お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

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日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。

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個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

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日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

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どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

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コンテンツの良し悪しを測定するKPIを作る

WEARでコーディネートを投稿している。最初のうちは毎日「いいね」がついたりして気分が良いのだが、コーディネートが蓄積されてくると「これは自分なりにどれくらい良い成績が取れているのだろうか」ということが気になりだす。そこで、成績を元にパフォーマンスの良いコーディネートだけを残し悪いコーディネートを整理する方法がないか考えてみた。いわゆるKPIの作成である。

指標作りにに正解はないとは思うのだが、当初は指標というのは目的を持って作らないとダメなんだなと思った。しかし、やってみるうちに指標づくりそのものが学習なのではないかと思い直した。つまり、コンテンツ作りで最初から「こういうゴールを設定しよう」などと思えるものではなく、ゴールのイメージを作りながらコンテンツを作るのが正しいあり方なのではないかと思ったのだ。

さて、WEARにはページビュー、ハートマーク、SAVEという3つの指標がある。ハートマークは挨拶代わりにつけて行く人が多く、実際に参考にしたいものはSAVEされるということになっている。これらはそれぞれ違った概念なので、これを総合的に評価するのはなかなか難しい。数学が得意であれば、毎回簡単にイメージ化ができるようになるのかもしれないが、高校数学で挫折したという暗い過去があるのだ。高校は理系クラスだったが、国語の先生から「バカか」と言われ、実際には文系の大学に進学したという苦い経験があり、数学にはトラウマを持っている。

そこで、まずエクセルを広げて全ての数字を記入することにした。24コーディネート入るページが7つあるのでだいたい160程度のコーディネートがあったと思う。最初はハートマークとSAVEの数を数えてそれを偏差値化しようと考えた。全体の標準偏差を出してから「平均との距離」/「標準偏差」とするとそれぞれの偏差値が出るというのは、グーグルで検索してわかった。

偏差値を出すのは比較をやりやすくするためだ。それぞればらつきが違っているはずなので、そのままでは比較ができないのである。だが、このやり方をしても二つの指標をどの割合で混ぜて良いかがわからない。これは100点満点ではないという事情がある。つまり国語と算数のテストで偏差値を出すときには両方が100点満点であれば100と100で混ぜて200点満点にすればいいのだが、いいねには満点がないので、それができないのである。

そこでページビューからの割合で偏差値を出すという方法を考えた。

もちろんページビューそのものを指標に使うという方法もあるのだが、これは却下した。例えば中高年に大人気のウルトラライトダウンなどはページビューが伸びるがハートマークやSAVEは増えない。多分、自分で着方を検索する人は多いのだろうが他人のコーディネートを参考にしたりコミュニティでのプレゼンスを高めるためにハートマークを押す人は少ないのである。実はファッションの世界に「流行しているもの」と「みんなが着用したがっているもの」の間に違いがある。

ちなみにブログだと「初動が稼げるもの」と「長く読まれるもの」の間に違いがあり「いいね」がもらえるものも違っている。「いいね」を指標にしたいところなのだが、識者や人気のある人が回覧すると顕著に伸びることがあり、必ずしも文章の良し悪しの指標にはならない。だから、何を目的にして文章を書くのかということを考えながらやらないと、適切な指標が選べない。

さて、途中経過で「偏差値まで出すのは大げさなのではないか」と思ったのだが、残念ながら作業の仮定ではこれ以外の方法を見つけられなかった。冒頭に確認したように、複数の指標を足すときに全てが100点満点であればそれを単純に足し合わせればよい。例えば合格点が70点になるように設問を設定すればより正確な計測システムが作れるだろう。しかし、WEARの場合はどれくらいの露出があるかわからないので満点が出せない。

時期によっても違いがあるようだ。刈り込んだ後の投稿をハートマークとSAVEの獲得割合で座標にプロットしてみた。

青は最近のコーディネートで赤は始めた当時のものである。どうやらハートマークとSAVEの間には相関がないようだ。全体に、SAVEされたりハートマークをつけたりしてもらえる率が上がっていることがわかる。同じ水準で過去のものをみると全て足切りされてしまう。

こうなる仮説はいろいろ考えられる。

  • 最近、フォロワーが増えて挨拶代わりにハートマークがつけてもらえることが増えた。
  • ファッションについて詳しくなり高評価が得られるようになった。
  • 過去のほうがページビューが高いのでその分だけ反応率が減る。

お金が絡む評価ならきっちりと分析する必要があると思うのだが、あくまでも趣味なので「成長したんだな」と思うことにした。これについては古いデータを棄却せずに撮っておけば良かったと思った。作業するときにワークシートを上書きしてしまったのである。

偏差値を出すためには全ての数字を足し合わせなければならなくなるので、計測システムが複雑になる。これを自動化する方法を考えてみたのだが思い浮かばない。WEARはデータをエクスポートする機能がないからだ。だが、いったん指標が作れればその指標に合わせて足切りをすればいいのではないかと思った。この場合ハートマークが60%程度あれば合格でSAVEは6%くらいが合格ということになり、SAVEは参考にしても良いが無視しても構わない。これならば暗算も簡単である。

もう少し真面目にやったらどうなるのかと思ってRを持ち出してクラスター分析をしてみた。ただ、Rは普段から使うようにしておかないと簡単なこと(例えばデータフレームを作る)などがわからなくなる。今回もCSVを読み込むべきところをテキストで読み込んでしまい、その後の作業ができずに15分ほど悩んでしまった。

k-means法(理屈は難しいのだが、単にkmeansという関数を使えば分析自体は簡単にできてしまう)でグルーピングしたところやはりSAVEは関係がなさそうだ。Rだと露出の50%程度のところで切ればなんとなく足切りができそうである。

このようにデータを統計処理することによりなんとなく目標が見えてくる。今は50%程度の獲得率しかないのだが、これを上げて行けば良いということがわかる。こうした指標作りを通して目標が作れるので活動がより具体的にできる。

今回ポイントになるのは数学が苦手な人でもパソコンさえあれば容易に統計処理ができるということである。

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部族化するインテリ

先日来、日本は村落社会化しているのではないかということを考えている。村落社会とは所与の狭い共同体で、独特の社会を形成している。ここでは村落を日本社会を揶揄する目的で使っている。つまり、村落は社会になり損ねた共同体の姿でありつまり「日本では社会が成熟せずに村落に退化しつつあるのではないか」という含みがあるのだ。

日本社会の退化について考えているうちに、村落は退化の最終段階ではないのではないかということを考え始めてしまい、その考えを頭の片隅から追いだせなくなった。特に日本のエリート社会は部族化しやすいのではないだろうか。

考え始めたきっかけは、民進党の分裂騒ぎだ。国会議員たちが部族間闘争に突入しているのだが、Twitterをフォローしてももはや何をやっているのかさっぱりわからない。民進党の千葉県本部に連絡してみたが職員も呆れ顔で「統一地方選挙前にはなんとかするんじゃないですか」ともはや他人事である。

村落には動かない囲いがあり、周囲の人たちがその場その場でルールを決めて行く。それでも済んでいるのは環境が変わらずメンバーもお互いに顔見知りだからである。

日本が戦後アメリカ型の民主主義を受け入れた段階で脱農村化が進み、いったん社会化した。しかし「戦後レジームからの脱却」を模索するうちに退化して村落化が進んだのではないだろうか。

再度村落化が進んだとはいえ、いったん壊れた枠組みが戻ることはない。つまり、新しい村には明確な囲いがない。自分たちで価値観を折り合わせて新しい枠組みを作るか、そもそも枠組みがない(つまり決まった価値観がなく多様な価値観と折合う)世界に慣れるしかないということになる。後者のシナリオを取ると社会化を目指すことになるだろうというのが希望的観測だ。

ところが、実際には真逆な動きが起こっているように思える。最初にこれに気がついたのは、新潮社が出している「Webでも考える人」という媒体の告知方法を見ていたときだった。「野菜炒めでいいよ」って何?という記事だ。この記事は「女性は虐げられており男性は家事を手伝いもしないで偉そうにしている」ということについて語られている。そして、そうした感想が盛んにリツイートされている。

だが、これは少し違う可能性があるのではないかと思った。女性は料理を義務的に行うのでおざなりになることも多い。食べさせられる専門だった男性が料理をしてみると意外と楽しく、女性がおざなりに料理をしていたということに気がつくことがあるのではないかと思った。中には趣味的に料理をする人もいるだろうが、家事をシステム化・効率化して楽しくこなす男性もいるはずである。

ところが、この考え方は彼らには都合が悪い。つまり、ターゲットとする人たちに本を売るためには、男性はわがままな存在でなければならないが、かといって彼女たちの領域に踏み込んできてもらっては困るわけである。

これは男性が「稼げもしないのに女は文句ばかりいう」というのの裏返しになっている。ここで女性は文句ばかりいうが男性の領域に踏み込んではならない。なぜならば女性の方がずっとたくさん稼ぐ可能性もあり「だったら夫などいらない」ということになりかねないからである。

実際にそれをつぶやいたのだがそれが編集部からリツイートされることはなかった。リツイートされる感想は「この気持ちわかる」というものばかりだったのである。

この編集部は昼頃に10件以上もの感想を連続爆撃的にRetweetする。同じような感想ばかりがタイムラインを占拠するのはとてもうるさい。だが、それに気がつかないのは多分編集部の担当者が自分ではTwitterを使っていないからだろう。共感能力が薄い姿勢はオンラインでは嫌われる。

こうした姿勢はリベラル左翼系にもよく見られる。つまり、例えば憲法第9条を擁護する立場からは、安倍首相はあくまでも戦争をやりたがっている悪辣な政治家でなければならないのだが、かといって彼が何のためにどんな戦争をするのかということは語られない。そして、多くの人たちは自分のストーリーに都合のよい話ばかりを連続的にRetweetする。相手が全く見えていないのだ。

頭が良い人ほど人の話を聞かず共感能力がない。新潮社に勤めている人たちは頭のよい人たちなのだろう。あらかじめ正解を覚えておりその正解に向けて状況を整えて行くというやり方に慣れているのかもしれない。

ネトウヨが取捨選択するのは事実だけなのだが、左翼側の人たちはもう少し複雑な状況を取捨選択するので、より対応しがたいと言える。価値体系がヘドロのように固まっていてそれをほぐして新しい情報を加えることができないからだ。

こうした価値体系の最たるものが言語だ。アマゾンの熱帯雨林にはお互いに意思疎通できないほど言語が別れた人たちが住んでいる。例えばヤノマミ族は28000人が100以上の部族に分かれて住んでいる。彼らがどうして細かな部族に分かれているのかはわからないが、広大なアマゾンの奥地に住んでおりそれなりのスペースが確保できているのだろう。つまり、彼らには逃げ場があるのだ。

NHKで幻想的に取り扱われたことから日本語の記事は精霊(望まれない赤ん坊をシロアリの塚に捧げて「精霊に戻った」とする)に関するものが多いのだが、英語だと彼らの独自性が次のように説明された文章が見つかる。

There are so many variations and dialects of this tribal language that people from different tribes cannot understand one another. (部族によって方言のバリエーションが大きく、お互いに意思疎通ができない。)

他の言語と完全に切り離されているばかりかお互いに意思疎通ができない方言が混在しているということになる。言語というのは、独自性を持たせようとすると相手と差別化するために違った言葉を話せば良い。しかし、それをやっているとどんどんと意思疎通ができなくなる。するともはや、協力して社会や国家を作ることはできなくなってしまうのである。

とても賢いインテリの人たちが概念などを複雑化させてお互いにい疎通ができない世界を作ることができる裏には都市化が進みさらにインターネットという広い空間が出てきたという背景があるのではないかとさえ思える。これはジャングルのように逃げ場を作るので都市化・社会化ができる能力があっても、結果的に部族化を促進してしまうのだろう。

民進党系の人たちの中には「まとまらないと自分たちのプレゼンスが確保できない」という気持ちと、複雑に組み上げられてしまい、一切の妥協が聞かなくなった「部族言語」の間のせめぎ合いがあるように思える。

一部の議員は気に入らないことがあるとTwitterで党首を罵ったりしている。とても良い大学を出て「スペックも高い」のだが、自分たちの姿がどう映っているのかということには多分あまり関心がないのではないだろうか。

民進党の分裂騒ぎは現在進行形なのでどのような着地点が見つかるかはわからない。人の話を聞かず、あまりにも複雑な概念を組み上げて二進も三進もいかなくなる危険性を自省するに止めたい。

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コンピュータグラフィックス作品を作ってYouTuberになる

昔作った曲をYouTubeで発表する

1990年代にMacintoshを買ってしばらく作曲をしていた。当時はハードウェアの音源をシーケサーソフトで鳴らすという構成だった。

Yamahaのサイトで見ると希望小売価格80,000円ということだったので、定価ではないにしてもかなり思い切って買ったのではないかと思う。FM音源とPCM音源を掛け合わせて音を作っている。FM音源はいわゆる1980年っぽい「シンセっぽい」音がする機構だ。

ある日「YouTubeで発表できるんだ」と思いつくまで、このTG-33で作った曲は単に埋もれてしまうんだろうなあなどと思っていた。作った曲はプレイリストを使って共有もできる。

ただし曲だけでは発表はできない – 動画が必要

調べてみるとYouTubeは曲だけをアップすることはできないようだ。だからどうにかして映像にする必要がある。iMovieというムービーを作るソフトを自分が持っているのは知っていたのだが、なんとなく使い方が難しそうで諦めていた。

そこで意を決して使ってみたのだが、ウィンドウにフッテージを並べてゆくだけで映像が作れる。YouTubeの作品を見ながら、なんでこんなにビデオが量産できるのだろうなどと思っていたのだが、こんなに簡単に作れるんだと思った。

ビデオの作成はAfter EffectとPremierという思い込みがあり敷居が高いと思っていたのだが、完全に裏切られた。あっけないほど簡単だった。凝ったものの場合には別途グラフィックスの作成が必要なようだが、基本的なことは全てiMovieで行えてしまうのだ。圧縮技術も進んでいて数分なら100MB程度で済んでしまうし、かつてのように圧縮方式を選んでくれなどという面倒なこともない。

ただ、テレビをみると名前の入ったキャプションが細かく動いていたりなど、それなりの工夫が凝らされている。iMovieはレイヤーの数が制限されているので、あまり複雑なことはできない。意外とこういうところにお金がかかっているのかもしれないと思える。

音源は全てiTunesに取り入れてあったので、これにタイトルをつけて「共有」をするだけで音楽作品が映像になった。これをアップしたところ、ほんの数分で世界公開ができた。

調子に乗ってコンピュータグラフィックに挑戦する

iMovieを使っているうちに、これだったら映像作品とかも簡単に作れるんじゃないのかと思った。

手持ちに映像のフッテージがないので、昔使っていたPowerMac G4を取り出してきてClassicでStrata Studio Proを動かしてみた。ほとんど使い方を忘れていたのだが、なんとなくアニメパレットを動かすとなんとなく動いた。これも凝ったものは作れないのだが、直感的に動くのが良いところである。これにGarageBandで適当に音楽をつけたところ、意味不明ではあるがCGが完成した。Strataは今でもハイエンドな製品を作っており最新版は10万円程度ということである。

レンダリングについて復習する

3G作品を作る上ではレンダリングをしなければならないのだが、Phong Shadingを使うとロースペックのマシンでもそれなりのスピードで処理をすることができた。Phong Shadingは荒いという印象があったのだが、改めて見てみるとそこそこ使える映像になっている。Strata ProにはRay Tracingという光線をシミュレートするシェーディング方法もあるのだが、計算が複雑で15フレーム(15フレーム進行で1秒にしかならない)を計算するだけでも一時間かかった。10秒10時間だ。マシンのスペックのせいもあるのだろうが、現在では純粋なRay Tracingはあまり使われず他の方法などを組み合わせるのが一般的なのだそうだ。せっかくなので、代表的な三つのシェーディングを比較してみた。

グーローシェーディングと読むそうだ。テクスチャが全くわからない
フォンシェーディングはテクスチャがよくわかるのだが、影にもテクスチャが出てしまう。光をシミュレートしきれていないようである
光まで考慮に入れたレイトレーシングだが、計算にとても時間がかかる

Classicからのファイルの移動

Classicからファイルを動かすのに少しコツが必要だった。ClassicからOS Xにファイル共有をすることはできない。OS XからClassicにアクセスすることは可能だがOS10.5からはアクセスできるのだが、El Capitanからアクセスすることはできなくなっているようだ。もはやそんなことを試す人がいないからなのか、なぜそうなるのかを開設した文書を見つけることはできなかった。

そこで、いったんOS10.5が動くマシンにファイルを転送してから、El Capitanが動くものに移動させなければならない。OS10.5にもiMovieはあるのだが画面アスペクトが4:3になっているので、できるだけ新しいソフトが動くほうがよいのである。

そうやってできたのがこれである。

思いつきフッテージなので全く意味はないのだが、簡単にできるんだなと思った。よく考えてみると昔は配信するのが一苦労だった。これを全部やってくれるYouTubeというのはあらためて物凄いい発明なのだと思う。

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手っ取り早くインスタ映えできる方法を比較的真面目に研究する

Twitterにケーキの写真をアップしたところ「こんな写真私には撮れない」と言われた。褒めているというのだが、多分褒められていないと思う。そこで、最低限の工夫でなんとなくインスタ映えしてみえる方法について研究してみた。今回はケーキではなく寄せ植えを使った。

寄せ植えは、上に伸びるものを背景に置き、主役の花を入れ、最後に垂らしてまとめるというお決まりがある。だからこれでバッチリのはずなのだが。普通に撮影しても何かが足りない。なんとなく「置いてあるだけ」に見える。

この写真の唯一良いところは光の当たり方だと思う。自然のものなので陰影ができた方がきれいに見える。食べ物を自然光で撮影するのは難しいと思うので、できればライトなどを気にすると良いのだろう。

そこで背景を足してステージを準備してやる。ステージを作ると、何が主役かはわかるわけだが、それでも何かが足りない。露骨に「並べてみました」感が出るのは美しくない。

まずアングルを変える。もう少し研究したい人は「黄金比」などを考慮すると良いと思うのだが、今回はそこまではやらない。が、多分主役を画面の中央に置くのはやめた方がよさそうだ。ここまで作るとなんとなく見られる形になった。

今回、12ヶ月の寄せ植えレシピという本を参考にしたのだが、プロが撮影する説明用の写真とブログ用に撮影する写真とではやり方が違うようだ。プロの撮影は正面や横から全体がわかるように撮影するのだが、ブログ用は「どこで」ということがわかるように撮影する。つまり背景はとても大切なようである。良く見ると背景にある小物にまで気を配っているのがわかる。

しかし、これでも何かが足りないような気がする。せっかく主役を作り背景も準備したのだから全部をフレームに収めたくなるのだが、多分それがいけないのだと思う。思い切って見せたいものを見せると良くなった。

今回は一眼レフカメラを使っているので背景をぼかして主役を目立たせることができる。しかし、そのためには奥行きが必要である。

説明写真は全体が綺麗に見えなければならない。たとえば、寄せ植えは枝垂れるものと立つものを配置するのですよなどと言いたいときには全体が見えないと何がなんだかわからなくなる。しかし、ぱっと見の印象を優先するならクローズアップの方が良い。

こうなるとインスタ映えを目指すためには、一眼レフを使って写真撮影した上でスマホに戻してやるのがよいということになる。しかし、それはかなり面倒な作業なので全てパソコンで処理したい。そこで検索したところ、ユーザーエージェントを変えてやるとパソコンのブラウザー経由でもアップロードできるのだそうである。Macを使っているのでSafariからアップした。開発メニューを表示するとユーザーエージェントが切り替えられる。するとスマホのふりをしてアップロードができるのである。

まとめると次のようになる。

  1. 日当たりやライティングを意識する。
  2. 正面だけではなく、面白いアングルを探す。
  3. 主役を明確にして、テイストを合わせた背景と台を用意する。
  4. 主役を明確にするためにクローズアップを試してみる。

ということで、料理の絵を作るときには紙ナプキンだったり背景の他の料理とか「見せるつもりがないもの」に時間をかけた方がよいのだろう。

ということでおさらいに、もう一つ作ってみる。

もちろん、これでインスタ映えを極めたなどというつもりはないのだが、手間をかけずにとりあえず「見られる程度」の写真を撮影するためには利用できるのではないかと思う。

日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

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