HTML5とSVGを使って着せ替え人形を作る

昔、ユニクロでグリーンのカラーチノを買った。500円と安かったからだが、何と合わせてよいかさっぱり分からなかった。今年の春はカラーパンツが流行したのだが「何と合わせてよいか分からない」という人も多いのではないかと思う。売る側からすると「合わせ方が分からないから買わない」というのは大きな機会損失だ。もちろん、カタログを揃えるという手もあるだろうが、もう少し単純化できそうだ。

そこで、SVGを使ってファッションコーディネートが提案できないかと思っていた。なかなか普及が進まなかったHTML5だが、iPadなどでも扱うことができる。アプリと違って、そのままe-commerceサイトやカタログに接続できるのが利点だろう。

ところが、なかなかできなかったので開発は難しいのだなあなどと諦めていた。

ところが本(『HTML5ガイドブック 増補改訂版 (Google Expert Series)』)を読んで一から勉強してみると1時間程で完成してしまった。(できあがりはコチラ)ここまで苦節1年。いったい、この1年は何だったのだろうかと思ってしまう。つまり実際はとても簡単なのだ。

最初に準備するのはillustratorで作った線画だ。ベジエが残っていると扱えないので、すべての点は角になるように作る。

なおSVGを表示するためににはHTML5が動作するブラウザーを使う必要がある。今回はSafariの5.xを使った。

まず、HTML5で宣言する。

<!DOCTYPE html>
<head>
<meta charset=”utf-8″>
</head>

SVGは直接書いても良いし、DOMに付け加えていってもよいらしい。この時ポリゴンにIDを付け加えておくと、JavaScriptで操作ができるようになる。要素を作ってappendしてゆく。

var SVG = ‘http://www.w3.org/2000/svg’;
var svg = document.createElementNS(SVG,’svg’);
svg.setAttribute(‘width’, ‘300’);
svg.setAttribute(‘width’, ‘300’);
polygon.setAttribute(‘points’,points);
polygon.setAttribute(‘fill’,#FFFFFF);
svg.appendChild(polygon);
root.appendChild(svg);

20130725-01

さて、座標の指定だが、Adobe Illustratorなどで最初に人形を作っておき、SVG形式で書き出す。ここから座標を抜き出して行く。後で操作が複雑になることを避けるためには人形を単純にしておくと良い。すると人形ができ上がる。

今回は色を変えたい。jscolorというコードが手元にあったので使ってみる。どうもFirefoxの3.xでは動かないようだ。

SVGは属性のセットの仕方が独特である。属性情報を得る為にもgetAttributeという特殊な形を使う。

function change_color(){
var elements = document.getElementById(“pants”);
var color = document.getElementById(“colorfield”);
elements.setAttribute(“fill”, color.value);
elements.setAttribute(“stroke”, “#000000”);
elements.setAttribute(“stroke-width”, “.25”); }
20130725-02

すると、フィールドから色を変えるたびにパンツの色を変えることができる。 Safariの他にOperaでも試したが、動作が確認できた。Firefoxは左側の色変更ができなかった。

 

二重ルータという「問題」

二重ルータという問題がある。実際には二重ルータが問題なのではなく、設定の不具合によって、複数のルータが1つのネットワークに対して矛盾した指示を出すという問題だ。近年になって無線機器が増加したために、知らず知らずのうちに設定が複雑化することがある。解決策はネットワークの簡単な仕組みを理解することなのだが、これがなかなか大変だ。




近所のリサイクルショップで無線ルータを買った。300円だった。当初想定していた設置はできなかったものの、ルータとしてはきちんと使える。スィッチングハブの機能がついているので、ハブとして使うことにした。設定の仕方を勉強しているうちにいろいろとおもしろい記事を見つけた。世の中には「同じネットワーク内にルータが2つあるといけない」と信じている人がいるのだ。これを二重ルータ問題という。ありもしない問題を解決しようと、様々な「取り組み」が行われている。

普通、家庭内のネットワークは1つの装置を通じて外(いわゆるインターネット)とつながっている。これを「モデム」と言う。モデムにはルータ機能がついている事が普通だ。無線をやりたい人は、もう一つルータを買ってきてつなげる。すると、家庭内ネットワークの中に入れ子のように別のネットワークが作成される。ルータの外側には192.168.0.1、192.168.0.2というような番号(IPアドレス)が付与されている。内側のネットワークに同じ192.168.0.2という番号を付与すると、番号の重なりが生まれる。そこで内側のネットワークには、違った番号体系を付けるという約束がある。例えば、192.168.1.1、192.168.2.1という具合だ。

同一ネットワークは、192.168.1までは共通であり、その下の番号だけが識別に使われている。これを明示的に示すために255.255.255.0という番号を使う。この番号を「サブネットマスク」と呼んでいる。パソコンのネットワーク設定の画面には必ず付いている。つまり、IPアドレスとサブネットマスクを合わせたものが、識別番号になる。

なぜ、IPアドレスが192.168で始まるかという問題(他にも10.1.0.1というような番号体系もある)や、どうして最後の数字の固まりだけ意味を持たせた場合に、255.255.255.0になるのかというのはちょっと複雑なのだが、とにかく、IPアドレスとサブネットマスクさえ整理すれば、いくつものルータを混在させたりすることもできる。また便宜上「入れ子」という説明の仕方をしたが、実は下流にあるパソコンをそのままネットにつなげることも可能だ。インターネットはクモの巣のようにネットワークを張り巡らせることができる。だからWorld Wide Web(クモの巣)と呼ぶのである。

このようにちょっとした知識さえあれば、ネットワークは簡単に設定できる。しかし、テレビやゲーム機を無線LANに参加させることができるようになり、知らず知らずのうちに設定が複雑になる場合が出てきた。またパソコンにもルータ機能が付いており、さらに複雑化が進む。大抵の機械には「自動でつなげます」という仕組みが備わっているのだが、他の機械が入るこむことが想定されていない(全ての組み合わせを事前に予測する事ができない)ために、自動設定でも問題が排除できない。

ルータには、IPアドレスを自動で付与する仕組み(これをDHCPと呼ぶ)が付いている。つまり、個々のルータが自動でIPアドレスを付与するうちに整合性が取れなくなったりすることが起こる。つまり「二重ルータ」が問題なのではなく、IPアドレスの重複が実際の問題なのである。ところが二重ルータ問題という言葉があるので「ルータが2つ以上あるのは良くない」と思い込んでいる人がいて、その人が別の人にアドバイスをしたりするために、話が必要以上にややこしくなっているらしい。

これを解決する一番よい方法は、まず手持ちの機器がどのように接続されているのかを書き出してみることだ。必要でないルータは機能を使わないようにする。もしルータとして使うのであれば、固まり(これをセグメントと呼ぶ)を分けて管理すると良いだろう。こうして図を作ると、速度が遅くなっている原因(これをボトルネックと呼ぶ)を突き止めることもできる。無線装置の中には300Mbpsなど通信速度が早いものも売られている。しかし、途中で10Mbpsの装置が使われていると、通信速度を活かすことはできない。

100x100

問題を解決する方法には2つある。1つは基本的な仕組みを理解した上で「デザインする」というやり方だ。ネックは英語由来の専門用語が多いということと、基礎概念へのなじみのなさ(例えば、255は2の8乗-1を意味する)にあるだろう。もう一つは複雑さを回避(つまり、使用するルータを1つに限定)するというやり方である。柔軟なのは前者のやり方だが、基礎知識が必要になる。後者のやり方は基礎知識は必要でないのだが、柔軟性に欠ける。

後者のアプローチを取ると「1つのネットワークにはルータは1つのみ」となってしまうのである。

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Google検索で名前を売る方法

世の中には匿名で意見を言いたい人もいれば、自分の名前を売りたい人もいる。コンサルタントのような人たちは記名付きの記事を増やして、信頼を醸成する必要がある。また、何かあったときに信頼できるコンサルタントを「知っている」事も重要だ。今のところ、ネットにはこうしたつながりを記述できるフォマットはないのだが、google plusがこうした機能を担う可能性がある。

実際に検索してみると次のような写真付きの記事がヒットすることがある。google_kensaku

googleにお金を払って登録してもらっているわけではなく、個人が自分で設定している。設定のやり方は簡単な3ステップだ。以下、手順をご説明したい。

まず、ブログのhead部分に以下のようなコードを付ける。その為にはgoogle plusのアカウントが必要なので、ない人はこの際作っておきたい。hrefにはgoogle plusのプロフィールページを記述する。

<link href="https://plus.google.com/112686945113811468123" rel="author" />

次に、Google Plusのプロフィールページの「寄稿先」にサイトのURLを登録する。業界紙に記事を書いていて、個人でも情報発信をしているような人はどちらの記事も同じアカウントで対応できる。

登録には時間がかかるらしいが、一週間くらいあればクロールしてもらえる。Wordpressを使っている場合には、さらに簡単に実装できる。「google author」や「google plus」というキーワードで検索すると、プラグインを見つけることができる。同じ記事をいろいろな所に配信している人はインデックス登録してもらえないことがある。有名な方が優先されてしまうので、自サイトの記事を配信する場合には注意が必要だろう。

記名入りの記事が、劇的にトラフィックを増やすということはないだろうが、検索するたびに名前を見ることになるので、累積的な信頼性は増すはずだ。

この方法をプロモートしたいと思った理由はいくつかある。最初の理由は最近Twitterのアカウントを凍結されたからだ。予告無く凍結される可能性があるサービスだけに依存するのは危険だ。

次の理由は、こうしたネットワークが必要とされていると思うからだ。会社が経済活動の主役だった時代には、専門家のネットワークは特に必要とされなかった。上司に言われて競争しながら働いていれば良かったからである。こうした働き方は「所属型」と呼べる。ところが現在必要とされるのは、専門家が役割を分担しながら働く「チーム型」だ。チームを形成しようにも、専門家がどこにいるのかが分からなければ、形成できない。

100x100現在のネットには意外とプロフェッショナルな意見をまとめられるツールが少ない。例えば、ジーンズに詳しい人が、ブログを使ってプロフェッショナルな見解をまとめる。その記事を読めば「この人の記事をフォローしてみたいな」という気持ちになる人もいるだろう。google plusはグループを細かく分けて管理できるので「アパレルの専門家」といったグループを作れる。同じように「ジャーナリズムの専門家」もグループ管理できるはずである。

こうしたプロフェッショナルなネットワークは、ネット界の有名人(いわゆるアルファブロガや識者)以下、個人の情報発信者以上というポジションにあたる。もちろん自前で紳士録を整備することもできるが、強力でみんなが使っているプラットフォームがあれば、それを使った方がよい。

FOAFなどで個人管理をしていた時代には「これからは人と人のつながりをネットが記述するようになるだろう」と主張しても、単なる絵空事だと考えられていた。今ではTwitterやFacebookといったツールがあり、こうしたアイディアを笑う人は誰もいない。ニーズがあるサービスはやがて使われるようになる。

ただし、googleはSNS分野facebookに負けた過去がある。仕組みが複雑で広がらなかったのだ。このように、全く新しい所から別のツールが台頭してくる可能性はあるだろう。

Twitter Cardsを利用する

最近、Twitterに「概要を表示する」とか「画像を表示する」とかいうリンクが付いている投稿がある。知っている人は知っているのだと思うのだが、Twitter Cards(リンク先はTwitterの仕様書)という仕組みを利用している。特に写真は直感的でわかりやすいので、写真素材を使ったサイトは、ぜひ利用を検討すべきだろう。tumblrではこのように表示される。

twittercards001

Twitter Cardsにはちょっと分かりにくい仕組みがある。申請方式になっているのだ。つまり、タグを実装しただけではカードが表示されない。申請にはかなりの時間がかかる。「数週間」ということになっているが、本当に数週間待たされる。

twittercards002

しかし、いったん認証されてしまうと、ドメイン全体に効果が及び「過去にさかのぼって」展開されるらしい。同じドメインの中で複数サービスを展開するというのはよくある話だ。また、tumblrのようにオリジナルドメインが使えるものは、別途申請しなければならないらしい。ドメインごとに表示するかしないかを切り替えているようだ。

さて、この仕組み「メタタグ」という情報を読み取っている。メタタグは、具体的にはFacebookとTwitterで使われている。分かりにくいかもしれないが、title、description、url、imageは共用だ。

<meta property=”og:type” content=”article” />
<meta property=”fb:app_id” content=[app_id] />
<meta property=”og:title” content=”Key Questions” />
<meta property=”og:description” content=”key Questionsは次世代クリエータのためのちょっと変わった考察プラットフォームです。” />(もしくは、各記事の概要など)
<meta property=”og:url” content=”http://wpmu.hidezumi/” />(もしくは、各記事のURLなど)
<meta property=”og:image” content=”http://wpmu.hidezumi.com/keyquestions_logo_150.jpg” />
<meta name=”twitter:card” content=”summary” />
<meta name=”twitter:site” content=”@hidezumi” />

Facebook(リンク先はFacebookのデバッガ)にもTwitterにもこのような情報をテストできるツールがある。また、Wordpressにはこのようなメタタグを自動的に付加してくれるプラグインがあり、特に難しい技術仕様を知らなくても展開することが可能だ。

このメタ情報はいろいろな所で利用されるので、ブランディング対策を行う必要がある。気まぐれにいろいろなキャッチコピーを付けたり、ロゴを使ったりしていると、収拾がつかなくなってしまうに違いない。(と、いうより収拾が付かなくなりつつある)

ということで、サイトのマネジメントをしっかり行う必要がある。また、いろいろなところでロゴを使っているので、ウェブサイトやサービスを提供する時には、サイト用に集客効果がある(または印象に残りやすい)ロゴを作る事を考えるとよいと思う。企業ブランドの場合ロゴのガイドラインにオンラインサービス用の規定を設ける必要もあるだろう。

橋と情報の島

Facebookのタイムラインに「モノが売れない」とか「不景気だ」と言っている人たちがいる。モノが売れないのは確からしいが、いつも同じメンバーで情報を交換し合っていても結論は変わらないのではないだろうか。

こうした一群を「クラスター」と呼ぶ。だいたい、同じような人たちで形成されている集団だ。ところが、実際のネットワークを見ていると、クラスターとクラスターの間に線が伸びている様子が分かる。こうしたネットワークを再現するためには「似た者同士」の集まりの他に「ランダムな線」を加えてやるとよいことが知られている。

bridge20130113
島と島を結ぶ橋(5)と情報のコネクタになっている橋(8)

橋はバイパスの役割を果たしていて、世界をより小さくて緊密なものにしている。こうしてできたネットワークの性質を「スモールワールド性」と呼ぶ。世界が小さくなると、異質な接触が増えて新しいアイディアが集りやすくなる。

だから、ランダムな結びつきの果たす役割は大きい。ランダムな結びつきがなければ、人々のアイディアはどれも似たようなものになってしまうだろう。

ここではクラスターを「島」と呼び、それを結ぶランダムな存在を「橋」と呼びたい。

有名なグラノベッターの説(『転職 – ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)』など)によると、弱い紐帯(ちゅうたいと読むのだそうだ)ほど、新しい転職先を探すのに有利なのだという。弱い紐帯は「橋」や「ランダムリンク」と同じような意味合いだと考えてよい。これは新しい機会が異質なところにあるという前提があって成り立つ話である。ただ、日本は同質性の高い社会なので、弱い紐帯が転職活動に有利なのかという点については合意がないそうだ。

「ランダムリンクを増やしてイノベーションの機会を増やそう」という論はあまり人気がないようだ。代わりに集団内の統制を強めたり、樹状の組織を再編成して効率的な運用を目指そうという論が多い。マネージャからみると、この方が効率的に見えるからだろう。ただしこうした組織が効率的なのは、集団が同じ目的を共有しており、なおかつ適当なインセンティブを与えて操作できる場合だけだ。インセンティブを与えるということは望ましい結果が分かっている場合だけなので、そもそも正解を探索する必要のある組織に向いた形状ではない。

均質すぎる集団は「正解探索行動が取れない」ので、「閉塞して答えが見つからない」状況を作り出す。

実際に日本の組織は下部組織に自発的なリンクがあり、それが組織を活性化させていた。自発的なリンクは家族的な経営が作り出したものだった。しかし、終身雇用は過去のものになり、同じ組織の中に正社員と契約社員が混じり合うようになった。故にこうした自発的なリンクはなくなりつつあるのではないかと思う。これは、1980年代にアメリカ人が日本型経営を観察した結果得られた知見だが、日本人は自分たちのことをあまりよく知らないのかもしれない。さらに最近社会人になった人たちは、そもそも家族的な組織を知らないのではないかと思う。

ソーシャルネットワークでも異なる価値観を持った人たちとつながるネットワークは作成可能なのだが、それを実践する人は少ない。

隣の島に渡る人が少ない最大の原因は「島の地図がない」ことにあるのかもしれない。それぞれのメンバーは「個々人」に見える。実際には紹介者のネットワークのようなものがあるのだが、これは解析してみないと分からない。ただ、この障壁は「地図を作るために島を渡ろう」と思いさえすれば乗り越えることができるだろう。

もう一つの原因はメディアに対する人々の固定観念だ。テレビ型のメディアに慣れているせいか「受け手は聞きっぱなし」という姿勢が身に付いている。ここから選択的に好きな情報をピックアップする。これはお茶の間でテレビを見ているような状態だ。寝そべっていようが、裸であろうが関係ない。だから、メディアの方から働きかけがあると「恥ずかしい」と感じるのではないだろうか。テレビ型のメディアは一方通行なので、橋の役割は果たさない。ソーシャルメディアと放送の違いはこの「双方向性」にあるのだが、双方向のメディアのあり方に慣れていないのかもしれない。

さらに集団に対する警戒心や疲れのようなものもあるだろう。たいてい誰かが積極的に働きかけてくるのは「何かを売り込みたい」ときか「損を押し付けたいとき」だ。故に働きかけられると「何か裏があるのではないか」と思ってしまうのかもしれない。組織はしがらみだと感じているのである。

プロトタイプ作りの大切さ

イノベーションの達人! – 発想する会社をつくる10の人材の中に、IDEOのモノ作りのやり方が出てくる。デザインコンサルティングの会社なのだが、ただパソコン上で発想するのではなく、実際にプロトタイプを組み立ててみるのだそうだ。
彼らがプロトタイプを作るのはどうしてだろうか。ヒトは「全体像」を把握することはできない。実際に作ってみると抜け落ちている所がわかる。また複数のチームメンバーのアイディアが具体的に伝わるので、知識共有にも役に立つ。
今回、連想型ブラウザーを試作した感想を3回に分けて行っている。これを作って思ったのは、この「実際にやってみる」ことの大切さだった。加えて途中経過を再確認することで、意味合いを考え直すことができる。つまり、実際にやってみる事で「ああこういうことができるな」と思い、それを追体験することで「こういうこともできるだろうな」と考えることができるのだ。
プロトタイピングにはさらにいい事がある。プロトタイプを作るために、足りない知識(今回はAjax= JavaScript)をレビューし直したりもする。しばらくすると忘れてしまうかもしれないのだが、コードを見直せば再利用できる部品を取り出したりすることもできるだろう。
発想を膨らますためには、そこそこ簡単なほうがいい。しかし、できる事だけやっていてもつまらない。境目のぎりぎりの所が楽しい。「楽しい」ということは大切だ。実際に「作ろうかなあ」と考えているときは面倒くさかったりもするのだが、実際に作れると「もうすこしやってみようかなあ」と思ったりできる。また、Facebookの初期のツールキットのように「組み上げたら満足」してしまうが、実際に何に使うのかさっぱり思い浮かばないものもプロトタイピングには向いていない。つまり、試作品を作るにもそれなりの技術が必要ということになる。
プロトタイピングはモノ作りには欠かせない。戦後の日本の製造業を支えたのは、大企業から注文を受けた中小企業だといわれている。彼らは年中「プロトタイピング」をやっているようなものだった。しかし大企業が国内を脱出すると、こうしたプロトタイピングの機会は失われる。代わりにコスト削減圧力だけがかかるわけで「モノ作り」が衰退するのも止む終えない。また、今回の経験から、IT産業であってもプロトタイピングは重要だとわかった。基本的に「モノ作り」には違いないわけだ。
日本のIT産業は基本的にプロトタイピングと独自の発想を嫌うところがあるように思える。ソーシャルメディアなど発想の源が海外にあるからだろう。一から発想するよりも「これを日本風にアレンジする」ことが得意分野だとされる。これに加えて「確実さ」を求める傾向がある。確実に儲かるプロジェクトでないと「腰が上がらない」(つまりやる気にならない)。プログラマやデザイナの現場では、勉強会というと新しい技術やスキルを学ぶことだ。一から発想するのはあまり得意ではない。ビジネスレイヤーではさらに深刻で「課金システムがないと話を進めない」ひという人たちが多い。Twitterが自然発生的に広まったのに比べ、Facebookがビジネスマン発信なのは最初から課金の成功事例があったからだ。
また受注生産的な態度も時には弊害になる場合がある。特に中間マネジメントの人たちは常に課題に追われていて「新しいからなんだか面白そうだ」と考えないかもしれない。顧客ニーズの汲みとりに忙しく、自分から提案することができない場合もあるだろう。
プロトタイピングは、発想を経験としてパッケージしてゆく作業だ。本来なら「市場ニーズ」と「できること」を両方知っている人がやったほうが面白いものができるはずである。しかしこの人たちが「提案を貰う側」と「提案する側」に分かれていると、なかなか面白い発想が出にくい。
転職がないこともこれに拍車をかける。「提案を貰う側」は新入社員で入り、提案を貰い続けて今日まで来たかもしれない。頭の中で「なんか自分にしっくり来る提案がこない」と考えつつもそれを形にする技術がないということがあり得るのかもしれない。
さて、いろいろと考察してきたが、あまり状況を嘆いていても意味がない。新しい産業は河の流れに例えることができる。まず泉があり、それが集って来て川ができる。いくつかの支流が集って、海まで続くが、砂漠の川のように途中で干上がってしまうこともある。このプロトタイピングは泉にあたるだろう。つまり手を動かす技術と、それをお互いに評価し合うネットワークがあってはじめて成長点が作られる。
発展途上の国では「お金持ちになりたい」とか「先進国に追いつきたい」という気持ちが重要だった。これは川の途中で勢いを付けるには重要だ。しかし、発展途上段階を抜けると、このインセンティブを何か別のものに振り替えて行く必要がある。これを「個人の自己実現」や「危機感」に置き換えてきたわけだが、楽しくない作業を長く続けることは難しいだろう。
これに引き換え、何か新しいものを作って、お互いに工夫し合うのは、単純に楽しい。これを収益化するプロセスが面白いと感じる人もいるだろう。こうしたコミュニティが再構成されたところから新しい産業が起こるのではないかと思う。その意味でも、何がが作れる人たちが集まるのは重要な意味があるのではないかと思える。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。