、落ち着くかどうかみてみましょう」という。ここからようやく話が進み出した。最初のクリティカルパスが決まったのだ。

こうしたキーになるイベントを集めたものをクリティカルパスと呼ぶ。正確なプロジェクト管理用語には細かい定義があるのだと思うが、大体の意味は伝わるのではないかと思う。まず落ち着くかどうかを見る。落ち着くと水を与えられるようになる。これを栄養剤などに切り替えて、最終的に流動食まで持って行くと、薬を飲ませることができるようになる。すると症状が落ち着くわけである。一つ点が決まると、次の目標が決められる。こうして流動的ながらシナリオを決めることができる。重要なのは、シナリオが「不確定要素」を含んでいるので、意思決定のための判断ポイントを作るのが重要という点だろう。チェンジマネジメントなどだとここに「現場の反乱」などが入ったりするようだ。つまり「不確定要素」と「リスク要因」について考える必要がある。ということで、今回の介護計画はリスクマネジメントがあまり必要ないので楽といえば楽だ。が「暴れたら連絡してくれ」と言われた。つまり対応を間違えて状況が激変することが唯一のリスクということになる。

開腹が望めない病気なのでパスなんか決めても疲れるだけのように思えるのだが、実際にはこれがとても重要である。なぜならば、パスが決まるとスキルが特定できるからだ。スキルには「動けない犬に水や食料を与える技術」とか「薬を与える技術」などが含まれる。さらに、何に驚いて鳴いているのかということがわかるので、環境を整えることができる。獣医師の話だと触覚刺激に極めて敏感になっている(目も耳も遠くなっていて、なおかつバランスが取れないという状態にあり、暗闇に閉じ込められている感じになっているということである)ようだ。ということで安静にできて障害物がない環境を準備する必要があったのだ。

事前にパラパラと情報を集めておいたのだが、この時点では体系化されていない。そこで「水を飲ませるためにはどうしたらいいのか」を聞いてみた。スプーンで与えるとか脱脂綿に含ませるなどのアイディアが介護する側から出たのだが、正解は注射器の針のないもの(シリンジというらしい)を使って水を飲ませることらしい。どうやら獣医師も質問されるまで、この道具について教えればいいということを失念していたらしい。だから、言われたことを覚えるだけでなく、質問することが極めて大切なのだなと思った。「わからない」というのは立派な情報なのだ。

犬が暴れるので入院させていたのだが、実は水を欲しがって吠えていたらしい。これがわかったのは犬を観察したからである。舌をぴちゃぴちゃするので水を与えるとかなり激しい勢いで飲んだ。事前にシリンジをもらっていたので水を飲ませることができた。

本を読んだり先生に何かを教えてもらうと今度は知識で頭がいっぱいになってしまうのだが、やはり目の前にある現実をモニターするのは大切なようである。水を与えないでしばらく見ていると鳴き出すので「水が欲しいのに飲めない」が「動こうとしても動けない」という状態になっていたようである。そこでもがいているうちに頭が隙間に入って、最終的にパニックを起こしていたのだろうという仮説が立てられる。状況を整えたら暴れなくなったので仮説はある程度確かめられたようだ。

原因がわかると対処できるので心理的には少しだけ楽になる。こうやって少しずつ知識を蓄えて行くことが重要なのだろう。

第三者的な目で見ると「自分が冷たい人になってしまったのではないか」と感じられてしまい、実はあまり愉快な経験ではなかった。当事者意識が薄いのではと思われそうだし、真剣になっている当事者から見ると「しゃしゃり出ている」と思われる危険性もある。

がやはり当事者だけになってしまうと「伝えたつもり」とか「わかっているつもり」になりがちなのようだ。獣医師(伝え手)は延々としゃべり、介護する側(受け手)それを聴きながすという構図である。で、様子を見ながら情報を整理する人が必要なのだなと思った。家族や近所で第三者的な目が確保できればよいのだが、社会が介入しなければならないケースもあるのだろうなと思う。また介護のような現場ではなくても、プログラミングの障害調査や社内調査などでも第三者が介入することでコミュニケーションが円滑になることがあり得るのではないかと思った。

犬はようやく落ち着いて眠っている。よほど喉が乾いていたのだろう。

 

 

 

日本に政治風刺のお笑いがないのはなぜか

高橋英樹という放送作家の人が政治風刺について書いている。これを読むと日本でなぜ政治風刺が起こらないのかということがわかる。これは高橋さんが持っているある欠落によるものだが、多分日本人が普通に考えるとこういうことになってしまうのだろう。つまり日本人にはある感覚が欠落していることになる。

アメリカの政治風刺にはいくつかの種類がある。例えばシンプソンズのような漫画や夜の枠のショー番組などである。わかりやすいのでシンプソンズを見てみよう。絵を見ているだけである程度楽しめる。

シチュエーションは簡単なので細かいことがわからなくても楽しめる。ヒラリーとトランプのどちらが大統領にふさわしいかわからないので不眠になっている。

キーになるポイントはトランプ大統領が夜にツイッターをしているということをみんなが知っているという点だ。大統領は激務なので夜中に電話がかかってくるかもしれない。だから「トランプの方がいいのでは」という展開になる。

「髪型が不自然だ」とキャラがいじられてはいるのだがそれは副次的なものである。つまり、言いたいのは「普通の人は寝ている時間なのに、トランプは起きていてみんなを振り回すだろう」ということである。ベットには危ない思想の本が置かれていて、中国との間に壁を建設しろなどと言っている。当然壁は海に建設されることになるだろう。

つまり、一般常識とずれている「めちゃくちゃさ」が面白みを生んでいるのだ。これを積み重ねて周りが振り回されるとドタバタコメディーになるし、Stand upコメディーに仕立てることもできる。しかしStand upの場合にはお客さんのレスポンスが欠かせないだろう。つまり、Stand upはお客を統合するためのオーケストレータとしての役割をコメディアンが担っていることになる。

要約すると、政治風刺を笑えるためには「普通の人は夜は寝ている(もしくは〜している)」という一般常識を見ている側が共有していなければならない。これは一般常識から政治的な感覚にも及ぶのだが、地続きになっている。このずれを際立たせた上でキャラをかぶせて「ああ、あの人だ」と特定させるという筋立てなのだ。

高橋さんの文章に戻る。例示が全く面白くないのは「森友学園」そのものの面白さはせいぜい籠池夫妻のキャラくらいのものだからだ。森友事件が「面白く」あるためには、例えば周囲の常識と政府答弁がずれているということを認識する必要がある。何か都合が悪いことが起こると「書類をなくしたことにする」人は多分笑いの対象になるだろう。

こうした差異が感知されないということになると、いくつかの仮説が考えられる。

高橋さんという人が「常識に照らして政治を見たことがない」というのが最初の仮説で、次の仮説は「そもそも高橋さんが政治についての感覚を一切持っていない」というのが次の仮説である。どのような背景の方はわからないのだがBLOGOSにコラムを転載されているということは多分それなりの重鎮の方と思われるので「日本のお笑い界は政治に対して常識的で世間と共有できるような政治感覚を持っていない」ということがわかる。

高橋さんはこれ以上やると命がけになると言っている。が、シンプソンズが命がけでこれをやっているとは思えない。単に「夜中におもいつきであれこれ言っているけど、この判断って冷静なのか」と言っているだけである。

例えばこれは100日後のホワイトハウスのドタバタぶりを描いたスケッチだが、トランプ大統領は何も達成していないのに本人は大満足だということが面白おかしく描かれている。シンプソン一家ももともと移民(ネイティブアメリカン以外はすべて移民だから #1)なのだが「どこからきたのか覚えていないけど本国に送還される」ということになっているようだ。

#1. Wikipediaによるとエイブラハム・シンプソンは軽い認知症を患っており先祖が誰かという話がいつもめちゃくちゃであるというキャラ設定になっているらしい。

 

高橋さんが「政治批判は思い込みだ」という背景には少し深刻な事情があるように思える。

日本人は話し合いを嫌うので「全面的に従う」か「相手を全否定するか」ということになりがちだ。つまり、政治批判はそのまま政権打倒運動につながってしまうというゼロイチの思考があるのだろう。もともと、古い世代に学生運動的なラジカルなものが政治批判であるという思い込みが残っているからだろう。異議の申し立て=人格まで含めた相手の全否定なのだ。

ゆえに、日本のお笑いの主流は弱いものをみつけていたぶること(イジるという専門用語もある)になる。弱いものを全否定しても誰も危険を感じない。いじめられる人もそれでお金がもらえるので「おいしい」と考えてしまう。ゆえに、お笑いが政治を取り扱うと弱いものいじめになってしまう可能性が高いのではないかと考えられる。人民裁判で推定有罪になった人たちや明らかにブサイクな人などを全面的に叩いて人格否定するのがお笑いなので、政治に対してこれを行うと確かに命の危険を感じるかもしれない。

以前、日本のリベラルは民意を統合する役割を放棄していると書いたのだが、笑いにもちょっとした違和感を統合する役割があるはずだ。これを果たせないのは、日本人がそもそも協力を嫌っていて同僚を信頼しないので、自分たちより弱いものをいたぶって開放感を感じることだけを「安全な笑いだ」と認識しているからではないかと考えられれる。これを学校で真似をするので日本からはいじめがなくならないのかもしれない。が、重要なのは世論を統合するようなオーケストレータとしてのStand upコメディアンが出てこないということだろう。ゆえに日本では関係性を作って2人以上でコメディが行われ、観客は傍観者として関与しないで眺めるのが主流になるのだ。

こうした状況は安倍首相のような意味を解体する人には好都合だ。有権者の側に意味を統合され「あの人むちゃくちゃだなあ」と言われると権威は即座に失われてしまうのだが、がテレビや新聞も官邸のいうことを垂れ流すだけで誰も意味の統合を行わないので、好き勝手ができてしまうのである。現在はGHQが<押し付けた>憲法だけが日本の民主主義を統合しているのだが、これもまもなく解体されてしまうのかもしれない。

安倍首相が破壊したもの

ネトウヨと話をしているとどうして疲れるんだろうかと考えた。

これは何かと聞かれたら四角形が一直線に並んでいると答えるだろう。ではこれはどうだろうか。

これは四角形が円のように並べられていると答える人が多いのではないか。

簡単な例なのでこれが何なのかを迷う人はいないと思うのだが、斜めから見るとこういう図形になる。円弧の形に四角形を並べてたもので、横から見ると一直線に見える。

視点によってものの形は違って見える。

ネトウヨは、このようにものを把握する能力がない。ある特定の視点からしかものを見ないので「これは円である」とか「これは線である」などという。そして「それが違っているよ」というと「じゃああんたはこの図形が何に見えるのか(対案を示せ)」というか「丸じゃなければ三角なのか(二者択一)」と怒り出すのだ。

ネトウヨを満足させることは難しい。彼らを満足させ続けるためには、常に彼らから見ている視点からものをみて話を合わせなければならないのだがこういう人は大勢いる。彼らは自分で決めたいのだが、自分たちの視点でしかものをみることができないので、周囲にも同じ視点を強要するのだ。たいへん迷惑な人たちである。

ネトウヨの思考形態を「視点と形」から整理したのだが、安倍さんについて考えていて、これが当てはまるなと思った。

安倍さんは「憲法を改正したい」という望みを持っている。今、協力をもうして出ているのは維新と公明なので彼らを抱き込めば憲法改正ができると考えたらしい。そこで教育無償化と自衛隊の追加を言い出した。

だが、これはいろいろと具合が悪い。一つは過去の自民党の憲法草案や現在の党内議論と整合性がない。さらに「自衛隊は憲法の中に位置付けられていない」から改憲したいという理屈付けは「自衛隊は現行憲法下で違憲だったことはない」という過去の政府答弁と合致しない。

が、これを「おかしい」と思うためには、議論を統合する必要がある。が、安倍さんの支持者は議論が統合できないネトウヨなので統合を気にする必要は全くない。円をみを見たいと思っている人には円と言えばいいし、線を見たい人には線を見せれば良いのである。

アメリカから「今すぐ自衛隊を米軍の作戦に動員しろ」と言われれば、自衛隊を集団的自衛のために動員するのは合憲だと言い張る。しかし憲法を改正したい人たちには「自衛隊は憲法で位置付けられていないから都合が悪い」という。そしてそれを国会に追及されると「自分は憲法を遵守する立場にいるので答えられない」といえば良い。すべての絵を統合するとむちゃくちゃなのだが、その場その場で辻褄が合ってしまう。

こうした姿勢が受け入れられるのは、受け手側が「聞きたい話だけを聞きたい」と考えていて「後のことはどうでもよい」と思っている必要がある。「北朝鮮が攻めてくるのだからごちゃごちゃ言っているとやられる」と考える人は理屈を軽視する。つまり、結果に飛びつく人が多ければ多いほと安倍さんに人気が集まる仕組みになっている。

大量の情報が急激に流れてゆくので、特に統合しなくてもその場その場で合致しているように見えればよいということになる。逆に言うとすべてを統合すると誰も満足させることができなくなってしまうのかもしれない。

例えばアメリカでは大企業の代表者とポピュリストの代表者の間で票が分断されており、その状態はまだ続いている。それは彼らがイデオロギーという主体を抱えているからである。フランスでも全く同じ動きが起きていて「どちらにも味方できない」という人がいるそうである。現在の政治状況はそういうレベルで分裂しているのだが、安倍さんはこれらを曖昧にしているので、より多くの人を満足させることができるのだろうということになる。背景には資本主義のシステムが破綻しかけていて、すべての人たちを満足させることができなくなっているという事情があるのかもしれない。

安倍さんのまやかしがどういう効果を生むのかはよくわからない。第一に統治機構が無力化だろうことは予想できる。政治的な議論は断片化されて無力化されることになる。日本は何も決められず漂流することになるだろう。もしこれで憲法が変わってしまえば憲法は意味を失うだろう。いわゆる「壊憲」だ。が、これは権力者には都合が良いのかもしれない。なんでもその場その場の勢いでやれてしまうからである。

政治が無力化すると視点と視点が統合されないままにぶつかり合うだろう。これがどんな弊害をもたらすかを観察するのは難しくない。Twitterでは極端な意見がぶつかっていて、日々何の生産性もない「論争」が行われている。が、こうした論争は不愉快なだけで何の便益もないのだから、多くの人が政治から遠ざかって行く。

何も決められず、誰の協力も得られないわけだが、政治を私物化したい人たちにとっては却って都合が良いのかもしれない。

 

俺にファンができた話

前回の「情弱」の人にまた絡まれた。うざいなあと思ったのだが一応返事しておいたのだが、あまり建設的でないなあと思った。どうやら「自分た正しくてお前が間違っている」ということが証明したいだけらしいからだ。

もちろん、こうした人たちとの対話が全く役に立たないというわけでもない。今回は自民党の憲法議論について絡まれたのだが、「安倍さんは自衛隊を憲法の中に位置付けたいだけだ」という。確かに表面的に見ると安倍さんは受け入れられやすいことを言っているだけのようにも思える。論じると色々な不具合が出てくるのだが、それは正常な人間がプロセスというものを気にするからだ。安倍さんを含めてネトウヨの人たちは結果しか気にしないのだ。

さらに調べてみてわかったのは、石破さんが自民党の憲法を決める会の顧問という立場にあり、安倍さんはそれに(まあ首相なので当然なのだが)に関わっていないということだ。憲法に詳しい人ほど「下手箒庵は出せない」と思うのだろう。何をどう変えるかについての結論が出せないらしい。安倍さんはこれにイラついていて「メンバーを入れ替えて結論を出させる」ように誘導したいようだ。石破さんは多分それに不快感を感じているのかもしれない。

絡まれると一応それについて調べるので少し詳細がわかる。だから異論も役には立つ。逆に左翼系の人たちはあまり読み込まずにタイトルだけ見て礼賛してくるが「自分とちょっと違う」ことがわかると怒り出したりするので、新しい発見があるという意味ではネトウヨの絡みの方が役に立つ部分が多い。だがやはり総合的に考えると単なる時間の無駄だ。

どちらも「とにかく相手が間違っている」か「とにかく相手が正しい」と考えているために「折り合って着地しよう」というコラボレーションが一切生まれないのだ。極端な言い方をすると日本の教育の闇を感じる。結果だけを詰め込んでそれをとにかく信じるように教え続けた結果なのではないかとさえ思う。

ところが、ある考えをきっかけに劇的に視野が変わった。この人はなぜ個人の落書きみたいなブログを見て「それを打倒しなきゃ」と思ったのだろうかということを考えたのだ。フォローはされていないらしいのだがモニターされているようなので気にしてはもらっているらしい。「言論としてある種認められたんだなあ」という結論に達した。正直なところかなり気持ちが良くて、人並みに自尊心があるんだなあなどと思った。

もともとこのブログは個人の読書日記から派生したのだが、その前には「世の中はくだらない。俺様の考えは〜だ」みたいなブログを図入りで書いていたことがあった。が「私」が過剰に入った読み物はあまり面白くないし、誰も読んではくれない。ということで読んだ本の感想を書くことにした。書いて感想を書いておかないと忘れてしまうからである。単なる備忘録なので誰かが賛同したり反発したりということは原理上起こらないはずなのだ。

皮肉なことだなあと思うのだが、強烈な主張や一人語りは多くの人たちの心を動かさないようだ。一方で、自分の主張を抑えて周囲を観察しそれに自分なりの観察を加えると徐々に読まれるようになってくるということなのかもしれない。

ネトウヨの人たちはプロセスを気にしないで「俺様の主張」を相手にも押し付けてくる。それにお付き合いしてしまうと「主張合戦」になり本当に解決したかった問題がわからなくなるし、過剰な自己主張は誰にも耳を傾けてもらえない。そもそもお付き合いする義理はないわけだし適当にお付き合いしている分には新しい発見があって良い。

例えていえば星座の味方が違っているようなもので折り合いがつかない。ネトウヨは地球から見た星の関係が「オリオンの形に見える」などと思っていてそれが唯一の正解なのだが、実際にはこれらの星々には何のつながりもない。いろいろな角度から見なければ本当の関係性はわからない。がネトウヨは「本当の関係なんかわかってどうするのか」と思うのだろう。

ということで絡んでくる人に対しては「俺のファンなんだな」と思っているくらいがちょうど良いのかもしれない。

 

情弱に絡まれたら覚えておきたいルール

面白い体験をした。山本一郎さんが建築エコノミストの森山さんを批判している記事についてコメントしたところ絡まれたのだ。山本さんはいろいろなニュースに首を突っ込んでは話をかき回している。不利な側について話を搔き回す役割を担っているので、誰かが雇っているのかもしれないと思う。

とはいえ、山本さんは形成を逆転することはできないので、情報を足して「なんだかよくわからないなあ」という状況を作り出すというテクニックを使う。リンク先のニュースを見たところ、さまざまな技術的な情報が並んでいて精査が難しくなっている。だが、記事の趣旨はそこではなく「森山さんは怪しい」というものだ。つまり技術情報は飾りである可能性が高いのだ。

ということで、山本さんが通常運転なので「いつものクオリティなんだなあ」と香ばしいようなしょっぱいような優しい目でコメントした。もはや芸と言っても良い領域だし、森山さんが「怪しくない」とも思ってはいない。都の委員を退任されたということで「逃亡だ」という声が出ているのも知っている。だが、それでも山本さんをみると中身というよりも「あ、山本さんが出てきたってことは、豊洲やばいのかな」とか「いよいよ玉切れかな」などと思えてしまうのである。これは仕方がないことだ。

絡んできた人が面白いかったのは「山本さんをdisっているので、当然森山さんの味方であり、と同時に築地推進なんだろう」と思い込んでいるように思えたことだ。つまり「かなりの量の自動類推が働くのだがそれに気がつかない」で話を進めてしまう人が、ネットには結構多いことになる。

そこで「豊洲推進したいんだったら山本さんを出すのはあまり得策ではないですよね」という説得素をしようと思ったのだが「俺は絶対に正しい」との一点張りだった。それだけでなく「お前、俺にチャレンジしてるんだろう」という警戒心が行間からにじみ出ていた。ここでわかるのは「実は豊洲にはそれほど関心がない」ということである。豊洲の移転が白紙になっても別にどうでもいいと思っているが、築地派の意見が通ってしまうのは許せないのである。だから、表題について語っても無駄なのだ。

そこでプロフィールを見に行ったのだが「情弱です」と書いてあった。情報処理に自信がないわけだから「お前リテラシーがないよね」みたいなコメントは火に油を注ぐ可能性がある。そこで「あんな複雑な文章を読んで確信が持てるなんてすごいですねえ」ということにした。すると相手は攻撃する動機がなくなるので、突っかかってこなくなる。実際にそうだった。つまりたいていの人は実は表題ではなく自分にしか興味がないのだ。

つまり最初から豊洲なんかはどうでもよくて「豊洲問題を通じて自分が正しいことを訴えたい」と思っていた可能性が高い。なぜ豊洲問題にそれほどアタッチしてしまっているのかはわからないのだが、小池百合子都知事はいわゆる「生意気な女」カテゴリーなので、それに対する反発があるのかもしれないし、別の理由で自民党が好きなのかもしれない。

この人は明らかに思い込みがあって情報を色々足しながら、結局最終的には「俺を見てくれ」とか「俺を認めてくれ」と言っている。で、それが満たされないと相手に暴言を吐き、妥当しようと試みる。つまり「お前が俺の心理状態を見て、忖度して会話を合わせてこいよ」と言っているわけである。大人の世界では恥ずかしいとされることがネットでは堂々とまかり通る。普段、他人の目が気になってわがままに振る舞えないと感じている人ほど、匿名という安心感から子供返りしてしまうのだろう。

ただ、この人だけが特殊なのではない。例えば、自民党が好き放題しているのは「政治リテラシーが低く政治への参加意識が薄いからだ」と思い込んでいる人たちがいる。彼らはバカだから騙されているだけで、自分たちが啓蒙してやればおのずと野党への支持が集まり自民党政権はなくなるはずだなどと陶酔しているのである。情報は多く出ており、それでも野党支持が集まらないのだからなんらかの理油があるはずだ。が、それは全く考えないのだろう。

つまり情弱という人たちは、情報リテラシーが低いわけではなく、物事の理由を「相手がバカだから」と考えるという点と、信じているソリューションが非常に単純であるという点に問題があるのだ。絡んできた人は「山本一郎が正しいということを証明できれば、女が政治にしゃしゃり出てくることはなくなる」と考えているのだろうし、野党共闘の人たちは「野党さえまとまれば自民党政府は終わる」と信じているのだ。

本当に「やばい」と思ったら、どうにかして状況を変えなければならず、そのためには原因の特定が必要になる。が、民主主義の危機を叫んでいる人たちにそんな形跡は見られないので、実はそれほどの危機意識はないという結論になる。つまり野党共闘を叫んでいる人たちも実は民主主義なんて自然と守られるくらいにしか思っていないのだ。だが、こうした思い込みは社会を健全に保つためにはかなり有害なのかもしれない。